真理を理解することと教義を理解することとの違いは何か

2017年11月24日

関連する神の言葉

神の言葉の実際の意味を本当に理解することは、決して単純なことではありません。「自分は神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、その解釈はみんなにいいと言われて賛成してもらえる。だから、私は神の言葉を理解していることになる」と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神が発する言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意味を感じ取ったなら、また神の言葉の裏にある意図と、それらが最終的に成し遂げる効果を表現できるなら、そのすべてについてはっきり認識したところで、あなたは神の言葉についてある程度の理解を得たと見なされます。ゆえに、神の言葉を理解することはそこまで簡単ではないのです。神の言葉の文字通りの意味を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。それらの文字通りの意味をどれだけ説明できたとしても、あなたの説明はやはり人間の想像と考え方を基にしています。何の役にも立たないのです。どうすれば神の言葉を理解できるでしょうか。鍵となるのは、その中から真理を求めることです。そうすることでのみ、あなたは神が言うことを本当に理解できます。神は語るたび、大まかなことしか語らないということは決してありません。神が発する一つひとつの文章には、神の言葉の中で必ずやさらに明かされる詳細が含まれており、それらは異なる形で表現されるでしょう。神による真理の表現の仕方を人間が推し測ることはできません。神が発する言葉は極めて深遠であり、人間の考え方では推し測れません。人は努力さえすれば、真理の各側面の意味をすべて突き止められます。そのようにすれば、それらを経験する中で、聖霊があなたを啓くにつれて残りの詳細が完全に埋まり、それによってそうした具体的な状態を理解するようになります。その一部分は、神の言葉を認識すること、およびそれらを読んで具体的な内容を求めることです。別の一部分は、神の言葉を経験すること、そして聖霊の啓きを得ることを通じ、その言葉の意味を理解することです。神の言葉に関する真の理解は、おもにこれら二つの手段によって得られます。あなたが神の言葉を文字通りに理解するのであれば、あるいは自分の考えや想像というレンズを通じて理解するのであれば、どれほど雄弁に解釈できようとも、神の言葉に関するあなたの理解は現実ではありません。それらの意味を文脈から切り離し、誤って解釈することさえありますが、そうすることはさらに厄介です。ゆえに、真理というのはおもに、神の言葉を知ることを通じ、聖霊からの啓きを受け取ることで得られるのです。神の言葉の文字通りの意味を理解している、あるいはそれらを説明できるとしても、真理を得たとは見なせません。神の言葉の文字通りの意味を説明すればいいのであれば、聖霊による啓きの意味は何でしょうか。その場合、一定の教育を受けていればそれでいいのであり、教育を受けていない人はみなとても困ったことになるでしょう。神の働きは、人間の頭脳で理解できるものではありません。神の言葉を真に理解することは、おもに聖霊からの啓きを得ることに依存しています。それが真理を得る過程なのです。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にあり、それは人類にとって最も有益で役立つ真理である。それはあなたがたの体に必要な滋養と糧であり、人が正常な人間性を回復することを助ける。またそれは、人間が備えているべき真理である。神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちはより早く開花し、真理がますます明確になる。自分の霊的背丈が成長するにつれ、あなたがたは霊的世界の物事をより明瞭に理解し、さらに力を得てサタンに勝利するだろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解していない真理の多くも明らかになるだろう。ほとんどの人は神の言葉の文面を理解するだけで満足し、自分の経験を実践において深めることではなく、むしろ教義を身につけることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではないのか。ならば彼らにとって、「神の言葉はいのちである」という言葉がどうして真実であり得ようか。単に神の言葉を読むだけでは、人のいのちが成長することはできず、神の言葉が実践されて初めて成長できる。もしもあなたの考えが、神の言葉を理解しさえすればいのちと霊的背丈を得ることができる、というものであれば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。そしてあなたは「実践して初めて真理を理解できる」ということがわかっていなければならない。今日あなたは、神の言葉を読んでも、自分は神の言葉を知っていると言えるだけで、それを理解しているとは言えない。真理を実践する唯一の方法はまず真理を理解することだ、と言う者たちもいるが、それは部分的に正しいだけで、すべて正しいということは決してない。一つの真理の認識を得るまでは、その真理を経験したことにはならない。説教で聞いたことを理解したと感じても、それは本当に理解したのではなく、真理の字句を身につけているだけであり、その中にある本当の意味を理解することと同じではない。真理に関してただ表面的な知識があっても、それは実際に真理を理解しているという意味でも、真理に関する認識があるという意味でもない。真理の本当の意味は、それを経験することから見出せる。それゆえ、真理を経験して初めて、あなたはそれを理解することができる。そしてその時初めて、あなたは真理の隠された部分を把握できるのである。自分の経験を深めることが言外の意味を把握し、真理の本質を理解する唯一の方法である。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

たとえ神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の経験を通じた神の言葉に関する直接的な知識がなければ、神の言葉を知ることはないだろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字を見つめながら生きるだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の旨を理解することもないだろう。実体験の中で神の言葉を経験して初めて、神の言葉の霊的な意味があなたに明かされる。また経験を通じてでなければ、数多くの真理の霊的な意味を把握することはできず、神の言葉の奥義を解明することもできない。あなたがそれを実践しなければ、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握したのは空虚な字義や教義だけであり、それらがあなたの宗教的規則になってしまったのだ。それはパリサイ人たちが行なったことではないのか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、それはあなたがたにとって実践的なものになる。神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたにとって第三の天の伝説程度のものに過ぎない。実のところ、神を信じる過程は、神によって獲得される過程であるとともに、あなたがたが神の言葉を体験する過程でもある。より明確に言うと、神を信じるというのは、神の言葉に関する認識と理解を得ること、そして神の言葉を体験し、それを生きることである。そうしたことが、あなたがたの神への信仰の背後にある現実である。自分の中にあるものとして神の言葉を実践することを求めないまま、神を信じ、永遠のいのちを望むのであれば、あなたがたは愚かである。それはあたかも、宴に赴き食事を見て、それらの御馳走を暗記するだけで、実際には何一つ味わわないようなものだろう。そのような人は愚か者ではなかろうか。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

自分で経験をした後は、経験したことから得ているはずの認識について話すことができる。さらに、認識が現実的で実際的な人と、認識が教義に基づいていて価値がない人を区別できるようにもなる。そこで、表明する認識が真理と一致するかどうかは、その実際的経験があるかどうかに大いに左右される。経験に真理があるならば、その認識は実際的で価値がある。経験を通して識別力や洞察をも得ることができ、認識を深め、いかに行動するべきかということに関して知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人が表す認識は、どれほど高尚であろうと、教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人は霊的な事柄の経験がまったくないからである。その人は霊的問題においては啓かれておらず、霊的な事柄を理解していない。どのような認識を表していようと、それがあなたの存在そのものである限り、それはあなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人、つまり真理も現実も所有していない人が話すことも、その人の存在そのものと呼ぶことができる。なぜならその人の教義は深い熟考を通してのみたどりついたもので、深い思考の結果だからである。とは言え、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

真理を追い求めなければ、その人は決して真理を理解しません。字句と教義を一万回唱えることができても、それらはやはり字句と教義に過ぎません。中には「キリストは真理であり、道であり、いのちである」としか言わない人もいます。この言葉を一万回繰り返したところでやはり役には立たず、あなたがその意味を理解することもありません。キリストは真理であり、道であり、いのちであると言われるのはなぜですか。経験から得たそれに関する認識を説明することはできますか。あなたは真理、道、いのちの現実に入りましたか。神が言葉を発したのは、あなたがたがそれを経験し、認識を得るようにするためです。単に字句や教義を述べるのは無意味なのです。神の言葉を理解してそれに入ったあとでなければ、自分を認識することはできません。神の言葉を理解していなければ、あなたは自分を認識することができないのです。真理があるときにだけ識別でき、真理がなければ識別できません。真理があるときにだけ物事を完全に理解することができ、真理がなければ何も理解できません。真理があるときにだけ自分を認識することができ、真理がなければ自己認識は不可能です。真理があるときにだけ自分の性質を変えることができ、真理がなければ性質は変わりません。真理を得て初めて神の旨にかなう形で奉仕することができ、真理がなければ神の旨にかなう形で奉仕するのは不可能です。真理を得て初めて神を崇拝することができ、真理がなければあなたの崇拝は宗教的儀式を執り行なっているに過ぎません。こうしたことはすべて、神の言葉から真理を得ることにかかっているのです。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

あなたたちは真理を要約する中で逸脱し、要約をすべて済ませたあと、それは規則を生み出すだけでした。あなたたちによる「真理の要約」は、人々が真理からいのちを得たり、性質の変化を成し遂げたりするために行なわれていません。そうではなく、真理から何らかの知識や教義を習得させるためです。人々は神の働きの背後にある目的を理解したかのように見えますが、実際には言葉や教義をいくつか習得したに過ぎません。真理の暗示された意味を理解しておらず、神学を学んだり聖書を読んだりするのと何ら変わりません。あなたはあれこれ書籍や資料をまとめ、それによって教義や知識の側面をあれこれともつようになります。教義については第一級の語り手ですが、語り終えたあとはどうなりますか。人々は経験できないままで、神の働きについての認識を持たず、自分自身についての認識も持ちません。最終的に、彼らが得たのは公式や規則だけであり、そのようなわずかな事柄以外には何も語ることができません。神が何か新しいことをしたならば、それを自分の知っているすべての教義と突き合わせることができますか。あなたが有しているのは規則に過ぎず、人々に神学を学ばせているだけであって、神の言葉や真理を経験できるようにはしていないのです。ゆえに、あなたがそれらの書籍を編纂することで、人々は神学や知識、新たな公式、規則や慣習にたどり着けるだけです。書籍は人々を神の前に連れて行くことも、真理や神の心を認識させることもできません。次から次へとそれらの問題を提起し、それに答え、概略や要約を書き記せば、そうした行為のおかげで兄弟姉妹は理解するようになる、とあなたは考えています。簡単に覚えられるだけでなく、問題が一目でわかり、これは素晴らしい方法だとあなたは考えています。しかし人々が理解していることは、真理の実際の暗示された意味ではなく、現実と符合しません。単なる言葉と教義に過ぎないのです。ゆえに、そのようなことをまったくしないほうがよかったのです。そうすることは、人々に知識を理解させ習得させることです。あなたは教義と宗教に他人を連れ込み、宗教的な教義の中で彼らが神に従い、神を信じるようにさせます。それはまさにパウロと同じではありませんか。あなたたちは、真理の知識を習得すること、神の言葉の文章を数多く暗記することがとりわけ重要だと考えています。しかし、人々がどのように神の言葉を理解するかはまったく重要ではないのです。あなたたちは、人々が神の言葉を数多く記憶し、多くの教義を語り、神の言葉の中に数多くの公式を見出すことが極めて重要だと考えています。そのため、誰もが同じ賛美歌集で歌い、同じことを言い、同じ教義を語るように、また誰もが同じ知識を持ち、同じ規則を守るように、あなたたちはいつもこれらの物事を体系化したいのです。それがあなたたちの目的なのです。あなたたちがそうするのは、人々が理解を得るためのように見えますが、それとは逆に、神の言葉の真理から外れた規則の中に人々を連れ込んでいるとは、これっぽっちも考えていません。人々が真理を本当に理解できるようにするためには、それを現実や働きと結びつけ、神の言葉の真理に従って現実の問題を解決しなければなりません。そうすることでのみ、人々は真理を理解して現実に入れるのであり、このような結果を成し遂げることだけが、人々を本当に神の前へと連れて行くことなのです。あなたの語ることが霊的理論や教義や規則だけであれば、また文字通りの言葉だけに努力を集中させるなら、人々に同じことを言わせ、規則に従わせることしか達成できず、人々が真理を理解できるように導くことはできません。人々に自分自身をよりよく理解させ、悔い改めと変化を成し遂げさせることは特に不可能です。

『キリストの言葉の記録』の「真理がなければ、神を侵すのは簡単である」より引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

誠実な人であることにおける実践の原則は何か

関連する神の言葉: 誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋で…

正直な人と不正直な人の違いは何か。

関連する神の言葉 わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も…

コメントを残す