質問 3:私たちは長い間主を信じてきて、主の御名を支えてきたわ。普段から聖書を読み、祈り、主に私たちの罪を告白してきたじゃない。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、主に証するために福音を広めているわ。私たちは主の言葉を適用し、主の道にしたがっていないって言うの? 主への現実的な信仰は持ったこともなく、実は不信心者だったなんて、どうしてそんなことが言えるのよ? 聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)。だから私たちの信仰は主の賞賛を得るはずじゃないの。主が来られたら、確実に私たちを天国へと引き上げて下さるわ。

回答:多くの信者は、主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、主のために全てを犠牲にし、主のために努力していれば、彼らは真の信者だと思っています。そのように主を信じれば、主が再びやってこられるときに天国へと引き上げられると考えているのです。神様を信じることは、人々が思うほど簡単なことでしょうか? このような信じ方で、神様の承認を得ることができるでしょうか? 主イエスによって非難され、罪に定めれたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか? 彼らはよく祈り、一生懸命に働き、福音を広めるため地の果てまで旅したこともありました。では、なぜ彼らの信仰は主の承認を得られず、主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか? 聖書を読んだことがある人ならわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛し、外側は、信仰深そうで本物の信者であるように見えました。ですが実際、彼らは神様を崇めず、彼らの心に神様の居場所はありませんでした。彼らの信仰において、神様の言葉に真理を探したり、その御心を理解することには力を入れず、神様の言葉を実践したり、その命令に従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論に関する知識を普及させることばかりに力を入れていました。彼らは宗教的な儀式をすることに固執し、自分自身を賛美するための規則に倣い、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそのような信仰生活を続け、神様については全く知らず、神様に従順かつ敬虔になるようなことは決してありませんでした。従って、主イエスがその働きをなされた時、彼らは真理を探さずに、自分たちの思い込みや想像だけで主イエスを推し量ったのです。主イエスの説教がどれだけ意味深く、また主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは探し求めたり学んだりすることはなく、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰されました。パリサイ人の信仰は、神への真の信仰だと言えるでしょうか? 神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか? 主イエスはお認めにならなかっただけではなく、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである(マタイによる福音書 23:13)。そうではありませんか? パリサイ人たちは、自分の思い込みや想像だけを信じていて、天国の曖昧な神様しか信じていませんでした。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き果て、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、神様を拒んでいたのです。

それでは、今日の教団を考えてみましょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、主の御名によって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし、終わりの日において全能神がその裁きの働きを行われるために真理を表される時、彼らは自分の思い込みや想像に基づいて神様の働きを定義づけ、聖書にある神様の御言葉や働きでその範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは、全能神の御言葉は真理であり、人類を征服できるものだということを明らかに知っているのに、それを探し求めようとも、学ぼうともせずに未だに全能神について様々な噂や嘘を広め、徹底的に中傷し、非難し、侮辱し続けているのです。信者が正しい道を探さないように制限することを止めるどころか、終わりの日における神様の働きについて証しようとする人たちを通報し、警察に逮捕させています。どうですか? このような牧師や長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか? 彼らは両方とも正しい道を知っておきながら、主を拒んだのでしょうか? 彼らは両方とも、真理を忌み嫌う、神様の敵ではないでしょうか? ということは、もし人々が主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を適用し、主の道に従っているというわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうに見えても、心の中で主を崇め、主に敬虔であり、主に従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているということでは決してありません。もし人々が主を信じているのに真理を探さず、真理を実践せず、神様の言葉を体験しないのであれば、何年も主を信じていようが、どれだけ主の為に努力しようが、彼らは主の賞賛を得ることはできません。これは特に教団の牧師や長老たちに当てはまります。彼らは主の働きのために努力するでしょうが、未だに、終わりの日における位リストである全能神を徹底的に拒み、非難しています。これだけで、彼らが神を拒む邪悪な人々であるという十分な証拠になります。彼らは、終わりの日における神様の働きによって、反キリストと暴かれたのです。彼らは必ず神様の呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通りです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:22-23)。終わりの日における全能神の御言葉もとても明確です。全能神は言われます。「わたしにとって、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、あなたがどれほど忠実にわたしに従っているか、あなたがどれほど名高いか、あなたの姿勢がどれほど改善されたかなどはどうでもよい。わたしの要求を満たさない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができない。そうした考えや打算はできるだけ早くすべて捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めなさい。さもなければ、わたしは自分の働きを終えるためにあらゆる者を灰にし、よくてもわたしの長年にわたる働きと苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしは自分の敵と、邪悪の臭気を漂わせながらサタンの姿をしている者たちを、わたしの国に連れ込むことも、次の時代に導くこともできないからである」(「過ちは人間を地獄へ導く」『言葉は肉において現れる』)。神様の言葉は不変の真理です。信者たちが主の賞賛を得るかどうかは、彼らがどれだけ働いたか、またどれだけ苦しんだかに左右されません。主に、神様の御言葉を適用するか、神様に従うかによって決まります。しかし、パウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)と言いました。これらの言葉はパウロ自身の考えや想像によるもので、神様の言葉や真理とはまったく一致していません。神様の言葉とは真反対です。

神様への真の信仰を持つということはどういうことか、そしてどうすれば私たちの信仰が神様の承認を得ることができるのか? この質問は本質的なものです。これは、私たちの神様への信仰が救いをもたらし、私たちが神様の国に入ることができるかどうかに直接関係しています! これまでは、私たちの信仰において、主のために働くことに力を入れていました。そうすれば、主が再臨された時に、主の国に入ることができると思っていたからです。しかし今は、これが間違った信仰の道であることを皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また、神様の承認を得るためにどのように神様を信じるべきかを知る人は、教団内には誰もいません。だれもこれらの質問に対する答えを理解していないのです。終わりの日におけるキリストである全能神は、神様への信仰についての真理と謎をすべて明らかにされています。全能神は、「神様への真の信仰とは何か?」というこの質問についてはっきりと話されています。全能神は言われます。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか」(「序文」『言葉は肉において現れる』)

あなたは、神を信じるとは苦難を受けること、または神のためにありとあらゆることを行なうことだと考えているかもしれないし、神を信じる目的は自分の肉が平和であるため、人生において万事が順調に進むため、あるいは自分があらゆることにおいて快適かつ気楽でいられるためだと思っているだろう。しかし、これらの目的はどれも、神への信仰に付随させるべきではないものである。あなたがそうした目的のために信じているのであれば、あなたの見方は誤りであり、あなたが完全にされることは不可能である。神の業、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の不思議と計り知れない性質は、どれも人々が認識すべきことである。そうした認識をもち、またそれを使うことで、自分の個人的な要求、希望、および観念を心の中から残らず取り除きなさい。これらのことを排除して初めて、あなたは神から求められる条件を満たすことができる。そうすることでのみ、あなたはいのちを得、神を満足させられるのである。神を信じる目的は、神を満足させ、神が求める性質を生きることで、神の業と栄光がこの無価値な人々の集団を通じて示されるようにすることである。これが神を信じる正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは神を信じることについて正しい観点をもち、神の言葉を得ることを求めなければならない。神の言葉を飲み食いし、真理を生きられるようにならなければならず、とりわけ神の実際の業、全宇宙を通じて為される神の素晴らしい業、そして、神が肉において行なう実践的な働きを見られるようになる必要がある。人は実際の経験を通じ、神が自分にどう働きを行なうのか、自分に対する神の旨が何かを理解することができる。それはどれも、人々の堕落したサタン的性質を排除するのが目的である。自分の中にある汚れと不義を一掃し、誤った意図を取り除き、神に対する真の信仰を育んだ後、真の信仰をもつことでのみ、あなたは神を真に愛することができる。神への信仰を基礎としなければ、あなたは本当に神を愛することができない。神を信じることなく、神への愛を実現できるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについて混乱してはならない。中には、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを知るやいなや、活力に満ち溢れるものの、精錬を受けなければならないことを知ったとたん、すべての精力を失う人がいる。それが神を信じることなのか。最終的に、あなたは自分の信仰において、神の前で完全無欠の服従を成し遂げなければならない。あなたは神を信じているが、依然として神に要求を行ない、捨てきれない宗教的観念、諦めきれない個人的な利益が数多くあり、いまだに肉の祝福を求め、神が自分の肉を助け出し、自分の魂を救うことを望んでいる。これらはみな誤った観点をもつ人々の振る舞いである。宗教的な信念をもつ人々は、神を信仰してはいるものの、自分の性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益しか求めない。あなたがたの多くは、宗教的信念の範疇に属する信仰をもっている。それは神に対する真の信仰ではない。神を信じるには、神のために苦しむ覚悟がある心と、自分を捧げる意志をもっていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、神に対するその人の信仰は無効であり、性質の変化を成し遂げることはできない。心から真理を追い求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人だけが、真に神を信じる者である」(「完全にされる者は精錬を経なければならない」『言葉は肉において現れる』)

全能神は神様への信仰についての謎と真理をすべて明らかにされました。多くの人たちが神様を信じますが、神様への真の信仰が何であるかだけでなく、神様も、神様の働きも知らないのです。このような信仰は、神様の賞賛を得ることのない、混乱した信仰です! 全能神は信仰が何であるか、明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える」。全能神は本物の信仰についてとてもはっきりと話しておられます。神様を信じる人は、実際に神様の御言葉を信じます。それは、神様の御言葉を適用し、神様の働きを体験するということです。これが真理を本当に理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。教団では、私たちがどのように主のために働きどのように苦しむかしか話しません。どのように主の御言葉を実践し、体験するかについては話さないのです。ですから、どれだけ長く神様を信じていても真理を理解することはできませんし、神様を知ることもできません。そんな風に神様を信じていて、どうして神様に認めてもらえるでしょう! 主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう(マタイによる福音書 7:22)。主イエスは次に何と仰いましたか? 「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:23)。これは、主を信じている私たちが自分の意思に従って、神様のために犠牲を払い、働くことを示しています。私たちは主の御言葉を適応し、体験しようとしませんが、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。教団のいち信者だった頃を振り返ってみると、私は主の御言葉を実践することも、主の働きを体験することにも力を入れず、罪を犯した後に悔い改め、主に赦しを請うだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました。聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じている。自分は主を愛し、主に忠実でいる。主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思っていたのです。これは、私が終わりの日における全能神の働きを受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである」(「神の経営の中でのみ人は救われる」『言葉は肉において現れる』)。全能神は問題の核心に切り込み、人間の本性を明らかにされます。彼らは、祝福欲しさに神様を信じています。神様と取引をしたいのです。私は、自分の信仰に対する動機があまりにも不純であることに気づきました。祝福、恵みや報酬、そして天国に引き上げられることを追い求めていたのです。天国の祝福を楽しむことができれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし私は、主の御言葉を実践し、体験することに力を入れず、神様を知ろうとしなかったのです。結果として、私の人生は神様の御言葉にある真理とはまったく関わりのないものになってしまいました。何年も主を信じてきたのに、主の知識はこれっぽちもありませんでした。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、主が再臨された時には、天国へと引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずで無知でした! 神様は人類の贖いと救いの働きを行われるために2度、受肉されました。人類に真理をもたらすためにそうされたのです。これによって、彼らは神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛と支配から解放され、神様に従順であるようにされたのです。私は神様の御心を理解していませんでした。真理だけでなく、神様の知識さえも求めようとしなかったのです。私はただ、恵みと報酬だけを求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。私は神をどう信じていたのでしょうか? どのように神様を愛し、忠実だったのでしょうか? 私が神様と取引をしようとしていたことは明らかです。神様を利用し、騙そうとしていたのです。全能神の御言葉による裁きによって、私は、自分がどれほど深くサタンに堕落させられていたのかをようやく見ることができたのです! 私はあまりにも利己的で狡猾で、人間らしさのかけらもありませんでした! 卑劣な悪人で、自分さえよければよかったのです。私は神様の御前で生きるのにふさわしくありませんでした。神様は全ての創造主であり、私は神様の創造物です。私が神様を信じ、神様のためにすべてを犠牲にすることは妥当なことです。それが私の本分です。それが私の創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした。私が何かを犠牲にしたり、少しでも苦しんだのは、神様と取引するためでした。私は神様に還元して欲しかった。祝福が欲しかったんです。神様を騙したこの私の信仰どうして神様の憎悪と嫌悪を受けることができないのでしょう? 私のような悪魔的なものを天国へといざなえるわけがありません。今回ばかりは、私は神様の御前に跪き、悔い改めて祈りました。神様が私をどのようにされ、私の最終的な結果が何であれ、私は神様の計画に喜んで従います。たとえ私が神様に仕えるだけだとしても、真理を追い求め、神様の創造物としての本分を全うします。全能神の裁き、罰、洗練、そして試練を次々と体験することで、私の信仰についての考えは変わりました。私は真理を追い求め、実践し始めたのです。徐々に、私は救いを得ることのできる、正しい信仰の道を歩み始めました。これが終わりの日における全能神の裁きを体験した結果です! 私を救って下さった全能神に感謝を!

終わりの日における全能神の裁きと罰を体験した後、私はやっと、自分がサタンによってどれだけ深く堕落させれらたかに気づきました。私は、理由もなくあまりにも傲慢で、外側からは、福音を広め、適度に働き、苦しみを耐え忍び、聖書の御言葉について語り、いくつかの内容を覚えているように見え、神様を知っているつもりで、自分の方が霊的に上であるように傲慢に振る舞っていましたが、実際は、神様に祈ったり、真理と原則を探したりはしなかったのです。私はひたすら自分の思う通りにやりました。主の再臨に対する私のあしらい方は特にそうでした。自分の考えや想像に基づきて神様を聖書に限定してしまったのです。私は、神様の御言葉や働きはすべて聖書の中にあり、聖書の外に存在するとは思っていませんでした。主を信じる人々は聖書を守らなければならないと頑なに信じていて、聖書を守らない者がどうして主を信じることができようか、と思っていたのです。その結果、終わりの日における全能神の働きが私に触れて下さったにもかかわらず、それを探したり調べたりはしませんでした。そればかりか、牧師や長老たちに従って全能神の働きを否定し、軽蔑しました。神様の御前にありながら、私は傲慢ですべての理性を失っていました。私の行動は、神様への信仰だったでしょうか? いいえ、ただの悪でした! 主イエスを拒んだパリサイ人たちと私はどう違うでしょうか?

私は全能神が仰ったあるものを目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことがないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである」(「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」『言葉は肉において現れる』)。「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか」(「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」『言葉は肉において現れる』)。全能神の言葉の一つひとつが私の心に埋め込まれました。彼の裁きは、私が神様を信じているにもかかわらず、神様を拒んでいる私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、損なわれることのない神の義なる、威厳のある性情を感じました。私は恐れで震え、自分がした悪事を恥じて跪かずにはいられませんでした。こんなに長く主を信じてきたのに、どうして未だにこんなにも傲慢で自惚れていたのでしょう? なぜ神様への崇拝が足りていなかったのでしょうか? 神様の働きが自分の考えに沿ったものではなかった時は、それを裁き、否定しました。私は真理を探したり、神様に従ったりは一切しなかったのです。私は神様を信じていながらも神様を拒む、傲慢な人間ではないでしょうか? 私の態度はもうずいぶん前に神様の性情を侵しました。もし神様の慈悲と救いがなければ、私はとっくに地獄に送られていて、神様の声を聞き、終わりの日において神様の裁きと清めを受け入れる機会はなかったでしょう! 私は本当に神様によって救われたんだと感じました! この時、私はこれまでにないくらい自分を呪い、忌み嫌いました。私は、神様がどのように裁き、罰し、剪定し、対処し、試し、洗練されようとも、喜んで受け入れて、神様に従うことを決めました。全能神の御言葉を読み続け、神様の裁きと罰を体験することで、これまでに理解でなかった真理が理解できるようになりました。私は、神様を拒み、裏切ろうとする自分の悪魔的な本性についてさらなる理解を深めていて、今では、神様の聖なる性質と義なる、不可侵な性情についての真の認識も少しは判っています。無意識のうちに、私には神様への尊敬の念と真理への渇望が生まれていました。以前に比べてかなり低い体裁を守るようになり、傲慢で、自惚れることも少なくなりました。色んなことに直面したときには、意識的に自分を否定し、真理を求め、実践することがでるようになりました。私の命の性情は少しずつ変わっていきました。これが神様の御言葉による裁きと罰を体験した結果です! 今では、やっと神様への真の信仰が何であるか理解できるようになりました。神様への信仰の本当の価値と意味を理解しています。これは、恵みの時代において信者がどうしても達成できなかったものです。恵みの時代の間、私たち信者の大半がパウロを模範にすることに力を入れていました。主のために働き、苦しむだけでなく、主の御名を否定するくらいなら刑務所で苦しむことを望むほどでした。このような神への信仰は、私たちの命の性情を変えることができるでしょうか? 本当に神様に従い、愛することができるでしょうか? 最終的に、このような信仰でサタンを打ち負かすことができるでしょうか? 神様を満足させられるでしょうか? 神様は真理を表し、人類へのその働きを行われることで、彼らが神様の言葉を実践し、体験するように求められますが、なぜそうされるのでしょうか? それは、人の命の性情を変え、サタンの影響から人々を救うためです。その結果、人類は神を知り、神に従うことができるのです。これこそ、神様への真の信仰が成せることです。しかし、主の信者のほとんどは、主のためにすべてを犠牲にして努力さえすれば、主の御心の後を追い、主が再臨される時には、天国へと引き上げられると思っています。皆さん、これをよく考えてみて下さい。神様は人に働きかけられます。これは人が神様の働きを広め、その過程で苦しみ、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくしました。義の冠が待っているばかりです」と神様に求めるためでしょうか? これは神様が人に求めておられることでしょうか? これは神様の御心でしょうか? これが私たちの神様への信仰についての理解であれば、私たちは神様を誤解していませんか?

これで神様への真の信仰が何であるか、皆さん理解できましたか? 神様を信じているけれど、終わりの日における神様の裁きと清めを信じていないのは大丈夫ですか? 神様を信じているだけで、神様の御言葉の裁きと罰を体験しなくても神様を知ることはできますか? もし神様を信じていても、その御言葉を実践し、働きを体験せずに神様の御心を理解し、神様に心から従い賛美することはできますか? ということで、もし私たちが本当に神様を知り、私たちの性情を変えたいのなら、終わりの日における全能神の裁きの働きを受け入れ、体験することが極めて重要です! 全能神は言われます。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知り、神を満足させることを可能にするいのちの道がなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……あなたが神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能者の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。……」(「序文」『言葉は肉において現れる』)

映画『神への信仰』より引用

前へ: 質問 2:もう何年も主を信じてきましたが、謙遜な態度で人に寛容で、兄弟姉妹を愛し、主のために奉仕して働いてパウロの例に従う限り、主に服従していることになり、主が戻られたときに天の国に引き上げられると誰もが思っています。パウロが言ったように、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)。しかしあなたがたは、主を信じるには、終わりの日における全能神の裁きを受けなければならず、清められてはじめて神様の賞賛を得て、天国へと入ることができると証されました。お聞きしたいのですが、これまで何年も主を信仰し、主に仕え働いてきた私たちでも、終わりの日における全能神の裁きの働きを受けずには天国へ行けないのでしょうか?

次へ: 質問 1:聖書でパウロは言っています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテヘの第二の手紙 3:16)。パウロの言葉は聖書に書かれている言葉です。ということは、それは神様の霊感を受けて書かれたものであり、神様の御言葉です。主を信じるということは、聖書を信じるということです。宗派は関係なく、聖書から逸れているのであればそれは異端です! 私たちは主を信じているのですから、常に聖書の通りに従わなければなりません。要するに、聖書の言葉を守らなければいけない、ということです。聖書はキリスト教の正典であり、私たちの信仰の礎です。聖書を離れるということは、主を信じていないということです。聖書から離れて、どうやって主を信じるのですか? 主の御言葉は聖書に書かれています。他に主の言葉が見つけられる場所がありますか? もし私たちの信仰が聖書に基づいたものでなければ、何に基づいたものなのですか?

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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質問 9:終わりの日の神様の働きを受け入れますが、どうすれば神様の裁きと刑罰を経験し真理と命を得て罪深い本性を消し去り救われて天国に入れるのですか?

回答:どうすれば神様の裁きと刑罰を経験し、真理と命を得て罪深い本性を消し去り救われて天国に入るのかということですが、この質問はとても重要で、私達の行く末と終着点に深く係っています。全能神の言葉を読んで真理のこの側面を確かめましょう。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を…

質問 1:あなたは、主イエスが再臨され、その働きを行われるために受肉されたと証されていますが、私にはよくわかりません。私たちは皆、主イエスが神様の受肉であることは知っています。その働きを全うされ、十字架に磔にされ、蘇られ、すべての弟子達の前に現れられ、そして栄光に輝く霊的な体で天国へと昇天されました。まさに、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝 1:11)と、この聖書箇所にあるように、主が再臨される際に私たちに現れるのは、神様の復活した霊体であることが確認できます。終わりの日において、なぜ神様は裁きの働きを行われるために人の子として受肉されたのでしょうか? 復活された主イエスの霊体と人の子としての受肉の違いは何でしょう?

回答:信者の大半は、再臨された主がその霊体、つまり主イエスが復活されて40日間に人々の前に現れた時と同じ霊体で出現されると信じていますが、これについては明らかです。復活後の主イエスの霊体は見掛けは受肉と同じ姿で現れますが、物質界や空間または場所に束縛されることはありません。自由に…

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