345 なぜそんなに高慢なのか
1 自分がすべてを理解していると考えてはいけない。言っておくが、あなたがこれまで目にし、経験してきたことはすべて、わたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではない。ならば、あなたはなぜそんなに傲慢なのか。あなたがもつほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を有しているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべてのもの、そして想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはアリ以下の被造物なのだ。
2 あなたが腹の中に抱えているすべてのものは、アリの腹の中にあるものよりも少ない。自分がいくらか経験を積み、歳を重ねたからといって、乱暴に振る舞ったり、自慢げに話したりする資格を得たと考えてはならない。あなたの経験と年功は、わたしが発した言葉の産物ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見ており、ただそのために、あなたの中には有り余るほどの考えがあり、そこから果てしない観念が生じる。わたしの受肉がなかったら、たとえ並外れた才能があっても、あなたがこれほどの考えをもつことはないだろう。あなたの観念が生まれるのはそこからではないのか。
3 その最初の時にイエスが受肉していなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。二度目の受肉を批判しようとする厚かましさがあなたにあるのは、一度目の受肉があなたに認識を与えたからではないのか。従順な追随者にならず、それを研究対象にしているのはなぜなのか。この流れに入って受肉した神の前に来たあなたに対し、どうして神が自身の研究を許すだろうか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究しようと試みるなら、今日の神はあなたに対し、そのような研究を許すだろうか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。
『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」(『言葉』第1巻)より編集