実践(2)

過去において人は神と共にあり、一瞬一瞬を霊の中で生きるために自分を訓練した。それは今日の実践に比べると単純な形態の霊的訓練である。それは人がいのちの正しい軌道に乗る前に行われる最も浅く単純な実践方法であり、人の神への信仰における実践の第一段階を成す。人が常にこのような実践に頼るならば、多くの感情を持ち、間違いを犯しがちで、真のいのちの経験に入ることができなくなる。単に霊を訓練し、心の中で正常に神に近づけるようになり、神と共にあることにこの上ない喜びを常に見出すだけである。神との小規模な一体感に自己を限定し、さらに深遠なものに近づくことはできない。このような境界の内に暮らす人は、大きく進歩することができない。いつも「ああ!主イエス。アーメン!」と叫びがちである。ほとんど毎日このような調子である。これは過去の実践であり、いつも霊の中に生きる実践である。これは低俗ではないのか。今日、神の言葉を熟考する時は、ただ言葉を熟考することに集中しなさい。真理を実行する時には、ただ真理を実行することに集中しなさい。本分を遂行する時には、ただ本分を遂行しなさい。このような実践は実は人をとても自由にし、解放する。昔の宗教家が祈祷し、食前の感謝の祈りを唱えるのとは異なる。もちろん、以前はこれが信仰者の実践であった。しかし、今ではこのように実践することはあまりにも遅れている。神の働きは今では以前より高い水準にある。「神を現実の生活にもたらす」という今日語られていることは、実践の最も重要な側面である。これが、現実の生活において人がもつことを期待されている正常な人間性であり、人が正常な人間性においてもつべきものは、神が今日語るあらゆる言葉である。「神を現実の生活にもたらすこと」の実践的な意味は、神の言葉を現実の生活にもたらすことである。今日、人はおもに次のことを身につけるべきである。ある一面においては、能力を向上させ、教育を受け、読書と理解の技能を改善しなければならない。別の面においては、普通の人の生活を送らなければならない。あなたは世俗から神の前に来たばかりであり、まず自らの心が神の前で安らかになるように訓練しなければならない。これは実践のまさに始まりであり、いのちの性質における変化を達成するための第一歩でもある。比較的に実践に順応性のある人もいる。彼らは作業をしながら、真理に思いを巡らし、現実において理解すべき真理と実践の原則を解明していく。一つの側面では普通の人間生活を送らなければならず、別の側面では真理に入り込まなければならないのである。このようなことすべてが現実の生活における最善の実践を形成する。

神を現実の生活にもたらすためには、おもに人は普通の人間性において神を崇拝し、神を知ろうと追い求め、神の被造物としての本分を尽くさなければならない。人が何かをするたびに絶対に祈らなければならないということはなく、祈らないのは良くないわけでも、祈らなければ神に負い目を感じなければならないわけでもない。今日の実践はそのようなものではなく、本当にゆったりしていて簡単なのである。人は教義に従うことを要求されない。それどころか、各人がそれぞれの霊的背丈に合わせて行動するべきである。もし家族の誰かが神を信じないならば、未信者として扱い、信じるならば信心者として扱いなさい。愛と忍耐ではなく知恵を実践しなさい。野菜を買うために外出し、歩きながら次のようにつぶやく人がいる。「おお、神よ。あなたは今日わたしにどの野菜を買わせたいのでしょうか。あなたの助けを求めます。あらゆることにおいて神の名を称え、わたしたちすべてが証しをすることを神は求めている。だから、たとえ商人がわたしに腐ったものを渡しても、わたしはそれでも神に感謝し、忍耐します。神を信じるわたしたちは、野菜をあれこれ選んだりできません」。このような人はこうすることが証しだと考え、その結果、腐った野菜を買うのに金を使い、それでも祈って言う。「ああ、神よ。あなたがそれ良しとされる限り、わたしはこの腐った野菜でも食べます」。このような実践は馬鹿げていないのか。これは教義に従うことではないのか。以前、人は一瞬一瞬を霊の中で生きるために訓練したが、これは恵みの時代になされた働きに関連している。信心深さ、謙遜、愛、忍耐、すべてのものに感謝すること、これらは恵みの時代にすべての信者に求められたことである。当時、人はあらゆることにおいて神に祈った。衣服を買う時に祈り、集会の知らせを受けた時も祈り、次のように言うのだった。「おお、神よ。あなたはわたしを集会に行かせたいですか、行かせたくないですか。行かせたいのなら、わたしに平坦な道を用意してください。行かせたくないなら、わたしを転ばせ倒してください」。人は祈りながら神に懇願し、祈った後は不安になり、行こうとしなかった。中には、集会から帰宅すると信仰をもたない夫に殴られるのを恐れ、祈る時に不安になり、それゆえ集会に行かない姉妹もいた。彼女たちはこれが神の心だと信じたが、実際には、たとえ行ったとしても何事も起こらなかったはずである。結果として、彼女たちは集会を一回逃した。これはすべて人の無知のせいである。このように実践する人は皆、自分の感情で暮らしているのである。このような実践方法はあまりに間違っていて、馬鹿げており、曖昧さに染まっている。個人的感情や考えがありすぎる。集会があることを告げられたら、行きなさい。それ以上神に祈る必要はない。これは単純なことではないのか。もし今日、衣類を買う必要があれば、すぐ出かけて買えばよい。神に祈って、次のように言うのはやめなさい。「おお、神よ。わたしを行かせたいですか、それともだめですか。わたしが留守の時、兄弟姉妹の一人がたまたまやってきたらどうなるでしょう」。兄弟か姉妹がやって来るかもしれないので、あなたは出かけない。しかし結局、夕方になっても誰一人来なかった。恵みの時代でさえ、このような実践方法は逸脱しており誤りであった。従って、人が過去のように実践すれば、いのちには何の変化も生じない。人は単に何が起ころうと、無知にもそれに自らを委ねるだけで、分別には何の注意も払わず、ただやみくもに従って、耐えるだけである。当時、人は神に栄光を帰することを重視していた。しかし、神は人から何の栄光も受けなかった。人は何ら実際的なことを生き方に現わさなかったからである。ただ自分の観念に従って自制し、自己を制限しただけで、長年にわたる実践でさえ、いのちに何の変化ももたらさなかった。人が知っているのは忍耐し、謙虚にし、愛し、許すことだけで、ほんのわずかの聖霊による啓きさえ欠けていた。このようにして、いかに神を知ることなどできようか。そしていかにして神に栄光を帰することができるというのか。

人は、神を自分の現実の生活、普通の人間生活にもたらして初めて神への信仰の正しい軌道に入ることができる。今日は、神の言葉があなたがたを導く。過ぎ去った時代のように探し求めたり、模索したりする必要はない。神の言葉に従って実践でき、わたしが明らかにした人間の状態に照らし合わせて内省し、自分を評価することができれば、変ることができる。これは教義ではなく、神が人に要求することである。今日、わたしはあなたにものごとがどうなっているかを告げる。わたしの言葉に従って行動することだけに関心を持ちなさい。わたしがあなたに要求することは、普通の人が必要とすることに基づいている。わたしはすでに言葉をあなたに語った。言葉を実践することに集中する限り、あなたは神の意図と一致するようになる。今こそ神の言葉の中で生きる時代である。神の言葉はすべてを説明しており、すべては明らかにされている。神の言葉に従って生きる限り、あなたは完全に自由で、解放された生活を送る。過去において、人が神を自分の現実の生活にもたらした時、人は過度の教義と儀式を実践し経験した。ほんの些細なことにおいてでさえ祈り、求め、神が明瞭に述べた言葉を脇にのけて読もうともしなかった。それどころか、すべての努力を探求に捧げた。その結果、何の成果もなかった。食べ物や衣服を例に挙げると、あなたは祈り、このようなことを神の手に委ね、何もかもあなたに代わって神が解決することを願う。神がそのような言葉を聞くと、こう言う。「わたしはそのようなつまらない些細なことに携わらなければならないのか。わたしがあなたのために創造した普通の人間性や理知はどこへ行ってしまったのか」。時々、誤った行動をする人がいる。すると、神を怒らせたと考えて萎縮してしまう。状態がとてもよい人もいるが、何か些細なことを間違って行うと、神に厳しく罰せられると考える。実のところ、これは神のすることではなく、人の心の影響である。時には、あなたの経験の仕方は何も間違っていないのに、他の人があなたは正しい経験をしていないと言い、あなたはその罠に陥り、消極的で内心が暗くなる。多くの場合、人がこのように消極的な時、神に罰せられていると考えるが、神は言う。「わたしはあなたにおいて一切の刑罰の働きをしていないのに、どうしてそのように責めるのか」。人はあまりに簡単に消極的になる。また、敏感になりすぎ、神について不平を言うことがよくある。神はあなたがこのように苦しむことを要求しないのに、あなたは自分からそのような状態に陥る。このように苦しむことには何の価値もない。人は神のする働きを知らず、多くのことについて無知であり、はっきり見ることができない。そのため自分の観念と想像に捕らわれ、いっそう深く巻き込まれていく。すべての物事は神の手の中にあると言う人がいる。それでは、人が消極的になっているとき、神がそれを知らないことがありえようか。もちろん、神は知っている。あなたが人間的観念に陥っている時、聖霊はあなたの中で働くすべがない。何回も消極的状態に陥る人もいるが、それでもわたしは働きを続行する。あなたが消極的であろうと、積極的であろうと、わたしはあなたに制約されることはない。むしろ、わたしが話す言葉の多くとわたしが行う膨大な働きは、人の状態に従って、互いに密接に繋がっていることを知るべきである。あなたが消極的な時でも、それが聖霊の働きを邪魔することはない。刑罰の時や死の試練の間、人は皆消極的な状態に陥っていたが、このことはわたしの働きを妨害しなかった。あなたが消極的だった時、聖霊は他の人において必要な働きを続行した。あなたは一カ月間にわたって追求を止めるかもしれないが、わたしは働き続ける。あなたが現在あるいは将来に何をしようと、それは聖霊の働きを止めることはできない。人間の弱さから生じる消極的な状態もある。人が自分には本当に神の要求を満たしたり把握したりすることができないと思うと、消極的になる。例えば、刑罰の時、神の言葉は刑罰の只中において、ある程度まで神を愛することを述べたが、人は自分にはできないと信じた。人は自分の肉体がサタンに深く堕落させられ、自分の素質がとても乏しいために特に悲嘆にくれ、嘆かわしい気分になった。自分がこのような環境に生まれたことはなんと残念なことかと感じた。神を信じ、神を知るには遅すぎて、完全にしてもらう価値はないと感じる人もいた。これはすべて正常な人間的な状態である。

人の肉はサタンに属しており、反抗的な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れて不純である。人は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは過多にある。そのため神は肉をある程度嫌っている。汚れて、堕落したサタンのものを人が捨て去れば、神の救いを得る。しかし、汚れや堕落から抜け出さないままでいるなら、相変わらずサタンの権力の下で生きることになる。人の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はすべてサタンに属するものである。神があなたを救うのは、こうしたサタンのものからあなたを解放するためである。神の働きが間違っていることはなく、すべては人を闇から救うために行われる。ある程度まで信じ、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けないならば、救われるのではないのか。サタンの権力の下で生きるなら、神を現わすことはできず、あなたは汚れており、神の嗣業を受け取ることはできない。いったん清められ完全にされると、あなたは聖くなり、正常な人になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる。今日神が行う働きは救いであり、さらに、裁き、刑罰、呪いでもある。そこには多くの側面がある。神の発する言葉は裁きと刑罰、そして呪いも含むことを、あなたがたはみな知っている。わたしが話すのはある成果を上げるため、人に己を知らしめるためであり、人を死に至らせるためではない。わたしの心はあなたがたのためにある。話すことはわたしが働く方法の一つである。言葉を通して、わたしは神の性質を表し、あなたに神の心意を理解させる。あなたの肉体は死ぬだろうが、あなたには霊と魂がある。人に肉体しかなかったら、その信仰には何の意味もなく、わたしが行ってきたこのすべての働きにも意味がない。今日、わたしはひとつの話し方をし、また別の話し方をする。ある時は人への憎しみを極端に示し、別の時には極めて愛情深い。わたしがこうするのはすべてあなたの性質を変え、神の働きについてのあなたの観念を転換させるためである。

終わりの日が来て、世界中の国々は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現している。人間界には大惨事があり、天も災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては世界は陽気ですばらしく見え、ますますそうなっていき、人々の心は世界に惹きつけられ、多くの人はそこに陥り抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術を行う者に騙される。進歩しようと努力せず、理想もなく、真の道に自らの根をおろしていなければ、あなたは罪のうねる波に押し流されてしまう。中国はすべての国のなかで最も後進的で、赤い大きな竜がとぐろを巻いている国であり、偶像を崇拝し妖術に携わる人が最も多く、寺院も最も多く、不潔な悪霊が住む場所である。あなたはそこから生まれ、それに教育され、その影響にすっかり染まっている。それに堕落させられ、苦しめられてきたが、目覚めてからは、それに背を向け、完全に神のものとされる。これは神の栄光であり、そのためにこの段階の働きには偉大な意義がある。神はそれほどの大規模な働きをなし、多くの言葉を語り、最終的にはあなたがたを完全に自分のものとする。これは神の経営の働きの一部であり、あなたがたは神のサタンとの戦いにおける「戦利品」である。あなたがたが真理を理解すればするほど、そして教会生活がよくなるにつれて、赤い大きな竜はいっそう屈従させられる。これはみな霊的世界のことであり、霊的世界の戦いであり、神が勝利する時、サタンは辱められ、倒れる。この段階の神の働きは非常な重要性を持つ。神がこのように大規模な働きを行い、完全にこの集団の人たちを救うのは、あなたがサタンの影響から逃れ、聖なる土地に暮らし、神の光の中で生き、その光に導かれ助けられるようにである。そこで生きることには意義がある。あなたがたが食し、着るものは未信者とは異なり、あなたがたは神の言葉を享受し、意味のある生活を送る。では未信者は何を享受するのか。彼らは「祖先の遺産」と「国民精神」だけしか享受しない。彼らはほんのわずかな人間性の痕跡さえ持ち合わせない。あなたがたの衣服、言葉、行動はすべて彼らのものとは異なる。最終的に、あなたがたは完全に汚れから逃れ、もはやサタンの誘惑に陥ることはなくなり、神から日々の施しを得る。あなたがたはいつも注意深くしていなければならない。あなたがたは汚れた場所に暮らしているが、汚れに染まってはおらず、神のそばで暮らし、神の偉大な保護を受けることができる。神はあなたがたをこの黄色い大地にいるあらゆるものの中から選んだ。あなたがたは最も祝福された人ではないのか。あなたは被造物であり、もちろん神を崇拝し、意味のある人生を送るべきである。神を崇拝せず、汚れた肉体のうちに生きるならば、人間の衣装を身に着けた獣にすぎないのではないか。あなたは人間であるから、神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブやペテロのように意味のある人生を送るべきである。この世で人は悪魔の服をまとい、悪魔が与える食べ物を食べ、悪魔の言いなりになって働き、仕え、汚濁の中ですっかり踏みにじられる。あなたが人生の意味を把握せず、また真の道を自分のものにしないならば、このように生きることに何の意義があるのか。あなたがたは正しい道を追求する人、向上を求める人である。あなたがたは赤い大きな竜のいる国で立ち上がり、神が義なる者と呼ぶ人である。これは最も意味のある人生ではないのか。

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