第8章 さまざまな種類の人々の終末と人間への神の約束

関連する神の言葉

わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは、悪しき者による全人類の支配も六千年より長くは続かないと約束した。それゆえ、その時はもう来ている。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより、地上におけるわたしの働きがすべて完了するのである。これより後、わたしが地上で再び受肉することは決してなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことも二度とない。わたしが地上で行うのはただひとつ、つまり人類を創り直すことであり、それは聖なる人類、そして地上におけるわたしの忠実な都である。しかし、わたしが世界全体を滅ぼしたり、人類全体を滅ぼしたりすることはないと知りなさい。わたしは人類のうち、残りの三分の一、すなわちわたしを愛し、わたしによって完全に征服された三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この三分の一を、数多くの羊と家畜、そして地のあらゆる豊かさでもって育み、そうして繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠に留まるが、それは現在のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりとしての人類である。このような人類はサタンによって傷つけられることも、混乱させられることも、また包囲されることもなく、わたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。それは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人類である。それゆえ、終わりの日に征服された人類は、滅びを免れ、わたしのとこしえなる恵みを受ける人類でもある。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、サタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品は、サタンの支配下からわたしによって救われたのであり、六千年にわたるわたしの経営計画の唯一の結晶であり、またその果実である。

『神の出現と働き』「血肉に属する者は誰も怒りの日から逃れられない」(『言葉』第1巻)

真に神に従う者たちは、自分の働きの試験に耐えられるが、真に神に従わない者たちは、神のいかなる試練にも耐えることができない。遅かれ早かれ、彼らは追放されるが、勝利者は神の国に留まる。人間が真に神を求めているかどうかは、その人の働きの試験、すなわち神の試練により判断されるのであり、それは人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれに拒むことはない。神が行なうすべてのことは、人間を完全に確信させられる。神は、人間に見えないことや、人間を確信させることができない働きを一切行なわない。人間の信仰が真実であるかどうかは、事実によって証明され、人間が決めることはできない。「麦を毒麦に変えることはできず、毒麦を麦に変えることもできない」という言葉に疑いの余地はない。神を真に愛する者たちはみな最終的に神の国に留まり、神を真に愛する者を神が不公平に扱うことはない。神の国の中の勝利者たちは、その様々な役割と証しに応じて、祭司として、あるいは信者として仕えることになる。また患難のただ中で勝利した者たちは、みな神の国で祭司の集団となる。祭司の集団は全宇宙における福音の働きが終わったときに形成される。その時が到来すると、人間がなすべきことは、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなる。祭司の集団の中には、祭司長と祭司がいて、それ以外の者は神の子、神の民となる。これはすべて患難のあいだの神への証しによって決定される。それらは気まぐれで与えられた称号ではない。ひとたび人間の地位が確立すれば、神の働きは停止する。なぜなら、各人が種類に応じて分類され、それぞれの本来の地位に戻されるからであり、それは神の働きの成果のしるし、神の働きと人間の実践の最終結果、そして神の働きのビジョンと人間の協力の結晶だからである。最後に人間は神の国で安息を得て、神もまた自らの住まいに戻って休息する。これが神と人間との六千年にわたる協力の最終結果である。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らはみな悪人とぐるになり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は基準に達しない奉仕をする人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

自分の肉のことしか考えず安楽を喜ぶ者、信じているように見えても本当は信じていない者、邪悪な医術や魔術に手を染めている者、淫らでぼろぼろでみすぼらしい者、ヤーウェへの生贄や神が所有するものを盗む者、賄賂を愛する者、何もせずただ天国へ昇ることを夢見る者、傲慢でうぬぼれて個人的な名声や富のためにしか努力しない者、尊大な言葉を広める者、神自身を冒涜する者、神自身を批判し中傷してばかりいる者、党派を組んで独立しようとする者、自分を神以上に崇める者、放蕩に耽る軽薄な若者や中年や高齢の男女、人のもとで個人的な富や名声を楽しみ個人的な地位を求める男女、罪に囚われて悔い改めない者、これらはすべて救いようのない者ではないのか。放蕩、罪深さ、邪悪な医術、魔術、冒涜、尊大な言葉はすべて、あなたがたの間にはびこっている。真理といのちの言葉はあなたがたの只中で踏みにじられ、聖なる言葉はあなたがたの間で汚されている。汚れと不従順で膨れ上がった異邦人たちよ! あなたがたの最終的な結末はどうなるのか。肉を愛し、肉の魔術にふけり、放蕩の罪に陥っている者が、どうして図々しくも生き続けようというのか。あなたがたのような人は救いようのないうじ虫だということを知らないのか。一体何の資格があって、あれやこれやと要求するのか。今日に至るまで、真理を愛さず肉だけを愛する者にはほんのわずかな変化も起こっていない。そのような者がどうして救われようか。いのちの道を愛さず、神を崇めて証しせず、自分自身の地位のために策略を巡らせ、自分を褒めそやす者は現在も同じままではないのか。彼らを救うことに何の価値があるというのか。救われるかどうかは、どれほど年長であるかや、何年間働いてきたかによって決まるものではなく、ましてやどれほどの経歴を積み重ねてきたかによって決まるものでもない。そうではなく、追求が実を結んだかどうかによるのである。救われる者は実を結ぶ「木」であり、葉が青々と茂り花を豊かに咲かせてはいても、実をつけない木ではない、ということを知りなさい。何年も街中をぶらついてきたからといって、何の意味があろうか。あなたの証しはどこにあるのか。あなたの神への畏敬の念は、自己愛や好色な欲望よりもはるかに小さい。このような人は堕落者ではないのか。そのような人が、どうして救いの見本、模範となれるというのか。あなたの本性は矯正のしようがなく、あなたはあまりに反逆的で救いようがない。そのような人は淘汰されるのではないのか。わたしの働きが終わるのは、あなたの終わりの日が到来するときではないのか。わたしはあなたがたのもとで多くの働きを行い、多くの言葉を語ってきたが、そのうちのどれほどが本当にあなたがたの耳に入ったのか。そのうちのどれほどに従ってきたのか。わたしの働きが終わるときは、あなたがわたしに対抗しなくなるときであり、わたしに立ち向かわなくなるときである。わたしが働いていても、あなたがたは常にわたしに逆らい、決してわたしの言葉に従わない。わたしはわたしの働きを行うが、あなたはあなたの「働き」をして、自分の小さな国を作り上げている。あなたがたは狐や犬の群れでしかなく、すべてをわたしに反抗して行なっている。そしていつも、自分を一心に愛してくれる者を自分の腕の中に引き入れようとしている。あなたがたの畏敬の念はどこにあるのか。あなたがたのすることはすべてが欺瞞である。従順も畏敬もなく、することはみな欺瞞と冒涜に満ちている。そのような人が救われることができるのか。性的にふしだらで好色な男はいつも、自分の楽しみのためにいやらしい淫らな女を惹きつけたがっている。わたしは絶対にそのような性的にふしだらな霊を救わない。わたしはあなたがたのような汚れた霊を憎み、あなたがたはその好色さといやらしさのため地獄に落ちる。何か言うことがあるか。あなたがたのような汚れた霊や悪霊は本当に不快で、気分が悪くなる。このようなくだらない者が、どうして救われることができようか。いまだに罪に陥っている者が、まだ救われることができるのか。今日、この真理、この道、このいのちはあなたがたを惹きつけない。その反面、あなたがたは罪深さや金や地位や名声や利益に、肉の楽しみに、男の格好良さや女の魅惑に惹きつけられている。あなたがたはどんな資格があって、わたしの国に入れるというのか。あなたがたの姿は神の姿より偉大で、地位は神の地位よりも高く、人々の間での威信は言うに及ばず、あなたがたは人に崇められる偶像となっている。大天使になったのではないのか。人の結末が明らかにされるときは、救いの働きが終わりに近づくときでもあり、あなたがたの多くは救いのない屍となっており、淘汰されなければならない。救いの働きのあいだ、わたしはすべての人に対して優しく善である。その働きが終わると、さまざまな種類の人の結末が明らかにされ、その時わたしはもはや優しくはない。人の結末が明らかになり、人はそれぞれ種類別に分類され、それ以上は救いの働きを行う意味がなくなるからである。なぜならそれで救いの時代は終わったことになり、終わった以上、戻ることはないからである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

古い世界が存続する限り、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に面と向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきたすべての働きを見る。わたしの旨に逆らう者、つまり、人間の行ないでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の無数の星々を取ってそれらを新しくし、またわたしのおかげで、太陽と月は新たになる――空はもはや以前の空ではなく、地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は滅ぼされ、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを崇める者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、みな灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの働きによって征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲に乗って降臨するのを見たからである。すべての人がその種類に応じて選り分けられ、それぞれの行いにふさわしい刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行ないがわたしと関わりのなかった人たちは、自分たちの振る舞いのために、わたしの子らとわが民による支配の下、地上で存在し続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現わし、自ら地上に声を発してわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分の目でそれを見られるようにする。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」(『言葉』第1巻)

わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の只中で生きている。今日、わたしに本物の愛を抱いている者たち――そうした者たちは幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまるであろう。わたしを知る者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国で権力を振るうであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの束縛から逃れ、わたしの祝福を享受するであろう。自らを捨てることのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは記憶し、わたしのために費やす人を、わたしは喜んで抱こう。そして、わたしに捧げ物をする人に、わたしは享受すべきものを授けよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となるであろう。その人たちは、必ずやわたしの家で比類なき豊かさを得て、彼らに並ぶものは一人もいない。あなたがたは、自分に与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分たちのためになされた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の勢力の抑圧を打ち破る。あなたがたは、闇のただ中にあっても、自分たちを導く光を絶対に見失いはしない。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の大衆の中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって固く、揺るぎなく立つ。あなたがたは耐え忍ぶ苦しみを通じて、わたしの祝福を相続する。そして必ずや、全宇宙にわたしの栄光を輝かせる。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十九章」(『言葉』第1巻)

立ち上がってわたしに協力しなさい。わたしは心からわたしのために尽くす者を決して粗末には扱わない。わたしに本気で自分自身を捧げる者には、わたしの祝福をすべて授ける。あなた自身を完全にわたしに捧げなさい。食べるもの、着るもの、そして未来はすべてわたしの手の中にある。わたしはすべてを正しく計らうので、あなたは終わりのない喜びを得られ、それは決して尽きることがない。それはわたしが、「心からわたしのために尽くす者よ、わたしは必ずあなたを大いに祝福する」と言ったからである。あらゆる祝福が、わたしのために心から尽くす一人ひとりに与えられる。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十章」(『言葉』第1巻)

わたしがあなたがたのために用意したすべてのもの――つまり、世界中の稀有で貴重な宝――があなたがたに与えられるのだ。目下のところ、あなたがたはそのすべてを思い浮かべることも、想像することもできず、それらを以前に享受した者は誰一人いない。これらの祝福があなたがたの上に臨むとき、あなたがたはいつまでも心から楽しむ――しかし、これらはすべてわたしの力、わたしの行為、わたしの義、そして何よりも、わたしの威厳のゆえであることを忘れてはならない。(わたしは、恵みを示すと選んだ者たちに恵みを示し、憐みを示すと選んだ者たちに憐みを示す。)その時、あなたがたは親を持つことはなく、血縁関係もない。あなたがたは皆、わたしの愛する民、わたしの最愛の子らである。それ以降は、誰もあえてあなたがたを弾圧しようとしない。それは、あなたがたが大人に成長する時、あなたがたが鉄の杖で国々を支配する時である。わたしの愛する息子たちをあえて妨げようとするのは誰か。彼らをあえて攻撃しようとするのは誰か。父が栄光を得たので、誰もがわたしの愛する子らを敬うだろう。誰も想像すらできなかったことがすべて、あなたがたの目の前に現れる。それらは無限で、無尽蔵で、終わることがない。もうしばらくすれば、あなたがたは必ずや、太陽に焼かれたり、苛むような熱に耐えたりする必要がなくなり、寒さに苦しんだり、雨、雪、あるいは風に晒されたりする必要もなくなる。それは、わたしがあなたがたを愛しているからであり、それは完全にわたしの愛の世界になる。わたしはあなたがたが望むすべてのものを与えよう。また、あなたがたが必要とするすべてのものをあなたがたのために用意しよう。わたしは義ではないなどとあえて言い張る者は誰か。わたしは直ちにあなたを殺す。それは前に言ったように、わたしの怒りは(邪悪な者たちに対して)永遠に続き、わたしはほんの少しも容赦しないからである。しかし、(わたしの最愛の子らへの)わたしの愛も永遠に続くだろう。わたしはほんの少しもそれを惜しまない。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八十四章」(『言葉』第1巻)

ひとたび征服の働きが完了すると、人類は美しい世界へと連れて行かれる。もちろん、その生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とはまったく違う。それは全人類が征服された後の生活であり、地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入った証拠となる。それは地上における人と神の生活の始まりとなるのだ。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服された後、創造主の前に服従しなければならない。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であって、世界史上、人が決して達成したことのない生活である。それは六千年にわたる経営の働きの最終的な結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであって、人間に対する神の約束でもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服されて初めて、すなわちサタンが完全に打ち負かされて初めて、人間は未来の終着点に入るのだ。人は精錬された後、罪深い本性がなくなる。それは、神がサタンを打ち負かしたからである、つまり、敵対勢力による侵略がなく、いかなる敵対勢力も人の肉体を攻撃できないのである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入る。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

人類が本来の姿を回復し、各自の本分を尽くし、自分の正しい立場を守り、神の采配のすべてに従うことができるなら、神は自身を崇める人々の一団を地上で得て、自身を崇める国を地上に打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、神に敵対する者たちはみな、永遠に滅びる。これにより、人類を創造したときの神の本来の意図が回復し、神が万物を創造したときの意図が回復し、また地上における神の権威、万物の中での神の権威、敵のあいだでの神の権威も回復する。これらは神が完全に勝利を得たことの象徴となる。その後、人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人類と共に永遠の安息へ入り、神自身と人間が共有する永遠の生活を始める。地上の汚れと不従順は消えており、嘆き悲しむ声も消える。そして、神に敵対する世のあらゆるものも存在しなくなる。神と、神から救いをもたらされた人たちだけが残り、また神の創造物だけが残る。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神に祝福され、彼らだけが神の約束を受ける。神を愛する者は神の知己であり、神に愛され、神と共に幸福を享受できる。このような人々だけが永遠に生き続け、このような人々だけが永遠に神の配慮と加護の下に生きるのである。神は人々が愛するべき存在であり、万人に愛されるにふさわしい存在だが、すべての人々が神を愛せるわけではなく、すべての人々が神を証しして神と共に力をもつわけでもない。真に神を愛する者は、神を証しできるため、そしてすべての努力を神の働きに捧げることができるため、彼らに敢えて敵対しようとする者はおらず、彼らは天の下のあらゆる場所を歩くことができ、地において力を振るい、神の民を一人残らず支配することができる。こうした人々は世界中から集まってくる。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味をもっている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意をもち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は全宇宙を旅することができる。こうした人々が神に愛され、神の祝福を受け、永遠に神の光の中に生きるのである。

『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」(『言葉』第1巻)

神が完全にしようと意図している人たちはみな、神の祝福と嗣業を受け取る。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものと神そのものを取り入れるので、それが、彼らが内部に持つものとなる。つまり、神の言葉が彼らに組み入れたすべてのものを所有しているのだ。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそのまま受け入れることができ、そうすることで、真理を生きられる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人である。そのような人だけが、次に挙げる、神が授ける祝福を受け取る資格がある。

1. 神の愛の全部を得ること。

2. 万事において神の旨に沿って行動すること。

3. 神の導きを得て、神の光の中で生き、神の啓示を得ること。

4. 神が愛する姿を地上で生きること。すなわち、ペテロと同じように真に神を愛すること、神のために十字架にかけられ、死んで神の愛に報いるのにふさわしい存在となること、そしてペテロと同じ栄光を受けること。

5. 地上の誰からも愛され、敬われ、称賛されること。

6. 死やハデスの束縛のあらゆる側面を克服すること、サタンに働く機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、そして疲労を感じないこと。

7. 一生を通じ、あたかも神の栄光の日の到来を目の当たりにした人のように、言語を絶する高揚感や気持ちの高まりを抱くこと。

8. 神とともに栄光を勝ち取ること、神の愛する聖人たちに似た容貌を持つこと。

9. 神が地上で愛するもの、すなわち神の愛する子になること。

10. 姿を変え、神と共に第三の天に昇り、肉を超越すること。

神の祝福を受け継げる人だけが、神によって完全にされ、神のものとされる。あなたは今、何かを獲得してきたのか。神はどの程度まであなたを完全にしてきたのか。神は手当たり次第に人を完全にしない。神が人を完全にするにあたっては条件があり、そこには目に見える明確な結果がある。人が想像するように、神への信仰がある限り、神によって完全にされ、神のものとされ、神の祝福と嗣業を地上で受け取れる、ということではないのだ。そのようなことは極めて難しく、人が姿を変えることについては言うまでもない。現在、あなたがたが主として追求すべきことは、万事において神によって完全にされること、あなたがたが向かい合っているすべての人、事柄、物事を通して、神によって完全にされることである。そうすることで、神という存在がさらにあなたがたの中へ取り込まれる。あなたがたはまず、神の嗣業を受け取らなければならない。そうして初めて、神からのより大きな祝福をさらに受け継ぐ資格が得られる。これらはすべて、あなたがたが追求すべきことであり、何よりも先に理解すべきことである。

『神の出現と働き』「完全にされた人々への約束」(『言葉』第1巻)

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序文

神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を…

質問 2:全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

質問 1:主イエスの御名と道に忠実であり、偽キリストたちや偽預言者を相手にせず、目を覚まして待てば、主は来られる時にかならず啓示をくださる。主の御声を聴かなくても引き上げていただける。主イエスはこう言われた「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。あなたたちは偽キリストたちや偽預言者たちの欺きを認めないのか? だから我々は、主の到来を証しする者は全て、間違いなく偽者だと信じているのだ。吟味するまでもない。主は来られるときには、啓示をくださるし、私たちを見捨てるはずはない。これが正しい信仰実践だと思う皆はどう思うかな?

回答:主イエスは確かに、終わりの日の偽キリストと偽預言者のことを預言されました。これは事実です。しかし、ご自身の再臨も何度か明確に預言されました。私たちはそう信じてますね? 多くの人は主イエスの再臨の預言に関しては偽キリストや偽預言者を警戒することに集中し花婿の到来を迎えることや…

人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く

人は現在の働きと将来の働きを少しは理解しているが、人類が入る終着点については理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は神のなすことが何であれ彼に従うべきである。わたしがあなたがたにどんな道を示そうが、その道を歩むべきである。あなたには自分のために采…

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