善人とは何かを理解する

2023年9月26日

わたしは小さいころから、公平になり、理性を持って人に親切にし、人の困難を理解して、細かいことを言うなと両親に教えられた。それでこそ善人になり、人に尊敬され見上げられると。わたしもそうあるべきだと思ったし、親切で思いやりがある人になろうと自分に言い聞かせた。家族や他の村人と言い争うことはなく、人からどう見られてるかを気にしてた。村人はよくわたしを褒め、人間性がよく思いやりがあって、悪く言われても争わないと言った。そんな褒め言葉にとても嬉しくなって、こう思った。人は友好的であるべき。誰かが間違いを犯しても、理解してあげなきゃ。これが善人になる基準だと確信して、信者になってからもそのようにした。

2021年11月、わたしは教会執事に選ばれ、他の兄弟姉妹数名と福音を広め始めた。その中のケビン兄弟は、私と同じ村の出身。素質があり、福音を説くときの交わりも本当に明瞭で、例を使って説明し、真の道を調べる人の理解を助けられる。でも、いささか傲慢で、人の意見を受け入れたがらないことに気づいたの。それに、よく本分で原則に従わず、伝道でも神を高めて証しせず、自分が改宗させた人数をよく話す。兄弟姉妹は彼の話を聞きたがり、崇拝するようになった。真の道を調べる人が、この人は素質が優れ説教も見事だと言うほど。気づいたの。いつも自分を高めて誇示し、伝道でも終わりの日の神の働きを証しすることや、宗教的観念の解決に専念していない。ケビンにこのことを言いたかったけれど、ちょっと考え、少し待ってみることにした。ケビンに、重箱の隅をつつかない、親切で理知的な人だと思われたかったから。もっと励まし助けなきゃと思った。その後指導者から、伝道に関連する原則がたびたびグループに送られてきて、わたしは、ケビンの振る舞いに関連すつことについて間接的に話したの。この交わりを通じて問題に気づいてほしいと思ったから。また問題を指摘しようと思ったけど、こう考えた。彼はかなり傲慢な人だから、わたしのアドバイスなんか耳を貸さないって。理不尽で優しくない人だと思われ、悪い印象を持たれるのが嫌だった。関係が行き詰まって協調できなくなったら、いい人というわたしのイメージが台無しになってしまう。そう考えて言葉を飲み込んだ。申し訳なく思って、神の御前に出て祈り真理を実践する力を求めたわ。その後、ケビンや他の兄弟姉妹数名と一緒に、ある村に伝道に出かけた。ケビンは今回もまた交わりで自分を誇示し、金銭に執着せず、神のために力を尽くしてると言って、真理の交わりに集中しなかった。帰り道、勇気をふるってこう言ったの。「あなたは説教と証しで原則に入ってなかった。福音対象者と真理を交わり、神の御前に導くことに集中しなきゃ――」するとワン兄弟はそれを遮ってこう言った。「僕の交わりに問題はない。あなたは考えすぎだ」って。これ以上言ったらプライドを傷つけ、仲違いしてしまうと思った。それに、彼がわたしをよく思わず、好印象が壊れると不安で、それ以上は言わなかった。これで十分だし、彼も段々わかるはずと思ったの。その後、いつも忙しくしてるのに、伝道の成果がよくないことに気づいた。興味を持つ村人もいたけど、ケビンの交わりを何度か聞いても、まだ理解はしなかった。しかも噂に影響されて観念を持ち、もう調べようとしなくなった。中にはケビンをとても尊敬して、彼の交わりしか聞こうとせず、他の人の交わりに耳を貸さない人もいた。わたしはそれを見て気まずくなり、自分を責めた。この問題はケビンと大いに関係していた。もっと早く指摘してれば、認識して変わっていたかも。そうすれば福音の働きが傷つくこともなかった。今度こそ指摘しようと思ったけど、仲が壊れるとまた不安になり、心底葛藤して、思った。指導者に言って、彼と交わってもらおう。本分での協力関係が傷つくこともないし、仲良くやっていける。そこで指導者にケビンの状況を話すと、関連する御言葉を見つけてわたしたちを入らせた。それで、ケビンが少し変わったように見えて、もう終わりにした。

あるとき、この件を別の姉妹に話すと、あなたはいつも人間関係を守ろうとしてる、それはおべっか使いのしるしだと指摘された。でも最初はそう見なかった。おべっか使いのわけがないと思ったの。そうした人はずる賢いけど、わたしはずるいことなんかしてないし、そんなのあり得ない、って。そのときは指摘を受け入れたくなかったけど、そこに学ぶべき教訓があることはわかってた。神に祈り、自己認識できるよう導きを願った。その後、この御言葉を読んだの。「人の振る舞いと他者への接し方は、神の言葉に基づいていなければなりません。これが人の行動の最も基本的な原則です。人の行動の原則を理解しないで、どうして真理を実践できますか。真理の実践は、空虚な言葉を述べたり、決まり文句を暗唱したりすることではありません。生活においてどんなことに遭遇しようと、そこに人の行動の原則、出来事への視点、本分の遂行が関わっている限り、人は選択を迫られているのであり、真理を探し求め、神の言葉に根拠と原則、実践の道を探しなさい。このように実践できる人は、真理を追い求める人です。どれほど大きな困難に遭遇しても、このように真理を実践できることは、ペテロの道、真理を追い求める道を歩むことです。例を挙げます。他者と接するときにはどのような原則に従うべきですか。あなたの本来の見方は、誰の気分も害してはならず、平穏を保ち、誰かが面子を失うのを避けて、将来は皆が仲良く付き合えるようにする、というものです。この見方に抑えられたあなたは、人が悪いことをしたり、間違いを犯したり、原則に逆らったりするのを見ると、その人にそのことを注意するよりは黙認します。自分の見方に抑えられ、人の気分を害するのを嫌うようになるのです。付き合う相手が誰であれ、面子や感情、あるいは長年にわたる付き合いから生じる気持ちについて考えることで妨げられ、人を喜ばせようと聞き心地のよいことをいつも言うようになります。満足できないことがあっても、あなたはそれも黙認します。密かに鬱憤を晴らし、悪口をいくつか言うだけで、その人と直に会うと事を荒立てず、やはりその人との関係を維持します。このような行動をどう思いますか。これはイエスマンの行動ではありませんか。実に狡くはありませんか。これは行動の原則に反しています。そうであれば、このように振る舞うのは卑しいことではないですか。このように振る舞う人は善人ではなく、高貴でもありません。あなたがどれほど苦しんだことがあろうと、どれほどの代償を払っていようと、人の行動の原則なしに行動するなら、あなたは失敗したのであり、神の前で認められることも、神に記憶されることも、神を喜ばせることもありません(『終わりの日のキリスト講話集』「立派に本分を尽くすには、少なくとも良心と理知がなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉に照らして反省した。おべっか使いとは思わないけど、自分はいったいどう振る舞ってた?あのとき、ケビンが伝道の働きでよく自己顕示するのを見ていたので、その問題を指摘し、彼が自己認識して、原則に沿って本分を尽くせるようにすべきだった。でも、はっきり言って関係が傷つくのを恐れた。だからいつも彼の気持ちを考え、はっきりと言わなかったの。もっと励まし、いい人だという印象を与え、評価してもらおうと思ったほど。でも実は、本分で兄弟姉妹と協力し、指摘すべき問題に気づいたときは、互いの欠点を補い、一緒に教会の働きを守るべきだとわかってた。でもわざと間違ったことをして、真理を実践しなかった。そのためケビンは自分の問題に気づかず、福音を説きながら自分を誇示し、真理の交わりに専念しなかった。そのせいで、真の道を調べる人の宗教的観念を解決できず、邪魔されて集会に出るのをやめる人もいた。働きへの影響を見て自分を責めたけど、ずばり言えば彼に偏見を持たれ、協力関係が傷つくと恐れた。そこで彼を怒らせたくないと悪知恵を働かせ、教会指導者に交わってもらった。自分が本分でみんなとの関係を守り、甘やかし、教会の益をまったく守らず、正義感がなく、原則がこれっぽっちもないとわかった。真理を実践する人じゃない。まさにおべっか使いだわ。その後、反キリストを暴く御言葉の一節を読んだ。「表面上、反キリストの言葉はひときわ優しく、洗練されており、品格があります。原則に違反し、教会の働きにおいて干渉好きで出しゃばりな人がいても、それが誰であろうと、暴くことも批判することもありません。反キリストは見て見ぬ振りをし、この人は何事においても寛大だと人に思わせます。人のあらゆる堕落や悪行は、寛容と寛大さでもって迎えられます。反キリストは怒らず、発作的にかっとなることもなく、人が間違いを犯して神の家の利益を損なっても、腹を立ててその人を責めることはありません。誰が悪事を犯して教会の働きを乱そうと、自分には関係ないかのように気に留めず、そのために人の気分を害することも決してありません。反キリストが何より気にしていることは何ですか。自分を尊敬する人が何人いるか、自分が苦しんでいるときにそれを見ていて、そのために自分を尊敬してくれる人が何人いるかです。苦しみには絶対に見返りがなければならないと、反キリストは信じています。どんな困難に耐え、どんな代償を支払い、どんな善行をなし、どれほど人に気遣いや配慮、愛情を示すとしても、それはすべて人前で行なわなければならず、できるだけ多くの人に見られなければならないのです。このように振る舞う目的は何ですか。人を取り込み、自分の行動、振る舞い、個性をできるだけ多くの人に称賛させ、認めさせることです(『反キリストを暴く』第9条(10)〔『言葉』第4巻〕)。御言葉を読み終わって、罪悪感を覚えたわ。神が目の前にいて、わたしのサタン的性質を暴いてるよう。振り返ると、わたしはいつも思いやりがある親切な人になろうとしてた。そうすれば、人に尊敬されて褒められ、好かれると思ってたから。他の兄弟姉妹と本分を尽くすときも同じ。ケビンの問題について何も言わなかったのは、彼の面子を傷つけ、仲が壊れるのを恐れたから。でも実は、わたしの行ないはすべて自分の名誉と地位を守るため。表面的な優しさで自分を装い、よく見せて人の機嫌をとってた。愛情、忍耐、寛容さがある、優しい善人だと思われるように。でも教会の働きや、兄弟姉妹のいのちが傷ついているかどうか、顧みてなかった。ようやく自分のいい加減さとずる賢さがわかったの。誰の気分も害さず、いい人に見えても、実はすべての行動の裏に自分の卑劣な動機があった。人を騙し、神を欺いてた。反キリストと同じ性質で、教会の働きを犠牲にして自分のイメージと地位を守ってたんだとわかったわ。そんな道を歩み続けていたら、とても危険。ますます神から離れ、最後は捨てられてしまう!それに気づいて自分を憎み、本当につらくなって神にこう祈った。「神よ、わたしはいつも自分を偽って美化し、いいイメージを作ることに専念していました。こんな道はもう嫌です。堕落した性質を捨てられるよう、どうかお導きを」。

その後、別の御言葉を読んだ。「人が他の人を判断する基準は、その人の振る舞いである。行いが善い者は義であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その人の本質が神に従うものかどうかである。つまり、その人の振る舞いがよいか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかにかかわらず、神に服従する者は義なる人であり、そうしない者は敵にして悪人である(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。だから、世界一陰険で邪悪な人だ、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には、極めて親切かつ献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、そして家族の者たちを細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う(『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉からわかった。人が他人を測る基準は、振る舞いが立派かどうか。立派に振る舞う人はいい人で、振る舞いが悪い人は悪人。でも神の基準は、人が神の道に従うかどうかと、その人の本質、そして神に対する服従への態度。表面的な振る舞いの良し悪しで決めてはだめ。御言葉の暴きが心に突き刺さった。わたしは子どものころから、親戚や他の人と口論せず、争いもしなかった。誰かと言い争いになろうとしたら、その人をなだめて解決する。村人からいい人だといつも褒められ、それで自分はいい人の基準に達したと考えた。でもはっきりした。悪事を犯してるように見えなくても、言動が誠実じゃないって。ケビンが原則なしに本分を尽くし、いつも自己顕示して、働きの効果を損ねてるのを見ても、わたしはいい人のイメージを守るため、暴きも助けもせず、教会の利益を守らなかった。だから他人の前ではいい人に見えても、神の前で神と真理に敵対してた。わたしはただ悪事を犯してたの。表面的な振る舞いで人の善悪を判断するのは、正しい基準じゃない。いいことをたくさんしてるように見えても、神の働きや御言葉に強く逆らい、断罪する人もいる。それは悪人。一緒に働いてた姉妹のことを思い出した。わたしが見る限り、言葉遣いは温かくも親切でもなかったけど、真理を受け入れ、真理の原則に沿って本分を尽くす方法を探求できたし、真理に沿って行動してない人がいると、言うべきことを言っていた。問題を指摘することができて、正義感があったの。それを考えて決意が生まれた。間違った見方に従って、いい人に見せかけようとするのはやめようって。御言葉の原則に沿って生き、本当の善人になることを目指さなきゃ。

御言葉を読んで、実践の道が見つかったわ。全能神は言われます。「人が何より努力して成し遂げるべきなのは、神の言葉を自分の礎とし、真理を自分の基準とすることです。そうして初めて、光の中で生き、正常な人間らしく生きることができます。光の中で生きたいと願うなら、真理にしたがって行動すべきです。誠実になるのであれば、誠実な言葉を語り、誠実なことを行なうべきです。真理の原則がなければ、行ないの礎はありません。人がひとたび真理の原則を失い、よい振る舞いだけに集中すると、ごまかしと偽りが間違いなく生じます。行ないに原則がなければ、振る舞いがいかに立派でも、その人は偽善者です。他の人をしばらく騙すことはできるかもしれませんが、決して信頼できません。神の言葉にしたがって行動し、振る舞って初めて、人は真の礎を持ちます。神の言葉にしたがって行動せず、立派に振る舞うふりをすることだけに集中した結果、善人になることができますか。絶対になれません。立派な振る舞いは人の本質を変えられません。人の性質、思考、観点を変え、人のいのちとなれるのは、真理と神の言葉だけです。……他者の短所、欠点、過失を直接指摘し、批判しなければならない場合があります。これは人に大きな益をもたらします。人を実際に助け、人にとって建設的です。そうではありませんか。たとえば、あなたがひときわわがままで傲慢だったとします。あなたはそれに気づいていませんが、あなたをよく知る人がやって来て、あなたにその問題を伝えます。あなたは内心こう考えます。『わたしはわがままなのか。わたしは傲慢なのか。他の誰もあえてわたしに言おうとはしなかった。でもこの人はわたしのことをわかっている。この人がこのように言えるというのは、まさにその通りなのだろう。時間をかけてこのことをじっくり反省しなければ』。その後、あなたはこの人物にこう言います。『他の人は聞こえのいいことを言うだけ、褒め言葉をくれるだけで、これまで誰もわたしと率直に話してくれたり、わたしのこうした欠点や問題を指摘してくれたりしなかった。わたしに率直に教えてくれることができたのは、あなただけだ。本当に素晴らしいことで、大いに役立った』。これが心と心を通わせるということではないですか。相手は少しずつ、心で思っていること、あなたをどう思っているか、また、自分がこの件で観念や想像、消極性や弱さを抱いていたが、真理を求めることでそこから逃れられた経験をあなたに伝えました。これが心と心を通わせるということであり、魂の交流です。では、語ることの背後にある原則はつまるところ何ですか。それは、心の内にあるものを述べ、自分の真の経験を語り、本当に考えていることを話すことです。そうした言葉は人に何より益をもたらし、人の糧となり、役に立ち、前向きです。偽りの言葉や、人に益や啓きをもたらさない言葉を述べるのを拒みなさい。そうすることで、人を傷つけたり、躓かせたり、消極性に陥れて負の影響を与えたりすることを避けられます。前向きなことを言わなければなりません。できる限り人を助け、人に益をもたらし、施し、人の中に神への真の信仰が生じるように努めなければなりません。また、神の言葉に関するあなたの経験や、あなたが問題を解決する方法から、人が助けと多くの収穫を得て、神の働きを経験して真理の現実に入る道を理解することができ、いのちに入り、いのちを成長させることができるようにしなければなりません。これはすべて、あなたの言葉に原則があり、人を啓発していることから来る成果です(『真理を追い求めることについて』「真理の追求とは何か(3)」〔『言葉』第6巻〕)。御言葉に自分を律する原則を見つけたわ。つまり、御言葉に沿って誠実な人になる。人の問題を見たらそれを指摘し、助けることが、その人のためになる。教会の働きを支え、みんなを啓発すべき。この道を理解してすぐ、真理を実践し、ケビンと心を開いてこの問題について話し合おうと思った。それは、彼が本分への態度を正し、堕落した性質と本分での欠点を正せるようにするため。それがためになる。そこでワン兄弟と会い、彼の問題について話そうとしたんだけど、そのときまた不安になって、彼にどう思われるかと心配になったの。でも、自分が真理を実践せずに働きを損ねたことを思い出し、罪悪感を感じた。神はわたしの考えと行ないを吟味なさる。誠実な人にならなきゃ。イメージを守って真理に背を向けちゃだめ。そう考えると、堕落した性質を捨て、ケビンに問題についてありのまま話す勇気が湧いた。すると驚いたことに、話を聞いた彼はそれを受け入れ、こう言ったの。「僕は原則を十分理解してなかった。今後も問題があれば、どうか言ってほしい。助け合い、一緒にしっかり本分を尽くそう」。それを聞いて胸が高鳴り、心から神に感謝したわ。同時に恥ずかしくなって、これまで真理を実践しなかったことを後悔した。この件を話してたら、もっと早くに働きを改善できたし、彼も堕落した性質を認識できてたのに。そして実感したの。真理の実践は人と自分、そして本分に有益だって。今は兄弟姉妹の問題を見ると、積極的に指摘してる。それが真理の実践で、その人の助けになるとわかってるから。それに、神のお求めに沿って生き、真理の原則に沿って行動するのが、真理を実践して善人になる唯一の道だと経験したわ。

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