人類の堕落を暴く(2)

日々の神の御言葉 抜粋 336

あなたは受肉の神を認め、言葉の肉における出現を認めると言うが、神の背後でなんらかの事柄、神の要求に反することを行い、心の中では神を恐れていない。これが神を認めるということか。あなたは神が言うことは認めるが、自分ができることを実行せず、神の道にも従わない。これが神を認めるということか。あなたは神を認めはするが、あなたの考え方は神に対して慎重であるだけでしかなく、畏敬では決してない。あなたが神の働きを見て認め、それが神であることを知っていても、あなたが生ぬるいままで、まったく変化しないのなら、あなたはまだ征服されていない人である。すでに征服された人は、自分ができることをすべてしなければいけない。また、たとえさらに高い真理に入ることができず、そのような真理が自分の手には届かないものであっても、心の中でそこに到達したいと願うのである。人が受け入れられるものに限度があるから、実践できることに束縛や制限があるのである。しかし、少なくともできることはすべてしなければならず、これが達成できるなら、それは征服の働きゆえに成し遂げられた成果である。仮にあなたが、「あの人は人間には語れないほどの多くの言葉を発することができることからして、あの人が神でないのなら、いったい誰が神なのか」と言ったなら、このような考えはあなたが神を認めていることにはならない。もし神を認めるなら、実際の行いでそれを示さなければいけない。たとえば教会の指導者であっても、義を実践せず、金や資産をむやみにほしがり、いつも密かに教会の資金を着服しているなら、これは神が存在することを認めていることになるだろうか。神は全能であり、畏敬の対象であるべき存在である。神が存在することをほんとうに認めているのなら、どうして恐れずにいられようか。そのような卑劣な行為ができるなら、あなたはほんとうに神を認めているのか。あなたが信じているのは神か。あなたが信じているのは漠然とした神である。だから、あなたは恐れないのである。ほんとうに神を認め、知っている人はみな神を恐れ、神に逆らうことや自分の良心に反する行為は何であれ恐れて行うことはできない。彼らは特に神の心意に反すると自分で知っていることを行うことを恐れる。これだけが神の存在を認めていることであるとみなされる。あなたの両親が、あなたが神を信じるのをやめさせようとしたら、あなたはどうすべきか。信仰をもたない夫があなたによくしてくれるとき、あなたはどのように神を愛すべきか。また、兄弟姉妹があなたを嫌悪するとき、どのように神を愛すべきか。もし神を認めるのなら、そのような場合にもあなたは適切に行動し、現実を生きる。もし具体的に行動することができず、神の存在を認めると言うだけなら、口先だけの人間である。神を信じていると言い、神を認めはするが、いったいどのように神を認めるのか。どのように神を信じているのか。神を恐れているのか。神を敬い畏れているのか。心の奥底で神を愛しているのか。苦悩し、頼る者が誰もいないとき、あなたは神を愛すべきだと感じるが、事が過ぎればすっかり忘れてしまう。それは神を愛していることでも、信じていることでもない。究極的に、神は人間が何を成し遂げることを望んでいるのか。自分自身の重要さに感心したり、自分は新しい物事を素早く覚え理解できると感じたり、他人を支配したり、他人を見下したり、人を外見で判断したり、正直な人をいじめたり、教会の金をむやみに欲しがったりするといった状態をわたしは述べてきたが、これらの堕落したサタン的性質のすべてがあなたから一部でも取り除かれて初めて、あなたが征服されたことが明らかにされる。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 337

わたしはこのようにあなたがたのあいだで働き、語ってきた。わたしは多くの精力と努力を費やしてきたが、あなたがたは、わたしがはっきりと語った言葉にいつ耳を傾けたのか。全能者であるわたしにどこでひれ伏したのか。なぜわたしをこのように扱うのか。あなたがたのあらゆる言動がわたしの怒りを呼び起こすのはなぜか。あなたがたの心がかくも頑固なのはなぜか。わたしがあなたがたを打ち倒したことはあるか。なぜあなたがたはわたしを悲しませ、心配させることしかしないのか。あなたがたは、わたしヤーウェの怒りの日が自分たちに臨むのを待っているのか。自分たちの不服従によって呼び起こされた怒りを、わたしが降り注ぐのを待っているのか。わたしが行うすべてのことは、あなたがたのためではないのか。それなのに、あなたがたはいつもわたしヤーウェをこのように扱ってきた。つまり、わたしのいけにえを盗み、わたしの祭壇の捧げ物をオオカミのねぐらに持ち帰り、それでオオカミの子や孫を養っている。人々は互いに戦い、怒りに満ちたまなざしで、剣と槍を持って向かい合い、全能者であるわたしの言葉を便所に投げ込み、排泄物のように汚れたものにしている。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたの人間性は獣の性質になったのだ。あなたがたの心はずっと前から石になってしまっている。あなたがたは、わたしの怒りの日が来るときこそ、今日あなたがたが全能者であるわたしに対して行う悪を、わたしが裁く時であることを知らないのか。このようにわたしを騙し、わたしの言葉を沼に投げ込んで耳を傾けず、わたしの背後でこのように振る舞うことで、わたしの怒りの目を逃れられると思うのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗み、わたしの持つものをむやみに欲しがったとき、わたしヤーウェの目によってすでに見られていたことを知らないのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗んだとき、いけにえが捧げられる祭壇の前でそうしてしまったことを知らないのか。このようにわたしを騙せるほど、自分たちが賢いなどとどうして思えるのか。あなたがたの凶悪な罪から、どうしてわたしの怒りが去るだろうか。わたしの燃える怒りが、どうしてあなたがたの悪行を行き過ぎようか。あなたがたが今日行う悪が、あなたがたに逃げ道を開くことはなく、あなたがたの明日に向けて刑罰を積み上げる。それは、あなたがたに対して、全能者であるわたしの刑罰を引き起こす。あなたがたの悪行と悪しき言葉が、どうしてわたしの刑罰から逃れられようか。あなたがたの祈りが、どうしてわたしの耳に届こうか。あなたがたの不義に対し、どうしてわたしが逃げ道を用意しようか。わたしに逆らって行われるあなたがたの悪行を、どうしてそのままにしておけようか。へびの舌と同じくらい毒に満ちたあなたがたの舌を、どうして切らずにいられようか。あなたがたは自分の義のためにわたしを呼び求めるのでなく、自分の不義の結果として、わたしの怒りを積み上げている。どうしてわたしがあなたがたを赦せようか。全能者であるわたしの目に、あなたがたの言動は汚れたものとして映っている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を容赦ない刑罰と見なしている。わたしの義なる刑罰と裁きが、どうしてあなたがたから離れようか。あなたがたがわたしにこのようなことをして、わたしを悲しませ、怒らせているのに、どうしてあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰して呪う日から離れさせようか。あなたがたの悪しき言葉や発言のすべてが、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義が、すでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不従順が、すでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを長きにわたり、怒りに煮えくり返るがままに放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。あなたがたがわたしの肉をすでに傷つけ、ぼろきれのようにしてしまったことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、今後は怒りを解き放ち、あなたがたをこれ以上容赦しない。あなたがたの悪行がすでにわたしの目に届き、わたしの叫びがすでにわたしの父の耳に届いていることを知らないのか。あなたがたがわたしをこのように扱うことを、わたしの父がどうして許すだろうか。わたしがあなたがたにおいて行う働きは、どれもあなたがたのためではないのか。それなのに、あなたがたの中の誰が、わたしヤーウェの働きをさらに愛するようになったのか。わたしが弱いからといって、またわたしが苦しみを被ったからといって、わたしが父の旨に忠実でないことなどあり得ようか。あなたがたにはわたしの心が理解できないのか。わたしはヤーウェと同じようにあなたがたに語る。わたしはあなたがたのために多くを捧げてきたではないか。わたしは父の働きのためにこの苦しみのすべてに喜んで耐えるけれども、わたしの苦しみの結果としてあなたがたの上にもたらす刑罰を、あなたがたがどうして免れようか。あなたがたはわたしの多くを享受してきたではないか。今日、わたしは、わたしの父によってあなたがたに授けられた。あなたがたは、わたしの豊富な言葉よりもはるかに多くのものを、自分が享受していることを知らないのか。わたしのいのちが、あなたがたのいのち、それにあなたがたが享受するものと引き換えられたことを知らないのか。わたしの父がサタンと戦うためにわたしのいのちを使ったこと、またわたしのいのちをあなたがたに授け、あなたがたが百倍のものを受け取り、多くの誘惑を避けられるようにしたことを知らないのか。あなたがたが多くの誘惑と、多くの火の刑罰を免れたのは、ひとえにわたしの働きによるものだということを知らないのか。わたしの父が今まであなたがたに享受させてきたのは、ひとえにわたしの故だということを知らないのか。あなたがたは今日、まるで心を鈍らせてしまったかのように、どうしてかくも頑なで、強情なままなのか。あなたがたの今日犯す罪が、わたしが地上から去った後に来る怒りの日から、どうして逃れられようか。かくも頑なで強情な者たちを、どうしてわたしがヤーウェの怒りから逃れさせようか。

『神の出現と働き』「血肉に属する者は誰も怒りの日から逃れられない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 338

過去を振り返ってみなさい。あなたがたに対して、いつわたしの目が怒りに満ちており、いつわたしの声が厳しかったか。いつわたしがあなたがたに些細なことを言い立てたか。いつわたしがあなたがたを理不尽に叱責したか。いつわたしがあなたがたを面と向かって叱責したか。わたしが父を呼び、あなたがたをあらゆる誘惑から守るよう求めたのは、わたしの働きのためではないのか。なぜあなたがたは、わたしをこのように扱うのか。あなたがたの肉体を打ち倒すために、わたしが自分の権威を使ったことがあるというのか。なぜあなたがたはそのような形でわたしに報いるのか。わたしに対する態度をころころ変えた後、あなたがたはどっちつかずで、やがてわたしを騙し、わたしから物事を隠そうとする。そして、あなたがたの口は不義の唾液で満ちている。あなたがたは自分の舌でわたしの霊を欺けると思うのか。自分の舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたは、自分の舌が思いのままに、わたしヤーウェの業を批判してもよいと思うのか。わたしは人から批判される神なのか。小さな蛆虫がこのようにわたしを冒涜するのを、わたしがどうして許せようか。このような不従順の子らを、どうしてわたしの永遠の祝福の中に置けようか。あなたがたは、自分の言動によってずっと以前から暴かれ、断罪されてきた。天を拡げて万物を創造したとき、わたしはどの被造物に対しても、思いのままに介入することを許さず、ましてや、いかに望もうと、何ものにもわたしの働きと経営を妨げさせたりなどしなかった。わたしはいかなる人や物も容赦しなかったのだ。わたしに対して残虐で非人道な者を、どうして見逃せようか。わたしの言葉に逆らう者をどうして赦せようか。わたしに対して不従順な者をどうして見逃せようか。人間の運命は全能者であるわたしの手の中にあるのではないか。あなたの不義と不服従は聖なるものだと、どうしてわたしが考えようか。あなたの罪がどうしてわたしの聖さを汚せようか。わたしは不義の不純物によって汚されることはなく、不義なる者の捧げ物を享受することもない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを我が物にすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できるというのか。このような形でわたしの言葉に反逆できるというのか。わたしの栄光と聖なる名を、悪しき者であるサタンに仕える道具として扱えるというのか。わたしのいのちは聖なる者たちに享受させるべく施された。あなたが自分の思いのままにわたしのいのちをもてあそび、それを自分たち同士の争いの道具として使うのを、どうしてわたしが許せようか。善への道において、そしてわたしに対する態度において、どうしてあなたがたはかくも無慈悲で欠点が多いのか。わたしがこれらのいのちの言葉に、あなたがたの悪行をすでに書きつけたことを知らないのか。わたしがエジプトを罰する怒りの日から、あなたがたがどうして逃れられようか。あなたがたがこのように何度もわたしに敵対して反逆することを、どうしてわたしが許せようか。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰は、エジプトのそれよりも耐えがたいものになる。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。まことにわたしは言う。わたしの忍耐はあなたがたの悪行のために用意されたのであり、その日のあなたがたの刑罰のために存在する。ひとたびわたしが忍耐の限界に達したら、怒りの裁きに苦しむのはあなたがたではないのか。すべてのことは全能者であるわたしの手の中にあるのではないか。天の下であなたがたがわたしに対してこのように逆らうのを、どうして許すことができようか。あなたがたの人生は極めて困難なものになる。なぜなら、来ると言われていながら来なかったメシアに出会ったからだ。あなたがたは彼の敵ではないのか。イエスはあなたがたの友だったが、あなたがたはメシアの敵である。自分たちがイエスの友であるにもかかわらず、自分たちの悪行が忌まわしき者たちの器を満たしたことを、あなたがたは知らないのか。あなたがたがヤーウェと非常に親しくても、自分たちの悪しき言葉がヤーウェの耳に届き、ヤーウェの怒りを招いたことを、あなたがたは知らないのか。どうしてヤーウェがあなたと親しくなれようか。悪行で満たされたあなたの器を、どうしてヤーウェが焼かずにいられようか。どうしてヤーウェがあなたの敵とならずにいられようか。

『神の出現と働き』「血肉に属する者は誰も怒りの日から逃れられない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 339

わたしは今、わたしを騙そうとするあなたの放縦な肉体を見つめており、刑罰をもってあなたに「奉仕する」ことはないが、小さな警告だけしておく。あなたはわたしの働きにおける自分の役割が何であるかを知るべきである。そうすれば、わたしは満足する。これ以外の事柄に関しては、あなたがわたしに抵抗したり、わたしの金銭を費やしたり、わたしヤーウェへの捧げものを食べたりしても、あるいはあなたがた蛆虫が互いに噛みつき合ったり、犬のような被造物であるあなたがたの間に対立や暴行が起こったりしても、わたしには一切無関係である。あなたがたはただ自分がどのようなものであるかを知ればよく、それでわたしは満足する。こうしたことを除けば、あなたがたが互いに武器を向け合ったり、言葉で争い合ったりしても、それは構わない。わたしはそうしたことに一切干渉したくないし、人間の問題に一切関わらない。あなたがたの間の紛争を気に掛けないわけではないが、わたしはあなたがたのうちの一人ではなく、そのためあなたがたの間の問題には加わらないのである。わたし自身は被造物ではなく、この世に属さない。だからわたしは人の騒々しい生活や、乱雑で不適切な人間関係を心から嫌うのである。わたしは騒々しい群衆を特に忌み嫌う。しかし、わたしはそれぞれの被造物の心にある不純を深く知っており、あなたがたを創造する前から、人間の心の奥深くに存在する不義をすでに知っており、人間の心にある偽りと不正もすべて知っていた。そのため、人が不義を行なう時にその痕跡が一切なくとも、あなたがたの心に潜んでいる不義が、わたしが創造したすべてのものの豊かさを超えることもやはり知っているのである。あなたがた一人ひとりは、群衆の頂点に昇りつめた。あなたがたは昇りつめて群衆の祖先となった。あなたがたは極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなたがたの心は悪意に満ちて邪悪で、それは海底に沈んだ幽霊さえも超えるほどである。あなたがたは糞の底に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して落ち着かせておかないほどで、争い合っているかと思えば静かになっている。あなたがたは自分の地位を知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのか。あなたがたにわたしを真に畏敬する心があるならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどれほど高くても、あなたはやはり糞の中にいる小さな臭い虫ではないのか。羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。小さな臭い虫であるあなたがたは、わたし、ヤーウェの祭壇から捧げものを盗む。そうすることで、ぼろぼろになって衰えた自分の評判を回復させ、イスラエルの選民になることができるのか。あなたがたは恥知らずの哀れな存在である。祭壇の捧げものは人々がわたしに献上したのであり、わたしを畏敬する人々のやさしい感情を表わしている。それはわたしが支配するため、わたしが用いるためであるのに、人々がわたしに捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができるのか。あなたはユダになることを恐れないのか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのか。恥知らずな者よ。人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためのものだと思っているのか。わたしがあなたに与えたものは、わたしが喜んで、かつ進んで与えたものである。わたしがあなたに与えなかったものは、わたしが好きにできる。あなたはわたしへの捧げものを決して盗んではならない。働く者はわたし、ヤーウェ、すなわち創造主であり、人々が生贄を捧げるのはわたしのためである。それをあなたは、あくせく動き回る自分への報酬だと思っているのか。本当に恥知らずである。あなたが動き回るのは、誰のためなのか。自分のためではないか。なぜわたしへの捧げものを盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはイスカリオテのユダの息子ではないのか。わたし、ヤーウェへの捧げものは、祭司が享受するべきものである。あなたは祭司なのか。あなたは厚かましくもわたしへの捧げものを食べ、卓上に並べさえする。あなたには何の価値もない。何の価値もない、哀れな存在である。わたしの火、ヤーウェの火はあなたを燃え尽くして灰にする。

『神の出現と働き』「落ち葉が土に還る時、あなたは自分の行なったあらゆる悪事を後悔する」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 340

あなたがたの信仰はとても美しい。あなたがたは喜んで自分の一生をわたしの働きのために費やし、自分の生命をそのために捧げると言う。しかし、あなたがたの性質はあまり変わっていない。実際の振る舞いは惨めそのものなのに、あなたがたはただ傲慢に語る。まるで、人の舌と唇は天国にあるが、足は遥か下の地上にあるかのようで、それゆえ、人の言動と評判は依然ずたずたになったままである。あなたがたの評判は崩れ、行儀はひどく、話し方は卑しく、生活は嘆かわしい。あなたがたの人間性全体が卑しい低劣さに沈み込んでいる。他人に対して心が狭く、些細なことの一つひとつにうるさいほどこだわる。自分の評判や地位のことで口喧嘩し、そのためには地獄や火の湖に落ちることすら辞さない。あなたがたの現在の言動だけで、わたしがあなたがたを罪深いと断定するのに十分である。わたしの働きに対するあなたがたの態度は、あなたがたを不義な人と判断するのに十分で、あなたがたのすべての性質は、あなたがたが忌まわしいものに満ちた穢れた魂であると指摘するのに十分である。あなたがたが示すものや表わすものは、あなたがたが穢れた霊の血をたっぷり飲んだと判断するのに十分である。神の国に入ることの話になると、あなたがたは感情を露わにしない。今の自分のあり方が、天にあるわたしの国への門を通るに相応しいと信じているのか。自分の言動がまずわたしに試されなくても、自分はわたしの働きと言葉の聖なる地に入れると信じているのか。誰がわたしの目をうまく欺けるというのか。あなたがたの卑劣で下賤な行動や会話が、どうしてわたしの目から逃れられようか。わたしはあなたがたの生活を、穢れた霊の血を飲み肉を喰らう生活だと判断した。なぜなら、あなたがたは毎日わたしの前で穢れた霊を模倣するからである。わたしの前で、あなたがたの振る舞いはとりわけひどかった。どうしてそれに嫌悪を抱かずにいることができようか。あなたがたの言葉には穢れた霊の不純さが含まれている。魔術を行なう者、または不義な者の血を飲む不実な者のように、あなたがたは騙し、隠し、お世辞を言う。人間の表わすものはどれも極めて不義である。それならば、義なる人のいる聖なる地にどうしてあらゆる人が置かれ得るのか。あなたの卑劣な振る舞いが、不義な人に比べてあなたが聖なる人であると区別できるとでも思うのか。あなたの蛇のような舌は、破滅と嫌悪を引き起こすあなたのその肉体をやがて滅ぼす。穢れた霊の血で覆われたあなたのその手もまた、あなたの魂をやがて地獄へと引きずり込む。それなのになぜ、穢れに覆われた自分の両手を清めるこの機会に飛びつかないのか。なぜこの機会を利用して、不義の言葉を語るその舌を切り取らないのか。自分の手、舌、唇のために地獄の炎で苦しむ覚悟があるということなのか。わたしは両目であらゆる人の心を見守り続ける。人類を創造する遥か以前、わたしは自らの手中に人の心を掴んでいたからである。わたしは遥か昔に人間の心を見通していた。どうして人の思いがわたしの目から逃れられようか。わたしの霊に焼かれることから逃れるには遅すぎないということがどうしてあり得ようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 341

あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古い蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性のように愛らしいが、あなたの心は彼女らに比べて優しくはなく、カナン人の美しさと比較にならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに不誠実である。わたしが忌み嫌うのは、不義な人の唇とその心だけである。わたしの人への要求は、わたしが聖人に期待するものよりも高くはない。わたしは不義な人の邪悪な行ないに嫌悪を覚える。わたしが望むのは、彼らが不義な人と一線を画し、義なる者たちと共に生き、共に聖なる者となれるよう、自分の穢れを捨て去り、現在の窮地から脱出できるようになることである。あなたがたはわたしと同じ状況にいるが、あなたがたは穢れで覆われている。創造当初の人間と少しも似ていない。さらに、あなたがたは毎日穢れた霊に倣い、穢れた霊と同じ行動をとり、同じことを言っているので、あなたがたのあらゆる部分、舌や唇までもが穢れた霊の汚水に浸っていて、そのような染みですっかり覆われており、わたしの働きに用いることのできる部分が一つもないほどである。これは実に悲しいことである。馬や牛のそうした世界に住んでいながら、あなたがたは平気でいる。しかも喜びに満ち溢れ、自由かつ気楽に生きている。その汚水の中で泳ぎ回っていながら、自分がそのような窮地に陥ってしまったことに実際に気づいていない。毎日穢れた霊と付き合い、「糞便」と交流する。あなたの生活は実に下品だが、自分が人間の世界には絶対に存在していないこと、自分自身を制御していないことに実際に気づいていない。あなたの人生はとうの昔にそれらの穢れた霊に踏みにじられ、人格はとっくに汚水で汚れてしまっていることを知らないのか。自分が地上の楽園に生き、幸福のただ中にいるとでも思っているのか。穢れた霊と人生を共にし、穢れた霊があなたに用意したあらゆるものと共存してきたことを知らないのか。あなたの生き方に意味などあろうか。あなたの人生に価値などあろうか。穢れた霊である両親のために今まで忙しく走り回って来たが、あなたを陥れたのがあなたを生み、育てた穢れた霊である両親だとは知らないでいる。さらには、自分のあらゆる穢れが実際には彼らから与えられたものだと気づかず、彼らは「楽しみ」をもたらせるものの、自分を罰することも裁くこともなく、呪うことなど特にしないということしか、あなたは知らない。彼らがあなたに怒りを爆発させたことはなく、あなたを愛想良く、親切に扱う。彼らの言葉はあなたの心を養い、あなたを虜にし、そのためあなたは迷い、知らず知らずのうちに引き込まれ、進んで彼らに尽くすようになり、彼らのはけ口、しもべとなる。あなたは不平一つ言わず、犬や馬のごとく彼らのために喜んで働こうとする。あなたは彼らに惑わされている。それゆえ、わたしが行なう働きにあなたは決して反応しない。いつも密かにわたしの手からすり抜けたがるのも、またわたしの好意を騙し取るためにいつも甘い言葉を使いたがるのも、不思議ではない。結局のところ、あなたにはすでに別の計画、別のはかりごとがあったのだ。あなたは全能者としてのわたしの行ないをわずかに見ることができるものの、わたしの裁きと刑罰については微塵も知らない。わたしの刑罰がいつ始まったのかを知らず、知っているのはいかにしてわたしを騙すかだけであり、わたしが人間の違背を一切容赦しないことは知らない。あなたはもうわたしに仕える決意を固めているので、わたしはあなたを手放さない。わたしは嫉妬深い神であり、人類に嫉妬する神である。あなたはすでに祭壇で誓ったのだから、あなたがわたしの目の前で逃げ出すことも、二人の主人に仕えることも許しはしない。わたしの祭壇で、わたしの目の前で誓った後に、二番目の愛する対象をもてると思ったのか。人がそのようにわたしを笑いものにすることを、わたしが許すことなどあろうか。あなたは自分の舌でわたしに軽々しく誓いを立てられるとでも思ったのか。いと高き者であるわたしの玉座に誓いを立てることなどどうしてできたのか。誓いなどすでに消え去ったとでも思ったのか。あなたがたに言っておくが、たとえあなたがたの肉体が消え去ろうとも、あなたがたの誓いが消えることはあり得ない。最後にわたしは、あなたがたの誓いに基づいてあなたがたを断罪する。しかし、あなたがたは言葉をわたしの前に置くことでわたしに対処できると信じ、自分の心は穢れた霊と邪悪な霊に仕えることができると考える。わたしを騙すこうした犬や豚同然の人間を、どうしてわたしの怒りが容赦できようか。わたしは行政命令を執行し、わたしを信じるこれらの堅苦しく「敬虔な」者たちを穢れた霊どもの手から奪い返さなければならない。そうすることで、彼らは規律正しくわたしに「仕え」、わたしの役牛となり、馬となり、わたしのなすがままに殺される。わたしはあなたに以前の決意を取り戻させ、もう一度わたしに仕えさせる。わたしを騙すどのような被造物も許さない。あなたはわたしにただ気まぐれに要求し、わたしの前で嘘をつくことができると思ったのか。あなたの言動をわたしが見聞きしていないとでも思ったのか。あなたの言動がわたしの目に触れないことなどあるはずがない。人がそのようにしてわたしを騙すことを、どうしてわたしが許せようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 342

わたしはずっとあなたがたの間にいて、いくつかの春と秋をあなたがたと付き合いながら過ごしてきた。わたしは久しくあなたがたのもとで暮らし、共に生きてきた。あなたがたの卑劣な振る舞いのどのくらいが、わたしの目の前をすり抜けただろうか。あなたがたの心からの言葉は常にわたしの耳に響いている。わたしの祭壇の上に、あなたがたは何百万もの望みを並べた。多すぎで数えられないくらいである。にもかかわらず、あなたがたの献身、費やしたものといえば皆無である。あなたがたはひとしずくの誠意すらわたしの祭壇に捧げていない。わたしへの信仰の実りはどこにあるのか。あなたがたは無限の恵みをわたしから受け、果てしなく続く天の奥義を見た。わたしは天の炎さえもあなたがたに見せたが、あなたがたを焼き尽くすのが耐えられなかった。それなのに、あなたがたは代わりにどれほどわたしに与えたというのか。どれほどのものを進んでわたしにくれるのか。わたしが与えた食物を手に、振り返ってそれをわたしに捧げる。しかも、それは自分が汗水たらして得たもので、自分がもつすべてのものを捧げているのだと言わんばかりである。あなたからわたしへの「寄付」はどれもわたしの祭壇から盗まれたものだと、あなたはどうして知らないのか。さらに、今そのようなものをわたしに捧げて、わたしを騙しているのではないか。今日わたしが享受するものは、すべてわたしの祭壇に捧げられたものであり、あなたが苦労した見返りとして手に入れ、わたしに差し出したものではないのだと、どうしてわからないのか。あなたがたは実際に厚かましくもわたしをこのように騙しているのだから、どうしてわたしがあなたがたを許せようか。こうしたことにわたしがさらに耐え続けられると、どうしてあなたがたは思えるのか。わたしはあなたがたにすべてを与えた。わたしはあなたがたにすべてを開放し、必要を満たし、あなたがたの目を開いた。にもかかわらず、あなたがたは自分の良心を無視してわたしをこのように騙す。わたしは無欲になってあなたがたにすべてを与えた。たとえあなたがたが苦しんでも、わたしが天からもたらしたすべてのものを得られるようにするためである。それなのに、あなたがたには献身が一切なく、ほんの少し寄付したとしても、後になってわたしと「精算」しようとする。あなたが捧げたものなど無に等しいのではないのか。自分は砂粒ひとつだけを差し出しておいて、わたしに一トンの金を要求してきた。あなたは理不尽そのものではないか。わたしはあなたがたの間で働きを行なう。わたしの受けるべき一割はその形跡すら絶対になく、追加の犠牲などもちろんない。さらには、信心深い者たちの捧げた一割は悪い者が取り上げている。あなたがたはみなわたしから離れているのではないか。みなわたしに敵対しているのではないか。みなわたしの祭壇を破壊しているのではないか。そのような者たちがわたしの目に宝と映ることなどあり得ようか。彼らはわたしの嫌う豚や犬ではないのか。あなたがたの邪悪な行ないを宝物と呼ぶことなどどうしてできようか。わたしの働きは実際のところ誰のために行なわれるのか。もしかして、その目的はただあなたがた全員を打ち倒し、わたしの権威を現わすことなのか。あなたがたの生命はすべて、わたしの発する一言にかかっているのではないか。わたしが言葉を用いてあなたがたを指導するだけで、言葉を事実に変えてあなたがたをできるだけ早く打ち倒さなかったのはなぜなのか。わたしの言葉と働きは、人類を打ちのめすためだけのものなのか。わたしは罪なき者を無差別に殺す神なのか。まさに今、あなたがたのうち何人が全身全霊でわたしの前に来て、人生の正しい道を求めているのか。わたしの前にいるのはあなたがたの身体だけである。心は野放しのままで、わたしから遥か遠くにある。わたしの働きが実際にどのようなものかを知らないので、あなたがたの多くはわたしから離れて遠くにいたがり、その代わり刑罰も裁きもない楽園で生きることを望む。これが人の心の願いではないのか。わたしは決してあなたに強制しているのではない。どのような道を進むかはあなた自身の選択である。今日の道には裁きと呪いが伴う。だがあなたがた全員が知るべきなのは、裁きであれ刑罰であれ、わたしがあなたがたに授けたものはどれもわたしが提供し得る最上の贈り物であり、あなたがたが今すぐ必要としているものだということである。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 343

わたしは地上で多くの働きを行ない、人類の間を長年にわたって歩んできた。しかし人々はわたしの姿と性質とについてほとんど認識を持たず、ほとんどの人はわたしが行なう働きについて十分に説明できない。人には欠けるものがとても多く、わたしが行なうことについての理解も常に欠けている。わたしが人を別の状況に置き、人のことなど考えもしなくなるのではないかと深く恐れているかのように、人の心は警戒している。よって人々のわたしへの態度はいつも生ぬるく、そこには強い用心がある。それは人々がわたしの働きを理解することなく今日まできたからであり、特にわたしが人に語る言葉に困惑している。人々はわたしの言葉を手にしながら、信じることを固く決意すべきか、あるいは優柔不断のままに忘れ去るべきかわからないでいる。人々はわたしの言葉を実践すべきなのか、待って様子を見るべきなのかわからず、すべてを捨てて勇敢に従うべきなのか、今までどおりこの世の友であり続けるべきなのかわからないでいる。人々の内側の世界は非常に複雑で、そして非常に狡猾である。わたしの言葉ははっきりとも、完全にも見えないので、多くの人はそれを実践するのに苦労し、わたしの前に心を差し出すのに困難を覚える。わたしはあなたがたの抱える難しさを深く理解している。肉なる体に生きている間は多くの弱さは避けられないし、様々な客観的要因があなたがたに困難をもたらす。あなたがたは家族を養い、日々懸命に働き、そして時間は困難の中に過ぎてゆく。肉に生きることは多くの困難を伴い、わたしはそれを否定しない。そして当然ながら、わたしがあなたがたに課す要求は、あなたがたの抱える困難に即している。わたしの働きに伴う要求は皆、あなたがたの実際の霊的背丈に基づいている。おそらく過去に他人があなたがたに課した仕事上の要求には、過剰な要素が混ざっていたであろうが、わたしは自らの言動において、あなたがたに過剰に要求したことなどないということを知るべきである。わたしの要求はすべて、人の本性、肉、人が必要とするものに基づく。わたしはこれをはっきりとあなたがたに伝えることができるが、人の何らかの理に適う考え方や、人類に固有の本性にわたしは反対しないことを知るべきである。わたしが人に課す基準が実際のところ何であるか理解せず、またわたしの言葉の本来の意味を理解していないゆえに、今に至るまで人はわたしの言葉に疑念を抱き、半分以下の人しかわたしの言葉を信じていないのである。残りは不信者であり、さらに多くはわたしが「物語を語る」のを聞くのが好きな人である。しかも、その光景を楽しむ人が多くいる。わたしはあなたがたに忠告する。わたしの言葉の多くはわたしを信じる人にすでに開かれており、神の国の美しい景色を楽しみながらもその門の中に入れない人は、わたしがすでに淘汰している。あなたがたはわたしに嫌われ拒まれる毒麦にすぎないのではないか。わたしを送り出しておきながら、どうしてわたしの帰りを喜んで迎えることなどできるというのか。わたしはあなたがたに言う。ニネベの住民はヤーウェの怒りの声を聞いた後、すぐに荒布をまとい灰の中で悔い改めた。それは、彼らは神の言葉を信じたからであり、ゆえに恐れおののいて荒布と灰の中で悔い改めたのである。今日の人と言えば、わたしの言葉を信じながらも、そしてそれだけでなく、ヤーウェが今日ふたたびあなたがたのもとに来たことを信じながらも、あなたがたの態度は不遜以外の何ものでもない。まるでユダヤに何千年も昔に生まれ、現在あなたがたの只中に降りてきたイエスをただ観察しているだけかのようである。あなたがたの心の中にある欺瞞をわたしは深く理解している。あなたがたのほとんどは好奇心からわたしに従い、空虚からわたしを求めるようになった。あなたがたの第三の希望、平和で幸せな人生への願いが叶わなかった時、あなたがたの好奇心もまた消散する。一人ひとりの心の内にある欺瞞は、あなたがたの言動を通して明るみに出る。率直に話すならば、あなたがたはただわたしに好奇心を持っているだけで、恐れてはいない。言葉に気をつけず、行動を抑えることはさらにない。ならば、あなたがたには一体どのような信仰があるのか。それは純粋なものなのか。あなたがたは心配をなくし、退屈を軽減するために、生活において余った空虚な時間を埋めるためにわたしの言葉をただ利用しているにすぎない。あなたがたのうちの誰がわたしの言葉を実践したのか。誰が純粋な信仰を持っているのか。あなたがたは、神は人の心を深く見通す神であると叫び続けているが、あなたがたが心で叫び続ける神はわたしといかに融和性があるのか。このように叫んでいるなら、なぜそんな風に行動するのか。もしかして、それがわたしに報う愛だということなのか。あなたがたの唇は非常に大きな献身を語るが、あなたがたの実際の捧げ物は、善行はどこにあるのか。わたしの耳に届くあなたがたの言葉のせいでなければ、わたしはどうしてあなたがたをこれほど憎むことができるのか。あなたがたがわたしを真に信じるのならば、どうしてそのような苦境に陥ることが可能なのか。あなたがたはまるで地獄で裁判を受けているかのような、落ち込んだ表情を浮かべている。まったく活力がなく、内なる声について弱々しく語り、そのうえ文句と呪いの言葉で満ちている。あなたがたはとうの昔にわたしの行なうことを信じなくなっており、元来持っていた信仰も消え去った。それでどのように最後まで従うことができるのか。そのような現状で、どのように救われることができるのか。

『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 344

わたしの働きはあなたがたにとってとても助けとなるものだが、わたしの言葉はいつもあなたがたには浸透せず、あなたがたの内には何も残らない。わたしが完全なものとする対象を見つけることは難しく、今日わたしはあなたがたへの希望を失いかけている。何年もかけてわたしはあなたがたのもとで探してきたが、腹心を見つけることは難しい。あたかも、わたしにはもうあなたがたと共に働き続ける自信がないかのような、あなたがたを愛し続ける愛がないかのような気持ちがする。それはわたしが随分前にあなたがたの小さく哀れな「業績」にうんざりしたからである。まるでわたしがあなたがたに語りかけたことがなく、あなたがたの間で働いたこともないかのようである。あなたがたの業績には吐き気がする。あなたがたは常に自分自身に破滅と恥をもたらし、あなたがたには価値はほぼない。あなたがたには人間らしさや人間としての残り香が見つけられない。あなたがたの新鮮な香りはどこにあるのか。あなたがたが何年もかけて支払ってきた代価はどこへ行ったのか。その成果はどこにあるのか。何も見つからなかったのか。わたしの働きは今、新たな始まりを迎え、新たに出発する。壮大な計画を執行し、さらに偉大な働きを展開したい。しかしあなたがたは未だ依然のように泥の中でもがき、過去の汚れた水のなかで生き、元来の苦境から自らを解放するのに失敗したも同然である。よって、あなたがたは未だにわたしの言葉から何も獲得していない。もといた泥と汚水の場所から抜け出ておらず、わたしの言葉を知っているだけで、実際にわたしの言葉の自由の領域には入っていない。だからわたしの言葉はあなたがたに開かれたことがなく、何千年も封印された預言書のようである。わたしはあなたがたの生活の中に現れるが、あなたがたはそれに気づかない。わたしを認識することさえない。わたしの語る言葉のほぼ半分はあなたがたに対する裁きであり、それは発揮するべき効果の半分、すなわちあなたがたに深い恐怖を植え付けることしか達成しない。残りの半分の言葉は生き方と、どのように振る舞うべきかをあなたがたに教えている。しかし、あなたがたにはそのような言葉は存在しないか、遊んでいる子どもの言葉を聞いているだけのようである。その言葉に、あなたがたはいつも不明瞭な笑みを浮かべるが、それを行動に移すことはない。こういったことについてあなたがたは心を砕いたこともない。あなたがたはわたしの行動を第一に好奇心からいつも眺めてきたので、今やあなたがたは暗闇に落ち、光を見ることができず、そのため暗闇で哀れっぽく泣くのである。わたしが欲するのはあなたがたの従順、無条件の従順であり、さらに、あなたがたがわたしが語ることすべてに確信を持つことを要求する。あなたがたは粗略な態度を取るべきではなく、特にわたしの言葉に向き合うのに選り好みすべきでも、ましてやわたしの言動に、あなたがたがいつもするように、無関心でいるべきではない。わたしの働きはあなたがたの只中で行われ、わたしは非常に多くの言葉をあなたがたに与えてきた。しかし、もしあなたがたがわたしをこのように扱うのであれば、あなたがたが獲得もせず実行にも移していないものをわたしは異邦人の家族に渡してしまえばよいだけである。被造物の中でわたしの手にないものなどあるだろうか。あなたがたのほとんどは「高齢」であり、わたしのこのような働きを受け入れる精力はない。あなたがたはハンハオ鳥[a]のように、なんとかやり過ごしているだけであり、わたしの言葉を真剣に扱ったことはない。若者は極めて虚栄心が強くひどく甘やかされており、わたしの働きにはさらに注意を払わない。彼らはわたしの宴でのもてなしを楽しむことに関心がない。まるで鳥かごから出て、遠くへ飛び立っていった小さな鳥のようである。このような若者や老人がどのようにわたしに役立つことができるというのか。

『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 寒号鳥の話はイソップのアリとキリギリスの寓話によく似ている。寒号鳥は温暖な時は巣を作らずに眠っていることを好む。そのため、隣に住むカササギが繰り返し警告していたにも関わらず、冬が来ると寒号鳥は凍死してしまう。


日々の神の御言葉 抜粋 345

あなたがた若者は皆、若いライオンのようだが、心に真の道を持っていることなどほとんどない。若いからといって、あなたがたはわたしの働きをさらに得ることはできない。それどころか、いつもわたしをうんざりさせる。あなたがたは若いが、活力がないか、野心に欠けている。自分の将来についてもいつも優柔不断である。まるで関心がなく、思い悩んでいるかのようである。若者に見られるべき活力や理想、確固とした態度があなたがたにはまったく見つからないとも言える。あなたがたのような若者には姿勢といったものがなく、正邪、善悪、美醜を見分ける能力がない。あなたがたに何か新鮮なものを見出すことはできない。あなたがたはほぼ完全に旧式であり、そのような若者は群衆に追随し、分別を欠くようになっている。あなたがたは決して正誤をはっきり区別することができず、真偽を見分けることができず、卓越するために努力せず、善悪の区別を理解できず、何が真理で何が偽善かもわからない。あなたがたのまわりには、老人にあるよりも深く強烈な宗教の悪臭が漂っている。あなたがたは加えて高慢で無分別で、競争心が強く、攻撃性がとても強い。このような若者がどうして真理を持ちうるだろうか。姿勢を保てないものがどのように証しを立てることができようか。善悪を見分ける能力がない者がどうして若者と呼ばれることができようか。若者らしい活力や気力、新鮮さ、冷静さや堅実さがない者がどうしてわたしの従者と呼ばれうるのか。真理や正義感がなく、むしろ戯れや争いを好む者がどうしてわたしの証人となるに値するのか。若者は他者への欺瞞や偏見に満ちた目を持つべきではなく、破壊的で忌まわしい行動をとるべきではない。理想や大志、自己を改善したいと望む熱心さに欠けてはならない。前途について落胆したり、生活に希望を失ったり、将来への自信を失ったりすべきではない。人生のすべてをわたしのために費やしたいという願いを実現させるべく、自らが選んだ真理の道を進み続ける忍耐力を持つべきである。真理を持たないでいることなく、偽善や不義を隠し持つことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく、正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきである。若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。逆境の中で諦めるのではなく、赦しの精神をもって兄弟姉妹に対して開放的かつ率直でなくてはならない。もちろんこれは、わたしから皆への助言、また要求である。さらには、これらはすべての若者へのわたしからの慰めの言葉である。わたしの言葉に従って実践せよ。特に、若い人は問題にあたり分別を発揮し、正義と真理とを求める決意がなくてはならない。あなたがたはすべての美しいものと善なるものを追い求めるべきであり、前向きなものの現実性を自分のものにするべきである。自分の人生に責任を持ち、軽んじてはならない。人は地上に来て、わたしと出会うことは稀であるが、真理を追い求めて得る機会を持つこともまた稀である。なぜこの人生で追い求めるべき正しい道として、この美しい時を尊ばないのか。なぜいつも真理と正義をはねつけるのか。なぜいつも人を弄ぶ不義と汚れのために自らを踏みにじり、破滅させているのか。そしてなぜ不義の者がすることに関わる老人のように行動するのか。なぜ古いものの古いやり方を真似するのか。あなたがたの生活は正義と真理と聖さに満ちているべきである。人生はそんな若年のうちに堕落し、人をハデスに落とすべきではない。それはあまりにも不幸だとは思わないのか。あまりにも不公平だと思わないのか。

『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 346

これほど多くの働きや言葉が、あなたにまったく効果がないのであれば、神の働きを広める時が来た際、あなたは自分の本分を尽くすことができずに辱められ、屈辱を感じるだろう。この時、あなたは神に対して多くの借りがあり、神に関する自分の認識は極めて表面的だと感じるはずだ。神が働きを行う間、現在あなたが神に関する認識を追い求めないのであれば、後で手遅れになるだろう。最終的に、あなたには話すべき認識が一切ない――あなたには何もなく、空虚なままとなってしまう。あなたは何を用いて神に申し開きをするだろうか。厚かましくも神を見上げるだろうか。あなたは今こそ懸命に追求しなければならない。それにより、最終的にはペテロのように、神の刑罰と裁きが人にとっていかに有益かを知り、神の刑罰と裁きがなければ、人間が救われることはなく、汚れた地の汚泥へとますます深く沈むしかないということを知るだろう。人々はサタンによって堕落させられ、互いに陰謀を企て、互いを踏みつけ、神への畏れを失っている。彼らの不従順はひど過ぎ、人間の観念は多過ぎ、誰もがサタンに属している。神の刑罰と裁きがなければ、人間の堕落した性質を清めることはできず、人間が救われることもない。受肉した神の肉における働きによって表されることは、まさに霊によって表されることであり、神が行う働きは、霊が行う働きに沿って実行される。現在、この働きに関する認識があなたになければ、あなたは極めて愚かであり、実に多くのものを失ったのである。あなたが神の救いを得ていないのであれば、あなたの信仰は宗教的信仰であり、あなたは宗教に属するクリスチャンである。あなたは死んだ教義に固執しているので、聖霊の新たな働きを失った。神への愛を追求する他の者たちは、真理といのちを得られるが、あなたの信仰は神の承認を得られない。その代わりに、あなたは悪を行う者、破滅的な忌むべき行動を取る者、サタンの悪戯の標的、サタンの虜となってしまった。神は、人間が信じるべき存在ではなく、人間が愛し、追い求め、崇めるべき存在である。今日、あなたが追い求めないならば、いつかこのように言う日が来るだろう。「あの時、わたしはどうして神に正しく付き従い、神をきちんと満足させ、いのちの性質の変化を追求しなかったのだろう。あの時、神に服従できなかったこと、神の御言葉についての認識を追求しなかったことを、わたしはどれほど後悔しているか。あの時、神は多くのことを言われた。わたしはなぜ追求できなかったのだろう。わたしは本当に愚かだった」。あなたは、自分をある程度憎むだろう。あなたは現在、わたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全体を目にするとき、あなたは後悔し、唖然とするだろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではないか。現在、神の働きの次なる段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが生きるよう求められていることに、例外的なものは一切ない。働きと真理は非常に数多くあるが、あなたがそれらを知る価値などないのではないか神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのか。あなたはサタンの支配下で、平安と悦楽、そして少しばかりの肉の享楽を持ちながら暮らすことに満足しているのか。あなたはあらゆる人の中で最も卑しい者ではないのか。救いをその目で見ておきながら、それを得ようと追求しない者以上に愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。神に対する自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいはわずかな苦難も招かないことを、あなたは望む。そうした無価値なものを常に追い求め、いのちの価値を一切認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値もない。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚や犬とのあいだに、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちはみな、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちはみな、生ける屍ではなかろうか。あなたがたのあいだでどれほど多くの言葉が語られたのか。あなたがたのあいだで行われた働きは、ほんの少しなのか。あなたがたのあいだで、わたしはどれくらい与えたか。それなのに、あなたがそれを得ていないのはなぜなのか。あなたは何が不満なのか。肉を愛し過ぎているので、何も得られなかったということではないのか。そしてその原因は、あなたの考えが突飛過ぎるからではないのか。また、あなたが愚か過ぎるからではないのか。これらの祝福を得られなければ、自分が救われなかったことを神のせいにできるのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか。豚は人生も、清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは依然それを得ていない。つまり手ぶらである。このような生活、つまり豚の生活を続けることを、あなたは望んでいるのか。このような人々が生きていることの意味は何か。あなたの生活は軽蔑すべきもの、恥ずべきものであり、あなたは汚れと放蕩の中で暮らし、何の目標も目指していない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのか。このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求によって決まる。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 347

あなたがたの肉体とその途方もない欲望、貪欲、そして肉欲は、あなたがたの中に深く根づいており、絶えずその心を支配しているので、あなたがたにはこうした封建的で堕落した考えのくびきを捨て去る力がない。あなたがたは現状を変えたいと思わず、暗闇の影響から逃れたいとも思わず、ただそうしたものに縛られている。皆この人生は非常に苦しく、この人の世は非常に暗いとわかっていても、誰一人として人生を変える勇気は持っていない。そしてただこの生の現実から逃れ、魂の超越を成し遂げ、平和で幸せな天国のような環境で生きることに憧れている。現在の生を変えるため進んで困難に耐えようとはしないし、入るべき人生のためにこの裁きや刑罰の中で進んで探し求めようともしない。かわりに肉を超えた美しい世界について、まったく非現実的な夢を抱いている。あなたがたが憧れている人生とは、何の痛みも被ることなく、努力もせずにただ得ることができる人生だ。それはまったく非現実的だ! なぜならあなたがたが望んでいるのは、肉において意義深い生涯を生きることや、人生の歩みの中で真理を得ること、すなわち真理のために生き、正義のために立ち上がることではないからだ。それはあなたがたが考える光り輝く人生ではない。あなたがたにとっては、そのような人生は魅惑的で意義深い人生とは感じられない。あなたがたから見れば、そのような生を生きることは不公平に感じられるだろう! たとえ今日この刑罰を受け入れたとしても、あなたがたが追求しているのは真理を得ることでも、真理を生きることでもなく、ただ後で肉を超えた幸せな生活に入ることなのだ。あなたがたは真理を求めてもいないし、真理のために立ち上がってもおらず、真理のために存在しているわけでも一切ない。あなたがたは今日入ることを求めておらず、かわりに未来のことや、いつか起こるかもしれないことで頭を一杯にしている。青い空を見上げて悲しみの涙を流し、いつか天国へと導かれることを期待している。そのような考え方自体、すでに現実離れしていることを知らないのだろうか。あなたがたはいつか必ず限りなく優しく憐れみ深い救い主がやって来て、この世の困難や試練に耐えた自分を救い出し、そして踏みにじられ抑圧されてきた自分の恨みを晴らし、自分に代わって報復してくれるのだと信じ続けている。あなたは罪に満ちてはいないのか。この世で苦しんだのはあなただけなのか。あなたは自分でサタンの領域に落ちて苦しんだのに、神があなたの恨みを晴らす必要があるだろうか。神の要求を満たすことができない人々は、すべて神の敵ではないのか。受肉した神を信じない人々は、反キリストではないのか。あなたの良い行いには何の意味があるのか。それが神を崇拝する心の代わりになるのか。ただ少し良い行いをしたからといって神の祝福を受けることはできないし、踏みにじられ抑圧されたからといって神があなたの恨みを晴らし、あなたに対する不正の仇討ちをすることもないだろう。神を信じてはいても神を知らず、それでも良い行いはしているような人たちもまた、すべて罰されるのではないか。あなたはただ神を信じており、ただ神があなたに対する不正を正し復讐してくれることを望んでおり、そしてついに堂々と頭を上げられる日を与えてくれることを望んでいるだけだ。しかしあなたは真理に注意を払おうとはせず、真理を生きることを渇望もせず、ましてやこの辛くむなしい人生から逃れることなどできていない。それどころかその肉の生、罪の生を生きていながら、神が自分の不満を正し、自分の存在の霧を晴らしてくれるよう期待して神を見上げている。そんなことが可能だろうか。もしあなたに真理があるのなら、あなたは神に従うことができる。神の言葉に生きているなら、神の言葉の顕れとなることができる。いのちを持っているなら、神の祝福を楽しむことができる。真理を持っている人々は、神の祝福を楽しむことができる。神は自らを心から愛し、困難や苦しみに耐えている人々には必ず救済を与えるが、自分自身のことしか愛さず、サタンの欺きの餌食となってしまった人々は救済しない。真理を愛さない人々に善がありえようか。肉しか愛さない人々に義がありえようか。義と善とはいずれも、ただ真理に関連して語られるものではないのか。それらは神を心から愛する人々だけのものではないだろうか。真理を愛さない人々や腐った屍でしかない人々――そうした人々はすべて、悪を心に抱いているのではないか。真理を生きることができない人々は、すべて真理の敵ではないだろうか。そして、あなたがたはどうだろうか。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 348

人を経営する(救う)ことは常にわたしの本分であった。さらに、人の征服はわたしが世界を創造したときに定めたことだった。終わりの日にわたしが人々を完全に征服することや、反抗的な人間を征服することがサタン打倒の証拠だということを、人々は知らないかもしれない。しかし敵がわたしとの戦いを始めたとき、わたしはすでに、サタンに捕われてその子となり、サタンの家を見守る忠僕となった者たちを征服すると告げた。征服という言葉の本来の意味は、打ち負かし、辱しめることである。イスラエル人の言葉では、それは完全に打ち負かし、破壊し、それ以上わたしに抵抗できないようにすることを意味する。しかし今日、あなたがたの間で用いられるこの言葉の意味は、単に征服するということだ。わたしの意図は常に、人類のうち邪悪な者たちを完全に根絶し完敗させ、それによってもうわたしに反逆することも、ましてやわたしの働きを妨害したりかき乱したりする生命力を持つこともないようにすることだった。したがって人間に関して言えば、この言葉は単に征服を意味するものとなった。この言葉の含意が何であれ、わたしの働きは人間を打ち負かすことである。なぜなら人類はわたしの経営に付属していることは確かだが、より正確に言えば、人間はわたしの敵以外の何者でもない。人間はわたしに反対して逆らう邪悪な者たちである。人間はわたしに呪われた邪悪な者の子孫以外の何者でもなく、わたしを裏切った大天使の末裔以外の何者でもない。人間ははるか昔にわたしに拒絶され、以来和解し難い敵となった悪魔の遺産以外の何者でもない。全人類の上にかかる空は暗くよどみ、清澄さは微塵もなく、人間の世界は漆黒の闇に包まれたため、そこで生きる者は顔の前で伸ばした自分の手も見えないし、頭を上げても太陽を見ることはできない。足の下の道はぬかるみ、窪みだらけで曲がりくねり、全土に死骸が散乱している。暗がりの隅々に遺骸が溢れ、冷え冷えとした暗がりには大勢の悪霊たちが居を定めている。人の世の至る所に悪霊の群れが行き交い、汚れにまみれた無数のけだものの子孫が膠着状態で闘いを繰り広げており、その音が人々を恐怖に震え上がらせる。このような時代、このような世界、このような「地上の楽園」で、人はどこに人生の至福を探しに行くのか。どこに行けば人生の終着点が見出せるのか。遠い昔からサタンに踏みつけられてきた人類は、当初からサタンの似姿を演じ続けてきた。それどころか、人類はサタンの化身でさえあり、大声で高らかにサタンに証しをする証人の役割を果たしている。このような人類が、このような屑が、この堕落した人間家族の子孫が、どうして神の証しをすることができようか。わたしの栄光はどこから現れるのか。わたしの証しをどこから語り始められるのか。人類を堕落させた敵はわたしに敵対し、すでに人類を奪ってしまい、わたしがはるか昔に創造しわたしの栄光とわたしの生で満ちていた人類を汚してしまった。敵はわたしの栄光を奪い去り、ただサタンの醜悪さを強く帯びた毒と、善悪の知識の木の果実による汁だけを人間に染み込ませた。初めにわたしは人類を創造し、すなわち人類の祖先であるアダムを造った。彼は形態と姿を与えられ、活力に溢れ、生命力に満ちて、その上わたしの栄光とともにあった。それはわたしが人を創造した輝かしい日であった。続いてエバがアダムの体から生み出され、彼女も人の祖先となった。こうしてわたしが生み出した人々は、わたしの息吹で満たされ、わたしの栄光に溢れていた。アダムはもともとわたしの手から生まれ、わたしの姿を表現したものであった。したがって「アダム」の元来の意味は、わたしによって造られ、わたしの生命力を吹き込まれ、わたしの栄光を吹き込まれた、形態と姿を持ち、霊と息とを持つ者ということである。アダムは被造物の中で唯一霊を持つものであり、わたしを表し、わたしの姿を持ち、わたしの息吹を受け取れることができた。当初エバは、息を吹き込まれた二番目の人であり、わたしがその創造を定めていたため、「エバ」の元来の意味は、わたしの栄光を持続する被造物であり、わたしの生命力で満たされ、さらにわたしの栄光が賦与された者、というものだった。エバはアダムから生まれたため、彼女もまたわたしの似姿をとっていた。彼女はわたしをかたどった二番目の人だったからである。「エバ」の元来の意味は、霊と肉と骨を持つ生きた人であり、わたしの二番目の証しであると同時に、人類におけるわたしの二番目の似姿、というものである。彼らは人類の祖先であり、人の純粋で貴重な宝であり、そして当初から霊を授けられている生き物であった。しかし、邪悪なる存在が人類の祖先の子孫を踏みつけ、捕らえ、人間の世界を完全な暗闇にしたため、子孫たちはもはやわたしの存在を信じていない。さらに忌々しいのは、この邪悪なるものは人々を堕落させ踏みにじりながら、わたしの栄光、わたしの証しとなるもの、わたしが人々に授けた生命力、わたしが彼らに吹き込んだ息吹といのち、人間世界におけるわたしのすべての栄光、さらにわたしが人類に注ぎ込んだ心血のすべてを、残酷にも力づくで奪い去ろうとしていることである。人類はもはや光の中にはおらず、わたしが授けたすべてのものを失い、わたしが与えた栄光を捨ててしまった。どうやって彼らが、わたしをすべての被造物の主として認めることができようか。どうやって天上のわたしの存在を信じ続けることができようか。どうやって地上にわたしの栄光が現れるのを見出せようか。どうやってこの孫息子や孫娘たちは、彼らの先祖たちが崇めた神を、自身の創造主として受け入れることができようか。この哀れな孫息子や孫娘たちは、わたしがアダムとエバに授けた栄光も姿も証しも、さらにわたしが人類に授け彼らが存在の頼みとしているいのちをも、邪悪なるものに気前よく「差し出して」しまい、そしてその邪悪なものの存在にほんの少しも気づくことなく、わたしの栄光をすべてその邪悪な者に与えてしまった。これこそがまさに「屑」という言葉の理由ではないだろうか。このような人類、このような邪悪な悪魔、このような生きる屍、このようなサタンの似姿、このようなわたしの敵が、どうやってわたしの栄光を得ることができようか。わたしはわたしの栄光を取り戻し、人々の間にあるわたしの証しを取り戻し、かつてわたしに属しておりわたしが昔人類に与えたすべてのものを取り戻し、人類を完全に征服する。しかしあなたは、わたしが造った人間がわたしの姿と栄光を備えた聖なる人であったことを知らねばならない。彼らはもともとサタンのものではなく、サタンに踏みつけられるものでもなく、純粋なわたしの現れであり、サタンの毒の痕跡すらなかった。そのためわたしは人類に告げる、わたしはただわたしの手によって造られた、わたしの愛する聖い者、他の何者にも属さないものだけを欲していると。さらに、わたしは彼らに喜びを感じ、彼らをわたしの栄光とみなすだろう。しかしわたしが欲しているのは、サタンによって堕落させられた、現在サタンに属している、もはやわたしの元来の創造物ではなくなった人類ではない。わたしは人の世界にあるわたしの栄光を取り戻すつもりなので、サタンを打倒したわたしの栄光の証拠として、人類の生き残りを完全に征服する。わたしは自らの証しだけをわたしの結晶として、わたしの喜びの対象として受け止める。これがわたしの旨である。

『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 349

人類は今日まで、何万年もの歴史を通して発展してきた。しかしわたしが当初創造した人類は、はるか昔に堕落へと落ち込んでしまった。人間はすでにわたしが望んだ人間ではなく、そのためわたしの目にはすでに、人類という名前に相応しいものではなくなっている。むしろ彼らはサタンによって捕われた屑であり、サタンに取り憑かれサタンを内に宿した生きる屍である。人々はわたしの存在を信じておらず、わたしの到来を歓迎もしない。ただ渋々わたしの要求に応え、一時的にそれに応じるだけで、人生の喜びや悲しみを心からわたしと共有したりもしない。人々はわたしを不可解な存在とみなしているため、渋々笑顔を見せ、権力者に擦り寄るような態度をしている。それはわたしの働きについて何も知らず、ましてや現在のわたしの旨も一切知らないからだ。正直に言うが、その日が来たとき、わたしを崇める人の苦しみは、あなたがたの苦しみよりも軽くなる。あなたがたの信仰の程度は実際、ヨブのそれを超えておらず、ユダヤのパリサイ人の信仰ですらあなたがたの信仰を上回る。したがって、火で焼かれる日が訪れると、あなたがたの苦しみはイエスに非難されたときのパリサイ人よりも大きく、モーセに反抗した250人の指導者たちよりも、滅びの炎に焼かれたソドムよりも重くなるだろう。モーセが岩を打ったとき、ヤーウェが授けた水がほとばしり出たのは、モーセの信仰のためだった。ダビデがわたしヤーウェを賛美して琴を奏でたとき、ダビデの心は喜びに満ちており、それは彼の信仰のためだった。ヨブが山々を埋め尽くすほど多くの家畜や膨大な量の財産を失い、その体が腫物で覆われたのは、彼の信仰のためだった。彼がわたしヤーウェの声を聞き、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰のためだった。ペテロがイエス・キリストに付き従うことができたのは、ペテロの信仰によるものだった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、栄光ある証しとなることができたのも、彼の信仰によるものだった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものだった。そして彼が終わりの日の幻を見たのも、なおさら彼の信仰のためであった。数多くのいわゆる異邦の民がわたしの啓示を受け、わたしが人々のもとで働くために肉となって再来したことを知るようになったのも、また彼らの信仰のためだ。わたしの厳しい言葉に打ちのめされつつも、それによって慰められ、そして救われたすべての者たちは、みな信仰のゆえにそうなったのではないか。わたしを信じつつ苦難に耐えている人々も、世界から拒絶されたのではないか。わたしの言葉の外で生き、試練の辛さから逃げている人々は、みな世界を漂っているのではないか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉など得ていない。わたしの刑罰や精錬が彼らを追うことはないにせよ、彼らは天国の外の街路をあてもなくさまよう乞食ではないか。世界は本当にあなたの安息の場所だろうか。あなたはわたしの刑罰を避けることで、本当にこの世から満足の微笑みをわずかでも得ることができるのだろうか。つかの間の楽しみで、心の隠し切れない空しさを真に覆うことができるのだろうか。自分の家族なら騙せるかもしれないが、わたしを騙すことは到底できない。あなたは信仰が貧弱すぎるので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができずにいるのだ。わたしはあなたに呼びかける、人生の半分を真心からわたしのために生きるほうが、人生のすべてを肉のため平凡に忙しく過ごし、耐え難い苦しみに耐えていくよりもましなのだと。自分自身をそれほど大事にして、わたしの刑罰から逃げて何になるのか。わたしの一時的な刑罰から隠れて、かわりに永遠の恥と永遠の刑罰を受けて何になるのか。わたしは実際、誰も強制的にわたしの旨に従わせはしない。誰かが真にわたしのすべての計画に従おうとするなら、その人を粗末には扱わない。しかしわたしはすべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたように、わたしを信じることを要求する。あなたがたの信仰がトマスのそれを超えているなら、その信仰はわたしの称賛を得ることになり、あなたがたはその忠誠の中にわたしの至福を見出し、必ずや日々にわたしの栄光を見出すだろう。しかしこの世を信じ、悪魔を信じる人々は、ソドムの町の人々のように心が頑なになっており、その目には砂粒が吹き込み、口には悪魔からの施し物を含んでいる。彼らの曇った心ははるか昔に、世界を強奪した邪悪なものに取り憑かれ、その考えはほぼすべてが古代の悪魔に捕われている。そのため人類の信仰は風に吹き飛ばされてしまい、人々はわたしの働きに気づくこともできずにいる。彼らははるか昔からサタンの毒に取り憑かれているため、ただわたしの働きにおざなりに対応したり、それを適当に分析したりすることを、わずかばかり試みるだけなのだ。

『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 350

わたしは人類を征服する。彼らはわたしに創造され、さらにわたしの豊かな被造物を享受してきたからだ。しかし同時に彼らはわたしを拒絶しており、彼らの心にわたしはいない。彼らはわたしを人生への重荷とみなし、はっきりとわたしを見たにもかかわらずわたしを拒絶しており、頭を絞ってわたしを打ち負かすためのあらゆる方法を考えている。人々はわたしが彼らを真剣に扱ったり、厳格な要求を課したりすることを許さず、彼らの不義に対する裁きや刑罰を行うことも許さない。彼らはそのようなことに一切興味を持たず、むしろ苛立ちを抱く。そのためわたしの仕事は、わたしを食べ、飲み、満喫はするものの、わたしを知りはしない人類を打ち倒すことである。わたしは彼らの武器を取り上げてから、わたしの天使たちとわたしの栄光を伴って、わたしの住む場所へと帰る。人々の行動ははるか昔にわたしの心を打ち砕き、わたしの働きを粉々にしてしまったからだ。わたしは邪悪なものに奪い去られた栄光を取り戻してから、喜んで歩き去るつもりだ。そして人類にはそのまま生活を続けさせ、「平和で満足な生活と仕事」を続けさせ、「自分たちの畑を耕し」続けさせ、もう彼らの生活には干渉しない。だが今やわたしは、わたしの栄光を邪悪なものの手から完全に取り戻し、世界の創造のときに人間に付与した栄光をすべて取り返すつもりだ。そして二度と、それを地上の人間には授けない。人々はわたしの栄光を保ち損ねただけでなく、それをサタンの姿と引き換えにしたからだ。人々はわたしの到来を喜ばず、わたしの栄光の日々を尊びもしない。わたしの刑罰を喜んで受け入れることもなく、ましてやわたしの栄光をわたしに返す気などなく、邪悪なものの毒を捨て去る気もない。人間は常に昔ながらのやり方でわたしを騙し、昔ながらのやり方でいつも明るい微笑と幸せそうな表情を装っている。彼らはわたしの栄光が去った後に直面することになる暗闇の深さに気づいていないのだ。そしてとりわけ、わたしの日が全人類に訪れたとき、彼らの日々がノアの時代の人々のそれよりも一層厳しくなることに気づいていない。なぜなら彼らはわたしの栄光がイスラエルを去ったときの暗さがどれほどだったかを知らず、人は夜明けが訪れると、夜の暗闇をくぐり抜けることがいかに厳しかったかを忘れるからだ。そして太陽が再び隠れ、人の上に夜の帳が降りると、再び暗闇の中で悲嘆にくれ歯ぎしりする。あなたがたはわたしの栄光がイスラエルから去ったとき、イスラエル人たちがどれほどの苦難に耐えることになったかを忘れたのか。今はあなたがたがわたしの栄光を見るときであり、わたしとともに栄光の日を過ごすときでもある。わたしの栄光が汚れた地を去るとき、人は暗闇の中で嘆き悲しむだろう。今はわたしがわたしの働きを行う栄光の日であり、わたしが人類の苦しみを免除する日でもある。わたしが苦痛と辛苦のときを人類とともにすることはないからだ。わたしはただ人類を完全に征服し、人類の中の邪悪な者たちを根こそぎにすることを望んでいるのだ。

『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 351

わたしは地上において、わたしの追随者となる多くの者を求めてきた。これらの追随者の中には、祭司として仕える人々、先導する人々、神の子、神の民、奉仕をする者たちがいる。彼らがわたしに示す忠誠に基づき、わたしは彼らを分類する。すべての者が種類に準じて分類されたとき、つまり、人間のそれぞれの種類の本性が明らかにされたとき、人類に対するわたしの救いの目的を達成するために、わたしは彼らの一人ひとりをそれぞれしかるべき区分の中に含め、種類ごとに相応しい場所につかせる。わたしが救いたい者をそれぞれの集団ごとにわたしの家に招き、これらの人々すべてが終わりの日のわたしの働きを受け取れるようにする。同時に、わたしは彼らを種類に従って分類し、一人ひとりをその行いに基づいて報いるか、あるいは懲罰する。これがわたしの働きを成す歩みである。

今、わたしは地上に暮らし、人間のもとで生活している。人々は皆、わたしの働きを経験し、わたしの発言に注目している。そうした中で、わたしの追随者たちがわたしからいのちを受け、それゆえに彼らがたどることのできる道を得られるように、彼ら一人ひとりにあらゆる真理を授ける。わたしは神、いのちを与えるものだからである。わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを得て、多くを捨ててきたが、それでもやはり人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であることを口先では認めるものの、わたしが話す真理には異議を唱え、さらには、わたしが彼らに要求する真理を実践することなどないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、わたしは人間を軽蔑している。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、誰一人としてわたしを真に崇拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上、あなたがたの行いは不名誉なまでにぼろぼろに裂けてちぎれている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、強い嫌悪をもって捨て去られる対象になった。なぜなら、あなたがたの誰一人として真理を愛さず、それどころか、祝福されることを欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲するからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得ようか。それについて考えたことがあるのか。どうしてあなたがたが天に昇れようか。そのように荘厳な光景、その壮麗さにおいて前例のない光景を見るに値する存在に、どうしてあなたがたが成り得ようか。あなたがたの口は偽りと汚れ、裏切りと傲慢の言葉に満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉もなく、わたしの言葉を経験するにあたり、わたしへの服従の言葉を語ったこともない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心の中には欲望と富しかなく、あなたがたの頭の中には物質的なことしかない。日々、あなたがたはわたしから如何にして何かを得ようかと計算している。日々、わたしからどれほどの富と幾つの物質的なものを得たかを数えている。日々、さらに多くの、もっと高水準のものを享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待ちわびている。あなたがたの思考の中にいつ何時も存在するのはわたしではなく、わたしからもたらされる真理でもなく、むしろあなたがたの夫や妻、息子、娘、あるいは食べるものや着るものなのだ。あなたがたは自分が如何にして、より多くの、より良い享楽を得られるかということを考えている。たとえ胃がはち切れんばかりに満腹したところで、あなたがたはやはり屍ではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはやはり、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、誰もわたしの働きのために毛一本として犠牲にすることはない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分自身の肉体のため、息子や娘のために働き詰めだが、あなたがたのうちの誰一人として、わたしの意に憂慮することも気遣いを見せることもない。あなたがたがわたしから、なおも得ることを望んでいるものは何なのか。

働きを行うにおいて、わたしは決して急き立てられることはない。人間がわたしに対してどのように従うかに関係なく、わたしは一つひとつの歩みに沿って、わたしの計画通りに働きを行う。したがって、あなたがたがこれほどわたしに反抗しているにもかかわらず、わたしはなおも働きを止めず、語らねばならぬ言葉を語り続ける。わたしは予め定めていた人々を、わたしの言葉の聴衆となるようわたしの家に呼ぶ。わたしの言葉に従い、わたしの言葉を慕い求めるすべての人々を、わたしの玉座の前に置く。わたしの言葉に背を向ける人々、わたしに従わず服従しない人々、公然とわたしに挑む人々は一人残らず、最後の懲罰を待つべく脇へ追いやる。すべての人々は堕落の只中、邪悪な者の手の下に生きており、それゆえに、わたしに従う人々のうちで真理を慕い求めている者はそれほど多くない。つまり、ほとんどがわたしを真に崇拝していない。彼らは真理をもってわたしを崇拝しておらず、堕落や反抗、不正直な手段を通してわたしの信頼を獲得しようとしているのである。それゆえに、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」とわたしは言うのである。招かれる人々は著しく堕落しており、皆が同じ時代に生きており、選ばれる人々はその中のほんの一部である。そうした人々は真理を信じ、認め、真理を実践する人々である。それらの人々は全体のごく一部に過ぎず、それらの人々のあいだから、わたしはさらなる栄光を受ける。これらの言葉に照らして評価した場合に、あなたがたは自分が選ばれる者の中にいるか否かわかるだろうか。あなたがたの最後はどのようになるだろうか。

『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 352

既に言ったように、わたしに従う人々は多いが、わたしを真に愛すものは少ない。おそらく、「もしわたしがあなたを愛していなかったなら、こんなに大きな代償を払っていたでしょうか。あなたを愛していなかったなら、ここまで従ってきたでしょうか」と言う者がいるかもしれない。確かに、あなたには多くの理由があり、そして確かにあなたの愛はとても大きい。しかし、あなたのわたしへの愛の本質は何なのか。「愛」と呼ばれるものは、純粋で汚れのない感情を指し、心をもって愛し、感じ、思いやりをもつということである。愛においては条件、障壁、距離がない。愛においては疑念、偽り、悪賢さもない。愛においては取引も不純なものもない。愛するならば、偽ったり、不平を言ったり、裏切ったり、反抗したり、強要したり、何かを得ようとしたり、一定の量を得ようとしたりすることはない。もし愛するならば、喜んで自分の身を捧げ、苦難に耐え、わたしと融和するようになる。あなたは自分の持つすべてのものをわたしのために捨てるだろう。家族、将来、青春、結婚をあきらめるだろう。そうでなければ、あなたの愛は愛などではなく、偽りと裏切りである! あなたの愛はどのような愛なのか。真の愛なのか。あるいは偽物なのか。あなたはどれほど捨ててきたのか。どれほど捧げてきたのか。わたしはあなたからどれほどの愛を受けてきたのか。あなたは分かっているのか。あなたがたの心は悪、裏切り、偽りに満ちている。そうであるなら、あなたがたの愛はどれほど汚れているのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動はなぜいつも反抗的で不正直なのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを疑っている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け容れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、事あるごとに物事がわたしにとって困難になるようにしてしまう。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしを騙し欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。こうしたすべてを愛とみなすのか。あなたがたが非常に多くを捧げてきたのは確かであるが、わたしがあなたがたに要求することをあなたがたは一度として実践したことがない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く考えると、あなたがたの中にはわたしへのかすかな愛も感じられない。これほど長年働きを行い、あれだけ多くの言葉を与えてきた後に、あなたがたは実際にどれほどのことを得ているのか。このことは注意深く振り返るに値しないか。わたしはあなたがたに忠告する。わたしのもとにわたしが招く人々は、一度も堕落したことがない人々ではない。むしろ、わたしが選ぶ人々は、わたしを真に愛する人々である。したがって、あなたがたは自分の言葉と行いに注意して、自分の意図や考えにおいて一線を超えないように検討しなければならない。終わりの日に際して、わたしの怒りがあなたがたから決して離れないということがないように、わたしの前にあなたがたの愛を捧げるべく最善を尽くしなさい!

『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 353

毎日、一人ひとりの行いと思いは唯一の方の目に留まっており、それらは同時に、彼ら自身の明日に向けて準備されている。これはすべての生ける者が歩かなければならない道であり、わたしがすべての者に予め定めた道であり、誰もこれを逃れられず、例外となる者もいない。わたしが語った言葉は数えきれず、さらに、わたしが行なった働きは計り知れない。一人ひとりがその生来の本性、およびその本性の発達に応じて、その人がなすべきあらゆることを自然に遂行する様子を、わたしは毎日見ている。多くの人は知らないうちに、「正しい軌道」にすでに乗っているが、それは様々な人を明らかにすべく、わたしが定めたものである。わたしはずっと以前からこれら様々な種類の人間を違った環境に置いており、一人ひとりがそれぞれの場所で、生まれ持った特性を表わしてきた。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者もいない。彼らはひとえに自由であり、彼らが表わすものは自然に生じる。彼らを抑制するものはただ一つ、わたしの言葉である。だから、死を免れるためだけにわたしの言葉をしぶしぶ読み、決して実践しない者もいる。一方、わたしの言葉の導きと施しがなければ日々耐え難いことに気づき、自然とわたしの言葉をいつも手放さない者もいる。時が経つにつれ、彼らは人生の奥義、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。わたしの言葉の前で、人類はこのような有様でしかない。そしてわたしは、物事を自然の成り行きに任せているに過ぎない。わたしは人に無理強いして、わたしの言葉を自らの生存の基盤にさせることは一切しない。だから、良心をもたず、自分の存在に何の価値もない人たちは、静かに事の成り行きを観察したあと、大胆にもわたしの言葉を投げ捨て、自分の好きなようにする。彼らは真理や、わたしから生じるすべてのものを忌み嫌い始める。さらに、彼らはわたしの家にいることも忌み嫌う。このような人たちは、自分の終着点のために、また懲罰を逃れるために、たとえ奉仕をしていても、わたしの家でしばらく暮らす。しかし、彼らの意図や行動は決して変わらない。このことは、祝福を求める彼らの願望を膨らませ、一度神の国に入ってその後永遠に留まり、果ては永遠の天国に入る願望をも膨らませる。わたしの日がすぐに来るのを切望すればするほど、彼らはますます、真理が障害になっている、自分の道をふさぐ躓きの石になっていると感じる。彼らは、真理を追求する必要も、裁きと刑罰を受け入れる必要もなく、それに何より、わたしの家で卑屈に振る舞い、わたしの命令どおりにする必要も一切ないまま、神の国に足を踏み入れて天国の祝福を享受することを待ち切れないでいる。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営に協力するためでもない。彼らの目的は、来たる時代に滅ぼされない人の一人になることだけである。よって彼らの心は、真理とは何か、真理をどのように受け入れるかを知ったことがない。そのような人たちが真理を実践することも、自分の堕落の深さを認識することもないまま、「しもべ」としてわたしの家でずっと暮らしていたのはそれが理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの仕方に翻弄されても疲れを知らない。しかし、彼らがどんなに努力しようと、あるいはどんな代価を支払おうと、彼らが真理のために苦しんだり、わたしのために何かを与えたりしているのを見た人はいない。彼らは心の中で、わたしが古い時代を終わらせる日を見たくてたまらず、さらに、わたしの力と権威がいかに偉大であるかを見出すことを待ちきれないでいる。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは自らを変え、真理を追い求めることである。彼らは、わたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものにうんざりしている。わたしが憎むものを慕いつつ、わたしが忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きながら、それを憎んだことは一度もなく、わたしが滅ぼすことを心底恐れている。彼らは矛盾した意図をもち、その中でわたしが忌み嫌うこの世を愛しているが、わたしが急いでこの世を滅ぼすこと、そして自分が真の道から逸れてしまう前に、破滅の苦しみを免れ、次の時代の主人へと変えられることを切望している。これは、彼らが真理を愛さず、わたしから生じる一切のものにうんざりしているからである。祝福を失わないよう、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの祝福を求める気持ちや、滅びて燃える火の池に入ることを恐れる気持ちは決して覆い隠せない。わたしの日が近づくにつれ、彼らの願望は着実に強くなる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせ、長い間切望してきた祝福を失わないようにするには、まずどこから始めたらよいのかわからず、ますます無力になる。わたしの手がその働きを始めるやいなや、このような人たちは先駆者として仕えるべく行動を起こしたがる。自分がわたしの目に留まらないことを深く恐れ、群れの最前列に押し入ることだけを考える。彼らは自分が正しいと思うことを行い、それを口にするが、自分の行為や行動が真理にまったく沿っておらず、自分の所業がわたしの計画をただ妨害し、干渉するだけであることを知らない。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐えようとする意志や意図は真実かもしれないが、彼らがする一切のことはわたしとなんら関係ない。なぜなら、彼らの行いが善意から生じるのを一度も見たことはないし、ましてやわたしの祭壇に何か置くのも見たことがないからである。これが、彼らが長年わたしの前でしてきた行いである。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 354

もともと、わたしはあなたがたにもっと真理を与えたいと望んだが、真理に対するあなたがたの態度があまりにも冷たく無関心なので、わたしはあきらめざるを得ない。自分の努力が無駄になることは望まないし、人々がわたしの言葉をもちながら、あらゆる点でわたしに逆らい、わたしを中傷し、わたしを冒涜することを行うのを見たくはない。あなたがたの態度と人間性の故に、わたしは自分の言葉のごく一部分、あなたがたにとって非常に大切な部分だけをあなたがたに与え、人類を試す働きとして役立てる。いま初めて、わたしの下した決断と計画があなたがたの必要とするものに合致していたこと、そしてそれ以上に、人類に対するわたしの態度が正しいものであることを、わたしは本当に確信した。あなたがたが長年にわたりわたしの前で見せてきた振る舞いは、前例のない解答をわたしにもたらした。その解答に対する問いは、「真理と真の神の前で、人の態度はどのようなものか」である。わたしが人間に捧げてきた努力は、人間を愛するわたしの実質を証明し、人がわたしの前で行なってきた一つひとつの行動は、真理を憎んでわたしに反抗する人間の実質を証明している。わたしはいつでも、わたしに従うすべての人を気にかけているが、わたしに従う人はいかなるときも、わたしの言葉を決して受け取ることができない。彼らはわたしの提案さえ受け入れることができない。これがわたしを何より悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰一人わたしを理解できたことがないし、そのうえ、誰一人わたしを受け入れられたこともない。誰もが、わたしにまかされた働きを、自分の考えにしたがって行おうとしている。わたしの旨を求めず、ましてやわたしが何を求めているかを尋ねることなどない。彼らはわたしに逆らいながら、依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちの中で、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、人々は言葉でこそわたしを神として認めているが、わたしのことを真理でも、道でも、いのちでもない部外者だとも信じている。誰一人、次の真実を知る人はいない。わたしの言葉は永久不変の真理である。わたしは人間にいのちを施す者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の実質によって決定される。たとえこの地上の誰一人としてわたしの言葉を受け入れられないとしても、わたしの言葉の価値と、それがどれだけ人類の助けになるかは、どんな人にも計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉をまったく軽蔑している人に直面するとき、わたしの立場はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が真理であり、道であり、いのちであることを示そう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに、人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れられない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れられない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らを外さない。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 355

人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人はやはり必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、衰退への道を突き進み、神によって滅ぼされる。

『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 356

あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことにまだ気がついていない。なぜなら光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心と霊はあの悪い者に取上げられてしまった。あなたの目は暗闇のせいで見えなくなり、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声も玉座から流れる水の音も聞こえない。あなたは正当にあなたのものであるすべて、全能者があなたに与えたものすべてを失った。あなたは終わりのない苦しみの海に入った。自分を救う力もなく、生き残る希望もなく、ただもがき駆け回ることしかできず……。その瞬間から、あなたはあの悪い者に苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から遠く離れ、全能者の施しの届かないところにおり、後戻りできない道を歩いている。百万回の呼び声もあなたの心と霊を奮い起こす見込みはない。あなたはあの悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は境界も、方向も、道しるべもない広大な領域へとあなたを誘惑した。それ以来、あなたは本来の純粋さと無邪気さを失い、全能者の気づかいを避けるようになった。あなたの心の中では、あの悪い者があらゆることにおいてあなたを操縦し、あなたのいのちになった。あなたはもはや悪い者を恐れることも、避けることも、疑うこともしない。代わりにあなたは悪い者を心の中で神として扱う。あなたは悪い者を祀り、礼拝するようになる。あなたと彼は物体とその影のように切り離せなくなり、共に生き、共に死のうと決意する。あなたは自分がどこから来て、なぜ生まれ、なぜ死ぬのか全く知らない。あなたは全能者を見知らぬ人として見る。あなたは全能者の起源を知らず、ましてあなたのために全能者が行なった全てのことなど知るよしもない。全能者から来るあらゆることがあなたにとって憎むべきものになった。あなたはそれを大事にしないし、その価値も知らない。全能者からあなたが施しを受けた日から、あなたはあの悪い者とともに歩いている。あなたは悪い者とともに何千年もの風雨を耐え抜いてきて、悪い者とともにあなたのいのちの源であった神に立ち向かう。あなたは悔い改めを一切知らず、ましてや自分が滅亡の淵に達したことなど知りもしない。あなたは悪い者があなたを誘惑し苦しめてきたことを忘れてしまった。あなたは自分の始まりを忘れてしまった。そのようにして今日この日まで、一歩一歩悪い者はあなたに害を与えてきた。あなたの心と霊は麻痺し、腐敗してしまった。あなたはもはや人の世の苦悩について不満を言うこともなく、世の中が不公平であるとは信じない。まして、全能者が存在するかどうかなど気にかけることもない。このようになったのは、あなたが随分前に悪い者を真の父と思うようになり、もはや彼から離れることはできないからである。これがあなたの心の中の秘密である。

夜明けが到来すると、明けの明星が東に輝きだす。それは以前にはそこになかった星で、静寂な星空を照らし、人々の心の中で消された光を再び燃え立たせる。人々はこの光のおかげでもはや孤独ではない。この光はあなたも他人も同様に照らす。しかし、あなただけが暗夜に眠りについたままである。あなたには音も聞こえず光も見えない。あなたは新天新地、新しい時代の到来にも気付かない。なぜなら、あなたの父が、「我が子よ、起きなくてよい。まだ早い。外は寒い。外に出るな。剣や槍があなたの目を射抜かないように」とあなたに言うからである。あなたは自分の父の忠告だけを信じる。なぜなら父はあなたより年を取っており、あなたを心から愛しているので、父だけが正しいと信じているからである。そのような忠告と愛があるために、あなたはもはや世界には光があるという言い伝えを信じなくなり、世界にまだ真理があるかどうかを気にかけなくなる。あなたはもはや全能者からの救済を望むなどということはしない。あなたは現状に満足していて、もはや光の到来を期待しないし、言い伝えられる全能者の出現に注意することもない。あなたに関する限り、あらゆる美しいものは復活させることができず、存在することもできない。あなたの目には、人類の明日、人類の未来は消滅し、跡形もなくなっている。あなたは父の衣に必死になってしがみつき、困難を喜んで分かち合い、あなたの旅の友、長旅の方角を失うことをひどく恐れている。広大でもやの掛かった人の世があなたがたの多くを作り上げ、この世の様々な役割を満たすことにひるまず屈せず立ち向かうようにさせた。それにより、死を全く恐れない多くの「戦士」が作り出された。さらには、自らの創造の目的さえ知らない無感覚で麻痺した人間の群れが次々に生まれた。全能者の目はこの苛酷な苦しみにある人類の一人ひとりを眺めている。全能者に聞こえるのは苦しむ人々の泣き叫ぶ声であり、全能者に見えるのは苦しめられた人々の恥知らずな有様であり、全能者が感じるのは救いの恩恵を失った人類の無力と不安である。人類は全能者の配慮を拒絶し、自らの道を歩くことを選び、全能者の目による詮索を避けようとする。彼らはむしろ深海の苦さを、最後の一滴まで、かの敵とともに味わう方を好む。全能者のため息は人類にはもはや聞こえない。全能者の手はもはやこの悲劇的な人類に進んで優しく触れることはない。全能者は何度も何度も奪還し、何度も何度も失う。このように全能者の働きは繰り返される。その瞬間から全能者は疲れ、うんざり感じ始め、その掌中にある働きを止め、人々の間をさまよい歩くのを止める……。人間はこのような変化の一切、このような全能者の行き来にも、全能者の悲しみと憂いにもまったく気づかない。

『神の出現と働き』「全能者のため息」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 357

神の経営は深遠なものだが、人間の理解を超えるものではない。なぜなら、神の働きはすべて神の経営と、人類を救う働きに結びついており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間のあいだで、そして人間に対して行う働きは、まことに実践的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見て経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神が行う働きのすべてを人間が受け入れられないなら、神の働きにどんな意味があるというのか。また、そうした経営がどうして人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、どのようにして祝福を受けるかや、いかにして災いを避けるかということだけに気を揉んでいる。神の働きや神の経営と聞くと、彼らはとたんに口を閉ざし、興味を失う。そうした退屈な問題を理解したところで、いのちに成長に役立つわけでも、何らかの益をもたらすわけでもないと思い込んでいるので、神の経営について聞いてはいても、ほとんど注意を払わない。受け入れるべき大切なことだとは見ておらず、まして、自分のいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの単純な目的しか持っていない。その目的とは祝福を受けることである。このような者たちは、その目的に直接関係しないその他一切のことに、わざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じて祝福を受け取ること以上に正当な目標はなく、それがまさに彼らの信仰の価値なのである。その目的に貢献しなければ、彼らはそれにまったく心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。そのような者たちの目的や意図は、もっともらしく見える。神を信じ、また神のために費やし、神に身を捧げ、本分を尽くすからである。青春を犠牲にし、家族と職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目標のために自分の関心のありどころを変え、人生観を変え、求める方向までも変える。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分自身の理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に遭おうとも、頑張り抜いて死をも恐れない。彼らはどんな力に突き動かされて、そのような形で献身を続けるのか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しするという信念だろうか。神の旨を実現させるためならすべてを喜んで捨てるという忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを理解していない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただただ奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げてきたかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの振る舞いは分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人がそれほどまでに神のために捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題が見つかる。つまり、人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある。物事がこういう状態に至った今、誰がこの趨勢を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになったかを、どれほどの人が本当に理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

人類による神への信仰の最も悲しい点は、神の働きのただ中で人間が自分自身の経営を行い、神の経営に注意を払わないことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を崇めることを追求するのと同時に、自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎まれて当然の哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分のことだけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、神の経営を完成させる者を神は必要としている。神の経営の働きに全身全霊を傾け、それによって神に服従する人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者を必要としない。まして、わずかなものを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者など無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる冷血な人を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人を、神は嫌悪する。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようと望んでいることに関心を持ったことがないからである。そのような人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気を揉んでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分の前途と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神が人類を救う方法や、神の旨についてまるで関心がない人は、神の経営の働きとは無関係な形で好き勝手なことをするばかりである。彼らの行動は、神によって記憶されず、認められず、まして神から好意的に見てもらえることなどない。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 358

わたしの働きはまもなく完成する。あなたがたと共に過ごした長い年月は、耐えがたい記憶となっている。わたしは絶え間なく自分の言葉を繰り返し、新たな働きを展開し続けた。もちろん、わたしの忠告はわたしが行うそれぞれの働きに必要な要素である。わたしの助言がなければ、あなたがたはみな道を逸れ、完全に途方にくれることさえあるだろう。わたしの働きはまもなく完了し、終わりの時を迎えようとしているが、わたしはまだあなたがたに助言を与え、忠告の言葉を聞かせようと思っている。わたしはただ、あなたがたがわたしの苦心を無駄にせず、そしてそれ以上に、わたしの配慮と思いやりを理解して、わたしの言葉を人としての振る舞いの基盤とすることを願うのみである。それがあなたがたの聞きたい言葉かどうか、喜んで受け入れられる内容か、または不快ながらも受け入れるしかないものかどうかによらず、あなたがたは必ず真剣に受け止めなければならない。さもなくば、あなたがたのいい加減で無神経な性質と態度はわたしをまったく不快にし、嫌悪さえ抱かせるであろう。わたしはあなたがた全員が、わたしの言葉を何度も何度も――何千回も――繰り返し読んで、心に刻み込むことさえできるようになることを切に願っている。そうすることによってのみ、あなたがたはわたしの期待を裏切らないようになれる。しかし現在のところ、そのように生きている者は皆無だ。逆に、あなたがたは欲しいだけ飲み食いする放縦な生活に浸り、わたしの言葉で心と霊を豊かにしている者は一人もいない。このためわたしは、人間の本当の顔についての結論に至ったのだ。人はいつでもわたしを裏切れるものであり、わたしの言葉に完全に忠実になれる者はいない、と。

「人間はあまりにもサタンによって堕落させられており、もはや人間の姿をしていない。」多くの人々は現在、この言葉をある程度認識している。わたしがこう言うのは、この「認識」というものが、真の認識とは逆の、単なる表面的な認知だからである。あなたがたの誰も、自分を正確に評価したり徹底的に分析したりできないため、常にわたしの言葉に対して半信半疑でいる。しかし今回は、事実を例にとって、あなたがたの抱える最も深刻な問題を説明しよう。その問題とは裏切りである。あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜならほとんどの者が、何かしらの形で他人を裏切ったことがあるからだ。たとえば夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る、などである。こうした例にはすべて裏切りの本質が含まれている。つまり裏切りとは、約束を破る、道徳の原則に反する、あるいは人間の倫理に反する行為の形態であり、人間性の喪失を示している。一般に、この世に生まれた一人の人間として、何らかの形で他人を裏切ったことを覚えているかどうか、あるいはすでに何度も他人を裏切ってきたかどうかに関わらず、何かしら真理への裏切りとなることをしたことはあるだろう。あなたは両親や友人を裏切ることができるのだから、他人も裏切ることができるし、さらにわたしを裏切り、わたしが忌み嫌う事を行うこともできる。言い換えれば、裏切りとは単なる表面的な不道徳行為ではなく、真理に対立するものでもある。これがまさに、人間のわたしに対する反抗と不従順の根源なのだ。このためわたしは、このことを次のように要約した。すなわち裏切りは人間の本性であり、この本性が、各人とわたしの調和を妨げる天敵なのである。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 359

わたしに完全に従うことができない行為は裏切りである。わたしに忠実であることができない行為は裏切りである。わたしを欺き、嘘でわたしを騙すことは裏切りである。多くの観念を抱き、至る所でそれらを広めることは裏切りである。わたしの証しと利益を護れないことは裏切りである。心の中ではわたしから遠く離れていながら、作り笑いを浮かべるのは裏切りである。こうした行為はすべて裏切りであり、あなたがたはこれまでいつもこうした行為が可能だったし、これらはあなたがたの間で当たり前のこととなっている。あなたがたの誰一人として、これを問題だと考える者はいないが、わたしはそうは考えない。わたしは自分に対する誰かの裏切りを些細なこととして扱うことはできず、無視することもできない。今、わたしがあなたがたの間で働きを行っているときに、あなたがたはこのように行動している。いつの日かあなたがたを見守る者がいなくなったら、あなたがたは皆、お山の大将を名乗るのではないか。そのときが到来し、あなたがたが大惨事を引き起こしたとき、誰がその後始末をするのだろうか。あなたがたは、一部の裏切り行為は単なる一時的なもので、いつもそうしているわけではなく、そんなに深刻に捉えて、自分の自尊心を傷つけるには値しないと考えている。ほんとうにそう思っているのなら、あなたがたは正気でない。そのように考えることは、反逆の見本であり典型である。人間の本性とはその者のいのちであり、人が生存のために依存する原則で、人がそれを変えることはできない。裏切りの本性を例に取ろう。あなたが親戚や友人を裏切ることができるなら、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定できない。たとえばある人が他人から盗むことを楽しむなら、この盗みの楽しさは、その人のいのちの一部である。その人は盗みをするときもあれば、しないときもあるかもしれないが、盗みをしようとしまいと、それはその盗みが単なる一種の行為だという証明にはならない。むしろそれは盗みが彼らのいのちの一部であり、すなわち彼らの本性であることを証明している。それが彼らの本性なら、良い物を見ても盗まないことがあるのはなぜか、と問う人もいる。その答えは至って簡単である。彼らが盗まない理由はたくさんある。たとえば、人目を盗んでかすめ取るには大きすぎるとか、実行するのによいタイミングがないとか、高価すぎたり警備が固すぎたり、さらには特に関心がなかったり、自分にどう役立つかわからなかったりという場合もある。こうしたあらゆる理由が考えられるが、いずれにせよ、彼らがそれを盗むかどうかによらず、その考えが単なる一瞬の思いつきだと証明することはできない。それどころか、それは彼らの本性の一部であり、改善することは困難なのだ。このような人は一度盗めば満足するものではなく、何か良い物を見つけたり適当な状況に置かれたりすればいつでも、他人のものを自分のものだと主張するという考えが湧く。だからわたしは、この考えの根源は単に時折意識されるものではなく、その人の本性の中にあると言うのだ。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 360

誰でも自分の言葉や行動により、自分の本当の顔を表すことができる。この本当の顔とはもちろん、その者の本性である。もしあなたがひねくれた話し方をするなら、あなたはひねくれた本性をしている。あなたの本性が狡猾なら、あなたは狡賢く振る舞い、人々を容易に手玉に取る。あなたの本性が陰険なら、あなたの言葉は聞こえが良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険さを隠せない。あなたの本性が怠惰なら、あなたの言う事はすべて自分のいい加減さや怠惰さの責任を逃れるためのものであり、あなたの行動は遅くおざなりで、真実を隠すことに長けている。あなたの本性が同情的なら、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理によく則したものになるだろう。あなたの本性が忠実なら、あなたの言葉は間違いなく誠実であり、あなたの行動のし方は堅実で、主人を不安にするようなことはない。あなたの本性が好色あるいは金銭に貪欲なら、あなたの心は大抵それらのことで一杯であり、人が簡単に忘れられず、かつ人に嫌悪感を与えるような、常軌を逸した不道徳な行動を無意識のうちにとるだろう。そしてさきほど言ったように、裏切りの本性を持っているなら、その本性から抜け出すことはまず不可能であろう。自分が誰にも不正を行ったことがないからといって、自分に裏切りの本性がないと楽観してはならない。そのように考えるなら、あなたは本当に胸がむかつくような人間だ。わたしが語る言葉は、その都度すべての人々に向けて語ったものであり、一個人や特定の種類の人間にだけ向けたものではない。あなたが一つのことについてわたしを裏切ったことがないからといって、あらゆることでわたしを裏切れないという証明にはならない。結婚生活が挫折する中、真理の探求において自信を失う人々もいる。また、家族の崩壊によってわたしへの忠誠の義務を投げ捨ててしまう人もいる。またつかの間の喜びや興奮を求めて、わたしを見捨てる人もいる。光の中に生き、聖霊の働きの喜びを自分のものとするよりも、暗い谷底に落ちることを選ぶ人もいる。またある人々は、富への欲を満たすために友人の助言を無視し、現在もなお自分の過ちを認めて道を正すことができずにいる。さらに、わたしの保護を受けるため一時的にわたしの名のもとで生きる人々もいれば、命にしがみつき死を恐れるために、やむを得ず少しだけ献身する者もいる。これらをはじめとする、高潔さのかけらもない不道徳な行ないは、まさに人々が心の奥底で長い間わたしを裏切ってきた行為ではなかろうか。もちろん、人々が前もってわたしを裏切ることを計画していたわけではないことは知っている。彼らの裏切りは彼らの本性の自然な現れなのだ。わたしを裏切りたいと思う者は誰もおらず、わたしを裏切るようなことをして喜ぶ者もいない。それどころか、彼らは恐怖に震えているではないか。ではあなたがたは、こうした裏切りをどうやって埋め合わせ、現在の状況をどうやって変えられるか、考えているだろうか。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 361

人間の本性はわたしの本質とまったく異なる。人間の堕落した本性はすべてサタンに由来しており、人間の本性はサタンに操られ堕落させられているからである。つまり人間は、サタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つものではなく、ましてや光の中で生きてはいない。ゆえに、誰も生まれつきその本性の中に真理を備えていることはあり得ず、ましてや神を畏れ神に従う本性を持って生まれることはあり得ない。その逆に、人間は神を拒み、神に反抗する本性を備えており、真理への愛は抱いていない。わたしが話したいのはこの本性、すなわち裏切りという問題についてである。裏切りは各人の神への反抗の根源である。これは人間だけが有する問題であり、わたしにはない。人によっては、「すべての人間はキリストと同様この世界に生きているのに、なぜすべての人間は神を裏切る本性を備えており、キリストは備えていないのか」と問う者がいる。この問題について、あなたがたに明確に説明しなければならない。

人間の存在の基本は、魂が繰り返し生まれ変わることである。言い換えれば、各人は魂が生まれ変わると、肉としての人間の命を得る。人の身体が生まれると、その命は肉が最終的に限界に達するまで、すなわち最後の瞬間まで続き、そして魂はその殻を離れる。この過程は何度も繰り返され、人間の魂は幾度となく行っては戻り、人類の存在が維持される。肉の命は人間の魂の命でもあり、人間の魂はその肉の存在を支えている。つまり各人の命はその者の魂に由来し、本来肉に宿っているものではない。したがって、人間の本性は人間の肉ではなく魂に由来する。各人がサタンの誘惑や苦悩、堕落をどのように経験したかを知っているのは、各人の魂のみである。人間の肉がそれらを知る由はない。そのため人間は無意識のうちにますます汚れ、邪悪にかつ暗黒になってゆくと同時に、わたしと人間の間の距離もますます広がり、人間の日々もますます暗黒になってゆく。人間の魂はサタンに掌握されており、そのため人間の肉もまたサタンに占領されたのは言うまでもない。このような肉、このような人間が、どうやって神に反抗せずにいられようか。どうやって生来、神に適合する者であり得るだろうか。わたしがサタンを中空へと投げ落としたのは、サタンがわたしを裏切ったからだが、ならばどうして人間がその影響から逃れ得るだろうか。これが、人間の本性が裏切りである理由だ。あなたがたはこの理由を理解すれば、キリストの本質もある程度信じることができるはずだ。神の霊が纏っている肉は神自身の肉である。神の霊は至高であり、全能で、聖く、義である。同様に、神の肉も至高であり、全能で、聖く、義である。このような肉は、人間にとって義であり有益なこと、聖いこと、栄光あること、そして力あることしか行えず、真理や道義に反することはできず、ましてや神の霊を裏切るようなことはできない。神の霊は聖なるものであるため、神の肉はサタンが堕落させることのできないものであり、人間の肉とは本質が異なる。サタンにより堕落させられているのは人間であって神ではないため、サタンが神の肉を堕落させることは一切できない。このため、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、人間だけがサタンにより占有され、利用され、囚われている。それに対し、キリストはサタンによる堕落の影響を永久に受けることがない。なぜならサタンが最も高い場所に昇れることは決してなく、神に近付くことも決してできないからである。今日あなたがたは全員が、わたしを裏切るのはサタンにこのように堕落させられた人間だけであることを理解しなければならない。裏切りの問題がキリストに関わることは一切ないのである。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 362

サタンにより堕落させられた魂はすべて、サタンの領域に囚われている。キリストを信じる者のみが分離され、サタンの軍勢から救われ、今日の神の国へと導かれた。これらの人々は、もはやサタンの影響下にはいない。それでもなお、人間の本性は人間の肉に根ざしている。つまり、あなたがたの魂は救われているが、あなたがたの本性は依然として昔のままであり、あなたがたがわたしを裏切る可能性はいまだに100パーセントである。このために、わたしの働きはこれほど長期に及んでいるのだ。あなたがたの本性が手に負えないからである。現在あなたがたは皆、自分の本分を尽くすため全力を尽くして苦難に耐えているが、それでも一人一人がわたしを裏切り、サタンの領域、サタンの陣営に戻り、昔の生活へと戻る可能性がある。これは否定できない事実である。そのときあなたがたは、現在のように人間性や人間としての姿をわずかでも示すことはできないであろう。深刻な場合は神により滅ぼされ、さらに永遠に罪に定められ、厳罰に処されて、生まれ変わることも二度とないであろう。これがあなたがたを待ち受ける問題である。わたしがこのように警告しているのは、第一に、わたしの働きが無駄にならないようにするためであり、第二に、あなたがた全員が光の日々を生きられるようにするためである。実のところ、わたしの働きが無駄かどうかは重大な問題ではない。重要なのは、あなたがたが幸せな生活と素晴らしい未来を得られることである。わたしの働きは人間の魂を救う働きである。あなたの魂がサタンの掌中に陥ったなら、あなたの身体も平安の中に生きることはできない。わたしがあなたの身体を護っていれば、あなたの魂も確実にわたしの庇護を受ける。わたしがあなたを本気で忌み嫌ったなら、あなたの身体と魂は、即座にサタンの掌中に陥るであろう。そうなったときの自分の状況を想像できるか。もしいつの日か、わたしの言葉があなたがたにとって意味をなさなくなったら、わたしはあなたがたをすべてサタンに引き渡し、サタンはわたしの怒りが完全に消えるまであなたがたに激しい苦悶を与えるか、あるいはわたし自らが、救いようのないあなたがたに懲罰を与えることになる。あなたがたのわたしを裏切る心は変わりようがないからである。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 363

今あなたがたは皆、できるだけ早く自分自身をふり返り、わたしに対する裏切りが自分の中にどの程度残っているかを確認しなければならない。わたしはあなたがたの答えをはやる思いで待ち望んでいる。わたしといい加減に向き合うのはやめなさい。わたしは人間に対してふざけることは一切なく、すると言ったことを必ず実行する。わたしはあなたがた全員が、わたしの言葉を真剣に捉え、それをSF小説のように考えなくなることを願っている。わたしが望むのはあなたがたの具体的な行動であり、想像ではない。そして、あなたがたはわたしの次の質問に答える必要がある。

1. あなたが真に効力者であるならば、一切の怠慢や消極性を示すことなく、わたしに忠実に奉仕できるだろうか。

2. あなたはわたしが一度もあなたを称賛したことがないと知っても、一生わたしのもとに留まり、奉仕を続けることができるだろうか。

3. あなたが大いに努力したにもかかわらず、わたしがあなたに冷淡であったとしても、ひっそりとわたしのために働き続けることができるだろうか。

4. 何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求に応えなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするだろうか。

5. あなたがわたしに対して常に忠実で、わたしを非常に愛してきたにもかかわらず、病や貧窮の苦しみを受けたり、友人や親戚に見捨てられたり、その他の人生における不幸に見舞われたとしたら、それでもわたしに対する忠誠や愛が続くだろうか。

6. あなたが心に思い描いてきた物事が、一つもわたしの行ったことと一致しないとしたら、あなたはどのように将来の道を歩むだろうか。

7. あなたが望むものを一切受け取れなかったとしても、引き続きわたしに付き従うか。

8. あなたがわたしの働きの目的や意味をまったく理解できなかったとしても、勝手に判断したり結論を出したりしない、従順な者であることができるだろうか。

9. わたしが人間と共にあった間に述べたすべての言葉と行ったすべての働きを、大事にすることができるか。

10. あなたはわたしに忠実に付き従い、何も受け取れないとしても、生涯を通してわたしのために苦難に耐えることができるか。

11. わたしのために、自分が将来生存するための道を考えたり、計画したり、それに備えたりするのを慎めるか。

これらの質問は、あなたがたに対するわたしの最終的な要求であり、わたしはあなたがた全員からの返答を期待している。もしあなたがこれらの質問のうち1つか2つの要求を満たしているなら、引き続き努力する必要がある。これらの要求のうち1つも達成できるものがないなら、あなたは間違いなく地獄へ落とされる部類の人間だ。そのような人々に、わたしはこれ以上何も言う必要はない。そのような者は間違いなく、わたしと調和できる者ではないからである。どんな状況であろうとわたしを裏切る者を、どうしてわたしの家に留めておくことができようか。多くの場合にわたしを裏切る可能性がある者については、わたしはまず彼らの行動を観察してから、その他の処分を行う。しかしどのような状況下にせよ、わたしを裏切る可能性がある者すべてを、わたしは決して忘れることはなく、心の中に留め、その邪悪な行いに報いる機会を待つ。わたしが挙げた要求はすべて、あなたがたが自分で検証すべき問題である。あなたがた全員がこれらの問題を真剣に検討し、わたしといい加減に向き合わないことを願っている。わたしは近い将来、わたしの要求に対するあなたがたの答えを確認する。その時には、あなたがたにそれ以上の物事を要求することはなく、より熱心な忠告を与えることもないだろう。代わりにわたしは自分の権威を行使する。残すべき者は残され、報いられるべき者は報いられ、サタンに引き渡されるべき者はサタンに引き渡され、厳罰を受けるべき者は厳罰を受け、滅ぶべき者は滅ぼされるであろう。そのようにしてわたしの日には、わたしを侵害する者は誰もいなくなる。あなたはわたしの言葉を信じるだろうか。あなたは報いを信じるだろうか。わたしを騙し裏切る邪悪な者を、わたしがすべて罰することを信じるだろうか。あなたはその日が早く来ることを望むか、それとも遅く来ることを望むか。あなたは罰に怯える者であろうか、罰に耐えなければならないのにわたしに反抗する者であろうか。その日が来た時、あなたは自分が明るく笑っているか、それとも泣きながら歯ぎしりしているかを想像できるだろうか。あなたはどんな結末を得ることを望むか。あなたは自分がわたしを100パーセント信じているか、それともわたしを100パーセント疑っているかを、真剣に考えたことがあるか。自分の行動や態度が自分にどのような結末や最後をもたらすかを、よく考えたことがあるか。わたしの言葉が一つずつ実現されることを真に望んでいるか、あるいはわたしの言葉が一つずつ実現されることを強く恐れているか。わたしが自らの言葉を実現するためにまもなく立ち去ることを望んでいるなら、あなたは自分の言葉や行動をどのように扱うべきか。わたしが立ち去ることを望まず、わたしの言葉がすべてただちに実現されることを望まないなら、そもそもなぜわたしを信じているのか。あなたは自分がなぜわたしに従っているかを本当に知っているのか。それが単に自分の視野を広げるためなら、そのような苦悩を受ける必要はない。それが祝福を受けて今後の災禍を避けるためなら、なぜあなたは自分の行動について懸念しないのか。なぜ、自分がわたしの要求を満たせるかどうかを自問しないのか。またなぜ、自分が今後やって来る祝福を受けるにふさわしいかどうかを自問しないのか。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 364

わたしの前で仕えるわが民はみな、過去を思い返すべきである。あなたがたのわたしへの愛は、不純なもので穢されていなかったか。あなたがたのわたしへの忠実は純粋で心からのものだったか。あなたがたのわたしについての認識は真実であったか。あなたがたの心のどれほどの場所をわたしは占めていたか。わたしはあなたの心を完全に満たしていたか。わたしの言葉はあなたがたの中でどれほどのことを成し遂げたか。わたしを侮ってはいけない。これらのことはわたしには完全に明確である。今日、わたしの救いの声が発されるにつれて、あなたがたのわたしに対する愛はいくらか増しただろうか。あなたがたの忠実の一部が純粋になっただろうか。あなたがたのわたしについての認識は深まっただろうか。過去に捧げられた讃美は、今日の認識の堅固な土台を形成しただろうか。あなたがたのどれほどをわたしの霊が占めているだろうか。わたしの姿はあなたがたの内においてどれほどの場所を占めているだろうか。わたしの発した言葉は、あなたがたの急所を突いただろうか。あなたがたは自分の恥を隠す場所がどこにもないとほんとうに感じるだろうか。あなたがたはわが民となる資格がないと、ほんとうに信じるだろうか。もしあなたがたがこれらの問いにまったく気づかずにいるのなら、それは、濁った水の中で釣りをしているのであり、数を合わせるためにだけ存在しているのであり、わたしが予め定めた時には、必ずや淘汰され、再び底なしの淵に打ち込まれるということを示している。これらはわたしの警告の言葉であり、これらを軽んじる者は誰であれ裁かれ、定められた時に災いに見舞われる。そうではないか。わたしはまだ例を示してこれを説明しなければならないのか。あなたがたのために代表例を提示するべく、もっと平明に話さなければならないのか。天地創造の時から今日まで、多くの人々がわたしの言葉にそむき、そのためにわたしの回復の流れから取り除かれ、淘汰された。最終的に彼らの体は滅び、その霊はハデスに投げ込まれる。今日でも彼らはいまだに重い罰を受けている。多くの人々がわたしの言葉に従ったが、彼らはわたしの啓きと照らしにそむき、そのためわたしに退けられ、サタンの支配下に落ち、わたしに敵対する者の一人になった。(今日、わたしに真っ向から敵対する者は、わたしの言葉の表面にだけ従い、わたしの言葉の実質には逆らう。)また、わたしが昨日語った言葉だけを聞いて、過去の「くず」にしがみつき、今日の「産物」を重んじない者が大勢いる。そうした人々はサタンにとらわれているだけではなく、永遠の罪人になり、わたしの敵になり、真っ向からわたしに反対している。そのような人々は、わたしの怒りの極致におけるわたしの裁きの対象であり、今日、まだ目が見えず、いまだに暗い牢獄にいる(つまり、そのような人々は腐ったサタンに操られるしなびた死体なのであり、彼らの目はわたしが覆っているので、彼らは目が見えないと言うのである)。あなたがたがそこから学べるように、参考として例を示すのがよいだろう。

パウロと聞くと、あなたがたは彼の生涯とともに、彼に関する逸話のいくつかを思い起こすだろうが、それらの逸話は不正確で、現実とは異なっている。彼は幼いころから両親の指導を受け、またわたしのいのちを受けた。わたしが前もって定めた結果、パウロはわたしが要求する素質を備えたのである。十九歳のとき、パウロはいのちについて、さまざまな書物を読んだ。どのようにしてかは詳細は述べないが、彼の素質と、わたしの啓きと照らしとにより、パウロは霊的物事についてある程度の識見をもって語れただけでなく、わたしの意図を把握することもできた。もちろん、これは内的・外的要因を排除するものではない。ともかく、パウロの不完全性の一つは、その才能ゆえに彼は口達者で自慢好きであったことである。その結果、その一部が直接大天使を表したパウロの不服従のために、わたしがはじめて受肉したとき、パウロはあらゆる努力をしてわたしに逆った。彼はわたしの言葉を知らない者の一人で、彼の心の中のわたしの場所はすでになくなっていた。このような人々はわたしの神性に真っ向から敵対し、わたしに打ち倒され、最後の最後にようやく頭を垂れて自身の罪を告白する。したがって、わたしがパウロの長所を利用した後、つまり彼が一定期間わたしのために働いた後、彼は再び以前のやり方に戻り、わたしの言葉に直接逆らったわけではないが、わたしの内なる導きと啓きにそむいたので、それまでにパウロが行なった働きがすべて無益になった。つまり、彼の語った栄光の冠はむなしい言葉、彼自身の想像の産物となった。今日でも、彼はまだわたしの縛めに捕らわれながら、わたしの裁きを受けているからである。

上記の例から、誰でもわたしに敵対する者は(敵対するとは、肉にあるわたし自身だけではなく、さらに重要なことに、わたしの言葉と霊、つまりわたしの神性に逆らうことである)その肉の身にわたしの裁きを受けることが見て取れる。わたしの霊があなたを離れると、あなたは堕落し、まっすぐハデスに下る。そして、あなたの肉体は地上にあっても、精神を病んでいる者のようになる。つまり、あなたは理知を失い、自分が死体になったようにただちに感じ、すぐさま自分の肉を終わらせてくれるようにとわたしに乞うほどになる。あなたがた霊をもつ者のほとんどは、このような状況について深く理解しているから、これ以上詳しく述べる必要はない。過去にわたしが普通の人間性をもって働いたときには、たいていの人々は、すでにわたしの怒りと威厳に比べて自分を測っていて、すでにわたしの知恵と性質とについて少しは知っていた。今日、わたしは神性において直接話し、行動する。そして、わたしの怒りと裁きとをその目で見ることになる人々がまだ何人かいる。さらに、裁きの時代の第二部の主なる働きは、わが民のすべてにわたしの肉における業を直接知らせ、わたしの性質を直接あなたがたが見るようにすることである。しかし、わたしは受肉しているので、あなたがたの弱さを考慮している。わたしの希望は、あなたがたが自分の霊、魂、体をおもちゃのように扱い、サタンに漫然と捧げないことである。持てるものすべてを大切にし、もて遊ばない方が良い。これらはあなたがたの運命に関わっているからである。あなたがたは、わたしの言葉の真の意味をほんとうに理解できるだろうか。わたしの真の思いをほんとうに考えることができるのだろうか。

あなたがたは、天における祝福のようなわたしの祝福を地上で受けたいと思っているのだろうか。あなたがたは、わたしについての理解、わたしの言葉の享受、わたしについての認識を、あなたがたの人生で最も貴重で意味深いものとして大事にするつもりがあるだろうか。あなたがたは自分の前途を考えることなく、わたしに従うことがほんとうにできるのか。あなたがたは羊のようにわたしに殺されたり、わたしに導かれたりすることがほんとうにできるのか。あなたがたの中にこのようなことをなし遂げ得る人はいるだろうか。わたしが受け入れ、わたしの約束を受ける人はみな、わたしの祝福を受ける人だということがあり得ようか。あなたがたはこうした言葉から何かを理解しているのだろうか。もしわたしがあなたがたを試したら、あなたがたはほんとうにわたしにすべてを委ね、そうした試練の中でわたしの意図を探り、わたしの心を理解することができるだろうか。あなたが多くの感動的な言葉を述べたり、興奮するような物語を語ったりすることができることを、わたしは望まない。むしろ、わたしに立派な証しをすること、現実に完全に深く入ることができることを求める。もしわたしが直接話さなければ、あなたは、周囲のすべてを捨て、わたしに用いられることを受け入れられるだろうか。これが、わたしが求める実際なのではないか。誰がわたしの言葉の意味を把握できるだろうか。しかしわたしは、あなたがたがこれ以上不安に押しつぶされず、入りにおいて積極的になり、わたしの言葉の実質を把握するよう求める。これにより、わたしの言葉を誤解したり、わたしの意味するところについて不明瞭であったり、わたしの行政命令に触れたりすることがなくなるだろう。わたしがあなたがたについて意図していることをわたしの言葉の中に把握してくれることを願う。もはや自分の前途については考えず、すべての物事における神の采配に委ねるとわたしの前で決心したそのとおりに行動しなさい。わたしの家の内に立つ者はみな、できる限りの努力をしなければならない。わたしの地上での働きの最終部分に自己の最善を差し出さなければならない。あなたは、このように実践する気持ちがほんとうにあるだろうか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第四章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 365

地上では、ありとあらゆる悪霊が安息の地を求めて永遠にさまよい、人間の死体をむさぼり食うべく果てしなく探している。我が民よ。あなたがたは、わたしの保護と加護の中にとどまらなければならない。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀に振る舞ってはいけない。あなたはわたしの家で忠誠を捧げなければならず、忠誠によってのみ、悪魔の狡猾さに反撃できる。いかなる状況においても、過去のように行動してはいけない。わたしの前であることをし、わたしの後ろで別のことをしてはいけない。そうするなら、あなたはすでに贖われなくなっている。このような言葉を、わたしは十分以上に述べてきたのではないか。わたしが人々に繰り返し注意しなければならないのは、ひとえに人間に根づいた本性が度し難いためである。飽きてはならない。わたしの言うことはみな、あなたがたの運命を確実なものにするためである。穢れた汚い場所こそ、サタンがまさに必要とするものである。どうしようもないほど救いがたく、放蕩に溺れれば溺れるほど、あなたがたは抑制に甘んじることを拒み、穢れた霊があらゆる機会を利用して、ますますあなたがたに取りつこうとする。そこまでになると、あなたがたの忠誠は退屈なおしゃべり以外の何物でもなくなり、そこに現実は何一つなく、穢れた霊があなたがたの決意を呑み込み、それを不服従に変え、わたしの働きを妨げるサタンのたくらみに変えてしまう。そうなると、あなたがたはいつ何時わたしに打ちのめされるかわからない。誰一人、この状態の深刻さを知る者はいない。人はみな、耳に入ることを聞き流すばかりで、少しも用心しようとしない。過去に何が行われたか、わたしは覚えていない。あなたは、わたしがもう一度「忘れる」ことで、自分に対して寛容になるのを待っているのか。人間はわたしに敵対したが、わたしは恨みに思わない。人間の霊的背丈はあまりに低いのだから、わたしは過度に大きなことを要求しない。わたしが求めるのは、放蕩せず、抑制に甘んじることだけである。この一つの条件を守ることは、あなたがたの能力を超えてはいないはずだ。違うだろうか。大半の人は自分の目を楽しませようと、わたしがさらに奥義を明かすのを待っている。しかし、たとえ天の奥義をすべて理解するようになったとしても、それでいったい何ができるだろうか。それでわたしへの愛が増すのだろうか。それでわたしへの愛が生じるのだろうか。わたしは人間を過小評価しないし、人間について軽々しく判断することもしない。これらのことが人間の置かれた実情でないなら、わたしはけっしてこのような呼び名を軽々しく人に冠さない。過去を振り返りなさい。わたしがあなたがたをけなしたことが何度あったというのか。あなたがたを過小評価したことが何度あったというのか。あなたがたの実情を考慮せず、あなたがたを見ていたことが何度あったというのか。わたしの発する言葉が、あなたがたを心から勝ち取らなかったことが何度あるというのか。わたしの話した言葉が、あなたがたの心の糸に深く響かなかったことが何度あったというのか。あなたがたのうち誰が、わたしによって底なしの淵に突き落とされることを深く恐れて恐怖に震えることなく、わたしの言葉を読んだというのか。誰がわたしの言葉による試練に耐えないというのか。わたしの発する言葉の中には権威があるが、これは安易に人間を裁くためのものではない。むしろ、わたしは人間の実情を考慮し、わたしの言葉がもつ意味を人間に絶えず示している。実際のところ、わたしの言葉の中に、わたしの全能を認められる者がいるだろうか。わたしの言葉を形作る純金を受け取れる者がいるだろうか。どれほどの言葉をわたしは語ったことか。誰がそれらを大事にしたことがあるのか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 366

日々、わたしは立って宇宙を観察し、自分のすみかに謙虚に身を隠しながら人間の生活を経験し、人のあらゆる行いをよく観察する。誰一人、本当に自身をわたしに捧げたことがない。誰一人、真理を追求したことがある者はいない。誰一人、わたしに対して誠実だったり、わたしの前で誓いを立て、本分を守ったりした者はいない。誰一人、わたしを自分の内に宿らせたり、自分のいのちと同じくらいにわたしを大事にしたりした者はいない。誰一人、わたしの神性のすべてを実際に目にした者はいない。誰一人、実践の神自身とやりとりをしようとしない。水が人間をそっくり呑み込むと、わたしはその淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人々が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生き続ける勇気を与え、わたしを存在の基礎として使えるようにする。人々がわたしに不服従であるとき、わたしはその不服従の中からわたしを知るように仕向ける。人間の古い本質を考慮し、わたしの哀れみにより、人間を死に至らしめるよりは、悔い改めて新たに始めさせる。人間が飢饉に苦しむと、たとえ体内に一息しか残っていないとしても、わたしは彼らを死から奪い、サタンの罠に陥らないようにする。人々は何度もわたしの手を見、何度もわたしの親切な顔と笑顔を目撃し、わたしの威厳、わたしの怒りを何度も見た。人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの弱点につけ込んで、わざと挑発することはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情できるようになった。人々の不服従と忘恩に対してだけ、わたしはさまざまな程度の刑罰を下す。

わたしは、人々が忙しい時には身を隠し、暇な時に姿を現す。人々はわたしのことを、あらゆることを知っていると想像し、あらゆる嘆願に応じる神自身であると見なしている。だから、ほとんどの人間は、わたしを知りたいという欲求からではなく、神の助けを求めてわたしの前に来る。病の苦しみにあるとき、人々はわたしにあわてて助けを求める。困難な状態にあるときは、自分たちの難儀を除くことをひたすらに願って、自分たちの苦しみについて打ち明ける。しかし、安楽な状態にあるときにわたしを愛せた者は一人もいない。安らかで幸福な時に、喜びを分かち合おうと、わたしに手を差し伸べた者は一人もいない。自分のささやかな家庭が幸福で安らかな時、人々は家庭の幸福を享受できるよう、ずっと前からわたしを押しのけ、あるいは戸口から締め出し、入れないようにしてきた。人間の心はあまりに狭い。愛情深く、慈悲深く、親しみやすい神であるわたしを受け入れさえしないほど狭いのだ。楽しい笑いの場で、わたしは何度も人間に拒絶された。人間が倒れたとき、彼らはわたしを支えにしようと、何度も寄りかかってきた。病に苦しむ人々に、わたしは何度も医者の役目を強いられた。人間とは何と残酷なのか。まったく理不尽で不道徳だ。人間が備えているはずの感情でさえ彼らの中に感じられない。彼らには人間性の痕跡がほとんどない。過去を振り返り、現在と比べて見よ。あなたがたの中で何か変化が起こっているだろうか。過去の物事を何か捨て去ったことはあるか。それとも、その過去はまだ置き換えられていないのか。

わたしは山河を横切り、人間世界の浮き沈みを経験した。わたしは人々の間を歩き回り、人々の中で長い間暮らした。しかし、人間の性質はほとんど変わらないようだ。そして、まるで人々の古い本性が根付き、成長しているようなのだ。彼らはけっして古い本性を変えられず、もともとの基礎にあったものをいくぶん向上させているだけだ。人が言うように、本質は変わっていないが、形式はずいぶん変わっている。人々はみな、うまくごまかしてわたしに気に入られようと、わたしを騙して惑わそうとしているようだ。わたしは、人間の策略などに感心しないし、注意を払いもしない。憤るよりは、わたしは見ても見ないふりをする。わたしは人にある程度の余裕を与え、その後すべての人間をまとめて取り扱うつもりだ。人間はみな自分を愛さず、自分をまったく大事にしない無価値なろくでなしである。そうであれば、どうしてわたしが再び慈悲と愛を示す必要があるのか。例外なく、人間は自分を知らず、自分の価値がどれほどのものか、わかってもいない。彼らは重さを測るために秤に乗らなければいけない。人間はわたしを無視しているのだから、わたしも彼らをまともには扱わない。人間はわたしに無関心なのだから、わたしも彼らのためにこれ以上懸命に働きを行なう必要はない。これは両者にとって得なことではないか。それがあなたがたの姿なのではないか、わが民よ。あなたがたのうち、わたしの前で誓いを立て、後になってそれを捨てない人がいたか。しきりに何かを決心するのではなく、わたしの前で長きにわたる誓いを立てた人がいたか。人間は安楽な時に、いつもわたしの前で誓いを立て、苦しい時にそれをみな取り消す。後になって、またその誓いを取り上げて、わたしの前に置く。わたしは、まったく尊敬に値しないから、人間がゴミの山から拾ってきたこのクズを気楽に受け入れるというのだろうか。自分の誓いを堅持する人間は、ほとんどいない、慎み深い人は、ほとんどいない。また、自分にとって何より大事なものをわたしのために捧げる人も、ほとんどいない。あなたがたはみな同じではないのか。わたしの国でわが民の一員として自分の本分を尽くせないのなら、わたしに嫌われ捨てられる。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十四章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 367

人間はみな自己認識をもたない生き物であり、自分を知ることができずにいる。それにもかかわらず、掌を指すかのごとく他の全員のことを知っており、他人のすべての言動はまず彼らの目の前で「吟味」され、承認を得てからなされたかのようである。結果として、他の全員のことを心理状態まですべて知り尽くしているかのごとき有様だ。人間はみなこのようなものである。今日、人間は神の国の時代に入ったものの、その本性は変わっていない。わたしの前では依然わたしと同じことを行なうが、わたしの背後では自分独自の「仕事」をし始めている。とは言え、その後はわたしの前に来るのだが、まるで完全に別人のようで、見たところ冷静で臆しておらず、顔つきも穏やかで脈も安定している。これこそまさに、人間を卑しいものにしているのではないか。かくも多くの人が二つのまったく違う顔をもち、一つはわたしの前にあってもう一つはわたしの背後にある。かくも多くの人が、わたしの前では生まれたばかりの子羊のように振る舞いながら、わたしの背後にいるときは獰猛な虎と化し、その後は丘を楽しく飛び回る小鳥のように振る舞っている。かくも多くの人がわたしの前で抱負と決意を示す。かくも多くの人がわたしの言葉を切に渇望してわたしの前に来るが、わたしの背後では、わたしの発する言葉が邪魔物ででもあるかのように、それらにうんざりして捨て去っている。じつに何度も、人類がわたしの敵に堕落させられるのを見て、わたしは人間に希望を託すことを諦めた。じつに何度も、人間がわたしの前に来て、涙ながらに赦しを乞い求めるのを見てきたが、人間の自尊心の欠如と度し難い頑固さに、たとえ彼らの心が本物で、その意図が誠実だったとしても、わたしは怒りの中で目を閉じてきた。じつに何度も、人間がわたしに協力するだけの信心をもっているのを見てきたが、彼らはわたしの前にいるとき、わたしに抱かれ、そのぬくもりを味わっているかのようである。じつに何度も、わたしの選民の無垢さ、活発さ、愛らしさを見てきたが、そうした様子に大きな喜びを感じずにいられようか。人間は、わたしの手の中にある、あらかじめ定められた恵みをどう享受すればよいか知らない。なぜなら、「祝福」および「苦しみ」とはいったい何かを理解していないからである。そのため、人間はわたしのことを求めるにあたり、まったく誠実ではない。仮に明日が存在しなければ、わたしの前に立つあなたがたの誰が、降りしきる雪のように白く、翡翠のように無垢であるだろうか。わたしに対するあなたの愛は、おいしい食事や上等な衣服、あるいは高給を伴う高い地位と引き換えられるものだというのか。他人があなたに抱く愛と交換できるものなのか。試練を経たせいで、人間がわたしへの愛を捨て去るということなのか。苦難と艱難のせいで、人間がわたしの采配について文句を言うようになるのか。わたしの口の中にある剣を本当に味わった者は誰もいない。人間は表面的な意味しか知らず、そこに伴うものを本当に把握してはいない。仮に人間が本当にわたしの剣の鋭さを見ることができたなら、ネズミのように穴に逃げ込むだろう。人間は鈍感なので、わたしの言葉の真の意味を何一つ理解できない。そのため、わたしの発する言葉がどれほど恐るべきものであるかも、人間の本性をどれほど暴くかも、自分自身の堕落がそれらの言葉によってどれほど裁かれてきたかも、まるでわかっていない。そのため、わたしの言葉に対する生半可な理解の結果、大半の人は中途半端な態度をとってきたのだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 368

長い間に、大勢が失望して、しぶしぶこの世を去った。そして大勢が希望と信じる心を持ってこの世に来た。わたしは大勢が来るようにし、大勢を去らせた。無数の人々がわたしの手を通り過ぎた。多くの霊がよみに投げ込まれ、多くが肉の体で生き、多くが死んでは、この世に生まれ変わった。しかし、けっして誰も今日の神の国の祝福を受ける機会は得なかった。わたしは人間に実に多くを与えた。しかし、人間はほんのわずかしか得ていない。サタンの勢力が襲ってきて、人間がわたしの富を享受できないようにしたためだ。人間は、それらを目にする幸いを得たが、けっしてそれらを完全に享受することはできなかった。人間は、天からの富を受け入れる宝庫をその体の中に発見することがなかった。そのため、わたしが与えた祝福を失ったのだ。人間の霊はまさに、自分とわたしの霊を繋ぐためのものではないか。なぜ人間は、けっしてその霊においてわたしにつながることがないのか。なぜ人間は肉においてわたしに近づきながら、霊においては、そうできないのか。わたしの真の顔は、肉の顔なのか。なぜ人間はわたしの実質を知らないのか。人間の霊には、わたしの痕跡がほんとうに存在しないのか。わたしは人間の霊から完全に消え去ったのか。もし人間が霊界に入らないのなら、どうしてわたしの意図が把握できよう。人間の目の内に、霊界を直接見通せるものがあるのか。わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしに突き刺されたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そのため、人間はわたしを締め出し、わたしは、固く閉ざされた冷たい「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向かって泳ぐことだろう。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 369

多くの人は、ほんとうにわたしを愛したいと願うが、彼らの心が自分のものではないために、自身を制御できない。多くの人は、わたしの与える試練を経験する中で、ほんとうにわたしを愛している。しかし、わたしが本当に存在することを把握できず、わたしの実在ではなく、単に空虚の中でわたしを愛しているに過ぎない。多くの人はわたしの前に心を差し出した後、自分の心に注意を払わない。そして、彼らの心は機会があるたびサタンに掠め取られ、その後はわたしを離れる。多くの人は、わたしが言葉を与えるとき、ほんとうにわたしを愛する。しかし、霊でわたしの言葉を愛するのではなく、公共物ででもあるかのように気安く用いて、気が向けばいつでも元の場所に投げ戻すのだ。人間は苦痛のただ中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを騙すのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人にあまねく行き渡る。しかし、人間のあらゆる行動の真相も人々にあまねく行き渡り、それはわたしに対する欺きも同じである。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の実質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンによってなされた害を感じなくなり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十一章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 370

人間は光の中に生きていながら、光の貴さには気づいていない。人間は光の実質、光の源、さらに、光が誰のものであるかについては、無知である。わたしが人間たちに光を与えるとき、直ちに人間たちの状態を調べる。光があるので、人々はみな変化と成長を遂げつつあり、闇を去っている。わたしは全宇宙の隅々まで見渡す。山々が霧に包まれ、水が冷気の中で凍り、光が到来したため、人々は何かもっと貴重なものを見つけようと、東を見ている――しかし、霧の中で、はっきりと方向を見定めることができないでいる。全世界が霧に包まれているので、わたしが雲の中から見ていると、わたしの存在に気づく人間は決していない。人間は地上で何かを探している。あちこちあさっているようだ。どうやら、人間はわたしの到着を待っているらしい――しかし、人間はわたしの日を知らず、東方の微かな輝きをたびたび見やるしかない。すべての人々の中に、わたしは、ほんとうにわたしの心にかなう者を探す。わたしはすべての人々の間を歩き、すべての人々の間に生きるが、地上の人間は安全で健やかであり、それで、ほんとうにわたしの心にかなう者はいないのだ。人々は、わたしの心をどう気にかけたらよいか、わからない。彼らには、わたしの行いは見えない。そして、光の中を動き回って、光に照らされることができない。人間はいつもわたしの言葉を大事にしているが、サタンの欺きに満ちた策略を見通すことができない。人間は霊的背丈が足りないので、心で願うことが実行できないからだ。人間はわたしを心から愛したことがない。わたしが人間の地位を高めると、人間は自分がふさわしくないと感じるが、だからといって、わたしを満足させようと努力するわけではない。ただわたしの与えた「地位」を手にして、それをじっくり調べる。わたしの素晴らしさには気付かず、置かれた地位の恩恵を貪ることに固執する。これが人間の欠点ではないか。山々が動くとき、あなたの地位を考慮して迂回するものだろうか。水が流れるとき、人間の地位があるからといって、止まるだろうか。天と地は、人間の地位次第で入れ替わるだろうか。わたしは、かつて人間に憐れみをかけた、何度も何度も――しかし、誰一人、それを大事にすることも、宝にすることもなかった。ただ、それを作り話として聞くか、小説として読むだけなのだ。わたしの言葉は本当に人間の心に触れないのだろうか。わたしの言葉は、ほんとうに何の効果もないのか。これは、誰一人わたしの存在を信じていないということだろうか。人間は自分自身を愛さない。かえって、サタンと組んで、わたしを攻撃し、サタンをわたしに仕えるための「資産」として用いる。わたしはサタンの欺きに満ちた策略全部を見通し、サタンの存在ゆえにわたしに敵対しないよう、地上の人々がサタンの欺きを受け入れるのを止める。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 371

わたしの目には、人間は万物の支配者だ。わたしは人間に少なからぬ権威を与えた。地上の万物を扱わせた――山々の草、森の動物たち、そして、水の中の魚。しかし、それで幸福でいるどころか、人間は不安にとらわれている。人間の生涯は苦しみに満ち、走り回り、むなしさに楽しみを加えたものであり、全生涯に何の発明も創造もない。誰一人、このむなしい人生から自由になることができず、誰一人、意味ある人生を見出せず、誰一人、真の人生を経験していない。今日の人々はみな、わたしの輝く光の下で生きているが、天での生活について、何も知らない。もしわたしが人間に対して憐れみ深くなくて、人間を救うことをしなければ、すべての人はむなしく生まれることになり、地上で無意味に生き、何一つ誇りに思うことなしに、無益に死んでいく。あらゆる宗教、社会のあらゆる部門、あらゆる国家、あらゆる教派の人々はみな、地上のむなしさを知っており、彼らはみな、わたしを求め、わたしの戻るのを待っている――しかし、わたしが到着したとき、誰がわたしを知ることができるのだろう。わたしは万物を創った。わたしは人間を創り、今日、人間たちの間に降り立った。しかしながら、人間はわたしに殴り返し、仕返しをする。わたしが人間にしている働きは、人間のためになっていないのだろうか。わたしは、人間を満足させることができないのだろうか。なぜ人間はわたしを拒むのか。なぜ人間は、わたしに対してあれほど冷たく無関心なのか。なぜ地上は死体に覆われているのか。これは、わたしが人間のために創った世界の状態なのか。なぜ、わたしは人間に比類のない富を与えたのに、人間はお返しに空っぽの手を差し出すのか。なぜ人間はほんとうにわたしを愛さないのか。なぜ人間はけっしてわたしの前に来ないのか。わたしの言葉はみな、ほんとうに無駄だったのか。わたしの言葉は水の熱のように消えたのか。なぜ人間は、わたしに協力したがらないのか。わたしの日の到来は、本当は人間の死の瞬間なのか。わたしはほんとうに、わたしの国が建てられるとき、人間を全滅することになるのか。なぜ、わたしの経営(救いの)計画の全体を通して、誰一人、わたしの意図を把握していないのか。なぜ、人間は、わたしの口から出た言葉を大事にするのではなく、嫌い、拒むのか。わたしは誰をも罪に定めない。ただ、すべての人を穏やかな状態に戻し、自省の働きをさせるだけだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 372

人はわたしの暖かさを経験し、心からわたしに仕え、心からわたしの前で服従し、わたしの前でわたしのためにすべてを行ってきた。しかしそれは、今日の人々には成し遂げられないことである。あたかも飢えた狼に連れ去られたかのように霊の中で泣きわめくばかりで、どうすることもできずにただわたしを見て、絶えず泣き叫ぶことしかできない。だが結局、その苦境から逃れられないのである。過去の人々が、わたしの親切に愛をもって報いると、わたしの前で約束し、わたしの前で天地に誓ったことを思い出す。彼らはわたしの前で悲しみも露わに涙を流し、その泣き声は悲痛で聞くに耐えないものであった。わたしはその決意のゆえに、しばしば人々に助けを与えた。人々は幾度となくわたしの前に出てわたしに服従したが、その素晴らしい態度は忘れがたい。人々は幾度となくわたしを愛したが、その忠誠心は揺るぎなく、誠実さは称賛に値した。人々は幾度となく、自分の命をも犠牲にするほどわたしを愛し、我が身以上にわたしを愛したが、わたしはその誠実さを見て彼らの愛を受け入れた。人々は幾度となくわたしの前で自分を捧げ、わたしのために死を前にしても意に介さなかった。わたしは彼らの不安を和らげ、彼らの表情を注意深く見つめた。わたしが彼らを大切な宝物のように愛したことは無数にあったし、わたし自身の敵のように憎んだことも無数にあった。それにもかかわらず、人はわたしの心に何があるかを推し測れないままである。人々が悲しんでいるとき、わたしはそばに来て彼らを慰め、彼らが弱い時にはそばに来て協力する。彼らが迷ったときには方向を示す。彼らが泣いているときには涙を拭き取る。しかし、わたしが悲しい時、誰が心からわたしを慰めることができるだろう。わたしがひどく心配しているとき、誰がわたしの気持ちを察してくれるだろう。わたしが悲嘆に暮れているとき、誰がわたしの心の傷を癒せるだろう。わたしが誰かを必要とするとき、誰がわたしに協力することを申し出るだろう。人々のわたしに対するかつての態度はいまや失われ、決して戻らないということなのか。それが何一つ彼らの記憶に残っていないのはなぜなのか。これらのことをすべて忘れてしまったのはどういうことか。それはひとえに、人類がその敵によって堕落させられたからではないのか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十七章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 373

神は人類を創造したが、神が人間世界に来ると、人々は神に抵抗しようとし、あたかも神が世界を放浪する孤児か、国を持たない俗世の人間のように、自分たちの領土から追い払おうとする。誰も神に愛着を覚えず、誰も真に神を愛さず、誰も神の到来を歓迎したことがない。それどころか、神の到来を見ると、彼らの嬉しそうな顔は瞬く間に曇ってしまう。それはまるで、迫り来る嵐に突然遭ってしまったか、神が自分の家族の幸せを奪ってしまうかのようであり、神は決して人類に祝福を与えず、その代わりにただ人類に不幸をもたらしたかのようである。ゆえに人の考えの中で、神は恩恵でなく、むしろ自分たちを常に呪う存在なのだ。そのため、人々は神を気に留めず、歓迎することもなく、いつも神に対して冷淡であり、常にそうあり続けてきた。人はこうした事柄を心に抱いているので、人類には理不尽で不道徳だと神は言い、人間が備えているはずの感情でさえ彼らの中に感じられないと言う。人は神の感情にまったく配慮を示さず、その代わりにいわゆる「義」を使って神に接する。彼らは長年にわたってこのようであり、そのため神は彼らの性質は変化していないと言った。そのことは、彼らが一握りの羽根ほどの実体しか有していないことを示すことになる。人間は自身を大切にしないので、価値のない見下げ果てた者だと言える。自分を愛することさえなく、それどころか自分を踏みにじるなら、自分に価値がないことを示しているのではないか。人類は自分をもてあそび、進んで他人に汚されようとする不道徳な女性のようである。たとえそうでも、人々は自分がどれほど卑しいかいまだにわからない。彼らは他人のために働くことや、他人と語らうことに喜びを感じ、こうして自ら他人の支配下に入る。これはまさに人類の汚さではないか。わたしは人類のあいだで人間の生活を経験していないし、真に人生を経験していないが、人間のあらゆる動き、あらゆる行動、あらゆる言葉、あらゆる行ないを極めて明確に理解している。わたしは人をこの上ない羞恥に晒し、彼らがもはや自分の陰険さを示したり、自分の欲望に譲歩したりしないようにすることさえできる。殻の中に引っ込むカタツムリのように、彼らはもはや自分の醜い状態をあえてさらけ出しはしない。人は自分自身を知らないので、その最大の欠点は、醜い顔つきを見せびらかしながら他人の前で自分の魅力を振りまこうとすることであり、これは神がもっとも嫌うことである。なぜなら、人間同士の関係が異常で、正常な人間関係が存在せず、ましてや人と神との正常な関係などないからである。神は多くを語ってきたが、そうする中で、神の主たる目的は人々の心の中に一定の場所を占めることであり、それによって人々がそこに巣くうすべての偶像を取り除けるようにすることなのだ。その結果、神はすべての人に力をふるい、地上に存在する目的を達成することができる。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十四章」(『言葉』第1巻)

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