苦難の中で神の御言葉が信仰を与えてくれた
当時、数人の姉妹と「労働再教育」を言い渡されて、1日13時間、休日も与えられず遅くまで働いた。看守は満足しないと、電気棒で感電させたり、殴る蹴るの暴行を加える。毎日緊張しながら過ごし、洗脳教育を受け、思想レポートを書かされた。そんな長期間の責め苦は本当につらく、御言葉の施しを心から渇望した。あのころは、記憶している御言葉と賛美歌の断片に頼り、支え合うしかなかった。あるとき、副所長に言われたの。必死に働けば刑期が1月短くなるって。はっきり言って、あの収容所には1日たりともいたくなかった。だから必死に働いたわ。トイレに行く時間が惜しくて、水もほとんど飲まなかった。ピンセットを使った手作業を毎日するうち、親指がひどく痛みだしたけど、痛み止めを飲むことしかできない。なのにどれだけ必死に働いても、刑期短縮リストに私の名前が載ることはなかった。やがて、腱鞘炎を起こして、自分の服も洗えなくなった。それに、収容所の生活環境がとても悪いせいで、腸炎とリウマチを患ったの。それでも働かなきゃならない。休むと叱られ、刑期も減らない。本当につらかった。その後、私の病気を知った姉妹たちが、支える方法を見つけてくれたの。あるとき、誰も見ていない隙に、リー・ムーチェン姉妹が御言葉の一節を読んでくれた。「わたしたちの周りの環境から、人々、出来事、事物までを含むすべてのものは、神の玉座に許可されて存在している。どんなことがあっても心に不平不満を抱いてはならない。さもないと、神はあなたに恵みを授けない。病を患ったなら、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にある。体は多少の苦しみに耐えることになるかもしれないが、サタンによる思いは一切抱いてはならない」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉に目が覚めたわ。そう、私が病気になったのは神が許したこと。病気のためにつらく意気消沈してるなら、まったく神に従順じゃない。この期間懸命に働いたこと、ただこの環境から逃げたいと思ったことを振り返ったけど、神の許しで逮捕され、ここにいるんだから、経験すべきことなの。いつ出られるかを決めるのは神。でも私はいつも打算や要求をして、サタンに利用され、もてあそばれてた。赤い大きな竜は常にこうした嘘を使い、人を騙して傷つける。そんな嘘をどうして信じたの?それに気づいて、自分のやり方にこだわるのをやめ、打算や要求を捨てて、いつ出られるかは神に任せた。
当時、御言葉をほとんど覚えてなかったし、こんなにつらくて苦しい環境に長くいて、御言葉の施しがなく、つらさと弱さを実感してたから。逮捕前はいつでも御言葉を読めたし、御言葉から真理を理解し、実践の道を見つけ、心の光と解放感を得ていた。でも監獄では、御言葉を読めないだけじゃなく、ありとあらゆる責め苦に遭い、3年間も耐えたのが自分でも不思議なほど。当時は姉妹たちも同じ状態だった。ある日の夜、仕事が終わったあと、ある姉妹がこう囁いた。「ここにいるのがつらい。どう経験すべきなの?御言葉を読めたらいいのに!もっと御言葉を読むべきだった。もう一段落でも覚えていたら」。私も同感で、思い始めた。また御言葉を読めたら素晴らしいのに、って。当時、体調不良の姉妹が数名いた。一人は高血圧で、歩くのも難しい。重い心臓病の姉妹もいれば、重度の糖尿病なのに毎日働く姉妹もいた。あのころはみんなに御言葉があればいいのにと強く思った。御言葉だけが人に自信と力を与え、困難を導けるから。夜、寝台で祈っていると、面会室で働く二人の姉妹のことを突然思い出した。二人は外の人と頻繁に会ってるし、御言葉を持ってるはず。でもどう接触しよう?すると直後、神が道を開いてくれたの。
ある日、看守長が来て、「世話役」にならないかと訊いた。看守の手伝いよ。看守のために洗濯や料理や掃除、それに汚れ仕事を何でもするの。だから最初は嫌だった。今の作業よりきつそうだから。特に看守相手だと、仕事をしっかりしないと叱られる。そんなとき、ある姉妹が落ち込んでる私を見て話しかけてきたの。「何事にも神の善意がある。だから御旨を求めないと」って。それを聞いて思った。「確かにそうだ。なぜ自分の感情ばかり考え、御旨を求めないの?世話役になれば外で働けるし、面会室の姉妹に会う機会が得られる。神が道を開いてくれたんじゃない?世話役は自由に行き来できるし、姉妹が独房で交わるのを隠してあげられる。何かあれば私が看守に対処すればいい。それっていいことじゃない?」それに、200人以上いる私の組から、世話役に選ばれるのは四人だけ。これは滅多にないチャンスだし、神の不思議な采配。
でも面会室の二人の姉妹に接触するより早く、ある姉妹が御言葉を受け取ったの。ある日の夜、寝台に入ると、若い姉妹がひざまずき、私の耳元でこう話した。外の兄弟姉妹から手紙を受け取り、職場に隠してると。その夜は嬉しくて眠れなかった。次の朝、職場に着くと、その姉妹がこっそり手紙を取り出してくれた。幅はこれくらい。「監獄の皆さん……」この書き出しを見て、すぐ涙が溢れ出した。本当に親切な言葉だったから。涙を拭って手紙を読むと、御言葉がたくさん書かれてた。でも特に印象に残った節が二つあるの。神は言われる。「この段階の働きにおいては、極限の信仰と愛がわたしたちに求められている。些細な不注意から躓くこともあるだろう。と言うのも、この段階の働きは過去のいかなる働きとも異なるからである。神が完全にしているのは人類の信仰であり、それは見ることも触れることもできない。神が行なっているのは、言葉を信仰、愛、そしていのちに変換することである。人々は数百回の精錬に耐えてヨブよりも大きな信仰を得る段階に達しなければならない。神から離れず、信じ難い苦難と、あらゆる種類の責め苦に耐えなければならないのだ。それらの人たちが死ぬまで従順であり、神への大きな信仰を持ったとき、この段階の神の働きは完了する」(『神の出現と働き』「道……(8)」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたがたは終わりの日に神への証しをしなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで歩まなければならず、最後の一息になってもなお神に対して忠実であり続け、神に身を委ねなければならない。これだけが真に神を愛するということであり、またこれだけが鳴り響くような強い証しなのである」(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで心底感動し、励まされた。神はまさに人の心を観察していて、状態や状況を完全に把握し、兄弟姉妹を使って御言葉の潤しと施しを送ったんだと思ったわ。これが神の愛。御言葉を熟考してわかった。家族や仕事を捨て、どんなに苦しくても福音を説いて本分を尽くすことが、証しだと。責め苦を受けて神を裏切らないのも証し。長く苦しんでも神を信じ、付き従うのはさらに強力な証しなの。サタンの前で神に証しする機会を持てたのは、神の称揚で、義のための迫害。御旨がわかると、泣きながら神に祈った。「神よ!あなたの愛に応えていきます。3年間はとても長いですが、警察がいかに拷問しようと、どれだけ苦しんでも、しっかり立って証しをし、サタンを辱めます」。みんなも御言葉を読んで励まされ、信仰を取り戻した。カオ・チン姉妹は、投獄された自分は親類や友人から馬鹿にされたり蔑まれるんじゃないか、噂になるんじゃないかと恐れてた。でも御言葉を読んで理解した。信仰のために投獄されたのは義のための迫害で、恥ずかしいことじゃないし、しっかり立って神に証しすべく苦しむことには価値と意味があると。
その後みんなで話し合い、他の姉妹も御言葉の糧を得られるよう、みんなに渡すことにした。収容所の規則は厳しく、他の組の人と話したり、物を渡すことは禁じられてる。目配せすらできない。たまたま会っても近づけないから、七つの組の百人以上にメモを渡すのはとても危険なこと。そのうえ、看守が毎週私たちのベッドをひっくり返し、身体検査をする。徹底的に調べるの。注意を怠って何か見つかったら、私に調査が及ぶ。看守もこう警告した。「全能神の言葉を広めてごらんなさい、刑期を三年延ばして女子刑務所に送るわよ」って。聖句をみんなに渡した宗教の信者がいたけど、コンクリートの床に座らされ、十日以上も動くのを禁じられた。当時こう思った。「冗談じゃ済まされない。見つかったらさらに苦しむことになる」。考えれば考えるほど難しいと思い、恐怖を感じた。でもこの御言葉を思い出したの。「信仰とは一本の丸太橋のようなもので、卑屈に命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを犠牲にする覚悟のある者は自信を持って不安なく渡ることができる。臆病な恐れに満ちた思いを抱く者は、サタンに騙されているのだ。サタンはわたしたちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れているため」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉にとても励まされた。看守も神の手中にあるんじゃない?見つかるかどうかは神次第。神にすがれば不可能なことはない。恐れを感じたのはサタンに攪乱されたせい。罰と拷問を恐れたから、サタンは私の弱さを捕らえて邪魔しようとした。拷問を恐れて諦めたら、サタンの罠にはまったんじゃない?それに、姉妹たちはこのつらい環境の中で、みな御言葉の施しを必要としてる。みんなに御言葉を渡すのはわたしの本分。作業中に他の組の姉妹と接触するのは難しい。会えるのは食堂だけ。だから食事の時にメモを渡そうと考えた。食堂のあちこちに監視カメラがあるし、食事中は会話や移動を禁じられてる。五分で食べ終わらなきゃならない。だから御言葉をみんなに渡すのは難しかった。でも御言葉を渡す中で、神の不思議な御業を見たの。その日は四組と七組の姉妹にメモを渡そうとした。皿洗いをしていると、四組のシャオ・ミン姉妹が目に入ったの。すると向こうも顔を上げ、こちらを見た。アイコンタクトで皿洗いに来てもらおうとしたけれど、意味がわからないんじゃないかと不安だった。でも神のおかげで、すぐにわかってくれた。そして同時に、食器置き場へ歩き、素早くメモを取り出し彼女のポケットに押し込んだ。数秒で済んで、心から神に感謝した。
幸いにも、七組の知り合いが同じ列に座っていたの。距離はたった一メートル。収容所の規則では、各組の見張りが起立を命じるのを待つことになっている。その時、とても不安だった。二つの組が同時に立ち上がらないと、彼女に近づけない。だからひたすら神に祈った。するとすぐ、二つの組の監視役がほぼ同時に起立を命じたの。立ち上がるとすぐ、姉妹の手にメモを押し込んだ。一瞬で終わり、看守も気づかなかったわ。神に感謝!姉妹の助けを受け、他の組の全員が神の御言葉を受け取った。こんなスムースに御言葉を渡せるなんて思わなかった。神に難しいことはないと実感したし、御言葉を渡す過程を通じて、姉妹たちの神への信仰が膨らんだ。
御言葉を渡して半月後、収容所が全能神の信者全員に、棄教書を書き、全能神への信仰をやめると約束するよう要求した。姉妹たちは数日前に御言葉を読んだばかりで、しっかり立って神に証しする信仰があった。サタンに屈するものかと、互いに決意し励まし合ったわ。でも一週間後、棄教書を書かなかった他の組の姉妹のことを聞いたの。拷問された人もいれば、狭い檻でしゃがまされた人、刑期が延びた人もいた。そのころ、収容所の雰囲気はますます重くなっていた。厄災が迫っているかのように、いつも恐怖を感じていたの。この環境がいつ終わるのか、看守は次にどんな手段で私たちを苦しめるのかわからなかったから。だからみんなつらく、落ち込んでた。ひたすら神に祈り、道を開くよう願うことしかできない。当時、姉妹たちはみんなこう考えてた。何があろうと、棄教書を書くことはできないし、しっかり立って神のために証しをしなきゃ。こんな状況が二日続き、看守がこの方法じゃ無駄だと悟って妥協したの。命令を守るため、何でもいいから書けと言ったのよ。みんな神が道を開いたと気づき、心から感謝した。
その 3 年間、私たちは神の言葉を何度も広めました。最初に受け取った御言葉はほんの少しで、時が経つにつれ、また御言葉に飢え始めた。あるとき、その日は面会日で、他の人の家族が面会に来るのを見て、自分の家族が恋しくなった。年老いた両親は、今どうしているだろう?そのころ、家にいたときのことをよく思い出し、そのうち気分が落ち込んでいった。そんな状態を見た同じ房の姉妹が、耳元で御言葉を囁いてくれたの。「人の運命は神の手によって掌握されており、あなたが自分を掌握することはできない。人はいつも自分自身のことであくせく動き回っているが、自分自身を掌握できずにいる。仮に自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、その働きはすべて人間のためである。人の役に立つようにと神が造った天、地、そして万物を例に取ってみよう。神が人のために造った月、太陽、星、また動物や植物、春、夏、秋、冬などはすべて、人が生存するために造られた」(『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を考えてわかった。人の命運は神の手中にある。だから家族が無事かどうかは、神の主権と采配次第。家族を神に引き渡せば、何を心配する必要があるの?悩んでちゃ駄目。御言葉のおかげで意気消沈から抜け出し、力を得て、御言葉の導きなしでは無理だと実感した。そこで神に祈り、御言葉をさらに手に入れ、これから起きることに対処できるよう願った。その後、面会室の二人の姉妹のことを思い出した。二人に接触できれば、御言葉がもっとたくさん入手できる。神に祈り、機会を授けてくださいと願った。
ある朝、看守長にこう言われた。「来なさい。面会室の掃除よ」。面会室と聞いた瞬間、心が明るくなった。機会が来たわ。3年間で面会室に行ったのはその時だけ。だから、これは神が授けた機会だと確信した。面会室に着くと、看守長は他の看守とおしゃべりを始め、私は裏の台所に急いだ。そこで料理していた二人に、食べ物はある?って急いで訊くと、二人はすぐに悟り、「あるわ」と答えた。そして1人が布袋から紙の玉を取り出し、私に渡したの。やっと待望の御言葉が手に入ったとわかった。何とも言えない気分だったわ。だけど不安もあった。紙の玉は卵よりも大きい。下着の下に入れたけど、膨らみが目立ちすぎる。ズボンに押し込もうとしたけど、それだと落ちてしまう。身体に隠せる場所が見つからなくて、焦りだした。天井のあちこちに監視カメラがあって、心は不安でいっぱい。見つかったらそこで終わり。恐ろしい結果が待っている。でも同時に思った。この機会を逃せば、御言葉を受け取るチャンスはもうない。本当に御言葉が必要だし、手放すなんて耐えられない。その瞬間、不安のあまりどうすればいいかわからなくなった。突然、ある御言葉の一文が頭にはっきり浮かんだの。「恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいる。全能神はあなたがたの後ろに立ち、あなたがたの盾となる」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)。そう、神は万物を支配してる。見つかるかどうかは神次第。神が後ろ盾なら、何を恐れる必要がある?それに気づいて、心がずっと落ち着いた。御言葉の本を輸送してる兄弟姉妹のことを考えると、赤い大きな竜の厳重な監視下で、御言葉の本をたくさんみんなに届けてる。彼らも神にすがって経験してるんじゃない?だから神にすがれば、きっと道を開いてくれる。そう考えるとためらいが消え、御言葉を持ち帰ろうと決意した。そこで、紙の玉をもう一度下着に押し込み、手でシャツを前に引っ張りだして、腰を少しかがめると、膨らみが目立たなくなった。思ったわ。「まず職場に御言葉を持ち帰り、そして掃除に戻ろう」。職場のドアは、チャン科長が見張ってる。頼まれて雑用をしてたから、彼女とは仲がいい。その瞬間、はっきり気づいた。神はこうして道を開いてくれたんだと。そこで、チャン科長の部屋に直行して、小声でこう言った。「チャン科長、今生理なので、ちょっと二階に戻りたいんです」。一人で戻りたいと聞いた彼女は、すぐ顔を伏せて言った。「駄目よ。看守を同行させる。どこにいるの?」そして周囲を見回したんだけど、悪い予感がして不安になった。看守が同行することになったら、すべて終わり。私たちの看守は囚人に特に厳しく、戻りたいと聞いたら反対するだけじゃなく、本当に生理かどうか確認するに違いない。御言葉が見つかったら、死ぬまで暴行するはず。そう思い、心臓が喉から飛び出そうになって、ひたすら神に呼びかけ、祈った。その瞬間、数日前チャン科長に言われて布袋を作ったことを思い出し、すぐ訊いた。「チャン科長、あの布袋の出来映えはどうです?他に何かあれば言ってください」。それを聞いた彼女はすぐ態度を和らげた。神が道を開いてくれたとわかったわ。そして言った。「チャン科長、大丈夫、一分で戻ります」。何も言わなかったので、すぐ二階に行った。その途中、職場に行くには鉄のゲートを通らなきゃならないことを思い出した。規則によれば、普段は鍵がかかってる。でもそれを考える余裕はなく、恐怖も感じなかった。今までの出来事で、神がそばにいて、一歩ずつ導いてることがわかってたから。ゲートに着くと鍵がかかってなくて、どちら側の廊下にも看守はいなかった。心の中で何度も神に感謝し、職場に急いで姉妹に御言葉を渡した。心の重荷が取れたよう。ヤーウェ神がヨシュアに言ったことを思い出した。「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、ヤーウェが共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記 1:9)。そう、神は創造主。すべては神の手中にあり、どんな人や物事も神の働きに役立つ。この経験のおかげで神の不思議な業を見て、神の権威が何より上にあるとわかった。振り返ると、神の采配はどの場合でも巧妙だった。たとえば、囚人がチャン科長と接触するのは難しく、千人以上いる中で、手伝いを命じられたのは私だけ。これは神の采配。いつもは私たちを見張ってる看守長も、今回は見張ってなくて、普段鍵がかかっているゲートもこの時はかかっていなかった。全部いつもと違っていて、聖書にこうあるとおり。「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」(箴言 21:1)。まさにその通り!神の力を称えずにはいられなかった。神に感謝!三章の新しい御言葉、「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」、「神は人間のいのちの源である」、「全能者のため息」、それに数十の賛美歌。この環境で、私たちの霊は飢えてた。だから御言葉はどれも素晴らしかったけど、中でもこれがよかった。「この世界にあるすべてが、全能者の思いによって、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が一度も聞いたことのない事が、突然到来する一方、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、まして全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることなど到底できない。人には知覚できない事を知覚できるゆえに全能者は超越的である。人類によって捨てられたにもかかわらず人類を救う方であるゆえに全能者は偉大である。彼は生と死の意義を知っている。それだけでなく、被造物たる人類の存在の法則を知っている。彼は人類の存在の基礎であり、人類を再び復活させる贖い主である。彼は幸せな心に悲しみという重荷を負わせ、悲しむ心を幸福で引き上げる。これらは全て彼の働きのためであり、彼の計画のためである。……全能者は深い苦しみの中にあったこのような人々に慈しみを抱く。同時に、全能者は何の知覚もないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならなかったからである。全能者は探したい、あなたの心と霊を探し、あなたに水と食料を施したい、あなたを目覚めさせたいと思っている。それにより、もはやあなたが渇きと飢えを感じないようにである。あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが『父』ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を。全能者は切実な思いで見守り、そして答えのない応答を待っている。全能者が見守り、待っているというのはきわめて貴重なことであり、それは人間の心と霊のためである。このように見守り、待っていることは無期限かもしれないし、終わりの段階にあるのかもしれない。しかし、あなたは自らの心と霊がたった今どこにあるのかを正確に知らなくてはならない」(『神の出現と働き』「全能者のため息」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読み終わると、何人かの姉妹がわっと泣きだした。御言葉の中に人類に対する神の愛と慈悲を感じたの。神だけが私たちを本当に気遣い、将来と前途を心配してる。こんな愛は誰にもない。当時、重病の姉妹に御言葉を渡す機会を探してたの。状態はすごく悪かったけど、御言葉で御旨を理解し、自分の苦しみに文句を言ってもそこに証しはなく、神は心を痛めるとわかった。そして自分の行ないを後悔し、病気の中に神の御旨を求め、証しに立って神の心を慰めたいと願ったの。私も特にこの御言葉を読んで感動したわ。「産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の本分を尽くし始める。あなたは神の計画のため、神の定めのために自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である」(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を考えながら、涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。私の家族は男の子を大事にして、私は孤独と差別の中で育った。二度の結婚生活に失敗し、自殺未遂も何度かある。思ったわ。「あまたいる人の中から、神は私を選んで神の家に来させた。私が生きているのは神の加護のおかげ。神は私に委託をして、私は人生の使命と果たすべき役割がある。家族を捨てて福音を説き、逮捕されて収容所に入れられ、世話役になったけど、すべて神が許したこと。ここで御言葉を広める機会に恵まれ、姉妹たちを助けて支えられる。神はこの負担を与えた。それは私の使命なの」。こうしたことを考えてると、心が温かくなった。幸運にも全能神に付き従い、被造物の本分を尽くし、神の働きを経験して不思議な業を見ることができる。本当に祝福されてる!神がそばにいらっしゃるとわかった。私の命運を握るのは神。他に何を望める?こうしたことを考えると、収容所暮らしのつらさを感じなくなり、孤独感も消えた。
互いに御旨について交わり、みんな神の愛に励まされた。深く感謝して、神の証しに立つ決意も強まるばかり。その後、御言葉を急いで写した。他の姉妹に渡すためですね。私は廊下で仕事しながら見張りを務め、心配せず御言葉を写せるようにした。深夜まで書き写す姉妹もいたわ。一緒に仕事してた囚人はどうでもいいと、見て見ぬ振りをしてくれた。それで、三日後には無事に御言葉を書き写し、すぐ数十人の姉妹に届けた。そうして、御言葉を伝えて交わりながら、みんな励まし合い、この困難な環境で神の証しに立つ信仰を強めたの。
収容所で御言葉を広める過程を一つずつ振り返ると、どれも忘れられない。この実際の経験を通じ、神の不思議な業を直に見て経験し、神の権威、全能、知恵を目の当たりにして、御言葉こそ人のいのちに力を与えると実感した。そうしたことを考えるたび、感動して励まされ、心から神に感謝し、賛美するの。
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