第4節 真理とは何かを明らかにする言葉

152. 終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

153. わたしの言葉は永久不変の真理である。わたしは人間にいのちを施す者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上の誰一人としてわたしの言葉を受け入れられないとしても、わたしの言葉の価値と、それがどれだけ人類の助けになるかは、どんな人にも計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉をまったく軽蔑している人に直面するとき、わたしの立場はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が真理であり、道であり、いのちであることを示そう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに、人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れられない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れられない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らを外さない。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

154. 神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

155. 真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

156. 真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、それは人には不可能なことである。しかし、キリストは真理を提供するだけであって、人が真理を追い求めるのに成功するかどうかを決めるために来るのではない。よって、真理を追い求めるのに成功するか失敗するかは、すべて人の追求にかかっている。これは元々キリストとは一切関係がないものであり、人の追求によって決まるものなのだ。人の終着点やその成功と失敗の責任を神に押し付け、その責任を負わせてはならない。なぜなら、それは神自身には関係がなく、被造物が尽くすべき本分に直結していることだからである。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

157. 真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

158. 神が語る言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、すべて人がいのちに入るために欠くことのできない真理であり、人間が霊と肉の両方において生き延びることを可能にする、生ける水の泉なのです。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なもの、日常生活を送るための原則と信条、救いを得るために進むべき道と目標と方向性、神の前に被造物として持つべきすべての真理、そしていかに神に服従し神を崇めるべきかについてのすべての真理を与えてくれます。神の言葉は人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、人間が強くなり立ち上がることを可能にする頑強な支えでもあります。神の言葉には、被造物である人類が生きるべき正常な人間性の真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれサタンの罠を避けるための真理も豊かに含まれており、さらに創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めも豊富に含まれています。神の言葉は、肯定的なものすべてを理解できるよう人間を導き啓発する灯台であり、人間がすべての義なる良いことを実際に生きて所有するための保証であり、人々と出来事や物事が測られる基準であり、人間を救いや光の道へと導く道標でもあります。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

159. 神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

160. 真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています。少しばかり経験があれば、それが真理を有しているということだと言うならば、あなたに神の性質を表わすことができますか。真理のある側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に施すことはできません。ですから、あなたが得たその光は真理でなく、人々が到達可能なある地点に過ぎません。それは単に人間が有するべき正しい経験、正しい認識であり、つまりは真理に関する実際の経験と認識なのです。そうした光、啓き、そして経験による理解は、決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人がこの真理を完全に経験し、彼らの経験による理解をすべて持ち寄ったとしても、その一つの真理に取って代わることは依然としてできないでしょう。過去に「それを人間世界の格言で要約しよう。人間の中にわたしを愛する者は一人もいない」と言われた通りです。これは真理の言明であり、人生に関する真の本質です。それは最も深遠なものであり、神自身の表現です。あなたはそれを経験し続けることができ、三年間経験すればそれに関する表面的な理解が得られ、七ないし八年間経験すればさらにその理解が得られます。とは言え、あなたの得る理解が真理に関するその一つの言明に取って代わることは決してできません。二年間経験した他の人はわずかな理解を得、十年間経験すれば少しだけ深い理解を得られ、生涯にわたって経験すればさらに理解を得ます。しかし両者が得た理解を結合させたところで、どれだけの理解、どれだけの経験、どれだけの識見、どれだけの光、あるいはどれだけ多くの例があろうと、どれも先に述べた真理の代わりには依然なり得ません。これでわたしは何を言わんとしているのでしょうか。わたしが意味しているのは、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を得たというのは、何らかの現実を有している、真理について何らかの理解を得た、神の言葉に実際ある程度入った、それらに関する何らかの実際的な経験がある、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神からの言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたってそれを経験したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に、かつ徹底的に経験することはできないでしょう。表面的な言葉をいくつか理解しただけなのに、自分は真理を得たと主張するなら、それはまったく馬鹿げたことではないでしょうか。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

161. 人がどれだけ真理をよく理解しても、その本質はなお人間の本質であり、神の本質とは比べものになりません。真理に関する人の経験には終わりがないので、人が真理を完全に生きるのは不可能です。真理のうち、人間が得ることのできるごく限られた部分しか生きられないのです。そうであれば、どうして神になることができるでしょうか。……あなたが神の言葉を多少なりとも体験し、自分なりに理解した真理に従って生きていれば、神の言葉はあなたのいのちとなります。それでも、真理が自分のいのちであるとか、自分が表現しているものは真理であるなどと言うことは決してできません。もしそのように考えているのなら、それは誤りというものです。真理の一側面について何らかの経験を有していれば、それ自体が真理を表わすことはできますか。絶対にできません。あなたは真理を余すところなく説明できますか。神の性質と本質を真理から発見することができますか。あなたにはできません。真理について、各人にはその一側面、一範囲の経験しかありません。自分の限られた範囲の中でそれを経験したところで、真理のすべての側面に触れることはできません。人は真理の本来の意味を生きることができますか。あなたのわずかな経験はどれほどのものですか。砂浜の砂一粒、大海の水一滴に過ぎません。それゆえ、経験から得たあなたのそうした認識や感覚がどれほど貴重なものであろうと、やはり真理とは見なされません。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

162. 神自身は真理であり、真理を備えており、神は真理の源です。あらゆる肯定的なものとあらゆる真理は神に由来します。神は万事万物の善悪の判断をすることができます。起こった事、現在起こっている事、まだ人間に知られぬ将来の事の判断をすることができます。神は万物の善悪の判断をすることができる唯一の審判者であり、これは万物の善悪は神にしか判断できないということを意味します。神は万物の規則を知っています。それは真理の体現であり、神自身が真理の本質を備えているということを意味します。人間が真理を理解し、完全にされたとして、真理の体現に何か関係していますか。完全にされた人間は、神が現在行っていることと神が要求することのすべてについて正確に判断し、正しい方法で実践します。人間はまた神の旨を理解し、物事の善と悪の区別がつきます。しかし、それでも人間には及ばないこと、神から教えられて初めて知ることができることがあります。未知の物事、神からまだ教えられていない物事を人間は知ることができますか。(できません。)人間には予知することはできません。さらに、神から真理を得て、真理の現実性をもち、多くの真理の本質を知り、善悪を区別する能力をもったとしても、人間が万物を支配し、統治する能力をもつことがありますか。(ありません。)これが違いです。被造物は、真理の源から真理を得ることしかできません。人間は人間から真理を得られますか。真理を備えることができますか。人間に真理を与えることができますか。人間にはできません。そこが違いです。人は受け取ることしかできず、与えることはできません。人が真理の体現と呼ばれることがあり得ますか。真理の体現の本質とは正確には何を指しますか。それは真理をもたらす源、万物を支配し統治する源です。またそれは万事万物が裁かれる基準と規則でもあります。これこそが真理の体現です。

『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(3)」(『言葉』第4巻)

164. 神は真理を表現するときに、自身の性質と本質を表現します。神による真理の表現は、人類が認識している各種の肯定的な物事や所説の、人類による要約に基づいているわけではありません。神の言葉はあくまで神の言葉であり、神の言葉は真理です。それらは人類の存在の拠り所となるべき土台と法則であり、人間を出所とするいわゆる教義は、神によって断罪されます。それらが神から承認されることはなく、ましてや神が発する言葉の源、あるいはその土台となることなどあり得ません。神は自身の性質と本質を自身の言葉によって表わします。神の表現によって生まれるすべての言葉は真理です。なぜなら、神には神自身の本質があり、神こそ肯定的な物事すべての現実だからです。堕落した人類が神の言葉をどのように位置づけたり定義したりしても、あるいは見方や理解の仕方がどのようなものであっても、神の言葉が真理であるという事実は決して変わることがありません。神が語ってきた言葉の数に関係なく、また、堕落した、罪深い人類がどんなに強くそれらを非難し、広めることさえ阻止した上で、果ては神の言葉が堕落した人類の侮辱に晒されようと、そうした状況においても、変えることのできない一つの事実が残ります。つまり、人類が価値を置くいわゆる文化や伝統は、先に挙げた理由があったとしても、肯定的なものとはなり得ず、真理になることはできない、という事実です。これは変えることができないのです。人類の伝統的な文化や存在のあり方が、時代の変化や時間の経過によって真理になることはありません。また、人類から非難を受けたとか、人類が忘れやすいなどという理由で、神の言葉が人の言葉になることもありません。この本質は不変であり、真理は常に真理なのです。ここにある事実が存在します。人類が要約するそうした言葉はすべてサタンに由来するのです。そうした言葉は人の想像や観念であり、人の肉から生じるもので、肯定的なものとは何ら関係がありません。他方、神の言葉には、神の本質と地位が表現されています。神はなぜ言葉を発するのでしょうか。わたしはなぜそれが真理だと言うのでしょうか。それは、神が万物のすべての法則、原理、根本、本質、現実、そして奥義を支配しており、それらが神の手中にあり、神だけが、万物のすべての原理、現実、事実、そして奥義を知っているからです。神はこれらの由来を知っており、その根本が実際に何であるかを知っているのです。ですから、神の言葉で言及されている万物の定義だけが最も正確であり、また神の言葉の中で人類に求められていることこそが、人類にとって唯一の規準、すなわち、人類が存在の拠り所とする唯一の規準なのです。

『反キリストを暴く』「第9条 彼らは自分を際立たせ、自分の利益と野心を満たすためだけに本分を尽くし、神の家の利益を決して考慮せず、個人の栄光と引き換えにそうした利益さえも売り払う(4)」(『言葉』第4巻)

前へ: 第3節 堕落した人類の宗教的観念、邪説、および誤謬を明らかにする言葉

次へ: 第3章 神の出現と働きを証しすることについての言葉

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