質問 3:教会の集会で牧師や長老がよく「すべてが終わった」という十字架の主の言葉は人類救済の働きは終わったということで、主イエスを信じ主の御前で罪を告白すれば赦され、罪人としてみなされないと言うのです。信仰さえしていれば、お恵みによって救われ、主がお見えになった時に天国に受け入れてくださるので、人類救済のために主がお見えになる必要はないと。でもこれは間違っているように思えて、でも十字架で主が言われた「すべてが終わった」とは何を意味するのですか? 終わりの日に神様が再び戻られ真理を語り人間を清めるため裁きをする必要があるのか?
回答:十字架で「すべてが終わった」と主が言われたのはどういうことか。贖いの働きが終わったのか人類を救う働きが終わったのか、当時の人に理解できたと思いますか? 誰にも理解できなかったでしょう。主イエスが言われたのは「すべてが終わった」だけで、人類救済の働きが終わったとはおっしゃっていません。「すべてが終わった」という意味は人間には理解できないでしょう。主の御言葉を自分勝手に説明したり独断的な解釈はできません。主イエスの言葉を人がやみくもに解釈しただけです。主イエスが人類救済の働きが「すべてが終わった」と言われたのだとすると、何故主はこう預言したのでしょう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。この聖句をどのように理解しますか? ヨハネによる福音書第12章47節から48節の「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」。主は再び戻り、真理と裁きの働きをするとはっきり言われています。他の預言にもあります。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。牧師や長老の言うように、主イエスが十字架に掛けられたことで人類救済が終わったのなら、主イエスの預言、「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」はどう成就するのですか? 真理を示し裁きの働きをするために戻ると預言されていませんか? 牧師や長老の言う事は主イエスの言葉や神様の働きの現実にそぐわないのです。主イエスがされたのは贖いの働きだけなのです。主イエスを受け入れ罪を告白して懺悔すれば、赦されて主にお祈りできてお恵みを受けられます。罪を犯しても律法によって裁かれません。これが主イエスの贖いの働きの成果です。本当の意味での「他力本願」でしょう。主イエスの働きで成し遂げられた事から、主イエスは贖いの働きをされただけということが確認できます。人を裁き清め完全にする終わりの日の働きでなかったのは、主を信仰すれば罪は許され重大な罪も犯さずに礼儀正しくしていても、罪と完全に無縁になったわけではなく、純粋な救われた魂にはなっていないでしょう? まだ頻繁に嘘をついたり罪を犯すことはありませんか? 欲深くよこしまな考えを持っていませんか? 人を羨んだり嫌ったりしませんか? 私たちの心は傲慢で計略に満ちていませんか? 世俗的な流行を追い富を欲し名声を得ようとしていませんか? 中国共産党に逮捕され迫害されると神様のせいにして神様を否定する調書を書き神様を裏切る者もいて、とりわけ全能神の終わりの日の真理と裁きの働きについては自分勝手な思い込みと想像だけで、神様の働きに勝手な判断をしたりしていませんか。主の信仰では罪を赦されるというだけで私たちはまだサタンの本質と性情を持ったままです。それが罪を犯し神様に逆らう原因なのです。この罪深い本質が消えなければ神様に逆らい裏切り敵だとさえ考えてしまい、天国に入る資格はなくなるのでは? 主イエスの「すべてが終わった」という意味は神様の贖いの働きが終わったということで、人類救済の働きが終わったと言うことではないのです。終わりの日に受肉された全能神は全ての真理を示し、神の家から始まる裁きの御働きをするためお見えになり、人を清め全てを救い罪を犯してしまう原因を取り除き、罪深さから人を解放し清めて救い神様の国に招くのです。全能神の言葉をもう少し読むとより明確に理解できるでしょう。
全能神は言われます。「あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである」(「呼び名と身分について」『言葉は肉において現れる』)
「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」『言葉は肉において現れる』)
「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(「序文」『言葉は肉において現れる』)
「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)
「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである」(「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」『言葉は肉において現れる』)
「終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる」(「神の働きのビジョン(3)」『言葉は肉において現れる』)
「刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である」(「神と人は共に安息に入る」『言葉は肉において現れる』)
全能神は終わりの日の神様の裁きの働きで得られるものの重大さを明確にして、終わりの日の神様の裁きの働きは人類を清め救うためであることがわかります。主イエスの贖いの働きは終わりの日の神様の裁きの働きの基礎を築き、主イエスの贖いの働きをもとに全能神が裁きと清めをされ人類を罪から救い神様の国へ招くのです。神様の働きは実践的でしょう? 主イエスの贖いの働きのみ受け入れ、終わりの日の神様の裁きと清めの働きを受け入れなければ、神様の国へ入る資格はないでしょう? 神様の信仰では御働きを理解する必要があるようで、それはとても重要な事なのです! 教会の人々はまだ信仰のみによって救われると信じ、主を信じれば罪を赦され問題も全て解決すると信じ込み、主の憐れみと愛でどんな罪も赦してもらい再臨された時は天国に招かれると思い込んでいます。だから、終わりの日の全能神の裁きの働きを拒むのですが、どうなるでしょう? この人達は神様の御働きや神様の正義の性情を理解していますか? 神様に反抗して逆らう悪に属する者を神様が国に入れると言うのですか? 有り得ません! このような者が神様の国に入るとどうなると思いますか? 例を挙げてみましょう。ヤーウェ神を信じるイスラエル人が神様の国に入るとどうなると思いますか? 神様の受肉である主イエスを受け入れず、主イエスをあらん限り非難し十字架に付けました。これが悪魔に属する神様に逆らう者で神様の国に入っても神様に逆らい続けると思いますか? 反乱を起こし主の王位を奪おうとするのでは? なぜ主イエスはユダヤ教会で説教しなかったのですか? ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人が悪そのもので、何をしでかすかわからなかったからです。主イエスが囚われ鞭打たれののしられつばを吐きかけられ、ローマ政府に引き渡され磔にされましたね。主イエスはその者達はヘビの同族だとご存知だったので、ユダヤ教会には行かなかったのです。終わりの日に主イエスは戻られたのに、なぜ教会で説教しないのでしょう? それは教会の指導者達が極悪非道で受肉した全能神が教会へ来ようものなら、警察に連絡し全能神を絶対に中国共産党に引渡そうとするそうでしょう? 教会で公然と全能神の証しができますか? そんな所で全能神の証しをしようものなら、非難され侮辱され公安局に引き渡されるでしょうというわけで、今の教会は昔のユダヤ教会と同じで神様を拒み逆らい非難する場所なのです違いますか? 人類がいかに堕落しているかという例で真理に飽きて忌み嫌い、神様の再臨を拒みサタンと同類の者となり神様と対立します。終わりの日に神様が真理を示し、人を裁き清めるために受肉しなかったら、人類は神様に逆らった咎で神様に滅ぼされていたでしょう。
映画『邪魔しないで』より引用