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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの区別

4.真理の道と偽りの道、真の教会と偽の教会の違いをどのように見分けることができるか

関連する神の言葉

真理の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真理の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。…もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。あなた方は長年神を信じてきたが、それでも真理の道と偽りの道との違いを判別し、真理の道を探求するための原則についてほんの僅かの知識さえない。ほとんどの人々は、こうした事がらに興味を持ちさえしない。そういう人々は、ただ大多数が行く方へ行き、多数派の言うことを繰り返しているだけだ。どうしてこれが真理の道を探している者だと言えようか。どうして、そうした人々が真理の道を見いだせよう。もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。現在において、その流れの中にいる者が協力出来ず、神に要求された通りに真理を実践出来ないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。…しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな業における要求では無く、ましてや神との協力などでは無い。神の新たな業を受け容れない者には神の存在が欠落し、その上神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の業の過去における要求に固執している。その要求は教義であり、真理ではない。そうした教義や規律は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選民でも神の業の対象でも無い。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようが無く、教会とは呼べない。これは変えようの無い事実である。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。…人間がある段階に停滞するならば、それは人間が神の業や新たな光に遅れずにいることが出来ないことを証明する。それは神の経営計画が変化していないことを証明するものでは無い。聖霊の流れの外部に居る者は、常に自分達が正しいと考えるが、実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。神の経営は常に進行しており、人間の実践は常に高度化し続けている。神は常に業を行っており、常に人間が必要とされているので、神と人間の両者が絶頂に達し、完全に団結している。これは神の業の成果の表れであり、神の経営全体の成果である。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

人の交流

真の道とは、人々を救い、人々を変え、神の承認を得て真の終着点に導いてくれる道のことです。これのみが真の道です。真の道を信じている人々がこの様な目的と結果を得ることができてないとしたら、その人達の道は間違っている、それは真の道ではないと言えるでしょう。「ポジティブとネガティブの違いはどうすれば見極めることができるのですか」と聞く人がいます。神の言葉に従うことで、見極めることができます。神が承認されるもの、人が持つように神が要求されるもの、人が行うことを神が好まれるものは全てポジティブなものです。神が人々に受けつけずに捨てることを要求されるもの、神が非難されるものは全てネガティブなものです。ポジティブとネガティブの評価はこのように神の言葉により判断できます。神の言葉は物事の真偽を確認するための試金石であり、それを決める唯一の基準です。どの道が真で、どの道が偽なのかはどうすれは判断できるでしょうか。真の人生をもたらす道、光を見させてくれる道、堕落とサタンの影響を払拭させてくれる道、神の承認と祝福を授からせてくれる道――これらは真の道です。これを正しいと思いませんか。神の裁きと刑罰は私達に何をもたらしてくださったのでしょう。それは、堕落した人々が神にお救いいただくために抱く必要のある真理をもたらし、人生の真の道へと導き、人生の光を見えるようにしてくださいました。神がこの世界を創造した時に起こるべくと定められた最も偉大かつ真の救いをお与えくださいました。そして、サタンに汚され、サタンに属していた私達を、神によって真に清められ、真理と人間味のある真の人へと変えてくださいました。これら全てが神の裁き、刑罰、神の終わりの日における働きによって現実となるのです。神の裁きと刑罰を受けられなければ、私達は真理を得られず、私達の堕落は解決できず、私達は決して人生の光を見ることができず、そして、決して神の承認を得ることができません。それ故に、今日、私達が授かった祝福の全ては、神の裁きと刑罰を受け、それに従った結果だと言えるのです。

…………

「これが真の道というのなら、どうしてその道を生きる人がこんなに少ないのですか。これが真の道であるのなら、信者が沢山いるはずなのではありませんか。人類全てがそれを信仰しているべきではありませんか。」と言う人がいますが、このような発言をする人は真理を理解できていません。半盲であります。人類全ての堕落はあるレベルに達しています。真理を愛する人は減りつつあり、個々の利益を追求する人が増えつつあります。この人達は何を信じるにしろ、自分達の利益を先ず確認します。これは、真の道を信じる人の数は確実に少なくなり、偽の道、すなわち、恵みと利益を提供する道を信じる人の数は確実に増えていくことを意味しています。私の説明を聞いていただければ、問題の本質を見抜くことができるようになるでしょう。私達の信仰の仕方では人々を癒したり、人々の腹をパンで満たしたり、恵みを与えたり、悪魔を払拭することはできません。しかし、いかなる災いが降りかかろうとも信者達は滅びない、ということを私達の信仰の仕方に結びつけることができれば、世界中の万人がそれを信じるようになるのです。これは今日の私達の信仰の仕方に含まれていません。 神は、「全能神に誓って信仰する者は誰も滅びないことを保証する」とは言っていません。したがい、福音の伝道をする時、あなたは慎重になってしまうのです。人はこういうことを言います、「全能神を信じれば、私は死ななくて済むのですか。」「それは分かりません。」「私が死ぬのを止められないなら、神を信じる意味がない。」また、こんなことも言います、「全能神を信じて何を得ることができますか。」「真理を得ることができます。」「真理を得て何が得られるんですか。」「生き残ることができます。」「それを見た人はいますか。誰が保証してくれるんですか。真理を得るってどういう意味ですか。」「私には分かりません。」「そんなこと信じられませんよ。」といった感じで、真理を愛する人があまりにも少ないため、全能神に対する証言をし、伝道するのが難しいのです。これが現状です。しかし、全能神の働きを受け入れた後は、もっと信じれば信じるほど、それが真実であるともっと感じられるようになり、信仰がより強くなっていくのです。それは何故でしょうか。これは、真理を理解することによる効果だからです。真理をもっと理解できれば、それが真の道であり、神の働きであるともっと感じられるようになるのです。真理をもっと理解することができれば、「ああ、神がこのように人をお救いになるのは正に真実であり、真理を理解することが自分を救ってくれる、自分の性質を変えてくれる、真の人間にしてくれる、そして正常な人間性としての真の人生を生きれるようにしてくれる、だからそれは意味のある事なんだ」そう自分に向ってもっと言えるようになるのです。 真理を得ることは、いかなる利益、もしくは病人を癒すことや人々の腹をパンで満たすことよりも有意義で、価値があり、貴重なことだと感じられるようになるのです。その結果、何年か全能神を信仰し続けた人は、何らかの恵みを手にしていたとしても、そのいずれに何の貴重さもない、そして真理を得ることのみが貴重であると感じるようになり、真の道を目にすることになるのです。考えてみてください、全能神を信じる人に逃げ出す人はいますか。真理を求めていなかったとしても、数年間も伝道に耳を傾けていた人が信仰を止めてしまうことがありますか。そんな人はいません。それはどうしてでしょうか。その人達は、「これが真の道である。一生懸命働いて、自分の本分をしっかりと尽くしていれば、自分が生き残れる可能性は非常に高い。死に至る可能性は非常に低い。死なないということはとても貴重である。」と言う事を分かっているからです。今日、人々は、死から免れるために何をすればいいのかを知りません。それを知ったとたんに、人々は信者となり、強い信仰心を持つようになります。

兄弟の交わりより

宗教団体が全体的に敵意を持ってこれに反対していなかったら、これは真の道ではありません。真の道は大多数の人々が、もっと言えば、世界が反対していなければいけない、ということを覚えておいてください。主イエス・キリストが働き、説教するために初めて現れた時、ユダヤ教全体が神に反抗しましたよね。神が新たな働きに着手する度、神の働きが人々の観念と一致しておらず、それを否定するものであるため、堕落した人々はそれを受け入れることができないのです。人々は霊的領域を理解する能力に欠けており、それを見抜くことができません。聖霊の働きがなければ、この人達は真の道を受け入れることができません。それが神の働きであると信じられていても、宗教団体から反対されていない、かつ世界からの反抗と敵意を向けられていないのであれば、この神の働きは虚偽であると証明していることになります。人類はどうして真理を受け入れられないのでしょうか。第一に、人は肉にあり、物理的物質であるからです。物理的な者は霊的領域を見抜くことができません。「霊的領域を見抜けない」とはどういう意味でしょうか。それは霊そのもの、霊と霊的領域の行いが見えない、神のすることや話すことに気付けないことを意味します。人々は霊的領域では盲目なのです。物理的世界で目を閉じれば、何も見えなくなります。目を開いた時、何が見えますか。物理的な世界が見えます。 どの霊が人の内でどのような働きをしているか見えますか。神の霊が何をするために、何を話すために来たのかが見えますか。見えませんよね。神の声が聞こえたり、書物に書かれた神の言葉を読むことはできても、神がこれらの言葉をどうやって、いつ話したのかは分かりませんよね。神の声が聞こえても、それがどこから来るのかは分からないのです。紙に書かれた神の言葉を見ても、その意味は分かりません。人々は霊的領域を見抜くことや、神の言葉の原点を把握することができません。よって、人々は、そのために、聖霊の啓示や光を受けることと、聖霊の働きを必要とするのです。第二に、人々は深刻なまでに堕落しており、心の中はサタンの無数の毒と無数の知識で満たされています。サタンの様々な哲学と知識ですべてを評価していたのでは、真理が何なのかをはっきりさせることは決してできません。人は、聖霊の啓示と光を受けずして、真理を理解することはできないのです。堕落した人類は、本能的に霊的領域を見抜く能力を持ち合わせていません。人類はサタンの哲学と知識で満たされていて、真理を見い出すことができません。そのため、真の道は必然的に人類から迫害と拒絶を受けてしまうのです。人々はなぜ、サタンの知識と哲学をいとも簡単に受け入れてしまうのでしょうか。第一に、それは、それぞれの肉的な観念と関心に一致している、そしてそれぞれの肉にとって益であるということがあります。彼らは自分達に「こういった知識を受け入れることは自分のためになる。それは自分を昇格させてくれる。成功させてくれる。目標を達成させてくれる。この知識があれば、人が自分を尊敬する。」と言います、人々にとって益となるということが彼らの観念と一致していることが分かります。……これ程までに堕落してしまい霊的領域を見抜けない人々は、神に反抗することしかできないのです。ですから、神の働きの到来は人々からの拒絶、反対、そして非難を受けてしまうのです。しかし、これは予想範囲内ではないでしょうか。神の働きの到来が世界と人類によって非難され、反対されていなければ、それは真理でないということを証明してしまいます。もし神の言葉全てが人々の観念と一致していれば、人々はそれを非難するでしょうか。反対するでしょうか。もちろんしないでしょう。

「福音宣教に関する兄弟による交わりと説教」より

聖霊の働きを得ている教会のみが神の教会であり、真理を追い求めて神の働きに従う人々がいる教会のみが、聖霊の働きを得ている教会になることができます。神は聖霊の働きを持つ教会をお認めになり、聖霊の働きを持たない教会はお認めになりません。神に選ばれし者はこれを理解しておく必要があります。

…………

真の教会は神を心から信じて、真理を愛する人々から成り、それは神を畏れる信者全員の集まりなのです。これが揃って初めて教会と呼ぶことができます……神から予め運命づけられ、選ばれ、そして聖霊の働きを得ている人々が集まった場所のみが教会なのです。

『全能神教会の働きにおける采配の紀要選集』の「各地区の教会間の混乱にどうアプローチし解決するか」より

教会は、神から予め真に運命づけられ、選ばれた人々から成ります。教会は真理を愛し、真理を追い求め、聖霊の働きを得る人々で構成されています。これらの人々が神の言葉を飲食するために、教会生活を送り、神の働きを受け、それぞれが神の創造物としての本分を尽くすために集まった時に初めて教会となるのです。集団が本当に神を信じていると言っても、真理を愛さずに、追い求めることもなく、聖霊の働きを得ずに宗教儀式を行い、祈りを捧げ、神の言葉を読んでいたとしても、それは教会ではありません。もっと詳しく言うと、聖霊の働きを持たない教会は教会ではありません。単なる宗教的活動の場であり、その人々も宗教的儀式を行っているに過ぎないのです。神に真の形で従い、神の働きを受けている人々ではありません。

…………

教会は神を真の形で信仰し、真理を追い求める人々の集まりであり、邪悪な心を持つ人は決して含みません。そのような者は教会には属しません。真理を追い求めていない、真理を実践するために何も行っていないといった人々が集まっても、それを教会と言えるでしょうか。それは一体何なのでしょう。それは単なる宗教的活動の場、もしくは集団に過ぎません。教会は、神を真の形で信仰し、真理を求め、神の言葉を飲食し、神を礼拝し、本分を尽くし、神の働きを受け、聖霊の働きを得た人々で構成されている必要があります。これのみが教会だからです。したがい、教会を判断する時、先ずはそこに属する人々を見る必要があります。第二に、その人達が聖霊の働きを得ているかどうかを見なければいけません。その人々の集会に聖霊の働きが宿っていないのなら、それは教会ではありません。真理を追い求める人々の集まりでないのなら、教会ではありません。真理を真の形で求める人が一人もおらず、聖霊の働きが全く宿っていない教会に、真理を求めようとする人がいて、その人がその様な教会に留まるとしたら、その人は救われると思いますか。救われません。その人は出来るだけ早くにその集団を離れ、教会を探すべきです。もし、教会の中に、真理を追い求める人が3人もしくは5人いて、30人もしくは50人の集団がいるとしたら、神を真の形で信仰し、真理を追い求めている3人もしくは5人は共に協力し合うべきです。その人達が集まれば、その集会は教会なのです。最も信者の数が少ないとしても、それは純粋な教会です。

兄弟の交わりより

神を信じる人は沢山いますが、その人々は大聖堂を礼拝したり、良く知りもしない牧師を信頼したりしています。結果的に、長年に渡って神を信仰したにも関わらず、その人々は依然として真理を理解できていなかったり、現実に入っていなかったりするのです。宗教的思想と宗教儀式、宗教的習慣をいくつか学んだだけで、神を真の意味で知ることができていない状態なのです。結果として、いのちの性質における変化が全く起きていません。その様な宗教団体のリーダーや牧師達が人生を通して神を信仰し、神の教えを説いても、その中に神を真の意味で解っている者、もしくは神を畏れる心を持っている者が一人もいないのは無理もありません。その者達はまるで、全力でキリストに反抗し、真の道を非難し、自分達の地位と生活を確保するために神が選ばれた人々を誘惑して操ろうとした、遠い昔のパリサイ人と変わりません。この者達が神の信者達をとても愛し、大切にしているようなイメージを醸し出しているのは、単に自分達の生活を守るためなのです。ビジネスマンが金を稼ぎ、金持ちになるために客を神の様に扱うのと全く同じです。宗教団体が行うことのすべては神に対する反抗の現れです。それは単なる宗教儀式であり、真理の真実は微塵も含んでいません。まして聖霊の働きのしるしなどはなおさらです。明らかに、宗教団体は真の神を礼拝しておらず、漠然とした架空の神を礼拝しているだけなのです。それは宗教的思想と聖書の文字通りの意味を説いているだけで、聖霊の啓示と光を完全に欠いています。したがい、宗教団体は根本的に人々を神の前へと導くことができないのです。人々を神を信仰する正しい道へと導くことができず、更には、人々を真理の真実に導くことや、救われるようにすることができないのです。これは、そのリーダーや牧師達が神の働きを受けながら、聖霊によって完全にされることも、創り上げられることもなく、代わりに、神学校を卒業し、卒業証書を手にした後、宗教団体のリーダーおよび牧師になってしまっていることが理由です。彼らは聖霊の働きと承認を受けていないだけでなく、神に関する真の認識を全く持っておらず、神学的な知識と学説しか語ることができないのです。 彼らは実際に何も経験していません。このような人々は神に遣われるに全くふさわしくありません。このような者達がどのようにして人々を神の前に導けるというのでしょうか。彼らは傲慢にも神学校から卒業したことを資格保持者であることの証拠として提示し、できる限りのことをして聖書に関する知識を誇示しようとします。彼らは耐え難い程に傲慢です。このため、彼らは神から罪に定められ、忌み嫌われ、聖霊の働きを失っています。これを疑う余地はありません。なぜ宗教団体がキリストの不倶戴天の敵となったのかは示唆に富む疑問です。恵みの時代にユダヤ教がイエス・キリストを十字架に釘で磔にしたことは何を示していると思いますか。終わりの日における神の国の時代に、宗教団体は団結し、終わりの日における神の働きに反対、非難するために全力を注ぎました。終わりの日に肉となったキリストを否定し、拒絶しました。肉となった神と神の教会に対して色々なうわさを捏造し、攻撃し、中傷し、冒涜しました。この者達が戻って来られたイエスを、終わりの日のキリストを、十字架に釘で磔にしてから長い年月が経ちました。これは、宗教団体がずっと前から、神に敵対し逆らうサタンの力に屈し、成り下がって行ったことを証明しています。宗教団体は神が支配するものではありません。まして真理が支配するものでもありません。それは堕落した人々、もっと言うなら、反キリストによって完全に支配されています。

人はこの様な宗教的活動の場、いわゆるサタンに属す、悪魔と反キリストに支配、管理されている様な場所で神を信仰していても、宗教的思想を理解することしかできない、宗教的儀式と規制に従うことしかできません。彼らは決して真理を理解することも、神の働きを受けることもできず、救われることなど完全に不可能です。これは絶対確実です。宗教的活動の場には聖霊の働きが全く宿っていないからです。このような場所は神から見下され、忌み嫌われ、非難され、そして呪われます。神は決して宗教をお認めになりません。ましてや称賛されることなどありません。宗教団体はイエスの生きた時代からずっと神に罪定められてきました。それ故に、神を信仰するならば、聖霊の働きが宿っている場所を探す必要があるのです。その場所のみが真の教会であり、真の教会でのみ神の言葉を耳にすることが可能であり、神の働きの形跡を発見することができます。これこそが、神を探し求める方法です。

『説教集――いのちの供給』の「真理の純粋な理解により得られる結果」より

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