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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第7章 新しい信者が少なくとも理解するべき真理の他の側面

4.神の信者がもつべき聖徒らしい品位

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サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。…正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々──理知が異常な人々──は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

今日、あなたは完全にされること、あるいはあなたの外側の人間性における変化と、器を向上させることを求めることができる。しかし、最も重要なことは、神が今日為すことにはみな意味があり、それはみな有益であるということを理解できることだ。それは、汚れにみちた地に住んでいるあなたがその汚れを逃れ、払い落とすことができるようにする。それは、あなたがサタンの影響を克服し、サタンの闇の影響を離れることができるようにする。──そして、これらのことに集中することによって、あなたは、この汚れの地で守られる。あなたは、最終的にどんな証しをすることを求められるのだろう。あなたは汚れの地に住んでいるが、聖くなることができ、もはや汚れておらず、不純なものもなくなる。あなたはサタンの支配下に住んでいるが、サタンの影響から脱け出すのだ。もはやサタンに所有され、悩まされることもなく、全能者の手の中で生きる。これがその証しであり、サタンとの戦いに勝利した証拠である。あなたはサタンを捨てることができる。あなたが生きて実現したことは、サタンを明らかにするのではなく、神が人間を創造したとき、人間が達成するよう求めたものを明らかにする。すなわち、普通の人間性、普通の理知、普通の見識、神を愛そうという普通の意思、そして神への忠誠だ。これこそが神の創造物が為す証しである。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(2)」より

正常な人間性には、識見、理知、良心、そして性格が含まれる。こうした側面それぞれについて正常性を実現出来るならば、あなたの人間性は基準に達している。あなたは正常な人間の姿を備え、神を信仰する者らしく行動すべきである。極めて高度な水準に達することや外交手腕を要求されているのではない。単に正常な人間の理知を備え、物事を洞察できる正常な人間であるべきであり、少なくとも正常な人間のように見えなければならない。それで十分であろう。…多くの人々が時代が変わったことを知っているので、慎ましさや忍耐を実践しない。愛や聖人のような品位を備えていないこともありえる。なんと馬鹿げた人々であろうか。彼らには正常な人間性がほんの少しでもあるであろうか。語るべき証があるだろうか。彼らには識見や理知が一切ない。無論、人々の実践のうち逸脱していたり誤っている側面は修正する必要がある。人々の厳格な霊的生活や、過去の感覚麻痺や愚かさなど、このようなものは全て変わらなくてはならない。変えるということは、あなたを自堕落にさせたり、肉に耽溺させるということでも、言いたいことを言うことでもない。不注意な発言をしてはならない。正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「知的能力の向上は、神の救いを授かるためである」より

正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる。

『言葉は肉において現れる』の「十六番目の言葉の解釈」より

ここで述べている正常な人間性は、人々が想像するほど超自然的なものではない。しかし、それは、あらゆる人間、出来事、物の束縛を超越することができ、状況の勢力を超越することが可能であり、どんな場所でも、どんな環境の中でも、わたしに近付いてわたしと交わることができる。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。…正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

わたしには多くの望みがある。わたしの願いは、あなたがたが適切かつ行儀良く振る舞い、忠実に自分の本分を尽くし、真理と人間性を備え、神のために全てを、そして人生を投げ打つことが出来ること、などがある。こうした望みは、全てあなたがたに欠如している物事と腐敗、反抗から生まれたものである。

『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より

あなたがたの人間性は過度に欠如し、あなたがたの生活様式は過度に下等で、悪化し続けており、あなたがたには人間性が無く、あなたがたには識見が欠如している。あなたがたが人間性のある物事を身に付ける必要があるのは、そのためである。良心と理性、そして識見を身に付け、話し方や物の見方を知り、清潔さに配慮し、正常な人間らしく行動することは、全て正常な人間性の実践的知識である。こうした物事を適切に行うならば、あなたがたの人間性は標準的なものとなるであろう。もうひとつの側面は、霊的生活に備えることである。あなたがたは、地における神の業全体を知り、神の言葉を経験する必要がある。あなたは、神の采配にどう従い、被造物としての本分をどう尽くすかを知るべきである。これらは、現在あなたがたが成長すべき2つの側面である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

神は、教会生活だけではなく日常生活においても人間が正常な人間性や真理を行動で示すこと、そして教会生活だけでなく日常生活においても自分の役割を果たすことを要求している。人間が現実に入るには、全てを日常生活に向けなくてはならない。神を信じる者が日常生活に入ること、自分を知ること、日常生活において正常な人間性を行動で示すことが出来ないならば、落伍者となるであろう。神に従わない者は皆、日常生活に入ることが出来ない者である。そうした者は皆、人間性について語るが、行動では悪魔の本性を示す。彼らは皆、真理について語るが、行動では教義を示す。日常生活において行動で真理を示すことが出来ない者は、神を信じるが、神に嫌い捨てられる。あなたは日常生活に入ることを実践し、自らの欠点と反抗、無知、そして異常な人間性と弱さを知らなければならない。そうすることで、あなたの認識は、全て自分の実際の状況や困難と統合される。こうした認識のみが本物であり、あなたが自分の状態の把握や性質の変化を実現することを可能にする。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と日常生活について」より

神が用いる人間は、礼儀正しく話し、不注意に語ることが無く、神の前で常に心を静めておくことが出来るが、外見から見ると不合理であり、他の人々と正常な関係を持っていないように見える。しかし、正にこういう人こそ聖霊に用いられるに充分なのである。神の言われるところの、この「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、彼らには外面だけの愛や実践がない。しかし、霊的なことを分かち合っている時は、彼らは心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を、無私無欲で他の者たちに分け与えることが出来る。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の心を満足させるのである。他の者たちがみな彼らを中傷し、嘲笑する時、彼らは外部の人々や出来事、物事により支配されるのを回避することができ、また、なおも神の前で静まっていることが出来る。このような人には、独自の洞察があるようだ。他の者たちがどうであれ、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに、また、おもしろそうにしゃべっている時でも、彼らの心は依然として神の前にあり、彼らは神の言葉について熟考したり、あるいは黙して心の中で神に祈り、神の意図を求めたりしている。彼らは、他の人々との正常な人間関係を維持することを決して主眼とすることが無い。このような人には全く人生哲学が無いように見受けられる。こういう人は、外見上は陽気で、愛想よくて、無邪気であるが、冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を確立することは極めて重要である」より

真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

人の交流

神を心から信じている人は、毎日少なくとも霊的生活の五つの側面、即ち、神の言葉を読むこと、神に祈ること、真理を伝えること、讃美歌を歌い神を讃えること、すべてにおいて探究することを実践しています。また、人々と集まる生活をしているならば、大きな喜びを得られているでしょう。受けるための一般的能力がある人ならば、つまり、神の言葉を一人で読んだ後、神の心が分かり、真理を理解し、真理に則する方法が分かる人ならば、神を信じることに成功すると言うことができます。このような霊的生活を送っていない人、または霊的生活が大きく通常とは異なり、ごくたまにしか実践していない人は、誤った道に進んだ混乱した信者です。混乱した信者は霊的生活を送っておらず、本分を尽くしても、大した成果を上げることはできません。霊的生活を送らずに神を信じることは、神を信じていると口先で言っているに過ぎず、その心に神の場所もなければ、神に対する畏れもないことは明らかです。これらの人々が正常な人間に見えることがどうして可能でしょうか。神の信者には到底見えない人々がいます。彼らの生活様式や日々の言動を見ると、完全に不信者のようです。正常な人間には全く見えず、彼らの言動は非建設的です。ひどく嫌われ、憤慨され、排除される場合さえあります。これは、神を侮辱する行為であるだけではなく、本分を尽くすのを妨げ、今後の福音の働きに問題をもたらします。注意すべき何種類かの状況があります。

正常な人間の他者との接触は、堂々とし高潔で、偽りがなく品行方正なものです。しかし、何かを誤魔化そうとしたり、言っていることと心の中で思っていることが一致しなかったり、人と話す時に目配せをするような人の場合は、このようではありません。彼らには正常な人間の持つ外見がなく、人に警戒心を引き起こす泥棒のようです。生まれつき劣った容姿で生まれる人もいます。そんな人々が適切に身支度しない場合、堂々とし高潔な外見を持つことはなく、本分を尽くすことが難しくなるでしょう。適切に本分を尽くせるようになるには、実践と学習が本当に必要です。これは、人々はお互いによく知り合っていないうちは、主に外見で判断するからです。ですから、あなたが本当に泥棒のように見えるならば、誰もがあなたに警戒心を抱くでしょう。そのため、堂々とした高潔な人のように身支度を整えるには何を着るべきかを学び、言動において正直で誠実でなければなりません。軽薄であったり、人に目配せをしたりしては決してなりません。さらに、自制することが必要です。他人の家の中を歩き回り、彼らの所有物に触れてはなりません。あなたが見るべきでないものを見たり、行くべきではない所に行ったりしてはなりません。礼儀正しく振る舞うことで、人々が心から安心し、あなたを信頼し、あなたに良い印象を抱くようにしなければなりません。このようにすることで、あなたは適切に本分を尽くすことができます。これらは一部の人が注意すべき問題です。

もう一つの状況は、人と仲良くしたり、普通に話したり、交流したりすることができないことです。このような人々は、一般の人が持つ人間的な感情さえ持ち合わせていません。彼らが知っていることは、素早く仕事を行ない、その後さっとその場を去ることで、他のことは何も理解していないようです。これらの人々は他者と接触しても愛情を表現することはなく、他者は温かさや情熱を感じることができません。むしろ、冷血な殺し屋が登場したかのような、冷たい感覚があります。このような状態で、どのようして適切に働きを行うことができるでしょうか。料理の味付けにはさまざまな食材を使用する必要があります。人に対応する時には、さらに注意を要します。あまりにも単調となってはなりません。通常の状況では一日または半日誰かと過ごすことで、正直である、情熱的である、愛があり真理を理解している、親しみやすい、極めて善良な兄弟姉妹であるなどの良い印象を与えることができるはずです。単調に物事を行ったり、正常な人間性があれば有しているはずのものが欠如していたり、知恵がなかったりすれば、物事の遂行を難しくするでしょう。これらは一部の人の欠点で、素早くこれを直し、改善するのが良いでしょう。

また別の状況は、知恵を持たずに伝道を行うことです。人々と交流する際に、周辺の事情をよく見ず、状況をどのように判断すべきか、機会をどのように探すべきかが分からず、もちろんどこから始めるのが適当かさえ分かりません。物事を行う際の方法や手法をもたず、適切な手順を踏まず、一息に人々にすべてをぶちまけ、すべてを言い尽くすや否やその場を離れます。このような振る舞いをする人は、無謀で、少し滑稽で、とても愚かに見えます。これも、人々が持つ欠点の一つです。誰もがこの点で極めて多くの失敗をしてきました。知恵や忍耐なしに福音を伝えていくことはできません。忍耐を欠けば欠くほど、成功は遠のいていきます。気を長く持ち、少しばかりの知恵を持つことが有利に働く一方で、忍耐を欠き、自制できず、知恵を持たない場合は、この仕事を遂行することは絶対にできません。気性の激しい人は、のんびりとした人と組むと良いでしょう。忍耐のない二人が組めば、もっと早くその場を去ることになるだけです。福音を伝えることと、司牧の仕事をすることは異なります。伝道で最も必要となるのは、知恵、愛、そして優しさです。この働きは、大きな忍耐力がなければ遂行できません。必要に応じて、謙虚になり、あなたが人々に対してもっている誠実で明確な愛を表現する必要さえあります。重要な瞬間にひざまずき神の恵みを求めることで、人々を深く感動させた人もいます。これは、忍耐と愛に溢れた誠実な心がなければ成し遂げることはできません。

また、品性が低くホストファミリーの家を自宅のように扱う人もいます。これらの人々は、規則を一切知らず、したい放題で、まるで世の中を見たことがないかのように、見えるものすべてを使ったり、いじったりし、あちらこちらを見て回ります。はっきり言うことがはばかれるため、怒りながらも我慢するしかない人々を憤慨させ、不快な気持ちにします。さらに、数日しか一緒に過ごしておらず、お互いにまだよく知り合っていないのに、お金を貸してくれと頼んだり、他人の持ち物を使ったりする人々もいます。これは本当に難しい立場に人々を置きます。また、他人の家で暮らしているにも関わらず、欲望にふけり、失礼な態度で人に接し、冗談を言ってふざけ回り、全く品性に欠け、マナーがない人もいます。私は冗談に反対しているわけではありませんが、突拍子もない、下品な冗談は不適切です。ユーモアとウイットに富んだ会話で人々を幸せな気持ちにし、気を楽にさせるのはもちろん構いませんが、人々に嫌悪感や吐き気を催させる下品な冗談は避けるのが一番です。人間とはどうあるべきかと言う意識があまりに欠けている人もいます。誰にでも欠点はありますが、少なくとも、やりたい放題の放蕩はある程度律し、一定の礼儀を持ち、他者を尊重し、規則をある程度理解することで、人前で好ましく見えることができるでしょう。このように振る舞ってこそ、人々に貢献することができます。神の名を辱めることもなく、本分を尽くして成果をえることができます。

神の信者が正しい人らしく振る舞うことは非常に重要です。神を信じながら正しい人らしく振る舞わない人は、人間性があまりにも欠けていることは確実で、明らかに真理を得ていません。他者から嫌われる人は、神からはさらに嫌われます。人間性のない人は、たとえ神を信じていたとしても、簡単に救われることはできません。神の家では、神を信じながらも正しい人らしく振る舞わない人は、難しい人で危険な状態にいます。もし誰かが神が救いの働きの期間にも全く変わらず、悪魔のような不信者の外見のままでいるなら、神の日には確実に懲罰を受けるでしょう。親から良い躾を受けなかったため、エチケットやルールを知らない人もいますが、これらのことは学習し、実践することができます。正常な人間性のある人が備えているべきものを把握することが非常に重要です。正しい人になり、正常な人間性のある生活に入る方法を知ることもまた学ぶべき教えです。あなたが神を信じているならば、救いを求め、有意義な人生をまっとうしなければなりません。人間性に関する知識がないと、どちらも達成できません。神を信じる私たちの大部分が労働者階級の家庭で育ちました。私たちの両親は知識も知恵もそれほどなく、家族を養うために稼ぐことしか知りません。子供を大人に育てる方法を基本的に知らないのです。私たちのような人は、実に哀れです。サタンによるさまざまな腐敗のための手段を経験した後、私たちは人生においてここから抜け出す道を求めるために必要なことを、それが何であろうと実行していくことしか知りません。私たちを救うために来られた受肉した神のおかげで、今日、私たちは人間の腐敗の程度、人間に欠けているもの、真理といのちを得るためにはどうするべきかを知っています。神の恵みにより、これらすべてを理解することができます。

より深刻な状況がまだ二、三あります。さまざまな種類の邪悪な人々が本性を既にさらけ出していることは、誰の目にも非常に明らかです。男性と女性の境界線を守らず、見るのもおぞましく、吐き気を催すような欲望に満ちた行為にふける人がいます。彼らは動物よりもひどい、救いようのない悪漢です。これらの人々には、最後により深刻な罰が待っています。さらに別の種類の人もいます。恐らく家族が極めて貧しく、困窮しているのでしょうが、機会があれば必ず利用して、どこであろうと金銭や物品を恥知らずにも手に入れようとします。彼らは卑劣な極悪人です。他人の親切に感謝することができず、同情に値しません。また、あらゆるところで他人の所有物を横取りするために嘘をついたり、騙したりして、気の赴くままにどんな悪事でも働く人もいます。しかし、その後ボロを出し、他者に本性を見通され、他者から忌み嫌われ、最終的に拒絶されます。これらの悪事を働く人は皆、神に嫌われる人です。彼らはこの流れにおける悪人で、彼らが最後に受ける罰は、事態がどのように発展し、変わっていくかにより決定します。神の怒りに触れたり、罰を受けたりしないよう、これらの人々の挫折を警告として皆が受け取れることを望みます。すべての人が警戒することを望みます。

正常な人間のように振る舞うかについて、注意を向け、実践すべき十項目があります。

1.エチケットを守り、規則を知り、年配者に敬意を払い、目下の世話をする。

2.自分自身と他者に有益な適切な生活様式をもつ。

3.堂々とした高潔な装いをし、奇妙または派手な服は禁じる。

4.理由にかかわらず、兄弟姉妹からお金を借りたり、他人の物を軽々しく使用したりしない。

5.異性との接触には制限を置く。堂々とした高潔な行動を取る。

6.他者と口論しない。忍耐深く他者の話に耳を傾ける。

7.実際の状況に合わせて、衛生に気を配る。

8.他者と正常な交流、関係をもち、他者を尊重し気を配ることを学び、互いに愛し合う。

9.困っている人にできることをして助ける。他者から何かを取ったりもらったりしない。

10.他者に、あなたに仕えさせない。あなたが行うべき仕事を他者にさせない。

上記の十の規則は、あらゆる神の信者がそれぞれの人生において最低限守るべき項目です。これらの規則を破る人は、品性が低い人です。これらは神の家の規則であると言って差し支えありません。これらの規則を頻繁に破る人は、確実に追放されます。

真理を求めるすべての人は、古代聖徒の十の優れた特徴をも見習う必要があります。これらを定期的に実践し維持する人は、必ず大いなる益を受け取ります。これらは極めて有益です。"

聖徒のような品性を自らのものとするための十原則

1.毎朝約三十分をディボーションに費やし、祈りつつ神の言葉を読む。

2.毎日のあらゆるものの中に神の心を探し、より正確に真理を実践するのに役立てる。

3.接触するすべての人に真理を伝え、共に進歩するために互いに学び合う。

4.人生に対して楽観的な態度を持ち、頻繁に賛美歌を歌い、神を讃え、神の恵みに感謝する。

5.世俗的な世界にとらわれない。定期的に心の中の神に近づき、他人事に干渉しない。

6.心に知恵を持ち、邪悪で危険な場所から距離を保つ。

7.他人と口論しない。真理を伝え、他人と仲良くする。

8.他者を助け、不安を軽減し、神への信仰に入ることにおける困難を解決するためにできるすべてのことをする。

9.人に従う方法を学び、他者を支配したり、強要したりしない。あらゆることから学べるように人を導く。

10.頻繁に心で神を崇拝し、神を主とし、あらゆることで神を満足させる。

 上記の人生原則十項目と、聖徒のような品性を自分のものとするための十原則はすべて、人が実践するのが可能なことです。これらを理解すれば、実践することができます。時折、原則を破ることがあったとしても、解決するのは難しくありません。人間性があまりにもひどい特定の人々について話す必要はありません。"

もっと深い真理を把握することはできないかもしれませんが、少なくとも正常な人間性について何を知るべきかを理解する必要があります。この程度の原則を守ることさえできない人は、人間があるべき姿からかけ離れ過ぎており、人間の服を着た獣と事実上変わるところはありません。私は一部の人に不作法な振る舞いをせず、自尊心を持つように指導しています。神を辱め、サタンに冗談として利用されるようなことをしないようにしなさい。肉の一瞬の満足は、永遠に続く恥と痛みをもたらすことがあります。神はまもなく人々に懲罰を与えられます。懲罰を受けるのは極めて痛みが大きく、最も恥ずべきことです。褒美を受けることができず、その代わりに懲罰を受けたなら、その先、生きていく面目を失うでしょう。そうは思いませんか。

兄弟の交わりより

正常な人間性とは、主に良心と理知、人格と尊厳を持つ事を指します。良心と理知とは、寛容を示し、他人に対して辛抱強く、正直で、知恵を持って人々と交わり、兄弟姉妹に対し純粋な愛を持つ、という事です。正常な人間性には、これら5つの特徴が備わっていなければなりません。

最初の特徴は、寛容な心を持つという事です。ここで言う寛容とは、どういう意味でしょうか。それは、兄弟姉妹にどんな欠点が見られても正しく交わり、排除したり攻撃したりしないという事です。正しく交わるという事は、受け入れ理解する態度を示す事です。他人の欠点や堕落が明らかにされるのを見た時は、今は神が救いの働きを行っている時であり、神の選ばれた民一人ひとりの堕落が露見されるのだという事を忘れてはなりません。それは普通の事であり、私たちは理解に努めなければなりません。それとは別に、私たちは、必ずしも他人に劣らず露見される、自分自身の堕落も見つめる必要があります。自分自身の露見された堕落は、他人で露見された堕落と同様に取り扱われるべきです。それにより、他人に対し寛容になれ、寛容になった事による効果を得られます。他人に寛容になれないのなら、それは自分の理知に問題があり、真理を理解できず、神の働きを知らない事を示す事になります。神の働きを知らないとは、どういう事でしょうか。それは、神の働きは現在も終わっておらず、人間は神の救うの働きの時に生きており、まだ完全にはされていないという事を知らない、という事です。従って、必然的にすべての者の堕落が露見されるのです。今や、誰もが普通に真理を追求し、自分の堕落を知り、神の言葉を体験しています。誰もが真理に入る時にありながら、まだ十分に真理を得てはいません。人々が真理を得て初めて、そのいのちの性質は変わり始めます。人々がその点を理解する時、正常な人の理知が備わるのです。理知のある人々は、理知をもって他人と交わります。理知のない人々は、誰とも理知をもって交わる事はありません。これが寛容に関する側面です。

次の特徴は忍耐です。単に寛容であるだけでは十分ではありません。忍耐も持たなければならないのです。人は時として寛容で理解があるかもしれませんが、兄弟姉妹の誰かがした事により、傷ついたり怒ったりするのは避け難い事です。そういう状況では、人間の堕落した性質が露見しやすくなります。私たちはみな、自分の自尊心を戦って守り抜きたいと思っており、自己中心的で強いうぬぼれを持っています。そこで、誰かに傷つくような事を言われたり、腹立たしいような事をされたりしても、我慢強くあるべきです。では、忍耐とは何でしょうか。忍耐も理知に含められます。忍耐強くあるには、理知が必要です。しかし、どうしたら忍耐強くなれるのでしょうか。他人に対し忍耐強くありたいならば、まず他人に対する理解が必要です。つまり、誰かに傷つくような事を言われても、どう考えどう対処するかを知っているべきです。まずは、次のように理解すべきです。「あの人の言葉に傷ついた。あの人が言った事は私の欠点を露見したように思え、私に向けられていたように見える。あの人の言葉が私に向けられているとしたら、何を言いたいのだろうか。あの人は、私を傷つけようとしているのだろうか。私を敵と見なしているのだろうか。私を憎んでいるのだろうか。私に復讐しようとしているのだろうか。だが、私はあの人を怒らせるような事はしなかったのだから、こうした問いに対する答えは、イエスのはずがない。ならば、この兄弟や姉妹がどんな事を言ったとしても、私を傷つけたり、敵として扱ったりする意図はなかった。それは確かだ。彼らがそういう事を言った時、その言葉は特定の誰かに向けられたのではなく、普通の人が考える事を表現したに過ぎなかったのだ。真理を語り、認識を語り、人々の堕落を明らかにし、自分の堕落した状態を認めたとは言えるかもしれないが、意識的に特定の個人を標的にしていたという事は断じてない。」と。このように、まず理解を示せば怒りは消え、忍耐強くなれます。すると、次のように尋ねる人がいます。誰かが何らかの目的を達成しようとして、意識的に自分を攻撃し、標的にして、こうした事を全くの故意で言うならば、どうして忍耐強くなれるだろうか。そういう場合は、次のように考えて、忍耐強くあるべきです。「誰かに故意に攻撃されても、私は忍耐強くあるべきだ。彼らは私の兄弟姉妹であり、敵ではない。サタンという悪魔では、断じてない。兄弟や姉妹が何らかの堕落を露見し、心の内に何らかの意図を持っているのは避けようがない。これは普通だ。私は理解し、共感し、耐え忍ぶ。」と。このように考えたら、神に、「神よ、今誰かが私のプライドを傷つけました。私は、恥ずかしい思いをする事に我慢できず、いつも怒って攻撃したくなりますが、これで本当に堕落が露見されます。以前、私は他人を愛していると思っていましたが、誰かの言葉が私の心に突き刺さった今では、我慢がなりません。反撃したいし、復讐したいです。そこには愛はありません!これはすべて憎しみではないでしょうか。私はまだ心の内に憎しみがあります!神よ、神が私たちに対し慈悲の心を持ち、私たちの罪を許すように、私たちも他人に対し慈悲の心を持つべきです。私たちは不満を持つべきではありません。神よ、私を守り、私の本性が露わにならないようにしてください。私は神に従い、神の愛の内に生きたいです。私たちは余りにもキリストと神に背き抗い過ぎていますが、それでもキリストは私たちに対し忍耐強くいてくれます。神は非常な忍耐と愛を持って、この段階での働きを行っています。キリストは、どれだけの苦しみ、屈辱、中傷を耐え忍んだ事でしょうか。もしキリストがそれに耐え忍べたのであれば、私たちが持つべきほんのわずかな忍耐など、何でもありません!私たちが耐え忍ばねばならない事など、キリストが耐え忍ばねばならなかった事とは比べるほどのものでもありません……」と、祈るべきです。このように祈ると、自分が余りにも堕落した存在で、取るに足らず、霊的身丈に欠けるように感じられます。そしてその時、忍耐強くなれ、もはや腹を立てる事なく、怒りが消えるのです。人は、このようにして忍耐強くなる事ができます。

第3の特徴は、正直に人々と交わるという事です。人々に対し正直になるという事は、他人を手助けする時も、兄弟姉妹を助ける時も、真理を伝える時も、何をするにも、心から話すという事です。不誠実であったり偽りであったりしてはなりません。また、自分が行っていない事を説いてもなりません。兄弟姉妹が手助けを求める時では、いつでも手助けすべきです。尽くすべきいかなる本分も尽くすべきです。不誠実であったりうぬぼれたりするのはやめ、正直になりましょう。……勿論、一部の人と交わる際は、正直な人であるためには多少の知恵が必要です。その人が信用できないとわかり、その人の堕落がきわめて深く、その心の内を見透かす事ができず、何をやるかわからないならば、賢く振る舞い、すべて何でも話さないようにする必要があります。正直な人であるためには、原則が必要です。話すべきではない事を無分別に話してはなりません。私たちは、話すべき事を話すべきです。さらに、正直な人であるためには、理性と正常性を持って話す必要があります。誰かに「今日はあなたに対して正直になり、私の事をすべて打ち明けましょう」と言ってはなりません。それは正直な人であるのとは違います。それは子供の遊びです。人は正常でなければなりません。人に「私は今日働いているから、あなたがたに何事もないならば、私は自分の事をします」と言われて、あなたは「え、ちょっと待ってください。私は正直な人でなければならないので、あなたに話をしなければなりません」と言うとします。するとその人は「話を聞く時間はありません。急いで仕事をしなければならないのです」と言い、あなたは「いいえ、私は正直な人でなければなりません。私も以前はあなたに対してそんな風でしたが、今はこうするべきなのです」と言うとします。しかし、それは愚かではないでしょうか。正直な人であるという事は、賢い人であるという事であり、愚かな人であるという事ではありません。賢く、単純でオープンな事であり、欺かないという事です。人は正常で、なおかつ理知がなければなりません。正直は理知の上に築かれるものです。これが、人と交わる際に正直であるという意味であり、正直な人であるという意味です。勿論、正直な人である際に最も大切な事は、神に対し正直である事です。他人の前でだけ正直な人で、神の前では正直でなく、神を欺くとしたら、大きな問題ではありませんか。神の前で正直な人でありたいと思うならば、必然的に他人の前でも正直になるのです。神の前で正直になれないならば、他人の前ではなおさら正直になれるわけがありません。どんな真理の側面やポジティブな事に入ろうとしているとしても、まず神の前でそれを行わなければなりません。神の前で見事に実現できるならば、必然的に他人の前でも実現できるでしょう。他人の前では骨を折ってあれこれし、神の前では何でも好きな事を自由にする、というのはやめましょう。そんな事は通りません。最も大切な事は、人間に試練を与え、人間の心を追求する神の前で、それをする事です。神の前での試練に通れば、あなたは現実を真に手に入れます。神の前での試練に通らなければ、現実は手に入りません。これが真理を実践する際の原則です。

第4の特徴は、知恵を持って人と交わるという事です。「兄弟姉妹と付き合うのに知恵は必要だろうか」と言う人がいますが、必要です。なぜなら、知恵を使うと兄弟や姉妹に対しさらに大きな恩恵があるからです。「兄弟姉妹に対し賢くあるというのは、ずる賢くあるという事ではないか」と問う人がいます。しかし、知恵はずる賢さとは違います。というよりも、知恵はずる賢さの正反対です。知恵を使うという事は、霊的身丈の小さい兄弟姉妹があなたの言う事を受け入れられない場合のために、彼らに対してどう語ったらいいか、注意を払うという事です。また、真理を持たず、何らかの堕落が見られ、何らかの堕落した性質を備えた、霊的身丈の小さい人々に対しては特に、あなたが余りに単純でオープンであり、すべてを語るとしたら、時としてそういう人はあなたに対し、あるいはあなたのために、利用できるものをそこに見つけがちであり、それも良くありません。人間は堕落した性質を持っているので、話す時は多少用心し、何らかのテクニックを身に付けていなければなりません。しかし人に対し慎重になるのは、手助けをしない事や愛を持たない事ではありません。それはただ、神の家に関する大切な事柄をすぐには話さないという事であり、真理を伝えるに留めるという事です。彼らがいのちにおける霊的な手助けを必要としており、真理が伝えられる必要があるならば、可能な限りの手を尽くして彼らをその点に関して満足させる必要があります。しかし、もし神の家についてあれこれ尋ねたり、そのリーダーや働き手についてあれこれ尋ねたりするのならば、それについて話す必要はありません。あなたが話せば、彼はその情報を漏らし、それが神の家の働きに影響を及ぼすでしょう。つまり、彼らが知るべきではない事や、知る必要がない事であるならば、それを知らせてはなりません。しかし、彼らが知るべき事があるなら、何としてでも、具体的に遠慮なく知らせましょう。では、彼らが知るべき事とはどんな事でしょうか。それは、真理の追求です。どんな真理を身に付けるべきか、真理のどんな側面を理解すべきか、どんな本分を尽くすべきか、自らがどんな本分を尽くすのに相応しいか、そうした本分をどのように尽くすべきか、正常の人間性をどう生きるか、教会の生活をどう生きるか——これらはすべて、人々が知るべき事です。一方、神の家の規則や原則、そして教会の働きを部外者に漏らしたり、兄弟姉妹の状況を部外者や信者でない家族に打ち明けたりする事はできません。それが、知恵を使う際に守らねばならない原則です。例えば、リーダーの名前や住所は話すべきではありません。そうした事を話したならば、いつそのような情報が部外者に耳に入るかわかりません。そして、それが何らかの邪悪なスパイや秘密機関の手に渡ったら、大変厄介な状況が起こり得ます。そうした事については、賢くならなければなりません。それが、私が知恵は本当に必要なものだと言う理由です。さらに、単純でオープンであろうとする時は、何か個人的な事を話してはいけません。兄弟姉妹の霊的身丈を判断し、話した後にあなたの言った事に対し邪悪になったり、冗談を言ったりする事がないかを見て取らなければなりません。そうした事が外部に漏れたら問題です。あなたの人格が損なわれてしまうからです。そこで、単純でオープンであるにも知恵が必要となります。知恵を持って人と交わる。これが、正常な人間性が持つべき第4の基準です。

第5の特徴は、神を真に信じる兄弟姉妹に心から気遣う事です。これには真の愛、実際の手助け、献身の精神がそれぞれ多少関連しています。信者になりたてか、何年も経っているかに関わりなく、特に真理を追求する兄弟姉妹と交わりを深め、そういう人々にもっと施すべきです。教会の生活には、特別な一つの原則があります。それは、真理を求める人を特別に扱うという事です。早く助け、できるだけ早くそのいのちを成長させるために、もっと交わりを深め、もっと施し、もっと神の言葉を注ぎましょう。真理を求めない人には、一定の期間、神の言葉を注いでも真理を愛さない事が明らかになった場合は、彼らにそれほど努力する必要はありません。既に人としてあらゆる努力をしたのですから、それ以上は必要ないのです。自分の責任を果たしただけで十分なのです。……あなたは、働く際に、誰に焦点を当てるべきか、知らなければなりません。神は真理を追求しない人を完全にするでしょうか。もし聖霊がそうしないのであれば、なぜあなたが盲目的に頑張り続けねばならないのでしょうか。聖霊の働きを理解していないのに常にうぬぼれた行為をするというのは、愚かで無知ではないでしょうか。ですから、真理を真に追求する兄弟姉妹をもっと手助けしましょう。なぜなら、そういう人々が神の救いの対象であり、神があらかじめ定めた選ばれし者だからです。そういう人々によく心を一つにして真理を伝え、互いに施し合うならば、最終的に私たち皆が救いを得るでしょう。そういう人々に加わらなければ、神の心を裏切っている事になるのです。……教会で正常な人間性を持つ人々は、真理を追求する人々の間に身を置き、そういう人々と協調し、真理の追求を通じて共に心を一つにし、徐々に神にすべてを捧げていくべきです。聖霊は真理を追求する人々に働きかけるのですから、それにより、真理を追求する人々は救われ、あなたも救われます。……

以上、正常な人間性が備えるべき5つの側面を伝えました。こうした特徴をすべて備えていれば、兄弟姉妹と協調でき、教会に身を置く事ができ、自分の能力を最大限生かして役目を果たす事ができるでしょう。

兄弟の交わりより

4つ目の性質変化の現れ方は、良心を持ち、理知を持ち、親切な心持ちになり、正直な人になることです。良心と理知を持つことは、人が神の恵みを享受し、神の愛に報いることを知ることを意味します。彼らは神の理解を持っていて、親切な心があり、正直な人となっているので、神を信じることによって創造された者の本分を尽くすことができます。正直な人として、彼らは自分の本分を尽くし、神の愛に報い、優しさを持って人々に接することができます。このような人は嘘をつかず、人を騙さず、そしてもちろん陰謀を企むことはありません。このような人と仲良くすることは決してあなたに危険をもたらさないし、あなたを傷つけることはないでしょう。……いのちの性質が変化すると、人々は親切になることができ、すべての人を公平に扱うことができ、そしてとりわけ善良な人達に対して特に慈悲深くなることができます。第一に、彼らはあなたを騙さないでしょう。第二に、彼らはあなたを陥れようとしないでしょう。第三に、彼らは決してあなたを傷つけようと意図しないでしょう。あなたは全くこれらのことを心配する必要はありません。さらに、あなたが何らかで彼らを傷つけても、彼らはあなたを許し、あなたの過ちを根に持たないでしょう。彼らはあなたに寛大で、あなたに我慢し、あなたに忍耐し、それでも尚、愛ある心で接してくれるでしょう。このような人に出会えればずっと安全ではないでしょうか。いのちの性質が変わった人は、親切な心を持ち、すべての人に愛を持ち、進んで助けようとします。たとえもしあなたが彼らを傷つけたり、彼らに間違ったことをした場合でも、彼らは我慢し、忍耐し、あなたを許すことができます。そのような人は、正常な人間性を持ち、本来の人間の姿をしています。本来の人間の姿をしている人は、真理を通して人々に良心と理知を持って接します。彼らは神に従い、愛する心を持ち、そして真に礼拝します。それがいのちの性質が変わった人です。今日、人々はあまりにも多くの邪悪な要素を持っています。このような人々は、どのように行動するのでしょうか。もし彼らが嫌いな人を見ると、その人を裁き、けなします。それは冷酷ではないでしょうか。また、彼らがいくらかの堕落が現れている人に会うと、その人を人間のように扱うのではなく、代わりに悪魔として扱うでしょう。人々を正しく扱わないーーそれは悪意があることではないでしょうか。もし誰かが彼らに間違いを犯したり、または彼らを裁いたり、疑ったり、気分を害するような、言ってはならないことを言ったとしたら、彼らはその人を許さず、復讐し、仕返しすることを望むでしょう。それは悪質ではないでしょうか。その上、彼らは常に人々を利用しようとし、あれこれ命令して自分のために他の人々が物事を行うよう仕向けますが、彼らは決して誰も助けることはありません。それは意地の悪いことではないでしょうか。これらはすべて悪意の現れです。親切な人々は心に悪を抱きません。もしあなたが彼らに借りを作っても彼らは気にしませんが、彼らはあなたに何も借りを作ることはないでしょう。なぜならそれは彼らにとって本当に受け入れがたいことだからです。さらに、もしあなたが彼らの感情を損なわせても、それは問題ではありませんが、彼らは決してあなたを怒らせたいと思わないし、ましてやあなたを傷つけたいとは思わないでしょう。それが優しい心というものではないでしょうか。誰かが彼らに対して何か好ましくないことをしても、彼らは尚その人の立場に立ち、思いやり、許し、そしてその人を理解することができます。これもまた親切な心の表現です。ある人々は過去に多くの悪事を働いたものの、現在は神への信仰を持って真理を追求することができ、さらに彼らは他人を許して正しく公平に接することができます。このタイプの人は、親切心のある人に分類されます。親切な人々は心に寛容さ、憐み、許す心および忍耐を持っています。また、それ以上に愛と同情心を持っています。だからこそ、誰もがこのような人と繋がりを持ち、そのような友人を喜んで作ろうとします。

『いのちの成長に関する説教と交わりクラシック・セレクション』の「性質の変化を達成させるために入るべき真理と性質の変化の表現」より

救われた人が神を真に理解すると、彼らは本来の人間らしさを全うすることができます。本来の人間のこの姿は、2つの言葉で要約することができます。1つ目は真理を得ているということ、2つ目は人間性を持っているということです。そのような人だけが、神の前で真に正直な人です。真に正直な人は、彼らの中に真理があるので、再びサタンによって堕落させられたり、騙されたりすることは決してしないでしょう。彼らは、堕落した人間の本性と本質と同様、この世とその邪悪さと暗闇を見抜きます。したがって、彼らは心から神を礼拝することができ、真に神に従い、その生活は神への信仰の本当の証しとなります。そのような個人は救われた人です。救われた人は真理を得ているので、神の前で良心と理知があり、他の人々の前で品性と尊厳があります。彼らは神の言葉に固執し、創造物としての本分を尽くすことによって、創造主を満足させることができます。それが救われた人です。真理を得ている救われた人の1つの側面は、彼らが世を見抜くことができ、サタンを見抜くことができ、そして堕落した人々を見抜くことができるということです。したがって、彼らはどのように世に対応するかを知っており、どのようにサタンに対応するかを知っており、そして特にどのように堕落した人々に対応するかを知っています。このように、彼らは生活において、明確な原則と真理を多く持っています。真理を備えた人は特定の行動があります。まず、真理に関連する事柄に関しては、神に祈り、求め、従います。第2に、彼らは神の家での本分を尽くすとき、神の働きを守り、恐れずに真理と原則を掲げ、人々の気分を害することを恐れません。彼らは創造物としての本分を尽くし、その心は神と1つとなり、常に神の側に立つことができます。これは真理を持っている救われた人の側です。彼らの人間らしい側面は、彼らが神の愛に報いることを知っており、創造された者として忠実に本分を尽くすことができ、そして彼らの能力を使い、できることすべてをして本分を尽くします。加えて、彼らは他の人達と正常な関係を築き、ほとんどの人々と正常に共存することができ、仲良くし、正直に話し、知恵を持って物事を行うことができます。それは彼らの人間らしい側面です。これらの2つの方法で行動する人は、真理と人間性を持つ人々です。人間らしい側面を持つ人々は高尚に見えないかもしれないし、特定の知識や経験を持っていないかもしれませんが、真理を得ているので、正常な人間性を持っています。真理を本当に理解している人は、正常な人間性を持っています。外からは、そのような人は目立たず、特別に見えないかもしれません。彼らはごく普通で、平凡で、目立たないよう思うかもしれませんが、真理のない人々は、彼らを見抜くことができません。真理を備えている人だけが、この人の生活を観察することを通して、この人が違うということを最後に言うことができるでしょう。彼らは彼らの中に真理を持ち、原則を持ち、最大限の知恵を使って物事を行います。さらに、彼らの正常な人間性は、シンプルで、正直で、そして開かれているので、彼らと仲良くすることを極めて簡単にします。そのような人と交流する機会のある人は誰でも、彼らは善良な人だと思うでしょう。このような善良な人々はもうあまり多くいません。彼らは非常にまれです。そのような人は、悪い意図を持たず、不正を一切行いません。あなたがこの人と一緒に時間を過ごすとき、彼らは賢く、あなたに対して原則に従った行動を取っているように思われるかもしれませんが、彼らはあなたを傷つけることはなく、ましてやあなたを騙すこともないでしょう。これは真理を得て、人間性を有する人が真に親切で、正直な人であることを証明するには十分です。それが救われた人です。

『いのちの成長に関する説教と交わりクラシック・セレクション』の「救われて完全にされるために入るべき神の言葉に関する10の現実」より

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