いのちへの入りとは何か今やっとわかった

2019年10月30日

2017年の初め、私は教会で指導者の本分を果たしていました。ある期間の訓練を終えると、兄弟姉妹が私に忠告しました。私が彼らの状況や困難をよくわかっておらず、実際的な働きをしなかったと言うのです。この逸脱を元に戻そうと、私は教会の兄弟姉妹全員の状況を把握できるようにフォローアップに回る準備をしました。このために毎日教会の中を何度も行ったり来たりし、兄弟姉妹との交わりに励み、支え助けました。彼らの状況が少し好転して困難が解決すると、私はたしかに少しは実際的な働きができるのだと結論を出し、とても満足しました。ところがとても驚いたことに、ある日、水やり担当グループのリーダーにこう言われたのです。「今日の集会で、上層指導部が私たちの状況を把握したあと、近頃私たちは働きにばかり没頭していのちへの入りができていないと言ってましたよ……」これを聞いた私はとても衝撃を受け、思いました。「兄弟姉妹は集会で自分たちの状態を伝え、ある程度自己認識を得たと思っていたんだけど。どうしていのちに入っていないなんて言えるの?兄弟姉妹の誰もいのちへの入りができていなくて、私が彼らの働きに責任があるということは、私もいのちへ入っていないってことじゃないの」私は心に葛藤を抱え、上の助言を受け入れることができませんでした。

数日後、リー姉妹が集会後に私に近づいてきて、重苦しい口調で言いました。「今日のあなたの交わりを聞いて、何の喜びも感じなかったわ。水やり担当グループの兄弟姉妹はいのちへの入りができていないと上層部が言ったという話しだったけれど、このことをどう捉えているの?この頃あなたは自分自身のいのちへの入りに注意してるの?しばらく自分のことを反省すべきよ」この姉妹の言葉は、洗面器いっぱいの冷水を全身にかけられたようでした。あまりにも圧倒されてこの言葉を受け止めきれず、こう思いました。「私は毎日兄弟姉妹と集会や交わりをしているし、彼らがどんな状況でも手助けと支えを与えられる。神様の御言葉を伝えるときは、自分の個人的な体験を交えて話したりもしている。それでどうして私はいのちへの入りができていないと言えるの?私にできているかどうかをあなたに識別できるっていうの?あなたは私に求めすぎる。私からすれば、あなたこそ交わりをするとき私ほど認識が深いわけでもない。あなたの要望どおりにしたら、どう交わればいいか見当がつかないわ」姉妹の言葉がいつまでも頭に残って、思い出せば思い出すほど腹が立ちました。リー姉妹の顔を見るのさえいやだと思いました。翌朝にはパートナーのワン姉妹に「昨日の夜、チャン姉妹にも、近頃私たちがいのちへの入りではなく働きにばかり集中しているのではないかって聞かれたわ」と言われました。そう聞いて、私はとりわけ不愉快になり心の中でこう思いました。「どうして姉妹までそんなことを言えるの?私は彼女とよく話し合いをしてるし、私はいつも交わりに自分の体験を交えているし、彼女もそれは聞いているのに、どうして私にいのちへの入りができていないなんて言えるの?今、二人の姉妹が同じことを言った。まさか私は本当にいのちへの入りができていないということなの?もしそうなら、どうして私に兄弟姉妹への水やりができるの?私にはこの本分を尽くすのは無理だってこと?」その時には私は空気が抜けたゴムまりのような状態になっていました。すっかり落胆したのです。苦しみの最中、私は神に祈りました。「全能神よ。私の心は今、苦しみに満ちています。この環境をどのように体験すべきかわからず、どのような教訓を学ぶべきかもわかりません。神様、お導きをお願いします。御心を悟らせてください…」

祈りの後、私は交わりのある一節を思いました。「神の御心はとても明快です。さまざまな環境、さまざまな兄弟姉妹、さまざまな問題を用いてあなたを試し、あなたを窮地に落とし入れ、精錬を受けさせ、自己認識するようになさるのです。最終的には、あなたは本当に自分自身を知り、自分が無であると悟り、真理を喜んで受け入れ、取り扱われて刈り込みされることを受け入れ、神の働きに従うことで信仰において正しい道に入ります。これが神の御心です。神の御心は、環境を用いてあなたが倒れて立ち上がれないようにして死なせることでは決してありません。そうではなく、あなたが自分自身を完全に認識して、すぐに立ち直って真理を求めるようになさるのが神の御心です。なぜなら人は絶望的なときだけ神に頼り真理を求めるからです。…あなたを鍛えて刈り込む目的は、あなたを倒すことか、用いるにもっとふさわしくすることでしょうか。あなたの真理と現実の欠如を暴くのは、あなたを裁いて断罪するためか、それともあなたが立ち上がって真理を身につけ、真理を求めるようにするためでしょうか。このことを何度も熟考すれば、神の御心がわかるのではありませんか」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(7)』の「問答集」より)この説教についてじっくり考えると、私は自分が最近次から次へと出くわした嫌な人や出来事や物事は実際には神の私への刈り込みと取り扱いから来ていたのだとはっと悟りました。それらは神の義なる性質が私に現れた姿であり、神の厚意がこめられていたのです。神の御心は私を否定的な状態に追いやることでも、物事の是非について言い争うような状態におくことでもなく、むしろ私を御前に引き寄せて自己反省させ、私が自分自身を知り、真理を求めることに専念し、自分の性質の変化を遂げるように努力させることだったのです。しかし、刈り込まれて取り扱われたとき、私は逆に自分を省みることも、真理を求めることも拒みました。私の心は葛藤と不従順で満たされ、自分がそのような環境に押し込められたのは、この種の本分を果たすのに自分が不適格であることを暴露するためだとさえ思ったのです。そのため否定的な消極性の状態で生きていました。本当に道理が通じていなかったのです。過去数日の間に何人かの姉妹にいのちへの入りができていないと言われたことを振り返り、神が姉妹たちを用いて私にあることを思い出させようとなさったのだと悟りました。それは、自分にどんな問題があるのか、なぜ姉妹たちが私はいのちへの入りができていないと言ったのか、そもそもいのちへの入りとは何かを、落ち着いてしっかり反省しなくてはならないということでした。

後に、「いのちへの入りとは何か、いのちへの入りの道」という交わりの次の箇所を読みました。「いのちへの入りとは真理と神の御言葉に入ることを指します。それは人の堕落の実態とその堕落の本質を理解し、真理を受け入れ、神の御言葉を受け入れ、それらを自分のいのちにすることができるということです。この種の経験に関連するものだけが、いのちへの入りです」「いのちへの入りとは真理に入ることを指します。真理への入りとは、人が神の御言葉を体験し、真理の理解に達することに基づいています」「私たちが神についての真の認識を持つとき、それは私たちが真に神の御言葉に入ったことを証明します。私たちが自分の堕落した本質と自分の堕落の実態について真の認識を持つとき、それも私たちが真に神の御言葉に入ったことを証明します。私たちが神の働き、神の現実、神の本質に真に従順であるとき、神の要求をすべて真に満たすとき、それも私たちが真に神の御言葉に入ったことを証明します。御言葉に基づいた真の入り、すなわち、真理への真の入りがあり、達成されるべき結果が達成されている限り、私たちがいのちへの入りという現実を自分のものにしたことになります」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(2)』の「問答集」より)この言葉のおかげで、私は突然目の前がぱっと明るくなったように識見を得ました。結局のところ、いのちへの入りとは、人が神の御言葉を体験して真理を理解し、真理の現実に入ることを指していたのです。つまりそれは、神の働きを体験するとき神の御言葉を実践して、徐々に真理を理解し、やがて神の性質と働きについて認識し、さらには自分の堕落した本性と本質、自分の堕落の真の姿についても本当に知ることです。人が自分を蔑み、自分の誤った意図とサタン的な本性に背を向け、神の御心と要求どおりに真理を行い、神に従い、神を満足させることができることを意味します。人はこのようにして初めて真にいのちへの入りができたとみなせます。いのちへの入りのこのような条件とそれが表に出る様子を自分と比べて、私は自分の最近の状況を振り返らずにいられませんでした。兄弟姉妹から私は自分の本分の重荷を負っていない、彼らの問題の解決に注意を払っていないと指摘されて以来、彼らが私について同じようなことを言わないようにと、彼らの状況を見守るためにせわしく動き回り、ディボーションのために割り当てられた時間を使ってまで神の御言葉の中に兄弟姉妹の問題を解決できる箇所はないか探しました。けれど私自身が落ち着いて神の御言葉のことをしっかり考えたことも、それらの御言葉の中に真理と神の御心を求めたこともほとんどなかったのです。本分を果たす際に、自分の思いや考えにまったく注意せず、自分がどの堕落した性質を露呈したか、どの真理に入る必要があるか、ましてや自分が歩んでいた道が正しかったか間違ってかを自省したこともありませんでした。兄いた弟姉妹との集会で交わりをするときはいつも神の御言葉を取りあげて、兄弟姉妹が真理を実践できるように御言葉を伝えるだけで、こうした機会に自分自身を省みたり、御言葉に入っていこうとしたことはありませんでした。私の堕落した性質がある程度露呈しても、単にそれを神の御言葉に照らしたり、励みや慰めになる箇所はないか探したりしただけでした。これで心の中の不快感は和らぎましたが、神の発言にそって自省したり自己分析したりして自分の堕落した本質を知ろうとしたことはほとんどありませんでした。その結果、私は自分を忌み嫌うことはなく、それ以後も真理の実践に専念していませんでした。そのような環境にまた遭遇したときは再び同じ堕落を露呈しました。自分の中に明らかな兆候がこれだけありながら、どうして私はいのちへの入りを達成したなどと言うことができたのでしょうか。評判と地位のために、働きに精一杯励んでいましたが、普段神の御言葉を飲み食いしているときも、御言葉を思案することを重要視していませんでした。単に教義的な知識に満足していただけで、神の御心と要求も、神がこうした御言葉でどんな結果を成し遂げようとされるのかも真に認識していなかったのです。真理が本当にわかったわけでも、ましてや神の御言葉を実践したという証しもありませんでした。私には本当に実際的な体験がなく、いのちへの入りなどまったくできていなかったのです。最近上層の指導者と兄弟姉妹に刈り込まれ、取り扱われたことをさらに振り返ると、自分が矛盾に満ちて反抗的で、議論好きであることが露呈されたのだと悟りました。もし真にいのちへの入りができていたなら、刈り込まれて取り扱われたとき、真理を求めて自分を省みることができたはずで、否定的でつむじ曲がりな状態で生きていなかったことでしょう。私はその時やっと自分は本当にいのちへの入りができておらず、兄弟姉妹との交わりでは字句と教義について大言壮語したにすぎないのだと完全に納得しました。「勇将の下に弱卒なし」ということわざのとおりです。私自身がいのちへの入りができていないのに、どうして兄弟姉妹を神の御言葉の現実に引きいれることができたでしょうか。このような働き方では、兄弟姉妹を陥れ、滅ぼしてしまいかねないのではないでしょうか。そう悟るとぞっとしました。幸いなことに、神はあの姉妹たちを用いて、私が自省し自己認識を得るべきであるとちょうどいい時に思い出させてくださいました。そうならなかったら、私は表向きの働きと雑事だけに専念し続けることはあっても、自分自身がいのちに入ることはなく、結局はいのちの性質にわずかな変化もなかったことでしょう。そして、神に暴露され、排除されるしかなかったでしょう。神の導きに感謝します。神がこのような人々、出来事、物事を采配されたことはとても素晴らしく、まさに私が必要としていたものでした。そのように刈り込まれて取り扱われることで初めて、私は真のいのちへの入りとは何かがわかり、自分の現状についてある程度の認識を得ました。真理を求めることにも、いのちへの入りにも注意しなければ、ついには失敗に終わるまでそのままの信仰を続けていただろうと悟ったのです。

その後、私は意識的に自分の入りに集中しました。毎日、ディボーションの際は神の御言葉を思案しようと真剣に訓練し、御言葉の中に真理を求めて実生活で実践することに注意しました。出会った人や出来事や物事との関わりにおいては、自分の思いと考えを把握し、本分を果たす際の意図や不純なものを反省し、自分の本性と本質を分析し、実践といのちへの入りの道を神の御言葉から探し出すことに専念しました。兄弟姉妹の問題を解決するときは、単に説教して彼らの状況を解決しようとはしなくなりました。自分にも同じ問題がないかどうか、兄弟姉妹とともに入りができないか自省し、自分を知ることに専念しました。しばらくそうしていると、自分と神との関係が前より近くなったと感じ、神の御言葉の経験と認識を少し得ました。また、教会での働きにおいてもある程度の成果を上げました。その後、兄弟姉妹の交わりから、彼らもみな問題に遭遇したとき各自の意図や不純なものについて反省するようになり、本性や本質を分析していることを知りました。彼らも神の御言葉のいくつかに入ることができたのです。神に感謝します。

こうした刈り込みと取り扱いを経て、私はいのちへの入りとは何かについて本当の認識を幾分か得て、自分の欠点がもう少しはっきり見えるようになりました。本分を果たす際には、自分の入りに注意するようになり、真理を求めてそれを実践することがどれほど甘美であるかを知りました。これはすべて神の働きが私に及ぼした効果でした。神に感謝します。これからはどんなことを経験しても、しっかり現実的に真理を求め、いつか近いうちに性質の変化を成し遂げられるように努めます。

ポルトガル 雨露

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