神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

目次

第8章 さまざまな人々への終りと人への神の約束

これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にそれぞれの言葉や行動、わたしに従う者としての彼らの道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。このように、どのような人であってもわたしの手から逃れられなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ不幸の度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外に他の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの邪悪な行為の報いである。…

わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分たちを否定する者たちにある。そして、悪い者たちにもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明であり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。わたしに従う者として、長年あらゆる種類の悪事を犯してきた者たちは罪を免れることはできない。彼らも代々、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたし以外の誰にも忠実に従ってこなかった人たちは、すべてわたしの力を喜び、拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりが存在することを望んできた。そして、わたしは同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、それら悪事を働く人たちに報いをもたらし、それを味わう機会だけを待ち望みながら、彼らを心の中で憎んできた。遂にその日を迎え、もはや待つ必要はなくなった!

わたしの最後の仕事は人を懲罰することだけではなく、人の終着点を決めることでもある。さらに、わたしが行ってきたすべてのことに対して、あらゆる人たちから承認を受けることである。わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人ではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、すべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅び、災害に苦しむだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は大災害に苦しみ、あらゆる種類の霊に踏みつけられるだろう。わたしは、人が善行で報いてくれることだけを望みながら、誰もできない働きをしてきた。ほとんどの人たちはわたしに報いてくれないが、わたしはこの世での旅を終え、次にやって来る仕事を始める。わたしが長年人々の間で続けてきた旅は実を結び、わたしはそれを非常に喜ばしく思っているからである。わたしは人の数は気にせず、むしろ善行を気づかっている。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分たちの終着点に備えて、十分な善行をするよう望んでいる。それから、わたしは満足する。さもなければ、あなたがたの誰も災いを免れないだろう。災いはわたしがもたらし、もちろんわたしが采配を振るものである。もしあなたがたがわたしの前で良い働きができないなら、災いの苦しみから免れることはないだろう。患難の時代には、あなたがたの行動と行いの全てが適切なわけではなかった。あなたがたの信仰と愛は、うわべだけのもので、あなたがたは恐れか意志の強さしか示してこなかったからだ。これに関しては、わたしは良いものと悪しきものとの評価のみをする。わたしの関心は引き続きすべてあなたがたの行動とふるまいについてであり、それに基づいてあなたがたの終着点が決められる。しかし、患難の時代に、わたしに全く不義であった者たちに、もはや憐れみは与えられないことを明白にしなければならない。わたしの憐れみはこれ以上延長されないからである。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならない。わたしを悲しませる者は誰であっても、再び憐れみの対象となることはなく、これまで忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるだろうことを。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

神の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。今日、国にいるわたしの民のうち、誰が人間たちの中にあって、人間ではないのだろうか。あなたがたの誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点がもろもろの者たちに告げられたとき、人々は、どのように反応するだろう。あなたがたは、その目で人類の有様を見てきた。まことに、いまだ、この世界で永遠に存在を続けようという希望は抱いていまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの内に祝福を楽しむだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探したことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利する。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。

『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より

わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。

『言葉は肉において現れる』の「二十番目の言葉」より

安息の中の生活とは、戦いも道徳的堕落も、持続する不義もない生活である。そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する諸力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその同類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も持続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味しない、或いはあらゆる事物の発展が止まることを意味しているのではない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである。すなわち、サタンは滅ぼされてしまう、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一層されてしまう、神に敵対するすべての勢力がもう存在しなくなる、ようなことである。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされてしまったこと、人類に関する神の仕事が全部終わってしまったことを意味する。神はもはや人類の間で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神は彼のもとの位置に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の全計画が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間では住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神は全人類を導く者であり、全人類は神の全計画が結実した結果である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、それは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、しかも正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダム、エバの生活に復する。これが、神と人が安息の中に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が彼の全計画を終えた後に安息に入ることと人が完全に救済され安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。彼は地上から導くのではなくて、天から導くのである。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、彼は人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。神と人が安息の中に入った後、サタンはもはや存在せず、サタンと同様な不道徳者も、もはや存在しない。神と人が安息の中に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある不道徳者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような不道徳者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、その後神の仕事が完全に終わる。これは神と人が安息の中に入る前提である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や受け継いだものを受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものが彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に組み入れたものすべてを、所有している。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそれがあるがままに受け入れることができる。そうすることによって、真理を実現することができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人の姿である。そのような人だけが、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。すなわち、以下に示されるようなものである。

1. 神の愛のすべてを受け取ること

2. あらゆる事柄において神の意志に違わず行動すること

3. 神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること

4. 地上で神によって愛された象徴のように生き抜くこと、すなわち、ペテロが行ったと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いとなるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄誉を受けること

5. 地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること

6. 死や死者の国の束縛のすべてを克服すること、サタンに機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと

7. 人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること

8. 神とともに栄光を受け取ること、神の最愛の聖人たちに似た表情をもてること

9. 神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること

10. 姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より