神の最新の働きを知り、神の歩みに従え
現在、あなたがたは神の民になることを追い求め、正しい道への全面的な入りを始めるべきである。神の民になることは、神の国の時代へ入ることを意味する。今日、あなたがたは神の国の訓練へと正式に入り始め、あなたがたの未来の生活は以前のように怠慢でいい加減なものではなくなる。以前のように生きるならば、神が求める基準に達することはできない。緊迫感がないのであれば、それはあなたに自分を改善する願望がなく、あなたの追求はまごつき混乱しており、あなたは神の旨を満足させられないことを示している。神の国の訓練に入ることは、神の民の生活を始めることを意味する。あなたはそうした訓練を受け入れる覚悟があるか。緊迫感をもつ覚悟があるか。神の鍛錬の下で生きる覚悟があるか。神の刑罰の下で生きる覚悟があるか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試すとき、あなたはどう行動するのか。あらゆる事実に直面したとき、あなたは何をするのか。過去において、あなたはいのちに重点を置いていなかった。そして今日、あなたはいのち現実への入りに集中し、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民によって達成されなければならないことである。神の民である者はみないのちをもち、神の国の訓練を受け入れ、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民に対して神が求めることである。
神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。
1.神が託す任務を受け入れなければならない。つまり、神による終わりの日の働きで語られた言葉をすべて受け入れなければならない。
2.神の国の訓練に入らなければならない。
3.自分の心が神によって感動することを追い求めなければならない。あなたの心が完全に神へと立ち返り、正常な霊的生活があれば、あなたは自由の領域で生きることになり、それは神の愛の配慮と加護のもとで生きることを意味する。神の配慮と加護のもとで生きて初めて、あなたは神のものになる。
4.神によって得られなければならない。
5.地上における神の栄光の顕示とならなければならない。
以上の五点があなたがたに託すわたしの任務である。わたしの言葉は神の民に向けて語られており、もしもあなたにこれらの任務を受け入れる気がないのであれば、わたしは強制しない。しかし、もしも誠実に受け入れるなら、あなたは神の旨を行なうことができる。今日、あなたがたは神が託す任務を受け入れ始め、神の国の民になること、そして神の国の民であるために求められる基準に達することを追い求める。これが入りの第一歩である。神の旨を完全に行なうことを望むなら、これら五つの任務を受け入れなければならず、これらを達成することができれば、あなたは神の心にかない、神は必ずやあなたを大いに用いるだろう。今日重要なことは、神の国の訓練に入ることである。神の国の訓練への入りには、霊的生活が関わっている。これまで、霊的生活について語られたことはなかったが、今日、神の国の訓練に入り始める中、あなたは霊的生活へと正式に入ることになる。
霊的生活とはどのような生活なのか。霊的生活とは、あなたの心が神へと完全に立ち返り、神の愛に思いを馳せることができる生活である。それは神の言葉の中で生きる生活であり、心を占めるものは他になく、今日の神の旨を把握することができ、そして自分の本分を尽くすべく、今日の聖霊の光によって導かれる生活である。人と神とのそのような生活こそが霊的生活である。もしも今日の光に従うことができなければ、神との関係において距離が開いたのであり、関係が絶たれたことさえあり得る。そして、あなたには正常な霊的生活がないのである。神との正常な関係は、今日の神の言葉を受け入れるという基盤の上に築かれる。あなたには正常な霊的生活があるのか。神との正常な関係があるのか。あなたは聖霊の働きに従う人なのか。今日の聖霊の光に従うことができ、神の言葉の中にある神の旨を把握し、これらの言葉に入ることができるなら、あなたは聖霊の流れに従う人である。聖霊の流れに従わなければ、あなたは間違いなく真理を追求しない人である。自分を改善する願望がない人の中で聖霊が働く機会はなく、その結果、そうした人たちは決して力を奮い起こせず、常に消極的である。今日、あなたは聖霊の流れに従っているか。聖霊の流れの中にいるか。消極的な状態から脱したか。神の言葉を信じる人、神の働きを基盤とする人、今日の聖霊の光に従う人はみな聖霊の流れの中にいる。神の言葉は疑問の余地なく真実で正しいと信じるなら、そして神が何を言おうとその言葉を信じるなら、あなたは神の働きへの入りを追い求める人であり、このようにして神の旨を成就させる。
聖霊の流れに入るには、神との正常な関係をもたなければならず、まずは消極的な状態から抜け出さなければならない。常に群衆に従い、心が神からあまりに遠く離れた人がいる。そのような人には自分を改善したいという願望がなく、追い求める基準はあまりに低い。神を愛し、神に得られるのを追い求めることだけが神の旨である。自分の良心だけを使って神の愛に報いようとする人もいるが、それでは神の旨を満たせない。追い求める基準が高ければ高いほど、よりいっそう神の旨にかなう。正常な人、神への愛を追い求める人として、神の国に入って神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、それはこの上ない価値と意義をもつ人生であって、あなたがた以上に祝福されている人はいない。なぜわたしはそう言うのか。それは、神を信じない人は肉のために生き、サタンのために生きているが、今日あなたがたは神のために生き、神の旨を行なうために生きているからである。あなたがたの人生にはこの上ない意義があるとわたしが言うのはそのためである。神によって選ばれたこの人々の集団だけが、この上なく有意義な人生を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意義のある人生を生きることはできない。神に選ばれ、神に引き上げられているために、またそれ以上に、あなたがたに対する神の愛ゆえに、あなたがたは真の人生を把握しており、この上なく有意義な人生をどう生きるかを知っている。これはあなたがたの追求が優れているからではなく、神の恵みのためである。あなたがたの霊の目を開いたのは神であり、あなたがたの心を感動させ、神の前に出るという幸運を与えたのは神の霊だった。神の霊があなたがたを啓いていなければ、あなたがたは神のどこが美しいかがわからず、神を愛することもできないだろう。人々の心が神へと立ち返ったのは、ひとえに神の霊が彼らの心を感動させたからである。神の言葉を享受しているとき、あなたの霊が感動し、自分は神を愛さないわけにはいかない、あるいは自分の中に大きな力があり、自分に捨てられないものは何もないと感じることがある。このように感じるならば、あなたは神の霊によって感動し、心が神へと完全に立ち返ったのである。そしてあなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。わたしたちは本当にあなたによって予定され、選ばれました。あなたの栄光はわたしに誇りを与え、自分が神の民の一人であることを光栄に感じさせます。わたしはあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げてあなたの御旨を行ない、わたしのすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」。このように祈るとき、あなたの心には神への果てしない愛と真の服従がある。あなたはこのような経験をしたことがあるか。神の霊によって頻繁に感動すると、人は祈りの中で特に進んで自分を神に捧げようとする。「神よ、わたしはあなたの栄光の日を見ること、あなたのために生きることを望みます。あなたのために生きること以上に価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという願望は少しもありません。今日あなたのために生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」。このように祈るとき、自分は神に心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ないまま死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのような祈りを唱えると、あなたの中には尽きせぬ力があり、あなたはその力がどこから来るのかわからない。あなたの心の中には無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があるという感覚をもつ。神によって感動するとこのようになる。こうした経験をした人はみな神によって感動したのである。神によって頻繁に感動する人には、いのちに変化が起こる。彼らは決意することができ、自ら進んで完全に神を得ようとする。心の中で神への愛がさらに強くなり、心は完全に神へと立ち返り、家族、世間、複雑な人間関係、そして自分の未来を顧みることがなくなり、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊によって感動した人はみな真理を追い求める人であり、神によって完全にされる希望をもつ人である。
あなたは自分の心を神に立ち返らせたのか。あなたの心は神の霊によって感動したのか。そのような経験をしたことがないのであれば、そして、そのように祈ったことがないのであれば、それはあなたの心に神の居場所がないことを示している。神の霊によって導かれ、神の霊によって感動した人はみな神の働きを有しており、そのことは、神の言葉と神の愛がその人の中に根付いたことを示す。中には、「祈るとき、わたしはあなたほど真剣ではなく、神によってそれほど感動することもありません。瞑想して祈るとき、時々神は美しいと感じ、心が神によって感動するくらいです」と言う人がいる。人の心より重要なものはない。あなたの心が神へと立ち返ったなら、あなたの全存在が神へと立ち返ったことになり、その際あなたの心は神の霊によってすでに感動しているだろう。あなたがたの大半はそのような経験をしたことがあり、ただ各自の経験の深さが同じではないというだけである。中にはこのように言う人がいる。「わたしは祈りの言葉をさほど口にせず、ただ他の人々の交わりに耳を傾けますが、そうするとわたしの中に力が湧いてきます」。これは、あなたが内面において神によって感動したことを示している。内面において神によって感動した人は、他の人の交わりを聞くと鼓舞される。鼓舞するような言葉を聞いても心がまったく感動しないのであれば、聖霊の働きがその人の中にないことを証明している。そうした人の中に渇望はなく、それは決意がない証拠であり、ゆえにそのような人には聖霊の働きがない。神によって感動した人は、神の言葉を聞くと反応を起こす。神によって感動していなければ、その人は神の言葉に関わっておらず、それらと無関係であり、啓かれることができない。神の言葉を聞いても反応しなかった人は、神によって感動しなかった人である。そのような人は聖霊の働きがない人である。新しい光を受け入れられる人はみな感動し、聖霊の働きを有している。
あなた自身を評価しなさい。
1.あなたは聖霊の現在の働きのただ中にいるか。
2.あなたの心は神に立ち返ったか。神によって感動したか。
3.神の言葉があなたの中に根付いたか。
4.あなたの実践は神の要求の基盤の上に築かれているか。
5.あなたは聖霊の現在の光による導きの下で生きているか。
6.あなたの心は古い観念によって支配されているか、それとも神の現在の言葉によって支配されているか。
これらの言葉を聞いて、あなたがたの中にどのような反応が生じただろうか。長年にわたって信仰してきて、あなたは神の言葉を自分のいのちとしているのか。以前の堕落した性質に変化があったのか。いのちをもつとはどういうことか、いのちをもたないとはどういうことかを、今日の神の言葉にしたがって認識しているか。それはあなたがたにとって明らかなのか。神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちへの入りを追い求めているのであれ、神の旨を成就させることを追い求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならない。あなたが交わり、そして追い求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っている。神が望むのは神の歩みに従う人である。あなたが以前に理解したことがどれほど素晴らしく、また純粋なものであっても、神はそれを望んでおらず、あなたがそうしたことを脇へのけられないなら、それは将来におけるあなたの入りにとって大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従える人はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで従うことはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。神が自分をどこへ導こうともそれに付き従うほど、聖霊の現在の働きと神の歩みに従える人たちは、神に祝福される人である。聖霊の現在の働きに従わない人たちは神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど駆け回ろうとも、そのどれも神には意味がなく、神はそうした人を賞賛しない。今日、神の現在の言葉に従う人はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人は聖霊の流れの外にあり、そのような人は神に賞賛されない。聖霊が現在発する言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、それが神の旨にかなうのは不可能である。宗教的観念の中で生きるなら、その人は神の旨にかなうことを何一つ行なえず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念の中での奉仕であり、神の旨に従う形で奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従えない人は神の旨を理解せず、神の旨を理解しない人は神に奉仕できない。神は自身の旨にかなう奉仕を望んでおり、観念や肉の奉仕を望まない。聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、その人は観念の中で生きている。そのような人の奉仕は妨害と混乱を引き起こし、そのような奉仕は神に真っ向から反している。そのため、神の歩みに従えない人は神に奉仕することができない。神の歩みに従えない人は間違いなく神に逆らっており、神と相容れることができない。「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の旨を理解し、神の現在の要求に従う形で行動すること、今日の神に服従して付き従うことができ、神が発する最新の言葉に従う形でいのちに入ることを意味する。聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいるのはそうした人だけである。そのような人は神の賞賛を受け、神を目の当たりにできるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と実質を神の最新の働きから知ることもできる。さらに、奉仕する中で自分の性質を徐々に変えることができる。このような人だけが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人である。聖霊の働きによって淘汰される人は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人である。そのような人が公然と神に反対するのは、神がすでに新しい働きを行ない、神の姿が彼らの観念の中にあるものと同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神について判断を下し、そのため神は彼らを嫌悪し、拒絶する。神の最新の働きについて認識をもつのは簡単なことではないが、神の働きに従い、神の働きを求める心構えがあれば、その人は神を見、聖霊の最新の導きを得る機会に恵まれるだろう。神の働きにわざと反対する人は、聖霊の啓きや神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けられるか否かは、神の恵みと、その人の追求と、その人の意図にかかっている。
聖霊が現在発する言葉に従える人はみな祝福されている。そのような人が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。神の最新の働きを得た人は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人は淘汰される。神は新しい光を受け入れられる人を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、それを知る人を求めている。貞節な乙女でなければならないと言われるのはなぜか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新たな物事を理解することができ、さらには、古い観念を脇へのけて今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れるこの人々の集団は、神によってはるか昔に予定された人たちであり、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を目の当たりにするので、天地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集団以上に祝福された人はいない。これはすべて神の働きの故であり、神の予定と選択の故であり、また神の恵みの故である。もしも神が語らず、言葉を発しなかったなら、あなたがたの状況は今日のようであり得ただろうか。それゆえ、神にすべての栄光と賛美あれ。これはひとえに神があなたがたを引き上げるからである。これらのことを念頭に置くなら、依然として消極的でいられるだろうか。力を奮い起こすことがいまだにできないだろうか。
神の言葉の裁き、刑罰、打撃、そして精錬を受け入れることができ、またそれ以上に、神が託す任務を受け入れられることは、はるか昔に神が予め定めたことなので、刑罰を受けるときはあまり悲嘆してはならない。あなたがたの中でなされた働き、あなたがたに授けられた祝福、そしてあなたがたに与えられたすべてのものを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に耐えられない。あなたがたには聖書に関する偉大な専門知識がなく、宗教理論もないが、神があなたがたの中で働いたので、過去の時代の誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。そのため、あなたがたは神に対してさらに献身的でなければならず、よりいっそう神に忠実でなければならない。神があなたを引き上げるので、あなたはますます努力せねばならず、霊的背丈を整えて神が託す任務を受け入れなければならない。神から与えられた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを追い求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証しとならねばならない。あなたにその決意があるのか。このような決意があれば、あなたは最後に間違いなく神によって得られ、神への栄光の証しとなるだろう。託されたおもな任務は神によって得られること、そして神への栄光の証しになることだと、あなたは理解しなければならない。それが神の旨である。
聖霊の現在の言葉は聖霊の働きの動きであり、この期間に聖霊が絶えず人を啓くことこそ、聖霊の働きの動向である。では、今日における聖霊の働きの動向はどういったものか。それは民を神の現在の働きへと導くこと、正常な霊的生活へと導くことである。正常な霊的生活に入るにはいくつかの段階がある。
1.まず、神の言葉に自分の心を注がねばならない。過去の神の言葉を追い求めてはならず、それを研究したり今日の言葉と比較したりしてはならない。その代わり、神の現在の言葉に心を完全に注がねばならない。過去の神の言葉、霊的書物、あるいは説教の記録を読むことを依然として望み、聖霊の現在の言葉に従わない人がいれば、それは最も愚かな人である。神はそのような人を忌み嫌う。今日の聖霊の光を進んで受け入れようとするなら、神が現在発する言葉に心を完全に注ぐこと。これが最初に成し遂げなければならないことである。
2.神が現在語る言葉を基礎として祈り、神の言葉に入り、神と親しく交わり、神の前で決意し、自分がどのような基準を達成したいのかを定めなければならない。
3.聖霊の現在の働きを基礎として、真理に深く入ることを追求しなければならない。過去の時代遅れの発言や理論に執着してはいけない。
4.聖霊によって感動することを求め、神の言葉に入らなければならない。
5.今日聖霊が歩む道へ入ることを追求しなければならない。
聖霊によって感動することをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉の中で生き、神の要求を基に祈ることである。このように祈れば、聖霊は必ずやあなたを感動させる。神が現在語る言葉を基礎として求めないなら、それは無益である。あなたはこう言って祈るべきである。「神よ。わたしはあなたに逆らい、あなたに多くの借りがあります。わたしは大変不従順であり、あなたに満足していただくことがどうしてもできません。神よ。どうかわたしをお救いください。わたしは最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたはわたしを裁き、罰しますが、わたしに不満はありません。わたしはあなたに逆らっているので、死に値します。そうなれば、すべての人がわたしの死の中にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」。このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、あなたを導く。聖霊の現在の言葉を基に祈らないなら、聖霊があなたを感動させる可能性はない。神の旨に従って祈り、神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこのように言うだろう。「神よ。わたしはあなたが託される任務を受け入れ、あなたが託される任務に忠実であることを望みます。そして、自分の一生を喜んであなたの栄光に捧げるつもりですが、そうすることで、わたしの行なう一切のことが神の民の基準に到達できます。わたしの心があなたによって感動しますように。あなたの霊がいつまでもわたしを照らし、わたしの行なうすべてのことがサタンに恥をもたらし、わたしが最後にあなたのものとされることを望みます」。あなたがこのように祈れば、つまり神の旨を中心とする形で祈れば、聖霊は必ずやあなたの中で働く。祈りの言葉がどれほど長いかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の旨を把握するかどうかである。あなたがたはみな次のような経験をしたことがあるかもしれない。集会で祈っているさなかに聖霊の働きの動きが頂点に達し、すべての人の力を湧き上がらせることがある。祈りながら悲痛な泣き声とともに涙を流し、神の前で良心の呵責に圧倒される人もいれば、自分の決意を示し、誓いを立てる人もいる。これが聖霊の働きによって達成される効果である。今日、すべての人が自分の心を完全に神の言葉に注ぐことが重要である。過去に語られた言葉に集中してはならない。以前来たものに依然としてしがみつくなら、聖霊があなたの中で働くことはないだろう。これがいかに重要か、あなたはわかっているのか。
聖霊が今日歩く道をあなたがたは知っているのか。上に挙げたいくつかの点は、現在と将来において、聖霊によって達成されることである。それらは聖霊が歩く道であり、人が追求すべき入りである。いのちに入るとき、少なくとも神の言葉に心を注ぎ、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れることができなければならない。心は神を切望せねばならず、真理への深い入りと神が要求する目標を追い求めなければならない。あなたにその力があるならば、それはあなたが神によって感動し、あなたの心が神に立ち返り始めたことを示している。
いのちへの入りの第一歩は、神の言葉に自分の心を完全に注ぐことである。その次の一歩は、聖霊によって感動することを受け入れることである。聖霊によって感動することを受け入れると、どのような効果が生まれるのか。それは、より深遠な真理を渇望し、求め、探求できるようになること、そして積極的なやり方で神と協力できるようになることである。今日、あなたは神と協力する。それはつまり、あなたの追求と祈り、そして神の言葉の交わりには目的があり、あなたは神の要求に従う形で本分を尽くすということである。神との協力はそれ以外にない。神に行動させることについて語るだけで、何の行動も起こさず、祈りも求めもしないのであれば、これは協力と呼べるだろうか。あなたの中に協力というものが少しもなく、目的をもって入りの訓練をしないなら、あなたは協力していない。「すべては神の予定次第です。すべては神自身によってなされます。神がなさらないのであれば、どうして人にできますか」という人がいる。神の働きは正常であり、まったく超自然的なものではなく、あなたが積極的に求めて初めて、聖霊は働きを行なう。なぜなら、神が人に強制することはないからである。あなたは神に働きを行なう機会を与えなければならない。あなたが追い求めることも入ることもせず、心にほんのわずかな渇望もなければ、神に働きを行なう機会はない。あなたはどの道を通じて、神によって感動することを求められるのか。祈りを通じて、そして神に近づくことを通じてである。しかし憶えておきなさい。最も重要なのは、神の語る言葉を基にしなければならないということである。神によって頻繁に感動するなら、あなたが肉の奴隷になることはない。夫、妻、子供、そして金といったものは、どれもあなたを縛ることができず、あなたはただ真理を追求し、神の前で生きることを望む。その時、あなたは自由の領域で生きる人になるだろう。