全能神を受け入れて以来、牧師と長老が邪魔をして聖書の説明ばかりして反論したり拒否してもあきらめないし、嫌がらせとしか言いようがなくて、私たちが弱気になった時はこんなに熱心じゃなかったのに、全能神を受け入れた途端怒ってアメと鞭で人を悩ませるんです。私たちを地獄に引きずり込むまで止めないのよ! 不思議なのは牧師も長老も主に仕えて来て聖書も良く知っているから、全能神が示した言葉はすべて真理だとわかるはずなのに、なぜ学ぼうとしないのか? 全能神を断罪して、拒んで冒涜する前に終わりの日の御働きを調べてみればいいのに全能神を受け入れるのをあんなに妨害するのはどうしてなのか、理解に苦しむんですどうしてなんでしょう説明してくださいますか。

2019年4月3日

回答:信者が全能神を受け入れるのは、牧師や長老は心配でたまらないのです。彼らにすればあなた方は自分たちの羊それが盗まれたとなると大事件でなんとしてでも引き止めて取り戻したいのです。主イエスが現れ働かれた時ユダヤ教の祭司長や法律学者は主イエスを乱暴に中傷し非難し冒涜して十字架に掛けてしまいました。ユダヤ教の信者で主イエスを受け入れたい人は多くいたのになぜそうしなかったのか? 主イエスに従うことさえしなかったのは? ユダヤの祭司長や法律学者やパリサイ人はユダヤ教の信者を脅迫しあの手この手で主イエスを受け入れないよう妨害したんです。ニコデモという人物がいましたが夜間だけ主イエスに会えたのはなぜですか? あなたたちの状況に似ているし、聖書にもはっきり記録があります。パリサイ人が主に逆らった理由が理解できる人は教会にはわずかしかいないし、主イエスがパリサイ人を非難し暴露し呪った言葉から牧師や長老の正体を見抜く人もいません違いますか? 終わりの日に全能神がお見えになり宗教界に巣くうパリサイ人や牧師や長老が神様に抵抗する性質と実態を明らかにしました、全能神の御言葉を少し読みましょう。

全能神は言われます。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前にむなしく固執しながら、できる限りのことをしてメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)

荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)

毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に『都合の良い』句をみつけては、いつまでも読み続け、……彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書の文章を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった(『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」〔『言葉』第1巻〕)

各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか(「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」『キリストの言葉の記録』)

全能神の言葉を読んでみてパリサイ人が主イエスに逆らい非難したことと教会の牧師や長老が終わりの日の神様の働きに逆らい非難していることの原因が理解できましたか? 恵みの時代に主イエスはパリサイ人を呪い偽善者という正体を暴き終わりの日には全能神がお見えになり牧師や長老の神様に逆らう振る舞いや正体を暴きました。神様の二度の受肉で神様が教会の指導者の偽善性と神様に反抗する正体を暴いたのはなぜでしょう。神様に仕えているとのたまいながら、神様の御言葉を実践するどころか、掟も守れない真理の現実もなく神様に心から服従してもいない律法や規則や儀式を実行するだけ、雄弁さと才能を利用し聖書の知識と神学を説明して自分達が注目を集め尊敬され、信者が従うように仕向けます。神様に選ばれた者がそれに従い指示を受け言う通りにしてしまう。真の道を見つけ出そうにも牧師や長老の許可が必要なんて、問題が何であろうと神様に祈ったり真理を追求する代わりに牧師や長老に頼ってしまう。そして言われた通りに行動してしまう。聖書と真理に沿っているかどうかなんてわかりもしない。神様が受肉して働き真理を示しても調べるべきか神様の声を聞くべきかどうかの判断もできず、教会の牧師や長老に決めてもらうんです。自分の人生を牧師や長老に任せているのです。何かおかしくないですか? 主イエスと牧師や長老とどちらを信仰しているのですか? 本当に変だと思いますよ宗教界に居るパリサイ人や牧師や長老は神様の御前に信者を連れて行かず自分の掌の上で支配しているだけなのです。神様に選ばれた者の多くは見識に欠け偽善的なパリサイ人や牧師や長老に騙されているのです。神様が真理を示し真理を憎み神様に逆らう本質を暴露しなかったら、神様の選んだ者に戦いをいどむ反キリストであることがわからなかったでしょう! 神様の選んだ者が欺瞞や罠から逃れるすべもなく、神様の働きを受け入れ救われる事もなく悪いしもべと反キリストに滅ぼされていたでしょう。全能神は教会のパリサイ人や牧師や長老が神様に反抗する本質と原因を明確にし偽善の仮面をかぶって神様に仕える振りをする正体を神様の信者に見せてくださいました。パリサイ人の反抗やサタンの悪影響から救ってくださるのは神様です。もし神様がこのように働かなかったら信者が自発的に神様の元に戻って来たでしょうか? パリサイ人が神様に抵抗するという真理と事実が明らかにされなかったら信者はパリサイ人を見分けることができたでしょうか? 牧師や長老が終わりの日の神様に抵抗するという真理と事実が明らかにされなかったら信者はその束縛とわなから解放されたでしょうか? できなかったでしょう。神様がこのように働かれるのは私たちに対する情熱と救いなのです!

教会では皆牧師や長老を崇拝し聖書を理解している信心深い人だと思い、兄弟姉妹の面倒もみて根気強く働き聖書を説明してくれるのに、なぜ偽善的なパリサイ人や反キリストとされるのですか? 表向き良く見えるとか主のために一生懸命働き苦労しているからというだけで、牧師や長老が反キリストでないとはわかりません。神様の出現と働きや受肉したキリストと示された真理をどう受け止めるかが重要で、それによってのみ正体が明らかになるのです。ユダヤの祭司長や法律学者やパリサイ人に良く似ています。聖書の説明がうまく衣類の縁取に聖句が刺繍してあったくらいで外見はとても信心深いのに主イエスが現われ働かれたときどうしました? 主イエスが悪魔を追い出し病人を癒し神様の権威と力を示したのを見てパリサイ人は主が悪霊の王を使って悪霊を追い払ったと非難しました。さらに大祭司が主イエスにキリストであるのか質問して主が「そうである」とお答えになると神への冒涜だと非難しローマ政府へ引き渡しました。主イエスを磔にするため盗賊を許したくらいです。ユダヤの祭司長や法律学者やパリサイ人は主イエスの言葉や働きには権威と力がある事を知っていたのに、真理を探そうとか受け入れようなどという気は全くなく、頑固に律法や法令に固執し聖句を引用して神様の働きを非難し主イエスがいかに真理を示そうとも奇跡や不思議をお見せになっても気にもとめず、主が救い主と呼ばれない限り、主を非難し逆らいどうしても十字架に磔にする気でいました。このような事実から明らかなようにパリサイ人の本質と正体は真理や神様を憎む反キリストの悪魔なんです。終わりの日に主イエスは全能神として戻られ真理を示し裁きと救いの働きをされています。様々な教派の良い羊や指導者が全能神の言葉を聴き神様の声に気づき全能神に目を向けました。教会の牧師や長老は全能神が発する言葉は真理で権威と力がある事を知っているのに真理を求めようとしません。聖書にしがみ付き自分勝手な引用をして聖書からの逸脱は異端であり雲に乗って来ない主イエスは偽者だと言い受肉した神様の発するメッセージは異端や虚偽としてあらゆる風評やでっち上げを広め全能神を非難し中傷して攻撃し冒涜します。終わりの日の神様の働きを見つけようとするとわなにかけ騙し神様に選ばれた者に神様の到来を見捨てようとさせるのです。牧師や長老が神様の羊を神様に返還せず、自分の所有物にして神様に選ばれた者を指図し支配するのは反キリストでしょう? それがあの人達の態度でしょう? それどころか全能神の知らせを広め証しする者が出ると攻撃し辱め警察まで呼んで中国共産党という悪魔に引き渡し悪の政権に協力して神様の終わりの日の働きを阻止し、中国の宗教を永遠に支配するという悪巧みに精を出すのです。真理と神様を憎む悪の本性を表します。

映画『邪魔しないで』より引用

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