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4.神の働きの3段階は救われ完成される人々にとってどのように次第に深化するか。

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4.神の働きの3段階は救われ完成される人々にとってどのように次第に深化するか。

関連する神の言葉

神による経営全体は、3段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が行われている。さらに、様々な時代が経過し、進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求は高度化し続ける。このようにして、この神の経営の業は、人間が「言葉は肉において現れる」の事実を目の当たりにするまで、段階的に進んで最高潮に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間に対して求められる、証しに立つ要求は高度化を続ける。......従前において、人間は律法と戒律に従うことを要求され、辛抱強く謙虚であることを要求された。現在、人間は神の計画全てに従い、神に対する至高の愛を備えることを要求され、また究極的には、苦難の時に神を愛し続けることを要求されている。これら3つの段階が、神が自身の経営全体を通して、神が人間に対して段階的に行う要求である。神の業の各段階は、その前の段階よりも一層深化し、人間に対する要求は、各段階においてその前の段階よりも一層遠大なものであり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神により要求される基準に近付いてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求が高度化してゆくからであり、その後になって初めて、最終的に神の業が完了した時、人類全体がサタンの影響から救われるまで、人類全体が次第にサタンの影響から次第に離れてゆく。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

神の経営のための働きは世界創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神がすべてを創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、分や秒、瞬時に行われるといったものではないし、一、二年で終わるものでもない。神は人間が生きて行くために必要なもの─太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境─を数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりだった。

その後、神は人間をサタンに渡し、人間はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへとつながる。律法の時代の物語である…。数千年に及ぶ律法の時代、人間は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の手から遠ざかる。そして、彼らはまた律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らを去っている。イスラエル人がまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選ばれた者と誇っていた時、神の栄光は静かに彼らを捨て去っていた…。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。受肉して人間の形をとり、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、業を行った。しかし、例外なく、誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。......神の働きの第二段階が終わるとすぐ─十字架にはりつけになった後─人間を罪から回復させる(つまり、サタンの手から取り戻す)という神の働きは成就した。そこで、その時から、人間は主イエスを救い主であると認めるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が真の働きをし、罪深い肉の形を経験し、神自身が罪のための捧げ物となったからだ。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで贖われ、救われて、人間は十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものなのだ。......

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間により鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は公式に神の家族に戻っている。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、しかし、神から誰も予測していなかった正面切っての攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「自分は羊だ。長い間迷っていた。それを神は大金を払って買い戻した。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、神がわたしを笑い、暴露しているのか。......長い年月の後、人間は練られ、鍛錬と刑罰の試練を経験してきた。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識の中に人間であることの真理を理解し、人間を救うために神が長年懸命に働いて来たことがわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日々に癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る...と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しさが依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ人間を気遣い、その手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は、人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けない。もはやヤーウェの顔から顔を背けない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする─ああ!わが主、わが神!

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

イエスが行った働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく、完成するためである」と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエルの人々が実践した律法、従った戒律とは一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、完成するためだったからである。律法を完成する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的で実存的であり、さらにそれは生きたものであり、教義への盲従ではなかった。イスラエルの人々は安息日を守らなかったであろうか。イエスは来たとき安息日を守らなかった。それは、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を完成し、そしてそれを変えるためだったのである。今日なされる全てのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代のヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなど――これらは旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前のものより高尚な戒めや律法であるが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのは神の働きのそれぞれの段階は以前あった段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェがイスラエルに伝えたこと――たとえば犠牲を捧げること、父と母を敬うこと、偶像崇拝をしないこと、他人に暴行を加えないこと、他人を呪ったり罵ったりしないこと、姦淫をしないこと、喫煙をしないこと、飲酒をしないこと、死んで放置されていた動物の肉を食べないこと、血を飲まないこと――これらは現在でもあなたがたの実践の基盤ではないのか。過去の基盤の上において、今日までの働きは行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたのではない。そうではなく、高められたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する。しかし、戒律には常に守らなければならないものがある。過去の戒律はすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、いまさら喫煙をしてはならない、飲酒をしてはならない等の戒律を繰り返す必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒律が定められるのである。新時代の戒律を制定することは、旧時代の戒律を廃止することではなく、この基盤より高位に上げることにより人間の行動をさらに完全で現実と調和したものとすることである。もし、今日あなたがたがイスラエルの人々と同じように、戒めに従い、旧約聖書の律法を守ることしか要求されていないなら、もしあなたがたがヤーウェによって制定された律法を暗記するように要求されたとしても、あなたがたが変えられるという可能性はないだろう。もしあなたがたがこれらの限られた命令を守ったり、数えきれないほどの律法を暗記したりするだけならば、あなたがたの古い本性は深く根ざしたままで、それを引き抜く方法はないであろう。そのため、あなたがたはますます堕落し、あなたがたのうち誰ひとりとして従順にならないであろう。つまり、僅かな簡単な戒めや数知れない律法には、あなたがたにヤーウェの働きを知らしめることはできないということである。あなたがたはイスラエル人と同じではない。律法に従い、戒めを暗記することによって、彼らはヤーウェの行いを証しし、ヤーウェだけに対する揺るぎない献身の表現することができたが、あなたがたにはこれを達成することはできない。そして、旧約聖書時代の僅かな戒めは、あなたがたに心を捧げるようすることもできず、あなたがたを守ることもないだけではなく、代わりにあなたがたをだらしなくさせ、あなたがたをハデスに落とすだろう。わたしの働きは征服の働きで、あなたがたの不従順さや古い本性に向けられているからである。ヤーウェとイエスの優しい言葉は今日の裁きの厳しい言葉にははるかに劣っている。そのような厳しい言葉がなくては、何千年もの間服従してこなかったあなたがた、不従順の「専門家」を征服するのは不可能であろう。旧約聖書の律法はずいぶん前にあなたがたへの力を失い、今日の裁きは古い律法よりもっとはるかに手ごわい。あなたがたに最も適しているのは裁きであって、律法という取るに足らない制限ではない。というのは、あなたがたは最初の状態の人間ではなく、何千年もの間堕落してきた人間だからである。人間が今成し遂げなければならないことは、今日の人間の現状に応じたことであり、現代人の能力と実際の霊的背丈にそったものであり、教義に従うことは要求されない。それは古い本性に変化が起こるためであり、自分の観念を捨てるためである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

今日人間が歩く道は十字架の道であり、苦しみの道でもあるが、今日の人間が実践し、食べ、飲み、楽しむことは、律法の下で、また恵みの時代において人間がしたこととは大きく異なる。この日、人に求められるのは、過去に求められたものとは異なり、律法の時代に人に求められたものとはさらに異なる。そして、働きがイスラエルでなされたとき、律法の下で人に求められたものは何だったろうか。彼らは安息日とヤーウェの律法を守ること以上には何も求められなかった。安息日には誰も働くことは許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日に人は働き、集まり、いつものように祈ることができるし、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けねばならなかった。それだけではなく、断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭に被り物をかぶり、足を洗うことを求められていた。今や、そのような規律は廃止され、人はもっと大きなことを要求されている。というのは、神の働きは深まり続け、人のいのちへの入りももっと高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、全てのことが伝えられた現在、按手に何の意味があるであろうか。言葉だけで結果を出すことができる。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、癒すためであった。当時はそのようにして聖霊が働いたが、今はそうではない。現在、聖霊はその働きにおいて言葉を使い結果を出す。神は自身の言葉をあなたがたに明らかにしたのであり、あなたがたはそれを実践しなければならない。神の言葉は神の心で、神がどのように働くかを示している。言葉を通して、神の心と神があなたに達成して欲しいものを理解できる。あなたは按手を受ける必要もなくただ神の言葉を直接実行に移すだけである。「わたしの上に手を置いてください」「神様の祝福を受け取り、神様を共有できるように、手を置いてください」と言う人もいるであろう。しかし時代は変わり、これらは現在は禁止されている時代遅れの慣習である。聖霊は時代と共に働くのであり、ただ思いのままや、一定の規律に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに新しい働きをもたらさねばならない。これは働きのどの段階においても言えることで、だから神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出されたり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりして多くの働きを行なった。しかし、現在ではそのようなことを続けても、何の目的も達成されない。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人は多くの恵みを示され喜びを得た。人はいかなる代価を支払うこともなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、そのような働きを行い、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるようにしなければならなかった。この段階は、刑罰、裁き、言葉による咎め、そして言葉による懲戒と顕示を通して、人の中の不義を明らかにするために行なわれ、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代には、人は恵みを十分楽しみ、すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、練られて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。働きのそれぞれの段階は人類全体の進歩と時代に一致してなされる。すべての働きは意味があり、最終的な救いのためであり、人類が将来良い終着点にたどり着くためであり、そして人が最終的に種類に応じて区分されるためである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させた。そして、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の能力が限られていて、知識を完全にすることができなかったため、神は話し、働くことを続けた。恵みの時代、人間は再び神の働きの一部分を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、癒やし、悪魔を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は、神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上のものを人間に見せなければ、それで、神について人間の知識はそこまでに限られる。だから、神は働きを続け、自分に関する人間の知識が深まるようにし、人間が徐々に神の実体を知るようにする。神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は言葉によって明らかになり、その宗教的概念は神の実在性によって置き換えられる。神は終わりの日に「言葉は肉となり、言葉は肉の間に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するために受肉するが、あなた方がこのことについて完全な知識をもっていなければ、まだ堅く立つことができない。終わりの日には、神は主に言葉が人となるという働きをするつもりだが、これは、神の経営(救いの)計画の一部である。だから、あなた方の知識は明確でなければならない。神がどのように働こうと、人間が自分を限りあるものとすることを許さない。もし神が終わりの日にこの働きをしなければ、人間の神についての知識はそれ以上進まない。神が十字架につけられることができ、ソドムを滅ぼすことができ、イエスが死からよみがえってペテロの前に現れることができることだけを知っているだろう…。しかし、あなたは、神の言葉はすべてを成し遂げることができ、人間を征服できるとは、絶対に言わないだろう。神の言葉を経験してはじめて、そうした知識について話せる。また、神の働きを経験すればするほど、神についての知識が充実していく。そうしてはじめて、自分の固定観念で神を限界のあるものとしなくなる。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、人は病気を癒したり悪霊を追い出したりすることにより、罪から完全に救われることはできず、しるしや不思議を顕すことにより、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。もし人から悪霊を追い出したり、贖ったりする以上に何もされなければ、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻すことでしかない。それだけでは人は神によって清められていないし、変えられてもいない。堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神を退け裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと懲罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。言葉を用いて練られ、裁かれ、そして明らかにされることで、すべての汚れたもの、観念、動機、そして人の心にある個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。たとえば、自分たちがモアブの血統であることを知った人々は、愚痴をこぼすと、いのちを探求することをやめ、すっかり消極的になってしまった。これは、人々がいまだに神の支配に完全に服従できないでいることを示していないだろうか。これこそが、まさに堕落した悪魔的な性質ではないだろうか。刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも、イエスすら超えて、高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。神の愛する子になりたまえ。神の親密なものとなりたまえ。サタンに服従するなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。赤い大きな竜が完全に権力から落ちるようにしたまえ。神によりわたしたちを完全にしたまえ。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰のときが訪れ、再び人々の堕落した性質が明らかになった。人々の叫びは途絶え、彼らは決意を失ってしまった。これが、人間の堕落である。それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きを通してのみ、そのような成果を達成することができる。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。人間は自らの元来の堕落した性質を理解していなかったので、過去にこのように叫んだ。これが人間の中にある不純なものの有り様である。これほどの長い裁きと刑罰の期間中ずっと、人間は緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉をとおして成されたのではなかったのか。奉仕者の試練の前には、あなたも大声で叫んだのではなかったのか。神の国に入れ。この名を受け容れる者は皆、神の国に入るであろう。皆、神とともにあるであろう。奉仕者の試練が訪れたとき、あなたはもう叫ばなかった。初めに、皆が「神よ。いかなる場所に私をお置きになろうとも、わたしはあなたの導きに服します」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読むと、「わたしがなります」と人間は言った。次には「ヨブの信仰についてはどうであろうか」という言葉を読んだので、人間は「ヨブの信仰をもちます。神よ、どうかわたしを試みてください」と言った。奉仕者の試練が訪れたとき、人間はただちに崩れ落ち、ほとんど立ち上がることができなかった。この後、人間の心の中の不純なものは徐々に減少した。これは言葉をとおして成されたのではなかったのか。だから、あなたがたが現在経験したことは、言葉により達成された結果であり、イエスのしるしや不思議の業をとおして達成されたものよりもさらに偉大なのである。あなたに見える神自身の栄光と権威は、十字架上の死や病の癒し、悪霊を追い払うことだけをとおして見えるのではなく、言葉による神の裁きをとおしてさらにはっきりと見えるのである。これはつまり、しるしや病の癒しや悪霊を追い払う業だけが神の権威と力なのではなく、言葉による裁きが神の権威をよりよく象徴的に表し、神の全能を明らかにできることを示している。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の証し人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。サタンは人の堕落した性質を変えることで敗北する。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、またサタンの領域からの人の完全なる救いの働きでもある。人の征服の内なる意味はサタンの化身の帰還、つまりサタンに堕落させられた人が征服に引き続いて造り主に戻ることで、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。このように、征服の働きはサタンとの戦いにおいて最後の働きで、サタン敗北のための神の経営における最終段階である。この働きがなくては、人の完璧な救いは究極的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能であろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることはできず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きはサタンとの戦いが終結する前に終えることはできない。というのは神の経営の働きの核心は人の救いであるからである。最初の人類は神の手にあったが、サタンの誘惑と堕落から、人はサタンに縛られ、悪の手に落ちてしまった。そうしてサタンは、神の経営の働きの中で打ち負かす対象となった。サタンは人を自分の所有物とし、人は神の全経営物なので、人が救われるにはサタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの捕虜となった人が連れ戻されなければならないのである。サタンは人の古い性質が変えられ、本来の理知を回復することで打ち負かされ、この様にして、捕虜となっていた人はサタンの手から取り戻される。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンの面目がつぶされ、人は最終的には連れ戻され、サタンは敗北する。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人類の救いのすべての働きが完了した後、人はこのすべての戦いの戦利品となり、サタンはこの戦いが終わると懲罰の対象となる。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より