人類の堕落を暴く(1)

日々の神の御言葉 抜粋 300

数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪い。神に反対する悪魔になり、人による神への反抗は歴史書に記録されるほどになり、本人でさえその反抗的な振る舞いを完全に説明することができなくなっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているからである。今日でさえ、人はいまだ神を裏切っている。神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る者さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は、人間の装いをした獣、毒蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしはそのような人を決して憐れまない。人は白と黒の違い、真理と真理でないものの違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、依然として祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、それでも王として統治したいと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に座ることができようか。人は実に恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見るよう勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているのか。あなたは祝福を得られる者の顔をしているのか。性質にわずかな変化もなく、真理を一切実践していないのに、あなたはそれでも素晴らしい明日を願っている。自分自身を欺いているのだ。ひどく汚れた地に生まれたことで、人は社会によってひどく汚染され、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、まったく価値のない生存、下劣な生活様式と風俗――これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心を深刻にむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます神に逆らうようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のためなら何でも進んで投げ出す者、進んで神に従う者、さらには神の出現を進んで探し求める者は一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求するばかりで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇の中で生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。かくも堕落した人類に、どうして救いの可能性があり得ようか。かくも退廃した人類が、どうして光の中で生きられようか。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 301

人の中に生じる堕落した性質の根源は、サタンの惑わし、堕落、そして害毒である。人はサタンに縛られ、支配されており、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知に与えたひどい害を受けている。まさに人の根本的な事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと創ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に逆らい、真理を受け入れることができないのである。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識と真理に関する認識を変えることから始めるべきである。あらゆる土地の中でもっともひどく堕落した場所に生まれた人々は、神とは何か、あるいは神を信じることとは何かについてさらに無知である。堕落していればいるほど、人々は神の存在を知らず、理知や見識が乏しくなる。人が神に逆らい、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによる堕落のため、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方が劣化し、反動的な精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる以前、人は当然ながら神に従い、神の言葉を聞いてそれらに従っていた。人は生来、健全な理知と良心を持っており、人間性も正常だった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する従順さと愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物のそれと同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はいまだそれに気づかず、それを認識せず、無闇に逆らい、反抗するばかりである。人の性質は、その人の理知、見識、良心の表出において明らかになり、人の理知と見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、人の性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の旨にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、その人は神に仕えることができず、神に用いられるのにふさわしくない。「正常な理知」とは、神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して絶対で、神に対して良心を持っていることを意味する。また、神への心と思いにおいてゆるぎなく、わざと神に逆らうようなことはしないという意味である。異常な理知を持つというのはこれと違う。サタンによって堕落させられて以来、人は神についての観念を生み出し、神への忠誠心や渇望を抱いておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に逆らい、神を批判し、さらには陰で神に罵詈雑言を投げつける。その方が神であることをはっきり知りつつ、陰で神を批判し、神に従うつもりはなく、神に要求や依頼をやたらとするだけである。そのような人々、つまり理知が異常な人々は、自分自身の卑劣な振る舞いを知ることも、自身の反抗心を後悔することもできない。自分自身を知ることができれば、自己の理知を少し取り戻す。神にますます逆らいながら、それでも自分を知ることができなければ、その人の理知はいっそう不健全になる。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 302

人の堕落した性質が明らかになる根源は、その人の鈍くなった良心、悪意のある本性、そして不健全な理知に他ならない。良心と理知が再び正常になれるのであれば、その人は神の前で用いられるのにふさわしい人になる。人がますます神に対して反抗的になるのは、ひとえに良心が常に麻痺しているから、健全だったことが一度もない理知がますます鈍くなっているからに他ならず、そのためイエスを十字架にかけ、終わりの日における神の受肉を門前で拒絶し、神の肉を断罪し、神の肉を卑しいものとして見るまでになっている。少しでも人間性があれば、受肉した神の肉体をかくも冷酷に扱うことはないはずだ。少しでも理知があれば、受肉した神をかくも悪意に満ちた形で扱うことはないはずだ。少しでも良心があれば、受肉した神にこのような形で「感謝する」ことはないはずだ。人は神が受肉した時代に生きているにもかかわらず、そのような素晴らしい機会を与えてくれた神に感謝できず、それどころか、神の到来を呪うか、あるいは神が肉となった事実を完全に無視し、一見したところそれに反対し、うんざりしている。人が神の到来をどのように扱うかにかかわらず、要するに、神は辛抱強く自らの働きを絶えず行ってきた。たとえ人が神をまったく歓迎していなくても、神にやたらと要求を突き付けてもである。人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪しき者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた、受肉した神に感謝しないばかりか、真理を与えたことで神をひどく嫌悪すらしている。人が神をますます嫌悪しているのは、真理への関心がまったくないからである。人は受肉した神のために生命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、自分が神に与えたものの何十倍もの利息を神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこれを大したことではないと思い、自分は神のために自身をずいぶん費やしたとか、神はあまりにも少ししか与えてくれないなどと依然信じている。わたしに一杯の水を与えたあと、両手を伸ばしてミルク二杯分の代金を要求したり、わたしに一夜の宿を提供したあと、数日分の宿泊費を要求したりする人がいる。そのような人間性や良心で、どうしていのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。人が持つこのような人間性と良心のために、受肉した神は地上をさまよい、身を寄せる場所もない。本当に良心と人間性を有している人々は、神が行った働きの多さのゆえではなく、たとえ神が働きを一切しなくても、神を崇め、心から神に仕えなければならない。これが健全な理知を持つ人のなすべきことであり、人の本分である。ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。つまり、相手が神なのか、それとも人なのかを気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを求めるのである。わたしのために料理するとき、あなたがたはサービス料を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に施すときは休養のための費用を要求し、話をするときは講演料を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は名誉毀損の賠償金を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は肉屋の料金を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する……これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図された振る舞いである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。一言言わせてもらう。あなたがたがこのようにし続けるのであれば、わたしはあなたがたのあいだで働くのをやめる。わたしは人間の皮を被った獣の集団の中では働かない。わたしはあなたがたのような、真面目な顔つきで野獣の心を隠す人々の集団のために苦しんだりしない。救いの可能性が一切ないこのような獣の群れのために、わたしは耐えたりはしない。わたしがあなたがたに背を向ける日は、あなたがたが死ぬ日、暗闇があなたがたを襲う日、そしてあなたがたが光に見捨てられる日である。一言言わせてもらう。あなたがたのような獣にも劣る集団に対して、わたしは決して慈悲深くしない。わたしの言葉や行動には限度があり、あなたがたの現在の人間性や良心に対して、わたしはこれ以上なんの働きもしない。なぜなら、あなたがたはあまりにも良心に欠けており、あまりにも多くの苦しみをわたしに与え、あなたがたの卑劣な振る舞いはあまりにもわたしを嫌悪させるからである。かくも人間性や良心に欠けている人々に救いの機会は決して訪れない。冷酷で感謝の念を持たないそうした人々を、わたしは決して救わない。わたしの日が訪れるとき、わたしは燃えさかる炎を、かつてわたしを強烈に激怒させた不従順の子らの上に、永遠に雨あられと降り注ぐ。かつてわたしに罵詈雑言を投げつけ、わたしを見捨てたあの獣たちに、わたしは永遠の懲罰を課す。かつてわたしと共に食べ、わたしと共に暮らしたものの、わたしを信じず、わたしを侮辱し、裏切った不従順の子らを、わたしは怒りの火でいつまでも焼く。わたしの怒りを引き起こしたすべての者に懲罰を与え、その怒りのすべてを、かつてわたしと対等の地位に立とうと望んだにもかかわらず、わたしを崇めず、従わなかった獣どもに雨あられと降り注ぐ。わたしが人を打つ鞭は、かつてわたしの配慮と、わたしが語った奥義を享受し、わたしから物質的な享楽を引き出そうとしたあの獣たちを攻撃する。わたしの地位を取ろうとする者を、わたしは誰も許さない。わたしから食べものや衣服を奪おうとする者は誰も容赦しない。今のところ、あなたがたは損害を免れており、相変わらずわたしに無理な要求をしようとしている。怒りの日が訪れるとき、あなたがたはわたしにこれ以上の要求をしないだろう。そのとき、わたしはあなたがたを心ゆくまで「楽しませ」、あなたがたの顔を地中に押し込む。そうすれば二度と起き上がることができない。遅かれ早かれ、わたしはこの借りをあなたがたに「返す」――そしてあなたがたがこの日の来るのを辛抱強く待つよう望む。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 303

人が神を得られないのは、神が感情を持っているからでも、人に得られたくないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が神を切実に求めていないからである。真に神を求める人が神に呪われるなど、どうしてあり得ようか。健全な理知と繊細な良心を持つ人が神に呪われるなど、どうしてあり得ようか。心から神を崇め、神に仕える人が神の怒りの火に飲み尽くさるなど、どうしてあり得ようか。喜んで神に従う人が神の家から追放されるなど、どうしてあり得ようか。神を愛しても愛しきれない人が神の懲罰の中で生きるなど、どうしてあり得ようか。神のために喜んですべてを捨てる人が無一文になるなど、どうしてあり得ようか。人は進んで神を追求しようとせず、自分が持つものを神のために費やす気もなく、一生の努力を神に捧げようとも思っていない。それどころか、神はやり過ぎたとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえ努力を惜しまないとしても、あなたがたが神に認められることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を求めていないという事実は言うまでもない。自分が人類の中の不良品だということを、あなたがたは知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたは、他人からどのような敬称で呼ばれているか知らないのか。真に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分が優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類の中で最も悪意がある非人間の集団である。あなたがたはこのことをいくらかでも知らないのか。あなたがたの中で働くことにより、わたしがどれほどの危険を冒しているか知っているのか。あなたがたの理知が正常に戻れず、あなたがたの良心が正常に機能できないのであれば、あなたがたは決して「オオカミ」という名前を捨て去ることができず、呪いの日を免れることも決してなく、懲罰を受ける日を免れることも決してない。あなたがたは生まれつき劣っており、何の価値もない。本質的に飢えたオオカミの群れ、がらくたとごみの山である。あなたがたと違って、わたしは甘い汁を吸うためにあなたがたに働きかけるのではなく、働きの必要があるからそうするのである。あなたがたがこのように反抗的な態度を続けるなら、わたしは働くのをやめ、二度とあなたがたに働きかけない。むしろ、わたしを喜ばせてくれる別の集団に働きを移し、このようにして永遠にあなたがたから離れる。なぜなら、わたしに敵対する人々を見たくないからである。では、あなたがたはわたしと相容れることを望むのか、それとも反目していたいか。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 304

すべての人はイエスの真の顔を見たい、イエスと共にいたいと思っている。イエスを見たいとも、イエスと共にいたいとも思わない兄弟や姉妹がいるとは、わたしは思わない。イエスを見る前――受肉した神を見る前――には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことだろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできず、それは本当である――しかしそれ以上に、キリストの実質は人間による変更を許さない。あなたがたはキリストのことを仙人、あるいは賢人だと考えているが、誰一人としてキリストを神性の実質をもつ普通の人と見なしていない。このように、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので、自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。と言うのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、または失敗するからである。彼らはみなパリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。キリストは天に上ることができないだけでなく、地上を自由に動き回ることさえできない。そのため、人々はキリストを普通の人間として扱う。人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、不注意に話しかけ、そのあいだじゅう「真のキリスト」の到来をいまだに待っている。あなたがたはすでに到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。

キリストと触れ合う前、あなたは、自分の性質は完全に変化した、自分はキリストの忠実な追随者である、キリストの祝福を受けるにあたり、自分以上に相応しい人はいない――そして、自分は多くの道を旅し、かなりの働きを行ない、多くの成果をもたらしてきたので、最後に栄冠を受ける者たちの一人になるに違いないと信じているかもしれない。しかし、あなたが知らないかもしれない真実が一つある。すなわち、人間の堕落した性質と反抗心と抵抗は、人間がキリストを見るときに暴露され、そのときに暴露される反抗心や抵抗は他のどの時よりも絶対的に完全に暴露される。それは、キリストは人の子――普通の人間性を持つ人の子――なので、人間はキリストに栄誉を与えることも尊敬することもないからである。神が肉において生きているために、人間の反抗心は徹底的に、詳細まで鮮明に光にさらけ出される。それで、キリストの到来は人類の反抗心をすべて明るみに出し、人類の本性を際立たせた、とわたしは言うのである。これは「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と呼ばれる。あなたは、自分は神に忠実であるとあつかましくも言うのか。自分は神に絶対的な服従を示しているとあつかましくも言うのか。自分は反抗的ではないとあつかましくも言うのか。「神がわたしを新しい環境に配置するたびに、わたしはいつも不平を言わずに服従し、さらに、神についての観念も一切抱かない」と言う人がいる。また、「神がわたしに何を課しても、わたしは力の限りを尽くし、決して怠けない」と言う人もいる。ならば、わたしはあなたがたに問う。キリストと共に生きるとき、あなたがたはキリストと相容れることができるのか。そして、どれだけの時間のあいだ、キリストと相容れるのか。一日か。二日か。一時間か。二時間か。あなたがたの信仰は確かに称賛すべきものかもしれないが、粘り強さという点では、あなたがたは大したことはない。ひとたび本当にキリストと共に生きるようになると、あなたの独善性とうぬぼれは言葉と行動をとおして少しずつさらけ出され、あなたの行き過ぎた欲望、不服従な考え方、不満もまた自然に明らかになる。最終的には、あなたの傲慢はさらに大きくなり、水と油のように、あなたとキリストは相容れなくなり、そうなるとあなたの本性は完全に露わになる。そのとき、あなたの観念をそれ以上覆い隠すことはできなくなり、あなたの不満も自然に現れ、あなたのいやしい人間性は完全にさらけ出される。しかし、そのときでさえ、あなたは自分の反抗心を認めることをなおも拒み、代わりに、このようなキリストは人間には受け入れ難く、人間に対して厳し過ぎ、もしこの人物がもっと優しいキリストなら完全に服従するだろうと考える。あなたがたは、自分の反抗心は正当化されており、キリストに強要されすぎるときだけ、自分はキリストに反抗するのだと考える。あなたがたは、自分がキリストを神として仰ぎ見ておらず、キリストに従う意志がないことを一度たりとも考慮したことがない。むしろ、キリストがあなた自身の望みどおりに働きを行なうことを執拗なまでに主張し、キリストがあなた自身の考えと一致しないことを一つでもするやいなや、キリストは神ではなく、一人の人間だと考える。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある人が多くいるのではないのか。あなたがたが信じているのは、結局のところ誰なのか。そして、あなたがたはどのように追い求めているのか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 305

あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。わたしは、誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくないと言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。あなたの兄弟(あるいは姉妹)との関わりは、あなたについて特に何も示さないが、あなたがキリストと関わるときには、事はそれほど単純ではない。何時でも、観念が根を張り、傲慢が芽を出し、反抗心がイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性がありながら、どうしてあなたがキリストと関わるのに相応しくなれるというのか。あなたは毎日、どの瞬間も、本当にキリストを神として扱うことができるのか。あなたは本当に神への服従という現実を持っているのか。あなたがたは心の中で立派な神をヤーウェとして礼拝しつつ、目に見えるキリストを人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに劣っており、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを神として常に見ることができない。ときどき、そのような気分になったときだけ、あなたがたはキリストをひっつかまえて、神として礼拝する。このため、あなたがたは神の信者ではなく、キリストと戦う共犯者の集団である、とわたしは言うのである。他人に親切にする人でさえ報われるのに、キリストはあなたがたのあいだでそのような働きをしたものの、人間からは愛も報いも従順も受け取っていない。これは胸が張り裂けるようなことではないのか。

あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。だから、世界一陰険で邪悪な人だ、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には、極めて親切かつ献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、そして家族の者たちを細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているから、あるいは少しの善行を行なうからというだけで、自分のことをキリストと相容れる人だと思ってはならない。自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると、あなたは思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。あなたがたのうち誰も取り扱われ、刈り込まれることを受け入れることができず、誰もがキリストの普通の人間性を受け入れることに困難を覚える。それにもかかわらず、自分の神への従順をいつも自慢している。あなたがたのこんな信仰はそれに相応しい報いを引き起こす。気まぐれな幻想にふけり、キリストを見たいと望むのはやめなさい。あなたがたの霊的背丈はあまりに小さく、それゆえキリストを見る資格さえないからである。反抗心を完全に拭い去り、キリストと調和できるようになったときに、神は自然にあなたに現れる。もしあなたが刈り込みや裁きを経験せずに神を見に行くのであれば、あなたは疑いなく神の敵になり、破滅することになる。人間の本性は元来神に敵対している。すべての人間はサタンの深遠なる堕落にさらされたからである。もし人間がその堕落のただ中から神と関わろうとしても、そこから何一つ良いものが生まれないことは確実である。人間の言動は、事あるごとに人間の堕落を確実にさらけ出し、神との関わりにおいて、人間の反抗心はあらゆる面で明らかにされる。知らず知らずに、人間はキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。これが起こると、人間はますます危険な状態に陥り、これが続けば、人間は懲罰の対象になるだろう。

神との関わりがそれほど危険ならば、神から遠ざかっている方が賢明ではないかと考える人がいるかもしれない。このような人は一体何を得られるのか。彼らは神に忠実でいることができるのか。確かに、神との関わりは極めて難しい。しかし、それは人間が堕落しているからであり、神が人間と関わりをもてないからではない。あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、多少のささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。神を迎えもてなす代償として、金、贈り物、称賛を要求する。硬貨を一、二枚与えると、心が痛む。硬貨を十枚与えると、祝福と特別扱いを望む。あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。本分を尽くす人と尽くさない人、指導者と追随者、神を迎えもてなす人としない人、寄付する人としない人、言葉を説く人と受ける人など、このような人々は皆、自分を称賛する。これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心を持たないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。現在あなたがたは自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れるのが不可能なところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように取り組むつもりなのか。辿るべき道をどのように選ぶつもりなのか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 306

わたしは実に多くの言葉を発し、わたしの旨と性質も明らかにしてきた。それなのに、人々はわたしを知り、わたしを信じることがいまだできずにいる。あるいは、人々はわたしに従うことがいまだできないと言える。聖書の中で生きる者、律法の中で生きる者、十字架の上で生きる者、教義に従って生きる者、わたしが今日行う働きの中で生きる者――この中の誰がわたしと相容れるのか。あなたがたは、祝福と見返りを受け取ることばかり考え、実際にわたしと相容れるにはどうすればよいか、わたしに敵対するのを避けるにはどうすればよいかなど、少しも考えようとしたことがない。わたしはあなたがたにまったく失望している。実に多くをあなたがたに与えてきたのに、あなたがたからほとんど何も受け取っていないのだから。あなたがたの欺き、あなたがたの傲慢、あなたがたの貪欲、あなたがたの途方もない欲望、あなたがたの裏切り、あなたがたの不服従――これらのどれに、わたしが気づかずにいるというのか。あなたがたはわたしに対していい加減で、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを欺き、わたしに要求し、わたしに犠牲を強いる――そうした悪行がどうしてわたしの懲罰を免れようか。こうした悪行はどれもわたしへの敵意の証拠、あなたがたがわたしと相容れない証拠である。あなたがたは誰もが、わたしと相容れると信じているが、仮にそうだとすれば、誰にその反論できない証拠が当てはまるのか。あなたがたは、自分はわたしにこの上なく誠実で、忠実だと信じている。あなたがたは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたがたは、自分はわたしに十分過ぎるほど奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに照らし合わせたことはあるのか。あなたがたはひどく傲慢で、ひどく貪欲で、ひどくいい加減だとわたしは言う。あなたがたがわたしを馬鹿にする手口は甚だしく狡猾で、あなたがたは下劣な意図や手段に満ち溢れている。あなたがたの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたがたの誠意はあまりに薄く、あなたがたの良心はさらに乏しい。あなたがたの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もあなたがたの悪意から逃れられない。このわたしでさえそうである。あなたがたは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にかける代わりに、自分の家族、子ども、地位、そして将来を気にかけ、自分を満足させることに意を払っている。あなたがたは話したり行動したりする中で、わたしのことをいつ考えたのか。凍えるような日は、自分の子ども、夫、妻、あるいは親に考えが向く。灼熱の日もまた、わたしはあなたがたの思いの中に場所を占めていない。本分を尽くすときは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたはわたしのためにいったい何をしたというのか。あなたはいつ、わたしのことを考えたのか。わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったというのか。あなたがわたしと相容れる証拠はどこにあるのか。わたしに対するあなたの忠誠はどこに実在しているのか。わたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったのか。あなたがたはわたしを騙し、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の実質を裏切る。このような形でわたしに逆らうのであれば、あなたがたの未来には何が待っているのか。あなたがたはただ、漠然とした神と相容れることを求めるだけで、漠然とした信仰しか求めないが、キリストとは相容れない。あなたがたの悪事は、悪しき者たちが当然受けるものと同じ報いを引き起こすのではないか。そのとき、あなたがたは、キリストと相容れない者は誰一人怒りの日から逃れられないことに気づき、キリストに敵対する者にどのような報いがなされるかを知るだろう。その日が来れば、神への信仰によって祝福され、天に入るというあなたがたの夢は、すべて砕かれる。しかしながら、キリストと相容れる者たちは違う。そのような者はまことに多くを失い、多くの苦難を経てきたが、わたしが人類に伝える嗣業をすべて受け取る。最終的に、わたしだけが義なる神であり、わたしだけが人類を美しい終着点に導けるということを、あなたがたは理解するだろう。

『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 307

神は人間に多くを託し、無数の方法で人間の入りについて述べてきた。しかし、人々の素質が極めて乏しいため、神の言葉の多くは根づかなかった。人間の素質が乏しいことには様々な理由がある。たとえば、人間の思考や道徳の堕落、適切な養育の欠如、人の心を強く支配する封建的迷信、人間の心の奥底に多くの不徳を宿らせている、堕落と頽廃に満ちた生活様式、そして文化的教養の習得が表面的なことなどである。国民のほぼ九十八パーセントが文化的教養に関する教育を受けておらず、またそれ以上に、より高度な文化的教育を受けた者はほとんどいない。それゆえ人々は、神や霊が何を意味するのかを基本的に知らず、封建的迷信から得た漠然として不明瞭な神のイメージしかもたない。また、数千年にわたる「民族主義の高尚な精神」が人間の心の奥に残した有害な影響、そして人々を縛って拘束する封建的思考により、人々には自由がまったくなく、大志、根気、向上意欲も完全に欠けており、消極的かつ衰退的なまま、奴隷の精神状態に囚われるなどしている。これらの客観的要素により、人類の観念的態度、理想、倫理、そして性質に、消えることのない不浄かつ醜悪な色調が加えられてきた。人間はテロリズムによる暗黒の世界で生活しているように思われるが、それを超越することを求める者や、理想の世界に移ろうと考える者は人類の中にいない。人間はむしろ自分の境遇に満足し、子供を産み育て、日常の雑事に奔走して励み、汗をかき、快適で幸せな家庭、夫婦の愛情、親孝行な子供たち、そして平和な人生を送って晩年を迎える喜びを夢見ている……。現在まで数十年、数千年、数万年にわたり、人々はそのようにして時間を浪費し、誰も完全な生活を創造することなく、全員がこの暗黒の世界で互いに殺し合うこと、名声や富を巡って競い合うこと、互いに陰謀を巡らすことだけに没頭している。今まで誰が神の旨を求めたというのか。神の働きに注意した者がいまだかつていたというのか。人間のあらゆる部分が闇の影響に占められており、それが人間の本性となって久しい。そのため、神の働きを行なうのは極めて困難であり、人々は神から今日託されたことに対し、ますます配慮しなくなっている。いずれにせよ、わたしがこれらの言葉を発しても、人々は気にしないとわたしは考える。なぜなら、わたしが話していることは、数千年にわたる歴史だからである。歴史について語ることは、万人にとって明らかな事実、そしてそれ以上に不祥事を意味する。それならば、事実に反することを述べることに何の意味があるというのか。しかしまた、理知的な人たちはそれらの言葉を目にすると、目覚めて進歩しようと努めるだろうとも、わたしは信じている。人間が平和に、そして満足して暮らし、働きを行なうと同時に、神を愛せるようになることを、わたしは願っている。神の旨はすべての人間が安らぎに入ることであり、またそれ以上に、地上全体を神の栄光で満たすことが神の大いなる願いである。人間が忘れ去られて目覚めていないこと、そしてサタンによりひどく堕落させられたため、人間らしさをもはやもたないことは、ただただ残念である。このように、人間の思考、倫理、および教育は重要な繋がりを形成しており、文化的教養の訓練と合わせてもう一つの繋がりを形成している。それは人間の文化的素質を向上させ、精神的姿勢を変化させるものである。

『神の出現と働き』「働きと入ること(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 308

人々は人生経験を重ねる中で、「自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……」とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、「神を信じる」ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、陰険で、ずる賢く、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心の面倒を見て、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 309

多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが多岐にわたる様々な神の働きを認識せず、さらに、ごくわずかな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちの経験は表面的なものなのに、本性が傲慢かつ放縦であり、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」しようとする。また彼らはもったいぶって、自分の知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑され、拒絶されるのではないか。そして、新しい時代に淘汰されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人たちは、無知で物事をよく知らない卑劣な人間で、自分がいかに聡明かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についてのわずかな知識だけで俗世の「学術界」にはびこり、人に教えを説く上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に回らせようと試みている。目先のことしか見えないのに、六千年にわたる神の働きを一目で見極めようとするのである。この人たちには、言及する価値のある理知など一切ない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを判断するのに時間をかける。さらに、そのような人たちは、今日の神の働きについて知っていることをわずかしか語らないが、あわてて判断することはしない。神に対して認識がない人ほど、傲慢かつ自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人たちには少しも価値がない。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会っても慎重でなく、ベラベラ言いふらして早まった判断を下し、気分にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそうした無礼な人たちは、聖霊の働きに対して無知ではないのか。さらに、そのような人たちは、極めて傲慢で、生まれつき高慢で、手に負えない人間ではなかろうか。このような人たちが聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。彼らは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜する。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがなく、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼で放縦な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、神の行政命令に背きがちになる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しく決して古くならない神に、来る日も来る日も反抗しているのではないか。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 310

数千年に及ぶ古代文化や歴史の知識のせいで、人間の思考や観念、精神的視点は極めて固く閉ざされ、何も浸透させない分解不可能[1]なものになった。人間は、あたかも神により地下牢に追放されたかのように、二度と光を見ることがない十八層地獄で生きている。封建的思想に抑圧されてきた人間はほとんど呼吸できず、息が詰まっている。反抗する力がまったくなく、ひたすら黙して耐え続けている……。義と公平のために敢えて戦ったり、立ち上がったりする者は今まで一人もいなかった。封建的倫理による打撃と迫害の下、動物以下の生活を日々送って年を重ねるだけである。人間は神を求めて人間世界で幸福を享受しようと考えたことがない。ひからびて色あせた枯れ葉のようになるまで、人間は打ち倒されたかのようである。人間は遙か昔に記憶を失い、人間の世界という陰府で絶望的に暮らし、陰府もろとも自分が滅びる最後の日の到来を待っている。待ちかねている最後の日は、あたかも人間が安らかな平和を享受する日であるかのようである。封建的倫理は人間の生活を「ハデス」へと陥れ、人の抵抗力をさらに弱めている。様々な抑圧により、人間はハデスのさらに奥深いところ、神からさらに遠いところへと一歩ずつ押しやられる。それゆえ現在、人間は神にはまったく知られない存在となり、神と会うと急いで避けようとする。人間は神を心に留めず、あたかもそれまで神を知ることはなく、神に会ったこともなかったかのように、神を一人きりにして去っていく。しかし、人生の長い旅路のあいだ、神はずっと人間を待ち続けており、抑え難い怒りを人間に投げつけたことは一度もなく、人間が悔い改めて再出発するのを無言で静かに待つだけである。神は遠い昔に人間の世界へ来て、人間世界の苦難を人と分かち合った。神が人間とともに生活した年月、その存在を見出した者はいなかった。神は人間世界における卑しき惨めさに黙して耐えつつ、自らもたらした働きを行っている。父なる神の旨と人類の必要のため、神は耐え続け、人間がかつて経験したことのない苦痛を受けている。父なる神の旨と人間の必要のために、神は人間の前で黙して人間に尽くし、人間の目前で謙遜した。古代文化の知識は、神の前からこっそりと人間を連れ去り、魔王とその末裔に引き渡した。四書五経[a]は、人間の思想と観念をもうひとつの反逆の時代へと導き、四書五経の編纂者を人間にさらに称賛させ、その結果、神について人間の持つ観念がさらに悪化した。人間の知らぬ間に、魔王は無情にも人間の心から神を排除し、勝利の歓喜とともに自ら人間の心を占領した。その時以来、人間は醜く邪悪な魂と魔王の顔にとりつかれた。神への憎しみが人間の胸を満たし、魔王の凶悪さが日に日に人間の中に広がってゆき、ついに人間は完全に食い尽くされた。人間にはもはやほんの少しの自由もなく、魔王の呪縛から逃れる術もなくなった。その場で囚われの身となり、魔王の前で降伏し、服従するしか手がなかった。はるか昔、人の心と霊がまだ幼かったとき、魔王はそこに無神論という腫瘍の種を植え、「科学技術を学び、四つの現代化を実現せよ。この世に神などいない」といった偽りを人間に教えた。それだけでなく、魔王は「わたしたちの勤勉な労働により素晴らしい国家を建てよう」と機会あるごとに叫び、あらゆる人に、幼少時代から国のために忠実に仕える訓練をするよう要求した。人間は無意識のうちに魔王の前へと導かれ、魔王は(人類全体を掌握している神のものである功績を)躊躇なくすべて自分のものと偽った。魔王には恥の感覚が一切なかった。さらに、魔王は厚かましくも神の選民を捕らえ自分の家に引きずり戻すと、ねずみのように卓上に飛び乗り、人間に自分を神として崇拝させた。何というならず者であろうか。魔王は、「この世に神はいない。風は自然の法則に沿った変化が原因である。雨は蒸気が低温で凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥のせいである。これらは自然現象である。これらのどこに神の業があるというのか」などという衝撃的なことを叫ぶ。さらには、「人間は古代の類人猿から進化したもので、現在の世界は、はるか昔に始まった一連の原始社会から進化したものである。ある国家の栄枯盛衰は、その国民の手により決まる」などという、声にすべきではないことを叫ぶ者さえいる。魔王はその背後で、人間に自分を壁に掲げさせたり、机上に置かせたりして、敬意を払って捧げ物をするようにさせている。魔王は「神はいない」と唱えると同時に、自らを神とみなす。真の神を粗野に地の果ての外へと追いやりながら、神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方もなく馬鹿げたことであろうか。魔王には骨の髄まで憎悪が起こる。神と魔王は宿敵であるようで、共存は不可能である。魔王は神の駆逐を謀り、法の及ばないところを自由にうろつく[2]。まさしく魔王である。どうして魔王の存在を容赦できようか。魔王は神の働きを阻止し、打ち砕いて台無しにする[3]まで休むことがなく、それはあたかも最後に魚が死ぬか網が破けるかするまで、神に反抗し続けたいかのようである。魔王は故意に神に反抗し、神に迫り続ける。魔王の忌まわしい顔は完全に仮面を剥がされて久しく、今や打ちのめされてあざができ[4]、窮状にあるが、それでも神への憎悪が衰えることはなく、あたかも神を一口に呑み込むまでは自分の心に鬱積した憎しみを解放することができないかのようである。こんな神の敵をどうして容赦できようか。魔王の根絶と完全な駆除をしなければ、人間の生涯の望みは実現できない。どうして魔王を意のままにさせておけるであろうか。人間が天日を知らず、行き詰まって愚鈍になるところまで魔王は人間を堕落させた。人間は正常な人間の理知を失った。わたしたちの存在のすべてを捧げて魔王を滅ぼし、焼き払い、将来への不安を残らず解消し、神の働きがこれまでになかった輝きにすぐに達せるようにしようではないか。この悪党どもは人間の世界に来て、それを大混乱に陥れた。悪党どもは全人類を断崖の縁へと追い詰め、そこから突き落とすことを密かに企んでいる。粉砕した死体をむさぼるつもりなのである。悪党どもは、愚かしくも大博打を打って[5]神の計画を阻止し、神と争うことを望んでいる。それは決して容易ではない。十字架が用意されたのは、結局のところ、最も憎むべき罪に咎められている魔王のためである。神はその十字架には属さない。神はすでに悪魔にくれてやるために十字架を脇へ投げている。神は早くから勝利しており、人類の罪のためにもはや悲しみを感じない。しかし神は全人類に救いを授ける。

『神の出現と働き』「働きと入ること(7)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「分解不可能」は、ここでは皮肉であり、人が自分の知識、文化、精神的観点において凝り固まっていることを意味する。

2.「法の及ばないところを自由にうろつく」とは、悪魔が狂ったように暴れ回ることを指す。

3.「台無しにする」とは、悪魔の凶暴なふるまいがいかに見るに耐えがたいことであるかを指す。

4.「打ちのめされてあざができ」は魔王の醜い顔について述べている。

5.「大博打を打って」は、最後に勝つことを期待して一つのことに全財産を賭けることで、悪魔の陰険で邪悪な謀りの喩えとして、嘲笑的に用いられている。

a. 四書五経は中国における儒教の権威的な書籍である。


日々の神の御言葉 抜粋 311

上から下まで、最初から最後まで、サタンは神の働きを乱し、神に敵対する行動を取ってきた。「古代文化遺産」や貴重な「古代文化の知識」、「道教と儒教の教え」、儒教の五経と封建的儀式に関する話が、人間を陰府に連れて行った。現代的な先進科学技術も、高度先端産業、農業、商業もどこにも見当たらない。むしろ魔王は故意に神の働きを阻害し、それに反対し破壊するために、古代の「類人猿」が広めた封建時代の儀式をひたすら強調するだけである。魔王は現在に至るまで人間を苦しめ続けるだけでなく、人間を丸ごと飲み込む[1]ことさえ望んでいる。封建主義的な道徳倫理の教えや古代文化の知識の継承が、長年にわたって人類を蝕み、大小の悪魔へと変貌させた。神を喜んで受け入れ、神の降臨を歓迎するであろう者はほとんどいない。あらゆる人間の表情は殺気に満ち、至る所で殺気が感じられる。悪魔は神をこの地から排除しようとする。神を「抹消する」ために、刀剣を持って陣を組んでいる。悪魔のものであるこの地のあらゆるところで、「神はいない」と人間は絶えず教えられ、偶像が広まり、地上の空気には吐き気を催すような紙と香を燃やす臭いが漂い、あまりに強くて窒息するほどである。それは毒蛇がとぐろを巻く時に放つ汚泥の臭いのようであり、嘔吐せずにはいられない。それに加えて、悪魔の読経の声、陰府の遠い所から来るような声がかすかに聞こえ、震えずにはいられない。虹色の偶像がこの地のあらゆる所に置かれ、この地を官能の世界へと変える。一方、魔王はその卑劣な企みが成功したかのように、邪悪に笑い続ける。この間、人間はまったく何にも気付かず、感覚がなくなり、打ち倒されて頭を垂れるほどまでに自分がすでに悪魔に堕落させられていることに気付かない。悪魔は神に関する一切のものを一掃し、再び神を冒涜し暗殺したがっている。悪魔は神の働きを打ち壊し、妨害しようと決意した。どうして悪魔は神が同等の地位にあることを甘受できようか。どうして悪魔は、人間のあいだで行う地上での働きをもって、神が「邪魔する」のを許すことができようか。どうして悪魔は自分の醜悪な顔を神が暴くのを許すことができようか。どうして悪魔は自分の働きを神が妨害することを許せようか。どうして激しい怒りに包まれた悪魔が自分の地上の朝廷を神が支配することを甘受できようか。どうして悪魔が自ら敗北を認めることができようか。悪魔の醜悪な表情はそのまま露呈しており、それゆえ人間は笑うべきか泣くべきか分からなくなり、悪魔について語ることは極めて困難である。それが悪魔の本質ではなかろうか。醜い魂をもつ悪魔は、それでも自分が驚異的に美しいと信じている。この犯罪者集団[2]が! 悪魔は人間界に来て享楽にふけり、騒動を引き起こし、物事をかき乱す。そのせいで世界は移ろいやすく不安定な場所になり、人の心はろうばいと不安で一杯になっている。悪魔は人間をもてあそび、そのひどさたるや、人間の外見は非人間的な野獣のようになり、本来の聖者らしさの最後の名残りも失われた。さらに悪魔は、地上の支配権を握ることさえ望んでいる。悪魔が神の働きを妨害しているため、わずかな前進もままならない。また悪魔は銅と鋼の壁のように、人間を封じ込めている。極めて多くの罪を犯し、災難を引き起こしてきておきながら、悪魔はいまだに刑罰以外の何かを期待しているのか。悪魔と悪霊は地上を暴れ回り、神の心と丹精を込めた努力を封じ込めてきたため、浸透不可能になっている。何という大罪であろうか。どうして神が不安にならずにいられようか。どうして神が怒らずにいられようか。悪魔は神の働きに重篤な妨害や反対を引き起こしている。何と反逆的なことか。そのような大小の悪魔さえも、獅子の足元にいる野生犬のようにふるまい、邪悪な潮流に従い波乱を引き起こす。悪魔は真理を認識しつつ、故意に真理に逆らう。まさに反逆の子である。それはまるで、地獄の王が玉座に就いたので、悪魔たちは自惚れて他人を皆、侮辱するようになったかのようである。そのうちの何人が真理を求め、義に付き従っているのか。彼らは皆、糞の中の臭い蠅の一群の先頭に立つ豚や犬のような畜生であり、満足そうに頭を振って、あらゆる災難を起こして[3]いる。悪魔は自分たちの地獄の王がすべての王の中で最も偉大だと信じ、自分たちが臭い蠅に過ぎないことなど知らない。それでいながら、自分が親としている豚や犬の権力を利用して神の存在を中傷する。自分たちが小蠅であるため、悪魔は自分の親がシロナガスクジラ[4]のように大きいと信じている。彼らは極めて小さい存在であるが、自分の親が何億倍も大きな不浄な豚や犬であることに気付かない。自分の卑しさに気付かず、豚や犬の腐った臭いを頼りにして暴れ回り、恥じることもなく、将来の世代を生み出す妄想にとらわれている。背中に緑色の羽根を付けて(これは彼らの神を信仰しているという主張を指す)、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するが、同時に自分の不純物を密かに人間になすりつける。さらに、あたかも虹色の羽根を使って自分の不純物を隠すことができるかのように、彼らは自分に極めて満足している。また、その手段を用いて真の神の存在を圧迫する(これは宗教界の舞台裏で起きていることを指す)。蠅の羽根がどれほど美しく魅力的であろうと、蠅そのものはつまるところ腹の中は不浄に満ち、身体は細菌に覆われた小さな生き物に過ぎないことが、どうして人間にわかるであろうか。親である豚や犬の力を借り、彼らはその野蛮さを抑えることなく地上で暴れ回る(これは神を迫害する宗教関係者が国家政府の強い支援を頼りに真の神と真理に反抗する様子を指す)。あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が神とともに、古巣である赤い大きな竜の国家に戻って来たかのようである。彼らは新たな迫害を行ない、数千年前の仕事を再開したのである。この堕落者の集団が最後には地上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、汚れた霊はさらに狡猾で悪賢くなったようである。彼らは神の働きを密かに台無しにする術を常に考えている。狡猾で悪賢く、数千年前の悲劇を自国で再現したがっている。そのため神をあおり、神は大声で叫ぶ寸前の状態である。神は第三の天に戻って彼らを滅ぼさずにいられない。神を愛するためには、人間は神の心意、神の喜びと悲しみを把握し、神が何を嫌悪するかを理解しなくてはならない。そうすることにより、人間はさらに入って行くことができる。人間の入りが早ければ早いほど、神の心意も早く満たされる。人間が魔王を明瞭に識別すればするほど、人間はそれだけ神と近付き、それにより神の望みは実現する。

『神の出現と働き』「働きと入ること(7)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「飲み込む」とは、人間のすべてを奪い尽くす魔王の凶暴な行動を指す。

2.「犯罪者集団」は「ごろつきの群れ」の同義語である。

3.「あらゆる災難を起こして」とは、悪魔的性質の者が暴動を起こし、神の働きを阻害し、反対することを指す。

4.「シロナガスクジラ」は嘲笑的に用いられている。蠅があまりに小さくために、蠅には豚や犬でさえクジラのように大きく見える様子を比喩的に表現している。


日々の神の御言葉 抜粋 312

数千年にわたり、この地は不浄の地であった。耐えがたいほど汚れ、悲惨に溢れている。至る所に幽霊がはびこり、欺し偽り、根拠のない言いがかりをつけ[1]、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍だらけにした。腐った屍の悪臭が地を覆い空気に充満し、そこは厳重に守られている[2]。誰が空の彼方の世界を見ることができようか。悪魔は人間の身体全体をがんじがらめにし、両眼を覆い、両唇を堅く封じる。魔王は数千年前から現在にいたるまで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでいる。番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを深く怖れるあまり、平和と幸福の余地はない。このような幽霊の街の住民が神を見たなどということが、どうしてありえるだろうか。住民は神の優しさや愛しさを享受したことがあるのか。人間世界の物事をどのように認識しているのか。そのうちの誰が神の切なる望みを理解できるのか。肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議ではない。悪魔が残忍非道をはたらく暗黒社会において、眉一つ動かさずに人々を殺す魔王が、愛しく優しく聖い神の存在をどうして容認できようか。どうして魔王が神の到来に喜び喝采を送ることができようか。卑屈な者ども。彼らは恩を仇で返し、はるか昔に神を敵視し始め、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、良心にすっかり逆らい、純真な人々を誘惑し無分別な状態に陥れる。遠い昔の祖先とは何なのか。愛すべき指導者とは。彼らは皆、神に反抗している。その干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられている。宗教の自由だと。市民の正当な権利と利益だと。そのようなものはどれも罪を隠蔽する手口である。誰が神の働きを受け入れたというのか。誰が神の働きのために命を捧げ、血を流したというのか。親から子へ、何世代にもわたって、奴隷とされた人間はごく平然として神を奴隷にした。これがどうして怒りを買わずにいられようか。数千年におよぶ憎しみが心に凝縮し、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。これがどうして憎悪感を喚起せずにいられようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討せよ。敵が二度と蔓延ることを許してはならない。敵が暴君の如く支配することを許してはならない。今がその時である。人は随分前からあるだけの力を蓄え、努力の限りを尽くし、あらゆる犠牲を払ってきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと困難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。なぜ、神の働きに対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺くために様々な謀りを用いるのか。真の自由と正当な権利と利益はどこにあるのか。公平さはどこにあるのか。安らぎはどこにあるのか。温もりはどこにあるのか。なぜ偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのか。なぜ力ずくで神が来るのを抑制するのか。なぜ神が創った地の上を神に自由に移動させないのか。なぜ神が枕するところもなくなるまで神を追うのか。人間の温もりはどこにあるのか。人間の歓迎はどこにあるのか。なぜそれほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのか。なぜ神に何度も叫ばせるのか。なぜ神にその愛する子について憂わせるのか。この暗黒社会において、なぜ哀れな番犬は神自らが創った世界を神に自由に行き来させないのか。なぜ痛みと苦しみの中に生きる人間は理解しないのか。あなたがたのために、神は大いなる苦痛を受け、大いなる苦しみをもって神の愛する子、その骨肉をあなたがたに与えた。それならば、なぜあなたがたは依然として盲目を向けるのか。皆が見守る中、神の到来を拒絶し、神の友好を拒否している。なぜそれほどまでに非良心的なのか。このような暗黒社会の不正を進んで受けるつもりなのか。自分の腹を数千年におよぶ敵意で満たす代わりに、なぜ魔王の「糞」で自分自身を満たすのか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(8)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「根拠のない言いがかりをつけ」とは、悪魔が人間を害する方法を指す。

2.「厳重に守られている」とは、悪魔が人間を害する方法が特に残忍であり、人間を強く支配するので、人間には動き回る余地がないことを指す。


日々の神の御言葉 抜粋 313

人々が本当に、人生の正しい道と神による人類の経営(救い)の目的とを明確に理解できるなら、個人的な将来や運命を宝として心に抱くことはないだろう。そして豚や犬よりも劣る両親に仕えたいとはもう思わなくなるだろう。人の将来や運命はまさに、ペテロのいわゆる「親」の現代版ではないか。それはまさに人の身内のようなものだ。肉の終着点や将来とは、一体どんなものなのか。生きながら神を見ることなのか、あるいは死後に魂が神と出会うことなのか。肉は明日患難の巨大な炉に落ちるのか、あるいは大火で尽きることになるのか。人の肉が不幸や苦しみを被るのかどうかに関するこのような問いは、この流れの中にあって、頭脳と分別をもつ人がもっとも関心を寄せているものではないのか。(ここで、苦しみを被るとは祝福を受け取ることであり、将来の試練が人の終着点にとって有益であることを意味している。不幸とは堅く立てないことや惑わされること、あるいは不運な状況に見舞われて災害のさなかで命を落とし、その魂に適切な終着点がないことを意味する)。人は健全な理知を持っているが、おそらく人の考えることは、彼らの理知に備わっているべきものと完全には一致していないのだ。それは、人が皆相当混乱していて、物事に盲目に従っているからである。人はみな自分が何に入るべきかを完全に把握していなければならないし、特に患難の時(つまり炉における精錬の間)何に入るべきなのか、そして火の試練の際に何を備えているべきなのか整理しておかねばならない。豚や犬のような、蟻や虫よりも劣る両親(すなわち肉)に、いつも仕えることはやめなさい。それについてくよくよと悩み、必死に考え、頭を悩ませることに何の意味があるのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを管理するだけでなく、サタンをも支配している。(これは肉がもともとサタンに属しているということだ。サタンも神の手中にあるのだから、このようにしか表現できない。そのほうが説得力があるからだ。それは人が完全にサタンの支配下にあるわけではなく、神の手の中にあることを示唆している。)あなたは肉の苦しみの下で生きているが、肉はあなたに属しているだろうか。あなたの支配下にあるだろうか。なぜそのようなことに頭を悩ませるのか。とうの昔に断罪されて呪われ、汚れた霊によって汚された、悪臭を放つ肉のために、執拗に神に嘆願するのはなぜなのか。何の必要があっていつもサタンの仲間をそんなにも大事にするのか。肉があなたの実際の未来や素晴らしい希望、そして人生の真の終着点を、台無しにする可能性があることは心配しないのだろうか。

『神の出現と働き』「人類の経営の目的」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 314

現在、あなたがたが理解するようになったことは、歴史上の完全にされなかった他の誰よりも高度である。それが試練についての認識であろうと神への信仰であろうと、どれも神を信じる他の誰のものよりも高度である。あなたがたが理解しているのは、環境の試練を受ける前に知るようになったことであるが、あなたがたの実際の霊的背丈は、そのことと全く相容れない。あなたがたが知っていることは、あなたがたが実践することよりも高度である。あなたがたは、神を信じる人は神を愛すべきであり、祝福のためでなく、神の旨を満たすためだけに努力すべきであると言うが、あなたがたの生活に現れているものはそれとは程遠く、ひどく汚れている。ほとんどの人は、平穏やその他の利益のために神を信じる。自分の利益にならなければ神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。あなたが言ったことが、どうしてあなたのほんとうの霊的背丈でありえようか。家庭において避けられない出来事、たとえば子どもの病気、家族の入院、農作物の不作、家族からの迫害等については、このようなよく起こる日常的なことさえもあなたには過剰である。このようなことが起きると、あなたは当惑してどうして良いかわからなくなる。そして大抵、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙されたとか、神の働きに振り回されたと不平を言う。あなたがたはこのような思いを抱いていないのか。このようなことは自分にはまれにしか起こらないと思っているのか。あなたがたは毎日こうした出来事のただ中に生きている。あなたがたは神への信仰を成功させることや、いかに神の旨を満たすかについては少しも考えない。あなたがたの真の霊的背丈は低すぎて、ひよこの背丈よりも低い。自分の家族の事業が損失を出すと神について不平を言い、神の守りがない環境に置かれると、やはり神について不平を言い、ひよこが一羽死んだり、囲いの中の年老いた牛が病を煩っただけでも不平を言う。息子が結婚する時になったものの家族に十分な資金がないときも、不平を言い、もてなしの本分を尽くしたいのにその余裕がないときも不平を言う。あなたは不満であふれており、そのために時折集会へ行かなかったり、神の言葉を飲み食いしなかったり、長期間にわたって否定的になったりする。今日あなたに起こる出来事は一つとしてあなたの将来の展望や運命と関係がない。このようなことは神を信じていなくても起こることだが、今日あなたはその責任を神に負わせ、神が自分を淘汰したと主張する。神への信仰はどうなったのか。あなたは本当に自らのいのちを神に捧げたのか。あなたがたがヨブと同様の試練を受けたなら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく立つことができる者は一人もおらず、みな倒れるであろう。あなたがたとヨブの間には雲泥の差がある。今日自分の資産の半分でも差し押さえられたなら、あなたがたは神の存在さえ否定するであろう。自分の息子や娘が自分から奪い去られれば、不当だと叫びながら町中を走り回るであろう。生活に行き詰まったならば、神に挑んで文句をぶつけようとするであろう。わたしが最初になぜ多くの言葉を語って脅したのかと疑問に思うことであろう。このようなとき、あなたがたはどんなことでもする。このことは、あなたがたがまだ真の識見も真の霊的背丈も得ていないことを示している。したがって、あなたがたの試練は大きすぎる。なぜなら、あなたがたは多過ぎるぐらいに知識はあるが、真に認識しているのは、気づいていることの数千分の一にも満たないからである。単に理解や知識を得ることに留まってはならない。どの程度を本当に実践でき、自分の労苦の汗がどれほどの聖霊からの啓きと照らしに結実し、自分の実践のうち幾つにおいて決意を実現したかを、検討してみるべきである。自分の霊的背丈と実践を真剣にとらえるべきである。神への信仰においては、誰かのために単に上辺だけの身振りをしようとしてはならない。最終的に真理といのちが獲得できるか否かは、あなた自身の追求により決まるのである。

『神の出現と働き』「実践(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 315

中には身なりの美しい人もいるが、それは表面だけである。姉妹は花のように美しく身を飾り、兄弟は王子や裕福な若い洒落者のように着飾っている。彼らは食べるものや着るものといった外面的なことにしか注意を払っておらず、内面はまったく貧困で、神についての認識など一切ない。これは一体何を意味するのか。また他には貧しい乞食のような身なりの人もいて、まったく東アジアの奴隷のようである。わたしがあなたがたに求めていることが本当にわからないのか。お互いに交わって、自分たちが実際に何を得たのか話し合ってみなさい。あなたがたは長年神を信じていながら、収穫したものがこれだけだとは、情けないと思わないのか。恥ずかしくはないのか。長年真の道において追求していながら、今日あなたがたの霊的背丈はまだ雀にも及ばない。あなたがたのうちの若い女性を見てみなさい。服や化粧で絵のように美しく、お互いを比べ合っているが、一体何を比べているのか。自分の楽しみか、自分の求めるものか。わたしがモデルを雇いに来たとでも思っているのか。あなたがたは恥を知らない。いのちはどこにあるのか。あなたがたが追求しているのは、ただ自分の度を越した望みだけではないか。あなたは自分をとても美しいと思い、あらゆる装飾品で着飾ってはいても、実際には糞の山の中に生まれたうじ虫ではないのか。今日あなたが運良くそうした天国の祝福を楽しんでいるのは、あなたの可愛らしい顔のおかげではなく、神があなたを例外的に高く上げているからである。自分がどこから来たか、まだはっきりとわからないのか。いのちの話になると、口を閉ざして何も言わず、像のように黙り込んでしまうが、それでいて厚かましく着飾りはする。顔に紅やおしろいで化粧をしたがる。そしてあなたがたのうちの洒落者を見てみなさい。わがまま男で一日中ぶらつき回り、粗暴で、顔には無関心な表情を浮かべている。これが人のあるべき様子か。あなたがたは一人一人、男も女も、一日中何に専念しているのか。自分が食べていくのに誰に頼っているか知っているのか。自分の衣服を、その手に刈り入れたものを見て、自分の腹をなでてみなさい。長年の信仰の中で支払った血と汗という代価から何を得たのか。まだ観光に出かけたり、その悪臭を放つ肉を飾り立てたりするという、無価値なことを追求している。正常な人間であることを求められているのに、異常であるだけでなく、完全に常軌を逸している。そのような人物が、どうして図々しくもわたしの前に来れるのか。このような人間性で、自分の魅力を見せびらかし肉を見せつけて、常に肉の欲望の中に生きている。汚れた霊や悪霊の子孫ではないのか。わたしはそのような汚れた霊をいつまでも存在させてはおかない。あなたが心の中で考えていることを、わたしが知らないなどと思わないことだ。欲望や自分の肉をしっかりと抑制しているかもしれないが、その心の中に抱いている思いをわたしが見抜けないことがあるだろうか。あなたの目が望むものすべてを、わたしが知らないことがあるだろうか。あなたがた若い女性が自分をそれほどきれいにみせているのは、肉を見せびらかすためではないのか。男性はあなたがたにとって何の益があるのか。男性があなたがたを苦痛の海から本当に救ってくれるのか。あなたがたのうちの洒落男は、みな紳士らしく立派に見えるよう着飾っているが、それは颯爽とした外見に注意を惹くための策略ではないのか。誰のためにそうしているのか。女性はあなたがたにとって何の益があるのか。女性はあなたがたの罪の根源ではないのか。あなたがた男性にも女性にも、わたしは多くの言葉を語ったが、あなたがたはそのごく一部にしか従っていない。あなたがたの耳はよく聞こえず、目は衰えてかすみ、心は頑ななためもはや体の中には欲望しかなく、体という罠にとらわれて逃げることができずにいる。誰があなたがたのような汚物と垢の中をうごめくうじ虫に近寄りたいと思うのか。あなたがたはわたしが糞の山から引き上げた者以上のものではなく、生来正常な人間性を備えていなかったことを忘れてはならない。わたしがあなたがたに求めるのは、あなたがたが生来備えていなかった正常な人間性であり、欲望を見せびらかすことでも、長年にわたって悪魔の訓練をうけた悪臭を放つ肉を野放しにすることでもない。そのように着飾って、さらに深い罠に陥ることが怖くないのか。自分が本来、罪に属していたことを知らないのか。自分の体が欲望に満たされ切っていて、服の上からもそれが滲み出し、耐え難く醜悪で汚れた霊である状態を露わにしていることを知らないのか。あなたがたはこのことを誰よりもよく知っているのではないのか。あなたがたの心、目、唇は、すべて汚れた霊に汚されているのではないのか。それらの部分は汚れていないのか。行動しない限り、自分はもっとも聖いと思っているのか。美しい衣服で身を飾れば、下劣な魂を覆い隠せると思っているのか。そんなことは不可能である。あなたがたにはもっと現実的になるよう忠告する。欺瞞に満ちた偽物になることをやめ、自分自身を見せびらかすこともやめなさい。あなたがたは互いに自分の欲望をひけらかしているが、その見返りに得るものは、とめどない苦しみと無慈悲な懲らしめだけである。なぜ互いに目を瞬かせて恋愛にふける必要があるのか。それがあなたがたの品位の尺度、公正さの度合いなのか。あなたがたのうちで邪悪な医術や魔術に手を染めている者をわたしは嫌悪する。あなたがたのうちで自身の肉を愛する若い男女を嫌悪する。自分を抑えたほうがよい。なぜならあなたがたは今や正常な人間性を持つことを求められており、欲望を見せびらかすことは認められないからである。なのにあなたがたはあらゆる機会を利用する。あなたがたの肉があまり余って、欲望が大きすぎるからである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 316

あなたがたの追求が効果的だったかどうかは、現在何を持っているかでわかる。そしてそれによりあなたがたの結末が判断される。つまり、結末は払ってきた犠牲と行なってきた物事に明らかにされるのである。結末は、追求、信仰、何をしてきたかによってわかる。あなたがたの間には、すでに救いようのない者が多くいる。現在は人の結末を明らかにする日であり、わたしがぼんやりと働きを行うことはないからである。わたしは完全に救いようのない者を、次の時代に導き入れることはない。やがてわたしの働きが終わる時が来るが、まったく救うことのできない、霊のない腐臭のする屍に働きかけることはない。今は人の救いにおける終わりの日であり、わたしは役に立たない働きは行わない。天と地を罵るのはやめなさい。世界の終わりは近づいている。それは避けることができない。事ここに至り、人間にそれを止める方法はない。あなたが物事を好きなように変えることはできないのである。昨日あなたは真理を追求するための代価を払わず、忠実ではなかった。そして時が至った今日、あなたは救いようがない。そして明日、あなたは淘汰される。あなたを救う余地などない。わたしの心は柔和で、わたしはあなたを救うためにできるだけのことをしているが、あなたが自分のために努力し、考えないなら、それはわたしに何の関係があるというのか。自分の肉のことしか考えず安楽を喜ぶ者、信じているように見えても本当は信じていない者、邪悪な医術や魔術に手を染めている者、淫らでぼろぼろでみすぼらしい者、ヤーウェへの生贄や神が所有するものを盗む者、賄賂を愛する者、何もせずただ天国へ昇ることを夢見る者、傲慢でうぬぼれて個人的な名声や富のためにしか努力しない者、尊大な言葉を広める者、神自身を冒涜する者、神自身を批判し中傷してばかりいる者、党派を組んで独立しようとする者、自分を神以上に崇める者、放蕩に耽る軽薄な若者や中年や高齢の男女、人のもとで個人的な富や名声を楽しみ個人的な地位を求める男女、罪に囚われて悔い改めない者、これらはすべて救いようのない者ではないのか。放蕩、罪深さ、邪悪な医術、魔術、冒涜、尊大な言葉はすべて、あなたがたの間にはびこっている。真理といのちの言葉はあなたがたの只中で踏みにじられ、聖なる言葉はあなたがたの間で汚されている。汚れと不従順で膨れ上がった異邦人たちよ! あなたがたの最終的な結末はどうなるのか。肉を愛し、肉の魔術にふけり、放蕩の罪に陥っている者が、どうして図々しくも生き続けようというのか。あなたがたのような人は救いようのないうじ虫だということを知らないのか。一体何の資格があって、あれやこれやと要求するのか。今日に至るまで、真理を愛さず肉だけを愛する者にはほんのわずかな変化も起こっていない。そのような者がどうして救われようか。いのちの道を愛さず、神を崇めて証しせず、自分自身の地位のために策略を巡らせ、自分を褒めそやす者は現在も同じままではないのか。彼らを救うことに何の価値があるというのか。救われるかどうかは、どれほど年長であるかや、何年間働いてきたかによって決まるものではなく、ましてやどれほどの経歴を積み重ねてきたかによって決まるものでもない。そうではなく、追求が実を結んだかどうかによるのである。救われる者は実を結ぶ「木」であり、葉が青々と茂り花を豊かに咲かせてはいても、実をつけない木ではない、ということを知りなさい。何年も街中をぶらついてきたからといって、何の意味があろうか。あなたの証しはどこにあるのか。あなたの神への畏敬の念は、自己愛や好色な欲望よりもはるかに小さい。このような人は堕落者ではないのか。そのような人が、どうして救いの見本、模範となれるというのか。あなたの本性は矯正のしようがなく、あなたはあまりに反逆的で救いようがない。そのような人は淘汰されるのではないのか。わたしの働きが終わるのは、あなたの終わりの日が到来するときではないのか。わたしはあなたがたのもとで多くの働きを行い、多くの言葉を語ってきたが、そのうちのどれほどが本当にあなたがたの耳に入ったのか。そのうちのどれほどに従ってきたのか。わたしの働きが終わるときは、あなたがわたしに対抗しなくなるときであり、わたしに立ち向かわなくなるときである。わたしが働いていても、あなたがたは常にわたしに逆らい、決してわたしの言葉に従わない。わたしはわたしの働きを行うが、あなたはあなたの「働き」をして、自分の小さな国を作り上げている。あなたがたは狐や犬の群れでしかなく、すべてをわたしに反抗して行なっている。そしていつも、自分を一心に愛してくれる者を自分の腕の中に引き入れようとしている。あなたがたの畏敬の念はどこにあるのか。あなたがたのすることはすべてが欺瞞である。従順も畏敬もなく、することはみな欺瞞と冒涜に満ちている。そのような人が救われることができるのか。性的にふしだらで好色な男はいつも、自分の楽しみのためにいやらしい淫らな女を惹きつけたがっている。わたしは絶対にそのような性的にふしだらな霊を救わない。わたしはあなたがたのような汚れた霊を憎み、あなたがたはその好色さといやらしさのため地獄に落ちる。何か言うことがあるか。あなたがたのような汚れた霊や悪霊は本当に不快で、気分が悪くなる。このようなくだらない者が、どうして救われることができようか。いまだに罪に陥っている者が、まだ救われることができるのか。今日、この真理、この道、このいのちはあなたがたを惹きつけない。その反面、あなたがたは罪深さや金や地位や名声や利益に、肉の楽しみに、男の格好良さや女の魅惑に惹きつけられている。あなたがたはどんな資格があって、わたしの国に入れるというのか。あなたがたの姿は神の姿より偉大で、地位は神の地位よりも高く、人々の間での威信は言うに及ばず、あなたがたは人に崇められる偶像となっている。大天使になったのではないのか。人の結末が明らかにされるときは、救いの働きが終わりに近づくときでもあり、あなたがたの多くは救いのない屍となっており、淘汰されなければならない。救いの働きのあいだ、わたしはすべての人に対して優しく善である。その働きが終わると、さまざまな種類の人の結末が明らかにされ、その時わたしはもはや優しくはない。人の結末が明らかになり、人はそれぞれ種類別に分類され、それ以上は救いの働きを行う意味がなくなるからである。なぜならそれで救いの時代は終わったことになり、終わった以上、戻ることはないからである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 317

人は常に闇のとばりに覆われて、サタンの影響にとらわれたまま、逃れることができずに生きてきた。その性質はサタンに操られて、ますます堕落している。人は常に堕落したサタン的な性質の中に生きており、真に神を愛することができないのだと言える。そのため神を愛したいと願うなら、独善、自尊心、高慢、うぬぼれといった、サタンの性質であるものを捨て去らなければならない。そうでなければその人の愛は不純な、サタン的な愛であり、神に認められることは断じてできない。聖霊によって直接完全にされ、取り扱われ、砕かれ、刈り込まれ、訓練され、懲らしめられ、練られることがなければ、誰も真に神を愛することはできない。もし自分の性質の一部は神を現しているため、自分は神を真に愛せると言うなら、あなたは傲慢な言葉を語る人であり、非常識な人である。そのような人は大天使だ! 人の生まれつきの性質は神を体現することができない。人は神に完全にされることを通して生来の性質を捨て去らねばならず、その後に神の旨に配慮し、神の目的を果たし、さらに聖霊の働きを受けることで、初めてその生き方が神に認められるようになる。聖霊によって用いられている人を除けば、肉に生きる者で神を直接体現できる者はいない。聖霊に用いられている人でさえ、その性質と生き方が神を完全に体現しているとは言えない。ただその人の生き方が聖霊によって導かれていると言えるだけであり、その人の性質が神を体現することはできない。

人の性質は神によって定められており、そのことに議論の余地はなく、それは肯定的なことと考えられるが、その性質はサタンによって操られているため、人の性質は全体としてサタンの性質なのである。中には、神の性質とは行いがまっすぐで率直なことであり、それは自分にも表れていて、自分もそのような性格をしているから、自分の性質は神を体現していると言う人がいる。それは一体どんな人だろうか。堕落したサタンの性質が、神を体現できるというのか。自分の性質は神を現しているなどと宣言する人は、神を冒涜し、聖霊を侮辱している! 聖霊の働き方を見ると、神の地上での働きはあくまで征服の働きであることがわかる。そのため人間の堕落したサタン的な性質の多くは清められておらず、人の生き方は依然としてサタンの似姿であり、それを人は良いものと信じている。そしてそれは人の肉の行いを表しており、具体的に言えばサタンを体現していて、間違いなく神を体現するものではない。たとえ誰かが非常に神を愛していて、地上ですでに天の生活を楽しめるほどであり、「ああ神よ、どれほどあなたを愛しても足りません」などとさえ言うことができ、最高の領域に達しているとしても、それですらまだ神を生き、神を体現しているとは言えない。人の実質は神の実質とは異なるからだ。人は決して神を生きることはできないし、ましてや神になることなどできない。聖霊が人に指示しているのは、ただ神の求めに従った生き方をすることだけだ。

サタンの行いはすべて人に体現されている。人の行いは今やすべてサタンの表現であり、神を現すことはできない。人はサタンの化身であり、人の性質が神の性質を表すことはできない。中には良い性格の人たちもいて、神がそのような人たちの性格を通して何らかの働きを行うことはあるかもしれず、彼らの働きは聖霊によって導かれる。それでも、彼らの性質が神を体現することはできない。神が彼らに対して行う働きは、ただ彼らがすでに持っているものを用い、それを発展させるものにすぎない。昔の預言者や、神によって用いられた人たちも、誰一人神を直接体現することはできない。人々は状況のためやむを得ず神を愛するようになるだけで、誰一人自ら進んで神と協調しようと努める者はいない。肯定的なものとは何だろうか。神から直接もたらされるものはすべて肯定的である。しかし人の性質はサタンに操られており、神を体現することはできない。肉となった神の愛、苦難を受ける覚悟、義、従順、そして謙虚さと秘密性のみが、直接神を体現している。なぜなら彼が到来したとき、罪深い性質を持たず、神から直接やって来たからであり、サタンに操られていなかったからだ。イエスは罪深い肉のような姿を取っているだけで、罪を体現してはいない。そのため十字架を通した(十字架の苦難も含む)働きが達成されるまでのイエスの行動、行なった業、そして言葉は、すべて直接神を体現している。イエスの例は、罪深い本性を持つ者は誰も神を体現できず、人の罪がサタンを体現していることを証明するに十分である。すなわち罪は神を体現しておらず、神には罪がない。聖霊により人の中で行われた働きでさえ、聖霊によって導かれたものと言えるだけで、人が神に代わって行ったと言うことはできない。人に関して言えば、その罪もその性質も神を体現してはいない。聖霊が過去から現在に至るまで人に行ってきた働きに目を向ければ、真理を生きる人がその真理を持っているのは、ひとえに聖霊がその人に働きを行ったからだということがわかる。聖霊による取り扱いと懲らしめを受けた後に、真理を生きられる人はほとんどいない。それはすなわち、聖霊の働きだけが存在しており、人間の側の協力がないということだ。このことははっきり理解できただろうか。それでは、聖霊が働くときに最善を尽くして協力し、本分を尽くすにはどうすればいいだろうか。

『神の出現と働き』「堕落した人間は神を体現できない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 318

あなたの神への信仰、そして真理の追求はおろか、あなたの振る舞い方さえも、みな現実に基づいたものでなければならない。あなたのすることはすべて実践的でなければならず、幻想や空想的な物事を追い求めてはいけない。そうした振る舞いには何の価値もないし、さらに、そのような生き方には何の意味もない。あなたの追求と人生は、まさに偽りと欺きの中で費やされ、また価値や意義のあることを追い求めないので、あなたが得るものは馬鹿げた理屈や、真理ではない教理だけである。そうした物事は、あなたの存在の意義や価値に対して何の関わりもなく、あなたを空しい状態に陥れるだけだ。このようにして、あなたの生涯は何の価値も意義もないものになる――そして、有意義な人生を追い求めないのであれば、たとえ百年生きたとしても、すべてが虚しく終わるだろう。どうしてそれを人生と言えようか。それは実際のところ、動物の一生ではないのか。同様に、あなたがたが神への信仰の道を辿ろうとしても、目に見える神を求めようとせず、見ることも触れることもできない神を崇めているのであれば、そうした追求はいっそう虚しくはないか。結局、あなたの追求は瓦礫の山となるだろう。そうした追求に何の益があるのか。人間の最大の問題は、見ることも触れることもできないもの、途方もなく神秘的で不思議なもの、人間の想像を超えた、ただの人間には手の届かないものだけを愛する点だ。そうした物事が非現実的であればあるほど、人々はそれを分析し、他のものには目もくれず、それを追い求めて手に入れようとする。それが非現実的であればあるほど、ますます綿密に調べ、分析し、それらについて、自分なりの細かな考えを紡ぎだす。それに対して、物事が現実的であればあるほど、人々はそれらを素っ気なく扱う。ただそれらを見下し、蔑みさえする。これはまさに、わたしが今日行う現実的な働きに対する、あなたがたの態度ではないのか。そうした物事が現実的であればあるほど、あなたがたは偏見を持つ。そうしたものを調べる手間もかけず、ただ無視する。そうした現実的かつ低い基準の要求を見下して、この上なく現実的な神について無数の観念を抱き、神の現実性と正常さを受け入れることができない。このように、あなたがたは漠然とした信仰に固執しているのではないか。あなたがたは、過去の漠然とした神については揺るぎない信念を持っているが、今日の実際の神には何の興味も示さない。それは、昨日の神と今日の神とが二つの別の時代に属するからではないのか。それはまた、昨日の神が天の崇高なる神なのに対して、現在の神は地上のちっぽけな人間だからではないのか。そのうえ、人間が崇める神は、人間の観念によって生み出された神であるのに対して、今日の神は地上で生まれた現実の肉を持つからではないか。結局のところ、人間が神を追い求めないのは、今日の神があまりに現実的だからではないのか。と言うのも、今日の神が人々に求めているのはまさに、彼らが最もしたくないこと、最も恥ずかしいと思うことだからである。これは、人々にとって困難なことではないか。人々の古傷をさらすことではないのか。このように、多くの人が現実の神、実際の神を追い求めず、ゆえに受肉した神の敵、つまり反キリストとなる。これは明白な事実ではないか。過去、神がまだ肉となっていないころ、あなたは宗教家、あるいは敬虔な信者だったかもしれない。神が肉となった後、そうした敬虔な信者の多くは、いつの間にか反キリストになった。それがどういうことか、あなたにわかるだろうか。神への信仰において、あなたは現実に集中せず、真理を追い求めることもなく、偽りの虜になっている――それが、受肉した神に敵意をもつ最も明白な原因なのではないか。受肉した神はキリストと呼ばれる。ならば、受肉した神を信じていない者たちはみな反キリストではないか。では、あなたが信じ、心から愛しているのは、本当にこの肉なる神なのか。それはこの上なく現実的で、極めて正常で、呼吸している生きた神なのか。あなたが追い求める対象はいったい何なのか。それは天か、それとも地か。それは観念か、それとも真理か。それは神か、それとも超自然的な物事か。実際のところ真理とは、人生の格言の中で最も現実に則しており、人類のあらゆる格言の最高峰である。それは神による人間への要求であり、また神が自ら行った働きなので、「人生の格言」と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、天地と万物の主から人類に発せられた言葉であり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、「人生格言の最高峰」と呼ばれるのだ。人々が真理を実践しようと追求するのは、自身の本分を尽くしているのである――つまり、神の要求を満たすことを追い求めているのだ。この要求の本質は、最も現実的な真理であり、誰にも達成できない空虚な教義などではない。あなたの追求するものが教義に過ぎず、そこに何の現実性もないのであれば、あなたは真理に反抗しているのではないか。あなたは真理を攻撃する者ではないのか。そのような人間がどうして神を愛することを求める人になれようか。現実がない人は真理に背く者であり、みな生まれながらに反抗的だ。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 319

あなたがたはみな、神の前で報われ、神の寵愛を受けたいと願っている。神を信じ始めた者は誰でもそのようなことを望むものである。誰もが高尚な物事を追い求めることに夢中になり、誰ひとり他者に後れを取りたくないからである。これが人というものである。まさにそれゆえに、あなたがたの多くが絶えず天の神の機嫌を取ろうとしているのだが、実際には、あなたがたの神に対する忠実さと正直さは、自分自身に対する忠実さと正直さに比べてずっと劣っている。わたしはなぜそう言うのか。なぜならわたしは、神に対するあなたがたの忠実さを全く認めておらず、それどころか、あなたがたの心の中にいる神の存在を否定しているからである。言うなれば、あなたがたが崇拝する神、あなたがたが敬慕する漠然とした神は、そもそも存在していないのである。わたしがこれほどまでに断言できるのは、あなたがたが真の神からあまりにも遠ざかっているからである。あなたがたの忠実さの根拠は、あなたがたの心の中にある偶像である。一方、わたしについて言えば、あなたがたは偉大とも非力とも思っていない神を、言葉で認めているにすぎない。神から遠ざかっていると言うのは、つまりあなたがたが漠然とした神を身近に感じている一方で、真の神からは遠く離れているということである。「偉大ではない」と言うのは、今日あなたがたの信じている神が、大した能力のない人間、大して高貴ではない人間のようにしか見えていないことを指している。そして「非力ではない」と言うのは、その人が雲を呼び雨を降らせることはできないにしても、神の霊に呼びかけて天と地を揺るがすほどの働きをさせ、人々をすっかり困惑させることができるという意味である。表面上は、あなたがたはみな地上のキリストに非常に従順なようだが、実質はキリストを信仰してもいなければ愛してもいない。つまり、あなたがたが本当に信じているのは自分自身の感情の漠然とした神であり、あなたがたが本当に愛しているのは、日夜恋い慕うものの直接会ったことがない神なのである。キリストに対するあなたがたの信仰はわずかでしかなく、愛はない。信仰とは信じることと信頼することである。愛とは心の中で崇拝して敬慕し、決して離れないことである。しかし、今日のキリストに対するあなたがたの信仰と愛は、そこに遠く達していない。信仰について言えば、あなたがたはキリストをどのように信仰しているのか。愛について言えば、あなたがたは彼をどのように愛しているのか。あなたがたはただ彼の性質を全く理解しておらず、ましてや彼の実質などなおさら知らないのに、どのようにして彼を信仰するというのか。彼に対するあなたがたの信仰の実体はどこにあるのか。どのように彼を愛しているのか。彼に対するあなたがたの愛の実体はどこにあるのか。

今日まで多くの人々が躊躇なくわたしについてきた。またこの数年間、あなたがたは大変な疲労に苦しんできた。あなたがたひとりひとりの生来の気質や傾向を、わたしはすみずみまで明確に把握してきた。あなたがたのひとりひとりと関わり合うのはとてつもなく難儀である。遺憾なのは、わたしがあなたがたのことを大いに把握しているというのに、あなたがたはわたしのことを全く理解していないということである。あなたがたは混乱している瞬間に誰かの策略に引っ掛かったのだと、人々が言うのも無理はない。事実、あなたがたはわたしの性質について何も理解せず、ましてやわたしが何を考えているのか洞察することなどなおさらできない。今日、あなたがたのわたしに関する誤解は雪だるま式に膨れ上がり、わたしに対する信仰は混乱した信仰のままである。あなたがたはわたしを信仰しているのではなく、わたしの機嫌をとり、わたしにへつらおうとしていると言うのがより適切だろう。あなたがたの動機は非常に単純である。誰であれ、報いてくれるなら従うし、大きな災難を免れさせてくれるなら信じる。神でもいいし他の何らかの神でもいい。そのどれも自分には関係ない、というのである。このような人はあなたがたの中に大勢おり、この事態は非常に深刻である。もしいつの日か、キリストの実質を理解しているがゆえに彼を信仰しているという人があなたがたのうちどれほどいるかを調べたとしたら、おそらくわたしが納得できる人は一人としていないだろう。したがってこの問いについてくらいは考えてもよかろう。あなたがたの信じる神はわたしと非常に異なっている。ならば、あなたがたの神への信仰の本質とは何か。あなたがたの神なるものを信じれば信じるほど、あなたがたはわたしからさらに逸れていく。ならば、この問題の本質とは何か。あなたがたのうち誰一人としてこのような問いについて考えたことがないのは明らかだが、そのことの重大さが頭に浮かんだことはあるのか。このような形で信じ続けた末の結果を考えたことはあるのか。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 320

わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰をわたしは決して認めない。真の信仰がないあなたには、真の愛はなおさらない。そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らせがちなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感を持ち合わせておらず、邪悪な策略に溺れ、不誠実で狡猾であり、また人間と同様に悪事や闇を喜ぶ、などという具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。このような信仰は罪以外の何物でもない。中には、わたしを喜ばせるのはまさに媚びへつらいごまをする者たちであり、そのような技量のない者は神の家では歓迎されずに居場所を失う、と信じている者すらいる。長年かけてあなたがたが得た認識はこれだけなのか。これがあなたがたの手に入れたものなのか。わたしに関するあなたがたの認識はこのような誤解にとどまらない。さらに悪しきは、あなたがたによる神の霊への冒涜と、天に対する悪口である。あなたがたのような信仰のせいで、あなたがたはますますわたしから逸れていき、わたしとさらにひどく敵対するだけだとわたしが言うのは、それゆえである。長年にわたって働くあいだずっと、あなたがたは多くの真理を目の当たりにしてきた。しかしどのような事柄がわたしの耳に入ってきたか、あなたがたは知っているのか。あなたがたのうち喜んで真理を受け入れる人はどれほどいるのか。あなたがたはみな、自分たちは喜んで真理の代価を払うと信じているが、真理のために本当に苦しんだ者が、あなたがたの中にどれほどいるというのか。あなたがたの心の中には不義しかなく、そのため誰もが同じように不正直で心が曲がっていると思うのである。受肉した神が普通の人間のように優しい心や慈愛を持ち合わせていないこともありうる、と信じるに至るほどに。さらに、あなたがたは高潔さや憐れみ深く慈愛に満ちた性質は天の神にのみ存在すると信じている。あなたがたは、そのような聖人は存在せず、ただ闇と悪が地上を支配するのみだと信じているが、その一方で神とは、人々が善きものや美しきものに対する自らの切望を託す先であり、人々によって作られた伝説上の人物なのである。あなたがたの頭の中では、天の神とは非常に立派で正しく偉大な、崇拝し敬慕する価値のあるものであり、一方、地上の神は天の神の単なる代役、単なる道具にすぎないということになっている。あなたがたは、この地上の神は天の神に等しいはずがない、まして天の神と比較するなど話にならないと信じている。神の偉大さと栄誉に関して言えば、これらは天の神の栄光に属するものだが、人間の本性や堕落となると、それらは地上の神もその一部を有している特質だというのである。天の神は永遠に高貴だが、地上の神は永遠に取るに足りず、弱く、無能である。天の神は感情的になることなく、ひたすら義であるが、地上の神には利己的な動機しかなく、公平さも分別もない。天の神は少しも曲った所がなく永遠に誠実だが、地上の神には常に不正直な面がある。天の神は人間を深く愛するが、地上の神が人間に示す配慮は不十分で、人間を全く顧みないことすらある。このような誤った認識がもう長い間あなたがたの心の中にあり、将来にわたり永続する可能性もある。あなたがたはキリストの全ての行いを不義な視点から見ており、キリストの働きの全ても、キリストの身分も実質も、悪人の視点から評価する。あなたがたは重大な過ちを犯し、先人の誰もがなさなかったことをなしてきた。つまり、あなたがたは頭に王冠を戴せた高貴な天の神だけに仕え、取るに足りないと見なすあまり自分の目には映らない地上の神のことは、決して留意しないのである。これはあなたがたの罪ではないか。神の性質に背くあなたがたの典型的な例ではないか。あなたがたは天の神を崇拝する。あなたがたは高貴な像を崇拝し、雄弁で名高い者たちを尊ぶ。あなたは、その手を富で満たしてくれる神の命令には喜んで従い、望みを全て叶えてくれる神を渇望する。あなたが崇拝しない唯一のものは高貴でないその神であり、あなたが嫌う唯一のことは、誰からも高く評価されないその神と関わることである。あなたがやりたがらない唯一のことは、あなたに一銭ももたらさないその神に仕えることであり、あなたが恋い慕うよう仕向けることのできない唯一の者は、魅力のないその神である。この神はあなたの視野を広げられず、あたかも宝物を見つけたかのように感じさせることもできず、ましてやあなたの願いをかなえることもできない。ならば、なぜあなたは彼について行くのか。このような問いについて考えたことはあるのか。あなたのしていることはそのキリストに背くだけではない。より重大なのは、天の神に背くということである。これが神を信仰するあなたがたの目的ではあるまい。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 321

あなたがたは神に喜んでもらうことを切望するが、神から遠く離れている。何が問題なのか。あなたがたは神の言葉こそ受け入れるものの、神の取り扱い、神の刈り込みは受け入れず、まして神の采配の一つ一つを受け入れること、神を完全に信仰することなどできない。ならば何が問題なのか。つまるところ、あなたがたの信仰とは、ひよこが生まれることのない空っぽの卵の殻なのである。あなたがたの信仰は真理をもたらすこともいのちも与えることもなく、代わりに支えと希望という錯覚を与えてきた。この支えと希望という錯覚こそが、あなたがたが神を信じる際の目標であり、真理やいのちが目的ではないのである。だからこそわたしは、あなたがたの神への信仰の流れが、盲従と無恥によって神の機嫌を取ろうとする行為以外の何物でもなく、決して真の信仰と見なすことはできない、と言うのである。このような信仰からどうしてひよこが生まれようか。言い換えれば、このような信仰が何を成しうるだろうか。あなたがたが神を信じる目的は、自分の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなたがたは天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、わたしはあなたがたの見方を認めない。わたしは地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰するわたしの手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる。あなたは天の神に忠実でありさえすれば、キリストに対して好きなように行動してもよいと思っているのか。それは誤りである。あなたがキリストを知らないのは、天の神を知らないということである。あなたがいかに天の神に忠実であろうとも、それは空論と見せかけにすぎない。と言うのも地上の神は、人間が真理を受け取ってより深遠な認識を持つだけでなく、それ以上に、人間を断罪し、そののちに事実を掴んで悪人を罰することに貢献するからである。これによる有益な結果と有害な結果をあなたは理解したのか。そのような結果をあなたは経験したのか。わたしは、あなたがたがこの真理を早晩理解できるよう願っている。すなわち、神を知るには、天の神だけでなく、より重要なこととして地上の神を知らなければならない、ということである。優先順位を取り違えたり、主要なものよりも二次的なものを優先させたりしてはならない。このようにすることでのみ、あなたは神と真によい関係を築くことができ、より神に近づき、あなたの心をより神に近づけることができるのである。あなたがわたしを長年信仰し、わたしと長らく関わってきたにもかかわらず、わたしから遠く離れたままならば、あなたは度々神の性質に背いており、あなたの最後は実に測りがたいものになるはずだ、とわたしは言う。わたしと長年関わっても、それによってあなたが人間性と真理を有する人物へと変化せず、その上さらに、あなたの本性に悪の道が根付き、傲慢さが以前の倍になるだけでなく、わたしに関する誤解も増大し、わたしを単なる仲間と見なすまでになってしまったのならば、あなたの厄災はもはや皮膚の表面どころではなく、まさに骨まで貫いていることになる。あなたに残されたのは自分の葬儀の準備が整うのを待つことだけである。その時になって、あなたの神になるようわたしに懇願するには及ばない。あなたは死に値する罪を、許されざる罪を犯したからである。たとえわたしがあなたを哀れむことがあったとしても、天の神はあなたの命を取り上げると断言するだろう。あなたが神の性質に背いたことはありふれた問題などではなく、非常に重大な性質をはらむ問題だからである。その時が来ても、前もって教えてくれなかったとわたしを責めてはならない。話は全てここに戻ってくる。あなたがキリスト、すなわち地上の神を普通の人間と見なして関わるならば、つまり、その神は一人の人間にすぎないと信じるならば、そのときあなたは滅びることになる。これが、あなたがた全員に対するわたしの唯一の警告である。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 322

人には信仰という不確かな言葉しかないが、人は信仰を構成しているものを知らないし、ましてやなぜ信仰を持っているのかもわからない。人はあまりに理解しておらず、欠けているものが多すぎる。わたしへの信仰も思慮がなく無知である。信仰とは何か、なぜわたしを信仰しているのか、人はわかっていないが、それでも執拗にわたしを信じ続けている。わたしが人に求めるのは、ただこのような形で執拗にわたしを呼び求めたり、気まぐれにわたしを信じたりすることではない。なぜなら、わたしが行う働きは、人がわたしを見て認識できるようにするためでも、人が新しい光の中で刮目し、わたしを見るようにするためでもないからである。わたしはかつて多くのしるしと不思議を顕し、多くの奇跡を行った。そして、当時のイスラエル人はわたしに大いなる賞賛を示し、病人を癒し悪魔を追い出すことのできるわたしの並外れた能力を大いに畏れた。当時、ユダヤ人は、わたしの癒しの力は見事で並外れていると思い、わたしの数多くの業のゆえに、誰もがわたしを崇め、わたしの力のすべてに大きな称賛の念を抱いた。よって、わたしが奇跡を行うのを見た人はみな、わたしにしっかり付き従い、その結果、わたしが病人を癒すのを見るために何千人もの人たちがわたしを取り巻いた。わたしは非常に多くのしるしと不思議を示したが、人はただわたしを熟練した医師と見なすだけだった。そこで、わたしは当時の人たちに多くの教えも語ったが、彼らはわたしを弟子より優る教師としてしか見なさなかった。今日でさえ、人々はわたしの働きの歴史的な記録を見てきたのに、わたしは病人を癒す偉大な医師、無知な人たちの教師であると引き続き解釈しており、わたしのことを憐れみ深い主イエス・キリストだと定義している。聖書を解釈する人たちは、わたしの医術に優っていたかもしれないし、今や彼らの教師に優る弟子でさえあるかもしれないが、世界中に名が知られているそのような有名な人たちは、わたしのことをただの医師だと、あまりに低く考えている。わたしの行いは海岸の砂粒より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫を超えているのに、人はわたしのことをただの医師、あるいは人に教える無名の教師としてしか思っていない。何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。ユダヤ人はわたしの恵みのゆえにわたしを信じ、わたしがどこへ行ってもついて来た。限られた知識と経験しかないこれらの無知な人たちは、わたしが顕したしるしと不思議を見ることばかり求めた。わたしのことを、最も偉大な奇跡を行うことができるユダヤ人の家長と見なしたのである。そのため、わたしが人から悪魔を追い出したとき、彼らのあいだで多数の議論が巻き起こった。わたしはエリヤであるとか、モーセであるとか、すべての預言者たちの中で最も老齢な預言者であるとか、すべての医師の中で最も偉大な医師であるとか、彼らは口にした。わたしがいのちであり、道であり、真理であるというわたし自身の言葉は別として、わたしという存在そのもの、あるいはわたしの身分を知り得た者は誰一人いなかった。わたしの父が住む場所は天であるというわたし自身の言葉は別として、わたしが神のひとり子であり、神自身でもあると知る者は誰一人いなかった。人類全員に贖いをもたらし、人類を贖い戻すというわたし自身の言葉は別として、わたしが人類の贖い主であることを知る者は誰一人おらず、人はわたしのことを、情け深く哀れみ深い人として知るだけだった。わたしがわたし自身のすべてを説明できることは別として、わたしを知り、わたしが生ける神のひとり子であると信じる者は誰一人いなかった。これがわたしに対する人々の信仰であり、このようにしてわたしを欺こうとしている。人はわたしのことをそのように見ているのに、どうしてわたしの証しをすることができようか。

『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 323

人々は長きにわたって神を信じてきたが、ほとんどの人は「神」という言葉が何を意味するのかを理解せず、当惑しながら付き従うだけである。神を信じなければならないのはいったいなぜなのか、あるいは神とは何かについてまったくわかっていない。神を信じ、付き従うことだけは知っていても、神が何かを知らなければ、そしてまた神を理解していなければ、これは実に大きな笑い話ではないだろうか。ここまで至った人々は天の奥義を数多く目撃しており、人がこれまで理解していなかった多数の深遠な知識を耳にしているが、人が熟考したことのない最も初歩的な数多くの真理に関して何も知らずにいる。中には、「わたしたちは長年にわたって神を信じてきた。神が何かわからないわけがない。この質問は、わたしたちを見くびっているのではないか」と言う人もいるだろう。しかし実のところを言えば、人々は今日わたしに付き従っているものの、現在の働きを何一つ理解していない。最も明白で簡単な問題ですら理解できず、まして神に関する問題のような極めて複雑な問題は言うまでもない。あなたが関心を持たず、いまだ突き止めていない問題こそ、理解すべき最も重要な問題なのだと知りなさい。なぜなら、あなたは群衆に付き従うことしか知らず、自分が備えておくべきものに注意を払わず、配慮しないからである。なぜ神を信じるべきなのか、本当にわかっているのか。神とは何か、本当にわかっているのか。人とは何か、本当にわかっているのか。神を信じる者としてこれらのことを理解できなければ、神の信者としての尊厳を失うのではないか。今日のわたしの働きは以下の通りである。人々に自分自身の本質を理解させる、わたしが行うすべてのことを理解させる、そして神の本当の顔を知らしめる。これがわたしの経営計画の最後の一幕、わたしの働きの最後の段階である。だからこそ、わたしは前もって人生の奥義のすべてをあなたがたに語り、あなたがたがそれらをわたしから受け入れられるようにしているのだ。これは最後の時代の働きなので、あなたがたがこれまで受け入れることのなかったいのち真理を、わたしは残らずあなたがたに語らなければならない。あなたがたはあまりにも不完全で、あまりにも準備不足なので、それらを理解することも、それらに耐えることもできないが、わたしは語らなければならない。わたしは自分の働きを完結させ、わたしが行うべき働きを終わらせるとともに、わたしがあなたがたに託してきたことを残らず伝え、暗闇が降りてきたとき、あなたがたが再び迷い、悪しき者の策略に陥らないようにする。あなたがたが理解していない道、あなたがたが知らない事柄は数多くある。あなたがたはそれほど無知なのだ。わたしはあなたがたの霊的背丈と欠点を十分よく知っている。したがって、あなたがたが理解できない言葉がたくさんあっても、わたしはあなたがたに対し、以前に受け入れたことのないこれらの真理を残らず伝えたい。あなたがたの現在の霊的背丈で、わたしへの証しに揺るぎなく立てるかどうか、心配し続けているからである。あなたがたをみくびっているわけではない。あなたがたはみな、わたしの正式な訓練を経ていない獣であり、あなたがたの中にどのくらい栄光があるか、わたしには絶対にわからない。わたしは多くの精力を注ぎ込んであなたがたに働きかけてきたが、あなたがたに積極的な要素は事実上存在せず、消極的な要素は指折り数えることができ、サタンを辱める証しとしてしか役に立たない。あなたがたの中にあるそれ以外のものはどれもサタンの毒である。わたしから見て、あなたがたは救いようもない。目下のところ、わたしはあなたがたのさまざまな表現や態度を見て、ようやくあなたがたの本当の霊的背丈を知った。だからこそ、わたしはあなたがたのことをいつも心配している。思うままに暮らすよう放置されたとしたら、人は本当に今日よりも良い状態、あるいは今日と同じくらいの状態でいられるだろうか。あなたがたは自分の子供じみた霊的背丈が不安ではないのか。あなたがたは本当にイスラエルの選民のようになり、いかなる時でもわたしに、わたしだけに忠実でいられるのか。あなたがたが今見せているのは、親の目の届かないところにいる子供のいたずらっぽさではなく、主人の鞭の届かないところにいる動物から沸き起こる獣性である。あなたがたは自分の本性を知らねばならないが、それはあなたがた全員が共有している弱点、あなたがた全員に共通する病気でもある。したがって、わたしが今日あなたがたにする唯一の忠告は、わたしへの証しに揺るぎなく立ちなさい、ということである。いかなる状況の下でも、古い病気を再発させてはならない。証しをすることが何より重要であり、それがわたしの働きの核心である。あなたがたは、マリアが夢の中でヤーウェの啓示を受け入れたように、信じ、それから従うことで、わたしの言葉を受け入れなければならない。これだけが精神的に純潔であるとみなされる。と言うのも、あなたがたはわたしの言葉を一番数多く聞く人々であり、わたしによって最も祝福される人々だからである。わたしはあなたがたに、わたしの貴重な所有物を残らず与え、何もかもあなたがたに授けてきた。しかしながら、あなたがたの地位とイスラエルの民の地位は非常に異なり、天と地ほどもかけ離れている。しかし彼らに比べると、あなたがたはずっと多くのものを受け取ってきた。彼らが必死にわたしの出現を待つ一方で、あなたがたはわたしと共に愉快な日々を過ごし、わたしの豊富な恵みを共有している。この違いを考えれば、あなたがたは何の権利があって不平を言い、わたしと口論し、わたしの所有物の分け前を要求するのか。あなたがたは多くのものを得たではないか。わたしは多くのものを与えているが、その見返りとしてあなたがたがわたしにくれるのは、胸が張り裂けるような悲しみと不安、そして抑えきれない恨みと不満である。あなたがたはあまりにも不快だが、同時に哀れでもある。よってわたしは憤りをすっかり吞み込み、あなたがたに繰り返し反対の声を上げるしかない。数千年にわたる働きにおいて、わたしが人類にまったく異議を唱えなかったのは、人類の発展において、あなたがたのあいだの「偽り」だけが、古代の有名な先祖によってあなたがたに残された貴重な継承物のような、最も有名なものになったことに、わたしが気づいたからである。人間以下のそれら豚と犬を、わたしはどれだけ憎むことか。あなたがたはあまりにも良心に欠けている。あなたがたの性格はあまりにも卑劣である。あなたがたの心はあまりにも無情である。仮にわたしがこうした言葉と働きをイスラエル人にもたらしていたら、わたしはずっと以前に栄光を獲得していただろう。しかし、あなたがたのあいだでそれを獲得するのは不可能である。あなたがたのあいだには、残酷な無視、冷たい態度、そして言い訳しかない。あなたがたはあまりにも感情がなく、まったく価値がない。

『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 324

現在、あなたがたはみな、神を信じることの本当の意味を理解すべきである。わたしが以前に話した神を信じることの意味は、あなたがたの肯定的な入りに関連していた。しかし、今日はそうではない。今日わたしは、あなたがたの神への信仰の実質について分析したい。もちろん、これはあなたがたを否定的な面から導くものである。わたしがそうしなければ、あなたがたは自分の本当の顔を決して知らず、自身の敬虔さと忠実さを永遠に誇り続けるだろう。わたしがあなたがたの心の奥底にある醜さを暴かなければ、あなたがたの一人ひとりが自分の頭に冠を乗せ、すべての栄光を自分自身のために取っておく、と言っても言い過ぎではない。あなたがたは自分の傲慢で自惚れた本性に突き動かされて自分の良心を裏切り、キリストに逆らって反抗し、自身の醜さをさらけ出し、それによってあなたがたの意図、観念、度を過ぎた欲望、欲に満ちた目が明るみに出る。それでもなお、あなたがたは、自分は生涯にわたってキリストの働きに情熱を捧げてきたなどと話し続け、キリストによってはるか昔に語られた真理を何度も何度も繰り返す。これがあなたがたの「信仰」、すなわち「不純なもののない信仰」なのである。わたしはずっと、人に厳しい規範を守らせてきた。わたしは、己の意図によってわたしを欺き、わたしに条件を突きつける者を嫌悪するので、あなたの忠誠が意図や条件を伴うものならば、あなたのいわゆる忠誠などむしろないほうがよい。わたしが人に望むのは、わたしに絶対的に忠実であり、すべてのことをある一語のために、その一語を証明するために行うことだけである。その一語とは「信仰」である。あなたがたがわたしを喜ばせようとしてお世辞を使うのを、わたしは軽蔑する。と言うのも、わたしは常に誠実さでもってあなたがたに接しているからであり、ゆえにあなたがたも、わたしに対して本当の信仰でもって振る舞ってほしいと願う。信仰に関して言えば、自分は信仰があるので神に付き従うのであり、そうでなければ、そのような苦しみに耐えることはないはずだと、多くの者は考えるかもしれない。そこであなたに尋ねる。神の存在を信じているのなら、あなたが神を畏れないのはなぜか。神の存在を信じているのなら、あなたの心に神への畏れがほんの少しもないのはなぜか。キリストは神の受肉であるということをあなたは受け入れている。それではなぜ、あなたは彼を侮り、彼に対して不敬な態度で振る舞うのか。なぜあからさまに彼を批判するのか。なぜ彼の行動をいつも探るのか。なぜ彼の采配に従わないのか。なぜ彼の言葉に従って行動しないのか。なぜ彼をゆすり、捧げ物を奪い取ろうとするのか。なぜキリストの立場から話すのか。彼の働きと言葉が正しいかどうかをなぜ判断するのか。なぜ彼のいないところで図々しくも彼を冒瀆するのか。これらをはじめとする物事が、あなたがたの信仰を形作っているのか。

あなたがたの言動には、キリストに対するあなたがたの不信仰の諸要素が露呈している。あなたがたの行いの動機と目的には、どれも不信仰が浸み込んでいる。また、あなたがたのまなざしにさえ、キリストへの不信仰が含まれている。あなたがた一人ひとりが、一瞬一瞬、不信仰の要素を抱いていると言えるだろう。つまり、あなたがたの体中を巡る血液には、受肉した神に対する不信仰が浸み込んでいるので、あなたがたはいつキリストを裏切るかわからないということである。したがって、あなたがたが神への信仰の道に残す足跡は現実のものでないとわたしは言う。神への信仰の道を歩むあなたがたは、しっかりと地に足をつけておらず、単に動作を繰り返しているに過ぎない。あなたがたはいつもキリストの言葉を完全に信じず、すぐに実践することができずにいる。これが、あなたがたにキリストへの信仰がない理由である。また、キリストについての観念を絶えず持っていることが、あなたがたにキリストへの信仰がないもう一つの理由だ。キリストの働きをいつも疑うこと、キリストの言葉に耳を傾けようとしないこと、キリストの行う働きが何であれ、それにいつも意見を持ち、その働きを正しく理解できないこと、どんな説明を受けても、観念を捨て去るのに苦労することなど、これらはすべて、あなたがたの心の中に入り混じっている不信仰の要素なのである。あなたがたはキリストの働きに付き従い、決して遅れをとらないが、心の中にはあまりに多くの反逆心が入り混じっている。この反逆心こそが、あなたがたの神への信仰における不純物なのである。おそらくあなたがたは、そうではないと思うだろうが、その中から生まれる自分の意図を認識できないなら、必ずやあなたは滅びる者の一人となる。なぜなら、神によって完全にされるのは、神を真に信じる者だけであり、神に懐疑的な者は完全にされず、ましてや神が神であることを信じたことがないのに、神に渋々付き従う者が完全にされることなど絶対にないからである。

『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 325

真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない人がいる。むしろ権力と富に喜びを見出すのだが、そのような人は権力の亡者と呼ばれる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の教派や、神学校出身の牧師や教師だけを探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らは半信半疑で、心と思いのすべてを捧げることができず、神のために自分を費やすことを語りはするが、その視線は偉大な牧師や教師に注がれており、キリストは一顧だにしない。彼らの心は名声、富、栄誉に釘付けになっている。また、そのような小人物がかくも多くの人を征服でき、かくも平凡な者が人を完全にすることができるなど、問題外だと考えている。塵と糞の中にいるこれらの取るに足らない人々が神に選ばれた民であるなど、絶対にあり得ないと思っているのだ。そのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人が大笑いするだろうと、彼らは信じている。神がそのような取るに足らない人々を選んで完全にするのであれば、あの偉人たちこそ神自身になると信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚れている。実際のところ、彼らは信じていないどころか、まったく馬鹿げた獣である。地位、名声、権力だけに価値を置き、大規模な集団や教派しか尊重しないからである。彼らはキリストに導かれる者など一顧だにしない。キリストに、真理に、そしていのちに背を向けた裏切り者に過ぎないのだ。

あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有力な地位にある偽の羊飼いたちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を敬愛しないが、世の汚れにふける放蕩な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを狙い、放蕩な生活を送る屍を敬愛する。あなたはキリストのそばで苦しもうとせず、あなたに肉、言葉、支配しか施さない無謀な反キリストの腕に喜んで飛び込む。今でさえ、あなたの心は彼らに、彼らの評判に、彼らの地位に、そして彼らの影響力に向いている。それなのに、あなたはキリストの働きを飲み込みがたいものにする態度をとり続け、進んでそれを受け入れようとしない。だから、あなたにはキリストを認める信仰がないと、わたしは言うのである。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、他に選択肢がなかったからに過ぎない。一連の気高いイメージが、あなたの心にいつまでもそびえている。彼らの言葉や行ないの一つひとつが忘れられず、影響力がある言葉や手腕も忘れられない。あなたがたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に取るに足らない存在であり、畏れる価値も永遠にない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさすぎ、高尚さからかけ離れているからである。

いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信者にして真理を裏切る者だとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得られない。自分の中に不信仰がどれほどあるのか、キリストへの裏切りがどれほどあるのか、あなたはもう突き止めたのか。わたしはあなたに以下のことを勧める。真理の道を選んだ以上、誠心誠意献身すべきである。あいまいであったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、真に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人に属するのだと知るべきである。

『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 326

信仰において人が求めるのは、自分に適切な終着点と、自分に必要なあらゆる恵みを神が与えるようにさせ、神を召使にし、神に自分との平和で友好的な関係を維持させ、いかなるときも両者の間に決して対立がないようにさせることである。すなわち、聖書で読んだ「わたしはあなたがたのすべての祈りに耳をかたむける」という言葉通りに、人の神への信仰は、神が人のすべての要求を満たすことを約束し、祈り求めるものは何でも人に与えることを要求するのである。人は神が誰も裁かず、誰も取り扱わないことを期待する。神とはいつも憐れみ深い救い主イエスであり、いつでもどこでも人と良い関係を保つ方だからである。人は次のように神を信じている。いつも臆面もなく神に要求するばかりで、自分が反抗的であろうと従順であろうと、神はなんでも見境なく自分に授けてくれると信じている。絶えず神から「負債を回収」し、神はまったく抵抗せずに「返済」しなければならず、そのうえ二倍の額を払わなければならない。人から何かを得ていようといまいと、神はただ人に操られるだけで、思いのままに人を指揮することはできず、ましてや人の許可なく神が望む時に、長年隠されてきた神の英知や義なる性質を人に現すことはできない。人はただ自分の罪を神に告白し、神はただそれを赦すだけで、そうすることにうんざりもせず、これが永久に続くと信じている。人は神に命令するばかりで、神は自分にただ従うと信じている。なぜなら、神は人間に仕えられるためではなく、仕えるために来たとか、神がここにいるのは人間の召使になるためだなどと聖書に記されているからである。あなたがたはいつもこのように信じてきたのではないのか。神から何か得られないと、あなたがたは必ず逃げたがる。何か理解できないことがあると、ひどく憤慨し、あらゆる種類の悪態を神に浴びせかけさえする。あなたがたは神自身が知恵と不思議を充分に表現することをどうしても許そうとせず、その代わりにただ一時的な気楽さと心地よさを楽しむことを望む。今まで、自分の神への信仰におけるあなたがたの態度は相変わらずの古い見解からなるだけである。神があなたがたにほんの少しでも威厳を見せれば、あなたがたは不機嫌になる。あなたがたにはいま自分の霊的背丈がどれほど低いのか正確にわかっているのか。あなたがたの古い見解は実のところ変化していないのに、自分たちは皆神に忠実だなどと思い込んではいけない。何も自分に降りかからなければ、あなたはすべてが順調に進んでいると考え、神への愛は高まる。しかし、些細なことが起こると黄泉の国にまで落ちる。これは神に忠実であることだろうか。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 327

あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。「わたしは神を信じているのだから、ひたすら祝福を浴び、地位は決して下がらず、不信者の地位よりも高いと保証されているはずだ」。このような見方があなたがたの中にあるのは、一、二年間のことではなく、長年にわたってである。あなたがたは取引しようという考え方をあまりに発達させている。あなたがたは現在のこの段階まで達したが、依然として地位を捨て去っておらず、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかと深く恐れ、地位について尋ね回り、観察しようと日々奮闘している。人々は安楽への欲求を決して捨て去らなかった。ゆえに、わたしは現在あなたがたをこのように裁いているが、あなたがたは最終的にどの程度の理解を得るだろうか。あなたがたは、自分の地位は高くないが、それでも神の称揚を享受したと述べるだろう。あなたがたに地位がないのは卑しい者として生まれたからで、地位を得たのは神によって称揚されたためである。すなわちそれは、神があなたがたに授けたものである。現在、あなたがたは神の訓練、刑罰、そして裁きを直に受けることができる。それ以上に、これは神の称揚である。あなたがたは神の清めと炎を直に受けることができる。これが神の大いなる愛である。各時代を通じ、神の清めと炎を受けた者は一人もおらず、神の言葉によって完全にされることができた者も一人としていなかった。現在、神は面と向かってあなたがたと話し、あなたがたを清め、あなたがたの内なる反逆を暴いている。これはまさに神による称揚である。人々には何の能力があるというのか。ダビデの子であれ、モアブの子孫であれ、人は概して何も誇るべきことがない被造物である。あなたがたは神の被造物なのだから、被造物の本分を尽くさなければならない。あなたがたに要求されていることはそれ以外にない。あなたはこのように祈るべきである。「神よ、わたしに地位があろうとなかろうと、わたしは今や自分を理解しています。わたしの地位が高いのであれば、それはあなたの称揚のためであり、わたしの地位が低いのであれば、それはあなたがそのように定められたからです。すべてはあなたの御手の中にあります。わたしには選択肢も不満も一切ありません。わたしがこの国で、この民のもとに生まれること、そしてわたしが行なうべきことは、ただあなたの支配に完全に服従することであると、あなたは定められました。なぜなら万事はあなたの定めの中にあるからです。わたしは地位を考えません。つまるところ、わたしは一つの被造物でしかないからです。あなたがわたしを底なし穴や、火と硫黄の池に落とされたとしても、わたしは被造物に過ぎません。あなたがわたしを用いられるとしても、わたしは被造物です。あなたがわたしを完全になさっても、わたしはやはり被造物です。あなたがわたしを完全にされなかったとしても、それでもわたしはあなたを愛します。なぜなら、わたしは被造物でしかないからです。わたしは創造主によって造られた極めて小さな被造物、造られたすべての人間の一人でしかありません。わたしを造られたのはあなたであり、そして今、あなたはわたしを再度ご自身の御手に取られ、あなたの御心のままになさってきました。わたしはあなたの道具となり、引き立て役となることをいといません。なぜなら、万事はあなたが定められたことだからです。それは誰にも変えられません。すべてのものと出来事は、あなたの御手の中にあります」。その時になると、あなたはもはや地位を考えず、そこから自由になるだろう。そのとき初めて、あなたは確信をもって堂々と求めることができ、そうして初めてあなたの心はあらゆる束縛から自由になれる。ひとたびそれらの物事から解放されると、その人は懸念を抱かなくなる。目下のところ、あなたがたの大部分が懸念していることは何か。あなたがたはいつも地位に束縛され、自分の将来の見込みを絶えず心配している。あなたがたはいつも神の発する言葉の書籍を手にしてページをめくり、人間の終着点に関する発言を読みたがり、自分の将来の見込みがどのようなもので、自分の終着点がどのようになるかを知ろうと望んでいる。あなたはこう不思議に思う。「自分には本当に将来の見込みがあるのか。神がそれらを取り去られたのか。神はただ、わたしは引き立て役だとおっしゃるだけだ。それならば、わたしの将来の見込みはどのようなものだろうか」あなたがたにとって、自分の将来の見込みや終着点を脇にのけるのは難しい。あなたがたは今や信者であり、働きのこの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇にのけていない。自分の地位が高ければしっかり追求するが、地位が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことが常に心の中にあるのだ。大半の人が自分から消極性を取り除けないのはなぜか。その答えは常に、将来の見込みが厳しいせいではないか。神の言葉が発せられるやいなや、あなたがたは急いで自分の地位と身分がいったいどのようなものであるかを知ろうとする。あなたがたは地位と身分を最優先し、ビジョンを第二とする。第三は自分が入るべきことであり、神の現在の旨が第四である。あなたがたは、神から与えられた「引き立て役」の肩書きが変わったかどうかをまず調べる。あなたがたはひたすら読み、「引き立て役」の肩書きが取り除かれたのを見ると、満足して神にひたすら感謝し、神の大いなる力を讃える。しかし、自分が依然として「引き立て役」だと知ると取り乱し、心の中のやる気が即座に消滅する。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世へ戻ってそこでの成功を目指せばよいだろう。このようにして時間を無駄にするのはまったく価値のないことである。なぜ自分を苦しめるのか。美しい世界であらゆる物事を享受できないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供など、このような俗世の産物はどれもあなたが享受できる最高のものではないのか。幸せになれる場所を探して、ここをさまようことが何の役に立つというのか。人の子に枕する所がないのであれば、どうしてあなたが安住の地を得られようか。どうして人の子があなたのために美しい安住の地を造れようか。それは可能なのか。わたしの裁きを除けば、あなたは今真理に関する説教を受けることしかできない。あなたはわたしから安楽を得ることも、日夜思い焦がれている安楽の寝床を得ることもできない。わたしはあなたにこの世の富を与えない。あなたが真に追求するならば、わたしは喜んであなたにいのちの道を残らず与え、あなたを水を得た魚のようにする。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれをすべて取り上げる。安楽に貪欲で、豚や犬のような者たちにわたしの口から言葉を与えるつもりはない。

『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 328

自分自身を見つめ、すべての行いにおいて義を実践しているかどうか、そしてすべての行動が神の監視を受けているかどうかを確かめなさい。これは神を信じる者が物事を行う際の原則である。神を満足させられること、神の世話と保護を受け入れることによって、あなたがたは義であるとされる。神の目から見れば、神の世話と保護、そして神に完全にされることを受け入れ、神のものとされるすべての人が義であり、神はそれらの人を皆かけがえのないものとみなす。神の現在の言葉を受け入れれば受け入れるほど、神の心意を受け取り理解することができるようになり、それによりさらに神の言葉を生き、神の求めを満たすことができるようになる。これがあなたがたに神が委ねる任務であり、あなたがたの誰もがこれを成し遂げることができなければならない。まるで神が変化しない粘土の像ででもあるかのように、自分の観念によって神を推し測り限定したり、神を聖書に由来する特性にすっかり限定し、限られた働きの範囲に閉じ込めたりするなら、それは神を断罪したことを証明している。旧約聖書時代のユダヤ人は、神はメシアという名称以外では呼ばれることなどありえず、そしてメシアと呼ばれるものだけが神であるかのように、神を自分たちの心に描いた形の固定した偶像とみなしたために、そしてまた人は神を(命のない)粘土の像であるかのように仕え崇拝したために、彼らは当時のイエスを十字架に張り付け、死刑を宣告した。こうして罪のないイエスは死刑に処されたのである。神はなんの罪もなかったのに、人は神を許そうとせず、神を死刑にすることを強く要求したため、イエスは磔刑に処された。人は神は不変であるといつも信じており、聖書という一冊の書物に基づいて神を定義する。まるで人が神の経営を完全に理解しており、人が神のなす事すべてをその手中に収めているかのようである。人々は極度に愚かであり、極度に傲慢で、誰にも誇張の才能がある。神についてのあなたの認識がいかに優れていようとも、わたしは言う。あなたは神を知らず、神に最も敵対する者であり、神を断罪した。神の働きに従い、神に完全にされるための道を歩くことがあなたにはまったくできないからである。神はなぜ人の行いに決して満足しないのか。それは人が神を知らず、観念を持ちすぎており、人の神についての認識が現実とまったく一致しておらず、それどころか、同じ主題を代わり映えもなく単調に繰り返し、どのような状況でも取り組み方が同じだからである。そのために、今日地上にやってきた神は、再び人間によって十字架に張り付けられる。人類のなんと残酷なことか。共謀と陰謀、お互いからのひったくり合い、名声や富の奪い合い、殺し合い……一体いつ終わるのか。神が語った無数の言葉にもかかわらず、誰一人として目覚めてはいない。人々は自分の家族、息子や娘、職業、将来の見通し、地位、虚栄心、金のために、また食べるもの、着るもの、肉体のために行動する。しかし一体、真に神のために行動している者はいるのか。神のために行動している者でさえ、神を知っている者は非常に少ない。自身の利害のために行動しない人はどれほどいるのか。自身の地位を守るために他人を抑圧したり排斥したりしない人はどれほどいるのか。だから神は幾度となく無理やり死刑に処され、無数の野蛮な裁判官が神を断罪し、再び十字架に張り付けたのである。真に神のために行動ゆえに義人と呼ばれうる者はどれほどいるのか。

神の前で聖者や義なる者として完全にされるのはそれほど容易なことであろうか。「地上に義なる者はなく、義なる者はこの世にない」という言葉は真実である。あなたがたが神の前に出るとき、自分の着ているもの、自分の言葉と行動のひとつひとつ、考えと思いのひとつひとつ、さらには毎日見る夢について考えなさい。これらはすべて、あなた自身のためのものである。それが真実の状態ではないか。「義」とは、他者に施しを行うことではなく、隣人を自分自身のように愛することでもなく、口論や喧嘩、強奪や盗みをしないということでもない。義とは、神に託された任務を自分の本分とし、神による采配と取り決めとを自分の天与の使命として、時と場所を選ばず、ちょうど主イエスがすべてを行ったように、それらに従うことである。これが神の言う義である。ロトが義と呼ばれることができたのは、神から送られた二人の天使を損得を顧みずに救ったからである。ただし、彼がこの時に行ったことが義と呼ばれうるだけであり、彼を義なる者と呼ぶことはできない。それはあくまで、ロトが神を見ており、二人の娘を天使と引き換えに差し出したからであり、彼の過去の行いすべてが義を表していたわけではない。そのためわたしは、「地上に義なる者はいない」と言う。現在回復の流れにある者の中にも、義と呼ばれうる者はいない。あなたの行為がいかに良いものであっても、いかに神の名を讃えているように見えても、人を殴ることも呪うこともなく、人から盗むことも奪うこともなくても、それで義なる者と呼ばれることはできない。それは普通の人でも行えることだからである。今ここで重要なのは、あなたが神を知らないということである。今言えるのは、あなたは現在幾ばくかの正常な人間性を有しているということだけであり、神が言う義の要素は一切有していない。それゆえ、あなたがすることは何一つ、あなたが神を知っているということを証明できないのである。

『神の出現と働き』「悪人は必ず罰を受ける」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 329

以前、神が天国にいたとき、人は神を欺くようなふるまいをした。現在、神は人のもとにおり、すでに何年が経過しているか誰も知らないが、物事を行うのに人はいまだに形ばかりの行いをして神をごまかそうとしている。人間の考えはあまりにも退歩していないか。これはユダも同じであった。イエスが現れる前、ユダは嘘をついて兄弟姉妹を騙しており、イエスが現れた後も変わることはなかった。ユダはイエスを少しも知ることなく、最後にはイエスを裏切った。これはユダが神を知らなかったからではないのか。もしも今日、いまだに神を知らないなら、あなたがたもユダになる可能性があり、その結果として、二千年前の恵みの時代に起こったイエスの磔の悲劇は再び繰り返されるであろう。信じないのか。これは事実である。現在、大半の人は同じ状況にあり、こう言うのは少し早すぎるかもしれないが、そのような人はみなユダの役割を演じている。わたしは戯言を言っているのではなく、事実に基づいて語っているのであり、人は納得せざるを得ない。多くの人が謙遜なふりをするが、心の中には腐った水たまり、悪臭を放つどぶがあるだけである。現在、教会にはこのような人が多すぎるが、あなたがたはわたしがそれにまったく気づいていないと思っている。今日、わたしの霊がわたしのために決断し、証言する。わたしが何も知らないと思っているのか。あなたがたの心の中の不正な思い、心に秘めている物事をわたしが何も理解していないと思っているのか。神を出し抜くことはそんなに容易か。神を自分の思い通りのやり方で扱ってよいと思っているのか。昔、あなたがたが束縛されるのではないかと心配し、わたしはあなたがたに自由を与え続けたが、人間はわたしが好くしてやっていることがわからず、寸を与えれば尺を取っていった。お互いに尋ねてみなさい。わたしはほとんど一度も誰かを取り扱ったことはなく、誰かを軽く叱責したこともない。しかし人間の動機や観念についてはこの上なく明確に知り抜いている。神が、神自身が立証するその神が愚かだとでも思っているのか。そうであれば、人はあまりに盲目であるとわたしは言う。わたしはあなたを暴くことはしないが、あなたがどこまで堕落し得るか見てみようではないか。あなたの抜け目ない小さな計略があなたを救ってくれるのか、それとも神を愛そうとする最大限の努力があなたを救えるのかを見てみようではないか。今日、わたしはあなたを非難しない。神の時が到来するのを待ち、神があなたにどのような報いを与えるか見ようではないか。今あなたと無駄なお喋りをしている時間はなく、わたしのもっと大事な仕事をあなただけのために遅らせる気もない。あなたのようなうじ虫には、神が取り扱うのに必要な時間をかけるだけの値打ちはない。だからただ、あなたがどれだけ自堕落になれるかを見てみようではないか。このような人は神を認識することを少しも求めず、神への愛も少しも持ち合わせていないのに、神に義と呼ばれることを望む。これは笑い話ではないのか。少数の人が実際に正直なので、わたしは人間にいのちを与え続けることにだけ集中していく。今日、わたしは今するべきことをするだけだが、将来は、それぞれがしてきたことに応じて各人に報いをもたらす。これで言うべきことはすべて言った。これがまさにわたしの行う働きだからである。わたしは行うべきことだけを行い、行うべきでないことは行わない。しかし、あなたがたがさらに時間をかけて熟考することを望む。あなたの神の認識のうち、実際にどれほどが正しいのか。あなたは神を再び十字架に張り付けた者なのか。わたしの最後の言葉はこれである。「神を十字架に付ける者に災いあれ」。

『神の出現と働き』「悪人は必ず罰を受ける」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 330

今日の道を歩む中で、どのような追求が最適だろうか。追求するという行為において、あなたは自身をどのような人間とみなすべきか。それが試練であれ、苦難であれ、あるいは無慈悲な刑罰と呪いであれ、あなたは自分に現在降りかかるすべてのことに対し、どう対処すべきかを知るようにならなければならない。そうしたことに直面したとき、どんな場合もそれらを熟慮すべきである。なぜわたしはこのようなことを言うのか。それは、現在あなたに降りかかっていることが、詰まるところ、幾度となく生じる短期間の試練だからである。おそらくあなたに関する限り、それらはさほど精神的に負担の大きいものではなく、それゆえあなたは物事を自然の成り行きに任せており、こうした試練を自身の進歩を追求するための貴重な財産とみなしていない。あなたは何と軽率なのか。あなたはこの貴重な財産を、あたかも目の前に漂う雲であるかのように捉えるほどであり、幾度となく降り注ぐこれらの苛酷な打撃、あなたにとっては軽く思える束の間の打撃を大事にせず、むしろ冷然と傍観するだけで、深く心に刻んでおらず、単なる偶然の打撃としてしか扱わない。あなたはあまりにも傲慢である。幾度となく襲いかかる、嵐にも似たこれらの荒々しい攻撃に対し、あなたはそれを平然と無視するだけで、時には冷笑を浮かべてまったく無関心な表情を見せることさえある。と言うのも、自分がなぜこのような「不運」に何度も苦しむのかについて、胸の内で一度も考えたことがないからである。わたしが人間に対してひどく不公平だということなのか。わたしはあなたのあら探しを自分の仕事にしているのか。あなたの心構えに関する問題は、わたしが言い表したほど深刻ではないかもしれないが、あなたは表面的な平静さを通じて、随分前から自分の内なる世界の完全な像を描いてきた。言うまでもなく、あなたの心の奥底に隠されているのは無分別な悪口雑言と、他人がかろうじて気づくほどのかすかな悲哀の痕跡だけである。なぜなら、あなたはそのような試練を受けてきたのがあまりにも不当なことだと感じており、悪態をつくからである。またそうした試練によってこの世の惨めさを感じ、憂鬱な気持ちでいっぱいになっているからである。これらの繰り返される打撃や懲らしめの行為を最善の加護とみなすのではなく、天からもたらされる無意味な厄介事、あるいは自分にふさわしい天罰とみなしている。あなたはあまりにも無知である。あなたは素晴らしい時間を無情にも暗闇に閉じ込め、素晴らしい試練と懲らしめの行為を敵からの攻撃とみなすことが度々ある。自分の環境にどう適応すべきか知らず、ましてや進んで知ろうともしない。と言うのも、あなたは繰り返されるこの刑罰、あなたにとって残酷なこの刑罰から何も得ようとしないからである。探そうとも探ろうともせず、ただ自分の運命を甘受しつつ流れに身を任せている。あなたにとって野蛮な懲らしめと思える行為によって、あなたの心が変わることもなければ、心を奪われたこともない。それどころか、あなたの心は傷ついた。あなたはこの「残酷な刑罰」をこの人生における敵とみなすだけなので、何も得ていない。あなたはあまりにも独り善がりである。自分の卑劣さのためにこのような試練を経験しているとはほとんど考えない。むしろ、自分は不運だと考えており、さらには、わたしがいつも自分のあら探しをしていると言う。物事がこの段階に至った今、あなたはわたしの言動について実際にどれほど知っているのか。自分は生まれながらの天才で、天より少し低いものの、地よりは無限に高いなどと考えないことだ。あなたは他の人ほど賢くないどころか、賢くないどころか、 理知ある地上の誰にも増して、愛らしいほど愚かだとさえ言えるだろう。なぜなら、あなたは自分を過大評価しており、わたしの行動の些細な点まで見抜けるとでもいうように、いまだかつて劣等感をもったことなどないからだ。しかし実際には、あなたは根本的に理知を欠いた人である。なぜなら、わたしが何を行なうつもりなのかをまったく知らず、ましてやわたしが現在していることに気づいていないからだ。だからこそわたしは言う。あなたは懸命に働く年老いた農夫にも匹敵しない。人生というものを一切自覚していないにもかかわらず、天の祝福に頼り切って土地を耕している、そのような農夫にも匹敵しないのだ。自分自身の人生について再考することがなく、誉れとは何であるか一切知らず、ましてや自己認識など持ち合わせていない。あなたはあまりに「立派」である。

『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 331

わたしがあなたがたに何度も与えた教えについて言えば、あなたがたは随分前にそれらを心の奥底に押しやり、暇つぶしの玩具として扱ってさえいる。そのすべてを、自分だけの「お守り」とみなしているのだ。サタンに非難されると祈り、否定的になると深い眠りに落ち、幸せな時は無闇に走り回る。わたしに叱責されると馬鹿丁寧にお辞儀を繰り返し、わたしのもとを離れるや否や意地悪く高笑いする。自分は他の誰より優れているとあなたは思っているが、自分が最も傲慢だと思ったことなど一度もなく、言葉では言い表せないほど高慢で、独り善がりで、傲慢なだけである。何も学ばず無知なままでいる、そうした「若い紳士」や「若い淑女」、「旦那さま」や「奥さま」が、どうしてわたしの言葉を大切な宝物とみなせようか。再びあなたに問う。これほど長期間にわたり、あなたはわたしの言葉とわたしの働きから一体何を学んできたのか。ますます立派な騙しの技能を身につけたということなのか。それとも、あなたの肉はもっと洗練されたのか。わたしに対するあなたの態度からさらに敬意が失われたのか。あなたに率直に言う。かつてはネズミの勇気しかなかったあなたがますます大胆になったのは、わたしが行なってきたこのすべての働きのためである。わたしに対して感じるあなたの畏怖は日に日に薄れていく。なぜなら、わたしがあまりに慈悲深く、暴力に頼ってあなたの肉を制裁したことなど一度もないからである。あなたの見るところ、わたしはおそらく厳しい言葉を語っているだけで、むしろあなたに笑顔を向けることのほうが多く、面と向かってあなたを咎めることはほとんどない。さらに、わたしは常にあなたの弱さを許しており、まるで蛇が優しい農夫を扱うかのごとく、あなたがわたしを扱っているのはひとえにそのためである。人間の観察力という技能もしくは眼識の甚だしさに、わたしはどれだけ感服していることか。一つの真実を言わせてもらおう。今日、あなたが畏敬の念を抱いているかどうかは重要ではないのだ。それについて、わたしは不安でもなければ心配もしていない。しかし、あなたにこのことも伝えなければならない。何一つ学ばず無知なままでいるこの「才人」は、己の自己讃美とくだらない巧妙さのせいで、最後は打ちのめされる。苦しみ、罰せられるのはあなたである。わたしは、地獄で苦しみ続けるあなたに付き添うほど愚かではない。なぜなら、わたしはあなたと同類ではないからだ。あなたはわたしに呪われてきた被造物でありながら、わたしから教わり、わたしに救われる。そしてあなたの中に、わたしが手放したくないであろうものは何もない。わたしがいつ自分の働きを行なおうとも、わたしが人や出来事や物に縛られることは決してない。人類に対するわたしの態度や見方はいつも同じだった。わたしはあなたのことを特によく思っているわけではない。なぜなら、あなたはわたしの経営の添え物であり、他のもの以上に特別なわけでは決してないからだ。これはわたしからあなたへの忠告である。あなたは神の創造物でしかないということを、如何なる時も覚えておきなさい。わたしと共に存在してもよいが、身の程を知るべきであり、自分をあまり高く評価しないことである。たとえわたしがあなたを叱責せず、あるいは、わたしがあなたを取り扱わず、笑顔であなたに挨拶していようとも、あなたがわたしと同類だと証明されるわけではない。自分は真理を追い求める者であって、真理そのものではないということを、あなたは心得ておくべきである。あなたはわたしの言葉に応じて、いつ何時でも変わる準備をしていなければならない。あなたはこのことから逃れることができない。この素晴らしい時間、この貴重な機会に何かを学ぶよう、あなたに忠告する。わたしを騙そうとしてはいけない。わたしを欺こうとするあなたのお世辞は要らない。あなたは、わたしのためでは決してなく、常に自分自身のためにわたしを求めているのだ。

『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 332

現在、あなたがたが過ごしている日々は決定的である。それはあなたがたの終着点と運命にとってこの上なく重要である。そのため、今日もっているものすべてを大切にし、過ぎゆく一瞬一瞬を大切にしなければならない。この生涯を無駄に生きたことにならないように、可能な限りの時間を作り出し、最大の成果を獲得できるようにしなければならない。なぜわたしがこのようなことを言うのか、あなたがたは当惑しているかもしれない。率直に言うと、わたしはあなたがたのうちの誰の振る舞いにも全然喜んでいない。わたしがあなたがたについて抱いた望みは、現在のあなたがたの有り様ではなかったからである。そのため、こう言うことができる。あなたがた一人ひとりは危機に瀕しており、あなたがたの助けを求めたかつての叫び、真理を追求し光を求めた以前の強い願望は終わりに近づいている。これはあなたがたが最後に表す報いであり、わたしがまったく期待していなかったものである。わたしは事実とは異なることを話したくない。というのは、あなたがたがわたしを大いに落胆させたからである。おそらく、あなたがたはこれをそのまま黙って受け入れたくないし、現実と向かい合いたくもないのであろう。しかしわたしは真剣にあなたがたに尋ねなければならない。この数年間、あなたがたの心は一体何で満たされていたのか。あなたがたの心は誰に忠実なのか。これらを唐突な質問と言ってはならない。なぜこのようなことを尋ねるのか、とわたしに聞いてはならない。心得なさい。あなたがたをよく知り過ぎ、あなたがたのことを思い過ぎ、あなたがたの振る舞いと行動に心を砕き過ぎたために、わたしはあなたがたに申し開きをするように止むことなく求め、苦い困難に耐えたのである。しかし、あなたがたはわたしに無関心と耐えがたいあきらめでしか報いない。あなたがたはわたしに対してこんなに怠惰である。わたしがこれを一切知らないことなどありえるだろうか。そう信じているなら、それはあなたがたがわたしに心からやさしく接しないという事実のさらなる証拠である。だからわたしは、あなたがたは自己欺瞞に陥っている、と言うのである。あなたがたは皆とても賢いので自分がしていることさえ知らない。それでは、あなたがたは何を用いてわたしに申し開きをするつもりなのか。

わたしが最も関心を寄せている問題は、あなたがたの心は一体誰に忠実なのかということである。あなたがた一人ひとりが自分の考えを整理して、自分は誰に忠実なのか、誰のために生きているのか、と自問することもわたしは望んでいる。おそらく、あなたがたはこの問題を熟考したことはないであろうから、わたしが答えをあなたがたに明らかにしてはどうだろうか。

記憶がある人なら誰でも、人間は自分のために生き、自分自身に忠実であるという事実を認める。あなたがたの答えが完全に正しいとはわたしは思わない。あなたがたは一人ひとりがそれぞれの生活において存在し、それぞれの苦しみと格闘しているからである。それで、あなたがたは自分が愛する人々や自分の気に入るものに忠実なのである。あなたがたは自分自身に全面的に忠実ではない。一人ひとりが周囲の人や出来事や物に影響されるので、あなたがたは自分自身に真に忠実ではないのである。わたしがこのように言うのは自分に忠実であることを是認するためではなく、あなたがたの何か一つのことへの忠実をさらけだすためである。長年にわたり、わたしはあなたがたのうちの誰からも忠実を受けたことがない。あなたがたは何年もの間わたしに従ってきたものの、忠実の片鱗さえわたしに示したことはない。そのかわりに、自分が愛する人々や自分の気に入るものの周りを回ってきただけである。そうするあまりに、いつでも、どこへ行こうとも、あなたがたはこれらを心に留め、見捨てたことはない。あなたがたが自分の愛する何か一つのことに夢中になったり情熱的になったりするのは、必ずわたしに従っているときや、さらにはわたしの言葉に耳を傾けているときである。それゆえ、わたしがあなたがたに求める忠実を、あなたがたは「愛玩物」に忠実であり、それを可愛がるために代わりに使っている、とわたしは言うのである。あなたがたはわたしのために犠牲の一つや二つ払うかもしれないが、それはあなたがたのすべてを表しておらず、あなたがたが本当に忠実なのはわたしであると示してもいない。あなたがたは自分が情熱を感じる活動に関わる。息子や娘に忠実な人もいれば、夫や妻、富や仕事、上司、地位、女性に忠実な人もいる。自分が忠実なことについては、うんざり感じたり悩まされたりすることは決してない。それどころか、そういうものをさらに大量に、さらに高品質のものを所有することにますます熱心になり、決してあきらめない。わたしとわたしの言葉は、あなたがたの情熱の対象の後ろに押しやられる。それらは最下位に置かれるより他にない。この最下位をこれから発見し、忠実になるもののために空けておく人さえいる。そのような人の心の中にわたしの形跡がわずかでもあったことはない。わたしがあなたがたに求め過ぎるとか、あなたがたを不当に非難しているとか、あなたがたは思うかもしれない。しかし、あなたがたが家族と幸せなひと時を過ごしているあいだに、わたしに忠実であったことは一度としてなかったという事実を少しでも考えたことがあるだろうか。そのような時にあなたがたは痛みを感じないのか。心が喜びで満たされるとき、労働の報いを受けるとき、あなたがたは自分には十分な真理が備わっていないことに失望しないのか。わたしの承認を受けられなかったためにあなたがたはいつ泣いたのか。あなたがたは自分の息子や娘のために知恵を絞り苦心するが、それでも満足しない。彼らのためにはまだ十分に勤勉ではない、彼らのためにできる限りのことをしていないと信じる。しかし、わたしに対しては、あなたがたはいつも怠惰で不注意であった。わたしはあなたがたの記憶の中にいるだけで、心の中に長く留まることはない。わたしの献身と努力をあなたがたが感じることは永遠になく、その価値を深く感じたことはない。少しのあいだ考えるだけで、それで十分だと信じる。このような「忠実」はわたしが長いあいだ切望してきたものではなく、長いあいだ嫌悪してきたものである。それにもかかわらず、わたしが何を言おうと、あなたがたは相変わらず一つ二つのことを認めるだけで、全面的に受け入れることはできない。あなたがたは皆とても「自信」があり、わたしが語った言葉から何を受け入れるかを常に選り好みするからである。もしあなたがたが現在もこのままであるならば、わたしにはあなたがたの自信を取り扱う方法が幾つかある。さらに、わたしの言葉はすべて真実であり、どれも事実を歪曲していないことをあなたがたに認めさせる。

『神の出現と働き』「あなたは誰に忠実なのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 333

もし今わたしがあなたがたの前に現金を置いて選択の自由を与えたならば、そしてその選択を理由にあなたがたを非難しないならば、あなたがたのほとんどが現金を選び、真理を放棄するであろう。あなたがたのうち優秀な人は現金をあきらめ、しぶしぶ真理を選ぶ。一方、中間の人は片手に現金をつかみ、もう片手に真理をつかむ。あなたがたの真の姿がこのように明らかになるのではないだろうか。真理と自分の忠実の対象のどちらかを選ぶとき、あなたがたは皆このような選択をするが、あなたがたの態度に変化はない。そうではないだろうか。あなたがたのうちには正誤のあいだを揺れ動いた人が多くいるのではないのか。是と非、黒と白の対立において、家族か神か、子どもか神か、平和か分裂か、富か貧困か、地位か平凡か、支持されるか捨てられるかなどについて、あなたがたは自分がした選択を知っているはずである。平和な家族と崩壊した家族では、あなたがたは前者を選び、躊躇することなくそのように選択した。富と本分でも、岸辺に戻る[a]覚悟さえないまま再び前者を選んだ。贅沢と貧困でも前者を選んだ。息子、娘、妻、夫とわたしでも前者を選び、観念と真理でも再び前者を選んだ。あなたがたのありとあらゆる邪悪な行いに直面して、わたしはあなたがたへの信頼を完全に失った。あなたがたの心が柔和にされることにここまで抵抗するとは、わたしはただただ驚く。長年の献身と努力は明らかにあなたがたの放棄と絶望しかわたしにもたらさなかった。しかし、あなたがたへのわたしの希望は日ごとに大きくなる。わたしの日はすべての人の面前に完全にさらけ出されているからである。それなのに、あなたがたは暗く邪悪なものを求めることに固執し、それを手離すことを拒否する。それでは、あなたがたの行く末はどうなるのか。あなたがたはこのことを注意深く考えたことがあるのか。もし再び選択するように言われたならば、あなたがたはどういう立場を取るのか。やはり前者を選ぶのか。やはりあなたがたは失望と痛ましい悲しみをわたしにもたらすのであろうか。やはりあなたがたの心には温かさはわずかしかないのであろうか。やはりあなたがたはわたしの心を慰めるために何をするべきか気づかないのであろうか。この時点であなたがたは何を選ぶのか。わたしの言葉に従うのか、あるいはうんざりするのか。わたしの日はあなたがたのまさに目の前にさらけ出されており、あなたがたが直面しているのは新しい生活と新しい出発点である。しかし、この出発点は過ぎ去った新しい働きの始まりではなく、古いものの終結であることをあなたがたに告げなければならない。すなわち、これは最後の一幕なのである。この出発点について、何が尋常でないかをあなたがたは皆理解できるとわたしは考える。しかし、そう遠くないある日には、あなたがたはこの出発点の真の意味を理解する。だから一緒にそこを通って進み、最終幕を迎え入れよう。しかし、あなたがたに関してわたしが懸念を抱き続けるのは、不正義と正義に直面するとあなたがたは必ず前者を選ぶことである。しかし、それはすべて過去のことである。わたしも、あなたがたの過去についてはすべて忘れることを望んでいるが、それはとても困難である。それでも、そうするのにとてもよい方法がある。未来と過去を入れ替え、あなたがたの過去の影を一掃させ、現在の真のあなたがた自身と取り替えるのである。そのためには、わたしはあなたがたを煩わせて再度選択を迫らなければならない。あなたがたはいったい誰に忠実なのか。

『神の出現と働き』「あなたは誰に忠実なのか」(『言葉』第1巻)

脚注

a.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。


日々の神の御言葉 抜粋 334

終着点の話になると、いつもあなたがたは話をとりわけ真剣に受け止める。さらに、それはあなたがた全員が特に敏感になるである。好ましい終着点を得るために、地面に頭を打ち付けて神にひれ伏さずにはいられない人たちもいる。あなたがたが切望する気持ちはわたしにも理解でき、それを言葉で表すことは不要である。あなたがたは自分の肉が災いに陥ることは望まないということでしかないが、それでも永遠に続く罰を将来受けたくはないということである。あなたがたはもう少し自由に、もう少し気楽に生きたいだけである。それゆえ、終着点の話になると、あなたがたはことさら動揺し、十分注意しないと神の怒りを買い、ゆえに然るべき報いを受けるかもしれないと深く恐れる。あなたがたは自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうちかつて不従順で軽薄であった多くの人が突然極めて優しく素直になり、その素直さは他の人たちに寒気を起こさせる程である。しかし、あなたがたには皆「素直な」心があり、不満であれ虚偽であれ、忠実心であれ、何ら隠しだてすることなく心のうちにある秘密をわたしに絶えず打ち明けてきた。要するに、あなたがたは自分の存在の奥にある本質的な事柄を極めて腹蔵なくわたしに「告白」してきた。もちろん、わたしはそうした事を回避したことはない。なぜなら、それはわたしにはとても普通の事となったからである。あなたがたは毛髪を一束失うほどの心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。わたしがあなたがたに対して教条主義的すぎるということではなく、あなたがたの忠実心はわたしの行うあらゆることに正面から対峙するにはあまりに乏しいということである。わたしがたった今言ったことを理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが必要としているのは真理といのちではなく、行動原理でもなく、いわんやわたしが骨折って行う働きでもない。あなたがたが必要としているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて肉において持っている物事である。あなたがたはわたしの言葉や働きを完全に軽視しているので、あなたがたの信仰をひとことで概括できる。それは「おざなり」である。あなたがたは自分が絶対的に専心しているものを達成するためなら何もいとうことはない。しかし、神への信仰に関する事のために同様にはしないであろうことをわたしは知った。むしろ、あなたがたは比較的に忠実で比較的に真剣なだけである。最大限に誠実な心のない者は神への信仰における失敗であるとわたしが言うのはこのためである。よく考えなさい。あなたがたのうちに失敗は多くあるのか。

神への信仰における成功は人の独自の行動の結果として達成されるということを知らなければならない。人が成功せずに失敗するのもまた、本人の行動が原因であり、他の要素には一切の影響はない。神を信じるよりも困難で苦労を伴う事柄を成し遂げるためなら、あなたがたは何でもするであろうし、それを極めて真剣に扱うであろうと思う。それゆえに過ちを許容することさえも嫌うであろう。これがあなたがた全員が自分の人生に注ぎ込んできた絶え間ない努力である。あなたがたは自分の家族であれば欺いたりしないであろう状況において、肉にあるわたしを欺くことすらできる。これがあなたがたの一貫した振る舞いであり、あなたがたが生きる原則である。あなたがたはわたしを騙し、完璧に美しく望み通りの終着点を得るために、依然として偽りの姿を表出しているのではないのか。あなたがたの忠実心は、あなたがたの誠実さと同様に、一時的なものでしかないことにわたしは気付いている。あなたがたの志とあなたがたが支払う代償は現在のためだけであり、将来のためではないのではないのか。あなたがたは美しい終着点を確保するために、最後に一つの努力をしたいだけである。あなたがたの唯一の目的は取り引きをすることである。真理に対する負債を抱えないようにするためにこの努力をするのではなく、わたしが支払った代償を償還するためなどであるはずがない。つまり、自分の欲しいものを得るために利口な戦略を用いる用意があるだけで、そのために戦う覚悟はない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、自分の終着点についてのために食事や睡眠ができなくなるほど頭脳を苦しめてはならない。最後にはあなたがたの結末は既に決まっているというのが本当ではないのか。あなたがたは開かれた正直な心でもってできる限り自分の本分を尽くし、必要な代償であれば何でも払う覚悟をしなければならない。あなたがたが述べた通り、その日が来た時、神のために苦難を受けて代償を払った者を神がいい加減に扱うようなことは決してない。このような信念は保つ価値のあるものであり、決して忘れないことは正しい。このような方法でなければ、あなたがたに関してわたしの気が安まることはない。さもなければ、あなたがたは永遠にわたしの気が安まることのない人たちとなり、あなたがたは永遠にわたしの嫌悪の対象となる。あなたがた全員が自らの良心に従い、わたしのために自己のすべてを与え、わたしの働きのために努力をいとわず、わたしの福音の働きに一生涯分の精力を捧げるならば、わたしの心はあなたがたのためにいつも歓喜して飛び跳ねるのではないのか。そのように、あなたがたに関してわたしは心をすっかり安らげることができるのではないのか。あなたがたにできるのは、わたしが期待する事のうちごくごく僅かでしかないことは残念である。それならば、あなたがたはどうして厚かましくも自分が望むことをわたしに求めることができるのか。

『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 335

あなたがたの終着点と運命は、あなたがたにとって極めて重要であり、由々しき懸念である。十分注意して物事を行わなければ、終着点がなくなり、自分で自分の運命を破滅させたことになるとあなたがたは考えている。しかし、自分の終着点のためだけに努力する人は空しい努力をしていることに気が付いたことがあるのか。そのような努力は本物ではなく、虚偽である。その場合、自分の終着点のためだけに努力する人は、今にも最終的な失敗をする極みにいる。なぜならば、神への信仰における失敗は偽りに起因するからである。わたしは媚びへつらわれたり、熱狂的に扱われるのを好まないと前に述べた。わたしの真理や期待と向き合う正直な人をわたしは好む。それ以上に、わたしの心に最大の思いやりと配慮を示し、わたしのために人が何もかも捨て去ることができることを好む。わたしの心が慰められるのは、この方法のみによる。今、あなたがたに関してわたしが嫌いなことはいくつあるのか。今、あなたがたに関してわたしが好むことはいくつあるのか。あなたがたが自分の終着点のために表明したあらゆる醜悪さに、あなたがたの誰も気付いていないということがありえるのか。

わたしの心の中では、肯定的かつ上向きの大志をもつ心に苦痛を与えることを望まず、またとりわけ忠実に自分の本分を尽くしている者の勢力を減衰させることを望まない。しかし、それでもなお、あなたがたの不足や心の一番奥にある汚れた魂をあなたがた一人ひとりに思い起こさせなければならない。そうするのは、あなたがたがわたしの言葉に対峙するときに真の心を捧げられることを望むゆえである。なぜなら、人間のわたしに対する欺きをわたしは最も嫌悪するからである。働きの最終段階において、わたしが望む唯一のことは、あなたがたが最高の成果を披露でき、自己を完全に献身し、もはや半信半疑ではなくなることである。もちろん、あなたがた全員が好ましい終着点を得ることもわたしは望んでいる。それでもなお、わたしには要求がある。それは、あなたがたがわたしにあなたがたの唯一で最終的な献身をすることで最善の決断を下すことである。もし誰かにその唯一の献身がないならば、その人がサタンの大切な所有物であることは確実であり、わたしがその人を用いるために確保することはもはやなく、その人を家に帰し、その両親に世話をさせる。わたしの働きはあなたがたにとって大いなる助けである。わたしがあなたがたから得ることを望むのは、正直で上昇志向の心であるが、いまのところわたしの手は空のままである。考えてみなさい。もし将来、わたしが依然として言い尽くせないほどの悲痛な思いをしているとしたら、あなたがたに対するわたしの態度はどのようなものとなるであろうか。今と同じくらいあなたがたに愛想よくするであろうか。わたしの心は現在と同様に安らかであろうか。骨折って畑を耕したが一粒も収穫を得なかった者の気持ちがあなたがたにわかるだろうか。強い衝撃を受けた者の心がどれほどひどく傷ついているかわかるだろうか。かつてはあれほど希望に満ちていたのに誰かと仲たがいして訣別せねばならない者の苦渋を感じることができるだろうか。挑発された者から放たれる怒りを目にしたことがあるだろうか。敵意と欺きをもって扱われた者の復讐を切望する気持ちを理解することができるのか。そうした者の心性がわかるならば、神の報復の時の態度を想像するのは困難ではないはずである。最後に、あなたがた全員が自分の終着点のため真剣に努力することを望むが、努力には虚偽的な方法を用いるべきではない。さもなければ、あなたがたにわたしの心は落胆し続けることになる。そして、そのような落胆は何につながるか。あなたがたは自分をごまかしているのではないのか。自分の終着点のことを心配しつつそれを破滅させるのは、最も救いがたい人間である。たとえそのような者が憤慨し怒ったとしても、誰が同情するであろうか。とにかく、わたしは依然としてあなたがたが適切かつ良好な終着点を得ることを願っており、それにもまして、あなたがたのうち誰一人として災いに陥らないことを願っている。

『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻)

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