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第7章 神への信仰において理解するべき真理の他の側面

6. 苦しみの意義と神の信者が負わなければならない苦しみの種類

関連する神の言葉

今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、神に愛されておらず、将来は暗いと考えている。一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難いと感じ、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬されるであろう。さらに、あなたは神を満足させることができず、神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあるといつも感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

落胆してはならない。弱ってはならない。わたしはあなたに明らかにする。神の国への道は平坦ではない。何事もそう簡単ではないのだ。あなたはたやすく祝福を得たいのであろうか。今日、だれもが苦しい試練に直面しなければならない。そうでなければ、あなた方のわたしに対する愛の心がさらに強いものとなることはなく、わたしに真実の愛を抱くこともないであろう。たとえそれが些細な状況であっても、誰もがそれを通らねばならない。ただそれぞれ度合いが違うというだけのことである。その状況はわたしからの祝福のひとつなのだ。わたしの祝福を求めてわたしの前に頻繁に跪く者がどれだけいるだろうか。愚かな子たちだ。あなた方はいつでも、少しの幸運な言葉がわたしからの祝福であると感じるが、苦しみがわたしからの祝福の一部だとは感じない。わたしからの苦しみにあずかる者は、必ずわたしの甘美さにもあずかるだろう。これがわたしの約束であり、あなた方に対するわたしからの祝福である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十一章」より

神が人間を精錬する業を行う時、人間は苦しむ。精錬が大きいほど人間の神への愛は深まり、人間の内に神の力がさらに現される。人間の精錬が少なければ少ないほど、人間の神への愛も少なくなり、人間の中に現される神の力も少なくなる。人間の精錬と苦痛、苦悶が多ければ多いほど、人間の神に対する真の愛が深まり、神への信仰も更に純粋なものとなり、神に関する人間の認識も深まる。多くの精錬と苦痛、多くの取り扱いと懲らしめを受ける者は、神への深い愛を持ち、神に関して、もっと深遠で鋭い認識を持つようになることを、あなたは経験の中で知るであろう。取り扱いを体験しなかった者には、表面的な認識しか無く、ただ「神は本当に良いお方だ。人々が神を楽しめるように、彼らに恵みを授けられる。」と言うことしか出来ない。取り扱いと訓練を体験した場合、人間は神に関する真の認識を話すことができるようになるのだ。したがって、神による人間の内なる業が驚異的であればあるほど、それは一層貴重であり、有意義なものである。あなたにとって、それが測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの見解と相容れないものであればあるほど、神の業は、さらにあなたを征服し、あなたを獲得し完全にすることができる。神の業の意義とは、かくも甚大である。もし神がこのように人間を精錬しなかったら、もし神がこのような方法によって働かなかったら、神の業は効果に乏しく、その意義を失ってしまうだろう。これが、神が終わりの日に一群の人々を選んだ特別な意義の背後にある理由である。神がこの会衆を選び獲得するであろうことは、以前に語られていた。神によってあなたがたの内に遂行される業が大きければ大きいほど、あなたがたの神に対する愛は一層深く純粋なものとなる。神の業が大きければ大きいほど、人は神の知恵を一層味わうことが出来るようになり、神に関する認識もより深くなる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

神の言葉の裁きを受けるとき、苦しみを恐れたり、痛みを心配したりしてはいけません。まして、神の言葉が自分の心を刺し通すのではないかと恐れてはいけません。神が私たちをどのように裁いて罰するか、私たちの堕落した本質をどのように暴くかについて、私たちは神の発する言葉をもっと読むべきであり、神の言葉を読みながら、もっと頻繁に自分とそれらを比べなければなりません。私たちにはこれらの堕落がどれもありますが、私たちは誰しもそれと向き合うことができます。…神の言葉の一言一句が耳に心地よいかどうか、自分に苦みや甘さを感じさせるかどうかはどうでもいいことを、私たちはまず知らなければなりません。私たちは神の言葉を残らず受け入れなければならないのです。神の言葉に対してはそのような態度をもつ必要があります。それはどのような種類の態度でしょうか。信心深さの態度でしょうか。それとも自制の態度でしょうか。それとも苦しみの態度でしょうか。言っておきますが、そのどれでもありません。私たちは信仰の中で、神の言葉が真理であることを固く保たなければなりません。それは実際に真理なのですから、理知的に受け入れなければなりません。それを認識したり認めたりすることができようとできまいと、神の言葉に対する私たちの態度はまず絶対的な受容の態度でなければなりません。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることの重要性とその道」より

神を愛するには、あらゆる事において神の心を求めることが必要で、しかもあなたに何かが起きた時には心の中で深く探り、神の心を把握し、この件に関する神の心は何か、神はあなたに何を達成して欲しいのか、どのように神の心を覚えるべきかを知ろうとしなければならない。例えば、あなたが困難に耐えなければならない何かが生じたら、その時、あなたは神の心が何であるか、どのように神の心を大切にするかを理解するべきである。自分自身を満足させてはならない。まず自分自身のことは脇へどけておきなさい。肉体ほど卑しむべきものはない。あなたは神に満足してもらおうとしなければならないし、あなたの本分を果たさなければならない。そのように考えていれば、神はこの件に関してあなたに特別な啓発を与え、あなたの心も安心するだろう。大きくても小さくても、あなたに何かが起きた時、あなたはまず自分自身は脇にどけて、肉体はすべての物事の中で最も卑しいものとみなさなければならない。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体はますます勝手な行動をとる。今回肉体を満足させると、次回はさらに欲望が大きくなり、このまま続くと、あなたは肉体をさらに愛するようになる。肉体はいつも途方もない欲望を持っており、いつもあなたに肉体を満足させることを要求する。それが食べ物や着る物に関することだろうと、自制心を失わせ、自身の弱さや怠惰に付け込むことであろうと、あなたが心の中でそれを満足させることを要求する。あなたが肉体を満足させればさせるほど、その欲望は大きくなり、肉体はますます堕落して、ついには人々の肉体は一層深い観念を心に抱き、神に背き、得意になり、神の働きに疑いを持つようになる。…したがって、あなたは肉体に反抗しなければならず、迎合してはならない。「自分の夫(妻)、子供たち、将来の見通し、結婚、家族――これらはどれも問題ではない。私の心の中には神しかいない。私は神に満足していただくために最善を尽くさなければならず、肉体を満足させてはならない。」あなたはこのように決意しなければならない。あなたがこのような決意をいつも持っていれば、真理を実践し、自分自身は脇にどけておこうとする時、あなたはほんの少しの努力でそれが実践できるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

あなたが神の前でいのちを得られるかどうか、あなたの最終的結末はどうなるか、それはあなたが肉体にどのように反抗するかにかかっている。神はあなたを救い、選び、運命づけたが、その一方で、あなたが神に満足してもらうことを嫌がり、真理を実践することを嫌がり、神を本当に愛する心を持ってあなた自身の肉体に反抗することを嫌がるならば、最後にはあなたは身を滅ぼし、従って極度の痛みに耐えることになるだろう。あなたがいつも肉体に迎合していると、サタンが次第にあなたを内側から食べ尽くし、あなたを完全にいのちのない、あるいは霊との接触のない状態のままにしてしまい、ついにはあなたの心の中が完全に暗黒になる日が来る。あなたが暗黒の中で生きていると、サタンのとりこになり、もはや心の中に神を持たなくなり、その時あなたは神の存在を否定し、神を離れる。従って、あなたが神を愛したいなら、痛みの代償を払い、困難に耐えなければならない。熱心さや困難を表立って示すことも、読書量を増やしたり、さらに走り回ったりする必要はなく、それどころか、あなたは自分の心の中にあるもの、つまり、途方もない考え、個人的利益、あなた自身の判断、観念、動機付けなどを脇にどけるべきである。これが神の心である。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや観念を取り扱うためである。聖霊は人々の心を感動させ、彼らを啓き、そして光を当てる。ゆえに、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人々の中の動機付けは、その多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人々の観念と食い違っているので、人々が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、最後に神を満足させる決心をする前に、舞台裏で人々は悲しみの涙を数えきれないほど流すだろう。人々が苦しみや純化に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、あなたが本当に神の側に立つことができれば、あなたは神に満足してもらうことができる。真理を実践する過程で苦しむことは避けられない。人々が真理を実践する時、彼らの心の中のすべてが正しかったら、彼らは神によって全き者にされる必要はなく、戦いもなく、彼らは苦しまないだろう。人々の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人々は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これは神が受難と呼ぶもので、神と共に経験することを神は人に要求した。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

人が神への信仰において求めるのは、将来のための祝福を得ることです。それが人の信仰における目的なのです。誰もがこの意図と望みを持っていますが、人間の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。あなたが清められていない側面はどれも、あなたが精錬されなければならない側面です。これが神の采配です。神はあなたのためにある環境を作り、そこで強制的に精錬されるようにすることで、自らの堕落を知ることができるようにさせます。最終的に、あなたはむしろ死んで自分の企みや欲望を捨て、神の主権と采配に服従したいと思うまでになります。それゆえ、数年間の精錬を受けておらず、ある程度の苦難を経ていない人は誰も、自身の考えや心における肉の堕落の束縛を捨て去ることが出来ないでしょう。あなたはどの側面においてもいまだサタンに束縛され、自分の欲望と要求を抱いていますが、それらの側面において試練を受けなければなりません。人は試練を通じることでのみ教訓を学び、真理を得て、神の意図を理解することができます。実際、多くの真理はつらい試練を経験することで理解されます。楽な環境にいるときや状況が好都合なとき、神の考えを理解したり、神の全能性と知恵を認識したり、神の義なる性質を正しく理解したりすることは誰にもできません。そのようなことはありえないでしょう。

『キリストの言葉の記録』の「試練のさなかに神を満足させるには」より

神は一人ひとりの中で働きを行ないますが、その方法が何であれ、どのような人や物事を使って力を尽くすのであれ、言葉の調子がどういったものであれ、神の最終目標は一つしかありません。それはあなたを救うことです。あなたを救うとは、あなたを変えることを意味しますが、どうして少しばかりの苦しみを受けないでいられるでしょうか。あなたは苦しまなければなりません。この苦しみには多くのことが含まれます。ときに神はあなたの周囲に人や物事を配し、あなたを露わにし、あなたが自分自身を知るようにすることがあります。さもなければ直接あなたを取り扱い、刈り込み、露わにします。手術台の上の人と同じに、よい結末を迎えるにはいくらかの苦しみを経験しなければならないのです。神があなたを刈り込んだり取り扱ったりするたびに、人や物事を配するたびに、あなたの感情がかき立てられ、士気が高められるなら、そのような経験は正しく、あなたは霊的背丈を得て真理の現実に入ってゆきます。あなたが刈り込まれて取り扱われ、神に環境を配されるたび、何の苦痛も不快も覚えず、まったく何も感じないなら、あるいは神の前に出てその心意を理解することも、祈ることも真理を求めることもしないなら、あなたは本当に麻痺しきっています。あまりに麻痺している人には霊的な感覚が決してありません。ゆえに、神には彼らに働きを行なう方法がありません。神はこう言うでしょう。「この人はあまりに麻痺していて、あまりに深く堕落させられてきた。私はこの人に多くのことを行ない、多くの努力を傾けてきた。それなのに、いまだ彼の心に呼びかけて霊を目覚めさせることができない。これは大いに問題であり、困難なことだ。」神があなたのために特定の環境や人や物事を采配し、あなたを刈り込んで取り扱ったとき、あなたがそこから教訓を学び、神の前に出て真理を求めるようになり、知らぬ間に啓かれ照らされ、真理を得たなら、あなたがこれらの環境において変化を経験し、報いを受け取り、進歩を遂げたなら、あるいは神の意図を少し理解し始め、不満を言うことをやめたなら、それはどれも、あなたがこのような環境の試練のなかでしっかり立ち、試練に耐えたことを意味します。このようにして、あなたはこの試練を経るのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や物事から学ばなければならない」より

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