真理を理解することでのみ、自らを真に知る

2019年11月28日

私は常に、外面的な実践が適切であり、何の堕落も人に見せなければ、それが変化であるという意見の持ち主でした。そのため何をするにしても、外面的な実践にひときわ注意を払ってきました。自分の実践が正しいかどうかだけに気をつけ、外面的な行動と実践が適切でありさえすれば大丈夫だと思っていました。刈り込みを受けたときも、自分の実践に間違ったところがなかったかどうかだけを気にかけ、自分の実践の間違いが証明されて初めて納得しました。自分の堕落した本性を認識することについては、それ以上の交わりを受け入れなかったのです。しかし、後に兄弟姉妹から、人は自分の本性を知ることでのみその性質を変えられるけれど、あなたは自分の本性がわかっていないと言われました。兄弟姉妹のその言葉を聞いてからというもの、私は自分の本性を認識するよう努め始めました。誰かが「そのように自分を誇示するのは、あなたが傲慢さという本性に支配されていることを示している」と言えば、「ええ、私は傲慢です。私の本性は傲慢なのです」と答え、別の誰かが「その型破りで気ままな行動は、あなたの邪悪な人間の本性に支配されている」と言えば、「ああ、私の邪悪な本性」とそのまま繰り返しました。それぞれの行動が自分のどの本性に支配されているかをオウム返しに言いさえすれば、自分の本性を知るのは難しくないと思っていたのです。誰かに「その行動はどの本性に支配されたものか」と訊かれたら、「傲慢、邪悪、悪意、ずる賢さ……」と答えるのです。こうした問いかけと返事は空欄を埋めるようなもので、とても簡単に思えました。しかし結局は兄弟姉妹に、あなたは自分の本性を表面的にしか知らないと言われました。そこで、後に自分を認識することについて話した際、「私は余りに傲慢で、際限がありません。私は余りに邪悪で、余りに悪意があります」と言いました。以前の認識に「余りに」という言葉を付け足せば、自分の認識が深まるだろうと思ったのです。私は自分の本性を認識せよという、神の人に対するご要求の意味がわかっておらず、ゆえに自分が堕落をあらわしたときや、人間の本性を暴く神の御言葉を見たときは、規則に従うという観点からしか理解しませんでした。本当に理解して心から知るのでなく、自己認識についての言葉を繰り返すだけの私は、ほとんどオウムのようでした。自分を憎まず、それがいかに危険なことかもわからなかったのです。神の厳しい御言葉を聞いても衝撃を受けず、それどころか気にもなりませんでした。そのため、私の性質は少しも変わらなかったのです。たとえ私が愚かで感覚がなく、素質が劣っていても、神は私を見捨てられず、代わりにいつも私の先に立って私を啓き、私が自分の本性と実質を知り、自分の性質を変化させる道を見つけるよう導いてくださるのです。

数日前、私はある兄弟と新しいホストファミリー宅へ引っ越しました。引っ越し後にホストファミリーの年配の姉妹と話した際、その姉妹は以前に迎え入れた兄弟姉妹がいかに堕落を露呈していたかについて語りました。また、その人たちに対する自分自身の考えも話しました。その話を聞いても、私は反応することも心に留めることもせず、その姉妹と真理について交わることもしませんでした。そのようにして時間が過ぎていきました。数日後、私たちと本分を尽くしていた別の兄弟二人が訪れ、数日間そこに滞在しました。その兄弟たちが去った後、姉妹は彼らについての考えを話しましたが、その瞬間、私の心が姉妹に対してこう反応しました。「あなたが言ったことの大半は事実に当てはまらない。すべてあなたの疑いだ。兄弟姉妹が互いに愛し助け合うよう、神は求めておられる。私は真理を実践し、正直であることの真理をあなたと語り合わなければならない」私たちが語り合った二日後、姉妹は私のところに来て、私の言ったどの文章が、そして私のしたどの行為が自分を束縛していたかを告げました。そしてすべての思いを吐き出して泣きました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは誰に対しても強い疑いを抱いているが、今度も私を疑っている。それは良くない。あなたが私に偏見をもたないよう、ここではっきり話し合う必要がある」そこで私はその姉妹と率直に話し、彼女が見せた本性と、人を疑って決めつける振る舞いを指摘しました。姉妹はそれを受け入れたように見えましたが、内心では納得していませんでした。それからの日々、姉妹はあれやこれやの病気にかかっていると言いました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは内心納得せず、代わりに受け入れる振りをしている。これは偽りであり、欺瞞ではないのか。病気のときに学ぶべき教訓がある。あなたは立て続けに病気になったのだから、反省すべきだ」そう考えていると、私は新たな「重荷」を背負うことになり、再び姉妹と話し合ったうえ、反省して自分を知るようにと言いました。しかし話し合いのさなか、姉妹の顔色は優れず、私の言葉を受け入れる振りさえしませんでした。私は非常に驚き、こう思いました。「こちらがこんなに気遣って手助けし、何度も繰り返し語り合ったのに、あなたは受け入れようとせず、私を疑ってすらいる。あなたは非常に不正直な人だ。あなたが真理を受け入れないなら、他の誰があなたを助けられようか。もういい、私には何もできない。あとはあなた次第だ」私はその姉妹があまりにずる賢いと思い、一切の非難と責任を彼女に押しつけました。つまり、自分こそが真理を実践し、進んで兄弟姉妹を助け、神の御心に配慮するよき兄弟だと信じていたのです。このように、私はこの姉妹に対する思い込みでいっぱいになり、彼女も私の言うことをそれ以上聞かなくなりました。

私はこのジレンマに直面して自省せざるを得ませんでした。「自分は間違っているのか。姉妹の欠点を見て、思いやって手助けしたのは間違っていなかった。神に頼らなかったのがいけなかったのか。いや、私はあの姉妹と交わる前に毎回神に祈った。自分の実践においても何ら間違ったことはしなかったし、過去に他人を手助けしたときはこんな深刻な状況には陥らなかった。だから、問題はきっとあの姉妹にあり、それは彼女が純真ではないからだ」しかし、こう考えていくと問題があるように感じられました。特に、姉妹が病気で悩んでいるのを見て後ろめたく思いました。私は心の底から姉妹を助けたいと思いましたが、どう協力したらいいのかわかりませんでした。私は神の御前に出向き、その助けを求めるしかありませんでした。そして次の神の御言葉を読みました。「あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古代の蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性ほど美しいが、あなたの心はレバノンの女性ほど優しくはなく、カナン人の美しさの比較対象になどならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに欺きに満ちている。(『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」〔『言葉』第1巻〕)この神の御言葉は即座に私の心を打ち、最近自分がしたことや、その背後にある思いを反省せずにはいられませんでした。あの姉妹が他の兄弟姉妹を批判するのを聞いたとき、私は自分には関係ないし、それで自分が困ることはないと思い、反応しませんでした。しかし、私が知っている兄弟二人について偏見を口にしたときは、彼女が誤解しているかもしれないと思ってすぐに話をしました。また、私のそれまでの言動に対する姉妹の考えを聞いたときは、私について他にも思い込みがあるかもしれないと思い、特に注意して話をしました。私は思いやりをもって兄弟姉妹を手助けしていると言いながら、実際は真理でもって他人を納得させ、打ち負かし、口をつぐませ、私を批判して私の利益を侵害させないようにしたかったのです。自分の振る舞いを考えると、それは思いやりではありませんでした。そこに愛の本質などどうしてありえるでしょうか。振り返ってみると、私は最初からあの姉妹に思いやりも配慮も示していませんでした。私の本性はなんと悪意に満ちていたのでしょう。彼女は神の家族に加わったときから自宅を宿として提供しており、一度も不平を漏らしたことがありません。普段、彼女は集会や交わりに参加していなかったので、いのちの経験は浅いままでした。しかし、空いた時間を見つけては進んで神の御言葉を追求し、それを読みました。真理についてもはっきりわかっていなかったので、陰で兄弟姉妹を判断したりその欠点を述べたりすることを、彼らのために負担を背負うことだと考えていました。兄弟姉妹を疑うことを、率直に話すことと勘違いしていただけなのです。何が疑いで何が誇張かまったくわかっていなかったのに、私はその姉妹に対して何の配慮も示しませんでした。彼女の霊的身丈を無視して、自分の利益に関わる限り見境なく反撃し、自分を知るよう彼女に強要しました。私にはなんと理知が欠けていたことでしょう。他人に私の批判を許さないのはなぜでしょう。たとえ他人が口に出さなくても、私の生き方はサタンのそれと同じではないでしょうか。私がしたことはすべて自分のためであり、自分を守るためでした。自分の利益が侵されない限り、他人のことなど構いませんでした。他人の弱さに配慮を示さず、他人が私の話に耐えられたか、私の話が負の効果をもたらしたかなどとは考えませんでした。私の生き方はサタンの堕落した性質に影響されていました。私が人々にもたらしたのは危害と攻撃でした。どうして他人がそれを我慢できるでしょう。私の言動は神に嫌悪を抱かせ、聖霊に私への働きをやめさせました。私の話がどうして効果的であるでしょうか。

神はこうおっしゃいました。「自分の言葉や行動により自分のほんとうの顔を表すことは、誰にでも出来る。このほんとうの顔がもちろんその者の本性である。もしあなたが、たいへん回りくどい話し方をする者であるならば、あなたには、ひねくれた本性がある。あなたの本性がとても狡猾であるならば、あなたの手口は極めて巧妙で狡賢く、人々をあなたによってとても欺されやすくする。あなたの本性が極めて陰険であれば、あなたの言葉は聞いていて心地良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険なやり方を覆い隠すことは出来ない。あなたの本性がとても怠惰である場合、あなたの言う事は、すべて自分のいい加減な性格や怠惰さに対する非難や責任を逃れることばかりを意図とし、あなたの行動は非常に遅く、おざなりで、真実を隠すことにたいへん優れている。あなたの本性が非常に同情的である場合、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理にたいへん良く則しているであろう。あなたの本性が非常に忠実である場合、あなたの言葉は誠実であり、あなたの行動のしかたは堅実であり、あなたの主人が不信感を抱くようなことはないにちがいない。あなたの本性が極めて好色あるいは金銭に貪欲であれば、あなたの心はいつもそれらのことで一杯であり、無意識のうちに常軌を逸した不道徳的な行動をとり、そのために人々はそれをどうしても忘れることができず、さらには、ひどい嫌悪感を抱くであろう。(『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)人がどのように自分自身を露わにするか、自分の人生をどう生きるかは、その人の本性に支配されるのだと、私は神の御言葉の中で悟りました。内なる本性がどのようなものかによって、外にあらわれる性質がどのようなものかも必然的に決まるのです。もし内側に何か邪悪なものがあれば、行動は邪悪な本性に支配され、決して慈愛を示すことはないでしょう。あの年配の姉妹と話す動機が間違っていた際、私の内側を支配したのは神でも真理でも肯定的な事柄でもなく、サタンでした。私の生き方はサタンの姿そのものでした。ゆえに、私の話は他人に恩恵をもたらさなかったのです。過去にこうした事態に遭遇したならば、外面的な実践に集中したことでしょう。自分は教会を率いていないし、他人と交わるのが上手でないと思い、自分が悪くないことを証明する理由をいくつも探したことでしょう。今日初めて、外面的な実践は決定的な役目を果たさず、むしろ心が正しいかどうか次第だということに気づきました。内なる本質を見つめることは大切です。例えば、他の人を本当に愛しているならば、その人が何を好むかを心の目で見て注意を払い、最後は自分の愛を告白して、その人に愛を感じてもらうでしょう。兄弟姉妹を心の中で愛しているなら、私はもっと注意を払い、彼らの問題にもっと共感を示し、彼らの気持ちにもっと配慮し、正しい行動を取り、適切な言葉と口調で話し合ったでしょう。たとえ他人の問題を解決しなかったとしても、危害はもたらさなかったはずです。私の内側には愛がまったくないので、たとえ外面的な実践が善良で正しくても、私があらわすものは悪意です。神は人類を愛していらっしゃるので、何をなさろうとも、そこには愛のあらわれがあります。神はこうおっしゃいました。「神がこれらのことを言う目的は人々を変え、救うためです。このように話すことによってのみ、神は最善の成果を達成できます。あなたは、神の思いやりのある意図は徹頭徹尾人々を救うためで、それが具現化するものは神の愛です。神の働きにおける知恵の観点から見るか、神の働きの段階や様式の観点から見るか、あるいは神の働きの期間や神の精密な采配と計画の観点から見るかにかかわらず——それはすべて神の愛を具現化します。例えば、誰にでも息子たちや娘たちに対する愛があり、子供たちに正しい道を歩かせるために、人々はみな大きな努力をします。子供たちの弱点を見つけると、穏やかに話せば子供たちは聞こうとせず、変われないだろうと心配し、厳しく話しすぎると、子供たちの自尊心を傷つけ、子供たちは耐えられないだろうと心配します。それゆえ、これはすべて愛の影響下で行われ、多大な努力が費やされます。息子と娘であるあなた方は親の愛を経験したかもしれません。優しさと配慮が愛であるだけでなく、厳格な懲らしめが愛であるのはなおさらです。神は特に人類に対する愛の影響を受け、愛の前提条件の影響を受けます。それゆえ神は堕落した人々を救うために全力を尽くします。神は人々をおざなりに扱わず、むしろその段階に基づいて精密な計画を立てます。時間、場所、声の様子、話し方、そして発揮される努力の大きさについては…、それすべては神の愛を表し、人類に対する神の愛は無限で計り知れないことを十分に説明すると言えます。そして、効力者の試練の只中にあるとき、多くの人々は反抗的な言葉を言い、彼らは苦情を発します。しかし、神はこれらのことについて口論せず、これのために人々を罰しません。神は人々を愛しているので、すべてを許します。もし愛の代わりに憎しみだけが神にあるなら、神は早い時期に人々を断罪したでしょう。神には愛があり、神は口論せず、しかし神は容認し、人々の困難を観察できます。これは、完全に愛の影響下ですべてを行っていることです。(『キリストの言葉の記録』の「神の人類への愛を理解していますか」より)神の本質は愛なので、神のあらわれもまた愛です。人間に対する神の愛は言葉に表されませんが、実際にはその働きに、その働きの各段階に、その働き方に具現化されています。神が各人にいつ、どのように働くか、その人にどのような人物、物事、出来事を采配するか、そしてどのくらい長くその人を精錬するかは、すべて神の緻密な計画と血のにじむような努力を反映しています。神の実践的な働きのすべてにより、人類に対する神の純粋な愛が例外なく浸透します。神は人間をこよなく愛していらっしゃるので、血のにじむような努力を残らず費やして私たちをお救いになり、私たちの誤解と抵抗に耐え、私たちの愚かさと無知を我慢してお赦しになります。これらのすべてによって、神の偉大さと気高さがわかります。それに比べて、私は醜く卑しいサタン的性質を生きてきました。そのすべてを認識した私は、自分の心の内にある悪しきものを率直にあの姉妹に打ち明けました。そして、私たちの間の疎外感はいつの間にかなくなったのです。心の底から神に感謝します。神に栄光あれ。

以前、私の自己認識は言葉にとどまっていました。それは決まった手順で学んだ知識であり、神の御言葉の暴露によって自分の本性を認識することはなかったのです。しかし今日、私はその経験のおかげで理解しています。ひとたびサタンによって堕落させられると、その人の本性はサタンの本性となります。言動にせよ思考にせよ、すべて人間の本性に支配されるのです。自分の本性を認識して初めて、自分の堕落した性質に取り組み、それを徐々に変えることができます。自分の本性をまったく認識していなければ、いつの間にかサタンの本性の支配に苦しみ、神に反抗して抵抗することしかできません。そして言うまでもなく、自分の性質を変えることなど不可能です。これから私は、外面的な実践に注意を払い過ぎるという過去の間違ったやり方を改めます。外面的な実践のことで騒ぎ立てないようにし、規則に従うことを自分の本性を知る基礎とはしません。自分の性質をできる限り早く変えて神に救っていただくよう、神の御言葉の啓示を通じて神の裁きと刑罰を正直に、また誠実に受け、自分の本性を知り、それを認識していきます。

吉林省長春市 文文

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