言葉は肉において現れる

目次

性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である

聖霊が人間に対して進む道では、まず全ての人間の心を人間や出来事、物事から引き出して、神の御言葉には完全に疑念の余地が無く、真実であると人間が心で信じるようにするため、それを神の御言葉に引き込む。あなたがたは神を信じているので、神の御言葉を信じているはずである。あなたがたは、長年にわたり神を信仰しているが、聖霊が進む道について知らないのであれば、あなたがたは本当に信者であろうか。普通の人間生活と、神との適切な生活を実現するため、あなたがたは、まず神の御言葉を信じる必要がある。あなたがたが人間に対して行われる聖霊の御業の第1段階を完了していないのであれば、あなたがたには基礎が無い。あなたがたが最も基本的な原則を欠いているのであれば、あなたがたはどうして先へ進めるというのか。神が人間を完全にする適切な手順を踏むことは、聖霊による実際の御業の適切な手順を踏むことであり、聖霊が進む道を進むことでもある。現在において、聖霊が進む道は、神の実際の御言葉である。したがって、人間がその道を進むには、人間は受肉した神の実際の御言葉に従い、それを食べ飲みする必要がある。神は御言葉の御業を行われており、全てが神の御言葉により述べられ、神の実際の御言葉により立証されている。人間は、神の受肉に関して全く疑念が無いか、神を知ろうとしている最中かを問わず、神の御言葉に多くの努力を注ぐ必要がある。さもなければ、人間は何も為し得ず、何も無い状態となるであろう。神の御言葉を食べ飲みする基礎の上で神を知り、神を満足させることによってのみ、人間は漸進的に神との適切な関係を確立できる。御言葉を食べ飲みし、それを実践することは、神に対する最大限の協力であり、神の選民のひとりとして証しに立つ、最も優れた実践である。ある者が神の実際の御言葉の本質を理解し、従うことが出来る時、その者は聖霊により導かれている道の上で生活しており、神が人間を完全にされる適切な手順に真摯な取り組みを行っている。嘗ては、人間は恵みと平和、喜びを求め、その後神の御業を得ることが出来た。現在はそうではない。受肉した神の御言葉が人間に無く、御言葉の現実性が無い場合、人間は神の承認を得られず、神により排除される。適切な霊的生活を実現するには、まず神の御言葉を食べ飲みし、それを実践し、そうした基礎の上に、人間と神の適切な関係を確立する必要がある。あなたがたは、どのように協力するであろうか。あなたがたは、神の選民として、どのようにして証に立つであろうか。どのようにして、神との適切な関係を確立するであろうか。

これが、日常生活において自分が神と適切な関係にあるかどうかを調べる方法である。

1.あなたがたは、神自身の証を信じているか。

2.神の御言葉は真実であり、全く誤りが無いと、あなたがたは心から信じているであろうか。

3.あなたがたは神の御言葉を実践する者であろうか。

4.あなたがたは、神が自分に託した物事に自らを献じているか。どうすれば、そうした物事に自らを献じられるであろうか。

5.あなたがたの行動は、全て神を満足させ、神に対して忠誠であるためのものであるか。

これらの物事により、あなたがたは自分が現段階で神と適切な関係にあるかどうかを確認することが出来る。

あなたがたは、神が自分に託した物事と神の約束、そして聖霊の道を受け容れられるならば、それは神の御旨を行う事である。聖霊の道に関し、あなたがたには内在的な明瞭性があるだろうか。あなたがたの現在の行動は、神のみちに従っているだろうか。自分の心は神に近付いているあろうか。聖霊の最新の光に従うことを望むであろうか。あなたがたは、神により得られることを望んでいるであろうか。地上における神の栄光を表す者となることを望むであろうか。あなたがたには、神が要求する物事を実現する意志があるであろうか。神が御言葉を述べられてすぐに協力する意志があり、それがあなたがたに内在する動きであるならば、それは神の御言葉があなたがたの内部で結実したことを意味する。そうした意志が無く、自分の追求に目的が無いのであれば、それは、自分の心がまだ神により感激させられていないことを意味する。

人間が公式に御国の訓練に対する真摯な取り組みを開始したので、人間に対する神の要求が高度化した。人間は、それをどのようにして知ることが出来るだろうか。従前は、人間にいのちが無いと言われていたが、現在、人間はいのちを求め、神の選民となって神により得られ、完全にされることを求めている。それは、高度化したという事ではないだろうか。実際には、人間に対する要求は従前よりも簡明である。人間は、奉仕者となることや、死ぬことを要求されておらず、要求されているのは、神の民となることだけである。これは比較的簡明ではなかろうか。あなたがたが自分の心を全て神に捧げ、神の導きに従う限り、全てが結実を迎えるであろう。あなたがたは、それが極めて困難であると思うが、それは何故だろうか。いのちの享受に関して現在述べられている事柄は、従前よりも明瞭である。人間は、嘗ていのちの現実性とは何かについて、理解が不明瞭であり、知らなかった。神の御言葉を聞いて反応する者や、聖霊の啓き照らしを受けた者、神による完全化を得て神の御前で性情が変化した者には、全員いのちがある。神が求めているのは、生ける人間であり、いのちのない物体では無い。あなたがたが死んでいる場合、あなたがたにはいのちが無く、神はあなたがたに話をせず、また特にあなたがたを神の選民になるよう育まれないであろう。あなたがたは、そうした神の大いなる祝福を受け、神により励まされたが、そのことは、あなたがたが全員いのちのある人間であること、そして神に由来するいのちを持つ者であることを意味する。

自分のいのちの性情の変化を追求する者にとって、実践の道は簡明である。あなたがたが自分の実経験において聖霊の実際の御言葉に従うことが出来るのであれば、あなたがたは自分の性状の変化を実現出来るであろう。あなたがたが聖霊が述べること全てに従い、それを求めるならば、あなたがたは神に従う者であり、そのようにして、あなたがたは性情を変化させることが出来るであろう。人間の性情は、聖霊の実際の御言葉により変化する。あなたがたが常に遠い過去の経験や規則に固執するならば、あなたがたの性情は変化しないであろう。今、聖霊が全ての人間に対して、正常な人間性のいのちに真摯に取り組むよう述べ、しかしあなたがたが表面的な物事に重点を置き、現実性に関して混乱し、それを真剣に受け止めなかったとしたら、あなたがたは神の御業から遅れている者となり、聖霊により導かれている道を進む者とはならないであろう。あなたがたの性情が変化可能であるか如何は、あなたがたが聖霊の実際の御言葉から遅れずに真の理解が有るかどうかにより決まる。これは従前あなたがたが理解していたのとは異なる。従前あなたがたが性情の変化について理解していた事は、物事を決めつけがちなあなたがたは、神の鍛錬により、不注意に発言しなくなる、というものであった。しかし、これは変化の一側面に過ぎず、現在最も重要な点は、聖霊の導きに従うことである。神の御言葉全てを守り、従うことである。人間は、自分で自分の性情を変化させることが出来ない。人間は神の御言葉による裁き、罰、そして辛い精錬を受けるか、あるいは神の御言葉による取り扱いと修練、剪定を受ける必要がある。その後初めて、人間は神に対する従順と献身を実現可能であり、神を欺いたり、表層的に神に対応したりしなくなる。人間の性情が変化するのは、神の御言葉による精錬時である。神の御言葉による暴露、裁き、鍛錬、そして取り扱いを受ける者のみが、見境無く行動しなくなり、平静沈着となる。最も重要な点は、人間は神の実際の御言葉と御業に従うことが可能であり、それが人間の観念と一致しない場合でも、人間はそうした観念を捨て、意図的に従うことが出来る、ということである。以前に性情の変化について述べられた時、それは主として自分を捨て去ること、肉が苦難を受けるようにすること、自分の身体を修練すること、そして肉の好む物事を自ら取り除くことに関するものであったが、これは性情の変化の一形態である。現在、性情の変化の真の表れは、神の実際の御言葉に至福中し、神の新たな御業に関して真に理解出来るようになることであった。そうすることで、人間は、自分の観念にある従前の神に関する知識を排除し、神に関する真の理解と、神に対する真の服従を実現できるようになるであろう。性情の変化の真の表れは、これしか無い。

人間によるいのちの享受の追求は、神の御言葉に基づいている。以前に、全ては神の御言葉により実現したと言われていたが、事実を見た者は誰も居ない。あなたがたが、現段階で経験に対する真摯な取り組みを行ったならば、あなたがたは明瞭に理解するであろう。それは、将来の試練のための良い基礎であり、神が何を述べたかを問わず、あなたがたには、神の御言葉に対する真摯な取り組みを行うことだけが必要とされる。神は人間に罰を与え始めると神が述べた時、あなたがたは神の罰を受け容れる必要がある。神が人間に死ぬことを求めた時、あなたがたはその試練を受け容れる。あなたがたが常に神の最新の発言の中で生活したならば、神は最終的にあなたがたを完全にされるであろう。あなたがたが神の御言葉に真摯に取り組めば取り組むほど、あなたがたは一層速やかに完全にされるであろう。私が何度も交わりを繰り返し、あなたがたに神の御言葉を理解し、それに真摯に取り組むよう求めるのは、何故だろうか。聖霊があなたがたの中で御業を行う機会を得るのは、神の御言葉と、それを経験する事、そして御言葉の現実性に対する真摯な取り組みを行うことにあなたがたの追求の重点を置くことによるほか無い。したがって、あなたがた全員が神の御業のあらゆる方法において競争者であり、最終的に自分の苦難が大きいか軽微であるかを問わず、あなたがたは全員土産を得るであろう。自分の最終的な完全化を実現するため、あなたがたは神のすべての御言葉に対して真摯に取り組む必要がある。聖霊が人間を完全にするにあたり、神は一方的に御業を行われない。神は人間の協力を必要とし、人間全員が意識的に神と協力することを必要とする。神が何を述べるかを問わず、あなたがたは単に神の御言葉に真摯に取り組む必要がある。これは、自分のいのちよりも有益である。全ては、あなたがたの性情の変化のためである。あなたがたが神の御言葉に真摯に取り組む時、あなたがたの心は神により感激させられ、御業のこの段階において神が実現したい物事を全て理解し、あなたがたにはそれを実現する意志があるであろう。罰の時、それが御業の方法であると考え、神の御言葉を信じなかった者も居る。その結果、そうした物は精錬を受けず、得たものや理解したものが何も無いまま罰の時を終えた。何も疑わずに、そうした御言葉に真摯に取り組む者も居る。そうした者は、神の御言葉は真実であり誤りが無く、人間は罰を受けるべきであると言う。そうした者は、その罰の中で一定期間にわたり苦闘し、自分の将来や運命を捨て去るが、そうした者がその罰を終えると、そうした者の性情は顕著に変化し、神に関する一層深い知識を得ている。罰を経験し終えた者は、全員神の愛しさを感じ、その神の御業の段階は、人間に与えられた神の大いなる愛であること、神の愛による征服と救済であることを知っている。また、そうした者は、神の考えは常に善良で有り、神が人間に対して行われる物事は、全て愛であり、憎しみでは無いと言う。神の御言葉を信じないか、あるいは御言葉に重きを置かない者は、罰の時に精錬を受けておらず、その結果、聖霊はそうした者に付き添わず、そうした者は何も得ない。罰の時に真摯に取り組んだ者については、そうした者は精錬を受けていないが、聖霊がそうした者の中で、隠れて御業を行い、その結果そうした者は自分のいのちの性情が変化する。外面的に極めて積極的だと思われる人々も居る。そうした者は常に機嫌が良いが、神の御言葉による精錬の状態に真摯に取り組んだことが無く、全く変化していないが、それが神の御言葉を信じないことの結末である。あなたがたが神の御言葉を信じないのであれば、聖霊はあなたがたの中で御業を行われないであろう。神は、神の御言葉を信じる者全ての前に来られる。神の御言葉を信じて理解する者は、神の愛を得るであろう。

神の御言葉の状態に対する真摯な取り組みを行い、それを積極的に行うことに重点を置くことによってのみ、あなたがたは自分のいのちの性情に変化をもたらすことが出来る。あなたがたが神により完全にされることが出来るのは、この方法によるほか無い。また、このようにして神に完全にされてきたのも、神の御旨と足並みを揃えることが出来るのも、人間だけである。あなたがたが新たな光を受け取るには、神の御言葉の中で生きる必要がある。あなたがたが聖霊により一度感激させられただけであるならば、それは十分ではなく、一層深い所へと進む必要がある。一度だけ感激させられた者は、自分の熱意が目覚めさせられて追求すうことを求めるようになっただけであり、それを長期にわたって維持出来ないので、常に聖霊により感激させられる必要がある。神の御霊が人間の霊を感激させられることを願っていること、人間はいのちの性情の変化を追求する可能性があり、神により感激させられることを望む間に、そうした者自信に不足している部分を理解すること、神の御言葉を経験する過程において、そうした者は自分の不浄な物事 (独善、傲慢さ、自分の観念など) を捨て去ることについて、私は今まで何度も話をしてきた。新たな光を積極的に受け取るだけで十分だと考えてはならない。あなたがたは、否定的側面の物事を捨て去る必要もある。あなたがたは肯定的側面から真摯に取り組むだけでなく、否定的側面の不浄な物事を自分で除去する必要もある。あなたがたは、継続的に自分自身と自分の中にある不浄な物事を検証する必要がある。人間の宗教的観念、意図、希望、独善、傲慢さは、すべて不浄な物事である。自分自身と神の啓示の御言葉を比較し、自分の中に宗教的観念が無いかを調べる必要がある。あなたがたがそうした物事を認識した時のみ、そうした物事を捨て去ることができる。聖霊の現在の御業の光に従うだけで十分であり、それ以外の事に留意する必要は無い、と言う者も居る。それならば、自分に宗教的観念が生じた場合、それをどのようにして捨て去るのであろうか。神の御言葉に従うことは、それほど単純だと考えているだろうか。あなたがたの実生活においては、宗教的な物事が依然として存在し、それは障害となる恐れがある。そして、それが生じた時、そうした観念は、あなたがたが新たな物事を受け容れる能力を阻害する恐れがある。こうした物事は、全て実在する。あなたがたが聖霊の実際の御言葉だけを求めるのであれば、神の御旨を満たすことが出来ない。あなたがたは、聖霊の現在における光を求めると同時に、自分の中に依然として存在する観念や意図、具体的にどのような人間的独善があるか、どのような態度が神に反抗する態度であるかを認識する必要がある。そして、あなたがたがそうした物事を認識した後、そうした物事を捨て去る必要がある。あなたがた自身の従前の行動や態度を捨て去らせることは、すべて聖霊の現在の御言葉に従うためである。その一方、性情の変化については、神の御言葉により実現されることである一方、それには人間の協力が必要とされる。つまり、神の御業と人間の実践は両者とも不可欠である。

あなたがたは、将来の奉仕の道において、どうすれば神の御旨を満たすことが出来るだろうか。

不可欠な点のひとつは、いのちの享受と性情の変化、真理への一層深い真摯な取り組みを追求することである。これは神により完全にされ、得られるための道である。あなたがたは全員、神の委託を受ける事になっているが、それは何であろうか。それは、御業の次の段階に関連し、その段階は、宇宙全体で実施される一層大規模な御業となる。したがって、現在あなたがたは、将来自分が、神が御業により栄光を得ることを真に証明する者となり、神の将来の御業において規範とされるよう、自分のいのちの性情の変化を追求する必要がある。現在における追求は、全て将来の御業の基礎を築くものである。そうした追求は、あなたがたが神により用いられ、神の証しに立てるようにするためのものである。それがあなたがたの追求の目的ならば、あなたがたは、聖霊の存在を得ることが出来るであろう。あなたがたの追求の目的が高度であればあるほど、あなたがたが完全にされる可能性も高くなるであろう。あなたがたが真理を追求すればするほど、聖霊は一層多くの御業を行うであろう。あなたがたの追求への活力が強ければ強いほど、あなたがたが得る物も多くなるであろう。聖霊は、人間の内部の状態に基づいて人間を完全にする。神により使われることも、完全にされることも望まず、肉の平和があって、大惨事に遭わなければ、それで良いという者も居る。御国に入ることを望まないが、底無し穴に陥ることを望む者も居るが、神は、あなたがたのそうした望みも満たすであろう。あなたがたが追求する事が何であれ、それは神が満たす物となるであろう。それでは、現在のあなたがたの追求は、何であろうか。完全にされることを追求しているであろうか。あなたがたの現在における態度や行動は、神により完全にされ、得られるためのものであろうか。あなたがたは、日常生活でこのようにして継続的に自分を計測する必要がある。あなたがたが、ひとつの目的に精神を集中するならば、神は絶対にあなたがたを完全にするであろう。それが聖霊の道である。聖霊により導かれる道は人間が追求することにより得られる。あなたがたが神により完全にされ、得られることを求めれば求めるほど、聖霊はあなたがたの中で一層多くの御業を行うであろう。あなたがたの追求が一層少なく、一層否定的で及び腰であるならば、聖霊はあなたがたの中で御業を行う機会を失うであろう。聖霊は次第にあなたがたを見捨てるであろう。あなたがたは、神により完全にされることを望んでいるであろうか。あなたがたは、神により得られることを望んでいるであろうか。あなたがたは、神により用いられることを望んでいるであろうか。あなたがたは、神により完全にされ、得られ、用いられるためならば何でもすることを追求し、あなたがたに示された神の御業を宇宙の万物が見ることが出来るようにすべきである。万物の中において、あなたがたは万物の主であり、存在する万物の中において、あなたがたは神があなたがたを理由として神の証と栄光を得ることを可能とする。このことは、あなたがたが最も祝福された世代であることを示して居る。