なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか
征服された者は引き立て役であり、完全にされて初めて、人は終わりの日の働きの模範や見本となる。完全にされる前、彼らは引き立て役であり、道具であり、奉仕のための存在である。神によって徹底的に征服された者は神の経営(救いの)の働きの結晶であるとともに、その模範にして見本である。わたしがこのような人々を描写するのに用いたこれらの言葉は平凡なものかもしれないが、そこから数多くの興味深い物語が見えてくる。信仰が少ないあなたがたは、平凡な肩書きを巡って顔が赤らむまで常に言い争い、結果として関係が損なわれることさえある。単なる肩書きであっても、あなたがたの思考や意識の中では、それは取るに足らない肩書き以上のものであるだけでなく、自分の運命に関する重要事項である。そのため、分別のない者は往々にして、こうした些細な事柄を巡って強い喪失感に苦しむ。これでは一文惜しみの百知らずである。あなたがたは単なる肩書きのために逃げ去り、戻って来ないのだ。なぜなら、いのちは取るに足らないものだと考え、自分の呼び名を重要視し過ぎるからである。そのため、あなたがたは自分の霊的生活や実生活においてさえも、地位に関する観念のせいで、複雑怪奇な物語をしばしば展開させることになる。おそらくあなたがたは認めないだろうが、あなたがたが個別に暴かれていなくても、そうした者は実生活に本当に存在するとわたしは言う。こうしたことはあなたがた一人ひとりの生活においてすでに発生している。信じないのであれば、ある姉妹(あるいは兄弟)の生活風景を次に挙げるので読むとよい。この人物が実はあなた自身であったり、あなたの生活の中で親しい人物であったりするかもしれない。わたしが勘違いしていなければ、この風景はあなたがすでに経験したことを表現している。この描写に不足は一切なく、欠けている思いや考えも一つとしてなく、この話に残らず記録されている。信じないというのであれば、まずはとにかく読みなさい。
これは、ある「霊的な人」の短い経験談である。
教会の兄弟姉妹たちが行なう多くのことが神の旨と一致していないのを見て、彼女は不安を感じ、そこで彼らを叱り始めた。「あなたがたはひどいことをしました。良心がこれっぽっちもないのですか。どうして良心に逆らうことを実際にやっているのですか。なぜ真理を求めず、好き勝手なことばかりしているのですか。……わたしはあなたがたにこう言っているけれど、同時に自分自身も憎んでいます。神が燃えるように苛立っておられるのが見えるし、自分の中で炎を感じる。わたしは神から託された働きを徹底的に行ないたいと心から願っているし、あなたがたの役に立ちたいと本当に思っている。ただ、わたしは今とても弱い。神はわたしたちのために多くの時間を割き、とても多くの御言葉をおっしゃってきたけれど、わたしたちは同じまま。神にとても大きな借りがあると、常に心の中で感じるわ……」(ここで泣き始め、話を続けられない)。そして彼女は祈り始めた。「ああ、神よ。どうかわたしに力を与え、わたしの心をこれまで以上に動かして下さい。あなたの御霊がわたしの中で御業を行ないますように。わたしは喜んであなたに協力いたします。あなたが最後に栄光を得られる限り、たとえそれが命を差し出さなければならないことを意味しても、わたしは今すぐ自分のすべてをあなたに喜んで捧げます。兄弟姉妹が喜びながら歌い踊り、あなたの聖なる御名を讃美し、あなたを讃え、あなたを表わし、あなたの御業が本当であることを証明し、あなたの重荷に思いを馳せることができるよう、わたしたちは大きな讃美を捧げたいと思います……」。彼女が熱心にそう祈ると、聖霊は本当に重荷を与えた。その期間、彼女は並外れた重荷を負い、一日中読み、書き、耳を傾け、多忙を極めた。霊的状態は極めて良好で、心の中はいつも活力に満ち、重荷を負っていた。時折弱くなり、壁にぶち当たったが、すぐに正常な状態に戻った。そのようにしてしばらく過ごした後、彼女は急速に進歩し、神の言葉の多くに関してある程度理解できるようになり、讃美歌を憶えるのも早かった。総じて言えば、彼女の霊的状態は極めて良好だった。教会内の多くの物事が神の旨に則していないことに気づくと、彼女は不安になって兄弟姉妹を叱責した。「これが自分の本分に対する献身ですか。なぜあなたがたはこれほどわずかな代価さえ払えないのですか。あなたがたがそうしたくなくても、わたしはします……」。
彼女は重荷を負いつつも、聖霊がますます働きを行なうにつれて信仰がより強くなるのを感じた。時折何らかの困難に遭遇して消極的になることもあったが、それを克服することができた。つまり、彼女が聖霊の働きを経験した際、状態が極めて良好だったとしても、ある種の困難や多少の弱さを経験することは避けられなかったのである。そうした物事は避けられないが、彼女はそうした状態からすぐに回復できた。弱さを経験したとき、彼女は祈り、自分の霊的背丈は本当に不十分だと感じるものの、それでも進んで神と協力しようとした。神が何をしようと、彼女は進んで神の旨を満たし、神の采配のすべてに従う覚悟だった。彼女について何らかの意見や先入観をもつ人もいたが、彼女は自分のことを脇へ置き、そうした人たちとも積極的に交わることができた。これが、聖霊が正常な働きを行なっている際の人々の状態である。一定期間を経ると、神の働きが変化し始め、人はみな働きの別の段階、すなわち神が人間に対して異なる要求をする段階へと入っていった。したがって、人々に新たな要求を行なう新たな言葉があった。「……わたしはあなたがたに対して、祝福ではなく憎しみしかない。あなたがたを祝福しようとも、完全にしようとも考えたことは一度もない。と言うのも、あなたがたは反抗的過ぎるからである。あなたがたは心が歪んでおり、不正直であり、素質に欠け、地位が低いので、あなたがたがわたしの視野や心にあったことはこれまで一度もない。わたしの働きは、ひとえにあなたがたを断罪することを意図して行なわれる。わたしの手と刑罰があなたがたから遠く離れたことは決してない。わたしはあなたがたを裁き、呪い続けてきた。あなたがたにはわたしに関する認識が一切ないので、わたしの怒りが絶えずあなたがたに降りかかってきたのである。わたしは常にあなたがたのもとで働きを行なってきたが、あなたがたは自分に対するわたしの態度を知るべきである。それは嫌悪以外の何物でもなく、それ以外の態度や意見はない。わたしが望んでいるのは、あなたがたがわたしの知恵と大いなる力の引き立て役として行動することだけである。あなたがたはわたしの引き立て役以外の何物でもない。なぜなら、わたしの義はあなたがたの反抗を通して明らかにされるからである。わたしはあなたがたをわたしの働きの引き立て役として行動させ、わたしの働きの付属物としてきたのだ……」「付属物」そして「引き立て役」という言葉を見た途端、彼女は考え始めた。「これらの言葉を考えると、わたしはどのように従うべきなのか。あれほど代価を支払ってきたのに、わたしはいまだに引き立て役だ。引き立て役とは単なる効力者ではないのか。以前は、わたしたちが効力者であることはなく、神の民となるだろうと言われていた。それなのに、わたしたちは今なおここで効力者の役割を果たしているのではないか。効力者にはいのちが欠けているのではないか。わたしがどれほど苦難に耐えても、神はそれを讃えてくださらない。わたしが引き立て役を果たし終えたら、それで終わるのではないか……」。このことを考えれば考えるほど彼女は落胆し、教会に行って兄弟姉妹の状態を見ると、気持ちはますます落ち込んだ。「あなたがたは駄目、わたしも駄目。わたしは消極的になってしまいました。ああ。いったい何ができるでしょうか。神は依然としてわたしたちを求めておられない。神がこのような御業をなさるとき、わたしたちを消極的にしないはずはない。自分のどこがおかしいのか、わたしにはわかりません。祈ることさえしたくない。とにかく、わたしはいま大丈夫じゃないし、内なる気力を振り絞ることができません。これまで何度も祈ってきたのに、それでもできない。続けていく覚悟もないのです。これがわたしの考えです。わたしたちは引き立て役だと神はおっしゃいますが、引き立て役とはただの効力者ではないでしょうか。わたしたちは引き立て役であり、神の御子でも神の民でもないと神はおっしゃるのです。わたしたちは神の子らではなく、ましてや神の長子でもない。単なる引き立て役でしかないのです。わたしたちがそうであれば、いったいどうして好ましい結末を得られるでしょうか。引き立て役にはいのちがないのだから、望みなどありません。仮にわたしたちが神の御子、神の民であれば、そこには望みがあるでしょう。わたしたちは完全にしていただけるのです。引き立て役が神のいのちをもてるでしょうか。神に奉仕する者に対し、神はいのちを吹き込んでくださるでしょうか。神が愛されるのは神のいのちをもつ者であり、神のいのちをもつ者だけが神の御子であり、神の民です。わたしは消極的で弱いですが、それでもあなたがたが誰も消極的にならないことを願っています。このように及び腰になって消極的でいると、神の御旨を満たせないというのはわかっていますが、わたしは引き立て役になりたくありません。引き立て役になるのが怖いのです。いずれにせよ、わたしの活力には限度があり、今はこのまま進むことができません。あなたがたが誰もわたしのようにせず、むしろわたしから幾ばくかの鼓舞を得られるよう願っています。わたしは死んだほうがよいでしょう。死を迎える前に、あなたがたに最後の言葉を残します。あなたがたが最後まで引き立て役として行動できることを願います。もしかしたら、神が最後に引き立て役を称賛なさるかもしれません……」。兄弟姉妹はこれを知ると不思議に思った。「この人は、なぜこれほどまでに消極的なのか。この二日間、まったく問題なかったではないか。なぜ突然元気をすっかり失ったのか。なぜ正常でなくなってしまったのか」。すると彼女はこう言った。「わたしが正常ではないと言わないでください。実のところ、わたしは心の中であらゆる物事を明瞭に理解しています。自分が神の御旨を満たしていないことはわかっています。しかし、それは単に、神の引き立て役として行動する気がわたしにないからではないでしょうか。わたしは何も悪いことをしていません。おそらく、神はいつか『引き立て役』という肩書きを「被造物」に変え、またそれだけでなく、神に重用される神の被造物へと変更されるかもしれません。そのことに何らかの希望はないでしょうか。あなたがたが消極的になったり挫けたりせず、引き続き神に付き従い、全力で引き立て役として奉仕できることを願います。いずれにせよ、わたしは続けられません。わたしの行動に縛られてはいけません」。他の者たちはこれを聞いて、「あなたが神に付き従うのをやめても、わたしたちは従い続けます。神はわたしたちを不公平に扱われたことがないからです。あなたが消極的だからといって、わたしたちがそれに縛られることはありません」と言った。
しばらくこのような経験をした後、彼女は引き立て役であることについて依然として消極的だったので、わたしは彼女にこう言った。「あなたはわたしの働きを何も理解していません。わたしの言葉の内なる真実や本質、目指す成果を一切理解していないのです。あなたはわたしの働きの目的やその知恵を知りません。わたしの旨をまったく理解していません。退散することしか知らないのは、あなたが引き立て役だからです。あなたは地位に心を占められ過ぎています。何という愚か者でしょう。過去、わたしはあなたに多くを語り、あなたを完全にすると言いました。忘れたのですか。引き立て役のことを話す前に、完全にされることを話さなかったでしょうか」「待ってください。考えさせてください。そう、そのとおりです。引き立て役についてお話しになる前に、確かにそうしたことをおっしゃいました」「完全にされることについて話したとき、人間は征服されて初めて完全にされるだろうとわたしは話しませんでしたか」「その通りです」「わたしの言葉は誠意あるものではなかったですか。誠実に話さなかったでしょうか」「そんなことはありません。あなたは偽りをお話しになったことがない神でいらっしゃり、それをあえて否定できる者はおりません。でも、お話の仕方が多すぎます」「わたしの話し方は働きの段階に応じて変わるのではありませんか。わたしが言うことはあなたの必要に基づいて行なわれ、述べられるのではないのですか」「あなたは人間の必要に合わせて御業を行ない、人間が必要とするものをお与えになります。それは間違いありません」「それでは、わたしがあなたに話したことは有益でなかったのですか。わたしの刑罰はあなたのためになされたのではないですか」「どうしてわたしのためだといまだにおっしゃれるのですか。あなたは死にそうになるまでわたしを罰しました。わたしはこれ以上生きていたくありません。あなたは今日と明日で違うことをおっしゃいます。あなたがわたしを完全にしてくださるのは、わたしのためだということは知っていますが、いまだわたしを完全にしてくださっていません。あなたはわたしを引き立て役にして、いまだに罰せられます。わたしを憎んでいらっしゃるのでしょう。御言葉をあえて信じる者はおらず、あなたの刑罰はただ御心の憎しみを解消するためで、わたしを救うためではないことが今ようやくはっきりわかりました。以前、あなたは本当のことをわたしからお隠しになって、わたしを完全にするとおっしゃり、また刑罰はわたしを完全にするためのものだとおっしゃいました。だから、わたしはいつもあなたの刑罰に従ってきたのです。今になって引き立て役の肩書きを得るだろうとは想像すらしませんでした。神よ、わたしに別の役割を与えたほうが良いのではないでしょうか。わたしに引き立て役の肩書きを与えなければならないのですか。わたしは神の国の門番になることでも受け入れます。わたしは方々へ出向いて自分を費やしてきましたが、わたしの手は結局空っぽで、まったく一文無しです。それなのに、あなたは今でも、わたしをご自身の引き立て役にするとおっしゃいます。どうしてわたしが顔向けできるでしょうか」「あなたはいったい何を話しているのですか。わたしは過去に極めて多くの裁きの働きを行ないましたが、あなたは認識していないのですか。あなたには自分自身に関する本当の認識がないのですか。『引き立て役』の肩書きもまた、言葉の裁きではないのですか。引き立て役に関するわたしの話はどれもあなたを裁く手段や方法でもあると考えているのですか。そうであれば、あなたはどうやってわたしに付き従うというのですか」「あなたにどう付き従うか、わたしはまだ計画を立てていません。まずはこれを知る必要があります。わたしは引き立て役なのでしょうか。それとも違うのですか。引き立て役も完全にしていただけるのですか。『引き立て役』という呼び名が変わることはあり得るでしょうか。引き立て役であることを通じて鳴り響くような証しを行ない、その後完全にされる者となり、神を愛する者の模範となり、神の知己となることができるでしょうか。わたしは完全にしていただけるでしょうか。真実をお教えください」「物事は常に進化し、絶えず変化しているということに、あなたは気づいていないのですか。現在、引き立て役としての役割において従順になる意志がある限り、あなたは変わることができます。引き立て役であるかないかは、あなたの運命とは無関係です。重要なのは、自分のいのちの性質が変わる者になれるかどうかです」「教えてください。わたしを完全にしていただけるのでしょうか、それともしていただけないのでしょうか」「最後まで付き従い、服従する限り、わたしはあなたを完全にできると保証します」「それでは、わたしはどのような苦難を経験しなければならないのでしょうか」「逆境、そして言葉による裁きと刑罰、とりわけ言葉の刑罰、つまり引き立て役になることと同じ刑罰です」「引き立て役と同じ刑罰もですか。まあ、逆境を経験することであなたに完全にしていただけるのであれば、そして希望があるのなら、それで構いません。たとえほんのわずかな望みだとしても、引き立て役であるよりはましです。『引き立て役』という肩書きの響きは酷すぎます。わたしは引き立て役になりたくありません」「引き立て役の何がそんなに嫌なのですか。引き立て役も本来完全に良いものではないですか。引き立て役には祝福を享受する価値がないのですか。引き立て役が祝福を享受できるとわたしが言えば、あなたは祝福を享受できます。人の肩書きがわたしの働きのために変わるというのは本当のことではないのですか。それなのに、ただの肩書きがそこまであなたを悩ませているのですか。あなたがこの種の引き立て役になるのは実に相応しいことです。付き従う意志があるのですか。それともないのですか」「それでは、あなたはわたしを完全にすることがおできになるのですか。それともおできにならないのですか。わたしがあなたの祝福を享受できるようにしてくだされるのですか」「あなたに最後まで付き従う意志はありますか。それともありませんか。自分のすべてを捧げる意志はありますか」「もう一度考えさせてください。引き立て役もあなたの祝福を享受し、完全にしていただくことができます。完全にしていただいた後、わたしはあなたの知己となり、あなたの御旨をすべて理解し、あなたがもつものをわたしももつことになります。あなたが享受なさるものをわたしも享受し、あなたがご存知のことをわたしも知ることができるのです。……逆境を経験して完全にしていただいた後、わたしは祝福を享受することができます。それでは、わたしは実際にどのような祝福を享受するのでしょうか」「どんな祝福を享受するかは心配しなくてよろしい。わたしがあなたに教えたとしても、それらはあなたの想像を超えています。良き引き立て役になった後、あなたは征服され、引き立て役として成功するでしょう。これが征服された者の模範であり見本ですが、もちろん征服された後でなければ、模範や見本にはなれません」「模範や見本とは何ですか」「すべての異邦人、すなわち征服されていない人々のための模範と見本です」「何人ぐらいの人々ですか」「極めて多数で、四千人、五千人程度ではありません。世界全体でこの名前を受け入れる人はみな征服されなければなりません」「それでは、五つや十の都市程度ではないのですね」「今はそれについて心配しなくてよろしい。あまり気にしてはならない。今はいかに入りを得るかだけに集中するように。あなたが完全にされ得ることをわたしは保証します」「どの程度まででしょうか。また、わたしはどのような祝福を享受できますか」「なぜそんなに心配しているのですか。あなたが完全にされ得ることは保証します。わたしが信頼に値する者であることを忘れたのですか」「確かにあなたは信頼できる方ですが、話し方の一部が常に変化しています。今日はわたしが完全にされ得ると保証してくださいますが、明日はよくわからないとおっしゃるかもしれません。また、一部の人に『あなたのような者が完全にされることは不可能だと確約する』とおっしゃいます。御言葉がどうなっているのか、わたしにはわかりません。どうしても御言葉を信じることができないのです」「それでは、あなたは自分自身をすべて捧げることができるのですか。それともできないのですか」「何を捧げるのですか」「あなたの将来と希望です」「それを捨て去るのは簡単です。一番問題なのは『引き立て役』という肩書きです。これは本当に欲しくありません。わたしからその肩書きを取り除いてくださるなら、わたしは何でも受け入れますし、何でもできるでしょう。これは些細なことではないでしょうか。その呼び名を取り除いていただけませんか」「それは簡単なことです。違いますか。わたしがあなたに肩書きを与えられるならば、それを取り除くことも間違いなくできます。しかし、今はその時ではありません。あなたはまず働きのこの段階の経験を終えなければなりません。そうして初めて新しい肩書きを得られるのです。あなたのような人ほど引き立て役になる必要があります。引き立て役になることを恐れれば恐れるほど、わたしはあなたに引き立て役の呼び名を貼ります。あなたのような人は厳しく鍛錬され、取り扱われなければなりません。反抗的であればあるほどその人は効力者になり、最終的には何も得ないでしょう」「これほど熱心に求めても、なぜ『引き立て役』の名を払拭することができないのでしょうか。わたしたちは長年にわたってあなたに付き従い、少なからず苦しんできました。わたしたちはあなたのために多くのことを行ない、風雨に耐えてきました。わたしたちはもう若くありません。結婚もしておらず、家庭ももっていません。結婚して家庭をもった者もいますが、やはり家を出て行きました。わたしは高校まで学校に通いましたが、あなたが来られたと知って大学進学を断念しました。しかしあなたは、わたしたちは引き立て役だとおっしゃいます。わたしたちは多くのものを失ったのですよ。色々としてきたのに、結局あなたの引き立て役です。このために、わたしの以前のクラスメ-トや同世代の人たちはわたしのことをどう思うでしょうか。わたしを見て地位や身分を尋ねても、どうしてわたしが恥ずかしがらずに答えられるでしょうか。当初、わたしはあなたへの信仰のためにいかなる代価も払いましたが、他人はわたしが愚かであると嘲笑しました。それでもわたしは付き従い、わたしの日、つまり信仰のない人々に自分を示せる日が来るのを待ち望みました。ところが今日、わたしは引き立て役だとあなたはおっしゃいます。あなたがわたしに最も低い肩書きをお与えになり、わたしが神の国の民の一人になることをお許しになるのであれば、それで結構です。たとえあなたの弟子や知己になれなかったとしても、あなたに付き従う者であるだけで十分です。わたしたちは長年にわたってあなたに付き従い、自分の家族を捨てました。そして現在まで求め続けるのは極めて困難でした。しかし、それに対して『引き立て役』の肩書きしかないとは。わたしはあなたのためにすべてを捨てました。あなたのために俗世の富を残らず捨て去ったのです。以前ある人が、わたしにお見合い相手を紹介しました。その男性は容姿も身なりも良く、政府高官の息子でした。当時のわたしはこの男性に関心をもちました。けれど、神が到来して働きを実行し、あなたがわたしたちを御国へと導き、完全にしてくださると聞いて、また一刻も早くすべてを捨て去る決意をするようわたしたちにお求めになっていると聞いて、わたしは自分に決意がまったく欠けていることをすぐに知りました。それからわたしは決心を固め、縁談を断りました。その後、男性は何度かわたしの家族に贈り物をしましたが、わたしはそれに見向きもしませんでした。その時わたしが狼狽していたと、あなたはお思いですか。とても素晴らしいことだったのに、無に帰してしまったのです。どうして狼狽せずにいられましょうか。数日間、夜眠れないほど狼狽しましたが、それでも最終的には諦めました。祈るたび、わたしは聖霊に心を動かされました。聖霊は『あなたはわたしのために進んですべてを犠牲にするつもりなのか。わたしのために進んで自分を費やすつもりなのか』とおっしゃいました。あなたのこの御言葉を考えるたびに、わたしは泣いていました。感動し、悲しくて泣きだすことが何度あったでしょう。一年後、男性は結婚したと聞きました。言うまでもなく、わたしは悲しみに暮れましたが、あなたのためにそれも振りきりました。わたしの食生活や衣服がみすぼらしいことは言うまでもありませんが、あなたがわたしを引き立て役にしないよう、わたしはその結婚を諦め、そのすべてを捨て去ったのです。わたしは結婚という人生で一番大事な出来事を諦めましたが、それはひとえに自分のすべてをあなたに捧げるためです。人の生涯は、良い結婚相手を見つけて幸せな家庭を築くことに過ぎません。わたしはこの最も素晴らしいことを諦めたのに、今やわたしには何もなく、完全に独りきりです。あなたはわたしをどこへ向かわせようとなさるのでしょうか。あなたに付き従い始めて以来、わたしはずっと苦しんでいます。良い生活を送ったことがありません。自分の家族や職業、肉の悦楽を残らず捨て去ってきましたが、わたしたち全員が払ってきたこの犠牲は、あなたの祝福を享受するにはまだ不十分なのでしょうか。そして今やこの『引き立て役』です。神よ、あなたはあんまりです。わたしたちを見てください。わたしたちにはこの世で頼るものが何もありません。わたしたちの中には子を諦めた者、仕事を捨てた者、配偶者[a]を捨て去った者などがいます。わたしたちは肉の享楽をすべて捨て去ったのです。それ以外に何の希望があるでしょうか。わたしたちはどうすればこの世で生き残り続けることができるでしょうか。わたしたちが払った犠牲は一銭の価値もないのでしょうか。このことがおわかりにならないのですか。わたしたちの地位が低く、素質に乏しいのは仕方ありません。とは言え、あなたがわたしたちにさせたいことについて、わたしたちが気を留めなかったことがいつあったというのでしょうか。今、あなたは無情にもわたしたちを捨て去り、引き立て役という肩書きでわたしたちに『報いられ』ました。わたしたちの犠牲はそれしかもたらさなかったのでしょうか。最終的に、神への信仰から得たものは何かと人から訊かれたとして、『引き立て役』という言葉を示せるでしょうか。いったいどうすれば、わたしは引き立て役ですと口をひらいて言えるでしょうか。自分の両親にも、前のお見合い相手にも説明できません。これほど大きな代価を払ってきたのに、その代わりに得るのが引き立て役になることなんて。ああ。とても悲しく感じます」(ももを叩いて泣きだす)。「もし、あなたに引き立て役の肩書きを与えず、代わりにあなたをわたしの民の一人とし、福音を広めるため遣わすと言い、働きを行なわせるための地位を与えたならば、あなたはその働きを行なえるでしょうか。この働きの各段階において、あなたは実際に何を得たでしょうか。それなのに、あなたはここで自分の身の上話までしました。まったく恥知らずです。代価を払ったのに何も得なかったとあなたは言います。もしや、わたしが人間を得るための条件をあなたにまだ述べていなかったというのですか。わたしの働きは誰のためのものでしょうか。知っているのですか。あなたは昔の不満を蒸し返しています。あなたは人間の一人として数えられるでしょうか。あなたは自分の意志で、自分が経験してきた苦難を引き受けたのではないですか。それに、あなたの苦難は祝福を得るためではなかったのですか。あなたはわたしの要求を満たしましたか。あなたが望むのは祝福を得ることだけです。まったくの恥知らずです。あなたに対するわたしの要求が義務だったことがいつあったのですか。あなたが進んでわたしに付き従うつもりなら、何事においてもわたしに従わなくてはなりません。条件交渉しようと試みてはなりません。確かにわたしは、この道は苦難の道であると前もってあなたに言いました。この道は恐ろしい可能性をはらんでおり、幸福はほとんどありません。忘れたのですか。わたしは何度もそう言いました。進んで苦しむつもりなら、わたしに付き従いなさい。苦しむつもりがないのであれば、止めなさい。わたしは強制しません。来るのも去るのもあなたの自由です。しかし、これがわたしの働きの行ない方であり、あなたの個人的な反逆のためにわたしの働き全体を遅らせることはできません。あなたには進んで服従する気がないかもしれませんが、他の者たちにはその気があります。あなたがたはみな必死です。何も恐れていない。あなたはわたしと条件交渉していますが、生き続けたいのですか、生き続けたくないのですか。あなたは自分のために計画を立て、自分の名声や利益のために這い回っています。わたしの働きはどれもあなたがたのためではないのですか。あなたは目が見えないのですか。わたしが受肉する前、あなたはわたしを見ることができなかったので、あなたが述べたそれらの言葉は許せたでしょうが、現在わたしは受肉し、あなたがたのもとで働きを行なっているにもかかわらず、あなたは依然見えないままなのですか。何が理解できないのですか。あなたは損失を被ったと言います。そこでわたしはあなたがたのように必死な人々を救うために受肉して、多くの働きを行なってきました。それでも今なお、あなたは依然として不満を言っています。わたしが損失を被ったと言うつもりはないのですか。わたしが行なってきたことは、すべてあなたがたのためではなかったのですか。わたしは人々の現在の霊的背丈に基づいて、この肩書きを与えています。わたしがあなたを『引き立て役』と呼べば、あなたは即座に引き立て役になります。同様に、わたしがあなたを『神の民の一人』と呼べば、即座にそうなります。わたしがあなたをどう呼ぼうと、それがあなたです。それはどれも、わたしの口から出るいくつかの言葉で実現されるのではないですか。それに、そうしたわたしの数語が、あなたにとってそこまで腹立たしいのですか。そうならば失礼しました。あなたが今従わないのであれば、最後に呪われるでしょう。そのときあなたは幸せでしょうか。あなたはいのちの道に注意を払わず、自分の地位や肩書きにしか集中しません。あなたのいのちとはどのようなものですか。あなたが大きな代価を払ったことは否定しませんが、自分の霊的背丈と実践を御覧なさい。そしていまだに条件交渉しようとしている。これがあなたの決意を通じて得られた霊的背丈ですか。あなたにはまだ高潔さがあるのですか。良心があるのですか。何か悪いことをしたのはわたしでしょうか。あなたに対するわたしの要求が誤っていたのでしょうか。それは何ですか。わたしはあなたを数日間引き立て役として働かせようと思うものの、あなたにはその意志がありません。これは一体どんな決意でしょう。あなたがたはみな、意志の弱い臆病者です。あなたのような人々を今懲罰するのは当然のことです」わたしがこう述べると、彼女はもう何も言わなかった。
現在このような働きを経験しているのであれば、神の働きの段階と神が人々を変化させる方法について、あなたがたはある程度把握していなければならない。そうすることが変化において成果を得る唯一の方法である。あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。「わたしは神を信じているのだから、ひたすら祝福を浴び、地位は決して下がらず、不信者の地位よりも高いと保証されているはずだ」。このような見方があなたがたの中にあるのは、一、二年間のことではなく、長年にわたってである。あなたがたは取引しようという考え方をあまりに発達させている。あなたがたは現在のこの段階まで達したが、依然として地位を捨て去っておらず、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかと深く恐れ、地位について尋ね回り、観察しようと日々奮闘している。人々は安楽への欲求を決して捨て去らなかった。ゆえに、わたしは現在あなたがたをこのように裁いているが、あなたがたは最終的にどの程度の理解を得るだろうか。あなたがたは、自分の地位は高くないが、それでも神の称揚を享受したと述べるだろう。あなたがたに地位がないのは卑しい者として生まれたからで、地位を得たのは神によって称揚されたためである。すなわちそれは、神があなたがたに授けたものである。現在、あなたがたは神の訓練、刑罰、そして裁きを直に受けることができる。それ以上に、これは神の称揚である。あなたがたは神の清めと炎を直に受けることができる。これが神の大いなる愛である。各時代を通じ、神の清めと炎を受けた者は一人もおらず、神の言葉によって完全にされることができた者も一人としていなかった。現在、神は面と向かってあなたがたと話し、あなたがたを清め、あなたがたの内なる反逆を暴いている。これはまさに神による称揚である。人々には何の能力があるというのか。ダビデの子であれ、モアブの子孫であれ、人は概して何も誇るべきことがない被造物である。あなたがたは神の被造物なのだから、被造物の本分を尽くさなければならない。あなたがたに要求されていることはそれ以外にない。あなたはこのように祈るべきである。「神よ、わたしに地位があろうとなかろうと、わたしは今や自分を理解しています。わたしの地位が高いのであれば、それはあなたの称揚のためであり、わたしの地位が低いのであれば、それはあなたがそのように定められたからです。すべてはあなたの御手の中にあります。わたしには選択肢も不満も一切ありません。わたしがこの国で、この民のもとに生まれること、そしてわたしが行なうべきことは、ただあなたの支配に完全に服従することであると、あなたは定められました。なぜなら万事はあなたの定めの中にあるからです。わたしは地位を考えません。つまるところ、わたしは一つの被造物でしかないからです。あなたがわたしを底なし穴や、火と硫黄の池に落とされたとしても、わたしは被造物に過ぎません。あなたがわたしを用いられるとしても、わたしは被造物です。あなたがわたしを完全になさっても、わたしはやはり被造物です。あなたがわたしを完全にされなかったとしても、それでもわたしはあなたを愛します。なぜなら、わたしは被造物でしかないからです。わたしは創造主によって造られた極めて小さな被造物、造られたすべての人間の一人でしかありません。わたしを造られたのはあなたであり、そして今、あなたはわたしを再度ご自身の御手に取られ、あなたの御心のままになさってきました。わたしはあなたの道具となり、引き立て役となることをいといません。なぜなら、万事はあなたが定められたことだからです。それは誰にも変えられません。すべてのものと出来事は、あなたの御手の中にあります」。その時になると、あなたはもはや地位を考えず、そこから自由になるだろう。そのとき初めて、あなたは確信をもって堂々と求めることができ、そうして初めてあなたの心はあらゆる束縛から自由になれる。ひとたびそれらの物事から解放されると、その人は懸念を抱かなくなる。目下のところ、あなたがたの大部分が懸念していることは何か。あなたがたはいつも地位に束縛され、自分の将来の見込みを絶えず心配している。あなたがたはいつも神の発する言葉の書籍を手にしてページをめくり、人間の終着点に関する発言を読みたがり、自分の将来の見込みがどのようなもので、自分の終着点がどのようになるかを知ろうと望んでいる。あなたはこう不思議に思う。「自分には本当に将来の見込みがあるのか。神がそれらを取り去られたのか。神はただ、わたしは引き立て役だとおっしゃるだけだ。それならば、わたしの将来の見込みはどのようなものだろうか」あなたがたにとって、自分の将来の見込みや終着点を脇にのけるのは難しい。あなたがたは今や信者であり、働きのこの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇にのけていない。自分の地位が高ければしっかり追求するが、地位が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことが常に心の中にあるのだ。大半の人が自分から消極性を取り除けないのはなぜか。その答えは常に、将来の見込みが厳しいせいではないか。神の言葉が発せられるやいなや、あなたがたは急いで自分の地位と身分がいったいどのようなものであるかを知ろうとする。あなたがたは地位と身分を最優先し、ビジョンを第二とする。第三は自分が入るべきことであり、神の現在の旨が第四である。あなたがたは、神から与えられた「引き立て役」の肩書きが変わったかどうかをまず調べる。あなたがたはひたすら読み、「引き立て役」の肩書きが取り除かれたのを見ると、満足して神にひたすら感謝し、神の大いなる力を讃える。しかし、自分が依然として「引き立て役」だと知ると取り乱し、心の中のやる気が即座に消滅する。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世へ戻ってそこでの成功を目指せばよいだろう。このようにして時間を無駄にするのはまったく価値のないことである。なぜ自分を苦しめるのか。美しい世界であらゆる物事を享受できないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供など、このような俗世の産物はどれもあなたが享受できる最高のものではないのか。幸せになれる場所を探して、ここをさまようことが何の役に立つというのか。人の子に枕する所がないのであれば、どうしてあなたが安住の地を得られようか。どうして人の子があなたのために美しい安住の地を造れようか。それは可能なのか。わたしの裁きを除けば、あなたは今真理に関する説教を受けることしかできない。あなたはわたしから安楽を得ることも、日夜思い焦がれている安楽の寝床を得ることもできない。わたしはあなたにこの世の富を与えない。あなたが真に追求するならば、わたしは喜んであなたにいのちの道を残らず与え、あなたを水を得た魚のようにする。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれをすべて取り上げる。安楽に貪欲で、豚や犬のような者たちにわたしの口から言葉を与えるつもりはない。
脚注
a. 原文では「妻」となっている。