神の羊は神の声を聞き、神の声を聞くことでのみ主の再臨を迎えられる

2017年11月22日

参考聖書箇所:

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネによる福音書 14:6)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)

関連する神の言葉

このため、神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)

神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

神を知ることは、神の言葉を読んで理解することを通じて達成なされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、人間に対する神の愛と救い、そして人間を救う神の方法などを見ることができます。神の言葉は人間によって書かれるのではなく、神自身によって表現されるからです。それらは神によって直々に表現されるのであり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それらが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それらは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待などを表現しているからです。神の発する言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はいささか厳しいと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、むしろあらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が非常に厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は一切の背きを許さない神の性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出たりする価値はありません。今、人々が神の前に出られるのは、ひとえに神の恵みによるものです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義に見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。

『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より引用

今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。

『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」(『言葉』第1巻)

確かに、神が地上に来て働きを行なうとき、人が見るのはどれも超自然的な出来事である。人が自分の目で見るもの、耳で聞くことはすべて超自然的である。なぜなら、神の働きと言葉は人にとって理解できず、達成不可能なことだからである。天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天国の奥義が地上にもたらされるとき、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりに不思議で知恵に満ちているが、それらはすべて超自然的ではないのか。……現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの側面が超自然的でないというのか。彼の言葉は、あなたにとって理解することも成し遂げることもできないものである。そして、彼の働きを行なえる者は誰一人いない。彼が理解することを人が理解することはできず、彼の知識についても、それがどこから来るのかを人は知らない。中には「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私のほうが年上で経験も豊富なのに、どうして私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。人間に関する限り、これはすべて人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行なわれた働きを知る人はおらず、聖書解説者ですら説明できないのに、あなたはどうして知っているのか」と言う人もいる。これらはすべて超自然なものの問題ではないのか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験していないが、あらゆることを知っており、いともたやすく真理を語って表わす。これは超自然的なことではないか。彼の働きは、肉体が到達可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉体をもつ人の考えが及ぶものではなく、人の知力や理屈にとってまったく不可解なものである。今日の受肉した神は聖書を読んだことがないものの、イスラエルにおける神の働きを理解している。そして、地に立ちながら語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がそれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないか」という思いに圧倒される。これらはすべて、普通の人になし得ることを超えた事柄ではないのか。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人に関連するあらゆる種類の実践を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人のそばには住まわないが、人間の本性や世俗的な人の堕落のすべてを承知している。これこそが神という存在である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目には見えず、人の耳には聞こえない聖霊の働きについて、現在のものも過去のものも知っている。これには処世哲学ではない知恵や、人には到底理解できないふしぎも含まれている。これが人に開かれており、また隠されてもいる神という存在である。神が表すものは特別な人の存在そのものではなく、霊に本来備わっている特質と存在そのものである。神は世界中を巡回しないが、世界のすべてを知っている。神は知識も識見もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超える言葉を語る。人間性がなく、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人の集団の中で神は暮らすが、人類に通常の人間性を生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにすることができる。このすべてが、いかなる生身の人間の存在よりも高い、神という存在である。行うべき働きを行い、堕落した人類の本質を余すところなくに明らかにするために、複雑でめんどうで浅ましい社会生活を経験することは神にとって不必要である。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き裁くことは、神の肉の経験を表現することではない。それは神が人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌った果てに、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いて私たちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、私たちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。私たちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼は私たちのために労力を惜しまず、私たちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、私たちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私たちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。私たちの考えをすべて知り、私たちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理として私たちに語りかけ、このように人の間で働くことができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、私たちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、私たちをサタンの束縛や私たち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼は私たちに希望をもたらし、漠然としていた私たちの生活を終わらせ、私たちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼は私たちの存在そのものを征服し、私たちの心を得た。その瞬間から私たちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、私たちの間で生きながらも長年私たちに拒否され続けてきたこの人こそ、私たちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私たちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)

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