偽のキリストとは何か。偽のキリストはいかに識別できるか。
関連する神の言葉
受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)
受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。
『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)
キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉となった姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人が彼を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。キリストの肉の役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉に実現可能なことを超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉において働くのであり、神の真の姿を人に全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを自ら遂行するけれども、天の神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりしない。むしろ、謙虚に自身の肉のうちに隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストの高慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の属性を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。
『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)
悪霊に取りつかれ、「わたしが神だ!」と声高に叫ぶ人がいる。しかし最後に、彼らは暴かれる。と言うのも、自分が表わすものについて、彼らは間違っているからである。彼らはサタンを表わし、聖霊は彼らに何の注意も払わない。どれほど高く自分を称揚しても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、神の愛するひとり子である」と叫ばない。しかし、わたしが行なう働きは神の働きである。わたしに叫ぶ必要があるだろうか。称揚の必要はない。神は自身の働きを自ら行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表わすのである。バプテスマに先立ち、イエスは神自身ではなかったのか。受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証しをされて初めて神のひとり子になった、などと言うことは到底できない。その働きを始めるずっと以前、イエスという名の人間がすでにいたのではないか。あなたは新しい道を生み出すことも、霊を表わすこともできない。霊の働きや、霊が語る言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを行なうこともできない。神の知恵、不思議、計り難さ、そして人間を罰する神の性質全体を表現することは、どれもあなたの能力を超えている。ゆえに、自分は神だと主張しようとしても無駄である。あなたには名前があるだけで、実質がまったくないのである。神自身はすでに来た。しかし、誰も神を認識せず、それでいて神は働きを続け、霊を代表して働く。あなたが彼を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかし、彼が行なう働きは霊の働きで、神自身の働きを表わしている。人にどのような名前で呼ばれるか、彼には関心がない。その名前が彼の働きを決定できるのか。あなたが彼を何と呼ぼうと、神に関する限り、彼は神の霊の受肉した肉体である。彼は霊を表わし、霊によって承認されている。あなたが新しい時代への道を切り開けないなら、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをしたりすることができないのであれば、あなたが神と呼ばれることはできない。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)
この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約聖書はメシアの到来を預言し、この預言の結果はイエスの出現であった。これはすでに起きたことであり、別のメシアがまた来るというのは間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは間違いである。すべての時代には一つの名前があり、名前はそれぞれ各時代の特徴を含んでいる。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない。
『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)
説教と交わりの参考箇所
キリストを真似て話し、人を惑わす者は偽キリストです。すべての偽キリストは悪霊に取り憑かれており、人を惑わす者です。絶えず人を惑わすために語っている偽キリストは、どうすれば見分けることができますか。偽キリストの言葉のいくつかに目を向けるだけでは、途方に暮れるだけで悪霊の本当の狙いを見抜くことはできません。この悪霊を追い続け、口に出したことをすべて考慮に入れれば、それが本当はどのようなものか、何をしているのか、実際に何を言っているのか、人に何をしようと企んでいるのか、人にどのような道をもたらそうとしているのかがごく簡単にわかります。そうして、見分けるのは簡単になります。多くの悪霊の言葉には、本質的に同じ特徴が存在するのを見ることができます。それらは神様の御言葉を真似るだけで、神様の御言葉の本質を捉えることなど当然ありえません。神様の御言葉には文脈と目的があります。神様の御発言の最終的な目的と効果は極めて明白であり、神様の御言葉には権威と力があること、人の心に触れて霊を感動させられることがわかります。しかし悪霊やサタンの言葉には文脈も効果もなく、よどんだ水たまりに似ており、それを読んだ人は心が暗くなるのを感じます。そこからは何も得られません。ゆえに、ありとあらゆる悪霊には真理がまったくなく、内側が暗く陰気なのは間違いありません。その言葉は人に光をもたらすことも、進むべき道を示すこともできません。悪霊は自分の目標も、自分が何を成し遂げようとしているのかもはっきり述べず、真理の本質や根源について触れることがありません。みじんもないのです。悪霊の言葉に人が認識すべきことや得るべきことは見つかりません。したがって、悪霊の言葉は人を混乱させ、内なる暗さや陰気さをもたらすことしかできません。それは人に糧を供給することがまったくできません。このことから、悪霊に固有の本性と本質は、悪と闇のそれであることがわかります。それらに活力はなく、その代わりに死の悪臭が漂っています。それらはまことに呪われるべき忌まわしいものです。悪霊が語ることに真理はまったくなく、死んだ蠅をたった今食べたかのようなむかつき、嫌悪、吐き気をもたらす、まったく馬鹿げたものです。
『全能神教会における働きの手引き選集』より引用
もし誰かが神の選びの民を混乱させ、自分は受肉の神、キリストであると言うなら、私たちはその人がキリストであるかどうかを確証するために、その人の本質と表現、働きと言葉、それにその人が現す性質を見極めなければなりません。これらの主要な側面からその人の本質を見ることによって、彼が受肉の神であるかどうかを確かめることができます。まず最初に、私たちは働きの側面から、その人の働きが神の働きであるかどうか、彼が神の御言葉と、神が所有されるものと、神の存在と、神の義なる性質を表現することができるかどうかを見極めるべきです。もしそれが人間の働きであれば、その人は人間が持っているものすべてと人間の存在のすべてと、人間の経験と理解についてしか話すことができないでしょう。彼は、神の経営(救いの)計画と奥義のことはおろか、神が所有されているすべてのものと神の存在のすべて、神の働きと要求と性質について語ることはできません。第二に、言葉の側面から見れば、神の御言葉と人間の言葉の間には本質的な違いがあります。神の言葉は、神が所有されるものすべてと神の全存在を代表しており、人間の言葉は、人間が持っているものすべてと人間の存在のすべてを代表しています。神の言葉は神の性質を表しています。人間の言葉は人間の人性を表しています。神の言葉は真理です。人間の言葉は真理ではありません。それは真理に属していません。第三に、性質の側面から見ると、神の働きは神の性質を表すことができます。人間の働きは神の性質を表現することができず、その人の性格しか表現できません。人間の性格にはどのようなものがありますか。義、威厳、怒り、真理などがあるでしょうか。人間の性格には、神が所有されているものと神の存在がまったくありません。だから人間の働きには神の性質の片鱗すらありません。これらの側面から、それが神の言葉であるのか人間の言葉であるのか、神の働きであるのか人間の働きであるのかをたいへん容易に判断できます。これらの側面からその違いを判別できないなら、人は偽キリストや反キリストによって簡単に混乱させられてしまいます。これら三つの側面によって違いを判別できれば、あなたは誰が受肉の神で、誰がそうでないのかを断定することができるでしょう。働きと言葉と性質―― 外見によって判断するのではなく、これらの三つの側面から違いを判断するのが最も正確です。
『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。