実践(1)

以前、人々が経験する方法には逸脱が多くあり、馬鹿げたことさえあった。彼らは神が要求する基準をまったく理解していなかったので、人々の経験が歪む分野がたくさんあった。神が人に要求するのは、普通の人間性を生きられるようになることである。例えば、人々が食べものや衣服について現代の慣習に従い、スーツとネクタイを身につけ、現代美術について多少学び、余暇に芸術や文化や娯楽を楽しむのはまったく問題ない。思い出に残る写真をいくつか撮り、本を読んで何らかの有益な知識を得て、比較的良好な生活環境をもつことができる。これらはどれも普通の人間性の生活にふさわしい事柄だが、人々はそれらを神にひどく忌み嫌われることだと考え、そうすることを控えている。彼らの実践はいくつかの規則に従うことでしかなく、そのせいで水たまりのようによどんだ、まったく意義のない生活を送っている。実のところ、人々がそのように物事を行なうよう、神が要求したことは一度もない。人々はみな自分の性質を抑制することを望み、霊の中で絶えず祈って神により近づこうとしており、心は絶えず神の意図を熟考し、目は絶えず周囲を見回してあれこれ観察し、神とのつながりが何らかの形で断ち切られることを強く恐れている。これらはどれも人が自分で至った結論である。つまり、それらは人々が自分のために設けた規則なのである。あなたが自分の本性実質を知らず、自分の実践がどの程度に達することができるかを理解していなければ、神が人に要求する基準を正確に判断する術はないし、実践の正確な道をもつこともない。人に対する神の要求がいったい何かをあなたは理解できないのだから、あなたの心は常に揺れ動き、あなたは頭脳を振り絞って神の意図を分析し、聖霊によって動かされ、啓かれる方法を手探りで探し求める。結果として、自分がふさわしいと信じる実践の方法を発展させるのだ。神が人にいったい何を要求するのか、あなたにはまったくわからない。あなたはただ自分自身の一連の実践を脳天気に行ない、その結末を考慮することはほとんどなく、まして自分の実践に逸脱や過ちがあるかなどは気にしない。このようにして、あなたの実践は自然と正確さを欠き、原則のないものになる。とりわけ欠けているのは正常な人間の理知と良心、そして神による賞賛と聖霊による確証である。ひたすら自分の道を進むのがまったく簡単になってしまうのである。このような実践は単に規則に従うこと、あるいは自分を控えて制御しようとさらなる負担をわざと背負うことである。それでもあなたは自分の実践が完全に正確だと考えており、自分の実践の大半が不要な過程や儀式から成っていることを知らない。自分の性質が基本的に変化せず、新たな認識がなく、新たな入りもないまま、長年にわたってこのように実践する人は数多い。そのような人は同じ古い過ちを知らぬ間に再び犯し、自分の野蛮な本性を自由に活動させた上で、理不尽かつ無慈悲な行為を何度も行ない、人々が頭を抱えて困惑するような振る舞いをするまでになる。そのような人が性質の変化を遂げたと言えるだろうか。

現在、神への信仰は神の言葉の時代に入った。相対的に言って、人々は以前ほど祈っていない。神の言葉が真理のすべての側面と実践の道を明確に伝えたので、人々が求めて模索する必要はもはやないのである。神の国の時代の生活においては神の言葉が人々を前へと導くが、それはすべてが明らかにされ、人々がそれを見られる生活である。なぜなら、神がすべてを明確に示し、人はもはや人生において模索する必要がないからである。結婚、この世の営み、生活、衣食住、人と人との関係、そして人はどうすれば神の旨を満たす形で神に仕えることができるのか、また人はどのようにして肉を捨て去るべきかなどについて言えば、これらの事柄のうち、神があなたがたにまだ説明していないものはどれか。あなたがたはいまだに祈って求めに行く必要があるのだろうか。その必要はまったくない。あなたがまだこれらのことをするなら、単に余計な行動をとっているだけではないか。それは無知で馬鹿げたことであり、まったく必要ない。あまりに素質がなく、神の言葉を理解できない者だけが、馬鹿げた祈りを絶え間なく唱えるのである。真理を実践する上で鍵となるのは、あなたに決意があるか否かである。中には、それが真理にそぐわないと知りながら、あくまで肉の好みに従って行動する人がいる。それは彼らのいのちにおける前進を阻み、祈って求めた後でさえ、なおも肉に従う形で行動したがる。そうすることで、彼らは故意に罪を犯しているのではないか。肉の快楽を無闇に欲しがり、金銭に固執しながら、こう神に祈る者のように。「神よ。わたしが肉の快楽を無闇に欲しがり、富に固執することをあなたはお許しになるのでしょうか。わたしがこのように金を稼ぐというのが、あなたの御心なのでしょうか」。これが適切な祈り方だろうか。そうする人たちは、神がこのようなことにまったく喜びを覚えず、自分はそれらを捨て去るべきだと完全に熟知しているが、心に抱く物事はすでに決まっており、祈って求めるとき、自分たちがそのように振る舞うことを許すよう、神に強制しようしているのである。彼らは心の中で、神が何かを言ってそれを保証することさえ求めるだろう。それが反抗と呼ばれるものである。また、教会の兄弟姉妹たちを自分の味方にして、自分の独立王国を築く者もいる。あなたは、これらの行動が神に敵対することだとよくわかっているが、こうしたことをしようと決心すると、それでもわざわざ探求して神に祈り、冷静でひるまない。あなたはなんと恥知らずで厚かましいのか。世俗の物事を捨て去ることについては、ずっと以前に語られてきた。神が世俗の物事を忌み嫌っていることを知りながら、このように祈る者がいる。「おお、神よ。わたしが世俗の物事に従うのをあなたがお許しにならないことを、わたしは理解しております。ただわたしは、あなたの御名に恥をもたらさないようにすべくそうするのです。わたしがそうするのは、世俗の人々がわたしの中にあなたの栄光を見るようにするためです」。これはどのような祈りなのか。あなたがたにわかるだろうか。これは神を威圧し、神に圧力をかけることを目的とした祈りである。あなたはこのように祈って恥ずかしくないのか。このように祈る人はわざと神に反抗しているのであって、こうした祈りはひとえに疑わしい動機の問題である。つまり、まさにサタン的性質の表われなのである。神の言葉は水晶のごとく明白であり、とりわけ神の旨、神の性質、そして神による様々な人の扱い方に関して発せられた言葉はそうである。真理を理解していないのであれば、神の言葉をもっと読まなければならない。そうしたほうが無闇に祈って求めるよりもはるかに良い結果をもたらす。求めて祈る代わりに、神の言葉をもっと読んで真理について交わるべき場合は数多い。普段の祈りにおいては、神の言葉からもっと自分を反省し、自己認識を試みるべきである。そうしたほうがあなたのいのちにおける前進にとってより有益である。現在、あなたがいまだ天に目を向けることで求めているなら、それはあなたが今なお漠然とした神を信じていることを示してはいないか。以前、あなたは自分の探求と祈りの成果を見て、今は恵みの時代だからというので、聖霊によって霊がいくらか感動した。あなたは神を見ることができなかったので、そのように手探りで進み、求めるしか選択肢がなかった。今や神が人のあいだに降臨し、言葉が肉において現われ、あなたは神を目の当たりにした。ゆえに、聖霊はもはや以前のようには働いていない。時代が変わったのだから、聖霊の働き方も変わったのである。人々は以前のように祈っていないかもしれないが、神が地上にいるので、人には今神を愛する機会がある。人類は神を愛する時代に入り、自分の中で正常に神へ近づくことができる。「ああ、神よ。あなたはまさに善であり、わたしはあなたを愛したいと思います」。わずか数語の明瞭かつ単純な言葉が、人々の心の中にある神への愛に声を与え、この祈りはひとえに人と神との愛を深めるために語られる。時には自分が多少の堕落を示していることに気づき、このように言うこともあるだろう。「ああ、神よ。わたしはなぜこれほど堕落しているのでしょうか」。あなたは自分を何度か殴りたいという強い欲求に駆られ、目に涙が湧き上がる。このようなとき、あなたは心の中で後悔と苦痛を感じるが、そうした感情を表わす術がない。これが聖霊による現在の働きなのだが、いのちを追い求める人だけがそれを成し遂げられる。神は自分に大きな愛を抱いているとあなたは感じ、特殊な感情を抱く。たとえ明瞭に祈る言葉をもたなくても、神の愛は大洋と同じくらい深いとあなたは常に感じる。こうした状態を表わすのにふさわしい言葉は存在せず、これが霊の中でしばしば生じる状態なのである。心の中で神に近づくことを目的とするこうした祈りと交わりは正常なものである。

人々が模索して探し求める時代は今や過ぎ去ったが、それはこれ以上祈って求める必要がないという意味ではない。また、働きを続ける前に神の旨が明かされるのを待つ必要はないということでもない。それらは人の思い違いにすぎない。神は人と共に暮らし、人の光、人のいのち、人の道となるべく、人のあいだに来たのであり、これは事実である。もちろん、神は地上に来る際、人の霊的背丈に合う現実の道といのちを必ずや人にもたらし、彼らがそれを享受できるようにするのであって、人の実践方法を残らず破壊するために来たのではない。人はもはや手探りで探し求めることによって生きているのではない。なぜなら、働きを行ない、言葉を語るために神が地上に来たことが、それらに取って代わったからである。神が来たのは、闇に包まれ朦朧としたそれまでの生活から人を解き放ち、光に満ちた人生を送れるようにするためである。現在の働きは物事を明確に指摘し、明確に語り、直接教え、物事をはっきりと規定することであり、ちょうどヤーウェ神がイスラエルの民を導き、生贄の捧げ方や神殿の建て方を教えたように、人々はそれによってこれらのことを実践することができる。それゆえ、あなたがたはもはや、主イエスが地上を去った後のように、熱心に探し求める生活を送る必要はない。将来、福音を広める働きを模索する必要はあるだろうか。正しい生き方を見つけるために模索する必要はあるだろうか。自分の本分をいかに尽くすべきかを見分けるために模索する必要はあるだろうか。いかに証しすべきか知るために、地面にひれ伏して探し求める必要はあるだろうか。どのような服装をし、どのように暮らすかを知るために、断食して祈る必要はあるだろうか。神による征服をどう受け入れるべきかを知るために、天の神に絶え間なく祈る必要はあるだろうか。神にどう従うべきかを知るために、日夜常に祈る必要はあるだろうか。あなたがたの中には、自分は理解していないからそれを実践することができないと言う人が大勢いる。人々は今日における神の働きにまったく注意を払っていない。わたしはずっと前から多くの言葉を語ってきたが、あなたがたはそれを読むことに一切注意を払わなかったので、どう実践すべきかを知らないのも無理はない。もちろん今の時代でも、聖霊はいまだ人々を感動させて喜びを感じられるようにし、また人ともに生きている。これはあなたの生活でしばしば起こる、あの[a]特別で快い感情である。時折、神が本当に愛しく思われて、神にこう祈らずにはいられない日がある。「おお、神よ。あなたの愛はとても美しく、あなたの姿は本当に偉大です。わたしはもっと深くあなたを愛したいと望みます。自分のすべてをあなたに捧げて一生を費やしたいのです。わたしはすべてをあなたに捧げます。それがあなたのためである限り、そうすることでわたしがあなたを愛せる限り……」。これが聖霊からあなたに与えられる喜びの感情である。啓きでも照らしでもなく、感動するという経験なのである。これに似た経験は時折生じる。仕事に向かうとき、あなたは時たま神に祈って近づくのだが、涙が顔を濡らして自制をすっかり失い、心の熱情を残らず表わすのにふさわしい場所を見つけようと、いても立ってもいられなくなるほど感動するだろう……。公共の場にいるとき、自分は神の愛をこれほどまでに享受し、自分の運命は非凡だと感じた上に、自分は他の誰よりも有意義な人生を送っているとさえ感じるときもあるだろう。神が自分を称揚し、それが自分に対する神の偉大な愛であると、あなたは深く認識する。あなたは心の奥底で、人間には表現することも推し測ることもできない愛が神の中にあると感じる。知ってはいるが表現する術がなく、いつも立ち止まって考えるものの、まったく表現できないというような愛である。そのようなとき、あなたは自分がどこにいるかすら忘れ、こう呼びかける。「ああ、神よ。あなたはかくも計り知れず、実に愛すべきお方です」。人々はそれに困惑するものの、こうしたことはどれも頻繁に起こる。あなたがたはこうしたことを何度も経験している。これが聖霊からあなたに今日与えられる生活であり、あなたが今生きるべき生活である。それはあなたの生活を止めさせるためではなく、むしろあなたの生き方を変えるためである。それは描写することも表現することもできない感情であり、人間の真の感情でもある上に、聖霊の働きでもある。あなたはそれを心の中で理解しているかもしれないが、誰かにはっきり表現する術はまったくない。それはあなたの話し方が遅いとか、舌がもつれているとかではなく、言葉では言い表わせない感情だからである。今日、あなたはこうしたことを享受するのを許されており、それがあなたの生きるべき生活なのである。もちろん、あなたの生活のその他の側面が空虚なのではなく、感動するというこの経験があなたの生活において一種の喜びとなり、そのため聖霊からのこうした経験をいつも喜んで享受する、ということに過ぎない。しかし、このように感動することは、あなたが肉を超越して第三の天に行くためでも、世界中を旅するためでもないということは知るべきである。むしろ、あなたが今日享受している神の愛を感じて味わい、神による今日の働きの意義を経験し、神の気遣いと加護を再び知るようにするためなのだ。それらはすべて、神が今日行なう働きをあなたがより深く認識するようになるためのものであり、これがこの働きを行なう神の目標なのである。

探し求めて模索することは、神の受肉に先立つ生活様式である。当時、人々は神を見ることができなかったので、探し求めて模索するしか選択肢がなかった。今日、あなたはすでに神を見ており、神は直接あなたにどう実践するべきかを告げている。ゆえに、あなたが模索したり探し求めたりする必要はもはやない。神が人を導く道は真理の道であり、神が人に語ること、人が受け取るものはいのちと真理である。あなたには道といのちと真理がある。ならば、何の必要があってあちこち探し求めに行くのか。聖霊は二段階の働きを同時に行なわない。わたしが言葉を語り終えた時、人々が神の言葉を慎重に飲み食いすることも、真理を正しく追い求めることもせず、依然として恵みの時代と同じように振る舞い、目が見えないかのように模索し、絶えず祈って探し求めるなら、わたしの働きのこの段階、つまり言葉の働きが無駄に行なわれているということではないか。わたしが言葉を語り終えたというのに、人々はいまだ完全には理解していない。これは彼らに素質が欠けているからである。この問題は教会生活を送り、互いに交わることで解決できる。以前の恵みの時代、神は受肉したものの言葉の働きを行なわなかったので、その働きを維持すべく、聖霊が当時そのように働いた。その頃、働きを行なうのはおもに聖霊だったが、今は受肉した神が働きを行ない、聖霊の働きに取って代わっている。以前は頻繁に祈りさえすれば、人々は平安と喜びを経験し、そこには叱責と懲らしめもあった。これらはすべて聖霊の働きだった。今、こうした状態は極めて希である。聖霊は各時代に一種類の働きしか行なうことができない。肉において一種類の働きを行ない、人々の中でもう一種類の働きを行なうというように、聖霊が二種類の働きを同時に行なったとすれば、またその肉の言うことが重要でなく、霊の行なうことだけが重要だったとすれば、キリストには語るべき真理も道もいのちもまったくないことになってしまう。これは自家撞着というものである。聖霊がこのように働きを行なうなどあり得るだろうか。神は全能で賢いことこの上なく、聖く義であり、過ちを犯すことは決してない。

人々による過去の経験には逸脱や過ちがあまりに多くあった。普通の人間性を備える人がもつべきもの、あるいは行なうべきことがあったり、人間生活で避けることの難しい過ちがあったりしたのである。そしてこうした物事の処理に問題があれば、人々はその責任を神に押しつけた。客を自宅に招いた姉妹がいた。蒸し饅頭がうまく蒸せなかったので、彼女は考えた。「これはたぶん神の懲らしめだろう。神はわたしの虚栄心を再び取り扱っておられるのだ。わたしのうぬぼれが本当に強すぎるから」。実際、人の常識で考えれば、客がやってきたら、あなたは興奮して慌てふためき、何を行なうにしても混乱する。だから飯が焦げてしまったり、料理があまりに塩辛くなったりするのも当然のことに過ぎない。これはあまりに興奮していることが原因なのだが、人は結局それを「神の懲らしめ」のせいにする。実際のところ、それはどれも人間生活の中で生じた過ちに過ぎない。あなたが神を信じていなくても、やはりこのようなことにしょっちゅう出くわさないだろうか。問題が発生するとき、それはしばしば人の過ちの結果なのであり、そうした過ちが聖霊の行ないだというのでは決してない。そうした過ちは神と何ら関係ないのである。ものを食べる際に舌を噛んだとき、神の懲らしめということがあり得るだろうか。神の懲らしめには原則があり、たいていの場合、あなたがそうと知りながら過ちを犯した際にそれは見られる。あなたが神の名に関すること、あるいは神の証しや働きに関することを行なうときに限り、神はあなたを懲らしめる。今、人々は真理を十分理解しており、自分が行なうことを自覚できる。例えば、教会の資金を着服したり見境なく使ったりしても、あなたは平気でいられるだろうか。そうするとき、あなたはきっと何かを感じるはずだ。ひとたび行為がなされたとき、何かを感じるだけということはあり得ない。自分の良心に反する行ないについて、あなたは心の中ではっきりわかっている。人にはそれぞれの好みや嗜好があるので、真理をどう実践すべきかをはっきり知っていたとしても、ひたすら自分を甘やかす。このように、何かをした後も、その人ははっきりとした良心の呵責を感じることも、明白な懲らしめを受けることもないのである。なぜなら、その人はそうと知りながら過ちを犯したからであって、ゆえに神がその人を懲らしめることはない。義なる裁きが下される時になると、それぞれの行動に応じて神の報いが各々に下される。現在、教会で資金を着服する人もいれば、男女の境界がはっきりしない人、神の働きを密かに裁き、拒み、破壊しようと企む人もいる。そうした者たちが依然として無事なのはなぜか。そのようなことをするとき、彼らには自覚があり、心の中で咎めを感じている。そのため刑罰と精錬を時折受けるのだが、彼らはあまりに恥知らずである。淫行を犯したときのように、彼らはその際自分が何を行なっているのか気づいているのだが、欲望があまりに大きく、自分を抑えることができない。聖霊が彼らを懲らしめても無駄なので、聖霊は懲らしめを下さない。聖霊にそのとき懲らしめられることがなく、咎めを感じず、自分の肉に何も起こらなければ、その後どのような咎めがあり得るだろうか。行為がなされたとなれば、どのような懲らしめがあり得るだろうか。そのことは、彼らがあまりに恥知らずで人間性に欠けており、呪いと懲罰を受けるに値することを証明しているに過ぎない。聖霊が必要もないのに働きを行なうことはない。真理をよく知りながら実践に移さず、どんな悪でも犯すことができるなら、あなたを待つのは悪人とともに懲罰される日の到来だけである。それがあなたに最もふさわしい結末なのだ。今、わたしは良心について繰り返し説教したが、それは最低限の基準である。良心がなければ、その人は聖霊による懲らしめをすでに失っており、自分が望むことを何でも行なうことができ、神は彼らを一切気に留めない。本当に良心と理知をもつ者は、誤ったことをしたときそれに気づく。ひとたび良心の咎めを多少感じると、彼らは不安を覚える。そして内なる葛藤を経て、最後は肉を捨てる。そのような人が、あまりにひどく神に敵対することを行なうところに至ることはない。聖霊が彼らを懲らしめ罰するかどうかにかかわらず、間違ったことをしたとき、人は誰しも何らかの感情を抱く。したがって、人々は今やありとあらゆる真理を理解しているが、それらを実践することがなければ、それは人間の問題である。わたしはこのような人に一切反応せず、彼らに希望を抱くこともない。あなたは自分の好きなことを行なえばよろしい。

寄り集まった際に神の言葉を脇にのけ、いつもこの人はどうだ、あの人はどうだなどと話している人がいる。もちろん、どこに行っても簡単に惑わされず、容易にたぶらかされることがないよう、多少洞察力があるのはよいことである。それもまた人が自分のものにすべき一つの側面なのだ。しかし、その側面にだけ集中してはならない。これは物事の消極的な側面に関連するものであり、いつも他人に目を光らせることはできない。聖霊がどう働きを行なうのかに関する今のあなたの認識は少なすぎるし、あなたの神への信仰はあまりにも表面的すぎ、あなたが自分のものにしている積極的な事柄は少なすぎる。あなたが信じるのは神であり、あなたが理解する必要があるのは神であって、サタンではない。サタンが働きを行なう方法と、悪霊が働きを行なうあらゆる方法を認識していながら、神に関する認識が一切なければ、そこに何の意味があるというのか。あなたが今日信じるのは神ではないのか。あなたの認識にそうした積極的な事柄が含まれていないのはなぜか。あなたは入りの積極的な側面にまったく注意を払わず、それを把握してもいない。そうであれば、あなたは自分の信仰の中でいったい何を獲得したいのか。いかに追い求めるべきか知らないのではないか。あなたは否定的な側面については多くのことを知っているが、入りの積極的な側面については何も知らないので、あなたの霊的背丈がどうして成長できるだろうか。あなたのような人がサタンとの戦いについてしか話さないなら、将来の発展にどのような見込みがあるだろうか。あなたの入りはあまりに時代遅れではないだろうか。そうすることで、現在の働きから何を得られるだろうか。今重要なことは、神は現在何を行ないたいのか、人はどのように協力すべきか、どのように神を愛するべきか、聖霊の働きをどう理解すべきか、神が今日語るすべての言葉にどう入るべきか、それらをどう飲み食いし、経験し、理解すべきか、神の旨をどのように満たし、神によってどう完全に征服され、神の前でいかに服従すべきかなどを、あなたが理解することである。これらが、あなたが集中すべきこと、現在入るべきことである。わかるだろうか。他人を識別することにしか集中しないのであれば、それが何の役に立つのか。ここでサタンを識別し、あそこで悪霊を識別するというように、悪霊のことを完全に理解していたとしても、神の働きについて何も言えないなら、そうした識別が神を理解することの代わりになり得るだろうか。わたしは以前、悪霊の働きの表われについて交わったことがあるものの、それはわずかな部分に過ぎなかった。もちろん、人々は多少の識別力を有するべきであり、それは馬鹿げたことを行なったり、神の働きを妨げたりすることを避けるため、神に仕える者たちが自分のものにすべき側面である。しかし、最も重要なのは依然として、神の働きを認識し、神の旨を理解することなのである。神の働きのこの段階について、あなたの中にどのような認識があるのか。神が何を行なうか、神の旨は何か、自分の欠点は何か、自分は何を備えるべきかについて、あなたは話すことができるのか。自分の最新の入りが何か、あなたは言うことができるのか。あなたは新たな入りの中で収穫し、認識を得られるようになるべきである。混乱した振りをしてはならない。新たな入りの中でいっそう努力し、自分の経験と認識を深め、またそれ以上に、現在の最も新しい入りと最も正しい経験の仕方を把握しなければならない。さらに、新たな働きと新たな入りを通じ、時代後れで逸脱した自分のそれまでの実践に関する識別力を身につけ、また新たな経験に入るべく、それらを捨て去る方法を求めるべきである。これらのことが、あなたが今急いで理解し、入る必要のあることである。新旧の入りの違いと関係性を、あなたは理解しなければならない。そうしたことを把握していなければ、あなたに前進する術はない。聖霊の働きと歩調を合わせることができないからである。普通に神の言葉を飲み食いし、普通に交わった上で、それによって以前の時代遅れな実践法と伝統的な古い観念を変え、新たな実践に入り、神の新たな働きへと入らなければならない。これらがあなたの成し遂げるべきことである。現在、わたしは単に、自分をどう測るかを正確に突き止めるよう、あなたに求めているわけではない。それが目標ではないのである。むしろ、真理の実践といのちへの入りの認識を真剣に捉えるよう、わたしはあなたに求めている。あなたの自己認識の能力が、あなたの真の霊的背丈を表わしているわけではない。神の働きを経験し、神の言葉にある真理を経験して認識することができ、自分のそれまでの個人的な観念や誤りを識別できるなら、それがあなたの真の霊的背丈であり、あなたがた一人ひとりが成し遂げなければならないことである。

どう実践すればよいのか見当もつかず、まして聖霊がいかに働きを行なうかなどまったく知らないという状況は数多い。聖霊に対して明らかに従順でないことをするときがある。神の言葉を飲み食いすることで、あなたはその件に関する原則をすでに把握しており、心の中で咎めと不安を感じている。もちろんそれは、多少の真理を認識しているという条件の下でしか感じることのできない感情である。協力したり、今日における神の言葉にしたがって実践したりすることがないなら、その人は聖霊の働きを妨害しており、必ずや心の中で不安を覚える。ある種の側面の原則を理解していながら、それにしたがって実践することがなければ、あなたは心の中で咎めの感情に苦しむ。原則を理解せず、真理のこの側面をまったく知らなければ、この件に関して咎めを感じるとは限らない。聖霊による咎めが常に背景にある。自分は祈っておらず、聖霊の働きに協力することもなかったのだから、その働きを遅らせてしまったとあなたは考えている。実際のところ、それが遅れることはあり得ない。聖霊は別の誰かを感動させるのであり、聖霊の働きが誰かに抑制されることはない。自分は神を失望させたとあなたは感じているが、それはあなたが良心に抱くべき感情である。あなたが真理を得られるかどうかはあなたの問題であり、神とは関係ない。時として自分の良心が非難されているように感じることもあるが、それは聖霊による啓きや照らしでもなければ、聖霊の咎めでもない。むしろそれは、人の良心の中にある感情なのである。神の名、神の証し、あるいは神の働きに関わる事柄について好き勝手に振る舞うなら、神はあなたを逃さない。しかしそこには限度があり、神が普通の小さなことであなたに煩わされることはない。神はあなたを無視するだろう。あなたが原則に反し、神の働きを乱して妨げるなら、神はあなたに怒りを解き放ち、あなたを逃すことは絶対にない。あなたが犯す過ちの一部は、人間生活を送る上で避けられないものである。たとえば、饅頭を正しく蒸せなかったとき、あなたはそれを神の懲らしめだと言う。これはまったく理不尽な言葉である。神を信じるようになる前にも、そうしたことは頻繁に起きていたのではないか。あなたはそれを聖霊の懲らしめのようだと感じるが、実際にはそうではない(例外的ないくつかの状況を除く)。と言うのも、その働きのすべてが聖霊から来ているわけではなく、むしろ人間の感情に由来しているからである。しかし、信仰をもつ人々がそのような考え方をするのは普通のことである。神を信じていなければ、そのように考えるはずはない。ひとたび神を信じるようになると、あなたはこれらの事柄を考えることにより多くの時間を割き始め、ゆえに自然とそうした考え方をするようになった。それは人の正常な考えから生じるのであり、その人の心構えと関係している。しかし言わせてほしいのだが、そうした考えは聖霊の働きの範囲に含まれない。これは聖霊が人々に対し、彼らの思考を通じて普通の反応を与えている実例なのである。しかし、そうした反応が聖霊の働きでないことは理解する必要がある。このような「認識」をもっているからといって、あなたに聖霊の働きがあることの証明にはならない。あなたの認識は聖霊の啓きから生じるものではなく、ましてや聖霊の働きなどではない。それは単に、普通の人間的思考の産物に過ぎず、聖霊の啓きや照らしとは絶対に何のつながりもない。それらは明確に異なる現象なのである。このような普通の人間的思考は、聖霊から生じるものではまったくない。たいていの場合、聖霊は働きを行なって人を啓くとき、その人に神の働きに関する認識、およびその人の真の入りと状態に関する認識を授ける。またその人に対し、今日における神の切実な意図と人に対する要求を理解させ、その人がすべてを犠牲にして神を満足させ、たとえ迫害や逆境に遭っても神を愛し、またたとえそれが血を流すこと、あるいは自分のいのちを捧げることを意味しても、後悔することなく神への証しに立つ決意をするようにさせる。あなたにそうした決意があれば、それはあなたに聖霊の鼓舞と働きがあることを意味する。しかしどの瞬間にもそうした鼓舞があるわけではないことを知っておきなさい。集会の際に祈り、神の言葉を飲み食いするとき、この上なく感動して鼓舞されることがある。他の人が神の言葉に関する経験や認識を交わると、それをとても新鮮だと感じ、心が完全に澄んで明るくなる。それはすべて聖霊の働きである。あなたが指導者で、教会に赴いて働きを行なうとき、聖霊があなたに並外れた啓きと照らしを与え、教会内の問題に対する洞察力を授け、真理に関する交わりをしてそれを解決する方法を知らしめ、また働きにおいてとてつもなく熱心で、責任感が強く、真剣にさせることがあれば、それはどれも聖霊の働きなのである。

脚注

a. 原文は「何らかの」。

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