神の三段階の働きのそれぞれがもつ目的と意義

2017年11月21日

(1)律法の時代における神の働きの目的と意義

関連する神の言葉

ヤーウェがイスラエル人に行なった働きは、地上における神の起源の場所を人類の間で確立させたが、それは神が臨在した聖なる場所でもあった。神はその働きをイスラエルの人々に限定した。当初、神はイスラエルの外では働かず、むしろ働きの範囲を限定するため、神が適切とみなした民を選んだ。イスラエルは神がアダムとエバを創った場所であり、ヤーウェはその場所の塵から人間を創造した。この場所は地上におけるヤーウェの働きの拠点となった。イスラエル人はノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるが、地上におけるヤーウェの働きの基盤となる人間だった。

その当時、イスラエルにおけるヤーウェの働きの意義、目的、段階は、全地球上で働きを始めることであり、それはイスラエルを中心としながら徐々に異邦人の国々に広まった。これが全宇宙にわたる神の働きの原則である。つまり、ある模範を確立したあと、宇宙のすべての人が神の福音を受け取るまでそれを広げるのである。最初のイスラエル人はノアの子孫だった。これらの人々はヤーウェの息だけを授けられ、生活する上で必要となる基本的なことに対処できるだけのことを理解したが、ヤーウェがどのような神であるかや、人間に対するヤーウェの旨は知らず、ましてや万物創造の主をどのように崇めるべきかなど知らなかった。従うべき[a]規則や掟があったかどうか、また被造物が創造主のために尽くすべき本分があったかどうかについても、アダムの子孫たちは一切知らなかった。彼らが知っていたのは、夫は家族を養うために汗を流して労働しなければならず、妻は夫に従い、ヤーウェが創造した人類を永続させなければならないことだけだった。言い換えるなら、このような人々は、ヤーウェの息といのちだけをもっており、どのように神の律法に従うべきか、どのように万物創造の主を満足させるべきかについては何も知らなかった。あまりに何も理解していなかったのである。そのため、心の中によこしまなものや不実なものが一切なく、自分たちの間で嫉妬や争いが生じることも滅多になかったが、ヤーウェ、すなわち万物創造の主についてはなんら認識も理解もしていなかった。これら人間の祖先はヤーウェのものを食べ、ヤーウェのものを享受することは知っていたが、ヤーウェを畏れることは知らなかった。ヤーウェはひざまずいて礼拝すべき唯一の方であることを知らなかったのである。ならば、どうして彼らを神の被造物と呼べようか。そうであれば、「ヤーウェは万物創造の主である」そして「人間が神を明らかにし、神の栄光を表し、神を体現するようにすべく、神は人間を創造した」という言葉は、無駄に語られたのではないだろうか。ヤーウェに畏敬の念をもたない人が、どうしてヤーウェの栄光を証しできようか。どうしてヤーウェの栄光を明らかにすることができようか。ならば、「わたしはわたしに似せて人を創った」というヤーウェの言葉は、サタンという邪悪な存在が掌中に収める武器にならないだろうか。そしてこれらの言葉は、ヤーウェによる人の創造にとって不名誉の印とならないだろうか。ヤーウェは働きのその段階を完了すべく、人類創造の後、アダムからノアに至るまで、人類を教えたり導いたりすることはなかった。むしろ、洪水が世界を滅ぼして初めて、ノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるイスラエル人を、ヤーウェは正式に導き始めたのである。イスラエルにおけるヤーウェの働きと発した言葉は、イスラエルのすべての人々がイスラエルの全土で生活するにあたって導きを与えた。そのことは、ヤーウェは人間に息を吹き込み、それによって人間がヤーウェからいのちを与えられ、塵から起き上がって被造物となるようにすることができるだけでなく、人類を焼き尽くしたり、呪ったり、またその杖を使って人類を支配できることをも人に示した。それで人間もまた、ヤーウェが地上における人の生活を導き、昼と夜の時刻に従って人類の間で言葉を語り、働きを行なえることを知った。ヤーウェが行なった働きはひとえに、人がヤーウェによってつまみ上げられた塵に由来すること、そしてさらに、人がヤーウェによって創造されたことを被造物が知るようにするためである。これだけではなく、ヤーウェが最初にイスラエルで働きを行なったのは、他の民族と国々(実際のところ、それらはイスラエルと無関係ではなく、イスラエル人から枝分かれしたものの、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようにするため、そして宇宙のすべての被造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを偉大なものとして掲げられるようにするためである。ヤーウェがイスラエルで働きを開始せず、その代わりに人類を創造した後、彼らを地上でのんきに生活させていたら、その場合、人間は自分の肉体の本性(本性とは、人間は自分に見えないものを決して認識できないことを意味する。つまり人間は、人類を創造したのがヤーウェであることを決して知り得ず、ましてヤーウェがなぜそうしたかなどまったく知ることがないのである)のせいで、人類を創造したのがヤーウェであることも、ヤーウェが万物の主であることも知るはずがなかった。ヤーウェが人間を創造して地上に置いた後、人類の間に一定期間留まって彼らを導かず、ただ手の塵を払って立ち去っていたら、全人類は無に帰していただろう。ヤーウェが創造した天地と無数の万物、そして全人類さえも無に帰し、それ以上に、サタンによって踏みつけられていただろう。そうなれば、「地上において、つまり天地創造の中心において、ヤーウェは立つべき場所、聖なる場所をもたなければならない」というヤーウェの望みは打ち砕かれていただろう。だから、人類創造の後、ヤーウェが人間のもとにとどまって人の生活を導き、彼らの間で話しかけることができたのは、すべてヤーウェの望みをかなえ、その計画を達成するためだった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、万物の創造に先だって定めた計画を実行することだけが目的であり、それゆえイスラエル人の間におけるヤーウェの最初の働きと、ヤーウェによる万物の創造は、互いに相容れないものではなく、いずれもヤーウェの経営(救い)、働き、栄光のためになされたのであり、また人類創造の意義を深めるためになされたものでもあった。ノアの後、ヤーウェは二千年にわたって地上における人類の生活を導いた。その間、ヤーウェは人類に対し、どのようにヤーウェ、すなわち万物の主を畏れるべきか、どのように生活を送るべきか、どのように生き続けるべきか、そして何より、どのようにヤーウェの証人として行動し、ヤーウェに従い、ヤーウェを崇めるべきかを教え、そのため人類は、ダビデとその祭司が行なったように、音楽でヤーウェを讃美することさえした。

『神の出現と働き』「律法の時代における働き」(『言葉』第1巻)

最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

律法の時代の規則と原則をみなさん読みましたね。これらの規則は広範囲にわたるものですか。まず十戒が記され、続いて祭壇の建て方などが記されています。その後、安息日を守って三つの祭日を遵守することが続き、そして捧げ物に関する規則と続きます。何種類の捧げ物があるかわかったでしょうか。燔祭の捧げ物、穀物の捧げ物、和解の捧げ物、罪の捧げ物などがあります。その後、祭司による捧げ物の規則が続き、その中には祭司による燔祭の捧げ物や穀物の捧げ物などが含まれます。八つめの規則は祭司が捧げ物を食べることに関するものです。続いて人々が生活において守るべき規則が示されています。生活の多方面に関する規定がありますが、その中には食べてよいものと食べてはならないもの、出産後の女性の清め、らい病から回復した人に関する規定などが含まれます。これらの規則の中で、神は病についても語っており、羊や牛を殺す規則さえあります。羊や牛は神によって創られたものであり、神の言う通りに殺さなければなりません。神の言葉には間違いなく根拠があり、神が命じた通りに行なうのが正しいことは確かで、人間にとって必ず益となるのです。安息日や過越の祭など、遵守すべき祝祭と規則もありますが、神はそれらのすべてについても語っています。最後に書かれている規則、その他の規則を検討しましょう。ともし火、聖年、土地の贖い、誓願、十分の一の捧げ物などです。これらの規則は広範囲にわたるものでしょうか。まずは人々の捧げ物について触れられており、それから盗みと賠償、そして安息日の遵守と続いており、生活の細部の一つひとつが含まれています。つまり、神は自身の経営計画の正式な働きを始めたとき、人間が従うべき数多くの規則を定めたのです。それらの規則は、人間が地上で普通の生活を送れるようにするためのものであり、人間の普通の生活は神および神の導きから切り離せないものです。神は最初に、どのように祭壇を作って建てるべきかを教えました。その後、人間に捧げ物をするよう指示し、人間はどのように生きるべきかを定めました。つまり、生活の中で何に注意を払い、何に従い、何をすべきで何をすべきでないかを定めたのです。神が人間のために定めたものは包括的で、それらの習慣、規則、原則により、神は人間の振る舞い方に基準を設け、人間の生活を導き、神の律法の手ほどきを行ない、そして人間が神の祭壇の前に出るよう導き、神が人間のために造った、秩序と規則と節度を兼ね備えたすべてのものの中での生活において、人間を指導したのです。神はまずこれらの簡単な規則と原則を用い、人間に対して様々な制限を設けましたが、そうすることで、人間が地上において神を礼拝する正常な生活、正常な人間の生活を送れるようにしました。それが六千年にわたる神の経営計画の始まりの具体的な内容です。それらの規則や決まりは極めて多岐にわたり、律法の時代における神による人間の導きの具体例であって、律法の時代の前に来た人間が受け入れ、従うべきもの、律法の時代に神が行なった働きの記録、そして全人類に対する神の指導と導きの確かな証拠なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

律法の時代、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーセがそれを、自分に従ってエジプトを脱出したイスラエル人に伝えるようにした。それらの戒めはヤーウェによってイスラエル人に与えられたものであり、エジプト人にはなんら関係のないものだった。それらはイスラエル人を抑制するためのものであり、ヤーウェは戒めによってイスラエル人に要求した。安息日を守っているか、両親を敬っているか、偶像を崇拝しているかなどが、彼らが罪深いか義であるかを判断する原則だった。イスラエル人の中には、ヤーウェの火で打ち倒された者、石打ちの刑に処された者、ヤーウェの祝福を受けた者がおり、これはそうした戒めを守ったか否かによって決められた。安息日を守らなかった者は石打ちの刑に処された。安息日を守らなかった祭司はヤーウェの火で打ち倒された。両親を敬わなかった者もまた石打ちの刑に処された。これはすべてヤーウェに称賛されることだった。ヤーウェは戒めと律法を定め、そうすることで人々の生活を導きながら、彼らがヤーウェの言葉を聞いてそれに従い、ヤーウェに反抗することのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を用いて生まれたばかりの人類を支配したが、それはヤーウェによる将来の働きの基礎を築く上で有益だった。そのため、ヤーウェが行なった働きにもとづき、最初の時代は律法の時代と呼ばれた。ヤーウェは多くの発言をし、かなりの働きをしたものの、人々を前向きに導き、それら無知な人々に対して、どのように人間になるべきか、どのように生きるべきか、どのようにヤーウェの道を理解するべきかを教えるだけだった。ヤーウェが行なった働きの大半は、人々がヤーウェの道を守り、ヤーウェの律法に従うようにするためだった。その働きは軽く堕落した人々になされたのであって、人々の性質を変化させることや、いのちの進歩までには至らなかった。ヤーウェは律法を用いて人々を抑制、支配することにしか関心がなかったのである。当時のイスラエル人にとって、ヤーウェは神殿にいる神、天にいる神でしかなかった。ヤーウェは雲の柱、火の柱だったのである。ヤーウェが人々に求めたのは、今日の人々にヤーウェの律法、およびヤーウェの戒めとして知られているもの、つまり規則と呼んでも差し支えないものに従うことだけだった。なぜなら、ヤーウェがしたことに人々を変えようとする意図はなく、人々がもつべきものをさらに与え、自らの口で教え導くことが目的だったからである。と言うのも、人間は創造された後、もつべきものを何ももっていなかったからである。それゆえヤーウェは、人々が地上で生活するにあたってもつべきものを与え、自ら導いてきた人々がその先祖であるアダムとエバを超えるようにした。なぜなら、ヤーウェが彼らに与えたものは、最初にアダムとエバに与えたものを超えていたからである。それにもかかわらず、ヤーウェがイスラエルで行なった働きは、人類を導き、人類にその創造主を認識させることだけだった。ヤーウェは人々を征服することも変えることもせず、ただ導いたにすぎない。これが、律法の時代におけるヤーウェの働きの概要である。これがイスラエルの全土におけるヤーウェの働きの背景、内幕、そして本質であり、人類をヤーウェの手中で支配するという、神の六千年にわたる働きの始まりだった。ここから神の六千年にわたる経営計画におけるさらなる働きが生まれたのである。

『神の出現と働き』「律法の時代における働き」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「従うべき」の語句は含まれていない。

(2)恵みの時代における神の働きの目的と意義

参考聖書箇所:

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネによる福音書 3:17)

関連する神の言葉:

イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表した。イエスは受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、そのため「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上における神の働きの拠点、発祥地を定め、律法と戒めを発した。これらがヤーウェが行なった二つの働きであり、それは律法の時代を代表する。イエスが恵みの時代に行なった働きは律法を発することではなく、それらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることであった。イエスは恵みの時代をもたらすために来た先駆者であったが、その働きの中心は贖いであった。よってイエスの働きもまた二つの部分から成る。それらは新しい時代を切り開くこと、そして十字架刑を通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。これで律法の時代は終わり、恵みの時代が始まった。

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、効果を及ぼすためには、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、人々は赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」(『言葉』第1巻)

受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情を込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々にはイエスは常に寛容であり、決して復讐を求めず、人々の罪を赦し、人々に悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹への愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、病人をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためであった。どこへ行っても、イエスは従ってくる人すべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、足の不自由な人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにした。身分が一番低かった人々や乏しい人々、罪人さえ招いて共に食卓につき、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強く、「羊飼いが羊を百匹持っていて、その一匹が迷ったとすれば、九十九匹を残しておいて、迷った一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう」とさえ言った。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、その追随者を愛した。彼らは愚かしく無知で、イエスの目には罪人であり、さらには社会において最も身分の低い者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこれらの罪人を自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスは祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らのもとではしもべのようにふるまい、利用され、なぶり殺されるままにし、無条件に彼らに服従した。追随者にとってはイエスは愛すべき救い主であったが、上座から人々に説教したパリサイ人に対しては、イエスは慈しみや憐れみではなく、嫌悪と怒りを示した。イエスはパリサイ人のあいだではあまり働くことはなく、ごくまれに彼らに教えを説き叱責したが、彼らのもとで贖いの働きを行なうことはなく、しるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを追随者に与え、これら罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる屈辱に耐え、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働きの全体である。

イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」(『言葉』第1巻)

イエスが現れたとき、イエスは神の働きの部分も行い、言葉も話した。しかし、イエスが成し遂げたおもな働きは何であろうか。イエスがおもに成し遂げたのは磔の働きであった。イエスは磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げたおもな働きであった。最終的に、イエスは後から来る人たちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それはおもに贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を贖い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国へ至る道をもたらした。その結果、その後に来た人は皆、「我々は十字架の道を歩き、十字架のために我々自身を犠牲にすべきだ」と言った。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるための他の働きも行い、そのための言葉も語った。しかし、イエスの職分はやはり磔であり、イエスが道を説きながら費やした三年半は、その後に起こるべき磔への準備であった。イエスが何度か祈ったのも磔のためであった。イエスの普通の人としての生涯と地上での三十三年半は、おもに磔という働きを完成するためであった。それはこの働きに取り組む力をイエスに与えるためであり、その結果として神はイエスに磔という働きを託した。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

(3)神の国の時代における神の働きの目的と意義

関連する神の言葉:

イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった」。このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。……わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく――これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

わたしの言葉が完成するにつれて、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人のぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほおを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十章」(『言葉』第1巻)

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