神の性質と本質を認識するには
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神には神そのものと神が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の表れである。神そのものと神が持っているもの、および神の本質と身分は、人が取って代わることができるものではない。神の性質には、人類への神の愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含されており、しかも人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無感覚である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、あらゆる正義の象徴であり、また、あらゆる美と善の象徴である。しかもそれは、暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴[a]であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴[b]である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。しかし人間の性格は、動物よりもわずかに優位であることの象徴に過ぎない。人間は、自身の中にも自身においても、何の権威も自主性も、自分自身を超越する能力もないが、本質的に、様々な人々、出来事、または物に振り回されて怖じ気づく者である。神の喜びとは、正義と光の存在と現れに起因し、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは、不義の存在と、それによる妨害が自身の人類に害をもたらしていることに起因し、それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反するものの存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類に起因し、彼が人のためにする働きが彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐れみの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、むしろそれは良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる感情である。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。一方、人類の感情は全て己の利益の目的のために生じ、義、光、または美しいもののために生じるのではなく、ましてや天の恵みのために生じるものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。それは神の意志のために存在するものではなく、ましてや神の計画のために存在するものではないため、人と神のことを同等に語ることは決してできない。神は永遠に至高かつ尊厳ある方であり、一方人間は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、いつも自分の為に得る努力しかしない。神は人類の生存のために永遠に労苦しているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは貧弱過ぎて、一回の打撃にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって、他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全てを継承し、表現する者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいかなる時や状況においても、義を裏切り、神から遠く離れてしまう可能性がある。
『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)
三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなたがたが、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのが難しいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなたの神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。
『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)
神を知ることは、神の言葉を読んで理解することを通じて達成なされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、人間に対する神の愛と救い、そして人間を救う神の方法などを見ることができます。神の言葉は人間によって書かれるのではなく、神自身によって表現されるからです。それらは神によって直々に表現されるのであり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それらが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それらは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待などを表現しているからです。神の発する言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はいささか厳しいと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、むしろあらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が非常に厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は一切の背きを許さない神の性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出たりする価値はありません。今、人々が神の前に出られるのは、ひとえに神の恵みによるものです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義に見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。真に神を知る人がキリストと接触するとき、その出会いは、その人がすでに有している神の認識と一致することができますが、理論でしか理解していない人が神と出会っても、その相互関係はわかりません。真理のこの側面は奥義の中で最も深いものであり、理解するのは困難です。受肉の奥義に関する神の言葉を要約し、あらゆる角度から見つめた上で、ともに祈り、真理のこの側面についてさらに考え、話し合いなさい。そうする中で、聖霊の啓きを得て理解できるようになります。人には神と直に接触する機会がないのですから、神について真の認識を獲得するには、そうした経験に頼って模索し、少しずつ入っていかなければなりません。
『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より引用
神が所有するもの、神の存在そのもの、神の本質、神の性質――これらはすべて、神の言葉の中で人間に知らしめられています。神の言葉を体験するとき、人間はその言葉を実践に移す過程で、神が語る言葉の背後にある目的と、その言葉の根源や背景を理解するようになり、そしてその意図された効果を理解し認識するようになります。こうしたことはすべて、真理といのちを得て、神の意図を把握し、性質を変えられ、神の支配と采配に服従できるようになるために、人間が経験し、把握し、獲得しなければならないことなのです。こうしたことを経験し、把握し、獲得すると同時に、人間は徐々に神を理解するようになり、そしてそのときには神に関する認識もさまざまな程度で獲得しています。この理解と認識は、人間が想像したり作り上げたりした物事からではなく、心の中で理解し、経験し、感じ、確認した物事から生まれます。そうした物事を理解し、経験し、感じ、確認して初めて、人間の神に関する認識は中身のあるものとなります。このときに人間が得る認識だけが、実際的で現実的かつ正確であり、そしてこの神の言葉を理解し、経験し、感じ、確認することで神に関する真の理解と認識を得るという過程こそが、まさしく人間と神との真の交わりなのです。こうした交わりの中で、人は神の意図を真に理解し把握し、神の所有するものと神の存在そのものを真に理解し知るようになり、神の本質を真に理解し知るようになるとともに、神の性質を徐々に理解し知るようになって、神があらゆる創造物を支配しているという事実についての確信と正しい定義に到達し、神の身分と地位についての確かな姿勢と認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人の神に関する考えは徐々に変化し、人は根拠もなく神について想像したり、神への疑念を勝手に膨らませたりすることをやめ、神を誤解したり、罪に定めたり、神を裁いたり、疑ったりもしなくなります。その結果、神と議論することや対立することが減り、神に反抗する機会も減ります。そして逆に神への思いやりと服従が強くなり、神への畏敬の念がより現実的で深遠なものとなっていきます。こうした交わりの中で、人間は真理の供与といのちの洗礼を受けるだけでなく、同時に神に関する真の認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人間はその性質を変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物としての神に対する真の畏敬と崇拝を獲得することになります。こうした交わりを経ることで、神への信仰はもはや白紙の状態でも、言葉だけの約束でも、一種の盲目的な追求や偶像化でもなくなります。こうした交わりによってのみ、人間のいのちは成熟に向かって日々成長することになり、そのとき初めてその性質が徐々に変えられて、神への信仰は漠然とした不確実なものから、少しずつ本物の服従と思いやりへ、本物の畏敬へと変化していきます。そして神に付き従う過程で、人は次第に消極的な態度から積極的な態度へ、否定的な者から肯定的な者へと進歩していきます。このような交わりによってのみ、人間は神に関する真の理解と把握、そして真の認識に到達するのです。
『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)
神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉を守る数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。ペテロは数百の試練を経ましたが、無駄に苦しんだわけではありません。神の言葉と働きから自己を認識するようになっただけでなく、神を知るようにもなったのです。
『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用
自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。神の言葉から神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を理解することを除いて最も重要なのは、実践的な経験を通じてこの理解に達する必要性です。神を知るために自分を実生活から切り離せば、その人は神を知ることができません。神の言葉から何らかの理解を得られる人がいたとしても、その理解は教義や言葉に限られ、本当の神自身と差異が生じることになります。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)
神の権威と力、神自身の身分、および神の本質に関する認識は、人間の想像に頼ったところで得られません。神の権威を知る上で想像に頼れないのであれば、どうすれば神の権威に関する真の認識を得られますか。それは神の言葉を飲み食いすること、交わりを行なうこと、そして神の言葉を経験することです。そうすることで、あなたは徐々に神の権威を経験してそれを確かめ、神の権威に関する認識を次第に積んでゆくのです。神の権威を認識するにはこの方法しかなく、近道はありません。あなたがたに想像を行なわないよう求めたとしても、それは何もせずひたすら滅びを待つようにさせることでも、あらゆる行動を禁止することでもありません。自分の頭脳で考えたり想像したりするのを避けることは、論理を用いて推測したり、知識を用いて分析したり、科学を根拠としたりせず、その代わり、自分の信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、そして神は唯一の神自身であると、神の力が常に証明していることを、神の言葉を通じて、真理を通じて、そして生活の中で直面するすべてのことを通じて理解し、確かめ、納得するということです。これが神を認識する唯一の方法なのです。中には、その目的を達成する簡単な方法を見つけたいという人もいますが、そのような方法を考えつくことはできますか。考えるまでもなく、それ以外の方法は存在しません。神が発する一つひとつの言葉、神が行なう一つひとつの業を通じ、神が所有するものと神そのものを誠実に、かつ着実に認識して確かめるのが唯一の方法です。神を知るにはこの方法しかありません。なぜなら、神が所有するものと神そのものは空虚なものではなく、現実のものだからです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)
人は神を知ることは簡単ではないとよく言いますが、わたしは、神を知ることは全然困難なことはないと言います。なぜなら神は人間にその業を頻繁に見せているからです。神は人類との対話を止めたことはなく、人間から隠れたことも、人間に知られないようにしようとしたこともありません。神の思い、考え、業はすべて人類に明かされています。したがって、人間が神を知りたいと望む限り、あらゆる方法で人間は神を知ることができます。神が人間を意図的に避け、人類から隠れてきた、神には人間が神を理解し知るようになることを許すつもりがない、などと人間が盲目に考える理由は、人間は神が誰なのかを知らず、神を知りたいとは思っていないからです。そして何よりも、人間は創造主の思い、言葉、業などに無関心だからです……。本当のところを述べると、もし誰かが余暇に創造主の言葉や業に注目して理解しようとし、創造主の思いと、その心の声にほんの少し注意を払ったならば、神の思い、言葉、業は見ることができ、明瞭なものであることに気付くのは困難ではありません。同様に、創造主は常に人間のそばにいて、人間や被造物すべてと会話し、新たな業を毎日行なっていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされません。神の本質と性質は、神と人間との対話の中に表出され、神の思いと考えは、神の業に完全に明示されています。神は常に人類と共にあり、人類を見守っています。神は人間や被造物のすべてに、「わたしは天にあり、万物の中にある。わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と、静かに沈黙の言葉で語りかけています。神の手は温かく力強く、神の足取りは軽やかです。神の声は温和で優しく、神の姿は過ぎゆき、また振り返り、全人類を抱擁します。神の表情は優美で、神は立ち去ったことも、消えたこともありません。神は、昼も夜も、常に人間と共にいて、そばを離れません。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)
脚注
a. 原文では「されることがないことの象徴」。
b. 原文では「背くことができない(そして背くことが許されない)ことの象徴」。
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