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第7章 神への信仰において理解するべき真理の他の側面

5. 神への信仰は平和と祝福を求めるためだけであるべきではない

関連する神の言葉

人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、人が神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してその人の人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める愛は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに縛られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。

『言葉は肉において現れる』の「信者はどんな見解を持つべきか」より

今日、実際の神を信じるので、正しい軌道に乗らなければならない。神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。誰もあるがままの状態に満足すべきではない。神の働きにおいて二心であったり、軽々しく見なしたりすべきではない。あなたがたは神のことをあらゆる点において、また常に考え、神のために全てのことをなすべきである。そして、あなたがたの言行においてまず神の家の利益を優先すべきである。これしか神の心と一致するものはない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

今、全ての人々は、神に仕える者は神のためにどのように苦しむかを知ることだけでなく、更に、神を信じるということは、神を愛することを求めるためであることを理解すべきである、ということを知っている。神があなたを用いるのは、単にあなたを精錬したり、苦しませたりするためではなく、あなたが神の行為を知るようになるためであり、人生の真の意義、とりわけ、神に仕えることは容易な業ではないことをあなたが知るようになるためである。神の業を体験することは、恵みを楽しむというよりも、むしろあなたの神への愛のために苦しむことである。あなたは神の恵みを享受しているのであるから、神の刑罰も享受すべきである――あなたは、これらのこと全てを体験しなければならない。あなたは神があなたの内に与える啓示を体験できることもあれば、あなたへの神の取り扱いと裁きを体験できることもある。そのようにして、あなたは全ての側面を体験する。神は、あなたに裁きの業を行い、また刑罰の業も行った。神の言葉は、あなたを取り扱ったが、それはまた、あなたに啓示と明察も与えた。あなたが逃げたいと思う時、神の手は依然としてあなたを捉えている。こうした業は、全部人間に関する全てのことが神の意のままであることをあなたが知るようになるためである。あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない――しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。最終的に、あなたは信仰において神の前での完全無欠の服従を成し遂げなければならない。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう――これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を追い求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

今やあなたは、神への信仰とは何かを理解しただろうか。神への信仰は、しるしや不思議を見ることだろうか。それは天国に昇ることだろうか。神を信じることはまったく簡単なことではない。それらの宗教的慣行は、一掃されるべきである。病人の癒しや悪魔の追放を求めること、しるしや不思議を重視すること、神の恵みや平和や喜びをさらに欲しがること、明るい未来や肉の快楽を求めること、これらは宗教的慣行であり、そのような宗教的慣行は、漠然とした信仰の種類である。今日、神に対する真の信仰とは何だろうか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの真実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確にするために言うと以下のように言える。すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉における生活から神を愛する生活への転換、自然のままの生活から神という存在の内部での生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、信仰を達成するために必要な主なものである。神の言葉を食べて飲むことは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を食べて飲むことは、あなたに神についてのより大きな認識を与える。そして、そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。あなたは神を知ってはじめて、神を愛することができ、そしてこの目的の達成は、人が神への信仰において持つべき唯一の目的である。もし、あなたの神への信仰において、あなたがいつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、主に、いのちの真実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を成し遂げることだけが、神の目的の達成である。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされること、神に服従することができること、そして神への完全な従順を、追求すべきである。もしあなたが不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するだろう。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている──あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなた方の間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなた方の間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなた方の間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること──つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真理の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者たちのひとりであろうか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と違わないのではないか。豚は人生も清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真理の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは手ぶらである。あなたは、このような生活、つまり豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。このような人々が生きていることの意味は何であろうか。あなたの生活は軽蔑すべきものであり、恥ずべきものであり、あなたはけがれと放蕩の中で暮らし、何も目指す目標がない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真理の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

今日、あなたの神への愛はどのくらい大きなものであろうか。また、神があなたの内に為したあらゆる事のうち、あなたはどのくらいの事を知っているであろうか。あなたは、これらの事を知らなければならない。神が地上に来る時、神が人の内に為した事のすべて、そして神が人に理解させた事のすべては、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛により、別の意味では神の救いによるのであり、さらには神が人の内に為した裁きと刑罰の働きによるのである。もしあなたがたが神の裁き、刑罰、試練を受けることがなければ、そして神があなたがたに苦しみを与えることがなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人の内に為された神の働きが大きいほど、そして人の苦しみが多いほど、神の働きがどれほど意義深いものかを示すことができ、同時に、その人の心はより真に神を愛することができる。人はどのように神の愛し方を学ぶのであろうか。苦痛や精錬なしに、また、つらい試練なしに──さらに、もし神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけであったなら──神への真の愛を全うすることはできるであろうか。神による試練にあって、人は自らの欠点を知るに至り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき、卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、神による試練にあって、神は、人が神の素晴らしさをより良く経験できるような新しい環境を作り出す。苦痛は非常に大きく、時として乗り越えられない──さらには、身も心も打ち砕くような悲しみにまで達することもある──しかし、それを経験することで、人はその内にある神の働きがいかに素晴らしいかを知り、その礎の上にのみ、人の内に神への真の愛が生まれるのである。今日、人は神の恵みと愛と慈悲だけでは、真に自分を知ることはできず、ましてや人の本質も知ることができないのを知っている。神の精錬と裁きによってのみ、また、そのような精錬の中にあってのみ、自分の欠点を知り、自分には何もないことを知るのである。このように、人の神への愛は神の精錬と裁きという礎の上に築かれる。もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず 、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

あなたは今、何を追い求めるべきか。あなたが追求すべき事とは、自分が神の業を表現できるかどうか、自分が神の表現となり神の現われと成りうるかどうか、自分が神に用いられるに適しているかどうかである。神はあなたの内で、実際にどれほどの業を行ったのであろうか。あなたはどれほど見て、どれぐらい触れたのであろうか。どれほど体験し、味わったのであろうか。神があなたを試そうが、あなたを取り扱おうが、あなたを懲らしめようが――それが何であれ、神の行動と業があなたの上に為されたのである。しかし、あなたは、神を信じる者として、神により完全にされることを進んで追い求める者として、神の行動を自分自身の実際の体験を通して表現することが出来るであろうか。あなたは、このことを通して神の言葉を実際に生きることが出来るであろうか。あなたは、自らの実体験を通して、他の人々に与え、神の業のために自らを費やすことが出来るであろうか。神の働きのために証しするには、その働きが何であるかを表現できなければならない。そして、それはあなたの体験、認識、また、あなたが耐え忍んだ苦しみを通して行われる。あなたは、神の働きのために証しする者であろうか。あなたには、そうした志があるだろうか。神の名、そしてさらに神の働きのために証しすることができ、神の民に神が求める人間像を実際に生きることが出来るのであれば、あなたは神の証し人である。あなたは実際にどのようにして神のために証しするのであろうか。神の言葉を生きることを切に求めること。あなたの言葉を通して証しをすること。人々に神の働きを知らしめ、見せること――あなたが、まことにこれらのこと全てを求めるなら、神はあなたを完全にするであろう。もし、あなたが求める全てが、神により完全なものとされ、最終的に祝福されることのみであるならば、あなたの神への信仰に対する見方は純粋ではない。あなたは、どのようにすれば神の業を実生活において見ることができるか、ということを追求しているべきである。神があなたにその意志を明らかにした時、どのように神を満足させるか、神の驚異と知恵をどのように証しするのかを求め、また、自分に対する神の訓練と取り扱いをどのように実際に示すかを追及しているべきである。これらのすべては、今あなたが解明しようとしているべき事である。神があなたを完全にした後、あなたは神の栄光にあずかることができるということだけのために神を愛するのであれば、それはまだ不充分であり、神の要求を満たさない。あなたは、神の行動を証しし、神の要求を満たし、神が人々の上に為した業を実践的に体験することができる必要がある。それが苦痛であれ、涙であれ、あるいは悲しみであれ、あなたはその全てを実践で体験しなければならない。それらは全て、あなたが神の証し人となることが出来るためである。厳密に言うと、あなたは現在、何による支配下において苦難を経験し、完全になることを求めているのであろうか。それは神のために証しするためであろうか。それは、肉の祝福、あるいは自分の将来性のためであろうか。あなたの意図、動機、自分が目指す目標は、全て正される必要がある。それらを自分自身の意志で導くことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

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  • 序文

    神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々…

  • 神の現れによる新時代の到来

    六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。…

  • 神への真の信仰とは何で、神の賞賛を得るためには神をどのように信じるべきか

    「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。

  • 受肉したキリストと偽キリスト・偽預言者たちの違いを認識しなさい

    受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。