いのちへの入り(2)

日々の神の御言葉 抜粋 406

神を信じ、愛し、そして満足させるとき、人は自分の心で神の霊に触れ、それによって神の満足を得て、自分の心を用いて神の言葉に触れ、そうして神の霊に感動する。正常な霊的生活を生き、神との正常な関係を築きたいと願うなら、まずは自分の心を神に捧げなければならない。神の前で心を静め、その心を残らず神に注いで初めて、徐々に正常な霊的生活を送れるようになる。人々が神への信仰の中で、自分の心を神に捧げず、自分の心が神と共になく、神の重荷を自分自身のものとして扱わなければ、何をしようとそれは神を欺く行為、宗教人によく見られる行為となり、神の称賛を受けることはない。神はそのような人から何も得ることができず、その種の人は神の働きの引き立て役としてしか役に立たない。こうした人は神の家の装飾品のようで、数合わせの屑であり、神はそのような者を用いない。そのような人の中では、聖霊が働きを行う機会がないだけでなく、彼らを完全にする価値もない。こうした類いの人間は、紛れもなく生ける屍なのだ。このような者たちには、聖霊によって用いられることのできる要素は一切ない――サタンによって徹底的に占拠され、深く堕落させられているのだ。神はこうした人々を淘汰する。現在、聖霊は人々を用いる際、彼らの望ましい部分を活用して物事を成し遂げるだけではない――同時に彼らの望ましくない部分を完全にし、変化させている。神に心を注ぎ、神の前で心を静めることができるなら、あなたは聖霊に用いられ、聖霊の啓きと照らしを受ける機会と資格を得ることになる。そしてそれ以上に、聖霊に自分の欠点を直してもらえる機会を得ることになる。神に心を捧げると、肯定的な面では、より深い入りを得て、より高次の洞察を獲得することができる。否定的な面では、自らの欠点や短所をさらに認識し、神の旨を満たすことをより一層切望し、ますます求めるようになる。さらに、受動的になることがなく、積極的に入ることができるようになる。このことは、あなたが正しい人間であることを示す。あなたの心が神の前で静まっていられるとすれば、あなたが聖霊から称賛を受けるかどうか、神を喜ばせるかどうかは、積極的に入れるかどうかが大きな鍵を握っている。聖霊は人を啓いて用いるとき、その人を決して消極的にさせず、常に積極的に前進させる。そして聖霊がそのようにするとき、その人にはいまだ弱さがあるものの、その弱さによって生きることはない。自分のいのちの成長を遅らせることをせず、神の旨を満たすことを求め続ける。これが基準である。これを満たせるなら、それはあなたが聖霊の臨在を得たことを証明している。常に消極的で、啓きを受けて自己認識した後も依然として消極的かつ受動的なままであり、立ち上がって神と共に働くことができないなら、その人は神の恵みを受けただけで、聖霊がその人と共にいることはない。人の消極性は、その人の心が神のほうを向いておらず、その人の霊が神の霊によって感動していないことを意味する。このことはすべての者が認識していなければならない。

『神の出現と働き』「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 407

経験を通して、神の前で心を静めることが最も重要であることがわかる。それは、人々の霊的生活といのちの進展に関する問題と結びついている。あなたの心が神の前で静まっている場合にのみ、真理の追求と性質の変化の追求は実を結ぶ。なぜなら、あなたは重荷を背負って神の前に出て、自分には至らない点が数多くあり、知るべき真理が数多くあり、経験すべき現実が数多くあり、そして神の旨への配慮を示すべきだと常に感じているからである。そうしたことが絶えずあなたの心を占めていて、あたかもそうしたことに圧迫され、その力たるや息もできないほどなので、心が重い(しかし、消極的な状態にあるのではない)と感じる。このような人だけが、神の言葉による啓示を受け、神の霊に感動する資格を持つ。彼らはその重荷のゆえに、また心の重みのゆえに、そしてまた神の前で払った代価と耐えた苦しみのゆえにと言えるが、神の啓きと照らしを受けるのだ。神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、同時に人々に対して恣意的に、または無条件に与えることもしない。これは神の義なる性質の一面である。実生活においては、ほとんどの人がいまだこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神のほうを向いておらず、それゆえ人々のいのちの性質にはまだそれほど大きな変化が生じていないのだ。それは人々が神の恵みの中に生きているだけで、まだ聖霊の働きを得てはいないからである。人々が神に用いられるために満たさねばならない条件は、心が神に向いていること、神の言葉の重荷を負っていること、渇望する心を持っていること、そして真理を求める決意をしていることである。それらの人だけが、聖霊の働きを獲得し、頻繁に啓きと照らしを得ることができる。神に用いられる人は、外から見ると理知に欠け、他の人たちと正常な関係を持っていないように見えるが、礼儀正しく慎重に話し、神の前で心を静めておくことが常にできる。そのような人こそ、聖霊によって用いられるにふさわしい。神が語るところのこうした「理知のない」人は、他の人たちとの正常な関係がないように見え、外面的な愛や実践を気にかけていないように見えるが、霊的な事柄について交わるときは心を開き、神の前における実際の経験から得た啓きと照らしを私心なく他の人たちに分け与えることができる。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の旨を満たすのだ。他の人たちが彼らを中傷して嘲るときも、彼らは外部の人や出来事、物事に影響を受けず、なおも神の前で静まっている。それはあたかも、彼らが独自の洞察を有しているように見える。他の人たちが何をしようと、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがしゃべって笑っているときも、彼らの心は神の前に留まっていて、心の中で神の言葉を熟考したり、無言で祈ったりしながら、神の意図を求めている。こうした人は正常な対人人間関係を維持することを重視せず、処世哲学がまったくないように見受けられる。表面的には陽気で愛想よく無邪気だが、同時にある種の冷静さも備えている。これが、神が用いる人の人間像である。処世哲学や「正常な理知」といったものは、このような人の中でまったく機能しない。彼らは自分の心を残らず神の言葉に注いでおり、心の中には神しかないように見える。そのような人が神の言うところの「理知のない」人間であり、神が用いるのはまさにそのような人である。神が用いる人の印は次の通りである。つまり、いついかなる場所でも心がいつも神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、あるいはどれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は決して神を離れず、その人が群衆に付き従うことはない、ということだ。このような人だけが神に用いられるのに適しており、このような人だけが聖霊によって完全にされる。これを成し遂げることができなければ、あなたには神のものとされ、聖霊によって完全にされる資格はない。

『神の出現と働き』「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 408

神との間に正常な関係を築きたければ、自分の心を神のほうに向けなければならない。それを土台として、他の人たちとも正常な関係を持てるようになる。神との正常な関係がなければ、他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようと、どれほど努力しようと、どれほどの労力を費やそうと、それはすべて人間の処世哲学に属するものになる。あなたは、神の言葉に従って正常な対人関係を築くのではなく、人間の視点と人間の哲学を通じて人々の間における自分の地位を守り、彼らの称賛を得ていることになる。人々との関係に重点を置かず、代わりに神との正常な関係を維持していれば、そして自分の心を進んで神に捧げ、神に従うことを学ぼうとしていれば、対人関係は自然と正常なものになるだろう。すると、そうした関係は肉の上ではなく、神の愛という土台の上に築かれるのである。他の人々との肉体的な交流を持つことはほとんどないが、霊の段階における交わりと互いへの愛、相互の慰め、そして互いに対する施しがある。そのすべては、神を満足させようとする願望を基礎として行われる――このような関係は人間の処世哲学を通じて保たれるのではなく、神のために重荷を負うと自然に形成される。それらはあなたによる人為的な人間の努力を必要とせず、あなたは神の言葉の原則に従って実践するだけでよい。あなたには神の旨を考慮する意志があるのか。神の前で「理知のない」者となる意志があるのか。自ら進んで心を完全に神に捧げ、他の人々の間における地位を度外視する意志があるのか。あなたが交流するすべての人のうち、あなたは誰と一番良い関係を築いているのか。誰と最悪の関係を築いているのか。あなたの人々との関係は正常なものか。あなたはすべての人を平等に扱っているか。あなたと人々との関係は、自分の処世哲学に従って保たれているのか、それとも神の愛という基盤の上に築かれているのか。神に自分の心を捧げないと、その人の霊は鈍くなり、麻痺し、意識を失ってしまう。そのような人は神の言葉を決して理解せず、神と正常な関係を持つことも決してなく、性質の変化を遂げられない。性質を変化させるというのは、心を完全に神に捧げる過程、神の言葉から啓きと照らしを受ける過程である。神の働きによって、人は積極的に入ることができ、自分の消極的な側面を認識した後、それらを取り除くことができる。自分の心を神に捧げると、あなたは自分の霊がわずかに感動するたびにそれを感じ取れるようになり、神の啓きと照らしのあらゆる部分を認識できるようになる。しっかりやり抜けば、聖霊によって完全にされる道へと徐々に入ることになる。神の前で心を静めれば静めるほど、あなたの霊は一層敏感かつ繊細になり、聖霊による感動をますます感知できるようになって、あなたの神との関係はますます正常になってゆく。正常な対人関係は、神のほうに心を向けることを基盤として築かれるのであり、人間の努力によって築かれるのではない。心から神がいなくなれば、他の人々との関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常なものではなく、貪欲にふけるものであり、神に憎まれ嫌悪される。自分の霊が感動したと言いながら、自分が好きな人や尊敬する人としか交わろうとせず、あなたの嫌う人があなたのもとへ探求しに来たとき、その人に偏見を持って話すのを拒むなら、それはあなたが感情に支配されており、神との正常な関係が一切ないことをさらに証明している。そのことは、あなたが神を欺き、自らの醜さを隠そうとしていることを示しているのだ。あなたは自分の認識の一部を分かち合うことができるかもしれないが、あなたの意図が間違っていれば、あなたがすることはどれも人間の基準に照らして良いことに過ぎず、神はあなたを褒めはしない。あなたの行いは神の重荷でなく自分の肉に突き動かされることになるのだ。神の前で自分の心を静め、神を愛するすべての人と正しく交流できて初めて、あなたは神に用いられるのにふさわしい者となる。そうすることができれば、他人とどのように交わるにせよ、あなたは処世哲学によって行動しているのではなく、神の重荷を思いやりながら神の前で生きていることになる。あなたがたの中にそのような者は何人いるのか。あなたと他の人たちとの関係は本当に正常なのか。それはどのような基盤の上に築かれているのか。あなたの中には処世哲学がいくつあるのか。あなたはそれらを捨て去ったのか。自分の心を完全に神のほうへ向けることができないなら、あなたは神のものではない――サタンから来た者であり、最終的にはサタンのもとへと戻って、神の民の一人となる資格はない。あなたはこうしたことを慎重に検証しなければならない。

『神の出現と働き』「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 409

神を信仰する中で、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意味は失われる。神との正常な関係の確立は、神の前で心を鎮めることができれば完全に実現できる。神との正常な関係とは、神のいかなる働きをも疑ったり否定したりせずにいられること、そして神の働きに従えることを意味する。さらに神の前で正しい意思を持ち、自己を顧みず、何をするときも神の家の利益を最も重視し、神の吟味を受け入れ、神の采配に従うということをも意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができなければならない。たとえ神の旨を理解できなくても、自己の本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。ひとたび神の旨が明らかにされてから、それを実践しても手遅れではない。あなたと神との関係が正常になれば、あなたと人々との関係も正常になるだろう。神との正常な関係を築くには、すべてが神の言葉の土台の上に築かれなければならず、神の言葉と要求に沿って本分を尽くし、自分の見方を正した上で、万事において真理を求めなければならない。真理を理解したら実践に移し、自分の身に何が起きようとも、神に服従する心で神に祈り、探求しなければならない。このように実践すれば、神との正常な関係を維持できるようになる。本分を正しく尽くすのと同時に、神の選民によるいのちの入りに役立たないことは何もせず、兄弟姉妹にとって無益なことは何も言わないようにしなければならない。少なくとも、自分の良心に反することは一切してはならないし、恥ずべきことなど絶対にしてはならない。特に、神に逆らったり抵抗したりすることは、決して行ってはならず、教会の働きや生活を乱すこともしてはならない。何をするにも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。肉体は時として弱いことがあるにせよ、あなたは自己の利益を求めることなく、また利己的なことや卑劣なことを一切せず、頻繁に自分自身を省みながら、神の家の利益を最優先しなければならない。そうすることで、神の前で常に生きられるようになり、あなたと神との関係も完全に正常になる。

何をするにあたっても、常に自分の意図が正しいかどうかを吟味しなさい。あなたが神の求めに従って行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の意図を吟味した結果、間違った意図が出てきた場合は、それに背を向け、神の言葉に従って行動できるようになりなさい。そうすれば、あなたは神の前において正しい者となるだろう。それはあなたと神との関係が正常であること、そしてあなたの行なうすべてのことが自己のためでなく神のためであることを示す。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうように行動し、感情に流されたり、自分の意志に従って行動したりしないようにしなさい。これが、神の信徒が自らを律するべき原則である。人の意図や霊的背丈は小さな物事の中に現れるため、神により完全にされる道に入るためには、まず自分自身の意図と、神との関係を正す必要がある。神との関係が正常になって初めて、神により完全にされることが可能になり、そうなって初めて、神によるあなたの取り扱い、刈り込み、鍛錬、精錬があなたの中で望ましい効果を上げられるようになる。それはつまり、人々が心の中に神を抱き、自己の利益を追求せず、自己の将来を(肉的な意味で)考えず、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の働きに従うことができるなら、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常になるということだ。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための最初の一歩だと言える。人の運命は神の手中にあり、神があらかじめ定めたもので、人が自分で変えることはできないが、あなたが神により完全にされうるかどうか、神のものとされうるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。あなたには弱い部分や従順でない部分があるかもしれないが、あなたの見解や意図が正しい限り、そしてあなたと神との関係が正しく正常なものである限り、あなたには神によって完全にされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても何の役にも立たない。あなたの神との関係が正常であれば、他のすべてはあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、神への信仰におけるあなたの見解が正しいかどうかだけであり、それ以外は何も見ていない。見解とは、あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じているかということだ。あなたがそのようなことをはっきりと認識し、そうした正しい見解をもって実践することができれば、あなたのいのちは成長し、正しい道に入ることも保証されるだろう。神との関係が正常でなく、神の信仰についてのあなたの見解が逸脱したものであるなら、それ以外のすべては台無しになり、どれほど神を信仰しても何も得られないだろう。神との関係が正常になってから、肉に背を向け、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、より深く神に貢献するなどしたときに、初めて神の称賛を得ることができるだろう。あなたのすることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が適切であり、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃では多くの人が、首を捻じ曲げて時計を見るように神を信仰しており、すなわちその視点がねじ曲がっている。この状況は打開され正されなければならない。この問題が解決されれば万事落着するが、解決されなければ万事が無に帰すだろう。一部の人は、わたしの前では行儀よく振る舞うが、背後ではわたしに逆らってばかりいる。これは不実と不正直の現れである。この種の人はサタンの使いであり、神を試す典型的なサタンの化身である。あなたはわたしの働きと言葉に従うことができて初めて正しい人となる。あなたが神の言葉を飲み食いできる限り、そして神に見られても恥ずかしくないことだけを行い、すべての行為を公正かつ高潔に行っている限り、そしてまた恥ずべきことや他者のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに付け込む隙を与えない限り、あなたの神との関係は正常である。

『神の出現と働き』「あなたと神との関係はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 410

神を信じるにあたっては、自分の意図と見解を正さなければならない。あなたは神の言葉と神の働き、神が整えるすべての環境、神によって証しされる人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。自分個人の考えに従って行動したり、つまらない策略を練ったりしてはならない。あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物として、神のあらゆる働きに従うことができなければならない。あなたが神によって完全にされることを求め、いのちの正しい軌道に入ることを望むなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩することなく、サタンに従ったり、サタンに働きを行う機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなた自身を完全に神に委ね、神の支配を受ける必要がある。

あなたはサタンの使いになりたいか。サタンに利用されたいか。あなたが神を信じ、神を求めているのは、神によって完全にされるためか、それとも神の働きの引き立て役になるためか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも価値のない空っぽの人生を生きたいか。あなたは神によって使われたいか、それともサタンに利用されたいか。神の言葉と真理によって満たされたいか、それとも罪とサタンで満たされたいか。こうしたことをよくよく考えてみなさい。日々の暮らしの中で自分の言ったことやしたことのうち、神との関係を異常にしかねないものを把握し、自らを改めて正しい方法に入らなければならない。常に自分の言葉、行動、一挙一動、すべての考えや思いをよく吟味しなさい。自分の真の状態を正しく把握し、聖霊の働きの方法に入りなさい。これが神と正常な関係を持つための唯一の方法である。自分と神との関係が正常かどうかを測ることで、あなたは自らの意図を正し、人の本性実質を理解し、真に自分自身を理解することができるようになる。そしてそれを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨て去り、意図を持って従うことができるようになる。自分と神との関係が正常であるかどうかに関するこれらの事柄を経験する中で、あなたは神によって完全にされる機会を見出し、聖霊の働きのさまざまな状態を把握できるようになり、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くこともできるようになる。このようにしてのみ、あなたは神によって完全にされることができる。あなたは神との関係を正すことで、神の采配に完全に従い、実体験により深く入り込み、聖霊の働きをより多く受け取れるようになる。神との正常な関係を実践するときは、ほとんどの場合、肉を捨て去り神と真に協力することで成功できる。「協力の心がなければ、神の働きを受け取ることは難しい。肉の試練を経なければ、神からの祝福はない。霊が葛藤しなければ、サタンを恥じ入らせることはできない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、神の信仰についてのあなたの見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすためにパンを求める」という考え方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という考え方を捨てる必要がある。このように言う人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が神の働きを行う。人は肉を抑制する必要も協力する必要もなく、ただ聖霊に動かしてもらえばよい」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。このような見解が、聖霊の働きに対する大きな障害になるのである。聖霊の働きは多くの場合、人の協力を通して実現される。協力もせず決意もしていないのに、自身の性質を変え、聖霊の働きを受け、神によって啓かれ照らされることを望む人々は、まったく虫の良い考えを抱いている。このような態度が、「自分を甘やかし、サタンを大目に見ている」と言われるのだ。このような人々は神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にある多くのサタン的性質の現れを見つけ出し、神の現在の要求に反している自身の実践を確認しなければならない。あなたは今後はサタンを見捨てることができるか。あなたは神との正常な関係を獲得し、神の意図に従って行動し、新たな人となって新たないのちを得なければならない。過去の過ちを振り返らず、過度に後悔せず、立ち上がって神と協力し、自分の果たすべき本分を果たせるようにしなさい。そうすることで、あなたと神との関係は正常になる。

『神の出現と働き』「あなたと神との関係はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 411

この言葉を読んだ後、あなたがそれを受け止めると言うだけで、心を動かされず、神と正常な関係を持とうとしないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠である。また、あなたの見解がまだ正されておらず、あなたの意図も自分が神のものとされることや神に栄光をもたらすことに向けられておらず、サタンの陰謀が蔓延ることや、自分の個人的な目的を達成することに向けられている証拠である。この種の人は間違った意図や不正な見解を抱いており、神が何をどのように言おうがまったく無関心で、少しも変わることはない。彼らの心はまったく恐れを知らず、恥じ入ることもない。この種の人は霊のない愚か者である。神の一つ一つの言葉を読み、それを理解したらすぐに実践に移しなさい。かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったり反逆したこともあるかもしれないが、過去にあなたがどのように振る舞っていたにせよ、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げるものではない。今日あなたが神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに変わり、他の人々もあなたの生活がよい方向に変わったと認めるなら、それはあなたと神の関係が今や正常であり、正されたことを示している。神は人々を、犯した過ちを基準に扱うことはない。あなたが理解し自覚して、反抗したり逆らったりすることを止めさえすれば、神の慈悲を受けることができる。あなたが理解を得て、神により完全にされることを求めようと決意するならば、神の前でのあなたの状態は正常になる。何をしているときにも、必ずこう考えなさい。「わたしがこれをしたら、神はどう思うだろうか。これは兄弟姉妹のためになるだろうか。神の家の働きにとって有益だろうか」と。祈り、交わり、発言、行動、さらに人々との接触においても、自分の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常かどうかを確認しなさい。自分自身の意図や考えを見定めることができないならば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎることを証明している。あなたが神の行うあらゆることを明確に理解し、神の側に立ちつつ神の言葉を通して物事を把握することができるなら、あなたの見解は正されたと言える。従って、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する人にとっての最優先事項であり、誰もがこれを最も重要な課題として、また人生における最大の出来事として扱うべきである。あなたの行いはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断される。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、行動を起こしなさい。神との正常な関係を維持するためには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンに付け入る隙を与えてはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。そうした意図を持つことは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、霊の平安のためであり、聖霊の働きを得るためであり、神の旨を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築かなければならず、神の信仰についての自分の見解を正さなければならない。それは、神があなたを自分のものにするため、また神の言葉があなたの中に結実し、あなたがさらに啓かれ照らされるようになるためである。このようになれば、あなたは正しい道に進んだことになる。神の現在の言葉を飲み食いし続け、聖霊の現在における働きの方法に入り、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従うことをやめ、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、今日の働きの方法にできるだけ早く入りなさい。そうすることで、あなたと神との関係は完全に正常なものになり、あなたは神を信仰するための正しい道に踏み込んだことになる。

『神の出現と働き』「あなたと神との関係はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 412

神の言葉を受け入れれば受け入れるほど、人はより啓かれ、神を認識することの追求においてますます飢えと渇きを感じるようになる。神の言葉を受け入れる人だけが、より豊かで深遠な経験をすることができる。そしてそのような人は、いのちが胡麻の花のように成長し続けられる唯一の者たちである。いのちを追求する人はみな、それを自分の定職として扱うべきである。また、「神がおられなければ、わたしは生きられない。神がおられなければ、わたしは何も成し遂げられない。神がおられなければ、何もかもが空虚だ」と思わなければならない。そこで、そのような人は「聖霊の臨在がなければ、わたしは何もしない。神の言葉を読んでも効果がなければ、わたしは何かをすることに無関心だ」という決意も抱くべきである。自分を甘やかしてはならない。いのちの経験は神の啓きと導きから生じるのであって、それはあなたがたの主観的な努力の結晶である。あなたがたは自分自身に対し、「いのちの経験について言えば、わたしは自分の好きなようにすることはできない」と求めるべきである。

時として異常な状態にある場合、あなたは神の臨在を失い、祈っても神を感じられなくなる。そのような時に不安を感じるのは正常なことである。あなたは直ちに探求を始めなければならない。そうしなければ、神があなたから離れてしまい、一日か二日、あるいは一ヵ月か二ヵ月にもわたり、あなたには聖霊の臨在がなく、またそれ以上に、聖霊の働きがなくなってしまう。そうした状況において、あなたは信じられないほど麻痺し、再びサタンに囚われ、ありとあらゆる行ないに手を染められるまでになってしまう。無闇に富を欲しがり、自分の兄弟姉妹を騙し、映画や動画に夢中になり、麻雀をして遊び、果ては煙草を吸って酒を飲みさえしても、懲らしめられることがない。あなたの心は神から離れてしまっており、あなたは密かに自分の道を進み、神の働きについて自分勝手に判断を下してきた。性的な罪を犯しても羞恥を一切感じないほど、人々が低く沈んだ場合もある。このような人は聖霊に捨てられたのであって、実際のところ、聖霊の働きはずっと以前からこのような人の中に存在していない。人が目の当たりにできるのは、悪の手がさらに伸びる中、彼らが堕落へとますます低く沈んでいくという光景だけである。彼らはしまいにこの道の存在を否定し、罪を犯すにつれてサタンに囚われる。自分に聖霊の臨在だけがあり、聖霊の働きはないことがわかったとしたら、それはすでに危険な状況である。聖霊の臨在を感じることさえできなければ、あなたは死の淵に立たされている。悔い改めなければ、あなたはサタンのもとへと完全に立ち返ったことになり、淘汰される者の一人となるだろう。ゆえに、聖霊の臨在がある(つまり、罪を犯さず、自制し、露骨に神に抵抗するようなことをしていない)だけで、聖霊の働きがない(祈っても感動せず、神の言葉を飲み食いしても明白な啓きや照らしを得られず、神の言葉を飲み食いすることに関心がなく、自分のいのちが少しも成長せず、ずっと以前に偉大な照らしを奪われてしまった)状況に自分がいるとわかったら、そのようなとき、あなたはよりいっそう警戒しなければならない。自分を甘やかさず、これ以上自分の性格の自由にさせてはいけない。聖霊の臨在はいつ消えるかわからない。だからこそ、そうした状況は危険なのである。自分がそうした状態にあると気づいたなら、できるだけすぐに方向転換するよう試みなさい。まずは悔い改めの祈りを捧げ、自分にもう一度憐みを授けてくれるよう神に願いなさい。もっと真剣に祈り、心を静めて神の言葉をさらに多く飲み食いしなさい。それを基礎として、祈りに費やす時間をもっと増やさなければならない。歌うこと、祈ること、神の言葉を飲み食いすること、そして自分の本分を尽くすことに二倍の努力を費やしなさい。あなたが弱り切っているとき、あなたの心はいともたやすくサタンに取り憑かれる。そうなれば、あなたの心は神から奪われ、サタンのもとに戻される。すると、あなたには聖霊の臨在がなくなる。そのようなとき、聖霊の働きを取り戻すのは二倍難しくなる。聖霊がまだあなたと共にいるうちに、その働きを求めたほうがよい。そうすることで、神はより多くの啓きをあなたに授けることができ、あなたを捨てることもしないだろう。祈ること、讃美歌を歌うこと、自分の役割を果たすこと、神の言葉を飲み食いすることはどれも、サタンが働きを行なう機会を得られないようにするために、そして聖霊があなたの中で働きを行なえるようにするためである。このようにして聖霊の働きを取り戻すのでなく、ただじっと待つだけなら、聖霊の臨在を失ったとき、聖霊があなたを特に感動させたり、ひときわ照らして啓いたりしない限り、聖霊の働きを取り戻すのは容易でない。たとえ聖霊によって感動したり、聖霊の照らしと啓きを得たりしたとしても、あなたの状態が回復するには一日や二日では済まず、一切回復せずに半年経つこともあるだろう。これはひとえに、人々が自分に甘すぎ、正常な形で物事を経験することができず、そのため聖霊に捨てられるからである。たとえ聖霊の働きを取り戻しても、あなたは依然として神の現在の働きを明瞭に理解できないだろう。と言うのも、あたかも一万里も後方に取り残されたかのごとく、いのちの経験において大きく後れをとったからである。これは恐ろしいことではないか。しかし、わたしはそうした人たちに言っておくが、いま悔い改めても手遅れではないものの、一つ条件がある。つまり、より懸命に働き、怠惰の中に浸らないこと。他の人たちが一日に五回祈るなら、あなたは十回祈らなければならない。他の人たちが神の言葉を一日二時間飲み食いするなら、あなたは四時間ないし六時間そうしなければならない。そして他の人たちが二時間にわたって讃美歌を聴くなら、あなたは少なくとも半日耳を傾けなければならない。自分が感動し、心が神のもとに立ち返り、これ以上あえて神から離れないようになるまで、神の前で頻繁に心を静め、神の愛について考えなさい。そのとき初めてあなたの実践は実を結び、以前の正常な状態を取り戻すことができる。

『神の出現と働き』「正常な状態へ入るには」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 413

あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていない。そのため、まだ神の基準を満たすにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの素質と堕落した本性のせいで、あなたがたは常に神の働きを不注意に扱い、真剣に扱わない。これがあなたがたの最も深刻な欠点である。聖霊の歩む道を見極めることは誰にもできない。あなたがたのほとんどはそれを理解せず、はっきり見ることもできない。さらに、あなたがたのほとんどはこれをまったく気に留めることもなく、ましてや心に留めることなどない。もしこのようであり続け、聖霊の働きを知らないまま生きるならば、神の信者としての歩みは無駄である。なぜならあなたがたは神の心を満たそうとして最善を尽くすことなく、神としっかりと協力しないからである。神があなたに働きかけなかったわけでもなく、聖霊があなたを動かさなかったというわけでもない。あなたがたがあまりに不注意で聖霊の働きを真剣に捉えていないのである。今すぐにでもこの状況を逆転させ、聖霊が人を導く道を歩むべきである。これが本日の主題である。この「聖霊が導く道」というのは、霊において照らしを得ること、神の言葉を認識すること、進む道が明らであること、一歩ずつ真理に入っていけること、神をさらに知るようになることである。聖霊が人を導く道とは、基本的に、神の言葉についてのさらに明確な理解に向かう道であり、そこにはずれや誤解がなく、またその道を歩む人はその道に沿ってまっすぐに進んでいく。これを達成するには、神と調和して働き、実践するべき正しい道を見出し、聖霊の導く道を歩む必要がある。これには人間側の協力が要件となる。つまり、神があなたがたに要求することを満たすために何をするべきか、そして神への信仰の正しい道に入るためにどのように振る舞うべきかということである。

聖霊の導く道に踏み出すことは複雑に見えるかもしれないが、実践する道が明瞭であればそれはもっと単純だということがわかる。実のところ、人間は神の要求することすべてが可能なのである。神は豚に空を飛ぶことを教えようとはしているのではない。すべての状況において、神は人の問題を解決し人の懸念を鎮めようとしているのである。あなたがたはみなこのことを理解しなければならない。神を誤解してはならない。聖霊の歩む道は神の言葉にしたがって人を導くのである。前に述べたように、心を神に捧げなければならない。これは聖霊が導く道を歩むための必要条件である。正しい道に入るためにしなければならないことである。人はどのように意識的に心を神に捧げる働きを行うのか。日常生活にて神の働きを経験して祈る際、あなたがたは不注意に行い、何かをしながら神に祈る。これは心を神に捧げていると言えるのだろうか。家事や肉的なことについて考え、心は常にふたごころである。これは神の前で心を静めていると言えるだろうか。あなたの心はいつも外的なことに気をとられていて、神の前に帰っていくことができないからである。神の前にて真に平安な心でいたいと願うのであれば、意識して協力しなければならないのである。つまり、あなたがたひとりひとりが周りの人や物事を脇においてディボーションをする時間を持ち、神の前にて心を落ち着かせ静まるのである。各自は自分のディボーションの記録を取り、神の言葉についての認識や霊がどのように動かされたかを、内容の深い浅いに関係なく記録すべきである。誰もが意識して神の前で心を静めなければならない。毎日一、二時間を真の霊的生活に捧げることができれば、その日あなたの生活は豊かになり心は明るく明晰になる。日々このような霊的生活を送るならば、あなたの心はますます神のものとなるように立ち返ることができ、あなたの霊はますます強くなり、あなたの状態は絶えずよくなり、聖霊の導く道を歩むことがさらに可能になり、神はますますあなたを祝福するようになる。霊的生活の目的は、聖霊の臨在を意識的に得ることである。それは規則を守ることでも宗教的儀式を行うことでもなく、神と真に調和して行動し、身体を真に訓練することである。これが人間のすべきことであり、それゆえ最大の努力をもってそうするべきである。神との協力がよくできればできるほど、また、努力すればするほど、心は神に立ち返ることができ、神の前で心を静めることができるようになる。ある時点において、神はあなたの心を完全に獲得する。そうなると誰もあなたの心を揺さぶることも捕えることもできなくなり、あなたは完全に神のものとなるのである。この道を歩めば神の言葉があなたに常に明らかになり、理解できないことについても啓きが与えられ、これはすべてあなたの協力を通して達成することができる。それゆえ、神は常に、「わたしと協調するものには、二倍を与える」と言うのである。あなたがたはこの道をしっかり見ていなければならない。正しい道を歩みたいのであれば、神の心を満たすために出来ることをすべてしなければならない。霊的生活を獲得するために出来ることをすべてしなければならない。始めはこの追求において立派な成果を達成できないかもしれないが、後戻りしたり、否定的になったりすることなく、全力で取り組み続けなければならない。霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされ、このようなことを常に考えるようになり、常にその重荷をになうようになる。その後、霊的生活を通して心の一番奥にある真実を神に示しなさい。あなたに何をする覚悟があるのか、何を考えているのか、神の言葉の理解と見方を神に伝えなさい。小さなことであっても、何も隠してはいけない。心の中にある言葉を口にし、神に本当の感情を明らかにする練習をしなさい。心の中にあることであれば、必ず言いなさい。このように話せば話すほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと引き寄せられる。こうなると、あなたにとって神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このような霊的ディボーションを日々実践し、それをおろそかにすることなく、自分の人生における極めて重要なことと捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも心がずっと神のものであったかのようで、あなたが愛するものが常に心にあるようなものである。それを誰もあなたから取り上げることはできない。こうなると、神は真にあなたの内に生きていて、あなたの心には神のための場所が存在するようになるのである。

『神の出現と働き』「正常な霊的生活は人を正しい道へ導く」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 414

神への信仰は正常な霊的生活を必要とし、それが神の言葉を経験し現実性に入るための基礎である。祈り、神に近づき、讃美歌を歌い、賛美し、瞑想し、神の言葉を熟考するといった、現在あなたがたが実践していることはすべて「正常な霊的生活」になっているのか。あなたがたの誰もわからないようである。正常な霊的生活は、祈り、讃美歌を歌い、教会生活に参加し、神の言葉の飲み食いすることなどの実践に限定されない。むしろ新しく生き生きとした霊的な生活を送ることからなる。大切なことは、いかに実践するかではなく、実践がどんな実を結ぶかである。正常な霊的生活には、祈り、讃美歌を歌い、神の言葉を飲み食いし、神の言葉について熟考することが絶対に必要であるとほとんどの人が信じている。そのような実践が実際に成果を生んでいるかや、真の認識につながるかは無関係である。そのような人は表面的な手続きに従うことばかり気にして、その結果については無頓着であり、宗教儀式の中に生きていても、教会の中では生きておらず、まして神の国の民などではない。彼らが祈り、讃美歌を歌い、神の言葉を飲み食いするのは、すべて規則に従うことにすぎず、強迫的に、また時流に乗るために行っているのであって、自発的でも心からでもない。そのような人たちがどれだけ祈り歌おうとも、その努力は実を結ばない。彼らが実践しているのは宗教の規則や儀式であって、神の言葉を真に実践しているわけではないからである。自分がどのように実践するかにばかり気を取られ、神の言葉を従うべき規則として扱う。そのような人は神の言葉を実践しておらず、ただ肉を喜ばせ、人に見せるための演技をしているにすぎない。そのような宗教の規則や儀式はすべて人間が起源であり、神から来たものではない。神は規則に従うことはなく、いかなる律法に支配されることもない。むしろ神は日々新しいことを行い、実践的な働きを成し遂げている。三自愛国教会の会衆は、毎日朝の礼拝に参加し、夕の祈祷と食前の感謝の祈りを捧げ、すべてにおいて感謝するなどの実践しかしない。どれだけ回数を重ねても、どれだけ長い間行っても、聖霊の働きを得ることはない。人が規則の中で生き、実践方法にこだわっていると、聖霊は働けない。人の心の中が規則や人間の観念で一杯になっているからである。それでは神は人に干渉し働きかけることができず、人は律法の支配下でしか生き続けられない。そのような人たちは永遠に神から称賛を受け取ることができない。

正常な霊的生活とは神の前に生きることである。人は祈ると神の前に自分の心を静めることができ、祈りを通して聖霊の啓きを求め、神の言葉を知り、神の旨を理解することができる。神の言葉を飲み食いすることで、神の現在における働きをさらに明確かつ完全に認識することができる。新しい実践の道も得て、古いものに執着しなくなる。実践することはすべて、いのちの成長に至る。祈りは、聞こえの良い言葉を少し語ったり、自分がいかに恩を受けているかを示そうと神の前に泣き崩れたりすることではない。むしろ祈りの目的は霊の用い方を訓練することであって、神の前に心を静め、あらゆることにおいて神の言葉による導きを求めるよう訓練することである。そうすれば人の心は日々真新しい光に惹きつけられ、消極的で怠惰にならず、神の言葉を実践に移すという正しい軌道に足を踏み入れることができる。最近はほとんどの人が実践方法を重視しているものの、真理を求めていのちの成長を達成するためにそうしているのではない。人はここで迷ってしまっている。新たな光を受け取ることができても実践方法が変わらない人もいる。彼らは現在の神の言葉を受けたいと思いながらも、古い宗教観念を持ち込むため、受け取るものはなお宗教観念に彩られた教義であって、今日の光をそのまま受けるには至らない。その結果、実践は汚れ、上辺は新しくとも中身は古いままである。どんなにうまく実践しても、彼らは偽善者である。神は日々新たなことをして人を導き、毎日人が新たな識見と認識を得るように、時代遅れで型にはまってしまわないように要求している。もし長年神を信じているのに実践方法がまったく変わっておらず、外側の事には熱心で忙しくしているのに、神の前で心を静めて神の言葉を味わうことがないなら、何も得られない。神の新たな働きを受け入れることにしても、計画を変更せず、新しい方法で実践に取り組むこともなく、いかなる新しい認識も求めず、代わりに古いものにしがみついて、新たな光を限定的にしか受け取らず、実践方法は変えないならば、そのような人はこの流れの中にいるといっても名ばかりで、実際は聖霊の流れの外にいる宗教的パリサイ人なのである。

『神の出現と働き』「正常な霊的生活について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 415

正常な霊的生活を送るには、日々新たな光を受け取ることができ、神の言葉を真に認識しようと求めなければならない。真理をはっきりと見すえ、すべてにおいて実践の道を見出し、日々神の言葉を読んで新たな問題を発見し、自分の不備に気づかなければならない。それは自分の全存在を揺り動かすほど慕い求める心をもち、遅れをとることを深く恐れて、いつでも神の前に静まることができるようになるためである。そのような慕い求める心を持ち、絶えず入って行こうとしている人は、霊的生活において正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされ、さらなる向上を願い、神による完成を進んで求め、神の言葉をさらに深く認識することを切望し、超自然的なものを求めず、むしろ実際の代価を払い、真に神の心意を思いやり、自分の体験がさらに純粋で実際的になるよう実際に入り、空しい言葉や教義を求めたり超自然的なものを感じようとしたりせず、偉人を崇拝しない人、このような人が正常な霊的生活に入っているのである。彼らがすることはすべて、いのちのさらなる成長を達成し、霊において新鮮で生き生きとするためであり、それゆえ彼らは常に積極的に入って行くことができる。知らず知らずのうちに真理を認識し、現実性に入るのである。正常な霊的生活を送っている人は、日々に霊の解放と自由を見出し、神の言葉を自由に実践して神を満足させることができる。このような人にとって祈りは形式でも手続きでもない。日々彼らは新たな光に歩調を合わせることができる。たとえば、神の前に心を静めるように訓練し、実際に神の前で心を静めることができ、誰にも邪魔されない。このような人の正常な霊的生活を阻止できる人、出来事、ものは何もない。そのような訓練は成果を上げるためであって、人を規則に従わせるのが目的ではない。この実践は、規則に従うためではなく、人のいのちにおける成長を促すために行われるのである。このような実践を単に従うべき規則ととらえるなら、いのちは決して変わらない。他の人たちと同じように実践していて、その人たちがついには聖霊の働きと歩調を合わせて歩むことができるようになっても、あなたは聖霊の流れから淘汰されるとすれば、自分を欺いていることにはならないのか。こういうことを言う目的は、人が神の前に心を静め、心を神に向けることで、人の中の神の働きが妨げられることなく実を結ぶためである。その時はじめて人は神の心意にかなうことができる。

『神の出現と働き』「正常な霊的生活について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 416

あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、わたしは今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。わたしは本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。わたしはただ時間を無駄にしていました。わたしは今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつもわたしの内で働き、絶えずわたしを照らし啓きますように。わたしにあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠がわたしたちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、わたしは自分の本分を尽くすことを望みます。あなたがわたしたちから栄光を得て、わたしたちというこの集団による証しをあなたが享受できるように、わたしは自分の全存在をあなたに捧げることしかできません。わたしがあなたを真に愛し、満足させ、あなたをわたしの目標として追求することができるように、わたしたちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、わたしの心はあなたを真に愛することができません。わたしはあなたを愛したいのですが、わたしにはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたがわたしの霊の眼を開き、あなたの霊がわたしの心を動かしますように。わたしがあなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、わたしの全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたがわたしをどのように試そうと、わたしは用意ができています。今わたしは自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、わたしの運命もあなたの手の中にあり、わたしの一生そのものもあなたの手の中にあります。今、わたしはあなたを愛することを追い求め、わたしがあなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、わたしはあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

『神の出現と働き』「祈りの実践について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 417

真の祈りにどのように入っていくのか。

祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

祈りの重要性とは何か。

祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

祈りが達成するべき成果とは何か。

人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

『神の出現と働き』「祈りの実践について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 418

祈りの最も基礎的な知識

1. 何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

2. 祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

3. 祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。あなたの祈りは神の現在の言葉に関するものでなければならず、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

4. 集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

5. あらゆる人が取りなしの祈りを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのち性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。

『神の出現と働き』「祈りの実践について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 419

神の前で自分の心を静めること以上に、神の言葉に入る上で重要な段階はない。これは、現在すべての人が至急入る必要のある課題である。神の前で自分の心を静める境地に入る道は以下の通りである。

1.外部の物事から自分の心を取り戻す。神の前で静まり、神への祈りに注意を集中させる。

2.神の前で心を静めつつ、神の言葉を飲み食いし、享受する。

3.心で神の愛について黙想・沈思し、神の働きについて熟考する。

まず、祈りの側面から始めなさい。注意を集中させ、決まった時間に祈りなさい。時間がどれほど切迫していても、どれほど仕事に忙しくても、またどんなことがあっても、いつものように日々祈り、神の言葉を普段通り飲み食いしなさい。神の言葉を飲み食いしている限り、周りの状況がどうであれ、霊の喜びを大いに覚え、周囲の人や出来事や物事に心を乱されることもない。普段から神のことを心の中で黙想していれば、外の出来事に煩わされることはない。それが、霊的背丈があるということである。祈りから始めなさい。神の前で静かに祈るのが最も効果的である。その後は神の言葉を飲み食いし、神の言葉に思いを巡らせることでそこに光を求め、実践の道を見出し、神が言葉を語る目的を知り、偏ることなくそれを理解しなさい。普段から、外部の物事に心を乱されることなく、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉を熟考することが、正常にできるようにしなさい。心がある程度まで安らいだとき、あなたはどのような環境にいようとも、無言で熟考し、心の中で神の愛について黙想して、本当に神に近づくことができるようになり、ついには神への賛美が心の中に湧き上がるまでになるが、それは祈りにも勝ることである。そのとき、あなたはある程度の霊的背丈を有している。以上の状態に達することができるなら、それはあなたの心が神の前で真に静まっている証拠である。これが最初の基本的な課業である。神の前で静まることができて初めて、人は聖霊によって感動し、聖霊から啓きと照らしを受けることが可能となる。また、その時初めて、真に神と交わることや、神の旨と聖霊の導きを把握することが可能となる。その際、人は自分の霊的生活において正しい道を歩きだしたことになる。神の前で生きる訓練がある程度に達し、自分自身を捨て、自分自身を忌み嫌い、神の言葉の中で生きられるようになれば、その人の心は神の前で真に静まっている。自分を忌み嫌い、呪い、自分を捨てることができるのは、神の働きが成し遂げる効果であり、人間が自分で行うことはできない。したがって、神の前で自分の心を静めるという実践は、人がただちに入るべき課業である。普段から神の前で自分の心を静めることができないだけでなく、祈る時でさえ心を静められない者もいるからである。これは神の基準にまったく足りていない。自分の心を神の前で静められなければ、聖霊によって感動することがあり得ようか。神の前で静まることができない人であれば、誰かが来たり、人が話していたりすると気が散ってしまいがちになり、他人が何かをしていれば心がそれに惹きつけられる。その場合、あなたは神の前で生きていない。あなたの心が神の前で真に静まっているのであれば、外の世界で何が起きていようとそれに心を乱されず、どんな人や出来事や物事にも心を奪われることはない。あなたがこのような境地に入っているなら、それらの消極的な状態や、人間の観念、処世哲学、人間同士の異常な関係、意見や考えなどといった好ましくないものはすべて自然となくなるだろう。あなたは常に神の言葉を熟考し、あなたの心はいつも神に近づき、神の現在の言葉で常に満たされているので、そうした消極的な物事は、あなたが気づかないうちに取り去られる。新しく好ましい物事があなたの心を占めるとき、古く好ましくない物事が入る余地はなくなるので、そうした消極的な物事に注目してはならない。そうした物事を操ろうと努力する必要はないのである。神の前で静まることに集中し、神の言葉をできるだけ飲み食いして享受し、できるだけ多く賛美歌を歌って神を讃え、神があなたに働きかける機会を与えなさい。なぜなら、神は今、自ら人間を完全にすること、そしてあなたの心を獲得することを望んでいるからである。神の霊はあなたの心を感動させる。そしてあなたが聖霊の導きに従って神の前で生きるようになるならば、あなたは神を満足させる。神の言葉の中で生きることに心を配り、聖霊の啓きと照らしを得るべく真理についての交わりにより専念するなら、それらの宗教的観念やあなたの独善、自惚れは消え去り、神のためにどう自分を費やし、どのように神を愛し、どのように神を満足させればよいかを知るだろう。そしていつの間にか、神と無関係なそれらの物事は、あなたの意識から完全に消失する。

『神の出現と働き』「神の前で心を静めることについて」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 420

神の現在の言葉を飲み食いしつつ、神の言葉を熟考し、神の言葉について祈ることが、神の前で静まることの第一歩である。神の前で真に静まることができるなら、聖霊の啓きと照らしがあなたと共にあるだろう。すべての霊的生活は、神の前で静まることによって達成される。祈りにおいては、神の前で静まらなければならない。そうして初めて、聖霊によって感動することができる。神の言葉を飲み食いする際に神の前で静まっていれば、啓きと照らしを受け、神の言葉を真に理解することができる。通常の黙想と交わりという活動において、また自分の心で神に近づく際、神の前で静まるなら、あなたは神と本当に親しくなり、神の愛と働きに関する真の認識を得て、神の意図に対する真の思慮深さと配慮を示すことができるようになる。神の前で普段から静まることができればできるほど、あなたはいっそう照らしを受け、自分の堕落した性質、自分に欠けているものは何か、自分が入るべきことは何か、自分が担うべき役割は何か、そして自分の欠点がどこにあるのかをより理解できるようになる。そのすべては、神の前で静まることによって成し遂げられる。神の前にて静まる中で、本当に深みに達したなら、あなたは霊に関するある種の奥義、神が今あなたにおいて為したいと願っていること、神の言葉に関するさらに深い認識、神の言葉の真髄、神の言葉の本質、神の言葉の存在を把握することができ、実践の道をより明確に、より正確に理解できるようになる。霊において静まる中で、十分な深さに達することがなければ、あなたは聖霊によってわずかに感動するだけだろう。自分の内側で力が湧くのを感じ、ある程度の喜びや平安を感じるが、それ以上深く把握することはない。前にも言ったように、人が全力を尽くさないのなら、わたしの声を聞くことも、わたしの顔を見ることも難しい。それは表面的に努力することではなく、神の前にて静まる中で深みに達することを指している。神の前で真に静まることができる人は、自分を世の一切のしがらみから解き放ち、神のものとなることができる。神の前で静まることができない人は、みな間違いなく自堕落で節操がない。神の前で静まることができる人は、みな神の前で敬虔な者たちであり、神を切望する者たちである。神の前で静まっている人だけが、いのちを大事にし、霊の交わりを大事にし、神の言葉を渇望し、真理を追い求める。神の前で静まることを大事にせず、神の前で静まることを実践しない者は、誰であっても無益で見せかけだけであり、世に執着し、いのちをもたない。このような人が、自分は神を信じていると言っても、それはただ口先だけのことである。最終的に神が完全にし、完成させる者とは、神の前で静まることができる人たちである。したがって、神の前で静まる人は、大いなる祝福の恵みを受けている。一日を通して、神の言葉を飲み食いする時間をほとんど取らない人、外部の出来事にせっせと没頭し、いのちの入りにほとんど価値を置かない人――これらはみな、将来の成長が見込めない偽善者である。神の前で静まることができる者、真に神と交わることができる者こそ、神の民である。

『神の出現と働き』「神の前で心を静めることについて」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 421

神の前に来て神の言葉を自分のいのちとして受け入れるには、まず神の前で静まらなければならない。神の前で静まっている時にのみ、神はあなたを啓いて認識を与える。神の前で静まれば静まるほど、人は神の啓きと照らしをより一層受けることができる。これはどれも、敬虔さと信仰をもつよう人に要求する。そうして初めて、人間は完全にされることが可能となる。霊的生活に入るための基本的な課業は、神の前で静まることである。神の前で静まっている場合にのみ、あなたの霊的訓練は効果を上げる。神の前で心が静まらないなら、聖霊の働きを受けることはできない。あなたが何をしているかにかかわらず、あなたの心が神の前で静まっているなら、あなたは神の前で生きる者である。あなたが何をしているかにかかわらず、あなたの心が神の前で静まり、神に近づくなら、それはあなたが神の前で静まる者だという証拠である。他人と話をしているとき、あるいは歩いているときに「わたしの心は神に近づいており、外面的な物事にとらわれていない。そしてわたしは神の前で静まっていることができる」と言うことができるなら、あなたは神の前で静まっている者である。あなたの心を外面的な事柄にひきつけることや、あなたの心を神から切り離す人と関わってはならない。あなたの心が神に近づくのを邪魔し得る物事は、それが何であれ脇にのけるか近づかないようにしなさい。そのほうがあなたのいのちにとってより有益である。今はまさに、聖霊による大いなる働きの時、神が自ら人々を完全にしている時である。今この瞬間に神の前で静まることができなければ、あなたは神の玉座の前に立ち返る者ではない。神以外の物事を追求するのであれば、神によって完全にされることはまったく不可能である。今日、神が発するこのような言葉を聞くことができながら、神の前で静まることができない者たちは、真理を愛さず、神を愛さない人である。今この瞬間、自分を神に捧げないのであれば、いったい何を待っているのか。自分自身を捧げることは、神の前で心を静めることである。これが真の捧げ物のはずだ。今、自分の心を真に神へと捧げる者は、誰であれ、神によって完全にされることが保証されている。何であれ、あなたを煩わせる物事は一切ない。あなたに対する刈り込みであれ、取り扱いであれ、あるいはあなたが挫折や失敗に直面しようとも、あなたの心は常に神の前で静まっているべきである。人があなたをどう扱おうと、あなたの心は神の前で静まっているべきである。どのような状況に直面しようと――逆境、苦難、迫害、あるいは様々な試練に苦しめられようと――あなたの心は常に神の前で静まっているべきである。これが完全にされる道である。神の前で真に静まって初めて、あなたにとって神の現在の言葉が明瞭になる。そうして聖霊の啓きと照らしをいっそう正しく、逸脱せずに実践でき、神の意図をますます明確に把握し、自分の奉仕においていっそう明瞭な方向性をもち、聖霊による感動と導きをもっと正確に把握でき、聖霊の導きの下で生きることが保証される。これらが神の前で真に静まることで達成される効果である。人々が神の言葉を明瞭に理解しておらず、実践する道をもたず、神の意図を把握できなければ、あるいは実践における原則を欠いているのであれば、それはその人の心が神の前で静まっていないからである。神の前で静まることの目的は、真剣かつ実践的になり、神の言葉の正確さと明瞭さを探求し、最終的に真理の理解と神の認識に至ることである。

あなたの心が神の前で常に静まっていないのであれば、神にはあなたを完全にする手段がない。決意がないことは、心がないことと同じであり、心のない人は神の前で静まることができない。そのような人は、神がどれほど多くの働きを行なうのかも、どれほど多くのことを語るのかも知らず、実践する方法も知らない。これは心のない人間ではなかろうか。心のない人間が神の前で静まれるのか。心のない人間を完全にする手段を神は持たない――そのような者は畜生と何ら変わりない。神は極めてはっきりと明瞭に語ったが、あなたの心は感動しないままで、あなたは神の前で静まることができずにいる。能なしの獣ではないか。神の前で静まることを実践する中で、迷ってしまう人もいる。彼らは料理すべき時に料理せず、作業すべき時に作業せず、ひたすら祈り、瞑想する。神の前で静まることは、料理や作業をしないこと、自分の生活を送らないことを意味するのではなく、むしろあらゆる正常な状態において神の前で自分の心を静められること、および心の中に神の居場所を持てることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈るべきである。作業をする時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか賛美歌を歌うかしなさい。どのような状況に置かれようと、あなたは自分の実践の道を持ち、あらゆる手を尽くして神に近づき、力を尽くして神の前で心を静めるべきである。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、手元にある仕事をしながら、心の中で神に近づきなさい。神の言葉を飲み食いすることができる時は、神の言葉を飲み食いしなさい。祈ることができる時は祈りなさい。神について黙想することができる時は、神について黙想しなさい。言い換えれば、自分が置かれた環境に応じて、全力で入りの訓練をしなさい。何もない時には神の前で静まれるが、何かが起きたとたん、心がさまよう人もいる。それは神の前で静まることではない。経験すべき正しい方法はこれである。いかなる状況にあっても、自分の心が神から離れず、外部の人や出来事、物事に煩わされないようにしなさい。そうして初めて、神の前で真に静まっている人となる。集会で祈っている時は、自分の心を神の前で静めることができるものの、他の人と交わる時になると、神の前で心を静められず、考えが乱れる人もいる。それは神の前で静まるということではない。今日、ほとんどの人がこうした状態にあり、彼らの心は神の前で常に静まることができない。したがって、あなたがたは、この分野の訓練にいっそう努め、いのちの経験の正しい軌道に一歩一歩入り、神によって完全にされる道に乗り出さなければならない。

『神の出現と働き』「神の前で心を静めることについて」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 422

神の働きと言葉は、あなたがたの性質に変化を生じさせるためのものである。神の目標は、あなたがたに神の働きと言葉を理解させたり、知らしめたりするだけではない。それでは不十分である。あなたがたは理解する力がある人なのだから、神の言葉を難なく理解できるはずだ。なぜなら、神の言葉の大半は人間の言語で書かれており、神はとても平易に語るからである。たとえば、神が自分に何を理解して実行するよう求めているのか、あなたがたは完全に学ぶことができる。これは、理解する能力を備えた普通の人間にできて当然のことである。特に、神が現段階で述べていることは、ひときわ明瞭かつ明晰であり、人間が考慮したことのない多くのこと、およびありとあらゆる人間の状況について、神は指摘している。神の言葉はすべてを含むものであり、満月の光のように明るい。ゆえに現在、人は様々な問題を理解しているが、依然として欠けているものがある。つまり、神の言葉を実践することである。人は、手に入るものを何でも吸収しようとただ待つのではなく、真理のあらゆる側面を詳細に経験し、それをさらに細かく探究し、追い求めなければならない。さもなければ寄生虫も同然になってしまう。彼らは神の言葉を知っているが、それを実践しない。この種の人は真理を愛しておらず、最後に淘汰される。1990年代のペテロのようになるというのは、あなたがた一人ひとりが神の言葉を実践し、自分の経験において真の入りを得て、神と協力する中でさらに偉大な啓きをより多く得るべきだという意味であり、それによって自分のいのちがさらに支えられる。たとえ神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の経験を通じた神の言葉に関する直接的な知識がなければ、神の言葉を知ることはないだろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字を見つめながら生きるだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の旨を理解することもないだろう。実体験の中で神の言葉を経験して初めて、神の言葉の霊的な意味があなたに明かされる。また経験を通じてでなければ、数多くの真理の霊的な意味を把握することはできず、神の言葉の奥義を解明することもできない。あなたがそれを実践しなければ、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握したのは空虚な字義や教義だけであり、それらがあなたの宗教的規則になってしまったのだ。それはパリサイ人たちが行なったことではないのか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、それはあなたがたにとって実践的なものになる。神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたにとって第三の天の伝説程度のものに過ぎない。実のところ、神を信じる過程は、神によって獲得される過程であるとともに、あなたがたが神の言葉を体験する過程でもある。より明確に言うと、神を信じるというのは、神の言葉に関する認識と理解を得ること、そして神の言葉を体験し、それを生きることである。そうしたことが、あなたがたの神への信仰の背後にある現実である。神の言葉を実践して真理現実に入ることを求めないまま、神を信じ、永遠のいのちを望むのであれば、あなたがたは愚かである。それはあたかも、宴に赴き食事を見て、それらの御馳走を暗記するだけで、実際には何一つ味わわず、そこで何も飲み食いしないようなものだろう。そのような人は愚か者ではなかろうか。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 423

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にあり、それは人類にとって最も有益で役立つ真理である。それはあなたがたの体に必要な滋養と糧であり、人が正常な人間性を回復することを助ける。またそれは、人間が備えているべき真理である。神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちはより早く開花し、真理がますます明確になる。自分の霊的背丈が成長するにつれ、あなたがたは霊的世界の物事をより明瞭に理解し、さらに力を得てサタンに勝利するだろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解していない真理の多くも明らかになるだろう。ほとんどの人は神の言葉の文面を理解するだけで満足し、自分の経験を実践において深めることではなく、むしろ教義を身につけることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではないのか。ならば彼らにとって、「神の言葉はいのちである」という言葉がどうして真実であり得ようか。単に神の言葉を読むだけでは、人のいのちが成長することはできず、神の言葉が実践されて初めて成長できる。もしもあなたの考えが、神の言葉を理解しさえすればいのちと霊的背丈を得ることができる、というものであれば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。そしてあなたは「実践して初めて真理を理解できる」ということがわかっていなければならない。今日あなたは、神の言葉を読んでも、自分は神の言葉を知っていると言えるだけで、それを理解しているとは言えない。真理を実践する唯一の方法はまず真理を理解することだ、と言う者たちもいるが、それは部分的に正しいだけで、すべて正しいということは決してない。一つの真理の認識を得るまでは、その真理を経験したことにはならない。説教で聞いたことを理解したと感じても、それは本当に理解したのではなく、真理の字句を身につけているだけであり、その中にある本当の意味を理解することと同じではない。真理に関してただ表面的な知識があっても、それは実際に真理を理解しているという意味でも、真理に関する認識があるという意味でもない。真理の本当の意味は、それを経験することから見出せる。それゆえ、真理を経験して初めて、あなたはそれを理解することができる。そしてその時初めて、あなたは真理の隠された部分を把握できるのである。自分の経験を深めることが言外の意味を把握し、真理の本質を理解する唯一の方法である。したがって、真理があればどこにでも行けるが、自分の中に真理がないのであれば、宗教的な人々はもちろんのこと、自分の家族さえも説得しようなどと思ってはならない。真理がなければ、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。いかに強力であっても、理論が真理に打ち勝つことはできない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かせるが、その一方で真理がなければ、強力な都市の防壁がうじ虫によって瓦礫と化すことにつながり得る。それは明白な事実である。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 424

現段階においては、まず真理を知り、次にそれを実践し、真理の本当の意味をさらに身につけることが極めて重要である。あなたがたはその達成を追い求めるべきである。他人を自分の言葉に従わせることを追い求めるだけでなく、他人に自分の実践を見習わせなければならない。そうすることでのみ、あなたは有意義なものを見出すことができる。自分に何が起きようと、誰に遭遇しようと、自分に真理がある限り、あなたは揺るぎなく立つことができる。神の言葉は人に死でなくいのちをもたらすものである。神の言葉を読んだ後も、いのちを得ずに依然として死んでいるのであれば、あなたには何らかの問題がある。しばらく神の言葉をたくさん読み、実践的な説教を数多く聞いた後も、あなたが死んだ状態であるなら、それは、あなたが真理を重視する者でも、真理を追い求める者でもないことを証明している。真剣に神を得ようとしているのであれば、教義を身につけることや、高尚な教義で他人を教えることに重点を置かず、神の言葉を経験し、真理を実践することに集中するはずだ。それこそが、今あなたがたが入ろうとすべきことではないのか。

神が人間の中で働きを行なう時間は限られているが、あなたが神に協力しなければ、どのような結末になり得るだろうか。ひとたび神の言葉を理解したらそれを実践するよう、神があなたがたにいつも求めているのはなぜか。それは、神が自身の言葉をあなたがたに示したからであって、あなたがたの次なる段階はそれを実際に実践することである。あなたがたがそれらの言葉を実践する限り、神は啓きと導きの働きを行なう。それはこのようにしてなされる。神の言葉によって人間はいのちを開花させることができ、また神の言葉の中に、人間が逸脱したり消極的になったりする原因となり得る要素はない。あなたは、自分は神の言葉を読んでそれを実践したのに、いまだに聖霊から働きを受けたことがないと言う。あなたの言葉は子供騙しに過ぎない。あなたの意図が正しいかどうか、他の人たちは知らないかもしれないが、神にもわからないことがあり得ると思っているのか。他の人たちが神の言葉を実践して聖霊の啓きを受けているのに対し、あなたがそれを実践しても聖霊の啓きが得られないのはどういうことか。神には感情があるのか。あなたの意図が本当に正しく、あなたが協力的であれば、神の霊はあなたと共にあるだろう。いつも自分の旗を立てたがる人がいるのに、神が彼らを立ち上がらせて教会を導かせることがないのはなぜか。また、ただ自分の役割を果たし、自分の本分を尽くしているだけなのに、知らぬ間に神の承認を得た人もいる。そんなことがどうしてあり得るのか。神は人の心の奥底を調べるが、真理を追い求める人は、正しい意図で追い求めなければならない。正しい意図のない人は、揺るぎなく立つことができない。あなたがたの目的の核心は、神の言葉が自分の中で効果を発揮するようにすることである。言い換えれば、自分が神の言葉を実践する中で、その言葉を真に理解することである。おそらく、あなたがたが神の言葉を理解する能力は乏しいだろうが、あなたがたが神の言葉を実践する時、神はこの欠点を直すことができる。そのため、あなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらを実践しなければならない。これが無視することのできない最大の重点である。イエスは三十三年半の生涯において数多くの恥辱と苦しみに耐えた。彼がかくも大いに苦しんだのは、ひとえに真理を実践し、あらゆることにおいて神の旨を行ない、神の旨しか大事にしなかったからである。この苦しみは、イエスが実践を経ずに真理を知っていたとすれば、決して受けたはずのないものである。イエスがユダヤ人の教訓に従い、パリサイ人に従っていたとすれば、彼は苦しまなかったことだろう。人間に対する神の働きの効果は人間の協力から生じるものであるということを、あなたはイエスの業から学ぶことができる。そしてそれは、あなたがたが認識しなければならないことである。イエスが真理を実践しなかったとしたら、彼はあのように十字架の上で苦しんだだろうか。イエスが神の旨に従って行動していなかったとしたら、あれほど悲痛な祈りを捧げていただろうか。それゆえ、あなたがたは真理を実践するために苦しむべきである。それが人間の受けるべき苦難である。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 425

実践において、戒めを守ることは真理の実践と結びつけるべきである。戒めを守りながら真理を実践しなければならないのである。真理を実践する際は、戒めの原則を破ったり、戒めに反した行動をとったりしてはならない。神が自分に求めることは何でも行なわなければならない。戒めの遵守と真理の実践は相反するものでなく、相互に関連するものである。真理を実践すればするほど、より一層戒めの本質を遵守するようになれる。真理を実践すればするほど、戒めに示されている神の言葉をより深く理解することになる。真理を実践することと戒めを守ることは相反する行動ではなく、両者は相互に関連している。最初のころ、人間は戒めを守って初めて真理を実践し、聖霊の啓きを得ることができた。しかし、それが神の本来の意図ではない。神は、あなたが立派に振る舞うだけでなく、神への礼拝に心を捧げるよう求めている。とは言え、あなたは表面的にでも戒めを守る必要がある。経験を通じて神のことをよりはっきり認識したあと、人は次第に神への反抗と抵抗を止め、神の働きについてそれ以上疑いを抱かないようになる。そうすることでのみ、人は戒めの本質に従うことができる。ゆえに、真理を実践せず単に戒めを守るのは効果がないことであり、神に対する真の崇拝とはならない。なぜなら、あなたは真の霊的背丈を得ていないからである。真理がないまま戒めを守っても、それは規則を固く遵守することにしかならない。そうする中で、戒めが自分の律法となるだろうが、それはいのちの成長に役立たない。それどころか、戒めはあなたの負担となり、旧約の律法のように自分を固く束縛するものとなり、あなたが聖霊の臨在を失う原因となるだろう。したがって、真理を実践することでのみ、あなたは効果的に戒めを守ることができ、また真理を実践するために戒めを守る。戒めを守る過程の中で、あなたはさらに多くの真理を実践し、また真理を実践する際に、戒めの実際の意味をより深く理解するようになる。人間は戒めを守らねばならないという神の要求の裏にある目的と意義は、その人が想像するように、規則を遵守させることではなく、むしろその人のいのちへの入りに関連するものである。あなたのいのちの成長度によって、どの程度戒めを守れるかが決まる。戒めは人間が守るべきものだが、戒めの本質は、人間のいのちの経験を通じてでなければ明らかにならない。大半の人は、戒めを立派に守ることは「準備万端、あとは引き上げられるだけ」という意味だと思い込んでいる。これは突飛な考えであり、神の旨と一致していない。こうした発言をする者は進歩したがらず、肉を無闇に欲しがっている。これは馬鹿げている。現実離れしている。実際に戒めを守ることなく、単に真理を実践することは、神の旨ではない。そのようにする者は不具者であり、片脚のない人間も同然である。規則に従うかのごとく戒めを守るだけで、真理を自分のものにしていなければ、それもまた神の旨を満たすことはできない。そうする人たちも、片目を失った人間のように一種の障害に苦しむ。戒めを立派に守り、実践の神に関する明瞭な認識を得るのであれば、あなたは真理を自分のものにするだろうと言える。相対的に言えば、あなたは真の霊的背丈を得ているはずだ。実践すべき真理を実践するなら、あなたはまた戒めも守っており、これら二つは互いに矛盾しない。真理の実践と戒めの遵守は二つの異なる体系であり、いずれもいのちの経験における不可欠な部分である。人間の経験は戒めの遵守と真理の実践の分割ではなく、それらの統合により構成されるべきである。しかし、これら二つの事柄には、相違点と関連する点の両方がある。

『神の出現と働き』「戒めを守ること、真理を実践すること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 426

新時代の戒めの公布は、この流れの中にいるすべての人、すなわち今日神の言葉を聞くすべての人が新しい時代に入ったことの証しである。それは神の働きにとって新たな出発であり、6000年にわたる神の経営(救いの)計画の最終部の始まりでもある。新時代の戒めは、神と人間が新たな天と新たな地の領域に入ったこと、またヤーウェがイスラエルの民の間で働きを行ない、イエスがユダヤ人の間で働きを行なったのと同じく、神が地上において一層実践的な働きを行ない、より偉大な働きをさらに行なうことを象徴する。それらの戒めはまた、この人々の集団が神からより偉大な使命をさらに受け、神からの施し、糧、支え、気遣い、そして加護を実践的な形で授けられると共に、神によるより実践的な訓練、および神の言葉による取り扱い、破砕、そして精錬を受けることを象徴する。新時代の戒めの意義は極めて深遠である。それらは、神が実際に地上に現われ、そこから全宇宙を征服し、神の栄光のすべてを肉において表わすことを示唆している。それらはまた、自身の選民を一人残らず完全にすべく、実践の神が地上でより実践的な働きを行なうことも示唆している。さらに、神は言葉によって地上であらゆることを成し遂げ、「受肉した神が最も高い所に昇って讃えられ、あらゆる民と国々が跪いて大いなる神を崇拝する」という法令を明らかにする。新時代の戒めは人間が守るべきものであり、そうすることは人間の本分にして義務であるが、それら戒めの意義はあまりに深遠であり、ひと言ふた言では十分説明できない。新時代の戒めは、ヤーウェとイエスが公布した旧約の律法や新約のしきたりに取って代わる。これはさらに深遠な教えであり、人々が想像するほど簡明ではない。新時代の戒めには実践的な意義の側面がある。すなわち、それらは恵みの時代と神の国の時代との接点として機能するのである。新時代の戒めは、旧時代の実践やしきたり、そしてイエスの時代やそれよりも前の実践にすべて終止符を打つ。それはまた、人間をより実践的な神の前に連れ出し、その人が神によって直接完全にされ始めるのを可能にする。それは完全にされる道の始まりである。したがって、あなたがたは新時代の戒めについて正しい態度をとるべきであり、いい加減に付き従ったり、あざ笑ったりしてはならない。新時代の戒めは、ある点に強い重点を置いている。それはつまり、人間は今日における実践の神自身を崇拝しなければならないということであり、そこには霊の本質により実践的に従うことが含まれる。その戒めはまた、神が義の太陽として現われたあと、人間を罪人もしくは義なる者として裁く際の原則も強調している。その戒めは、実践することよりも理解することのほうが簡単である。そのことから、人間を完全にしようと望むなら、神は自らの言葉と導きによってそれを行なう必要があり、人間は自分自身に内在する知性だけで完全になることができないということがわかる。人間が新時代の戒めを守れるかどうかは、実践の神に関するその人の認識と関係している。したがって、あなたが戒めを守れるかどうかは、たかだか数日で解決する問題ではない。これは非常に深遠な学ぶべき教えである。

『神の出現と働き』「戒めを守ること、真理を実践すること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 427

真理の実践は、人間のいのちが成長し得る道である。真理を実践しないのであれば、あなたがたに残るのは理論に過ぎず、実際のいのちはない。真理は人間の霊的背丈の象徴であり、あなたが真理を実践するかどうかは、真の霊的背丈を有しているかどうかと関係している。真理を実践しなかったり、正しく行動しなかったり、感情に左右されて自分の肉に気を取られたりした場合、あなたは戒めの遵守からかけ離れている。これは最も深遠な教えである。すべての時代には、人々が入って理解しなければならない真理が多数ある。しかしそれぞれの時代には、それらの真理に付随する異なる戒めもある。人々が実践する真理は特定の時代と関連しており、彼らが守る戒めも同じである。各時代には、実践すべき固有の真理と、守るべき固有の戒めがある。しかし、神が公布した様々な戒め次第で、つまり様々な時代次第で、人間による真理の実践の目的と効果は大いに異なる。戒めは真理に役立つものであり、真理は戒めを維持するために存在すると言える。真理しか存在しなければ、神の働きには語るべき変化がないだろう。しかし、戒めを参照することで、人間は聖霊による働きが進展する程度を突き止め、神が働きを行なう時代を知ることができる。宗教においては、律法の時代に人々が実践していた真理を実践できる人が多数いる。しかし、そうした人は新時代の戒めを心得ておらず、それを守ることもできない。彼らはいまだに古い道を守り、原始時代の人間のまま留まっている。彼らは新たな働きの手段が身についていないので、新時代の戒めが見えない。そうしたわけで、そのような人には神の働きがないのである。それはあたかも、中身のない卵の殻だけがあるようなものだ。つまり、中に雛が宿っていないならば、そこに霊はない。より正確に言えば、そこにはいのちがないのである。そうした人たちは新時代に入っておらず、何歩も遅れてしまった。したがって、より古い時代の真理があっても、新しい時代の戒めがなければ無益である。あなたがたの多くは今日の真理を実践しているものの、その戒めを守っていない。あなたがたは何も得ず、実践する真理は価値も意味もなく、神はあなたがたを讃えないだろう。真理の実践は、聖霊による現在の働き方の範囲内で、今日の実践の神の声に反応する形で行なわれる必要がある。そうしなければ一切が無効であり、ざるで水を汲もうとするようなものである。それはまた、新時代の戒めを公布する実際の意義でもある。戒めに従うというのであれば、少なくとも肉において現われる実際の神を混乱することなく知るべきである。つまり、人々は戒めに従う原則を理解すべきなのだ。戒めに従うということは、でたらめに従ったり、勝手に従ったりするのではなく、根拠、目的、原則に基づいて従うことを意味する。まずは、あなたのビジョンを明確にしなければならない。あなたが現在における聖霊の働きについて徹底的に認識し、今日の働き方に入っていくのであれば、あなたは戒めの遵守を自然とはっきり理解できるだろう。あなたが新時代の戒めの真髄を見通し、それを守れる日が来るのであれば、その時あなたは完全にされる。それが真理を実践し、戒めを守ることの実際的な意義である。あなたが真理を実践できるかどうかは、新時代の戒めの真髄をどのように知覚するかによって決まる。聖霊の働きが絶えず人間の前に現われ、神は人間に対してますます多くのことを要求するだろう。それゆえ、人間が実際に実践する真理はより多く、より偉大なものになり、戒めの遵守による効果は一層深くなるだろう。したがって、あなたがたは真理の実践と戒めの遵守を同時に行なう必要がある。誰一人、この問題を無視してはならない。この新時代において、新たな真理と新たな戒めを同時に開始させようではないか。

『神の出現と働き』「戒めを守ること、真理を実践すること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 428

多くの人々が、実践について多少は話すことができるし、個人的な感想を述べることもできるが、その大部分は他人の言葉から得た明察である。そこには自分自身の個人的な実践からもたらされたものも、自分の体験から知ったことも一切含まれていない。わたしはこの問題を詳しく吟味したことがある。わたしが何も知らないなどと思わないことだ。あなたはただの張子の虎に過ぎないのに、サタンに打ち勝つこと、勝利の証しをすること、そして神の似姿を生きることを語るのか。まったく馬鹿げた話だ。今日神が語っている言葉がすべて、ただ聞いて感心するためだけのものだと思っているのか。あなたの口は古い自分を捨て去り真理を実践することを語っているが、あなたの手はそれと違うことをしており、あなたの心は他のことを企んでいる。あなたは一体どういう人間なのか。なぜあなたの心と手は一致していないのか。非常に多くの説教がただの空虚な言葉になってしまっているのは、何と心が痛むことか。あなたが神の言葉を実践に移せないなら、それはあなたがまだ聖霊の働き方に入っておらず、まだあなたの中で聖霊が働いておらず、またあなたが聖霊の導きを得ていない証拠である。神の言葉を理解することはできるが、それを実行に移すことはできないと言うなら、あなたは真理を愛さない人間なのだ。神はそのような人間を救うために来るのではない。イエスは途方もない苦痛を受けて十字架にかけられ、罪人を救い、貧しい者を救い、あらゆる卑しい者を救った。イエスの磔刑は罪のいけにえの役割を果たしたのだ。神の言葉を実践できないのなら、できるだけ早く立ち去りなさい。居候として神の家に長居してはならない。多くの人々は明らかに神に背くことだとわかっていることさえ、やめるのに困難を感じている。彼らは死を招いているのではないだろうか。どうして彼らが神の国に入ることを語れようか。ずうずうしくも神の顔を見る度胸があるのか。神が与えてくれる食物を食べながら神に背く曲がったことを行い、神が授けた祝福を享受させてもらっていながら、悪意を持ち、陰険になり、陰謀を企てている。そうした祝福を受けとるとき、自分の手が焼かれるように感じないのか。顔が赤くなるのを感じないのか。神に反することを行い、「自分勝手に物事を行う」という企みを成し遂げた今、あなたは恐れを感じていないのか。何も感じないのなら、どうして未来など語ることができようか。あなたにはもうずっと前から未来などなかったのに、これ以上どんな大きな期待を抱いていられるのか。恥知らずなことを言っても何の咎めも感じず、心に何の認識もないのなら、それはあなたがすでに神に見捨てられていることを意味するのではないか。気ままに何の自制心もなく話し行動することが本性となっているあなたが、どうして神に完全にされることができようか。あなたは世の中をやすやすと歩いて行けるだろうか。誰があなたに説得されるだろうか。あなたの本性を知る者は、あなたと距離を置くだろう。それは神の罰ではないか。いずれにせよ、話ばかりで行動が伴わないのなら、決して成長はない。あなたが話しているときは聖霊があなたの上に働いているかもしれないが、実践しないなら聖霊はその働きをやめるだろう。あなたがこれからもそのままなら、どうして未来のことや、自分の全存在を神の働きに捧げることなど語れようか。あなたは自分の全存在を捧げることを語れるだけで、神に真の愛を捧げていない。神があなたから受け取るものは言葉の献身だけであり、真理を実践しようという意図ではない。これがあなたの実際の霊的背丈なのだろうか。あなたがこれからもそのままなら、いつ神に完全にされるのか。あなたは自分の暗く陰鬱な未来に不安を感じないのか。神があなたへの望みを捨てたのを感じないのか。神がより多くの新たな人々を完全にしようとしていることを知らないのか。古いものがそのまま持ち堪えられるだろうか。あなたは今日、神の言葉に注意を払っていない。それで明日を待っているのか。

『神の出現と働き』「救いを得る人は真理を進んで実践する人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 429

神の言葉を取り上げて臆面もなく説明できたとしても、あなたが現実を自分のものにしていることにはならない。物事は、あなたが想像するほど単純ではない。あなたが現実を自分のものにしているかどうかは、あなたが何を言うかではなく、あなたが何を生きているかに基づいている。神の言葉があなたのいのちとなり、あなたの自然な表現となって初めて、あなたには現実があると言うことができ、またその時初めて、真の理解と実際の霊的背丈を得たと見なされる。あなたは長期にわたる試験に耐え、神が求める人間らしさを生きることができなければならない。それは単なるポーズではなく、自分から自然と流れ出るものでなければならない。その時初めて、あなたは真に現実を自分のものとし、いのちを得ていることになる。誰もがよく知っている効力者の試練を例に取ろう。効力者に関する高尚な理論を持ち出すことは誰にでもできて、誰もがこの主題についてそこそこ理解している。彼らはそれについて話し、あたかも競い合っているかのごとく、一人ひとりの話が直前のものより優れている。とは言え、大きな試練を経たことがないなら、その人に優れた証しがあるとはとても言い難い。要するに、人間が生きることには依然として大いに不足があり、その人の理解とまったく正反対のものである。したがって、それはいまだ人間の実際の霊的背丈になっておらず、依然として人のいのちでもない。人間の理解がいまだ現実の中にもたらされていないので、その人の霊的背丈は依然として砂上の楼閣のようにぐらつき、今にも崩壊しそうである。人間が自分のものにしている現実はあまりに乏しく、人間の中に何らかの現実を見出すことはほとんど不可能である。人間から自然と流れ出る現実はほとんどなく、彼らが生きている現実はどれも強いられたものである。そのためわたしは、人間には現実がまったくないと言うのである。人は、神に対する自分の愛は決して変わらないと主張するが、彼らがそう言うのは、試練に直面する前だけである。ある日突如として試練に見舞われると、彼らが語ることは再び現実離れしたものになり、そのことは人間に現実がまったくないことをまたもや証明する。自分の観念に合わないことや、自分自身を脇にのける必要があることに遭遇するたび、そうしたことはあなたの試練だと言える。神の旨が明かされるのに先立ち、誰もが厳しい試験と計り知れない試練を経る。あなたにそれが理解できるだろうか。神は人々を試そうとする時、実際の真実が明かされるのに先立ち、いつも彼らに選択させる。つまり、神は人を試練に晒す時、決して真実を伝えないということである。人はそのようにして暴かれる。これは神が自身の働きを行なう一つの方法であり、それによってあなたが今日の神を理解しているかどうか、現実を自分のものにしているかどうかを確かめるのである。あなたには神の働きに関する疑念が本当にないのか。大いなる試練があなたに臨む時、本当に揺るぎなく立つことができるだろうか。「何の問題もないことは請け合います」などとあえて言う者がいるだろうか。「他の人たちは疑念を抱いているかもしれませんが、わたしは決して疑いません」などとあえて断言する者がいるだろうか。それはまさに、ペテロが試練に晒された時と同じである。真実が明かされる前、彼は常に大口を叩いていた。これはペテロだけの個人的な欠点ではなく、誰もが現在直面している最大の問題である。もしもわたしが数ヵ所を訪れたり、何名かの兄弟姉妹たちを訪問したりして、今日の神の働きに関するあなたがたの理解がどのようなものかを確かめるなら、あなたがたは自分の認識についてきっと多くのことを語ることができ、また何の疑念も抱いていないように見えるだろう。「あなたは本当に、今日の働きが神自身によって行なわれていると断定できるのか。何の疑念もなく」と、わたしがあなたに尋ねたならば、あなたはきっと「まったく疑いの余地なく、それは神の霊によって行なわれている働きです」と答えるだろう。ひとたびそのように答えた後、あなたに一抹の疑念もないことは確実で、自分は少しばかり現実を得たと思い、大いに満足さえするはずだ。物事をこのように認識しがちな人は、自分のものにしている現実が少ない人である。自分は現実を得たと考えれば考えるほど、試練に直面した際に揺るぎなく立つことができなくなる。傲慢で横柄な者に災いあれ。自分自身を知らない者に災いあれ。このような人間は、口は達者だが、言葉を行動に移す際に最もひどい目に遭う。ほんの少しでも困難の兆しがあると、このような人たちは疑念を抱き始め、あきらめようかという思いが心に忍び込む。彼らは現実を一切持ち合わせておらず、彼らにあるものといえば、宗教の上位にある理論だけで、神が現在要求している現実はまったくない。理論の話をするだけで、現実を一切自分のものにしていない者を、わたしは最も忌み嫌う。彼らは自分の働きを行なう時こそ一番大きな声で叫ぶが、現実に直面するとたちまち動揺する。そのことは、この人たちに現実が一切ないことを示しているのではないか。風や波がどれほど激しくても、あなたが一抹の疑念も心に入るのを許さずに立ち続け、たとえ他に残された者がいなくなっても揺るぎなく立ち、一切否定しないでいられるなら、あなたは真の理解を得て、現実を本当に自分のものにしているとみなされる。風の吹くほうを向くばかりで、多数派に付き従い、他人の言うことをそのまま繰り返すことを学ぶなら、あなたがどれほど雄弁であろうと、それはあなたが現実を自分のものにしている証拠にはならない。したがって、空虚な言葉を早まって大声で叫んだりしないよう、あなたに勧める。あなたは、神が行なおうとしていることを知っているのか。ペテロのように振る舞ってはならない。さもなければ、あなたは自分に恥をもたらし、堂々としていられる能力を失う。こんなことは誰の為にもならない。大半の人には真の霊的背丈がない。神は実に多くの働きを行なったが、人々に現実をもたらしてはいない。より具体的に言うと、神はまだ誰も自ら罰していないのである。中には、このような試練によって暴かれた者もいる。つまり、おのれの罪深い手をさらに伸ばしつつ、神に勝るのは簡単であり、好きなことを何でもできると考えている者である。彼らは、この種の試練にさえ耐えられないので、さらに厳しい試練はもっての他、現実を自分のものにすることもまた問題外である。彼らは単に神を欺こうとしているのではないか。現実を自分のものにすることは、見せ掛けられることでもなければ、知ることで達成できることでもない。それはあなたの実際の霊的背丈に左右され、また、あなたがあらゆる試練に耐えられるかどうか次第である。あなたは理解できただろうか。

『神の出現と働き』「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 430

神が人々に要求するのは、現実について語る能力だけではない。それはあまりに簡単なことだ。そうではないか。ならば、神はなぜいのちへの入りについて語るのか。なぜ変化について話すのか。現実について中身のない話しかできないのであれば、その人たちは性質の変化を成し遂げることができるのか。神の国の精兵は、現実について話したり、自慢したりすることしかできない集団となるよう訓練されているのではない。むしろ、いかなる時も神の言葉を生き、いかなる挫折に直面しても屈せず、絶えず神の言葉にしたがって生き、この世に立ち返らないように訓練されているのである。これが、神が語るところの現実であり、神が人間に要求するものである。したがって、神が語る現実を簡単に考え過ぎてはならない。単なる聖霊からの啓きは、現実を自分のものにすることと等しくはない。そうしたものは人間の霊的背丈ではなく、神の恵みであり、それに対して人間は何一つ寄与しない。一人ひとりがペテロの苦難に耐えなければならず、またそれ以上に、ペテロの栄光を自分のものにしなければならない。神の働きを得た後、彼らはそれを生きるのである。これ以外に現実と呼べるものはない。現実について語ることができるからといって、自分に現実があると考えてはならない。それは間違った考えである。そうした考えは神の旨と一致しておらず、実際の意義が一切ない。今後そんなことを語ってはならない。そのような発言は消し去りなさい。神の言葉を誤って理解している者はみな未信者である。彼らは真の認識を少しも持ち合わせておらず、まして真の霊的背丈など備えてはいない。彼らは現実をもたない無知な人々である。言い換えると、神の言葉の本質から外れて生きる者はみな未信者である。人々から未信者とみなされた者たちは、神の目から見ると獣であり、神から未信者とみなされた者たちは、神の言葉を自分のいのちとしていない者である。したがって、神の言葉の現実を自分のものにしておらず、神の言葉を生きていない者は未信者である。神の旨は、誰もが神の言葉の現実を生きるようにすることであり、単に誰もが現実について語るようにすることでなく、それ以上に、誰もが神の言葉の現実を生きられるようにすることである。人間が認識している現実は極めて表面的であり、何の価値もなく、神の旨を満たすことはできない。それはあまりに卑しく、言及する価値すらない。欠けているところがあまりに多く、神の要求の基準にまったく達していない。あなたがた一人ひとりが徹底した検査を受け、あなたがたのうち、自身の認識についてどう話すべきかを知っているだけで、道を示すことができない者は誰かが確かめられるとともに、役に立たないくずは誰かが突き止められる。今からは次のことを憶えておきなさい。中身のない認識について語ってはならない。実践の道と現実についてだけ語りなさい。本当の認識から本当の行動への移行、そして実践から本当に生きることへの移行について語るのだ。他人に説教したり、真の認識について語ったりしてはならない。もしもあなたの理解が道であるなら、自由に言葉を発しなさい。そうでなければ、口を閉じて黙ってほしい。あなたが話すことは役に立たない。あなたが認識について語るのは、神を欺き、他人を羨ましがらせるためである。それがあなたの野望ではないのか。あなたは故意に他人を弄んでいるのではないか。そうすることに何か価値があるのか。自分が経験した後で認識について話すなら、あなたは自慢しているとはみなされない。そうでなければ、あなたは傲慢な言葉を吐き出す者である。あなたの実体験には克服できないことが数多くあり、あなたは自分の肉に反抗することができない。あなたはいつも自分の好きなことを何でも行なっており、決して神の旨を満たさない。それなのに、理論的な認識について話す図々しさがいまだにある。あなたは恥知らずだ。あなたはいまだ大胆にも、神の言葉に関する自分の認識について語っている。あなたは何と厚顔無恥なのか。演説することや自慢げに話すことがあなたの本性となり、あなたはそうすることに慣れてしまった。自分が語ろうと思うたび、あなたは気軽にそうするが、いざ実践となると、飾り立てることに没頭する。これは他人を騙す方法ではないのか。あなたは人間を欺けるかもしれないが、神は決して騙されない。人間はそれに気づかず識別することもできないが、神はこうした事柄に真剣であり、決してあなたを容赦しない。兄弟姉妹はあなたを支持し、あなたの認識を称賛し、あなたに感心するかもしれないが、あなたが現実を自分のものにしていなければ、聖霊はあなたを容赦しない。おそらく、実践の神はあなたの過ちを見つけようとはしないだろうが、神の霊はきっとあなたを無視するし、それはあなたにとって十分耐えがたいことだ。あなたにそれが信じられるか。実践の現実についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。実際の道についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。「高尚な理論や無益な誇張した話を減らし、今すぐ実践を始めるのが一番である」という言葉を、あなたはもう忘れてしまったのか。あなたはまったく理解していないのか。あなたには神の旨に関する理解が一切ないのか。

『神の出現と働き』「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 431

あなたがたはもっと現実的な教訓を学ぶ必要がある。人々が感服するような、大げさで空虚な話は必要ない。認識について語ることについては、各人が次々と上達しているにもかかわらず、皆がいまだに実践の道を得ていない。実践の原則を理解している者は何人いるだろうか。実際に教訓を学んだ者は何人いるだろうか。誰が現実について説教できるのか。神の言葉についての認識を語れることは、本物の霊的背丈を持っていることを意味するわけではなく、ただあなたが生まれつき利口で才能があることを示すだけだ。道を指し示すことができないなら結果は得られず、あなたは役立たずの屑になるのだ。実際の実践の道について何も語れないなら、あなたはただ知ったかぶっているだけではないのか。自分の実際の経験を他者に示し、学べる教訓や辿れる道を与えることができないなら、ただごまかしているだけではないのか。あなたは偽者ではないのか。あなたに何の価値があるというのか。そのような人は「社会主義理論の創始者」の役割しか演じられず、「社会主義実現の貢献者」にはなれないだろう。現実が欠如しているということは、真理を持っていないということだ。現実が欠如しているということは、何の役にも立たないということだ。現実が欠如しているということは、生ける屍だということだ。現実が欠如しているということは、言及に値しない「マルクス・レーニン主義の思想家」だということだ。わたしはあなたがた一人一人が、理論を語るのをやめ、現実の物事や本物で実体のある物事について語るよう求める。少し「現代芸術」を研究し、現実的な話をし、何か実際の貢献をし、献身の精神を持つようにしなさい。語るときには現実と向き合い、非現実的で大袈裟な話に没頭して人を喜ばせたり、注目を浴びるよう努めたりしてはならない。そんなことに何の価値があるのか。人々に暖かく扱ってもらうことに何の意味があるのか。話をするときは少し「芸術的」になり、行動するときはもう少し公正に振る舞い、物事を扱うときはもう少し合理的になり、言うことはもう少し現実的にし、すべての行動において神の家に利益をもたらすことを考え、感情的になったときは自分の良心に耳を傾け、恩を仇で返したり恩知らずになったりしないようにし、偽善的にならないようにしなさい。そうでないと、あなたは悪い影響を及ぼすようになる。神の言葉を飲み食いするときは、それをもっと密接に現実と結びつけ、交わりを持つときはもっと現実的なことを話すようにしなさい。人を見下してはならない。それは神を満足させない。他の人々と交流するときはもう少し忍耐強くなり、もう少し譲歩し、もう少し寛大になって、「宰相の精神[a]」から学びなさい。良くない考えを抱いたときは、もっと肉を捨て去ることを実践しなさい。働くときはもっと現実的な道について語り、高尚になり過ぎないようにしなさい。高尚になり過ぎると、人々はあなたの言うことを成し遂げられなくなる。楽しみを減らし、貢献を増やして、無私な献身の精神を示しなさい。神の意図にもっと配慮し、自分の良心の声にもっと耳を傾け、もっと注意深くなり、神が毎日あなたがたに忍耐強く熱心に語りかけていることを忘れないようにしなさい。「昔の暦」をもっと頻繁に読み、もっと祈りを捧げ、もっと頻繁に交わりを持ちなさい。そんなにぼんやりしていないで、少し理知を示し、少し見識を得なさい。罪の手が伸びたときは、その手を引き戻し、遠くまで伸ばさないようにしなさい。それは何の役にも立たず、神から得るものは呪いだけになるので注意することだ。他人に対しては憐れみの心を持ち、いつも武器を手にして攻撃するのをやめなさい。真理の認識についてもっと交わりを持ち、もっといのちについて語り、他人を助ける精神を持ち続けなさい。行動を増やし、語ることを減らしなさい。もっと実践に力を注ぎ、調査や分析は減らしなさい。もっと聖霊に動かされるようになり、神に完全にされる機会を増やしなさい。人間的要素をもっと排除しなさい。あなたがたはまだあまりに多くの人間的方法で物事を行なっていて、その表面的な行動や態度は他者にとって非常に不快だ。そうしたものをもっと排除しなさい。あなたがたの精神状態はまだあまりにも忌まわしいので、その是正にもっと多くの時間を費やしなさい。あなたがたはまだ人々に多くの地位を与えすぎているので、神にもっと高い地位を与え、そのように不合理であることをやめなさい。「神殿」は常に神のものであり、人間に占領されてはならないのだ。要するに、もっと義を重視し、感情を重視するのはやめなさい。最もよいのは肉を排除することだ。もっと現実を語り、認識を語るのは避けなさい。最もよいのは口を閉ざし、黙していることだ。もっと実践の道について語り、価値のない大袈裟な話は避けなさい。実践は今すぐ始めるのが一番だ。

『神の出現と働き』「もっと現実に集中しなさい」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 宰相の精神:心が広く寛大な者を表す中国の慣用表現。


日々の神の御言葉 抜粋 432

人間に対する神の要求は、それほど高度なものではない。熱心に、かつ真摯に実践していれば、その人には「合格点」が与えられる。実を言うと、真理を認識し、知り、そして理解することのほうが、真理の実践よりも複雑なのだ。まずは自分が認識していること、理解していることを最大限実践しなさい。そのようにすれば、真理に関する真の認識、真の理解へと徐々に到達できる。これが、聖霊が働く手順と手段である。服従することをこのように実践しなければ、あなたは何も成し遂げられない。いつも自分の思い通りに行動して、服従することを実践しなければ、聖霊があなたの中で働くだろうか。聖霊はあなたの望み通りに働くのか。それとも、あなたに欠けているものに応じて、神の言葉を基に働くのか。これがわからなければ、真理現実に入ることはできない。なぜほとんどの人は、多大な労力を費やして神の言葉を読んでいながら、その後にもただ認識を得るだけで、現実の道について何も言うことができないのだろうか。認識を得れば、そのまま真理を得ることになると思っているのか。それは混乱した見方ではないか。あなたは浜辺の砂粒ほどもある、膨大な数の細かな認識を語れるが、そのどれにも現実の道は含まれていない。あなたはその話で人々を欺こうとしているのではないか。ただ空虚な見栄を張っているだけで、その裏付けとなる実質は何もないのではないか。そのような行為はすべて人々に有害だ。理論が高尚で現実性が欠如していればいるほど、人々を現実に導くことができなくなる。理論が高尚であればあるほど、あなたは神に背き反抗するようになる。霊的理論を後生大事にしてはならない。そのようなものは役に立たない。中には、霊的理論を何十年も語り続け、霊的偉人になったものの、結局いまだ真理現実に入れない者もいる。このような者は、神の言葉を実践したことも、経験したこともないので、実践の原則や道がない。真理現実を自ら持たないこうした者たちが、どうして他者を神への信仰の正しい軌道に乗せられるだろうか。彼らはただ人を迷わせることしかできない。それは他者を傷つけ、自分も傷つけているのではないか。あなたは少なくとも、目の前にある現実の問題を解決できるようにならねばならない。つまり、神の言葉を実践して経験し、真理を実践できるようにならなければならないのだ。これだけが神への服従である。いのちに入って初めて、あなたは神のために働く資格を得る。また真摯に自分を神のために費やして初めて、あなたは神に認められる。いつも大言壮語していたり、仰々しい理論を語ったりしてはならない。そのようなことは現実的でない。霊的理論をもったいぶって語り、人々に尊敬されたところで、それは神を証ししているのでなく、むしろ自分を誇示しているのだ。それが人々のためになることは絶対になく、啓発することもない。いともたやすく霊的理論を崇め、真理の実践に専念しないようにしてしまう。これは人を迷わせているのではないか。このようにし続けていれば、人々を縛って罠にかける空虚な理論や規則が多数できてしまう。それは実に腹立たしいことだ。だから、現実のことをもっと話し、実在する問題についてもっと語り、真理を求めて現実の問題を解決することにもっと多くの時間を割きなさい。それが何より大事である。今すぐ真理を実践できるようになりなさい。それが現実へ入る道である。他人の経験や知識を自分の所有物にして、それを掲げて他人の尊敬を勝ち取ってはならない。自分自身のいのちへの入りがなければならないのだ。真理を実践し、神に服従して初めて、いのちの入りを得る。これが、誰もが実践し、専念すべきことである。

あなたの説教が人々に歩むべき道を与えられるなら、あなたは現実を備えていることになる。何を語るにせよ、あなたは人々を実践へと導き、皆が従うことのできる道を与えなければならない。人々が認識を得られるようにするだけでは不十分であり、もっと重要なのは歩むべき道を持つことなのだ。神を信じるには、神が働きによって導く道を歩まねばならない。すなわち神を信じる過程とは、聖霊に導かれる道を歩む過程なのだ。そのためあなたがたは、何としても歩むことのできる道を得なければならず、神に完全にされる道に踏み出さなければならない。あまり後れを取ったり、あまり多くの事柄を心配したりしていてはならない。神に導かれる道を、妨げることなく歩んだ場合のみ、聖霊の働きを受けて入りの道を得ることができる。そしてそれだけが、神の意図に沿っていること、人間の本分を尽くしていることとみなされるのだ。各人がこの流れの中の一人として、自分の本分を適切に尽くし、人がするべきことをより多く行い、自分勝手な行動を慎む必要がある。働きを行う者は言葉を明瞭にしなければならず、付き従う者は苦難に耐えることと従うことにもっと集中しなければならず、皆が自分の場所に留まり、そこから逸脱しないようにする必要があるのだ。それぞれの心の中で、自分がどのように実践すべきか、どんな役割を果たすべきかが明確になっていなければならない。聖霊に導かれる道を歩み、道に迷ったり、道を誤ったりしないようにしなさい。あなたがたは現在の働きを明確に把握しなければならない。実践すべきことは、現在の働き方に入ることだ。それが、あなたがたがまず入らねばならないことなのだ。それ以外のことについて、それ以上無駄な言葉を費やすのはやめなさい。今日神の家の働きを行うことがあなたがたの責任であり、今日の働き方に入ることがあなたがたの本分であり、今日の真理を実践することがあなたがたの重荷なのだ。

『神の出現と働き』「もっと現実に集中しなさい」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 433

神は実際の神である。神の働きはすべて実際的であり、神が語る言葉はすべて実際的であり、神が表す真理はすべて実際的である。神の言葉でないものはどれも空虚で、存在しないも同然であり、確かでない。今日、聖霊は人々を神の言葉に導くことになっている。人々が現実に入ることを追求しようとするならば、現実を求め、現実を知らなくてはならない。そしてその後、現実を経験し、現実を生きなければならない。人々が現実を知れば知るほど、他者の言葉が現実であるかどうかを識別できるようになる。人々が現実を知れば知るほど、ますます観念を持たなくなる。人々が現実を経験すればするほど、ますます神の真実の業を知るようになり、堕落したサタンの性質から自由になるのも容易になる。現実を自分のものにすればするほど、人は神を知るようになり、ますます肉を嫌って真理を愛するようになる。そして、現実を自分のものにすればするほど、人はますます神の求める基準に近づく。神のものとされた人々は、現実を備え、現実を知り、現実を経験することで、神の実際の業を知るようになった人である。実際的な形で神と協力し、自分の身体を抑制すればするほど、あなたはますます聖霊の働きを得るようになり、さらなる現実を獲得し、神によって啓かれる。こうして、神の実際の業に関する認識がますます大きくなる。もしあなたが現在の聖霊の光の中で生きられるなら、実践に至る現在の道はあなたにとってより明確になるだろうし、過去の宗教的観念と古い習慣からますます自分を切り離せるようになるだろう。今日は現実に焦点を当てている。つまり、人々が現実を自分のものにすればするほど、真理に関するその人の認識はますます明確になり、神の旨についてもより理解するようになる。現実はあらゆる字句や教義に優り、あらゆる理論や専門知識に優る。そして人々が現実に焦点を当てれば当てるほど、心から神を愛するようになり、神の言葉に対する飢えと渇きが強くなる。あなたが常に現実に焦点を当てていれば、あなたの処世哲学、宗教的観念、そして生来の個性が、神の働きを受けて自然に消滅してゆく。現実を追求しない人々、現実に関する認識がない人々は、超自然的なものを追い求めがちであり、簡単に騙されてしまう。聖霊はこのような人々において働く術を持たず、ゆえに彼らは虚しさを感じ、自分の人生には何の意味もないと感じる。

聖霊は、あなたが実際に訓練し、実際に探し求め、実際に祈り、真理を探求するために苦しむことをいとわない時にのみ働きを行える。真理を求めない者たちには、字句や教義、空虚な理論しかなく、真理がない者たちは、当然ながら神に関して多数の観念を抱いている。このような者たちは、神が自分たちの肉の体を霊の体に変え、第三の天に昇れるようにしてもらうことだけを切望している。なんたる愚か者であろうか! このようなことを言う者はみな、神や現実に関する認識を一切持ち合わせていない。このような者たちは到底神と協力できず、受動的に待つだけである。人々が真理を理解し、真理を明確に知り、さらには真理に入り、実践に移すには、実際に訓練し、実際に探し求め、実際に飢えと渇きを感じなければならない。あなたが飢えと渇きを感じるとき、そしてあなたが実際に神と協力するとき、神の霊が必ずやあなたを感動させ、あなたの中で働きを行う。それは、あなたにさらなる啓示をもたらし、現実の認識をさらに増やし、あなたのいのちのさらなる助けとなる。

『神の出現と働き』「現実をどのように知るか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 434

もし人々が神を知ろうとするなら、まず神が実際の神であることを認識し、神の言葉を知り、肉における神の実際の出現、および神の実際の働きを知らなければならない。神の働きがすべて実際のものであることを知って初めて、あなたは神と実際に協力することができ、その道を通じてのみ、あなたはいのちにおいて成長できるようになる。現実の認識を持たない人はみな、神の言葉を経験する術を持たず、自分の観念にのみ込まれてしまい、空想の中に生きる。その結果、彼らは神の言葉に関する認識を何も持たない。現実に関するあなたの認識が広ければ広いほど、あなたは神により近くなり、神とさらに親密になる。反対に、あなたが漠然としたもの、抽象的なもの、そして教義を求めれば求めるほど、あなたは神から遠く離れてしまう。その結果、神の言葉を経験することは厳しく困難で、入ることができないとますます感じるようになる。神の言葉の現実に入り、霊的生活の正しい軌道に乗りたいのであれば、まずは現実を知り、自分自身を漠然とした超自然的な物事から切り離さなければならない。つまり、聖霊が実際いかにしてあなたを内側から啓き、そして導くかを、まずは理解しなければならないのである。このように、人の中における聖霊の実際の働きを真に把握することができるならば、あなたは神によって完全にされる正しい道へと入ったことになる。

今日、すべてのことは現実から始まる。神の働きは最も現実的なものであり、人々が触れることのできるものである。それは人々が経験でき、また達成できるものである。人々の中には漠然として超自然的な物事が数多く存在し、神の現在の働きを知ることの妨げとなっている。したがって、人は経験において常に逸脱しており、物事は困難だと常に感じているが、それはすべて人の観念によって引き起こされている。人々は聖霊の働きの原則を把握することができず、現実を知らず、そのため自らの入りの過程において常に消極的である。神の要求を遠くから見るだけで、達成することができない。神の言葉は本当によいものだということがわかるだけで、入る道を見つけられない。聖霊は次の原則によって働く。人々の協調を通して、また人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで、成果が上がり、聖霊による啓きと照らしを受けられる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠であり、人々が協力すればするほど、また神の求める基準に達することを追求すればするほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴って初めて、実際の経験と神の言葉の本質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全なる人が最終的に生み出される。神は超自然的なことを行わない。人による観念の中で、神は全能であり、あらゆることは神によってなされる。その結果、人々は消極的に待ち、神の言葉を読むことも祈ることもせず、聖霊による感動を待つだけである。しかし正しく理解している人々は次のように信じている。「神の業はわたしが協力する範囲にのみ及び、わたしの中における神の働きの効果は、わたしがどう協力するかにかかっている。神が語るとき、わたしは神の言葉を求め、神の言葉に向かって突き進むために、あらゆる努力をしなければならない。これがわたしの成し遂げるべきことだ」。

『神の出現と働き』「現実をどのように知るか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 435

あなたは宗教的慣習をいくつ守っているだろうか。神の言葉に逆らって、自分の道に行ってしまったことが何回あるだろうか。神の重荷を真に考慮し、神の旨が成就されることを求めて、神の言葉を実行したことが何度あるだろうか。神の言葉を理解して、それを実行に移しなさい。すべての行動と行いに原則を持ちなさい。それは規則に従うということではなく、体裁のために何かを渋々するということでもなく、真理を実践し、神の言葉によって生きるということである。そのような実践こそ、神を満足させることができるのだ。神を喜ばせる行為とは、規律を遵守することではなく、真理を実践することである。一部の人々には周りの注意を引こうとする傾向がある。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に恩義があると言うかもしれないが、陰では真理を実践することもなく、まったく違うことを行っている。彼らは宗教熱心なパリサイ人ではないか。神を心から愛し、真理を持っている人というのは、神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことだ。そうした人は必要であれば喜んで真理を実践するし、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。そして問題が起きると賢明さを示し、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ、真に神に仕えることができる。中にはただ口先だけで神に恩義があると言う人もいる。彼らはしかめっ面をし、わざとらしくみじめな表情を装って日々を過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。もし彼らに、「どんな風に神様に恩義があるのか教えてください」と尋ねたら、彼らはきっと言葉を失うだろう。あなたが神に忠実ならば、そのことを大っぴらに話してはいけない。その代わり、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神にただ言葉でおざなりに対応している人たちは、すべて偽善者である。一部の人たちは祈りのたびに神に対する恩義を語り、聖霊に動かされていないにも関わらず、祈るたびに涙を流す。このような人たちは宗教的儀式と観念に捕われており、そうした儀式や観念に従って生きながら、いつもそのような行為を神が喜び、表面上の信心深さや悲しみの涙を神が好むと信じている。そのような馬鹿げた考えを持つ者から、どんな良いことが生まれようか。また一部の人々は、謙虚さを示そうと、他の人の前で話すときは上品に振る舞ったりする。また人前で故意に卑屈になり、無力な子羊のように振る舞う人たちもいる。これが神の国の民にふさわしい態度だろうか。神の国の民とは、生き生きとして自由で、純真で率直で、正直で愛らしく、束縛されない生き方をするものだ。彼らには品性と尊厳があり、どこに行っても神に証しを立てることができる。そのような人は神と人の両者から愛されている。信仰において未熟な人たちは、外的な実践にこだわりすぎる。彼らはまず神に取り扱われ、打ち砕かれる時期を経なければならない。心の奥に信仰を持つ人々は、外見は他者と同じであっても、その行動や行いは称賛に値する。そのような人たちこそ、神の言葉を生きていると言えるのだ。もしあなたが毎日さまざまな人々に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導こうと努めているとしても、結局のところ規則や教義に従って生きているなら、神に栄光をもたらすことはできない。そのような人たちは単なる宗教家であり、同時に偽善者なのである。宗教熱心な人々の集まりではいつも、「姉妹よ、最近はどうされていましたか?」、「わたしは神様に恩義があるのに、神様の旨を満たせないような気がするんです」などというやり取りがあったりする。また別の人も、「わたしも神様に恩義があるのに、神様を満足はさせられない気がするんです」などと言ったりする。こうしたわずかな言葉だけでも、彼らの心の奥深くにある卑劣さが見て取れる。そのような言葉は実に忌まわしく、極めて不快なものだ。こうした人たちの本性は神に敵対している。現実に焦点を合わせている人は、心にあることをそのまま言葉にし、交わりの中で自分の心をさらけ出す。偽りの行いはひとつもせず、形式的な礼儀にもこだわらず、空虚な社交辞令も言わない。いつも単刀直入で、現世の規則に縛られることもない。また一部の人々は、見せびらかすことにこだわる傾向があり、挙句の果てにまったく分別を失っているほどだ。他の人が歌うと踊り始め、鍋の米が焦げていることにも気が付かない。そのような人たちは敬虔ではなく、尊敬にも値せず、あまりにも軽率だ。こうしたことはすべて現実の欠如の顕れである。一部の人々は霊的いのちについて交わりを持つとき、神に恩義があるなどと言いはしなくても、心の奥に神への真の愛を秘めている。神に恩義があるというあなたの感情は、他の人々とは無関係だ。なぜならあなたは人ではなく神に恩義があるのだから。それを絶えず人に話したところでどうなるのか。外見上の熱心さや見せかけではなく、現実に入ることに重点を置きなさい。人のうわべだけの良い行いは何を表すだろうか。それは肉を表しており、外面上最善の実践をしたところで、それはいのちではなくただあなた個人の性質を表すだけだ。人の外面的な実践では、神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に恩義があると言っているが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するよう誰かを導いたりすることもできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしていることが神の旨にかなっており、霊的なことだと感じているが、実際にはすべてが実にばかげている。あなたは自分が嬉しいと思うことや自分がしたいと思うことが、まさに神も喜ぶことだと信じている。あなたの好みが神の好みを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるだろうか。あなたが喜ぶものはまさしく神が嫌悪するものであり、あなたの習慣は神が忌み嫌い拒絶するものだ。もし神に恩義を感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引いてばかりいるなら、神の旨を成就することなどできるだろうか。あなたの行動が常に見せかけだけなら、それはあなたが極度にうぬぼれの強い人間だということだ。表面上良い行いをするだけで現実性に欠ける人間とは、どんな種類の人間か。それは偽善者のパリサイ人であり、単なる宗教家でしかない。あなたがたが見せかけの実践をやめず、変わることができないなら、あなたがたの中にある偽善的要素はさらに増大するだろう。偽善的要素が大きければ大きいほど、神への抵抗が強くなる。そして最終的に、そのような人々は必ず淘汰されることになるのだ。

『神の出現と働き』「信仰においては現実に集中せよ――宗教的儀式を行うことは信仰ではない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 436

正常な人間らしさを取り戻すには、つまり正常な人間性を獲得するには、ただ言葉で神の歓心を買うだけではいけない。そのようにしても自分自身を害するだけで、自分の入りや変化に役立つことはない。したがって変化を達成するには、少しずつ実践しなければならない。時間をかけて入り、少しずつ追求と探求を行ない、肯定的な面から入り、真理の実践的生活、すなわち聖徒の生活を送らねばならないのだ。それ以降は現実の物事、現実の出来事、そして現実の環境によって、実践的な訓練を受けることができる。お世辞を並べる必要はなく、代わりに現実の環境で訓練することが必要なのだ。人々はまず自分の素質が乏しいことを自覚するようになり、それから神の言葉を正常に飲み食いし、正常に入って実践する。そうすることでのみ現実を得られるのであり、そしてそれが入りを一層早く生じさせる方法でもある。人々を変化させるには何らかの実践性がなければならず、人は現実の物事、出来事、環境で実践する必要がある。教会生活に頼るだけで、真の訓練を成し遂げられるだろうか。それで現実に入れるだろうか。そんなことは不可能だ。実生活へと入れないなら、旧来の生活様式や物事のやり方を変化させることはできない。このことは人間の怠惰や強い依存だけが原因となっているのではなく、むしろ人間に生活能力がまったくないこと、そしてさらに、神が求める正常な人間らしさの基準をまったく理解していないことが理由なのだ。かつて人々はいつも話し、語り、交流していて、しまいに「演説家」になる者さえいたが、誰一人いのちの性質の変化を求める者はおらず、ただ無闇に深遠な理論を追求していた。そのため今日の人々は、生活における宗教的な信仰様式を変化させる必要がある。一つの出来事、一つの物事、一人の人に集中して、実践に入らなければならない。それは集中して行なう必要があり、そうして初めて成果を挙げることができる。人々の変容は、まずその人の本質の変化から始まる。働きは人間の本質、生活、そして怠惰、依存、卑屈さに対して行なわれなければならず、そうすることでのみ、人間を変容させることができる。

教会生活は一部の分野で成果を挙げることができるものの、重要なのはやはり実生活が人々を変化させられるということである。実生活なくして、人の古い本性を変化させることはできない。ここで例として、恵みの時代におけるイエスの働きを見てみよう。イエスはそれまでの律法を廃して新たな時代の戒めを定めたとき、実生活の実例を用いて話をした。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を歩いたとき、弟子たちは空腹になり、穂を摘んで食べた。パリサイ人たちはそれを見て、イエスと弟子たちは安息日を守っていないと言った。そしてまた、安息日に穴へ落ちた牛を救うことは許されない、安息日には何の仕事もしてはならないから、とも言った。イエスはこのような出来事を引用して、徐々に新たな時代の戒めを広めていった。当時、イエスは多くの実践的な問題を用いて人々の理解と変化を促した。これが、聖霊が働きを行なう際の原則であり、人間を変化させられる唯一の方法である。実践的な問題がなければ、人々は理論的かつ知的な理解しか得ることができず、それは効果的な変化の方法ではない。ではどうすれば、訓練を通じて知恵と見識を得ることができるだろうか。人間は話を聞いたり本を読んだり認識を高めたりするだけで、知恵や見識を得られるのだろうか。それはなぜだろうか。人間は実生活において理解し、経験しなければならない。ゆえに訓練が必要であり、実生活から離れてはならない。人は教育水準、表現力、物事の理解力、識別力、神の言葉を理解する能力、人間性の常識と規則、そしてその他の身につけるべき人間性に関連する物事など、様々な側面に注意を払い、それらに入らなければならない。理解を得ることができたら、その後は入りに集中する必要があり、そうして初めて変化を成し遂げることが可能になる。理解を得ても実践を怠れば、どうして変化を生じさせることができようか。現在、人々は多くを理解しているが、現実を生きていないため、神の言葉の本質的な理解をほとんど得ていない。あなたはかろうじて啓かれているに過ぎず、聖霊の照らしをいくらか受けてはいるが、実生活にまったく入っていないか、あるいはそれを気にも留めていないため、変化が弱められている。人々は長い年月を経て多くを理解してきた。そして理論に関する認識については多くを語ることができるものの、外面的な性質は変わらぬままであり、元来の素質も当初のままで、少しも高まることがない。このような状態で、あなたはいつになったらようやく入るのだろうか。

『神の出現と働き』「教会生活と実生活についての議論」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 437

教会生活は人々が集って神の言葉を味わう生活でしかなく、人の生活のごくわずかな部分を占めるに過ぎない。もし人々の実生活も教会生活と同様で、正常な霊的生活を送り、神の言葉を正常に味わい、正常に神に祈って神へと近づき、万事が神の旨に沿って行なわれる実生活を生き、万事が真理に沿って行なわれる実生活を生き、神の前で祈って心を鎮めることを実践し、讃美歌を歌って踊ることを実践する実生活を生きているなら、そのような生活だけが、人を神の言葉の生活へと導くことになるだろう。ほとんどの人は、自分の教会生活の数時間だけに重点を置き、その時間以外の生活については「気にする」こともなく、何の関心もないかのようだ。また神の言葉を飲み食いするとき、讃美歌を歌うとき、あるいは祈るときだけ聖徒の生活に入り、それ以外のときは従来の自分に戻る人も大勢いる。そのような生活が人々を変えることはできず、ましてや神を知らしめることなどできない。神を信仰する中で自らの性質の変化を望むなら、自分を実生活から切り離してはならない。実生活においては、自分を知り、自分を捨て、真理を実践することを知るだけでなく、万事における自己管理の原則、常識、および規則を学ばなければならず、そうして初めて徐々に変化を遂げられるようになる。理論的な認識だけに重点を置き、現実に深く入り込むことも実生活に入ることもなく、宗教的儀式の中だけで生活しているなら、あなたは決して現実に入ることがなく、自分自身や真理や神を知ることもなく、永遠に盲目で無知なままとなるだろう。人々を救うという神の働きの目的は、彼らが短期間のうちに正常な人間生活を送れるようにすることでも、彼らの誤った観念や教義を変えることでもない。神の目的は人々の旧来の性質を変え、古い生き方のすべてを変え、時代遅れな考え方と精神的態度のすべてを変えることなのだ。教会生活だけに重点を置いても、人々の旧来の生活習慣や長年送ってきた生活のあり方が変わることはない。何があろうと、実生活から離れてはならない。神が人々に求めているのは、教会生活だけでなく実生活で正常な人間性を生きること、教会生活だけでなく実生活で真理を生きること、そして教会生活だけでなく実生活で自分の役割を果たすことなのだ。現実に入るには、すべてを実生活に向けなければならない。神を信じていても、実生活への入りを通じて自分を知ることができず、実生活で正常な人間性を生きることができなければ、その人は落伍者となるだろう。神に従わない者はみな、実生活に入れない者たちである。そうした者はみな人間性について語りつつ、悪魔の本性を生きる者である。彼らはみな真理について語りつつ、教義を生きる者である。実生活で真理を生きられない者は、神を信じてはいるが、神に嫌悪され拒絶される者である。あなたは実生活で入りを実践し、自分の欠点と反抗心と無知を知り、自分の異常な人間性と弱さを知らねばならない。そうすることで、あなたの認識が自分の実際の状況や困難に組み入れられる。そのような認識だけが本物であり、それによってあなたは自分の状態を真に把握し、性質の変化を成し遂げることができるのだ。

今や人の完全化が正式に開始されたため、あなたは実生活に入らなければならない。ゆえに、変化を実現するには、まず実生活への入りから始めて、少しずつ変化していく必要がある。正常な人間生活を避けて霊的な問題ばかり語っていると、物事は退屈かつ単調になり、非現実的なものとなる。そうなれば人々はいかにして変化できようか。今あなたは、真の経験に入るための基盤を築くべく、実生活に入って実践するよう言われている。これは人が行なわねばならないことの一側面である。聖霊の働きは主に導くことであり、それ以外は人の実践と入りにかかっている。誰もがそれぞれ別の道を通って実生活に入ることができ、神を実生活に持ち込み、真の正常な人間性を生きることができる。それこそが唯一の有意義な人生なのだ。

『神の出現と働き』「教会生活と実生活についての議論」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 438

従来、聖霊の臨在を得ることと聖霊の働きを得ることは別だと言われていた。聖霊の臨在を得ている場合の正常な状態は、正常な考え、正常な理知、そして正常な人間性を有していることに表われる。その人の性格は従来のままだが、心には平安があり、外面的には聖徒の礼節を備えるようになる。それが、聖霊が共にあるときの人の状態である。聖霊の臨在を得ているとき、人の考え方は正常であり、空腹になれば食べたいと思い、喉が渇けば水を飲みたいと思う。……そのような普通の人間性の表われは聖霊の啓きではなく、人間の正常な考え方であり、聖霊の臨在を得ているときの正常な状態である。中には、聖霊の臨在を得た者は空腹を覚えず、疲労を感じず、家族のことも一切考えず、ほぼ完全に肉と離別しているように見える、と勘違いしている人もいる。実際は聖霊が人と共にあればあるほど、その人はより正常になる。そうした人は神のために苦しんで物事を手放し、神のために自らを費やし、神に忠実になるということを知っており、さらに衣食についても考慮している。言い換えれば、そうした人は人が備えるべき正常な人間性を一切失っておらず、代わりに特別な理知を備えているのだ。彼らは時折、神の言葉を読んだり、神の働きについて深く考えたりし、心の中には信仰があり、進んで真理を追い求める。当然ながら、聖霊の働きはこうした基盤の上に立脚している。正常な思考がなければ、その人には理知がなく、それは正常な状態ではない。正常な思考をもち、聖霊がその人と共にあれば、その人は間違いなく正常な人間の理知を有しており、ゆえに正常な状態にある。神の働きを経験する中で、聖霊の働きを得ることは時折あるが、一方で聖霊の臨在はほぼ常にそこにある。人の理知と思考が正常である限り、そしてその人の状態が正常である限り、聖霊は間違いなく彼らと共にいる。理知と思考が正常でなければ、その人の人間性も正常ではない。もしも今、聖霊の働きがあなたの中にあれば、聖霊も間違いなくあなたと共にある。しかし聖霊があなたと共にあるからといって、必ずしも聖霊があなたの中で働きを行なっているとは限らない。なぜなら聖霊は特別な時に働きを行なうからである。聖霊の臨在を得たとしても、人々は正常な生活を維持できるだけであり、聖霊は特定の時にしか働きを行なわない。たとえばあなたが指導者または働き手であるなら、教会のために水と滋養を施しているとき、聖霊があなたを啓いて特定の言葉を与え、その言葉が他の人たちを啓発し、兄弟姉妹の実際的な問題のいくつかを解決できることがある。そのようなとき、聖霊は働きを行なっている。場合によってはあなたが神の言葉を飲み食いしているとき、聖霊があなた自身の経験にとりわけ関連する特定の言葉であなたを啓き、それによって自分の状態をよりよく認識できるようにしてくれることもある。それもまた聖霊の働きである。あなたがたは時折、わたしの話を聞いてその言葉を自分の状態と比較したり、感動したり奮い立ったりすることもあるが、それもすべて聖霊の働きである。中には聖霊が常に自分の中で働きを行なっていると言う者もいるが、それはあり得ない。聖霊が常に自分と共にあると言うのなら、それは現実的だろう。自分の思考や理知は常に正常だと言うのなら、それもまた現実的であり、聖霊がその者と共にあることを示すだろう。しかし、聖霊は常に自分の中で働きを行なっており、自分はどの瞬間にも神により啓かれ、聖霊によって感動し、常に新たな認識を得ていると言うのなら、それは決して正常ではなく、極めて超自然的なことである。そうした人々は、疑いの余地なく悪霊である! 神の霊が受肉した時でさえ、時には休息し、食事もする必要があるのだから、人間については言うまでもない。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さがないように見える。そうした者はあらゆる物事を断念して捨て去ることが可能で、感情をもたず、苦しみに耐えることができ、肉体を超越しているかのようにまったく疲労を感じない。これは極めて超自然的なことではないか。悪霊の働きは超自然的であり、人間にそのようなことはできない。判断力のない者たちは、そうした人を見ると羨ましがり、神に対する彼らの信仰は極めて強く優れていて、彼らにはひとかけらの弱点も見えないと言う。実のところ、それはすべて悪霊の働きの表われなのだ。なぜなら正常な人間には必然的に人間の弱さというものがあり、それが聖霊の臨在を得ている者の正常な状態だからである。

『神の出現と働き』「実践(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 439

揺るぎなく証しするということは何を意味するのか。中には今のように付き従っていくだけで、いのちを得られるかどうかは考えていないと言う者もいる。彼らはいのちを追い求めていないが、後戻りすることもなく、この段階の働きが神によって行なわれていることだけを認めている。これは証しに失敗したということではないだろうか。こうした人々は征服されたことすら証ししない。征服された者は、他人がどうするかとは無関係に付き従い、いのちを追求することができる。そうした人は実際の神を信じているだけでなく、神による采配のすべてに従うことも知っている。それが証しをする人というものだ。証しをしない者はまったくいのちを追求したことがなく、いまだでたらめに付き従っている。あなたは付き従っているかもしれないが、それは征服されたことを意味しない。神の現在の働きについて何も理解していないからである。征服されるには一定の条件を満たす必要があり、付き従うすべての者が征服されるわけではない。なぜならあなたは心の中で、なぜ現在の神に付き従わねばならないのかをまったく理解しておらず、また自分が現在までどのようにやってきたのか、現在まで自分を支えてきたのは誰なのかも知らないからだ。中には神への信仰の実践において、常にでたらめで混乱している人がいる。ゆえに、付き従うことは必ずしも証しができるという意味ではない。真の証しとはいったい何か。ここで言う証しには二つの部分があり、一つは征服されたことの証しで、もう一つは完全にされたことの証し(それは必然的に、将来のより大きな試練と苦難の後に行なわれる証しとなる)である。つまり苦難や試練の時に揺るぎなく立つことができれば、それで第二段階の証しをしたことになるのだ。現在重要なのは証しの第一段階であり、すなわち刑罰と裁きの試練の一つひとつにおいて揺るぎなく立てるということだ。それが、征服されたことの証しである。なぜなら今は征服の時だからだ(今は神の地上における働きの時であることを知らねばならない。受肉した神の地上におけるおもな働きは、裁きと刑罰を通じて、神に付き従う地上のこの集団を征服することなのだ)。征服されたことを証しできるかどうかは、あなたが最後まで付き従えるかどうかだけでなく、より重要な条件として、神の働きの各段階を経験する中で神の刑罰と裁きを真に理解できるかどうか、そしてこの働きのすべてを真に把握しているかどうかにかかっている。ただ最後まで付き従えば、すり抜けてしまえるというわけではない。あらゆる刑罰と裁きに自ら進んで身を委ね、経験した働きの各段階を真に理解し、神の性質に関する認識を得て、それに服従することができなければならないのだ。それが征服されたことの究極の証しであり、あなたに要求されていることである。征服されたことの証しというのは、おもに神の受肉に関する認識を意味する。重要なのは、証しのこの段階は神の受肉に対するものだということである。あなたがこの世の人々や権力者の前で何をするか、何を言うかは問題ではない。何よりも問題なのは、神の口から出た言葉と神の働きのすべてに従うことができるかどうかである。したがって証しのこの段階は、サタンと神の敵すべてを対象としている。つまり、神が二度目の受肉を行なって一層偉大な働きを行なうために到来することを信じず、さらに神の再受肉という事実を信じない、すべての悪魔と敵たちのことである。言い換えれば、それはすべての反キリスト、すなわち神の受肉を信じないすべての敵を対象としているのだ。

神を思い待ち望んでいるということが、神に征服されたことの証明にはならない。征服されたかどうかは、神が肉となった言葉であることを信じるかどうか、言葉が受肉したことを信じるかどうか、そして霊が言葉となり、言葉が肉において現われたことを信じるかどうかによって決まる。これが鍵となる証しである。どのように付き従うか、どのように自分を費やすかは問題ではない。不可欠なのは、言葉が受肉したこと、真理の御霊が肉において具現化したこと、すなわちすべての真理と道といのちが肉において到来し、神の霊が真に地上に現われ、霊が肉において到来したことを、この普通の人間性から見出せるかどうかである。表面的に見れば、それは聖霊による受胎とは異なるように思われるが、この働きから、霊がすでに肉において具現化したこと、さらに言葉が受肉し、言葉が肉において現われたことをより明確に見てとれる。ここから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言葉の真意を理解できる。さらにあなたは、今日の言葉が神であることを理解し、言葉が受肉するのを目の当たりにしなければならない。それがあなたになし得る最高の証しである。それは受肉した神についてあなたが真の認識を有していることの証明であり、あなたは神を知ることができるだけでなく、今日自分が歩んでいる道がいのちの道であり、真理の道であることを認識しているのだ。イエスが行なった働きの段階は、「言は神と共にあった」という言葉の実質を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である。この段階の働きはまさに「言葉が受肉した」という表現の内なる意味を実現し、「言は神と共にあった。言は神であった」という表現に一層深い意味を添えたのであり、「初めに言があった」という言葉を堅く信じさせるものである。つまり、神は創造の時に言葉をもっており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分だった。そして最後の時代、神は自身の言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにする。すなわち、神のすべての言葉を聞けるようにするのだ。それが最後の時代の働きである。あなたはこうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知るという問題ではなく、肉と言葉をいかに理解するかという問題なのだ。これがあなたの行なわねばならない証しであり、すべての人が知らなければいけないことである。それは二度目の受肉の働きであり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、神の肉におけるすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ。それゆえ、あなたは受肉の意味を理解しなくてはならない。問題はあなたがどのくらい奔走するか、他の外的な物事をどのくらいうまく行なうかではなく、受肉した神に真に服従して自分の存在のすべてを神に捧げ、神の口から発せられる言葉のすべてに従うことができるかどうかである。これがあなたのすべきことであり、守るべきことなのだ。

証しの最終段階は、あなたが完全にされることができるかどうかの証しである。つまり、受肉した神が語った言葉をすべて理解したうえで、神に関する認識を備えて神について確信をもち、神が語ったすべての言葉を生き、神が要求する条件を満たすことだ。その条件とはペテロの生き方とヨブの信仰を身につけることであり、死に至るまで神に従い、自分のすべてを神に捧げ、最終的には基準を満たす人間像、つまり神の刑罰と裁きを経験した後、征服され完全にされた者の人間像に到達するということなのだ。これが最終的な証しであり、最終的に完全にされた人間が行なうべき証しである。これらはあなたが行なうべき証しの二つの段階であり、この二つの段階は相互に関連していて、いずれも不可欠なものだ。しかし知っておかなければならないことが一つある。それは、現在わたしがあなたに要求している証しは、この世の人々や特定の個人に向けられるのではなく、わたしがあなたに求めるものに向けられるということだ。それはあなたがわたしを満足させられるかどうか、わたしがあなたがた各人に要求する基準を完全に満たせるかどうかによって測られる。このことを、あなたがたは理解しなければならない。

『神の出現と働き』「実践(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 440

多少の制約や苦難を受けることは、あなたがたのためになるのだ。気楽な生活を与えられるとあなたがたはだめになる。それでどうやって、守られることができようか。今日あなたがたは、刑罰を受け、裁かれ、呪われているからこそ、守られている。あなたがたは多くの苦難を受けてきたからこそ守られているのだ。そうでなければ、とっくの昔に堕落していただろう。わたしはわざと物事を難しくしようとしているのではなく、人間の本性は変え難いものなので、人間の性質を変化させるため、こうしなければならないのだ。現在あなたがたにはパウロのような良心や理知すらなく、彼のような自己認識さえ持っていない。あなたがたは霊を目覚めさせるために、常に圧力をかけられ、常に刑罰と裁きを受けなければならないのだ。刑罰と裁きはあなたがたのいのちにとって最良のものだ。そして必要に応じて、事実の到来による刑罰も受けなければならず、そうして初めてあなたがたは完全に従えるようになる。あなたがたはその本性からして、刑罰と呪いがなければ、頭を下げることも従うことも望まない。事実を突きつけられない限り効果はない。あなたがたの人格はあまりに卑しく無価値なのだ。刑罰と裁きがなければ、あなたがたが征服されることは難しく、その不義と不従順を克服することも困難だろう。あなたがたには古い本性が極めて深く根付いている。もしあなたがたが王座に就いたなら、宇宙における自分の居場所がわからず、ましてや自分がどこへ向かっているかなど見当もつかないだろう。自分がどこから来たかさえわからないのに、どうして創造主を知ることができようか。現在の時宜を得た刑罰と呪いがなければ、あなたがたの終わりの日はとっくの昔に訪れていただろう。そしてあなたがたの運命については言うまでもなく、一層危機に瀕するのではないだろうか。この時宜を得た刑罰と裁きがなければ、あなたがたは一体どれほど傲慢になり、堕落するだろうか。この刑罰と裁きがあなたがたを今日へと導き、その生活を維持してきたのだ。もしあなたがたが自分の「父」と同じ方法で「教育」されていたなら、一体どんな領域に入ることになるだろうか。あなたがたには自らを制し、反省する能力がまったくない。このような人々は、ただ干渉も妨害もせずに従い服従しさえすれば、それでわたしの目的は達成される。あなたがたは今日の刑罰と裁きをもっとしっかり受け入れるべきではないか。その他にどのような選択肢があるのか。

『神の出現と働き』「実践(6)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 441

いのちのために備えるときは、神の言葉を飲み食いすることに集中しなければならず、神についての認識と人生に関する自分の見識、そして特に神が終わりの日に行う働きについて知っていることを話すことができなければならない。あなたはいのちを追求しているのだから、こうしたものを身につけなければならないのである。神の言葉を飲み食いするときは、自分自身の状態の現実を言葉に照らして判断しなければならない。つまり、実体験を通して自分の欠点に気づいたときは、実践の道を見つけ出し、自分の誤った動機や観念に背を向けることができなければならない。常にそうしたことを目指して努力し、それを達成することに精魂を傾けていれば、辿るべき道を得て、虚しさを感じなくなり、それによって正常な状態を保てるようになる。そのとき初めて、あなたは自分のいのちに重荷を抱えた、信仰を持つ人となる。なぜ神の言葉を読んでもそれを実践に移せない人がいるのか。それは、もっとも重大なことを把握できないからではないのか。いのちを真剣に考えていないからではないのか。重大なことを把握できず、実践の道を得られないのは、神の言葉を読んでもそれと自分自身の状態を結びつけることができず、また自分の状態を掌握できないからである。中にはこのように言う人もいる。「神の言葉を読んで、自分の状態をそれと結びつけている。自分が堕落していて素質が低いこともわかっている。けれど神の旨を満たすことができない」。あなたは非常に表面的なことしか見ていない。しかし、あなたの知らない現実的なことがたくさんある。たとえば肉の楽しみを捨て去る方法、独善を捨て去る方法、自分を変える方法、こうしたことに入る方法、自分の素質を高める方法、どの面から始めるべきかといったことである。あなたは数少ないことを表面的に把握しているだけで、ただ自分が本当に堕落しているということしか知らない。兄弟姉妹に会えば、自分がどれほど堕落しているかを語り、自分自身を知り、いのちの大きな重荷を負っているように見えはする。しかし実際には、その堕落した性質は変わっておらず、それはあなたが実践の道を見出していないことを証明している。もしあなたが教会を率いているなら、兄弟姉妹の状態を把握し、それを指摘することができなければならない。ただ単に、「あなたがたは不従順で遅れている」と言えばよいものだろうか。いや、兄弟姉妹の不従順と遅滞がどのように現れているのかを具体的に語らねばならない。彼らの不従順な状態、不従順な態度、サタン的な性質について語り、その場合には、あなたの言葉にある真理を彼らが完全に確信するように語らねばならない。事実や例を上げて説明し、どうすれば反抗的な振る舞いから脱却できるのかを具体的に語り、実践の道を指し示しなさい。これが人を納得させるやり方というものである。そのようにする人だけが、他の人たちを導くことができ、真理現実を備えているのである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 442

神の証しをするということは、おもに神の働きについて自分が認識していること、神がどのように人を征服するか、どのように人を救うか、どのように人を変えるかを語ることである。それは神がどのように人を導いて真理現実に入らせ、どのように人を神に征服され、完全にされ、救われるようにするのかを語ることである。証しをするということは、神の働きと自分が経験したすべてについて語るということである。神の働きのみが神を表現することができ、神の働きのみが神を公に、その全体において明らかにすることができる。神の働きは神への証しを立てる。神の働きと発言は霊を直接表現する。神の働きは霊に行われ、神の言葉は霊に語られる。こうしたことはただ受肉した神の肉を通して表されるが、実際にはそれは霊の表現である。神が行うすべての働きと神が語るすべての言葉は、神の本質を表している。もしも神が肉をまとって人のもとに来た後、語りも働きもせず、ただあなたがたに神の現実性、正常性、全能性を知るよう求めたなら、そんなことができるだろうか。それで霊の実質とは何かを知ることができるだろうか。神の肉の属性とは何かを知ることができるだろうか。神があなたがたに神への証しをするように求めるのは、ただあなたがたが神の働きの各段階を経験しているからである。そのような経験がなかったなら、神はあなたがたに証しをするよう要求はしないであろう。そのため神の証しをするときは、神の普通の人間性の外見について証しするだけでなく、神が行う働きと神が導く道についても証しをすることになる。そして自分がどのように神に征服され、どのような側面で完全にされたかを証しする。このような証しを行うべきである。もしあなたが行く先々で、「わたしたちの神が働きにやって来た。神の働きは本当に実践的だ。神は超自然的な行いなしに、何の奇跡も不思議もなしに、わたしたちを得た」と叫んだなら、人々は、「神が奇跡も不思議も行わないとはどういう意味なのか。奇跡も不思議も見せずに、どうしてあなたを征服できたのか」と尋ねるであろう。そこであなたは、「神は語り、そして何の不思議も奇跡も見せることなく、わたしたちを征服した。神の働きがわたしたちを征服した」と答える。最終的には、何も実質的なことを言えず、何も具体的なことを語れないなら、それが真の証しなのか。受肉した神が人を征服するとき、それを行うのは神の神性の言葉である。それは人間性には成し遂げられない。死すべき人間には達成できないことであり、普通の人の中の最高の素質を備えた人にさえ不可能である。神の神性はあらゆる被造物を超えるからである。これは人にとっては並外れたことであり、創造主は結局のところ、あらゆる被造物を超える。被造物が創造主を超えることはできない。あなたが神を超えているなら、神はあなたを征服できない。神があなたを征服できるのは、ただ神があなたを超えているからである。全人類を征服できるのが創造主であり、この働きを行えるものは神をおいて他にない。こうした言葉が「証し」であり、このような証しを行うべきである。あなたは刑罰、裁き、精錬、試練、逆境、苦難を一つずつ経験し、征服された。あなたは肉の将来の展望や個人的な動機、肉の個人的な利益を捨て去った。言い換えれば、神の言葉はあなたの心を完全に征服した。あなたはいのちにおいて神が要求するほどには成長してはいないが、こうしたことをすべて知り、神の行いによって完全な確信を得ている。そのためこれを証し、実際的かつ真の証しと呼ぶことができる。神が行うために来た働き、すなわち裁きと刑罰の働きは、人を征服するためのものだが、同時に神は働きを完結させ、時代を終わらせ、完結の働きを行なっている。神は時代全体を終わらせて、全人類を救い、人類を罪から永遠に解放しようとしている。そして自らが創造した人類を完全に得ようとしている。あなたはこのすべてを証ししなければならない。あなたはこれほど多くの神の働きを経験し、それを自分の目で見て、直接体験した。最後の最後に到達したとき、自らに課せられた役割を果たせないようであってはいけない。そうであればなんと残念なことか。将来福音が広められるとき、あなたは自分の認識を語り、心の中で得たことすべてを証しできなければならず、努力を惜しんではならない。これは被造物として成し遂げなければならないことである。神の働きのこの段階の実際の意義は何か。その成果は何か。そしてそのうちのどれだけが人において行われるのか。人は何をするべきか。受肉した神が地上にやって来てから行なったすべての働きについてはっきりと語れるなら、証しは完全である。神の働きの意義、その内容、その実質、それが表す性質、その原理という五項目について明確に語れるなら、それは神を証しできることと、真に認識を得ていることの証明である。あなたがたへのわたしの要求はさほど大きいものではなく、真の探求を行なっている者なら誰でも達成できる。神の証人となることを決意しているなら、神が何を嫌悪し、何を愛しているかを理解していなければならない。あなたは神の働きを多く経験してきた。その働きを通して、神の性質を知り、神の旨と人類への神の要求を理解し、その知識をもって神を証しし、自分の本分を尽くさねばならない。あなたはただこのように言うかもしれない。「わたしたちは神を知っている。神の裁きと刑罰はとても厳しい。その言葉は非常に厳格で、正しく威厳があり、人には犯すことができない」。しかしこうした言葉は、究極的に人を養うのか。それは人に対してどのような効果を持つのか。あなたはこの裁きと刑罰の働きが、自分にとってもっとも有益であることを本当に知っているのか。神の裁きと刑罰は、あなたの反逆性と堕落を明らかにしているのではないのか。そしてあなたの中にある汚らわしく堕落したものを清め駆逐してくれるのではないのか。裁きと刑罰がなかったなら、あなたは一体どうなるだろうか。あなたは実際にサタンが自分を奥深くまで完全に堕落させたという事実を認識しているのか。今日、あなたがたはこうしたことを身につけ、よく知っておかなければならないのである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 443

あなたがたは自分が今身に付けるべきことを知っているのか。その一面は働きについてのビジョンに関わっており、もう一つの面が実践だ。あなたがたはこの両方の側面を把握する必要がある。いのちの進歩を追求する際にビジョンを持っていなければ、あなたには基盤がないことになる。ただ実践の道だけを身に付けても、ビジョンが皆無で、全体的な経営(救いの)計画の働きを何も理解していなかったら、あなたは何の役にも立たない。ビジョンに関する真理を理解しなければならず、実践に関連する真理については、理解した後に適切な実践の道を見いだす必要がある。言葉に従って実践し、自分の状況に従って入らなければならないのだ。ビジョンは基盤であり、その事実に留意しないなら最後まで付き従うことはできないだろう。経験をそのようなやり方で得ているなら、道に迷うか、躓いて失敗することになるだろう。成功できる可能性はない。大いなるビジョンを基盤として身に付けていない者には失敗しかなく、成功することはできない。あなたは揺るぎなく立つことができないのだ。神を信じるとはどういうことかを知っているのか。神に付き従うとはどういうことかを知っているのか。ビジョンなくして、どのような道を歩もうというのか。現在の働きにおいては、ビジョンを持っていないなら完全にされることはあり得ない。あなたは誰を信じているのか。なぜ神を信じているのか。なぜ神に付き従っているのか。自分の信仰を、一種のゲームのようなものだと思っているのか。自分の命を何かの玩具のように扱っているのか。今日の神は最も偉大なビジョンである。あなたはその神についてどの程度知っているのか。その神をどの程度見たことがあるのか。今日の神を見たことで、信仰の基盤は確かなものになっているのか。そのように、混乱しながらでも付き従っている限り、救いを得られると思っているのか。泥水の中で魚を捕まえることができると思うのか。それはそんなに簡単なことか。今日神が発している言葉について、あなたはいくつの観念を捨て去ったのか。あなたは今日の神のビジョンを持っているのか。今日の神に関するあなたの理解はどこにあるのか。あなたはいつも、ただ神に付き従っていれば、あるいはただ神を見さえすれば、神を[a]得ることができ、誰も自分を排除はできないと考えている。しかし、神に付き従うことがそれほど容易だと考えてはいけない。重要なのは神を知り、神の働きを知るということであり、神のために苦難に耐え、自らの命を捧げ、神に完全にされる意志を持たねばならないのだ。これが、あなたが備えねばならないビジョンである。いつも恵みを得ることばかり考えていても何にもならない。神がただ人間を楽しませ、人間に恵みを与えるためにいると考えてはならない。それは間違いなのだ。自らの命を賭けて神に従い、この世で所有するものすべてを捨てて付き従うことができないなら、その者は絶対に最後まで付き従うことはできない。ビジョンを自分の基盤とする必要があるのだ。いつかその身に不幸が降りかかったら、あなたはどうするべきか。それでも神に付き従うことができるだろうか。最後まで付き従えるかどうかを、軽い気持ちで答えてはならない。まず目を見開いて、今がいつなのか見てみなさい。今あなたがたは神殿の柱のようであるかもしれないが、そのような柱がみな虫に食われて神殿が倒れる時が来る。なぜなら現在、あなたがたには非常に多くのビジョンが欠けているからだ。あなたがたは自分の小さな世界だけに気を配っていて、最も信頼性が高く適切な探求の方法とは何かを知らない。そして現在の働きのビジョンに注意しておらず、それを心に留めてもいない。あなたがたは自分の神が、いつか自分を最も見知らぬ地へ送るということを考えたことがあるだろうか。わたしがいつかあなたがたのすべてを奪い去ったら、自分がどうなるかを想像できるだろうか。その日、あなたがたの活力は今と同じだろうか。あなたがたの信仰は再び現れるだろうか。神に付き従う上で、あなたがたはこの「神」という最大のビジョンを知らねばならない。それが最重要事項なのだ。また、この世の人間たちと縁を切って聖別されることで、自分が必ずしも神の家族になると考えてはならない。現在、被造物の間で働きを行っているのは神自身であり、神が人々の中に現れて自らの働きを行っているのだ。何かの組織運動を展開しているのではない。あなたがたの中で、現在の働きが受肉した天の神の働きであることを理解できる者は一握りにも満たない。その働きの趣旨は、あなたがたを傑出した才能の持ち主にすることではなく、あなたがたが人生の意義を知り、人間の終着点を知り、神と神の全体像を知れるようにすることなのだ。あなたは自分が創造主の掌中にある被造物であることを知らねばならない。何を理解すべきか、何を行うべきか、そしてどのように神に付き従うべきか――こういったことが、あなたの理解すべき真理であり、あなたが見るべきビジョンではないか。

人々はビジョンを備えれば、基盤を持つことになる。それを基盤として実践を行えば、入りははるかに容易になるだろう。そのように、一度入りのための基盤を持てば、もう疑念を持つことはなくなり、非常に容易に入れるようになる。ビジョンを理解し神の働きを知ることの、この側面は重大であり、必ず身に備えておかねばならない。真理のこの側面を身に備えることなく、実践の道についての語り方だけを知っているとすれば、それは重大な欠陥となる。わたしはあなたがたの多くが、真理のこの側面を強調していないことに気づいた。その話を聞くときも、ただ言葉や教義だけに耳を傾けているようだ。いつの日か、あなたは大損することになるだろう。現在の言葉のいくつかを、あなたはよく理解しておらず、受け入れてもいない。その場合は忍耐強く探求することで、いつか理解できる日が来るだろう。少しずつ、より多くのビジョンを身に付けていきなさい。霊的な教義を少ししか理解していなかったとしても、ビジョンにまったく注意を払わないよりはましであり、何一つ理解していないよりはよい。そのすべてがあなたの入りに役立ち、あなたの抱いている疑念を払拭することになるだろう。そうした状態は、観念に満たされている状態よりもましだ。そうしたビジョンを基盤としているほうがはるかによい。疑念などは一切なくなり、堂々と自信を持って入ることができるようになるだろう。なぜいつもそんなに戸惑い疑いながら神に付き従う必要があるのか。それは現実から目をそむけているのと同じではないか。堂々と闊歩して神の国に入るのは、どれほど気分がよいことだろう。なぜそれほど疑念に満ちていなければならないのか。あなたはあえて修羅場を潜っているだけではないのか。ヤーウェの働き、イエスの働き、そして現在の働きの段階について一度理解できれば、あなたは基盤を得ることになる。現時点では、それは非常に単純なことに思えるかもしれない。中には次のように言う人もいる。「時が来て聖霊が大いなる働きを始めたら、わたしはこれらのことすべてについて語れるようになる。今わたしがよく理解していないのは、聖霊がまだわたしをそれほど啓いていないからだ」。だがそれはそんなに簡単なことではない。今真理[b]を受け入れる気があるなら、時が来ればそれを自在に用いられるようになる、などということではないのだ。必ずしもそうなるとは限らない。あなたは今自分が必要なものを十分に備えていて、宗教関係者や偉大な理論家にも問題なく対応できるし、彼らを論破すらできると思っている。しかし本当にそうできるのだろうか。そんな表面的な経験だけで、どんな認識を語ることができるのか。真理を身に備え、真理の戦いを行い、神の名を証しするということは、あなたが考えているように、神が働いてさえいればすべて成し遂げられるというようなことではないのだ。あなたはそのときまでに何かの質問に詰まるかもしれず、それで言葉を失ってしまうだろう。重要なのは、この働きの段階を明瞭に理解しているかどうか、そしてそれをどの程度実際に知っているかということなのだ。敵の勢力に勝利することも、宗教の勢力を倒すこともできないなら、あなたは役立たずだということにならないだろうか。あなたは現在の働きを経験し、それを自分の目で見て、自分の耳で聞きはしたものの、それでも最終的に証しに立つことができなかったとしたら、それでもまだ生き続ける度胸があるだろうか。誰に対して顔向けできるのか。今そのことをそんなに簡単だと思っていてはならない。今後の働きは、あなたが想像しているほど単純ではない。真理の戦いはそれほど簡単でも単純でもないのだ。今あなたは備えておく必要があり、真理を身に備えていなければ、時が来て、聖霊が超自然的な働きを行わなかったとき、あなたは途方に暮れることになるだろう。

『神の出現と働き』「働きを理解しなさい――混乱したまま付き従ってはならない」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「神を」の語句は含まれていない。

b. 原文に「真理」の語句は含まれていない。

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