神によって使われる人の真理と一致する言葉と、神自身の言葉との違いは何か

2017年11月22日

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神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。神の存在を信じる人はすべてこの問題を正しい観点から考察すべきであり、神の新しい働きと新たな言葉を神の被造物の観点から受け入れるべきである――さもないと神に淘汰されるであろう。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

……誰もが真理を経験できますが、各人の経験の状況は違っていて、同じ真理から得るものは一人ひとり異なります。しかし全員の理解を統合しても、この真理はやはり完全には説明できません。真理はかくも深いのです。あなたが得たすべての物事や、あなたが有するすべての理解をもってしても真理の代わりにはなり得ないと、なぜわたしは言うのでしょうか。自分の理解を他人と分かち合えば、二、三日間はそれについて深く考え、それを経験し終えますが、人は一生かけても真理を完全には経験できません。たとえすべての人が集まっても余すところなく経験することはできません。それゆえ、真理は非常に深遠だということがわかるのです。言葉を用いて真理を完全にはっきりと表現することはできず、人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何か、あなたは知っているか」より引用

真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています。少しばかり経験があれば、それが真理を有しているということだと言うならば、あなたに神の性質を表わすことができますか。真理のある側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に施すことはできません。ですから、あなたが得たその光は真理でなく、人々が到達可能なある地点に過ぎません。それは単に人間が有するべき正しい経験、正しい認識であり、つまりは真理に関する実際の経験と認識なのです。そうした光、啓き、そして経験による理解は、決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人がこの真理を完全に経験し、彼らの経験による理解をすべて持ち寄ったとしても、その一つの真理に取って代わることは依然としてできないでしょう。過去に「それを人間世界の格言で要約しよう。人間の中にわたしを愛する者は一人もいない」と言われた通りです。これは真理の言明であり、人生に関する真の本質です。それは最も深遠なものであり、神自身の表現です。あなたはそれを経験し続けることができ、三年間経験すればそれに関する表面的な理解が得られ、七ないし八年間経験すればさらにその理解が得られます。とは言え、あなたの得る理解が真理に関するその一つの言明に取って代わることは決してできません。二年間経験した他の人はわずかな理解を得、十年間経験すれば少しだけ深い理解を得られ、生涯にわたって経験すればさらに理解を得ます。しかし両者が得た理解を結合させたところで、どれだけの理解、どれだけの経験、どれだけの識見、どれだけの光、あるいはどれだけ多くの例があろうと、どれも先に述べた真理の代わりには依然なり得ません。これでわたしは何を言わんとしているのでしょうか。わたしが意味しているのは、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を得たというのは、何らかの現実を有している、真理について何らかの理解を得た、神の言葉に実際ある程度入った、それらに関する何らかの実際的な経験がある、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神からの言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたってそれを経験したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に、かつ徹底的に経験することはできないでしょう。……

……真理の一側面について何らかの経験を有していれば、それ自体が真理を表わすことはできますか。絶対にできません。あなたは真理を余すところなく説明できますか。神の性質と本質を真理から発見することができますか。あなたにはできません。真理について、各人にはその一側面、一範囲の経験しかありません。自分の限られた範囲の中でそれを経験したところで、真理のすべての側面に触れることはできません。人は真理の本来の意味を生きることができますか。あなたのわずかな経験はどれほどのものですか。砂浜の砂一粒、大海の水一滴に過ぎません。それゆえ、経験から得たあなたのそうした認識や感覚がどれほど貴重なものであろうと、やはり真理とは見なされません。真理の源と意味は非常に広大な範囲を覆っています。それを否定できるものありません。……しかし、人のもつものや人が得た光は、その本人やある範囲内の他人にしか適しておらず、別の範囲の中ではふさわしくありません。人の経験はとても限られているので、それがどんなに深いものであろうと、その経験は決して真理の範囲に届きません。人間の光や理解は決して真理に匹敵するものではないのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何か、あなたは知っているか」より引用

したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。それらは単に、パウロが働きのさなかに諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉であり、また同時に、パウロによる当時の活動の大部分を記録するものでもある。それらは主の兄弟姉妹全員のために書かれたもので、当時の諸教会の兄弟姉妹がパウロの助言に従い、主イエスの悔い改めの道を守るようにするためのものだった。パウロは、当時の教会であれ、未来の教会であれ、自分の書いたものを全員が飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、自分の言葉はすべて神に由来するものだとも言わなかった。パウロは単に、当時の教会の状況に応じて兄弟姉妹と交わり、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていたのであって、ただ教えを説いたり、人々の注意を促して勧告したりしていたに過ぎない。彼の言葉は彼自身の重荷に基づいており、それらの言葉を通じて人々を支えた。彼は当時の諸教会の使徒の働きを行ない、主イエスに用いられる働き手だった。したがって、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのため、主における兄弟姉妹全員に手紙を書いたのである。彼が述べたことはどれも人々にとって啓発的であり、肯定的であって、いずれも正しかったが、それは聖霊の発する言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間による経験の記録や手紙を、聖霊が諸教会に向けて語った言葉として扱うのは、言語道断な解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。なぜなら、彼の手紙は当時の各教会の事情と状況に基づき、兄弟姉妹に向けて書かれたものであり、主における兄弟姉妹を励まし、彼らが主イエスの恵みを受けられるようにするためのものだったからである。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものだった。それは彼自身の重荷であり、また聖霊が彼に背負わせた重荷でもあったと言える。結局のところ、彼は当時の諸教会を導き、諸教会に手紙を書いて励ました使徒である。それが彼の責任だった。彼の身分は単に働きを行なう使徒であって、神に遣わされた使徒に過ぎない。彼は預言者でも予知する者でもなかった。彼にとっては自分の働きと兄弟姉妹のいのちが最も重要だったのである。それゆえ、彼は聖霊の代わりに語ることができなかった。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、ましてや神の言葉だったとは到底言えない。パウロは神の被造物に過ぎず、決して神の受肉ではなかったからである。彼の身分はイエスの身分と同じではなかった。イエスの言葉は聖霊の言葉であり、神の言葉だった。イエスの身分はキリスト、すなわち神の子の身分だったからである。どうしてパウロがイエスと対等になれようか。もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、あなたは何と言うのか。パウロが諸教会に向けて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないことがあり得ようか。彼は自分の個人的経験と認識に基づいて教会に手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの教会に向けて手紙を書いているが、そこにはある意見が含まれている。またペテロも別の手紙を書いているが、そこには別の意見が記されている。どちらが聖霊に由来するものなのか。誰一人断言することはできない。ゆえに、彼らは二人とも教会のために重荷を背負っていたが、彼らの書簡はそれぞれの霊的背丈を表わし、また兄弟姉妹に対する彼らの施しと支え、そして教会に対する責任を表わすものであって、人間の働きを表わしているに過ぎない。それらがすべて聖霊のものというわけではないのである。パウロの手紙は聖霊の言葉だと言うのなら、あなたは愚かで、冒瀆を犯している。パウロの手紙や新約のその他の書簡は、より最近の霊的人物による回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験などと同じようなものである。つまり、最近の霊的人物の著作は新約の中に収められていないが、そうした人物の本質は同じだということである。彼らは一定期間にわたり聖霊に用いられた人々だったが、直接神を表わすことはできなかったのである。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に当てはまる。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊に啓かれることができるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間性の範囲内にあり、通常の人間の心にある考えの範囲を越えることはできない。真理の現実を生きられる人はみなこの範囲内で経験する。人が真理を経験するとき、それはいつも聖霊に啓かれた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。人は人間生活を生きている基盤の上で聖霊に啓かれた真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。人が歩む道は真理を追求する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊に啓かれた通常の人間が歩む道と呼んで差し支えないと言えるだけである。人が歩む道は聖霊が歩む道であるは言えない。通常の人間の経験では、追求する人は一人ひとり異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、人が経験する環境や経験の範囲は同じではなく、人の精神や考えが混ざり合うため、その経験もさまざまな程度に混ざり合っている。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、真理の側面のうち一つだけ、あるいはいくつかを理解するにすぎない。人が経験する真理の範囲は各人の条件に沿って一人ひとり異なる。こうして、同じ真理についての認識でも、異なる人が表せば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心意にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊による人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとみなすこともできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊に啓かれた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の窓口となる条件を満たさない。人の働きは神の働きであると人が言う資格はない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

すなわち、人の分かち合いは神の言葉とは違うのである。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きに基づいたその人の見識や経験を表す。人の責任は、神の働きや談話の後で、そのうちの何を実践し何に入っていくべきかを見つけ、それを追随者に伝えることである。したがって、人の働きは人の入りと実践を表している。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えもいくらか混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようとも、肉となった神において働こうとも、働き手は必ず自分が何であるかを表わすことになる。働くのは聖霊であるが、働きは人の本質を基盤としている。なぜなら聖霊は基盤なしには働かないからである。言い換えれば、働きが無から生じることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じて行われる。このようにしてのみ、人の性質は変化することができ、人の古い観念や思考も変えることができる。人が表すものは人が見、経験し、想像できるものであり、それが教義あるいは観念であっても、人の思考により到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像あるいは構想の範囲を越えることはできない。神が表すものはすべて神自身そのものであり、これは人には達成できない。つまり、人の考えの及ばないものである。神は全人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人が表現することは人の経験であり、神が表現することは神の存在そのものである。それは神に固有の性質であり、人には届かないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した人の見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。人の表現の基盤は人に本来備わっている性質や素質である。そのため、それも人の存在と呼ばれるのである。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは思考が到達できないもの、自分の心の中にないものについて話せる人は誰もいない。人が表すものが経験に由来していなければ、それは想像あるいは教義である。簡単に言うと、その言葉には現実性がない。社会の物事と接触がなかったなら、社会の複雑な関係について明確に話すことはできないであろう。家族がないのに、他の人たちが家族問題について話していたら、その話の大半を理解できないであろう。だから、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表すのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

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