真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

どのように神の性質と本質を知ることができるか。

2

2.どのように神の性質と本質を知ることができるか。

関連する神の言葉

「人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、『わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある』と述べている。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身2」より

「神の本質をよく知ることは、ささいな事柄ではないのである。あなたは、神の性質を理解しなければならない。そうすることによって、神の本質を少しずつ知るようになる。...」

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

「神の性質は人の性格とは異なるため、これは極めて抽象的に思われ、簡単には受け入れられないテーマである。神もまた、喜び、怒り、悲しみおよび幸せといった感情を持つが、このような感情も人のそれとは異なる。神には神であるすべてと自身が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の現れである。神であるすべてと自身が持っているものに加え、神の本質と身分は、人が取って代えることができるものではない。神の性質には、神の人類への愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含され、そしてそれ以上に人類に対する完全な理解が包含されている。...神の性質は、諸々の物の中でも生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。神の性質は誉れ、権力、崇高さ、偉大さ、そしてとりわけ至高性を表す。神の性質は権威、そして義であり、美しく、良いもの全ての象徴である。さらに、その性質は全ての暗闇と敵に抑圧または攻撃され得ないことの象徴であり、どのような被造物にも犯されない(そして勿論犯されることが許されない)ことの象徴である。神の性質はいと高き力の象徴なのである。何人たりとも、神の業と性質を妨げられず、妨げる可能性もない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

「神の喜びは、義と光の存在と現れによるものであり、暗闇と邪悪の滅亡によるものである。神は、人類に光と良い生活をもたらしたことについて喜ぶのである。神の喜びは義であり、肯定的なもの全ての存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは不正義の存在と、それにより引き起こされた混乱が神のものである人類を害していることによるものである。それは邪悪と暗闇の存在のため、真理を駆逐するものの存在のため、そしてそれ以上に、良く美しいものに反する事柄の存在によるのである。神の怒りは、全ての悪い事柄が消滅したことの象徴であり、そして神の聖さの象徴である。神の悲しみは、神が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類によるもので、神が人のためにする働きは神の期待にかなわず、神が愛する人類の全てが光りの中で生活できるのではないからである。神は罪のない人類、正直で無知な人、そして良いけれども曖昧な人に対して悲しみを感じている。神の悲しみは神の慈しみと憐みの象徴であり、美しさと優しさの象徴である。神の幸せは、もちろん神の敵を打ち倒すこと、そして人の良き信仰を得ることから生まれる。さらに、それは全ての敵の排除と崩壊、そして人類が良き平和な生活を得ることから生まれる。神の幸せは人の喜びとは異なり、良い果実を受け取る気持ちで、喜びにも勝る気持ちである。神の幸せは、人類が苦しみから解き放たれ、光の世に入ることの象徴である。」

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

「神の真実性とは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の誠実さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の無私さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の謙虚さとは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神の人間に対する愛とは、神の聖さであろうか。(その通りである。)神は人間に対して真理と生命を無償で与える。これは神の聖さであろうか。(その通りである。)神が明示する物事は、全て神独自のものであり、堕落した人間には存在せず、それを見出すことが出来ない。そうした物事は、サタンが人間を腐敗させる過程や、サタンの腐敗した性質や本質では全く見ることが出来ないものである。つまり、神の中にある物事や神の存在は、すべて独自のものであり、そうした本質を持つのは、神自身のみである。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より

「神を知ることは、神の御言葉を読んで理解することにより行う必要がある。『受肉された神を見たことがないので、どうして神を知ることができようか』と言う者も居る。実際には、神の御言葉は、神のご性情である。神の御言葉から神の人間への愛、神による人間救済、その救済方法などを知ることが出来る。…なぜなら、神の御言葉は、神が人間に書かせたのではなく、神により明示されたものだからである。御言葉は神が自ら表されたものである。御言葉を表したのは神ご自身であられ、それは神の内なる声である。御言葉が心からの言葉と呼ばれるのは何故だろうか。なぜなら、御言葉は深遠なところから発せられたものであり、神のご性情、御旨、お考え、そして神の人間に対する愛、人間救済、期待だからである。…神は時折優しく柔和な側面から御言葉を述べられ、人間は神の人間に対する愛を知る。また神は時折厳格な側面から御言葉を述べられ、人間は神の侵害不可能なご性情を知る。人間はひどく汚れているので、神の顔を見るに値せず、したがって神の御前に来るに値しない。現在において、人間が神の御前に来る事は、完全に神の恵みの範囲外にある。神の知恵は神が御業を行われる方法と神の御業の意義から理解できる。人間は、神と接触せずとも、神の御言葉からそうした物事を依然として知ることが出来るであろう。」

『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より

「神によって発せられ明らかにされた言葉と神の性質は神の心を現し、また神の本質を現している。神が人間とつながる時、神が何を言い、何をし、どのような性質が現されるかに関わらず、また人間がどのように神の本質、神が持っているものと神であることを捉えるかに関わらず、それらは全て神の人間に対する心を現すものだ。人間がそれをどれだけ認識し、知り、理解できるかに関わらず、それらは全て神の心、神の人間に対する心を現しているのである。これは間違いない。神の人間に対する心というのは、神が人間にとってどのような存在であるかということであり、神は人間が何を行い、どのように生きることを求めているかということであり、神の心を成就するためにどのように人間が能力を発揮することを求めているかということである。これらのことを神の本質から切り離せないものだろうか。つまり、神は人間に要求すると同時に、自身の性質と、自身の持っているものと自身が何であるかの全てを示し続けているのである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

「神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

「自分の経験がどの程度に達しているかを問わず、あなたは神の言葉や真理と離別不可能であり、神の性質や神の中にある物事や神の存在に関して得た認識は、すべて神の言葉に明示されている。すなわち神の言葉と真理の間には、不可分な繋がりがある。神の性質と神の中にある物事や神の存在それ自体が真理であり、すなわち真理とは、神の性質や神の中にある物事、そして神の存在の真の顕現である。神の中にある物事や神の存在は真理により具体的なものとなり、明示的に述べられる。神が好む物事、神が好まない物事、神が望むあなたの行動、神が許さないあなたの行動、神が蔑む人々、神が喜ぶ人々が、真理により一層率直に述べられる。神が明示する真理の背景では、神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができる。これが神の性質の啓示である。神の言葉から神の中にある物事や神の存在を知り、神の性質を理解することのほか、最も重要なことは、実践における経験からこうした理解に達する必要性である。ある者が、神を知るために実生活から離れた場合、この者はその目的を達成できない。神の言葉から何らかの認識を得ることが出来る人々が存在したとしても、そうした認識は理論と言葉に限られたものであり、実際の神の存在との間には差がある。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より

「神の性質と神自身を理解するには、とても小さなことから始めなければならない。そのとても小さなこととは何か。わたしは聖書のいくつかの箇所を調べた。以下の内容には聖句が含まれており、そのすべては『神の働き、神の性質、そして神自身』というテーマに関係するものである。これらの抜粋は、あなたがたが神の働き、神の性質、そして神自身について知るための参考として特に役立つはずだ。…

これらの聖書の物語と記録を見ると、当時神が業をどのように成し、どのように人々を取り扱ったのかについてよりよく理解できるようになるのである。しかし今日わたしがこれらの箇所を用いるのは、あなたがこれらの物語と登場人物について理解するためではない。これらの人物の物語を通して神が行ったことや神の性質を見ることで、神を理解することが容易になり、神の真の側面を見ることができるようになり、神に対して想像することをやめ、自分の観念にとらわれることをやめ、あいまいな信仰に終止符を打つためである。土台なしで神の性質を理解し、神自身を知っていこうとするならば、自分のどうしようもない無力さに度々苛まれることになり、どこから手を付ければよいか分からなくなる。それだから、人が神をより理解し、神の心を真に理解し、神の性質と神自身について知り、神の存在を純粋に感じ、人間に対する神の心を理解するために、このような方法と取り組み方を使おうと考えたのである。

………

(創世記 2:15-17)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』。

この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

「神の権威や力、神に固有の身分、神の本質に関する認識は、人間の想像に依存して得られるものではない。あなた方は神の権威を知る上で想像に依存できないのであれば、どのようにしたら神の権威に関する真の認識を得られるであろうか。神の言葉を飲食すること、フェローシップ、そして神の言葉を体験して、神の権威に関する漸進的な経験と確認を得ることにより、神の権威に関する漸進的理解を得、累進的な知識量が得られるだろう。神の権威に関する認識を得る近道は存在せず、この方法によるほか無い。想像の回避を要求することは、何もせず受動的に破壊を待つようにさせることや、あらゆる行動を禁止することとは違う。自分の頭脳で考え、想像するのを避けるということは、論理を用いて推測するのを避け、知識を用いて分析するのを避け、科学を根拠とせず、その代わりに、自分が信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、神の力により常に神が神自身であることが証明されていることを、神の言葉、真理、自分が人生で経験するあらゆる物事により理解し、確認することを意味する。誰であれ神に関する理解を得ることができる方法は、これしかない。一部の者は、この目的を達成する簡単な方法を見つけ出そうとするが、そのような簡単な方法は思い当たるだろうか。考えるまでも無く、それ以外の方法は存在しない。神が述べたひとつひとつの言葉や行なった業の全てにより、神の中にある物事や神の存在を丁寧に、確実に知ることが、唯一の方法である。神を知る方法は、これしかない。神の中にある物事や神の存在、そして神の全ては空虚ではなく、実在するものである。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身1」より