第1節 神の権威について

529. 広大な宇宙と天空において、数えきれない被造物が生き、再生し、生命の周期の法則に従い、一つの不変の規則を守っている。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。……数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学は、ささやかな肉の欲求の充足と、つかの間の肉の楽しみを与えるが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類はただ心を麻痺させるために、肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いている。しかしそのような科学的知識は、人類が奥義を探ることを止めるのに十分ではない。人類は、宇宙と万物の支配者が誰であるかをまったく知らないし、ましてや人類の始まりも未来も知らない。人類はこの法則の中で否応なしにただ生きている。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。彼は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。彼は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは彼である。彼の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは彼の業の具現であり、その一つひとつが彼の知恵と権威とを明らかにしている。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。彼の業と力の前に人類は、彼が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

530. 万物の創造が始まった時から、神の力が表わされ、明らかになり始めました。なぜなら、神は言葉を用いて万物を創ったからです。神が万物をどのように創造したか、なぜ創造したかを問わず、万物は神の言葉のために出現し、しっかり立ち、存在しました。これが、創造主だけがもつ権威なのです。人類がこの世界に出現する前、創造主は自身の力と権威を用いて人類のために万物を創り、独自の方法を用いて人類に適した生存環境を整えました。神が行なったことはどれも人類のための準備であり、やがて人類は神の息を授かることになります。つまり、人類が創られるのに先立ち、天、光、海、地などの大きいもの、動物や鳥などの小さなもの、そして各種の昆虫や、肉眼では見えない様々なバクテリアを含めた微生物など、人間とは異なるすべての被造物の中に、神の権威が示されたのです。それらはどれも創造主の言葉によっていのちを与えられ、創造主の言葉のために繁殖し、創造主の支配の下で生きました。それらの被造物は創造主の息こそ受け取らなかったものの、創造主から授かったいのちの活力を自身の様々な形や構造を通じて示しました。またそれらは、創造主が人類に与えた話す能力を受け取りませんでしたが、創造主から授かったいのちを表現する方法を受け取っており、それは人間の言語とは異なるものでした。創造主の権威は、一見静止している物体にいのちの活力を与え、それらが決して消え去らないようにしますが、それと同時にあらゆる生物に生殖本能を与え、それらが決して絶滅せず、創造主から授けられた生存法則や生存の原則を、世代を超えて受け継ぐようにします。創造主が自身の権威を行使する際の様式は、巨視的視点や微視的視点に厳密に従うものではなく、またいかなる形態にも限定されていません。創造主は宇宙の活動を指揮し、万物の生死を支配し、そしてさらに、万物を操作して自身に仕えさせることができます。また、山や川や湖の活動を一つ残らず管理し、そこにあるすべてのものを支配することができるだけでなく、万物が必要とするものを施すこともできるのです。これが、人類以外の万物に対する、創造主だけがもつ権威の現われです。こうした現われは生涯にわたって続くだけでなく、終わることも中断することもなく、いかなる人や物によっても変えられたり、損なわれたり、加減されたりすることもありません。と言うのも、創造主の身分に取って代われるものは存在せず、したがって創造主の権威に取って代われる被造物も存在しないからです。それはいかなる被造物にも不可能なことなのです。神の使いと天使を例にとりましょう。彼らは神の力を有しておらず、ましてや創造主の権威などもっていません。彼らに神の力と権威がないのは、創造主の本質がないからです。神の使いや天使をはじめとする被造物以外の存在は、神に代わってある程度のことを行なえるものの、神を代表することはできません。人間にはない力があっても、神の権威はありません。つまり、万物を創造し、万物に支配し、万物を統治する神の権威はないのです。したがって、被造物以外のどんな存在も神の独自性に取って代わることはできず、また同様に、神の権威と力に取って代わることもできません。神の使いが万物を創造したという話を、あなたは聖書で読んだことがありますか。神が使いや天使を遣わして万物を創らせなかったのはなぜですか。それは、神の権威が彼らにはなく、ゆえに神の権威を行使する能力がなかったからです。あらゆる被造物と同じく、彼らもまた創造主の支配と権威の下にあり、それと同様に、創造主は彼らにとっても神であり、主権者であるのです。高貴であるか卑しいか、力が強いか弱いかを問わず、神の使いや天使の中に神の権威を超えられるものはおらず、したがって、創造主の身分に取って代われるものもいません。彼らが神と呼ばれることは決してなく、創造主になることもできません。これは変えることのできない真理であり、事実なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

531. 自ら創った万物が出現し、自らの言葉によってしっかり立ち、徐々に変化し始めるのを神は見ていました。この時、自身の言葉によって創造した様々なものや、自身が成し遂げた様々な業について、神は満足していたでしょうか。その答えは、「神は見て、良しとされた」です。ここから何がわかりますか。「神は見て、良しとされた」というのは、何を示し、何を象徴するものですか。その言葉は、自身が計画したことや命令したことを実現させ、自身が成し遂げようと決めた目的を達成する力と知恵が神にはある、ということを意味しています。一つひとつの作業を完了させた時、神は後悔していましたか。その答えも、「神は見て、良しとされた」です。つまり、神は後悔していなかっただけでなく、むしろ満足していた、ということです。神は後悔していなかったとは、どのような意味ですか。それは、神の計画、力、知恵が完璧であること、そしてこうした完璧さは、神の権威によってしか成し遂げられないことを意味しています。人間が作業を行なう時、その人は神と同じく、それを見て良しとすることができるでしょうか。人間の行なう一切のことが完璧になり得るでしょうか。何かを未来永劫完璧なものにすることはできるでしょうか。人間が言うように、「完璧は有り得ず、より優れているに過ぎない」のであって、人間の行なうことが完璧なものになることはあり得ません。自身が行ない、成し遂げたすべてのことについて、神が良いと判断した場合、神が創造した一切のものは神の言葉によって定められたことになります。つまり、「神は見て、良しとされた」とき、神が創ったすべてのものは永久的な形をもち、種類ごとに分類され、永久不変の位置、目的、機能を与えられたのです。さらに、万物の間におけるそれらの役割と、神による万物の経営の中でそれらが辿る旅路は、すでに神によって定められていたのであり、永遠に変わることがありません。これが、創造主によって万物に与えられた天の法則だったのです。

「神は見て、良しとされた」。簡潔であり、それほど重視されず、往々にして無視されてきたこの言葉は、神がすべての生物に授けた天の法則と天の命令であり、これもまた、創造主の権威をより実践的に、より深く具体化するものです。創造主は自身の言葉によって、得ようと決めたすべてのものを得て、成し遂げようと決めたすべてのことを成し遂げられただけでなく、自ら創造した一切のものをその手中に収め、自身の権威で創ったすべての物を支配することもできました。そしてさらに、すべては系統的かつ規則的でした。万物は神の言葉によって増え、存在し、そして消滅し、またそれ以上に、神の権威によって、神が定めた法則の中に存在していました。そこに例外はなかったのです。この法則は「神はこれを見て、良しとされた」瞬間に始まり、神の経営(救いの)計画のため、それが創造主によって廃止されるまで存続して機能します。創造主に特有の権威は、万物を創造し、万物が現われるように命令する自らの能力にだけ示されるのでなく、万物を支配、統治する能力、万物にいのちと活力を授ける能力、そしてさらに、自身の計画の中で創造する万物が、完璧な形、完璧な生命構造、および完璧な役割で、自ら創った世界に現われ、永遠に存在するようにさせる能力においても示されました。それはまた、創造主の考えがいかなる制約にも縛られず、時間、空間、および地理的条件の制約を受けないことの中にも示されました。創造主に特有の身分も自身の権威と同じく、永遠に変わることがありません。創造主の権威は自身に特有の身分を絶えず表わし、象徴するのであって、創造主の権威と身分は隣り合って永遠に共存するのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

532. 神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にある。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

533. 宇宙、すなわち、天界のありとあらゆる惑星と星は、人間が出現する前に、既に存在していました。マクロレベルでは、こうした天体は、神の支配下で、誕生してからどれだけの年月が過ぎようと一度も変化することなく、軌道を規則的に回り続けてきました。どの惑星が、いつどこに移動するか、どの惑星がいつどのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星がいつ消滅するか、あるいはいつ置換されるかなどといった事柄が、すべて寸分の狂いもなく進行しています。惑星の位置や惑星同士の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで表すことができます。惑星が移動する経路、軌道の一周における速度と規則性、特定の位置に到達する時刻、これらすべてを正確に数値化し、特定の法則で表すことができます。数十億年にわたり、惑星は、少しも逸脱することなく、これらの法則に従ってきました。どのような力をもってしても、惑星の軌道や、惑星が従う規則性を変えたり乱したりすることはできません。惑星の運動を律する特定の法則と、それを表す正確なデータは、創造主の権威により運命づけられており、惑星は創造主の統治と支配の下、そうした法則に自然と従います。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして奇異で説明できない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではありません。人間は神が存在することを認めることもなければ、創造主が万物を造り、万物に対する主権を握っているという事実を受け入れることもなく、さらには創造主の権威の存在を認めることもありません。それにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより統治され、支配されているという結論に達することが益々多くなってきています。この事実により、人間は、こうした規則性の中心に並外れた者が存在し、すべてを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっているのです。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることができる人はいないものの、彼は常に全てを統治し、支配しています。彼の主権を超えることができる人や力は存在しません。人間は、こうした事実と向き合う中で、万物の存在を統治する法則は人間が制御できないものであり、誰にも変えられないものであることに気付かねばならず、また、こうした法則は人間が完全に理解できないものであり、自然に発生するものではなく、統治者の命令によるものであることを認めなければなりません。こうした物事は、すべて人間がマクロレベルで認識できる神の権威の表現なのです。

ミクロレベルでは、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、地球上に生息する植物、動物、微生物、人間などの万物は、すべて神の統治と支配の下にあります。神による統治と支配の下においては、万物は神の思いに従って出現し、消滅し、その存在を統治する法則が生まれ、その法則に沿って生長し、繁殖します。これらの法則を超える人間や物事は存在しません。それは何故でしょうか。唯一の答えは、神の権威にあります。言い換えると、それは神の思いと言葉によるものであり、神自らの成せる業によるものなのです。すなわち、こうした法則を生むのは神の権威と心であり、神の思いにより移行し、変化し、そうした移行と変化はすべて神の計画のために発生し、消滅します。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

534. いったん神の言葉が発せられると、神の権威がこの働きを支配し、神の言葉によって約束された事実が次第に現実となってゆきます。その結果、春の到来とともに草が緑色に変わり、花々が咲き、木から芽が出て、鳥たちが歌い始め、ガチョウが舞い戻り、野原に人々が集うといったように、万物に変化が生じ始めます……。春の到来とともに万物は活気を取り戻しますが、それは創造主による奇跡の業です。神が約束を果たす時、天地の万物は神の考えに従い、再び新しくなって変化しますが、そこに例外はありません。神の口から誓いや約束が発せられる時、万物はその実現に寄与し、その実現のために動かされます。そして創造主の支配の下、すべての被造物が指揮され、采配され、それぞれの役割を担い、それぞれの機能を果たすのです。これが創造主の権威の表われです。このことから何がわかりますか。神の権威をどのように知ることができますか。神の権威に範囲はありますか。時間的な制約はありますか。特定の高さや長さがあると言えますか。特定の大きさや強さがあると言えますか。人間の寸法で計測することができますか。神の権威は点いたり消えたりするものでも、行ったり来たりするものでもなく、それがどの程度偉大かを計測できる人もいません。どの程度時間が経過したかを問わず、神がある人を祝福した場合、その祝福は継続し、その継続は神の権威が計り知れないことの証しとなり、創造主がもつ消えることのないいのちの力の再現を、人間が幾度となく目の当たりにすることを可能にします。神の権威が表わされるたび、神の口から発せられた言葉が、万物と人間に対して完全に立証されます。さらに、神の権威によって実現されたすべてのものは比べようもないほど精緻であり、まったく完璧です。神の考え、言葉、権威、そして神が実現させたあらゆる働きは、どれも比類なき美しい光景であり、被造物にとって、その意義と価値を人間の言語で表現することは不可能です。神がある人に約束を行なうとき、その人が暮らす場所、行なうこと、その約束を受け取る前後の背景、そしてその人の生存環境がどれほど変動したかなど、その人にまつわるすべてのことを、神は掌を指すかのごとく知っています。神が言葉を発してからどれほど時間が経過したかにかかわらず、神にとってその言葉はたったいま発せられたようなものです。つまり、神には力があるとともに、人間との約束を残らず追跡し、支配し、実現させる権威があるのです。そしてその約束が何であるか、完全に実現するまでにどの程度の時間を要するか、またその実現が、時間や地理や人種など、どれほどの範囲に影響を及ぼすかを問わず、その約束は実現され、成就するのであって、さらにその実現と成就において、神は努力する必要がまったくありません。それは何を証明していますか。神の権威と力の幅広さは、宇宙全体と人類全体を支配するのに十分だということです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

535. 現在における人類の発展の中で、人間の科学は繁栄していると言えます。また、人間による科学的探求の成果は印象的のひと言で説明できます。人間の能力はかつてないほど高まったと言わなければなりませんが、人類がいまだ成し遂げられない科学的進歩が一つあります。人類は飛行機、航空母艦、原子爆弾などを作り、宇宙空間へと進出し、月面を歩き、インターネットを発明し、ハイテク技術による生活様式の中で暮らすようになりましたが、呼吸する生物を作ることはいまだにできません。あらゆる生物の本能、動物が生きる上での法則、そして生物の生死の循環はどれも人類の科学の力を超えるものであり、それによって操ることはできません。ここで言わなければなりませんが、人間の科学がいかに高度なものへと進化しようと、創造主の考えとは比較にならず、創造主による創造の奇跡や、神の権威の力を解明することは不可能です。地球上には多数の海がありますが、限度を超えて地上へ自由に来ることはありません。なぜなら、神がそれぞれの海の境界を定めたからです。海は神が命じた場所に留まり、神の許しがなければ自由に動き回ることはできません。神の許しがなければ、それぞれの海が侵害し合うことはできず、神がそう述べたときにだけ移動することができ、また海がどこへ移動して留まるかは、神の権威によって定められるのです。

端的に言えば、「神の権威」とは物事が神次第であることを意味します。神には物事をどのように行なうかを決める権利があり、それは神の望む方法で行なわれます。万物の法則は人間次第ではなく神次第であり、人間がそれを変えることはできません。万物の法則は人間の意志で動かせるものではなく、むしろ神の考え、知恵、そして命令によって変えられるものであり、これは誰も否定できない事実です。天と地、万物、宇宙、星空、そして四季など、人間に見えるものも見えないものも、すべては神の権威の下、神の命令と定め、および創造の初めの法則に従い、わずかな間違いもなく存在し、機能し、変化します。それらの法則、あるいはそれらが機能する固有の過程は、いかなる人や物であっても変えることができません。それらは神の権威ゆえに現われ、同じく神の権威ゆえに消滅します。これがまさしく神の権威なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

536. 神の権威はそれ自体が神の力だと説明できます。まず、権威と力はともに肯定的なものだと断言できます。それらは否定的なものと何らつながりがなく、いかなる被造物やそれ以外のものとも関係がありません。神の力は、いのちと活力をもつ、あらゆる形のものを創ることが可能であり、それは神のいのちによって決まっています。神はいのちであり、したがってあらゆる生物の源です。さらに神の権威は、あらゆる生物を神の一言一句に従わせることができます。つまり、あらゆる生物は神の口から発せられた言葉通りに現われ、神の命令によって生き、繁殖し、その後は神があらゆる生物を支配してそれらに命令し、そこからの逸脱は永遠にあり得ないのです。人間や物体にはこれらのものがありません。こうした力は創造主だけが有しており、したがって権威と呼ばれます。これが、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。ゆえに、「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、どちらも神としか関係していません。なぜなら、それは創造主に固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を表わすものだからです。創造主を除き、「権威」という言葉と関連のある人間や物体は存在しません。これが、創造主だけがもつ権威の解釈です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

537. 「わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」とあります。創造主は人類に対してこの通りの言葉を語りました。創造主がこのように語ったところ、人間の眼前に虹が現われ、それは今日に至るまで存在しています。そのような虹は誰でも見たことがあります。では、虹を見たとき、それがどのように現われるか知っていますか。虹がどのように現われるか、どこから現れるか、どこにあるのかは、科学では証明できません。なぜなら、虹は創造主と人間との契約のしるしだからです。虹は科学的根拠を必要とせず、人間によって創られたものではなく、人間が虹を変えることもできません。虹は、言葉を語った後も創造主の権威が続いていることを示すものです。創造主は独自の方法により、自身と人間との契約、および自身の約束を守ったので、自分が立てた契約のしるしとして虹を用いたことは天の法則、天の命令であり、それらは創造主にとっても、被造物である人間にとっても永遠に不変なのです。しかし、この不変の法則は、万物の創造に続く創造主の権威の現われであり、創造主の権威と力は無限であると言わなければなりません。神が虹をしるしとして用いたことは、創造主の権威が継続し、拡張されたことを示すものです。それは神が言葉を用いて行なったもう一つの業であり、神が言葉を用いて人間との間に立てた契約のしるしです。神は人間に対し、自分が何を引き起こすと決めたのか、それをどのような方法で実現するのかを人間に伝えました。このようにして、物事は神の口から出た言葉に従って実現されたのです。神だけがこのような力をもっており、神が言葉を述べてから数千年が経過した現在も、人は神の口から語られた虹を見ることができます。神が発したこの言葉により、虹は現在まで変わることがありませんでした。この虹を消すこと、その法則を変えることができる人はおらず、虹はひとえに神の言葉のために存在しています。これがまさに神の権威です。「神は自身の言葉に忠実であり、神の言葉は実現され、神が実現した物事は永遠に残る」。まさにこの言葉の通りであり、それは神の権威と力の明確なしるしであり、特徴でもあります。このようなしるしや特徴をもつ被造物は存在せず、被造物の中に、あるいはそうでないものの中に、それらが見られることもありません。それらは唯一無二の神だけに属するものであり、創造主だけがもつ身分と本質を、被造物がもつそれと区別するものです。同時に、神自身を除き、被造物であろうとそうでないものであろうと、そのしるしと特徴を超えられるものも存在しません。

神が人間との間に契約を立てたことは極めて重要な業であり、それはまた、人間に事実と自身の旨を伝えるべく、神が用いようとした業でもありました。神はそうするために独自の方法を用いたのであり、つまり特別なしるしを使って人間との間に契約を立て、人間との間に立てた契約の誓いとしたのです。この契約が立てられたのは大事件でしたか。どの程度の大事件だったのですか。この契約がこれほどまでに特別なのは、人と人、組織と組織、国と国との間で立てられたものではなく、創造主と人類全体との間で立てられたものであり、創造主が万物を完全に破壊する日までずっと有効だからです。この契約を執行するのも守るのも創造主です。つまり、人間との間に立てた虹の契約はすべて創造主と人類との対話に基づいて履行され、それは現在も続いているのです。創造主の権威に服し、従い、それを信じ、それが何であるかを認識し、目撃し、讃美する以外、被造物に何ができるでしょうか。このような契約を立てる力をもつものは、唯一の神以外に存在しません。幾度となく出現する虹は、創造主と人類との契約を人間に知らせ、注意を促すものです。創造主と人類との契約が継続的に現われる中で人類に示されるのは、虹でも契約自体でもなく、創造主がもつ不変の権威です。幾度となく出現する虹は、創造主が隠れた場所で行なう驚異的かつ奇跡的な業を示すと同時に、決して色あせず、変わることのない創造主の権威を力強く反映するものなのです。そのことは、創造主だけがもつ権威のもう一つの側面を示すものではないでしょうか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

538. 創世記18章18節「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」を読んで、神の権威を感じとることができますか。創造主の非凡さを感じとることができますか。創造主が至高の存在であることを感じとることができますか。神の言葉に間違いはありません。神がそのような言葉を発するのは、そうなることを確信しているからではなく、そうなることを示しているのでもありません。むしろそれは、神が発する言葉の権威を証明するものであり、神の言葉を実現させる命令なのです。ここで注意すべき表現が二つあります。神が「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」と述べる時、これらの言葉に曖昧な要素はありますか。懸念の要素はありますか。恐怖の要素はありますか。神の発する言葉にある「必ず~となって」「みな~受ける」という語句のために、人間に特有のそうした要素、人間の中にしばしば現われるそうした要素は、創造主とまったく無縁のものです。誰かの幸運を願うときにこのような言葉を使う人はおらず、また強大な国を与えたり、地上の万国があなたにおいて祝福されると約束したりするほど、確信をもって別の誰かを祝福しようとする人もいないはずです。神の言葉が確かであればあるほど、それは何かを証明するものとなります。では、その何かとは何ですか。これらの言葉は、神にそうした権威があること、神の権威がそうした事柄を実現させられること、そしてその実現が不可避であることを証明しています。アブラハムを祝福するにあたって用いたすべての事柄について、神は心の中で何のためらいもなく確信していました。さらに、そのすべては神の言葉に従って実現されることとなり、いかなる力もその実現を変えたり、妨げたり、損なったりすることはできません。他に何が起きたところで、神の言葉が実現されないようにしたり、それに影響を与えたりすることは何であってもできないのです。これがまさに、創造主の口から発せられた言葉がもつ力であり、人間による否定を許さない創造主の権威なのです。これらの言葉を読んでも、いまだに疑いを抱いていますか。これらの言葉は神の口から語られたものであって、神の言葉には力、威厳、そして権威があります。被造物であれそうでないものであれ、このような力と権威を得ることや、事実が必ずや成し遂げられるようにすることは不可能であり、またそれらを超えることもできません。このような語気と口調で人類と対話できるのは創造主だけであり、その約束は空約束でもくだらない戯言でもなく、どのような人間や出来事や物であっても超越できない独自の権威の現われであることが、事実によって証明されているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

539. 神が「大いにあなたの子孫をふやして」と述べたとき、それは神がアブラハムとの間に立てた契約であり、「虹の契約」と同じく永遠に実現されます。それはまた、アブラハムに対する神の約束でもありました。この約束を実現させる資格があるのは神だけであり、実現させることが可能なのも神だけです。人間が信じるかどうか、受け入れるかどうか、どのように見て考えるかを問わず、それはすべて神の言葉に従い、一言一句違わずに実現します。神の言葉が人間の意志や観念の変化によって変わることはなく、人間や出来事や物事の変化のせいで変わることもありません。万物は消え去っても、神の言葉は永遠に存在します。事実、万物が消え去る日こそ、神の言葉が完全に実現されるときなのです。なぜなら、神は創造主であり、創造主の権威と力をもち、万物とあらゆるいのちの力を支配しているからです。神は無から有を生じさせることも、有を無にすることも可能であり、また万物の生から死への変化も支配しています。神にとって、誰かの種を増やすことなど何より簡単だったのです。これは人間にとって、おとぎ話のような空想的なことに聞こえますが、神にとって、自身が行なうと決めたこと、および約束したことは、空想でもおとぎ話でもありません。むしろそれは、神がすでに見た事実であり、必ずや実現されるものなのです。これが理解できますか。アブラハムの子孫が多数いたことは、事実によって証明されていますか。またそれは、どれほど多数ですか。神が述べたように「天の星のように、浜べの砂のように」というほど多数だったのでしょうか。アブラハムの子孫たちは、あらゆる国と地域、世界のいたるところに広まったでしょうか。また、この事実は何によって実現されたものですか。神の言葉の権威により実現されたものですか。神の言葉が語られてから数百年、あるいは数千年の間、それは実現され続け、絶えず事実となり続けました。これが神の言葉の力であり、神の権威の証しです。始めに万物を創造した時、神は「光あれ」と言葉を発し、そこに光がありました。これは極めて迅速に起こり、極めて短時間のうちに実現され、その実現はまったく遅れることがありませんでした。神の言葉の効果は即座に現われるのです。これらはいずれも神の権威を示すものですが、神はアブラハムを祝福した時、自身の権威の本質がもつもう一つの側面を人間が理解できるようにし、同時に創造主の権威が計り知れないことを理解させ、さらには創造主の権威のうち、より現実的かつ精緻な側面を理解させたのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

540. アブラハムとヨブを祝福した後、神はその状態に留まらず、使いを働かせつつ結果がどうなるかを待つだけでもありませんでした。それとは逆に、神が言葉を発するやいなや、万物は神の権威による導きの下、神が意図している働きに従い始め、神が必要とする様々な人や物事が準備されました。つまり、神の口から言葉が発せられたとたん、神の権威がすべての地で行使され始め、神はアブラハムとヨブに対して行なった約束を実現させるべく、方向性を定める一方、実行に移そうとしていた手順や主な段階の一つひとつに必要とされる、適切な計画や準備をも行なったのです。この時、神は使いだけでなく、自身が創造した万物も動かしました。つまり、神の権威が行使された範囲には使いだけでなく万物も含まれており、自身が成し遂げようとしていた働きに従わせるべく、神はそれら万物を動かしたのです。これが、神の権威が行使された具体的な方法でした。あなたがたの中には、神の権威を想像の中でこのように理解している人がいるかもしれません。つまり、神には権威と力があるので、第三の天や一定の場所に留まっていればいいのであって、特定の働きをする必要はなく、神の働きはすべて神の考えの中で完了する、というものです。また、神はアブラハムを祝福したものの、何もする必要がなく、言葉を発するだけで十分だった、と信じる人もいるでしょう。それが現実に起きたことですか。明らかに違います。神には権威と力があるものの、神の権威は真実であり、また現実であり、空虚なものではありません。神の権威と力の信憑性、および現実性は、神による万物の創造と支配、そして神が人間を導き、経営する過程の中で徐々に示され、具体化されるのです。神が人類と万物を支配する際の方法と観点と詳細、神が成し遂げたすべての働き、そして万物に関する神の理解はいずれも、神の権威と力が空虚な言葉ではないことを文字どおり証明しています。神の権威と力は絶えず万物に示され、明らかにされています。このように示され、明らかにされることは、神の権威が実在することを物語っています。なぜなら、神は絶えず自身の権威と力を用いて働きを継続し、万物に命令し、万物を支配しており、天使や神の使いが神の力と権威に取って代わることはできないからです。神はアブラハムとヨブにどのような祝福を与えるかを決めましたが、それは神の下す決定でした。神の使いは自らアブラハムとヨブを訪れましたが、彼らの行動は神の命令を基にしており、神の権威に従うものであって、その使いたちは神の支配下にあったのです。聖書の記録から、神の使いがアブラハムを訪れ、ヤーウェ神自身は何も行なわなかったことが見てとれます。しかし実際のところ、力と権威を本当に行使したのは神自身だけであり、人間がそれを疑うのは許されません。天使や使いには大きな力があり、奇跡を行ない、神から託された物事を実行してきたことをあなたは知っていますが、彼らの行動は神の任務を遂行するためのものに過ぎず、決して神の権威が示されているわけではありません。なぜなら、万物を創造して支配する創造主の権威は、いかなる人や物ももっていないからです。ゆえにいかなる人や物であっても、創造主の権威を行使したり示したりすることはできないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

541. 神は何らかの業を行なうことで、自身の身分を証明することができましたか。神にとってそれは朝飯前、極めて容易なことでした。神はいつでもどこでも何かを行ない、自身の身分と本質を証明することができましたが、神には物事を行なう方法がありました。計画通りに、段階的に行なうのです。神が無闇に何かを行なうことはなく、最適な時期と機会が到来するのを待って、人間に見させる物事、本当に有意義な物事を行なうのです。そのようにして、神は自身の権威と身分を証明しました。では、ラザロの復活は主イエスの身分を証明できたでしょうか。次の聖句の一節を検討しましょう。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は……出てきた」主イエスがこの業を行なったときに言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。するとラザロは墓から出てきましたが、それは主の発したたったひと言で成し遂げられたものです。このとき、主イエスは祭壇を立てることも、それ以外の業を行なうこともありませんでした。そのひと言を述べただけなのです。これは奇跡と呼ぶべきでしょうか。それとも命令と呼ぶべきでしょうか。あるいは何らかの魔術だったのでしょうか。表面上はこれを奇跡と呼ぶことができ、現在の観点から見ても、当然奇跡だと言えるでしょう。しかし、魂を死から呼び戻す類の魔術とは決して考えられず、絶対にいかなる魔法でもありません。この奇跡は創造主の権威を実証する、最も普通かつ些細な証明である、というのが正しいのです。これが神の権威と力です。神には人を死なせたり、その魂を身体から離れさせて冥府へ還らせたり、その他の然るべき場所に戻らせたりする権威があります。人がいつ死ぬか、死後にどこへ向かうかは、いずれも神によって定められます。神はいつでもどこでもその決断を下すことができ、いかなる人間や出来事、物事、空間、および地理的条件の制約を受けません。神は望むことを何でも行なえます。なぜなら、万物とすべての生物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威によって増え、存在し、消滅するからです。神は死者を復活させることができますが、これもまた、神がいつでもどこでも行なえることです。これが、創造主のみがもつ権威です。

主イエスがラザロを死から復活させるといった業を行なったのは、人に関する一切のこと、および人の生死は神によって定められること、またたとえ肉になったとしても、神は依然として目に見える物理的世界を支配するとともに、人には見えない霊的世界をも支配し続けていることについて、人間とサタンに証拠を与えて知らしめるのが目的でした。これは、人に関する一切の事柄がサタンの支配下にないことを、人間とサタンに知らしめるためです。これはまた神の権威の現われ、顕現であり、人類の生死が神の手中にあることを万物に伝える手段でもあるのです。主イエスによるラザロの復活は、創造主が人類を教え導く手段の一つでした。これは、神が自身の力と権威を使って人類を指導し、彼らに糧を施す具体的な行動だったのです。また、創造主が万物を支配しているという真理を、言葉を用いることなく、人類が理解できるようにするための手段でもありました。さらに、神による以外に救いは存在しないことを、実際の業を通じて人類に伝える手段でもありました。神が人類を教え導くこの無言の手段は永続的なものであり、消えることがなく、決して色あせない衝撃と啓示を人間の心にもたらします。ラザロの復活は神を讃えるものであり、神に付き従うすべての人に大きな衝撃を与えます。それにより、この出来事を深く理解するすべての人に、神だけが人類の生死を支配できるという認識、そしてビジョンが固く定着します。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

542. 産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の責務を果たし始める。神の計画と定めの中で自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

543. 人の出生が人の前世により運命づけられているとすれば、人の死はその運命の終りとなります。人の出生がその人生における使命の始まりであるとすれば、人の死は、その使命の終りとなります。創造主は人の出生の諸条件を定めているので、創造主が人の死についても諸条件を定めていることは言うまでもありません。言い換えれば、偶然生まれる人はおらず、突然訪れる死はなく、出生と死は必然的に人の前世と現世に関連しています。人の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらは人の宿命であり、人の運命です。出生について様々な真相がある以上、人の死も当然ながらそれぞれ特定の諸条件のもとに起こります。これこそが、人の寿命が様々であり、死の経緯や時刻が異なる理由です。強健でも早死にする人もいれば、虚弱でも長生きして安らかに永眠する人もいます。不自然な原因で死ぬ人もいれば、自然な原因で死ぬ人もいます。自宅から遠く離れて死ぬ人もいれば、最後に最愛の人々に看取られながら目を閉じる人もいます。空中で死ぬ人もいれば、地下で死ぬ人もいます。水中に沈む人もいれば、災害の犠牲者となる人もいます。朝死ぬ人もいれば、夜死ぬ人もいます。人は皆、華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望みますが、自分の運命から脱したり、創造主の統治から逃れたりできる人はいません。これが人間の運命というものです。人は将来に向けて様々な計画を立てることができますが、出生と他界の経緯や時期は誰にも計画できません。人々は死を回避し、阻止しようと最大限の努力をしますが、やはり、死は人知れず静かに近付いて来ます。自分がいつどのように死ぬかを知る人はおらず、ましてや何処で死ぬかなど知る人はいません。生死に対する力を握っているのは人間でもなければ自然界の生き物でもなく、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかです。人類の生死は自然界の法則の産物ではなく、創造主の権威による統治の結果です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

544. 神の権威の下では、あらゆる人が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け容れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど歪んだ道を歩んだとしても、結局は創造主が彼らのために定めた運命の軌道に戻ります。これが創造主の権威の凌駕することが不可能であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法です。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が何度も生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を規則正しく変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態による制御と支配です。あなたがたは、こうした事柄のすべてを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解しています。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に対する自分の認識により異なります。真理の現実性をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の本質と性質をどの程度知っているか、これらすべてが、神の統治と采配に対するあなたの理解度を示しています。神の統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているかどうかに依存していますか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するかどうかにより決まるものですか。神の権威は、状況を問わず存在するのです。すべての状況において、神はあらゆる人間の運命と万物を、神の考えと望みに従って支配し、計画します。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変わることがありません。なぜなら、神の権威は、神の本質そのものだからです。人間が神の統治を知って受け容れられるかどうか、そしてそれに服従できるかどうか、神による人間の運命の統治という事実に一切影響しないものです。つまり、神の統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実は絶対に変わることがないのです。たとえあなたが神の統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神の統治を知ることができなくても、神の権威は依然として存在します。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることのないものです。神の権威はあらゆる場所にあり、いつでも、どの瞬間にも存在します。天と地がなくなるとしても、神の権威は決してなくなりません。なぜなら、神は神自身であり、神には唯一無二の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからです。神は、これまでと同様に、常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営の働きを継続します。神は、これまでと同様に、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮します。誰もこれを変えることはできません。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けています!

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

545. 神の権威に関する真理とは、あらゆる人が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべきです。なぜなら、こうした真理は、あらゆる人の人生、あらゆる人の過去、現在、そして未来と関係があるとともに、人生においてあらゆる人が通らなければならない非常に重要な節目、神の統治に対する人の認識、そして神の権威に対して人が取るべき姿勢と関係があり、当然ながら、あらゆる人の終着点と関係があるためです。したがって、それらを知り、理解するには、一生涯の努力が必要なのです。あなたが神の権威を真っ直ぐに見つめ、神の統治を受け容れる時、あなたは、神の権威が実在することに次第に気付き、理解するようになります。しかし、神の権威を認めず、神の統治を受け容れないならば、あなたが何年生きようとも、神の統治について少しも認識を得ることはないでしょう。神の権威を真に知って理解することがないのであれば、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において何も尽すものがなく、当然ながら、人間の運命への神の統治に対する認識は皆無となります。それは非常に悲しいことではないでしょうか。それゆえに、人生の道をどの程度歩んで来たか、現在何歳か、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを真剣に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け容れなければなりません。人間の運命への神の統治に対する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、あらゆる人にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得るための鍵です。神を知る人生とは、生涯学習の基本であり、あらゆる人が日々直面し、避けることのできないことなのです。この目標を達成する近道を通りたいと思う人がいるなら、わたしはこう言います、それは不可能です! 神の統治から逃れたいのであれば、それはなおさら不可能です! 神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主であり、それゆえに、人間にとって自分の運命を決定することは不可能であり、神の統治から抜け出すことは不可能です。人の能力が如何に優れていようとも、人は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、采配したり、制御したり、変更したりすることはできません。人間のすべてを支配するのは、唯一無二の神自身のみです。なぜなら、人間の運命に対する統治権を握る唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからです。神の権威は、創造物である人間だけでなく、人間には見えない非創造物、惑星、宇宙に対する統治権をも握っています。これは異論の余地のない事実、実在する事実であり、人や物が変えることのできない事実です。もし、現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている人や、人間の力で自分の運命を変えようとしたり、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている人がいるならば、わたしは言いましょう、あなたは自ら物事を困難にし、災難を招くようなことをして、墓穴を掘っていると。遅かれ早かれ、ある日、あなたは自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしてきたことに気付くでしょう。運命に立ち向かうあなたの野心と欲望、大それた行動は、あなたを引き返せない道へと導き、そのために辛い代償を払うことになるでしょう。現在、あなたがその結果の重大性を理解しておらずとも、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、正しく認識するにつれ、本日わたしが話したこととその真意を徐々に理解するでしょう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する人であるかは、神の統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まります。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まります。人生において神の統治と采配を感じたことがなく、ましてや神の権威を認め、受け容れたことなどないのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢のために、神に嫌悪され拒絶される対象となることは間違いありません。しかし、神の業により、神からの試練と神の統治を受け容れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る人々は、神の権威に対する真の認識と神の統治に対する真の理解を得て、真に創造主に従う人となるでしょう。真に救われるのは、そのような人々のみです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

546. 神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図に従って起こるということを必ず信じているであろう。神のみが国や民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる。

『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)

547. 人間の運命と万物の運命は、創造主の統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を創造主の権威から引き離すことはできません。人間は、万物の法則を通して創造主の指揮と統治を理解するようになり、万物の生存の法則を通して創造主の統治を認識するようになるとともに、創造主が万物を統治し支配する方法を、万物の運命を通して察知します。また人間は、人間と万物のライフサイクルのうちにあって、万物やあらゆる生物への創造主による指揮と采配を真に経験し、そうした創造主の指揮や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や勢力よりいかに優れていて掛け替えのないものであるかということを目の当たりにします。これに鑑みると、創造主の統治は、いかなる被造物にも侵害できないものであり、いかなる勢力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したりすることはできないことを、人間は認めざるを得ません。人間や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われます。これこそ、創造主の権威が真に具現化されたものではありませんか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

548. 神には権威と力があるものの、自身の業に対して厳格であり、厳しい原則に従うとともに、いつも自身の言葉に忠実である、ということです。神の厳格さと神の業の原則は、創造主が犯すことのできない存在であること、そして創造主の権威が無敵であることを示しています。神には至高の権威があり、万物は神の支配下にあり、また神には万物を支配する力がありますが、神は自身の計画を害したことも乱したこともなく、権威を行使するたび、常に自身の原則を厳しく守り、自身の口から語られた言葉、および自身の計画の段階と目的に従っています。言うまでもなく、神に支配されている万物もまた、神が権威を行使する際の原則に従っており、いかなる人や物も神の権威による采配を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。神の目から見ると、祝福された人は神の権威がもたらす素晴らしい賜物を受け取り、呪われた人は神の権威のために懲罰を受けます。神の権威の支配下においては、いかなる人や物も神が行使する権威を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。創造主の権威はどの要素が変わったところで変化せず、同様に、神の権威が行使される際の原則は、いかなる理由であっても変わりません。天地が大変動に見舞われても創造主の権威は不変であり、万物が消え去っても創造主の権威は決して消滅しません。これが創造主の不変にして犯すことのできない権威であり、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

549. サタンは神の権威に背こうとしたことが一切なく、さらには神の指示と具体的な命令を注意深く聞き、それに従い、あえて逆らおうとせず、当然ながら神の命令を自由に変えようともしませんでした。神がサタンに課した制限はそのようなものであり、ゆえにサタンはあえてその制限を超えようとしなかったのです。これは神の権威の力ではないですか。これは神の権威の証しではないですか。神に対してどのように振る舞うか、神をどのように見るかについて、サタンは人間よりもずっと明確に理解していたので、霊の世界で神の地位と権威をはっきり目の当たりにしており、神の権威の力と、神の権威が行使される際の原則についても深く理解しています。サタンはそれらを見過ごすことも、何らかの形でそれらに背こうとすることもなく、また神の権威に背く行動を取ることも、どのような形であれ神の怒りに対抗することも一切ありませんでした。サタンの本性は邪悪で傲慢ですが、神がサタンに対して定めた領域と限度を超えようとしたことはありません。数百万年の間、サタンはそうした限度を固く守り、神からの指示と命令にすべて従い、あえて一線を越えようとしたこともありません。サタンは悪意に満ちていますが、堕落した人間よりもはるかに賢く、創造主の身分を知っており、自分の限度も心得ています。サタンの「従順な」行動から、神の権威と力は、サタンが背くことのできない天の命令であることがわかります。また、神が唯一の存在であること、そして神の権威ゆえに、万物は秩序正しく変化と増加を行ない、人類は神によって確立された過程の中で生活と繁殖を行なえるのであり、この秩序を乱したり、この法則を変えたりすることができる人や物が存在しないこともわかります。なぜなら、それらはすべて創造主の手から生み出され、創造主の命令と権威から現われたからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

550. サタンがもつ「特別」な身分のために、人々はサタンが表わす様々な側面に強い関心を示してきました。中には、サタンは奇跡を起こし、人間には不可能なことができるので、サタンにも神と同じく権威があると信じている愚かな人さえいます。そうしたわけで、人類は神を崇拝するだけでなく、心の中にサタンの居場所をとっておき、サタンを神として崇拝することさえします。こうした人は哀れであると同時に憎むべき存在です。彼らは無知のために哀れであり、その異端的な信条と、持って生まれた邪悪な本質のために憎むべき存在なのです。ここで、権威とは何か、権威が象徴するものは何か、権威が表わすものは何かを皆さんに教える必要があるでしょう。概して言えば、神自身が権威であり、その権威は神の至高と実質を象徴し、神自身の権威は神の地位と身分を表わします。そうであれば、サタンは自分こそ神であるなどとあえて言うでしょうか。自分が万物を創り、万物を支配しているなどとあえて言うでしょうか。当然ながら、そのようなことは言いません。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからです。現在に至るまで、神が創ったものをサタンが創ったということは一度もなく、サタンがいのちあるものを創ったこともありません。サタンには神の権威がないので、神の地位と身分を有することはとても不可能であり、これはサタンの本質によって決まることです。サタンに神と同じ力はありますか。当然ながら、そのようなことはありません。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を、わたしたち何と呼びますか。力でしょうか、それとも権威でしょうか。もちろん違います。サタンは邪悪な潮流を率い、神の働きのあらゆる側面を乱し、損なわせ、妨害します。これまでの数千年間、人類を堕落させ乱暴に扱い、人間をそそのかして騙し、それによって人間が堕落して神を拒む状態にし、死の淵に向かわせた以外に、サタンは人間による記念、称賛、敬愛に少しでも値することを行なったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類はサタンによって堕落させられていたでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人間はサタンによって害を被ったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類は神を捨てて死に向かっていたでしょうか。サタンに権威も力もないのなら、そのすべての行ないの本質についてどう結論づけるべきでしょうか。サタンによるすべての行ないを単なる策略と定義する人もいますが、そのような定義はさほど適切ではないとわたしは考えます。人類を堕落させるという邪悪な行ないは、単なる策略でしょうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げて食い尽くそうとする激しい願望は、単なる策略ではとても成し遂げられないものです。振り返ると、丘や山の一面に群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去りました。ヨブの巨大な富も一瞬にして消え去りました。これは単なる策略でなし得たことでしょうか。サタンによる行ないの性質は、どれも損傷、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇などといった否定的な言葉に一致するものであり、不正で邪悪な出来事のすべてはサタンの行為と密接に繋がっていて、サタンの邪悪な本質と切り離すことができません。サタンがいかに「強力」か、その大胆さと野望がどれほどのものか、危害を加える能力がどれほどのものか、人間を堕落させ、誘惑する技能の幅広さがどれほどのものか、人間を脅かす策略や計略がどれほど狡猾か、そしてサタンの存在する形態がどれほど変化可能かを問わず、サタンは一つの生物も創れたことも、万物の存在に関する法則や規律を定められたこともなく、いのちあるものかどうかにかかわらず、何かの物体を支配して操れたこともありません。宇宙と大空の中に、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに支配されたり操られたりしている人間や物はまったく存在しません。それとは逆に、サタンは神の支配下で暮らすしかなく、その上神の指示と命令にすべて従う必要があります。神の許しがなければ、サタンはひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難です。また、地面の蟻を自由に動かすことさえできず、ましてや神の創った人類を動かすことなど不可能です。神から見ると、サタンは山に咲くユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣ります。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人類のために働き、神の働きと経営計画に役立つことです。サタンの本性がどれほど悪意に満ちていようと、その本質がいかに邪悪であろうと、サタンにできるのは、神に仕え、神を際立たせるという、その役割に従順に従うことだけです。これがサタンの本質と立場です。サタンの本質はいのち、力、権威から切り離されており、サタンは神の手中にある玩具、神に役立つ道具に過ぎません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

551. サタンは貪欲な目でヨブを見ていましたが、神の許しがなかったので、ヨブの体毛一本すら触れようとはしませんでした。サタンは生まれつき邪悪で残酷ですが、ひとたび神が命令すると、その命令に従うほかなかったのです。そうしたわけで、ヨブのところに来たサタンは羊の中の狼のように凶暴だったにもかかわらず、神が定めた限度をあえて忘れることも、神の命令に背こうとすることもなく、すべての行動において神の言葉の原則と限度から逸脱しようとはしませんでした。これが事実ではないですか。そのことから、サタンはヤーウェ神の言葉にあえて背かないことがわかります。サタンにとって、神の口から発せられた一言一句は命令であり、天の法則であり、神の権威を表わすものです。なぜなら、神の一言一句の背後には、神の命令に背いた者、天の法則に反抗した者に対する神の懲罰が暗示されているからです。神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の法則に反抗した報いを受けなければならないことを、サタンははっきり知っています。では、その報いとはいったい何ですか。言うまでもなく、それは神による懲罰です。ヨブに対するサタンの行為は人間を堕落させたことの縮図に過ぎず、またサタンがそれらのことを行なっていた際、神がサタンに対して定めた限度と、サタンに発した命令は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎませんでした。さらに、この点におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試みた際の神に対する完全な服従は、神の経営の働きに少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎません。これらの縮図はあなたがたに何を警告していますか。サタンを含めた万物の中に、創造主が定めた天の法則や命令に背ける人や物事は存在せず、こうした天の法則や命令にあえて違反しようとする人や物事も一切ありません。なぜなら、服従を拒んだ者に創造主が科す懲罰は、どんな人や物にも変えられず、そこから逃れることもできないからです。天の法則や命令を確立できるのは創造主だけであり、それらを施行する力があるのも創造主だけであって、人間や物事が超えられないのは創造主の力だけなのです。これが創造主にしかない権威であり、この権威は万物の中で至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできません。唯一無二の権威をもつ創造主を除いて、他に神は存在しないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

552. これまで数千年にわたり、サタンは人類を堕落させてきました。無数の悪事を働き、何世代もの人々を欺き、世界中で凶悪な犯罪を犯してきました。人間を虐げ、欺き、誘惑して神に反抗させ、神の経営計画を何度も混乱させて害を与えるという悪事を重ねてきたのです。それでもなお、神の権威の下、万物とすべての生物は神が定めた規則と法則を遵守し続けています。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な本性とその蔓延は極めて醜く、不快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱です。サタンは神に創られた万物の中を歩んでいますが、神に率いられる人間や物事をわずかでも変化させることはできません。数千年が経過した現在、人類は神から授かった光と空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が創った花や鳥、魚や昆虫を楽しみ、神から授かったすべてのものを享受しています。昼と夜はいまも絶えず入れ替わり、四季はいつものように移り変わり、空を舞うガンは冬に去り、次の春に舞い戻るとともに、魚は住みかである川や湖から決して離れません。また夏の日中には地上のセミが心から高らかにうたい、秋には草の中にいる鈴虫が風に合わせて優しく口ずさみ、ガンが群れをなす一方、鷹は孤独なままです。ライオンは誇り高く狩りを行なうことで自分を支え、ヘラジカは草原の草花を離れません……。万物の中でも、すべての生物は行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして生じます。しかし、その本能と生存法則が変わることはありません。それらは神の施しと糧によって生きており、その本能を変えたり、生存法則に害を及ぼしたりすることは誰にもできないのです。万物の中で生きる人類はサタンに堕落させられ、欺かれてきたものの、神が創った水、神が創った空気、そして神が創ったすべてのものを捨てることは依然できず、いまなお神が創ったこの空間で暮らし、繁殖しています。人間の本能は変わっていないのです。人間はいまなお目で見、耳で聞き、脳で考え、心で理解し、足で歩き、手で作業を行なうなどしています。神の施しを受け取れるよう、神が人間に授けた本能は変わらないままで、人間が神と協力する能力、被造物の本分を尽くす能力、人類が霊的に必要とするもの、自分の起源を知りたいという願望、そして創造主に救われることへの渇望は変わっていません。以上が、神の権威の下で暮らし、サタンによる血なまぐさい破壊を経験してきた人類の現状です。人類はサタンの圧迫を受け、もはや創造当初のアダムとエバではなく、知識、想像、観念といった神に敵対する物事や、堕落したサタン的性質でいっぱいですが、神の目から見て、人間は依然として神が造った時と同じ人間です。人間はいまなお神に支配され、指揮され、神が定めた過程の中で暮らしているので、神の目から見ると、サタンによって堕落させられた人類は埃をかぶり、空腹でお腹を鳴らし、反応がいささか遅くなり、以前ほどの記憶力がなく、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能はまったく損なわれていません。これが、神が救おうとしている人類なのです。この人類は創造主の呼びかけを聞き、創造主の声に耳を傾けさえすれば、立ち上がってその声がどこから聞こえるのかをただちに突き止めようとするはずです。創造主の姿を見さえすれば、その他のことには注意を払わず、すべてを捨てて自分自身を神に捧げ、神のために命すら捧げます。創造主の偽りなき言葉を心の中で理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の側につきます。また身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を再び授かった時、人間の記憶は蘇り、そこで人間は創造主の支配下へと本当に戻るのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

553. 人間が神の権威を模倣することはできず、神の身分や地位を真似することもできません。神の口調を真似ることはできても、神の本質を真似ることはできません。神の場所に立って神になりすますことはできても、神が意図する業を行なうことも、万物を支配して統治することも決してできません。神の目から見ると、あなたは永遠に小さな被造物であって、あなたの技能や能力がいかに優れていても、いかに多くの才能をもっていたとしても、あなたは完全に創造主の支配下にあります。傲慢な言葉を発することはできても、自分に創造主の本質があることを示したり、創造主の権威があることを表わしたりすることはできません。神の権威と力は神自身の本質です。それらは習得されたものでも、外部から加えられたものでもなく、神自身に固有の本質です。したがって、創造主と被造物の関係を変えることは決してできません。人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

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