第3章 神の出現と働きを証しすることについての言葉
165. シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現われた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。
全能神よ! わたしたちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真にわたしたちの贖い主、全宇宙の偉大なる王! あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救いの)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示がわたしたちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。わたしたちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。わたしたちはまさに祝福されている! 日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくしてわたしたちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、わたしたちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、わたしたちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、わたしたちの思いや考えは神によって露わにされる。わたしたちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。わたしたちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、わたしたちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。
今や聖霊がわたしたちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずやわたしたちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、わたしたちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一章」(『言葉』第1巻)
166. フィラデルフィアの教会が形を整えたが、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が無数の聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路においてよろめくことがない。聖徒たちは、唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それは聖霊によって確証され、山のように揺るぎない! そしてそれが変わることはない!
ああ、全能神よ! 今日あなたはわたしたちの霊の目を開き、盲人を見えるようにし、足の不自由な者を歩けるようにし、重い皮膚病の者を癒やした。あなたは天の窓を開き、わたしたちに霊の世界の奥義を見せた。あなたの聖なる言葉に満たされ、サタンに堕落させられた人間性から救われること。これがあなたの計り知れないほど偉大な働き、計り知れないほど偉大な憐れみである。わたしたちはあなたの証人である!
あなたは長きにわたり、沈黙して謙虚に隠れていた。あなたは死からの復活と磔の苦しみ、人間として生きる喜びと悲しみ、迫害と苦難を経験した。人の世の痛みを経験してそれを味わい、時代に見捨てられた。受肉した神は神自身である。あなたは神の旨のためにわたしたちを汚物の山から救い、右手でわたしたちを持ち上げ、思うままにわたしたちに恵みを施した。労を惜しまず、わたしたちにあなたのいのちを注いだ。あなたが血、汗、涙で払った代価は聖徒たちの上に凝縮している。わたしたちはあなたの血のにじむような努力の産物[a]であり、あなたが払った代価である。
ああ、全能神よ! あなたの慈愛と憐れみ、義と威厳、聖さと謙遜ゆえに、すべての民はあなたの前にひれ伏し、永遠にあなたを拝する。
今日、あなたはあらゆる教会、フィラデルフィアの教会を完全なものとし、それにより六千年にわたる経営(救いの)計画を実現した。聖徒たちはあなたの前で謙虚に従うことができ、霊において互いに繋がり、愛の中で互いに伴い、泉の源に繋がっている。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れた泥水をすべて洗い流し、あなたの神殿を再び清くする。わたしたちは実際の真なる神を知るに至り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のために自分を費やすべく、あらゆることを行なってきた。あなたの旨がわたしたちの中で妨げられることのないように、わたしたちはあなたの前で静まるたび、聖霊の働きに留意しなければならない。聖徒たちのあいだには互いへの愛があり、力ある聖徒が他の聖徒の弱みを補う。聖霊による啓きと照らしを受け、聖徒たちは常に霊の中を歩くことができる。真理を理解するとすぐに実践し、新たな光に歩調を合わせ、神の足跡に従う。
積極的に神に協力しなさい。神に支配をゆだねることは、神とともに歩むことである。わたしたちの考え、観念、意見、世俗の束縛はすべて煙のように空中に消える。わたしたちは霊において神に至高の統治を委ね、神と歩み、それにより超越を得、世に打ち勝ち、わたしたちの霊は自由になって羽ばたく。それが、全能神が王になったときの結果である。どうして踊りと歌で褒め讃え、讃美と新しい賛歌を捧げずにいられようか。
神を讃美する方法は確かにいくつもある。神の名を呼ぶ、神に近づく、神のことを考える、祈りを唱える、交わる、黙想する、熟考する、祈る、讃美歌を歌う。このような讃美の行為には喜びがあり、また聖別がある。讃美には力があり、また重荷もある。讃美には信仰があり、新たな識見がある。
積極的に神に協力し、協調して奉仕を行ない一つになり、全能神の旨を満たし、急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、サタンの運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現われる。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二章」(『言葉』第1巻)
167. 勝利を収めた王は、栄光の玉座に着く。王は贖いを成し遂げ、自らの民をすべて導いて、栄光の中に出現させた。王は万物をその手中にしており、その神聖な知恵と力によってシオンを堅く打ち立てた。王はその威厳をもって、罪深い世界を裁く。すべての国々と民とを裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔いしれた者たちにも裁きを下したのだ。神は必ずや彼らを裁き、必ずや彼らに怒りを示すだろう。そこに神の威厳があらわされる。神の裁きは一瞬のうちに、遅れることなく下される。神の怒りの炎は必ずや彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いはいつでも彼らに降り注ぐだろう。そのとき彼らは、逃げ道も隠れる場所もないことを知り、涙を流して歯ぎしりし、自らに破滅をもたらすだろう。
神に愛された勝利の子らは、確かにシオンに留まり、決してそこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ! わたしたちは霊の中で神を確信し、しっかりと付き従う。全力で突き進み、もうためらうことはない。世界の終わりがわたしたちの目前で明らかになりつつあるのだ。正しい教会生活と、わたしたちを取り囲む人々、出来事、物事は今も、わたしたちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまった視力を急いで取り戻そう。境界を越えないように、ここで歩みを止めよう。口を閉ざして神の言葉の中を歩み、自分の損得のために争うことをやめるのだ。ああ、俗世間と富への欲深い愛を手放せ。ああ、夫や息子、娘たちへの愛着から自らを解放せよ。ああ、独自の見解や偏見に背を向けよ。ああ、目を覚ませ、時間がないのだ。霊の中から見上げ、神に支配を委ねなさい。何があっても、ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられるのはなんと惨めなことか。ああ、なんと惨めなことか! ああ、目を覚ましなさい!
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三章」(『言葉』第1巻)
168. 山や河は移り変わり、水は進路に沿って流れ、人間の命は天地のようには永続しない。唯一全能神だけが、復活の永遠のいのちであり、世代を超えてとこしえに生き続ける。すべての物とすべての出来事は神の手中にあり、サタンは神の足の下にあるのだ。
今日神がわたしたちをサタンの魔の手から救ったのは、神が予め定めた選択による。神はまことにわたしたちの贖い主である。復活したキリストの永遠のいのちが、まさにわたしたちの内に形造られているので、わたしたちは神のいのちに繋がるよう運命づけられており、まさに神と向き合うことができ、神を食い、飲み、享受することができるのだ。これは神が心血を注いで行なった、無私無欲の施しなのだ。
季節が移り変わる中、風と霜とを経て、幾多の人生の苦痛や迫害や患難、この世の拒絶と中傷、また政府による数々の偽りの告発に直面しても、神の信念と決意はほんの少しも衰えることがない。神はその旨のため、そしてその経営と計画を成し遂げるため、全身全霊を捧げ、自らの命も顧みない。自らのすべての民のため、彼はどんな苦労も惜しまず、心を配って彼らに糧と水を与える。わたしたちがどんなに無知であろうと、どんなに強情だろうと、必要なのはただ彼に従うことであり、そうすればキリストの復活のいのちが、わたしたちの古い本性を変えてくれるだろう。……彼はすべての長子たちのため、たゆむことなく労し、食事も休息もとらない。幾日も幾夜も、焼け付くような暑さや凍える寒さもいとわず、彼は一心にシオンで見守っているのだ。
彼はこの世も、家庭も、仕事も、何もかもを自ら喜んで捨て去り、この世のどんな享楽とも関わりを持たない。……彼の口から発せられる言葉はわたしたちを突き刺し、心の奥底に隠していたことを露わにする。どうして確信せずにいられるだろうか。彼の口から発せられる一句一句は、いつでもわたしたちの中で実現される。わたしたちが何をしようと、それが神の前でであれあるいは神に隠れてであれ、彼が知らないこと、理解していないことは何一つない。わたしたち自身の計画や采配に関わらず、すべてはまさに彼の前に露わにされるのだ。
彼の前に座し、自らの霊の中で喜びを感じ、穏やかにくつろいでいながら、絶えず空しさと神への負い目を感じている。これは想像もできない奇跡であり、成し遂げるのは不可能である。聖霊は全能神が唯一の真の神であることの証明として十分であり、それは議論の余地のない証明だ。わたしたちの一団は言い尽くせないほど祝福されている。神の恵みと憐みがなければ、わたしたちは地獄に行ってサタンに従うしかない。唯一全能神だけが、わたしたちを救うことができるのだ。
おお、全能神、実践の神よ!わたしたちの霊の目を開かれたのはあなたであり、その結果、わたしたちは霊的世界の奥義をこの目で見た。神の国の展望は果てしない。わたしたちは油断なく待っていよう。その日はもう遠くはない。
戦火は巻き起こり、銃口からの煙が辺りに充満し、天候は温暖化し、気候は変動し、疫病が広がる。そして人々はただ死なねばならず、わずかな生存の希望もない。
おお、全能神、実践の神よ!あなたはわたしたちの堅固な要塞であり、わたしたちの避け所です。あなたの翼の下で身を寄せ合えば、わたしには災いが及びません。これがあなたの神聖な加護と配慮なのです。
わたしたちはみな声を張り上げて賛美を歌い、賛美の歌がシオン中に響きわたる。全能神、実践の神はわたしたちに、あの栄光に満ちた終着点を用意してくださった。注意して、油断なく見張っていなさい。今ならまだ遅くない。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五章」(『言葉』第1巻)
169. 全能神――神の国の王――が証しされて以来、神の経営(救い)の領域は全宇宙にあまねく広がっている。神の出現は中国において証しされただけでなく、すべての国とすべての土地で全能神の名が証しされている。人々はみなこの聖なる名を呼び、あらゆる手段で神との交わりを持とうとし、全能神の旨を把握し、一致して教会で仕えている。これが聖霊の驚くべき働き方なのである。
さまざまな国の言語はみな異なっているが、霊はただ一つである。この霊は全宇宙の教会を一つに結びつけており、神と一体で、わずかな相違もない。これは疑いの余地のない事実である。聖霊は今や彼らに呼びかけており、その声は彼らを呼び覚ましている。それは神の憐れみの声である。皆が全能神の聖なる名を呼んでいるのだ。そして彼らは、讃美を捧げ歌っている。聖霊の働きには何の狂いもあり得ない。これらの人々はどんな苦労も惜しまず、正しい道に沿って前進し、退くことはない。奇跡は次々と起こっている。これは人々にとって想像し難いことであり、推測するのも不可能なのだ。
全能神は宇宙のいのちの王である。神は栄光の玉座に就いて世界を裁き、すべての上に君臨し、すべての国々を支配する。すべての人は跪いて神に祈り、神に近づき、神と交わる。どれほど長く神を信じていようと、地位がどれだけ高かろうと、どれほど年功があろうと、心の中で神に逆らう人は裁かれなければならず、神の前にひれ伏して痛々しい懇願の声を出さねばならない。それはまさしく自身の行動の結果を刈り取ることなのだ。その嘆きの声は火と硫黄の池で苦しめられるときの声であり、神の鉄の杖によって懲らしめられるときの叫びである。それこそがキリストの玉座の前の裁きなのだ。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八章」(『言葉』第1巻)
170. 全能神よ! 栄光ある体が公に出現し、聖なる霊体が現れ出る。彼こそが完全なる神自身なのだ。この世も肉も変えられる。山上における彼の変容は神の本体である。彼は頭に金の冠を戴き、その衣は真っ白で、胸に金の帯を締めている。世界のすべては彼の足台である。目は燃える炎のようで、口からは鋭い諸刃のつるぎが突き出ており、右手には七つの星を持っている。神の国への道は限りなく明るく、神の栄光が現れて輝きわたる。山々は喜び、水は笑う。太陽と月と星々はすべて整然と巡り、唯一の真の神を歓迎する。神の勝利の凱旋は、六千年の経営(救いの)計画の完成を告げているのだ。あらゆるものが喜びに湧き立ち、踊り上がる。歓喜せよ、全能なる神が栄光の玉座に座っている。歌え、全能者の勝利の旗は威厳ある壮大なシオンの山上に高く掲げられている。すべての国々が歓喜の声を上げ、すべての人々が歌い、シオンの山は喜び笑っている。神の栄光が現れたのだ。わたしは夢でさえ、神の顔を見られるなどとは思わなかったが、今日それを見たのだ。日々神と顔を合わせて、神に自分の心を露わにする。神は食べ物や飲み物を豊かに与えてくださる。生活、言葉、行動、思い、考え──神の壮麗な光がそれらすべてを照らしている。道の一歩一歩が神によって導かれ、反抗的な心にはただちに神の裁きが下されることになる。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)
171. 人の子は証しされ、神自身が公に露わにされた。神の栄光が放たれて、燃え盛る太陽のように照り輝いている。神の壮麗な顔貌はまばゆい光とともに輝く。あえて反抗の目を向ける者がいるだろうか。反抗は死を意味する。心に何を思おうと、どんな言葉を言おうと、どんなことをしようと、わずかな憐れみも示されはしない。あなたがたは皆、自分が得たものが何であるかを理解し、目にするようになるだろう──それはわたしの裁き以外の何物でもない。あなたがたがわたしの言葉を飲み食いすることに努めず、気ままに妨害してわたしが建て上げたものを破壊するなら、そんなことに我慢ができようか。そのような人間に手加減はしない。あなたの態度がそれ以上深刻に悪化すれば、あなたは炎の中で焼き尽くされるだろう。全能なる神は霊の体で現れ、頭から足の先までを繋ぐ肉や血は少しも持っていない。神は宇宙世界を超越し、第三の天にある栄光の玉座に着き、万物を治めている。全宇宙と万物はわたしの手中にある。わたしが語ることは実現し、わたしが定めることはその通りになる。サタンはわたしの足下にあり、底なしの穴に沈んでいる。わたしの声が発せられると、天地は滅んで無に帰り、すべてのものは新たにされる。これは何の間違いもない不変の真理である。わたしはこの世に打ち勝ち、すべての邪悪な者に打ち勝った。わたしはここに座り、あなたがたに語っている。耳のある者はみな耳を傾け、生ける者はみな受け入れなさい。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)
172. 全能なる真の神、玉座の王たる神は、全宇宙を支配し、すべての国と民に向き合っており、天下のあらゆるものは神の栄光を受けて光り輝く。宇宙、そして地の隅々に暮らすすべての生物が見るだろう。山々、川、湖、陸地、海、そしてすべての生き物は、真の神の顔貌が放つ光の中で自らの幕を開けた。彼らはみな夢から覚めるように、地中から現われる新芽のように生き返るのだ!
ああ! 唯一の真の神が世に現われ出る。あえて神に抵抗する者がいるだろうか。誰もが恐怖に震える。誰もが完全に確信を抱き、繰り返し赦しを乞う。すべての者が神の前にひざまずき、誰もが口々に神を崇める。大陸も海も、山も、川も、あらゆるものがいつまでも神を讃美する。暖かなそよ風と共に春が訪れ、繊細な春の雨をもたらす。すべての人と同様に、小川は悲しみと喜びを織り交ぜて流れ、負い目と自責の念に涙を流す。川も、湖も、打ち寄せる波やうねりも、すべてが真の神の聖なる名を讃えて歌っている。讃美の音が鮮やかに響き渡る。かつてサタンに堕落させられた古いものは一つ残らず新たにされ、変化し、真新しい領域に入ることになる……
これは聖なるラッパであり、すでに鳴り始めた。耳を傾けなさい。その甘美な音色は玉座から発せられる声であり、すべての国と民に、時が来たこと、終末が来たことを告げている。わたしの経営(救いの)計画は終わった。わたしの国は公然と地上に現われ出た。この世の国は神であるわたしの国となった。わたしの七つのラッパが玉座から鳴り響くと、そうした驚くべきことが起こる。世界の隅々に暮らす人たちが、雪崩のような勢いと落雷のような力でもって、あらゆる方向から押し寄せる。船で海を渡ってくる者、飛行機で飛んでくる者、あらゆる形や大きさの車でやって来る者もいれば、馬を駆ってくる者もいる。目を凝らして見なさい。注意深く耳を傾けなさい。あらゆる色の馬に乗った人々は、奮い立って力強く堂々と、あたかも出陣するかのごとく、死をも恐れていない。馬のいななきと、真の神を叫び求める人々の喧噪の中で、数多くの男女と子供がたちまち馬の蹄に踏みつぶされる。死ぬ者、息を引き取ろうとする者、押しつぶされる者たちがヒステリックに叫び、痛みにうめいても、誰も手を貸そうとしない。反逆の子らよ。これがあなたがたの最後の結末ではないのか。
わたしの声を聞いて、あらゆる国や土地から集まってくるわたしの民を、わたしは喜びと共に見渡す。すべての人は真の神の名を口ずさみながら讃美し、喜びにとめどもなく跳ね回る。彼らは世界に向かって証しをし、真の神を証しするその声は無数の川の轟音のようだ。すべての人がわたしの国に押し寄せて来るのだ。
わたしの七つのラッパは鳴り響き、まどろむ人々を目覚めさせる。早く起きなさい、まだ間に合う。自分のいのちに目を向けなさい。目を開けて、今何時か見てみなさい。何を探し求めるべきか。何を考えるべきか。そして何にこだわるべきか。わたしのいのちを得ることと、自分が愛しこだわるものをすべて得ることの、価値の違いを考えたことがないのか。わがままをやめ、遊び回るのもやめなさい。この機会を逃してはならない。この時は二度とやって来ない。今すぐ立ち上がり、自分の霊を鍛える努力をしなさい。さまざまな手段でサタンのあらゆる企みやごまかしを見抜いて阻止し、サタンに打ち勝つことで、いのちの経験を深め、わたしの性質を生き、いのちを熟成して円熟させ、いつもわたしの足跡をたどれるようになりなさい。落胆せず、気弱にならず、まっすぐに道の果てまで一歩一歩絶えず前進しなさい。
七つのラッパが再び鳴り響くとき、それは裁きへの呼び出しである。それは反逆の子らに対する裁きであり、すべての国と民に対する裁きであり、各国は神の前にひれ伏すことになる。神の輝かしい顔貌は、必ずやすべての国と民の前に示されるだろう。誰もが完全なる確信を抱き、真の神に向かっていつまでも叫ぶことだろう。全能の神の栄光はますます輝き、わたしの子らはその栄光を分かち合い、王の尊厳をわたしと共有し、すべての国と民を裁き、悪人を罰し、わたしに属する人々を救って憐れみをかけ、神の国に堅固さと安定をもたらすだろう。七つのラッパの音を通じ、大勢の人が救われ、わたしの前に戻ってひざまずき、絶えず褒め称えつつ崇拝するだろう!
七つのラッパがもう一度鳴り響くとき、それは一つの時代の最終章であり、悪魔サタンに対する勝利を示すラッパの大音響が、地上の神の国において開かれた生活が始まったことを告げる礼砲となる。その気高い音は玉座の周りで反響し、天地を揺るがすこのラッパの大音響は、わたしの経営(救いの)計画の勝利を象徴すると同時にサタンの裁きとなり、この古い世界に完全な死と底なしの穴への逆戻りを宣告する。このラッパの大音響が意味するものは、恵みの門が閉まりつつあること、そして地上で神の国の暮らしが始まることであり、それは正しく正当なことだ。神を愛する人々を神は救う。彼らが神の国に戻ると、地上の人々は飢饉と疫病に直面し、神の七つの鉢と七つの疫病が次々に効力を生じることになる。天と地は消え去るが、わたしの言葉は決して消え去らない!
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十六章」(『言葉』第1巻)
173. 東から稲妻が走るときこれはまた、わたしがわたしの言葉を口にし始める、まさにその瞬間である――稲妻が光るそのとき、天空全体が照らされ、すべての星々に変化が起こる。全人類はあたかも選り分けられ、整理されたかのようである。東からの光芒の下、人間はみな本来の形を現し、目がくらみ、混乱し、動きがとれずにいる。まして、自らの醜い顔を隠すことができない。また、彼らはわたしの光から逃げて山の洞窟に隠れようと逃げる動物のようだ。しかし、わたしの光の中では、彼らの一人も姿を消せない。人間はみな仰天し、みなじっと待ち、みな見守っている。わたしの光の出現により、みな自分の生まれた日を喜び、同様に、みな自分の生まれた日を呪う。対立する感情は表現し難い。自己懲罰の涙が川と流れ、勢いの早い流れに運ばれ、瞬く間に跡形もなくなる。再び、わたしの日が人類の上に迫り、再び、人類を目覚めさせ、人類は新たな始まりを迎える。わたしの心臓が拍動し、その鼓動にしたがって、山々が喜びに飛び上がり、水が喜びに踊り、波が律動し、岩礁を叩く。わたしの心にあるものを言い表すのは困難だ。わたしは、わたしの視線ですべての穢れたものが燃えて灰となり、不従順の子らがみな、わたしの目の前から一掃され、もはや存在しなくなることを望む。わたしは赤い大きな竜のすみかに新たな始まりをもたらしたばかりではなく、全宇宙で新たな働きを始めた。間もなく、地上の国々がわたしの国となる。間もなく地上の国々はわたしの国故に永遠に存在しなくなる。わたしがすでに勝利を得たのだから。わたしが勝利のうちに戻ったのだから。赤い大きな竜は、地上でのわたしの働きを打ち消そうと、わたしの計画を妨げるために考え得るあらゆる手段を用いたが、わたしが竜の欺きに満ちた策略のせいでくじけるだろうか。わたしが竜の脅しに怯え、自信を失うだろうか。天にも地にも、わたしのたなごころの内にないものは一つもない。赤い大きな竜、わたしの引き立て役となっているものは、なおさらではないか。これもまた、わたしの手で操れるものではないのか。
わたしが人間の世界で受肉したとき、人間はわたしの導きの手に従って、知らず知らずのうちにこの日に至り、それと知らぬうちに、わたしを知るようになった。しかし、前に続く道をどう歩むかということは、誰にもわからない、誰も知らない。まして、その道がどこに続いているかは、誰も見当がつかないのだ。全能者の見守りがあってはじめて、人はその道を最後まで歩むことができる。東の稲妻に導かれてはじめて、人はわたしの国の敷居を跨ぐことができる。人間たちの間に、わたしの顔を見た者、東に稲妻を見た者は誰もいない。わたしの玉座から出る声を聞いた者は、どれほど少ないだろう。実際、遠い昔から、わたしの本体に直接触れた人間は一人もいない。今日初めて、わたしがこの世界に来て、人間はわたしを見る機会を得る。しかし、今でも、人間はまだわたしを知らず、わたしの顔を見、声を聞くだけで、わたしの意志を理解していない。人間はみな、そういうふうなのだ。わが民として、あなたがたは、わたしの顔を見て、大いに誇りを感じるのではないか。また、わたしを知らないことに惨めな恥ずかしさを覚えないだろうか。わたしは人間の間を歩き、人間の間で暮らす。わたしは受肉し、人間の世界に来たからだ。わたしの目的は、ただ人間がわたしの肉の体を見られるようにするだけではない。より重要なことは、人間がわたしを知ることができるようにすることだ。さらに、わたしは肉の体を通して、人間に対して有罪判決を下す。受肉した体によって、赤い大きな竜を打ち破り、そのすみかを一掃する。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十二章」(『言葉』第1巻)
174. わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる――空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。
わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも見ている。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。天は変わり、地も変わる。人間は本来の形を現し、ゆっくりと、それぞれ同じ種類のものたちと共に、それと知らぬ間に家族のもとに戻っていく。そこで、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、わたしの大いなる働きは知らぬ間に成し遂げられ、無数の被造物は変化する。わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」(『言葉』第1巻)
175. あまたの民がわたしに喝采を送り、わたしを賛美する。万民が唯一の真なる神の名を呼び、わたしの業を仰ぎ見る。神の国が人の世に降臨し、わたしの本体は豊かで充実している。誰がこれを喜ばないのか。誰が歓喜のあまり踊らないのか。ああ、シオンよ。勝利の旗を掲げてわたしを祝え。勝利の歌を歌いあげ、わたしの聖なる名を広めよ。地の果てまでも存在するすべての被造物よ。直ちに自らを清めてわたしへの捧げ物となれ。大空の星よ。直ちにもとの位置に戻り、わたしの全能なる力を天空に示せ。わたしは地上の民の声に耳を傾ける。わたしへの無限の愛と畏れを歌に注ぐ民の声に。すべての被造物が蘇るこの日、わたしは人の世に降臨する。この瞬間、まさにこの節目、すべての花が一斉に咲き乱れ、すべての鳥が声を揃えて歌い、すべてのものが喜びに打ち震える。神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。
地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つわたしは焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまやわたしの国である。空の雲は激しく動いて渦を巻き、地の湖と川はうねりをあげ、感動的な旋律を喜んで奏でる。休んでいた動物はねぐらから現われ、万民はわたしにより眠りから呼び覚まされる。万民の待ち望んでいた日がついに来た。彼らは最も美しい歌をわたしに捧げるのだ。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、神の国の賛歌」(『言葉』第1巻)
176. 神の国を迎える祝砲が鳴り響くとき、これはまた七つの雷が轟くときでもあるのだが、この音は天地を激しく揺さぶり、天空を震わせ、すべての人間の心の琴線を震わせる。神の国の讃歌が赤い大きな竜の地で厳かに鳴り渡り、わたしがその国を破壊し、わたしの国を建てたことを証しする。さらに重要なのは、わたしの国が地上に建てられることである。このとき、わたしは我が天使たちを世界のすべての国々に遣わし、わたしの子ら、わが民を牧養できるようにする。これはまた、わたしの働きの次なる段階にとって必要なことを満たすためである。しかしわたしは、赤い大きな竜がとぐろを巻いて横たわる場所に自ら赴き、それと対決する。すべての人間が受肉したわたしを知るようになり、肉におけるわたしの業を目の当たりにできるとき、赤い大きな竜のねぐらは灰となり、跡形もなく消え去る。……
今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけでなく、全宇宙に向き合い、天空全体を揺り動かす。わたしの裁きが下されない場所が一つでもあるだろうか。わたしの降らせる災難が存在しない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、ありとあらゆる「災いの種」を蒔いた。これは、わたしが働く方法の一つであり、人間を救う業であるのは間違いなく、わたしが人間に差し伸べるものは依然として一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見られるようにするとともに、そうして長きにわたって見られなかった神、いまや現実である神を崇められるようにしたい。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十章」(『言葉』第1巻)
177. 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年も救い主イエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行なった贖いの働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての過ちさえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、いと高き者の右側に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。人は虚しく彼を待つだけで、彼がすでに白い雲(彼の霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降臨し、今や終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとにいることに気づいていない。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と憐れみに満ちており、贖いに満ちた罪の捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。
『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)
178. わたしはまずイスラエルにわたしの栄光を与え、その後それを奪い去って、後にイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へと導いた。わたしは彼らをみな光へと導き、彼らが光と再会して光と交われるようにし、もう探し求めなくていいようにした。わたしは探し求めるすべての者が再び光を見られるようにし、わたしがイスラエルに示した栄光を目にできるようにするつもりだ。わたしがはるか昔に白い雲に乗って人々の間に降り立ったことを彼らに理解させ、無数の白い雲と豊かな果実を見せ、さらにイスラエルのヤーウェ神を目撃させよう。そして彼らに、ユダヤ人の先生であり、待望のメシアであり、歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見せよう。わたしは全宇宙に対して働き、偉大な働きを行い、わたしのすべての栄光と業を、終わりの日の人々に対して露わにする。そしてわたしの栄光に満ちた顔を、長年わたしを待っていた人々、わたしが白い雲に乗ってくるのを熱望してきた人々、わたしの再来を熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人間に対して、余すところなく示そう。それによって、わたしがはるか昔にわたしの栄光を運び去って東方へともたらしており、それがもはやユダヤにはないことを、すべての者が知るだろう。なぜなら、終わりの日はすでに到来しているからである。
わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにするつもりだ。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは選ばれた者たちと向き合って、もっと彼らに話しかけたいと願っている。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。すべての人々は生まれたての赤児のように喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の「オリーブ山」にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。
『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」(『言葉』第1巻)
179. わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。
『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)
180. 六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求めるすべての人にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことはいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をするべきであろうか。神の足跡をたどるには何をするべきであろうか。神の現れを待つすべての人が、このような疑問を抱いている。あなたがたもこのような疑問を何度か抱いたが、その結果はどうであったのか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこにあるのか。答えは見つかったのか。多くの人は、「神は自分に従う人々に現れ、神の足跡はわたしたちのただ中にある。単純なことだ」と答える。決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神がその働きを行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質をもち、また神に固有の方法で、一つの時代を始め、別の時代を終わらせる仕事を行うために、神は人類のもとに下ってくる。このような神の現れは儀式の一形式ではない。それはしるしでも、図画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な過程でもない。それは、実際に手で触れ、目で見ることのできる現実的で実際的な事実である。このような現れはただ表面的な動作をするためでも、短期間の作業のためのものでもない。それは、神の経営計画の中にある一つの働きの段階のためである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営計画と関係している。ここで言う「現れ」は、神が人を案内し、導き、啓く「現れ」とは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる働きの一段階を実行する。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、人類を救う働きの新しく向上したかたちである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。これが神の現れの意義である。
『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)
181. ひとたび神の現れが何であるかがわかれば、神の足跡をどのように探し求めるべきであろうか。この問いに答えるのは難しくはない。神の現れるところはどこであれ、そこに神の足跡も見つかる。このような説明は単純に聞こえるが、実際にはそれほど単純ではない。多くの人は、神がどこに現れるか、ましてや神がどこに現れるつもりか、あるいは現れるべきかを知らないからである。聖霊の働きがあるところには神が現れると、感情にかられて考える人がいる。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、名声が高い人のいるところであれば、どこであれ神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。わたしたちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。わたしたちがたどっているのは神の足跡である。このため、神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。
『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)
182. 今日、神には新しい働きがある。あなたはこれらの言葉を受け入れないかもしれない。あなたには奇妙な言葉に感じられるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓かれ、導かれることができるからである。口論を通して真理を求めてもそこからは何も生じない。静かに求めることによってのみわたしたちは結果を得ることができる。わたしが「今日、神には新しい働きがある」と言う時、わたしは神が再び肉となることに言及している。おそらく、あなたはこれらの言葉を気にしないか、これらの言葉を軽蔑するか、あるいはおそらくあなたにとって極めて興味深い言葉であるかもしれない。いずれにせよ、わたしは神の出現を本当に切望するすべての人々がこの事実を直視し、慎重に考慮することを希望する。結論に飛びつかない方がよい。これが賢い人々の行動すべきやり方である。
このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きは決して人の観念と一致することはない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。わたしたちは神が現実に行う働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの旨をどう行ったらよいかわからないあなたがたを引き上げるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)
183. 今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなたがたに次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなたがたに示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなたがたは永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れることはできないことをあなたがたは知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなたがたにはみな生も死も到来しない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなたがたは真理を受け取り神の玉座の前に来ることもできないだろう。それどころか、あなたがたの深い罪ゆえに罰せられるだろう。あなたがたは知っているか。神の肉への再来がなければ、誰にも救いの機会はないのである。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなたがたは神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなたがたは、この普通の人から大いに利益を得ることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。
『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを
」(『言葉』第1巻)
184. 神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行なったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなたがたはこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。従って、何がなんでも、神によって支払われたこの全ての代価は、終わりの日における神の受肉の働きのための準備であったのだ。あなたがたが今日に至ったという事実は、この肉のおかげである。神が肉の中で生きている故に、あなたがたにも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、人と神の対立を和らげ、両者の距離を縮め、神と人の考えをつなげたのは、この人がもたらした真理、いのち、道だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人は、あなたがたに愛され、あなたがたが抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなたがたがこの人の口から発せられる真理を拒み、あなたがたの間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなたがたの運命はどうなるであろうか。
終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなたがたが思っているように、言及する価値もないほど取るに足りないということがあろうか。この人の真理はあなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。その行いによる証しは、あなたがたを完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、この人があなたがたを導き入れる道は、あなたがたがついて行く価値がないということか。あなたがたがこの人に反感を抱き、見捨て、避ける理由は何であろうか。真理を表すのはこの人であり、真理を供給するのはこの人であり、あなたがたに進むべき道があるようにするのもこの人である。あなたがたはまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできなかったであろうが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなたがたには神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなたがたは皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなたがたを赦し、あなたがたに憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなたがたに言い残さなければならない言葉はやはりこうである。神の受肉であるこの普通の人は、あなたがたにとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。
『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを
」(『言葉』第1巻)
185. 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行なったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを贖い、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを造った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行なう。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終わりの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖いの働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行ない、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行なってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行ない、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から贖われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度贖うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行なわれるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。
『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)
186. アメリカ人であれ、イギリス人であれ、国籍がどこであれ、自分の国籍の枠を乗り越え、自分自身を超越し、神の被造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはない。それは、現在は特定の国や民族に神が現れることは不可能だと多くの人が考えているからである。神の働きはなんと意義深く、神の現れはなんと重要なことか。どうして人の観念や考えで測ることができようか。そのため、神の現れを探し求めるためには、国籍や民族性という観念を突き抜けるべきである、とわたしは言うのである。そうして初めて、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを迎えるにふさわしくなる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。
神は全人類の神である。神は自らを一つの国や民族の所有物とみなさない。神が自ら計画したとおりに働きを行い、形式や国、民族といった制限を受けることはない。これまであなたはこのような形式を想像したこともなかったかもしれないし、そのような形式を否定するかもしれない。神が現れる国や民族はたまたま誰からも差別されている地上で一番遅れている国や民族かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神はその偉大な力とその真理と性質により、神と心を一つとする人々の一群を本当に得ている。それは神が完成させたいと願う人々の一群で、神に征服され、あらゆる試練と困難、あらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる一群である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、その計画どおりに働きを完成させることである。それはちょうど神がユダヤの地で肉となったときと同じである。神の目的は全人類をあがなうことで十字架の働きを完成させることであった。しかし、ユダヤ人は神がそれを行うのは不可能だと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとるのは不可能だと考えたのである。この「不可能」が、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対する根拠となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れると強く主張しながら、同時に神の現れを断罪している。その「不可能」が再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めているのである。神の言葉に出会うと、多くの人が騒々しく大笑いするのをわたしは見てきた。しかし、その笑いはユダヤ人による神への断罪と冒涜とどこか違うであろうか。あなたがたは真理を目の前にしても敬虔さがなく、ましてや真理を慕い求める態度もない。ただ手あたり次第に研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。神から直に導きを受け取ることができると思っているのか。神の発言を聞き分けることができないなら、どうして神の現れをその目で見る資格があるというのか。神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。それはちょうど主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもあり、さらに、全宇宙で唯一無二の神であるのと同じである。だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。あなたがたがこれらの言葉に神の現れを見てとり、新しい時代に向かって進みながら、神の足跡をたどり始め、神の現れを待ち望む人のために用意された美しく新しい天地に入れることを望む。
『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)
脚注
a. 原文に「の産物」という語句はない。