偽善とは何か。

2017年11月24日

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「パリサイ人」という呼び名の定義は何ですか。彼らは偽善的で、まったくの偽りで、あらゆる行いにおいて芝居を打ちつつ、自分は善人で親切で前向きであるかのように見せかける人たちです。パリサイ人は本当にそのようなものですか。彼らは偽善的なので、彼らのうちに表わされ露わにされるものはすべて偽物であり、どれも見せかけです。それは彼らの本当の顔ではありません。本当の顔は心の中に隠されて見えないのです。真理を追い求めず理解もしないなら、その人が得た理論はどうなりますか。人々がしばしば言及する字句と教義になるのではないですか。人は自分をよく見せようと、こうしたいわゆる正しい教義を使って偽装します。どこに行っても、彼らが話題にすることや言うこと、そして彼らの外面的な振る舞いは、他人の目にはどれも正しく善いものに映り、すべて人間の観念や嗜好と合致しています。他人の目から見て、彼らは信心深く謙虚で、自制と寛容を示すことができ、他人と神を愛せます。ですが実際には、そのどれもが偽物です。すべて見せかけで、自分を装う方法に過ぎません。表向きは神に忠実なように見えますが、実際には他人に見てもらうための演技です。誰も見ていなければほんの少しも忠実でなく、彼らが行なうことはどれもいい加減です。表面上は家族や職業を捨てており、懸命に働き自分自身を費やしているように見えますが、実際には密かに教会から利益を得たり、捧げ物を盗んだりしているのです。彼らが外に向けて露わにすること、つまり彼らの振る舞いはすべて偽物です。これが偽善的なパリサイ人という言葉の意味です。「パリサイ人」というこれらの人々はどこから来ますか。未信者のあいだに現われますか。彼らはみな信者のあいだに現われます。信者がなぜこのように変わってしまうのですか。神の言葉が彼らをそのようにしたということがありえるでしょうか。彼らがそのようになるおもな理由は何ですか。それは、彼らが誤った道を進んだことです。彼らは神の言葉を、自分を武装する道具と捉えてきました。それらの言葉で武装し、生活の糧を確保したり、ただで何かを手に入れたりする元手として扱うのです。彼らは教義を説くだけで、それらの言葉を実践したことがありません。神の道に従ったことがないにもかかわらず、言葉や教義を説き続けるのはいったいどのような人ですか。そのような人は偽善的なパリサイ人です。彼らの良き振る舞いや良き自分の表わし方とされているもの、彼らが捨てたり費やしたりした小さなかけらはどれも完全に作り物であり、いずれも彼らの打つ芝居なのです。彼らはまったく偽物で、すべての行ないは見せかけです。このような人の心に神への畏れはこれっぽっちもなく、神に対する本物の信仰さえありません。それどころか不信者の一味なのです。真理を追い求めなければ、そうした道を歩いてパリサイ人になります。それは恐ろしいことではないですか。

『キリストの言葉の記録』の「いのちの進歩を表す六つの指標」より引用

人々が真理を信仰の中で順守すべき教義として扱うならば、彼らは宗教的儀式に陥りやすくなりますか。そして、この種の宗教的儀式を順守することと、キリスト教の信仰との違いは何ですか。古い教えと新しい教えとの間には違いがあり、語られることもより深遠で進歩的かもしれませんが、教えが一種の理論に過ぎず、単に儀式の一形態、人々にとっての教義の一形態にしかならないのであれば、そして同様に、そこから真理を得たり真理の現実に入ったりできないとすれば、そのような人々の信仰はキリスト教とまったく同じではないのですか。本質的に、これがキリスト教ではないのですか。それでは、振る舞いや本分を尽くすことに関して、あなたたちは何においてキリスト教の信者と同じ、あるいは類似した見方をしていますか。表面的なよい行ないを追い求め、霊的な外見を用いて自己を装うことに最大限の力を尽くす。霊的な人の真似をする。口にすること、行なうこと、明らかにすることにおいて霊的な見せかけを作り出す。人々の観念や想像において賞賛に値するいくつかの物事を行なう。これらはすべて偽の霊性を追い求めることであり、偽善です。高いところに立って言葉や道理を述べ、よい行ないをし、よい人になり、真理を追い求めることに集中するよう人々に説いても、自分自身の振る舞いや本分を尽くすことにおいて、あなたたちは真理を探し求めたことがなく、真理の原則によって行動したことがなく、真理において何が語られているか、神の心は何なのか、神が人間に求める基準は何なのかを理解したことがなく、これらのどれも真剣に受け止めたことがないのです。何らかの問題に遭遇すると、自分自身の意志にだけ従って行動し、神を脇に追いやります。これらの外面的な行ないと内面的な状態は、神を畏れ悪を避けることですか。信仰と真理の追求に何のつながりもなければ、何年神を信じようと、心から神を畏れ悪を避けることはできません。それでは、そうした人々はどのような道を歩くことができますか。彼らは何を身につけて日々を過ごしているのですか。言葉や道理ではないのですか。彼らは自分をパリサイ人のようにするため、神に仕えているとされる人々のようにするため、自らを武装し、言葉や道理で自分を飾りながら日々を過ごしているのではないのですか。これらすべての行動は一体何なのですか。彼らは動作を淡々と済ませているに過ぎません。信仰の旗を振り、宗教的な儀式を行ないながら、祝福されるという目的を達成するために神を騙そうと試みているのです。彼らはまったく神を崇めていません。

『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より引用

緊急事態に備えて、あるいは自分の問題を解決するためでなく、自分を捨てて他人を助けるためだけに、ある種の真理で武装する人がいます。私たちはそのような人を「無私な人々」と呼んでいます。そのような人は他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身をその主人とみなしつつ、他者に対して真理を堅く保ち、受け身になることがないよう教えますが、一方の自分自身は土俵の外にいる傍観者のままです。これらはどのような人ですか。このような人は真理の言葉をいくらか身につけていますが、ただ他人に説教するために使うだけで、自分の破滅を防ぐことは何もしていません。なんと哀れなことでしょうか。そのような人の言葉が他人を助けられるなら、どうして自分を助けられないのでしょうか。私たちはそのような人に、現実をもたない偽善者というラベルを貼るべきです。こうした人たちは他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう求めつつ、自分自身は実践する努力を一切しません。彼らは忌み嫌うべき者ではないでしょうか。こうした人たちは、自分は明らかに真理を実践できないにもかかわらず、他人にそれを強要します。何と残忍なやり方でしょうか。彼らは現実を用いずに他人を助けようとし、愛を使って他人に施しているのでもありません。単に人を惑わし傷つけているだけです。それが続き、各人が真理の言葉を次の人に伝えるとすれば、最後は誰もが真理の言葉を語るだけで、自分で実践することができないのではないでしょうか。そのような人がどうして変われるでしょうか。彼らは自分の問題をまったく認識していません。このような人に進むべき道がどうしてあり得るでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道がある」より引用

あなたは宗教的慣習をいくつ守っているだろうか。神の言葉に逆らって、自分の道に行ってしまったことが何回あるだろうか。神の重荷を真に考慮し、神の旨が成就されることを求めて、神の言葉を実行したことが何度あるだろうか。神の言葉を理解して、それを実行に移しなさい。すべての行動と行いに原則を持ちなさい。それは規則に従うということではなく、体裁のために何かを渋々するということでもなく、真理を実践し、神の言葉によって生きるということである。そのような実践こそ、神を満足させることができるのだ。神を喜ばせる行為とは、規律を遵守することではなく、真理を実践することである。一部の人々には周りの注意を引こうとする傾向がある。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に恩義があると言うかもしれないが、陰では真理を実践することもなく、まったく違うことを行っている。彼らは宗教熱心なパリサイ人ではないか。神を心から愛し、真理を持っている人というのは、神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことだ。そうした人は必要であれば喜んで真理を実践するし、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。そして問題が起きると賢明さを示し、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ、真に神に仕えることができる。中にはただ口先だけで神に恩義があると言う人もいる。彼らはしかめっ面をし、わざとらしくみじめな表情を装って日々を過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。もし彼らに、「どんな風に神様に恩義があるのか教えてください」と尋ねたら、彼らはきっと言葉を失うだろう。あなたが神に忠実ならば、そのことを大っぴらに話してはいけない。その代わり、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神にただ言葉でおざなりに対応している人たちは、すべて偽善者である。一部の人たちは祈りのたびに神に対する恩義を語り、聖霊に動かされていないにも関わらず、祈るたびに涙を流す。このような人たちは宗教的儀式と観念に捕われており、そうした儀式や観念に従って生きながら、いつもそのような行為を神が喜び、表面上の信心深さや悲しみの涙を神が好むと信じている。そのような馬鹿げた考えを持つ者から、どんな良いことが生まれようか。また一部の人々は、謙虚さを示そうと、他の人の前で話すときは上品に振る舞ったりする。また人前で故意に卑屈になり、無力な子羊のように振る舞う人たちもいる。これが神の国の民にふさわしい態度だろうか。神の国の民とは、生き生きとして自由で、純真で率直で、正直で愛らしく、束縛されない生き方をするものだ。彼らには品性と尊厳があり、どこに行っても神に証しを立てることができる。そのような人は神と人の両者から愛されている。信仰において未熟な人たちは、外的な実践にこだわりすぎる。彼らはまず神に取り扱われ、打ち砕かれる時期を経なければならない。心の奥に信仰を持つ人々は、外見は他者と同じであっても、その行動や行いは称賛に値する。そのような人たちこそ、神の言葉を生きていると言えるのだ。もしあなたが毎日さまざまな人々に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導こうと努めているとしても、結局のところ規則や教義に従って生きているなら、神に栄光をもたらすことはできない。そのような人たちは単なる宗教家であり、同時に偽善者なのである。

宗教熱心な人々の集まりではいつも、「姉妹よ、最近はどうされていましたか?」、「わたしは神様に恩義があるのに、神様の旨を満たせないような気がするんです」などというやり取りがあったりする。また別の人も、「わたしも神様に恩義があるのに、神様を満足はさせられない気がするんです」などと言ったりする。こうしたわずかな言葉だけでも、彼らの心の奥深くにある卑劣さが見て取れる。そのような言葉は実に忌まわしく、極めて不快なものだ。こうした人たちの本性は神に敵対している。現実に焦点を合わせている人は、心にあることをそのまま言葉にし、交わりの中で自分の心をさらけ出す。偽りの行いはひとつもせず、形式的な礼儀にもこだわらず、空虚な社交辞令も言わない。いつも単刀直入で、現世の規則に縛られることもない。また一部の人々は、見せびらかすことにこだわる傾向があり、挙句の果てにまったく分別を失っているほどだ。他の人が歌うと踊り始め、鍋の米が焦げていることにも気が付かない。そのような人たちは敬虔ではなく、尊敬にも値せず、あまりにも軽率だ。こうしたことはすべて現実の欠如の顕れである。一部の人々は霊的いのちについて交わりを持つとき、神に恩義があるなどと言いはしなくても、心の奥に神への真の愛を秘めている。神に恩義があるというあなたの感情は、他の人々とは無関係だ。なぜならあなたは人ではなく神に恩義があるのだから。それを絶えず人に話したところでどうなるのか。外見上の熱心さや見せかけではなく、現実に入ることに重点を置きなさい。

人のうわべだけの良い行いは何を表すだろうか。それは肉を表しており、外面上最善の実践をしたところで、それはいのちではなくただあなた個人の性質を表すだけだ。人の外面的な実践では、神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に恩義があると言っているが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するよう誰かを導いたりすることもできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしていることが神の旨にかなっており、霊的なことだと感じているが、実際にはすべてが実にばかげている。あなたは自分が嬉しいと思うことや自分がしたいと思うことが、まさに神も喜ぶことだと信じている。あなたの好みが神の好みを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるだろうか。あなたが喜ぶものはまさしく神が嫌悪するものであり、あなたの習慣は神が忌み嫌い拒絶するものだ。もし神に恩義を感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引いてばかりいるなら、神の旨を成就することなどできるだろうか。あなたの行動が常に見せかけだけなら、それはあなたが極度にうぬぼれの強い人間だということだ。表面上良い行いをするだけで現実性に欠ける人間とは、どんな種類の人間か。それは偽善者のパリサイ人であり、単なる宗教家でしかない。あなたがたが見せかけの実践をやめず、変わることができないなら、あなたがたの中にある偽善的要素はさらに増大するだろう。偽善的要素が大きければ大きいほど、神への抵抗が強くなる。そして最終的に、そのような人々は必ず排除されることになるのだ。

『神の出現と働き』「信仰においては現実に集中せよ――宗教的儀式を行うことは信仰ではない」(『言葉』第1巻)

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