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神の国の福音に関する代表的な質問と解答

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質問3.私たちは主を信じてきて、主の御名を守ってきたわ、普段から聖書を読み、主に罪を告白してきた。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、福音を広めているわ。私たちは主の言葉を実践し、道に従ってないって言うの?信仰は持ったこともなく不信心者だったなんて、なんてことを言うの?聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)だから私たちは、主の賞賛を得るはずじゃないの、主が来られたら天国へと引き上げて下さるわ。

解答: 多くの信者はこう思ってます。主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、全てを犠牲にして努力していれば、真の信者であると、そのように主を信じれば、天国へと引き上げられると考えているのです。神を信じることは、人々が思うほど簡単でしょうか?このような信じ方で、神様の承認を得られるでしょうか?主イエスによって、罪に定められたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか?彼らはよく祈り、懸命に働き、福音を広めるため遠く旅したこともありました。主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか?聖書を読む人はわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛した。外から見れば、信仰が深そうで、本物の信者のようでした。ですが実際は、神様を崇めず心に神様の居場所はありませんでした。信仰において、神様の言葉に真理を求め、御心を理解することにはせず、神様の言葉を実践したり、従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論を普及させることに力を入れていました。宗教的な儀式ばかりに固執し、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそんな信仰を続け、神様のことは知らず、従順かつ敬虔になることもありません、従って、主イエスが働きをした時、彼らは真理を求めずに、思い込みや想像だけで推し量ったのです。主イエスの説教が意味深く、主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは学んだりせず、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰せられました。パリサイ人の信仰は、真の信仰だと言えるでしょうか?神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか?主イエスは認めなかっただけでなく、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23章)そう非難し、呪ったのです。そうではありませんか?パリサイ人たちは思い込みや想像だけで、天の曖昧な神を信じました。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、拒んでいたのです。

 では今の宗教界はどうでしょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、それによって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし全能神が裁きのために真理を表す時、思い込みや想像で神の働きを定義づけ、聖書の御言葉や働きの範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは全能神の御言葉は真理だと知っているのに、探し求めようともせず、全能神の噂や嘘を広め、中傷し、非難し、冒涜しているのです。信者が真の道を探すことを制限するどころか、証をしようとする人たちを逮捕させています。どうですか?こんな長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか?どちらも真の道を知りつつ、拒んだのでしょうか?どちらも真理を忌み嫌う、神の敵ではないでしょうか?ということは、主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を実践し主の道に従っているわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうでも、心の中で主を崇めて、従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているわけでもありません。主を信じているのに真理を求めず、神様の言葉を体験しないのであるなら、何年も、主を信じていようが、どれだけ主の為に努力していようが、主の賞賛は得られません。これは特に宗教指導者たちです。主のために努力しますが、未だに全能神を徹底的に非難しています。これだけで、彼らが邪悪な人々だという証拠になります、彼らは終わりの日の働きで、反キリストと暴かれたのです。彼らは呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通り、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)終わりの日の全能神の御言葉も明確です。全能神は言われる。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より)神様の言葉は、不変の真理です。信者たちが神の賞賛を得られるかは、どれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかに左右されません、御言葉を実践するか神様に従うか次第です。だがパウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」といた。(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)これはパウロの考えや想像で、神様の言葉や真理とは一致してません、神とは反対です。

 真の信仰を持つのはどういうことか、どうすれば神様の承認を得られるのか?この質問は本質的なものです。神様への信仰が救いをもたらし、神様の国に入れるかに関係しています。これまでは、主のために働くことを重視しました、そうすれば、再臨された時に、主の国に入れると思っていたからです。しかし今は間違った信仰の道だと、皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また神様の承認を得るのにどのようにすべきか、宗教界には誰も知りません。終わりの日のキリスト、全能神は、信仰の真理を明らかにし、「真の信仰とは何か?」についてはっきりと話されています。全能神は言われる。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない── しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう── これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)

 全能神は信仰の奥義と真理を明かしました。大勢が信じますが、真の信仰が何であるかだけでなく、神様もその働きも、知らないのです。このような信仰は、賞賛を得ることのない、混乱した信仰です。全能神は信仰の真意を明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」本物の信仰について明確に話してます。神を信じる人は、実際に御言葉を信じます。それは御言葉を実践し、御働きを体験することです。これが真理を理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。宗教界では、どう主のために働き苦しむかしか話しません、御言葉をどう実践するかは話さないのです。ですから、長く信じても真理を理解できず、神様を知ることもできません。そんな風に信じていて、どうして認めてもらえるでしょう。主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイによる福音書 7:22)次に何と仰いましたか?「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:23)自分の意思に従い、神様のために犠牲を払い、働いても、御言葉を体験しようとせず、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。宗教界の信者の頃を振り返ると、御言葉を実践することも、体験することもせず、罪を犯して悔い改め主に赦しを請う、それだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました、聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じていると思った。自分は主を愛し、主に忠実でいる、主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思った。これは、私が全能神を受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より)全能神は問題の核心に入り、人の本性を明らかにします、神との取引を求むのです。私は信仰の動機があまりにも不純だと気づきました、祝福や恵みや報酬、天国に行くことを求めていたのです。祝福さえあれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし御言葉を実践せず、神様を知ろうとしなかった、結果として、私の人生は真理と関わりのないものになった、何年も信じてきたのに、主の認識はこれっぽっちもありません。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、再臨の時には、天国へ引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずでした。神様は人類の贖いと、救いのために2度受肉されました、真理をもたらすためにされたのです。彼らが神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛から解放され、従順になるようにされたのです。御心を理解しておらず、真理だけでなく、神の認識も求めなかった、私は恵みと報酬だけを、求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。神をどう信じていたのでしょう?どう神様を愛し忠実だったのか?神様と取引をしようとしました。神様を利用し、騙そうとした。全能神の御言葉による裁きで、自分がどれほど、堕落させられていたかわかりました。利己的で狡猾で、人間らしさもない、卑劣な悪人で自己中心的でした。御前にふさわしくありません。神様は創造主で、私は創造物です。私が神様を信じ、すべてを犠牲にする、それが本分です、それが創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした、何かを犠牲にしたり苦しんだのは、神様との取引のためでした。私は祝福が欲しかったのです。神様を騙したこの私の信仰、神様から憎まれるはずです。私のような、悪魔的なものは天国へいざなわれるわけがない。私は、御前に跪き、悔い改めました、神様がどのようにされ、最終的にどうなろうと、神様の計画に従います。仕えるだけでも、真理を追い求め、本分を全うします。全能神の裁きや刑罰や試練を、体験することで、信仰の考えは変わりました。真理を追い求め、実践し始める、徐々に正しい道を歩み始めました。これが全能神の裁きを体験した結果です。全能神に感謝をします。

 全能神の裁きと刑罰を体験した後、私はやっと、どれだけ堕落させられていたかに気づきました。私はあまりにも、傲慢でした。見た目は福音を広め、苦しみを耐え、聖書について語り、内容を覚えているようでした。神様を知っていると思って、私は傲慢に、振る舞っていました、実際は神様に祈ったり、真理を求めてなかったのです。私はひたすら、思う通りにやりました。主の再臨については特にそうでした。自分の考えや想像で、神を聖書に限定したのです。御言葉や働きは聖書の中にあり、外にあるとは、思っていませんでした。主を信じる人は、聖書を守ろうと頑なに信じていて、守らなければ信じられないと、その結果、全能神の働きに触れても、調べたりはしませんでした。しかも長老たちに従い否定しました、神の御前にありながら、傲慢で理性を失っていました。私の行動は、信仰だったでしょうか?ただの悪でした、主イエスを拒んだパリサイ人たちと私は、どう違うのでしょうか?

 全能神の御言葉を目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の言葉が、心に刺さりました、その裁きは、私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、神の義なる、威厳のある性質を感じました。恐れで震え、悪事を恥じ、跪きました。主を信じてきたのに、こんなにも傲慢で、自惚れていたのか?なぜ神様への畏敬がなかったのか?神様の働きと自分の考えが合わないとそれを裁き、否定しました、真理を求めることは一切しなかったのです。信じてはいても、神様を拒む傲慢な人間でした。この態度は神様の性質を侵しました、神の慈悲と救いがなければ、とっくに地獄に送られていた。神様の声を聞き、神様の裁きを受け入れる機会はなかったでしょう。私は本当に、神様によって救われたんだと感じました。この時、私はこれまでにないくらい、自分を呪いました、私は決めました。神様がどのように裁き、罰し、試そうとも、神様に従おうと。御言葉を読み続け、神様の裁きと刑罰を体験することで、真理が理解できるようになりました。神様を裏切る、自分の本性も、理解を深めていて、神様の聖なる性質と、義なる不可侵な性質について、少しは判っています。無意識のうちに、神様への畏敬の念が生まれていました、以前より腰が低くなり、傲慢で自惚れることも減りました。壁に当たれば、意識的に自分を否定し、真理を求められるようになりました、自分の性質は少しずつ変わっていきました、これが御言葉による裁きと刑罰を体験した結果です!今では、信仰とは何か、理解できるようになりました、信仰の本当の価値と意味を理解しています。恵みの時代の信者も、果たせなかったことですね。恵みの時代信者の大半が、パウロを模範にしました、御名を否定するより、牢獄を望むほどでした。このような信仰は、私たちを変えることができるでしょうか?神様に従い愛することは、どうでしょう?最終的にこんな信仰で、サタンを打ち負かせますか?神様は満たされますか?神様は真理を表し、実践を求めますが、なぜでしょうか?人の命の性質を変え、サタンの影響から救うためです。そして人は神を知るのです、まさに神様への信仰が成せることです。でも信者の大半は、犠牲さえ払えば、主の再臨の時、天国へと引き上げられると思っています。神様は人に働きかけます。人は神様の働きを広め、その過程で苦しみ、そしてこう言います。「わたしたちは立派に戦いぬき、走りつくしました。私には義の冠が待つばかりです」と、これは神様が求めていることでしょうか?これは御心でしょうか?こんなふうに理解してるなら、神様を誤解していませんか?

 真の信仰とは何か、皆さんも理解できましたか?終わりの日の裁きを経験していなくても大丈夫ですか?御言葉の裁きと刑罰を体験しなくても、神様を知ることはできますか?神様を信じていても、御言葉を実践せずに、御心を理解し、神様に従い、礼拝することは?ということで、私たちが神様を知り、自分の性質を変えたいのなら、全能神の働きを受けることが極めて重要です。全能神は言われた。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神──全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

『神への信仰』の映画台本から

前へ:質問2.もう何年も主を信じてきましたが、謙虚に、人に寛容で、兄弟姉妹を愛し、主のために奉仕して働いてパウロの例に従う限り、主に服従していることになり、主が戻られたときに天の国に引き上げられると誰もが思っています。パウロは言った「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)しかし、主を信じるには終わりの日における全能神の裁きを受けなければならず、清められてはじめて、神の賞賛を得て天国へと入ることができると証されました。疑問です、これまで何年も主を信仰してきた私たちでも、終わりの日における全能神の裁きの働きを受けずには、天国へ行けないのでしょうか?

次へ:質問1.聖書でパウロはこう言ってる。「聖書は、すべて神の霊感を受け て書かれたものであって……」(テモテヘの第二の手紙 3:16)パウロの 言葉は聖書に書かれている言葉です。つまり霊感で書かれ、神様の御言葉です。主を信じるとは、聖書を信じること、宗派は関係なく、逸れているのなら、それは異端です。信じているなら、聖書に従わなければ。聖書の言葉を守るんです。聖書はキリスト教の正典であり、信仰の礎です。聖書を離れるとは、信仰から離れる。聖書から離れて、どうやって主を信じます?御言葉はすべて聖書の中です。他にそんな場所ありますか?信仰が、聖書によらなければ、何によります?