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神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

正直な人への入りを実践するにはどうすればよいか。

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神の言葉

あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをする必要がある。ずるをしたり、嘘をついてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「器量を向上させることは、神の救いを授かるためである」より

現在、殆どの者が恐ろしくて自らの行いを神の前に示すことが出来ず、あなたがたは神の肉を欺くかもしれないが、神の霊を欺くことは出来ない。神の監督に耐えられない物事は、いずれも真理に準ずるものではないので、断たねばならない。さもなければ、それは神に対する罪である。そうしたわけで、あなたがたは、祈る時か、兄弟姉妹と話をして交わる時か、自分の本分を尽くして用事に取り組む時かを問わず、自分の心を神の前に据える必要がある。あなたがたが自らの役割を果たす時、神はあなたがたと共にあり、あなたがたの意向が正しく、神の家の業のためになるのであれば、神はあなたがたの行動全てを受け容れるであろう。それゆえに、あなたがたは自分の役割を果たすよう熱心に努める必要がある。. …

… 自分の行動、意図、反応を全て神の前に示す必要がある。あなたがたの祈り、神と自分の緊密さ、神の言葉の食べ飲み、あなたがたと兄弟姉妹との交わり、教会での生活、あなたがたの共同礼拝など、あなたがたの日常における霊的生活でさえも、神の前に示し、神の監督を受ける必要がある。これが、あなたがたの人生における成熟に役立つ実践である。神の監督を受ける過程は、清めの過程である。あなたがたが神の監督を受け容れれば受け容れるほど、あなたがたは一層清められ、神の旨に一層準じるので、あなたがたは道楽や遊興の誘惑を聞かなくなり、自分の心が神の前で生活するようになるであろう。あなたがたが神の監督を受け容れれば受け容れるほど、サタンは一層辱められ、あなたがたは一層肉に背くことができる。したがって、神の監督を受け容れることは、人間が実践すべき道である。あなたがたの行動を問わず、自分の兄弟姉妹との交わりの最中でさえも、あなたがたが自分の行いを神の前に示して神による監督を求め、かつ自分の意図が神ご自身に従うことであるならば、あなたがたが実践する物事は一層正しいものとなるであろう。あなたがたが自分の行いの全てを神の前に示して神の監督を受け容れた場合に限り、あなたがたは神の存在の中で生きる者となることが出来る。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に従う者を完全にされる」より

あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる物事において神の心に安らぎと満足とをもたらすようでなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理に適うような者でなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになってしまう。そんな状態になったのでは、神の家の一員とはいえない。それは神の承認を受ける者ではないということである。

… 正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。. … 神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より