全能神教会 アプリ

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

神の性質と本質をいかにして知ることができるのか

19

関連する神の言葉

神の喜びとは、正義と光の存在と現れによるものであり、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは不義の存在と、それが引き起こす混乱が神のものである人類を害していることによるものである。それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反する物の存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類によるもので、彼が人のためにする働きは彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐みの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる気持ちである。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

神そのものと神が持っているもの、および神の本質と身分は、人が取って代わることができるものではない。神の性質には、人類への神の愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含されており、しかも人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無感覚である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、あらゆる正義の象徴であり、また、あらゆる美と善の象徴である。しかもそれは、暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴[a]であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴[b]である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より

人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。…事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 2」より

神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです。それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。

『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より

自分の経験がどの程度に達しているかを問わず、あなたは神の言葉や真理と離別不可能であり、神の性質や神の中にある物事や神の存在に関して得た認識は、すべて神の言葉に明示されている。すなわち神の言葉と真理の間には、不可分な繋がりがある。神の性質と神の中にある物事や神の存在それ自体が真理であり、すなわち真理とは、神の性質や神の中にある物事、そして神の存在の真の顕現である。神の中にある物事や神の存在は真理により具体的なものとなり、明示的に述べられる。神が好む物事、神が好まない物事、神が望むあなたの行動、神が許さないあなたの行動、神が蔑む人々、神が喜ぶ人々が、真理により一層率直に述べられる。神が明示する真理の背景では、神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができる。これが神の性質の啓示である。神の言葉から神の中にある物事や神の存在を知り、神の性質を理解することのほか、最も重要なことは、実践における経験からこうした理解に達する必要性である。ある者が、神を知るために実生活から離れた場合、この者はその目的を達成できない。神の言葉から何らかの認識を得ることが出来る人々が存在したとしても、そうした認識は理論と言葉に限られたものであり、実際の神の存在との間には差がある。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

神が所有するもの、神の存在そのもの、神の本質、神の性質――これら全ては神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間は、神の言葉を実行する過程において、神が語る言葉の背後にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、神の言葉の意図されている効果を理解し察するようになる。これらの事は全て、真理といのちを獲得し、神の意図を把握し、性質が変えられ、神の支配と采配に服従できるようになるために、人間が経験し、把握し、獲得しなければならないものである。これらのことを経験し、把握し、獲得すると同時に、人間は徐々に神を理解し、その時、様々な度合いで神に関する認識を獲得するようにもなる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で理解し、経験し、感じ、確証した物事から生まれる。これらの事を理解し、経験し、感じ、確証したとき初めて、人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識のみが実際的であり、現実的であり、正確であるのだ。そして神の言葉を理解し、経験し、感じ、確証することにより神に関する真の理解と認識を得る過程こそが、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の意図を真に理解し、把握し、神の所有するものと神の存在そのものを本当に理解し、知るようになり、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知るようになり、神があらゆる創造物を支配しているという事実についての真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位についての本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考えが徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、また神への疑念を勝手に膨らませたり、神を誤解したり、罪に定めたりしなくなり、あるいは神を裁いたり、疑ったりしなくなる。結その果、神と議論することや、神と対立することが減り、神に反抗することも減るだろう。逆に、神を思いやり、神に服従することがさらに多くなり、神に対する畏敬がより実際的で深遠なものとなるだろう。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを受けるだけでなく、それと同時に、神に関する真の認識を得るであろう。こうした交わりのなかで、人間は、性質が変えられて救いを得るだけではなく、同時に、被造物として神を畏敬し礼拝することを獲得するだろう。こうした交わりの後、神への信仰はもはや、白紙の状態、あるいは言葉だけの約束、一種の盲目的な追求や偶像化では無くなるだろう。こうした交わりによってのみ、人間のいのちは成熟に向かって日々成長するのである。そして、その時初めて、人間の性質は次第に変えられ、神への信仰が徐々に漠然とした不確実なものから、真の服従と思いやりと、本当の畏敬へと変化し、また人間は、神を求める際、しだいに消極的な態度から積極的な態度へ、受け身の姿勢から能動的姿勢へと移行する。こうした交わりによってのみ、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。

『言葉は肉において現れる』の「神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道」より

神の権威や力、神に固有の身分、神の本質に関する認識は、人間の想像に依存して得られるものではない。神の権威を知る上で想像に依存できないのであれば、どのようにしたら神の権威に関する真の認識を得られるであろうか。神の言葉を飲食すること、交わり、そして神の言葉を体験して、神の権威に関する漸進的な経験と確認を得ることにより、神の権威に関する漸進的理解を得、累進的な知識量が得られるだろう。神の権威に関する認識を得る近道は存在せず、この方法によるほか無い。想像の回避を要求することは、何もせず受動的に破壊を待つようにさせることや、あらゆる行動を禁止することとは違う。自分の頭脳で考え、想像するのを避けるということは、論理を用いて推測するのを避け、知識を用いて分析するのを避け、科学を根拠とせず、その代わりに、自分が信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、神の力により常に神が神自身であることが証明されていることを、神の言葉、真理、自分が人生で経験するあらゆる物事により理解し、確認することを意味する。誰であれ神に関する理解を得ることができる方法は、これしかない。一部の者は、この目的を達成する簡単な方法を見つけ出そうとするが、そのような簡単な方法は思い当たるだろうか。考えるまでも無く、それ以外の方法は存在しない。神が述べたひとつひとつの言葉や行なった業の全てにより、神の中にある物事や神の存在を丁寧に、確実に知ることが、唯一の方法である。神を知る方法は、これしかない。神の中にある物事や神の存在、そして神の全ては空虚ではなく、実在するものである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 1」より

脚注

a. 原文では「されることがないことの象徴」となっている。

b. 原文では「背くことができない(そして背くことが許されない)ことの象徴」となっている。

関連した内容