今日に至るまで、神はいかにして人類を導き糧を施してきたのか

2017年11月22日

関連する神の言葉

いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの本質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割をしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

神が万物を造って以来、万物は整然と、かつ神が定めた法則に基づいて機能し、進化し続けてきました。神による見守りと支配のもと、人は生存し、同時に万物は整然と発展してきました。その法則を変えたり破壊したりすることができるものは何一つありません。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからです。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、転生する、ということです。春になると降り注ぐ雨が新鮮な季節の感覚をもたらし、地を潤します。地では雪解けが始まり、草が土を押し上げて芽吹き始め、木々も次第に緑色へと変わります。これらすべての生き物が、地に新鮮な活力をもたらすのです。これが、あらゆる生き物が現われ繁栄しているときに見られる光景です。ありとあらゆる動物が巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始めます。夏になると、すべての生き物が暑さのなかで日差しを浴び、夏の暖かさを楽しみます。草木や様々な植物が急速に生長し、やがて花を咲かせて実を結びます。夏の間は、人間を含めたすべての生き物が活発になるのです。秋には雨が涼しさをもたらし、あらゆる生き物が刈り入れの時期の到来を感じます。すべての生き物が実を結び、人間は冬に備えて食料を得るべく、これら様々な作物の刈り入れを始めます。冬になると、すべての生き物が静けさの中で落ち着き、寒い冬の訪れの中、人間もまた休息して冬を過ごします。季節から季節へ、春から夏、夏から秋、秋から冬への移り変わりは、すべて神が定めた法則によって生じます。神はこの法則を用いてあらゆる物事と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を作り出し、様々な気温と季節のある生存環境を用意します。ゆえに、こうした規律ある生存環境の中で、人間は規律ある形で生存し、繁殖することが可能なのです。人間はこの法則を変えることができず、どんな人や生き物もこれらの法則を打ち壊すことはできません。無数の変化が生じ、海は野に、野は海になったものの、これらの法則は存続し続けます。それが存在するのは神が存在するからであり、神の支配と管理のゆえなのです。この種の秩序ある、大規模な環境の中、人間の生活はそうした法則と規則の中で進歩します。これらの法則は何世代もの人々を養い、何世代もの人々がこれらの法則のもとで生存してきました。人々はこの秩序ある生存環境に加え、神が造った数多くの物事のすべてを何世代にもわたって享受してきました。たとえ人々が、この種の法則は生来のものだと思い、当然のものとして軽視したとしても、また神がこれらの法則を指揮し、支配していることを感じられなかったとしても、どんな場合であれ、神は絶えずこの不変の働きに従事しています。神がこの不変の働きを行う目的は人類の生存であり、人類が生きられるようにするためです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

神は万物の活動を律する法則を指揮します。そして万物の生存を律する規則を指揮し、万物を支配し、それらが互いに強め合い、依存し合うように定めます。それにより、神はそれらが滅びたり消滅したりしないようにするのです。そうして初めて人類は生きることができ、このような環境の中、神の導きによって暮らすことができます。神はそれら活動法則の主であり、人類はそれに干渉することも、それを変えることもできません。神自身だけがこれらの法則を知り、それを管理するのです。木々がいつ芽吹くか、雨がいつ降るか、大地が植物にどの程度の水と栄養を与えるか、葉がどの季節に落ちるか、木々がどの季節に実を結ぶか、日光が木々にどの程度の栄養を与えるか、日光から栄養を得た木々が何を排出するかといった事柄はすべて、誰にも破られない法則として、神が万物を造ったときに予定したことなのです。生物であろうと、人間の目には生物であると見えないものであろうと、神が造った物事は神の掌中にあり、神はその中でそれらを操り支配しています。これらの法則を変えたり破ったりできる人はいません。つまり、神は万物を造ったとき、木は大地がなければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することもできず、木々がなければ大地は渇き、また木々は鳥の住みかとなり、風から身を守る場所になるよう定めたのです。日光なくして木は生きられますか。(生きられません。)大地だけがあっても木は生きられないでしょう。これらはどれも、人間と人間の生存のためのものです。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守っている大地の上で暮らしています。人間は日光や他の様々な生物がなければ生きられません。これらの関係は複雑ですが、万物が互いに強め合い、依存し合って共存できるよう、神が万物を律する法則を定めたことを、あなたは忘れてはいけません。言い換えれば、神が造った一つひとつのものにはそれぞれ価値と意味があるのです。意味のないものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるでしょう。これは、神が万物に施す際に使う方法のひとつです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

「神が万物に施す」という言葉には、極めて広い意味と範囲があります。神は人々に、食べ物や飲み物を日々施すだけでなく、人間が必要とするあらゆるものを施しますが、その中には人に見える一切のものだけでなく、人に見えないものも含まれています。神は、人間に必要不可欠なこの生活環境を維持し、管理し、支配します。つまり、それぞれの季節で人間がどのような環境を必要としようとも、神はそれを用意してきたのです。神はまた、人間の生存に適したものになるよう、大気の状態や気温も管理しています。これらの物事を律する法則は、自然に生じたものでも不規則に生じたものでもありません。それらは神の支配と業の結果なのです。これらの法則の源、万物のいのちの源は神自身です。あなたが信じるかどうか、見えるかどうか、理解できるかどうかにかかわらず、これは立証された議論の余地のない事実なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

こうした様々な人間の生活様式を支える基本条件は何ですか。人々が生存できる環境を基本的な水準に維持することが絶対に必要ではありませんか。つまり、狩猟で暮らす人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、彼らの食料源はなくなってしまいます。この民族、およびこうした人々が向かうべき方向は不確実なものになり、彼らが消えてしまう恐れすらあるでしょうまた、牧畜を生業とする人々はどうですか。こうした人々は何に頼っていますか。彼らが頼っているのは家畜ではなく、家畜が生存できる環境、すなわち草原です。草原がなければ、牧畜民はどこで家畜を放牧すればよいでしょうか。牛や羊は何を食べればよいでしょうか。家畜がなかったとしたら、これら遊牧民には生活の糧がなくなるでしょう。生活の糧を得る源がないとしたら、これらの人々はどこへ行けばよいでしょうか。生き続けることが極めて難しくなり、未来はなくなるでしょう。水源がなくなり、河川や湖沼が干上がってしまったら、水に頼って暮らすすべての魚はそれでも存在するでしょうか。存在しないでしょう。水と魚に生活の糧を頼る人々は、引き続き生存できるでしょうか。こうした人々の食料や、生活の糧を得る源がなくなったとしたら、生存し続けることは不可能でしょう。つまり、ある民族が生活の糧や生存に関する問題に直面した場合、その民族は存続できず、地球上から消えて絶滅するでしょう。また、農業を生業とする者が土を失い、ありとあらゆる植物を植えてそこから食料を得られなくなったら、その結末はどうなるでしょうか。食料がなかったとしたら、人間は餓死するのではないでしょうか。人間が餓死しつつあるなら、その人種は消滅するのではないでしょうか。そうしたわけで、これが多種多様な環境を維持する神の目的なのです。神が様々な環境や生態系を維持し、そしてそこに住む様々な生物をすべて維持する目的は、ただひとつしかありません。その目的とは、様々な人々、様々な地理的環境の中で暮らす人々を養うことです。

すべての被造物がそれぞれの法則を失ったとしたら、それらは存在しなくなるでしょう。万物の法則が失われたとしたら、万物のうち、あらゆる生物が存続できないでしょう。人類もまた、生存のために頼っている環境を失うでしょう。人類がそのすべてを失うとしたら、これまでのような世代を超えた繁栄と繁殖は継続不可能になるはずです。人間が現在まで生存してきたのは、神が人間にすべての被造物を与え、様々な方法で人類を養ってきたからです。人類が現在まで、今日まで生存してきたのは、ひとえに神が様々な方法で人類を養っているからです。自然の法則が整然としている、固定された好ましい生存環境により、地球上のありとあらゆる人々、ありとあらゆる人種が、予め定めた領域の中で生存できるのです。これらの領域や境界を越えられる人はいません。なぜなら、それらを定めたのは神だからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

神はこの世界を創造し、神が命を授けた生きものである人間を世にもたらした。次に、人間は両親と親族を持つようになり、もはや孤独ではなくなった。人間は、最初にこの物質的世界に目を向けて以来、神の予定の中で存在するように定められてきた。神から出る命の息は、成人へと成長する間ずっとあらゆる生きものを維持する。この過程で、人は神の配慮のもとに成長していると感じる者はいない。むしろ、人は両親の愛情のこもった世話のもとで成長し、人の成長を促すのは自身の生命本能だと思う。それは、人間は誰が自分に命を授けてくれたのか、どこからそれが来たのかを知らず、ましてや、生命本能がどのようにして奇跡を生み出すのかなど知るよしもないからである。人は食物が生命維持の基礎であり、根気が人間生存の源であり、頭の中にある信念が人間の生存を左右する資本であるということだけを知っている。神の恵みと施しにはまったく気づかないので、神によって授けられた命を人は浪費する……。神が日夜世話しているこの人類のうち、一人として自主的に神を礼拝しようとはしない。神は計画通りにひたすら人に働きかけ続けるだけで、人には何も期待しない。人がある日夢から覚めて、命の価値と意義、人に与えた全てのもののために神が支払った代価、そして人が神のもとへ戻ってくるのを待つ神の切なる心遣いを突然悟ることを願いつつ、神は働き続けている。人間の生命の起源と存続をつかさどる奥義を探究した者はいない。これら全てを理解している神だけが、神からあらゆるものを受け取ったにもかかわらず感謝することもない人間から受ける傷や打撃に黙って耐える。人間は命がもたらす全てのことを当然のことと考えている。そして同様に、神が人間によって裏切られ、忘れられ、ゆすり取られるのも「当然のこと」とする。神の計画が本当にこれほど重要であると言えるだろうか。人間、すなわち神の手から出たこの生きものが本当にそれほど重要だと言えるだろうか。神の計画は確かに重要である。しかし、神の手で創造されたこの生きものは、神の計画のために存在する。それゆえ、この人類に対する憎しみ故に神は自らの計画を台無しにすることはできない。神が全ての苦痛に耐えるのは、神の計画のためであり、また神が吐いた息のためであり、人間の肉のためではなく、人間のいのちのためである。神がそうするのは、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻すためである。これこそが神の計画である。

この世に生まれて来る人間は皆、生と死を通らなければならない。そして、その大多数は死と再生の周期を経てきた。生きている者はやがて死に、死者もやがて戻ってくる。これは全て生きものそれぞれのために神によって用意された命の過程である。けれども、この過程と周期こそが人が目を向けるようにと神が願っている真実である。それは、神が人に授けたいのちは無限であり、肉体、時間、空間により制限されないということである。これこそが神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来た証拠である。多くの人はいのちが神から来たことを信じないかもしれないが、神の存在を信じるか否定するかにかかわらず、人間は神から出る全てのものを必然的に享受する。ある日突然、神が心変わりし、世界に存在する全てのものを取り返し、自らが与えたいのちを取り戻すことを望むならば、万物は存在しなくなる。神は自らのいのちを用いて全てのもの、生きているもの生きていないものの両方に施し、神の力と権威により全てを秩序正しく整える。これは誰にも想像することも理解することもできない真実であり、これらの理解し難い真実は、まさに神のいのちの力の表れであり、証しである。今あなたに秘密をひとつ告げよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にとっても計り知れないものである。過去と同様、現在もそうであり、来たるべき未来もそうである。わたしが伝える第二の秘密はこうである。形や構造がどのように異なっていようとも、全ての被造物のいのちの源は神である。あなたがどのような生命体であっても、あなたは神によって定められたいのちの軌道に逆らうことはできない。いずれにせよ、わたしが唯一望むのは、人間が次のことを理解することである。神の配慮、加護、施しがなければ、人間はどれほど勤勉に努力しても、どれほど熱心に奮闘しても、人が受けるように定められている全てのものを受けることはできない。神からのいのちの施しがなければ、人間は生きる価値や命の意義を失ってしまう。神のいのちの価値を勝手気ままに浪費する人が、これほど何も気にかけないことをどうして神が許すだろうか。前にも言ったように、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。神が授けた全てのものを人が大切にしないならば、神は始めに与えたものを取り返すだけではなく、人間からの代償として与えた全てのものの代価の二倍を要求する。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

神の経営の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。

その後、神は人類をサタンに渡し、人類はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへと至った。律法の時代の物語である……。数千年に及ぶ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そして、律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行なった。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇っていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った……。

神がその働きをする時は、いつでも静かに一つの場所から去り、そのあいだに別の場所でそっと新たな働きをする。これは、鈍重な人間には信じられないことのように思われる。人々はいつも古いものを大事にし、新しい、馴染みのないものには敵意をもつか、厄介なものとみなす。そこで、神が行なう新しい働きは何であれ、最初から最後まで、人間はあらゆるものの中で最後にそれを知ることになる。

いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、働きを行なった。しかし、例外なく誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。……神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し――神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を――サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々が、これは神話的な物語のようだと感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、宇宙と天空においてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人たちだからである。これが神による人類経営の意義である。神の今回の経営の働きのあいだに、人類はサタンによる堕落の対象であり、同時に、神による救いの対象であり、そして神とサタンが獲得しようと戦う産物でもある。神はその働きをすると同時に、徐々に人間をサタンの手から取り戻してきたので、人間は神に近づきつつある……。

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間の前にさらに鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「わたしは長い間迷っていたのを神が大金を払って買い戻した羊だ。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、わたしを笑い、さらし者にする神のやり方なのか。……長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行ないの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る……と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする――ああ! わが主、わが神!

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

神の経営が開始されてから今まで、神は常に全力でその働きを遂行してきました。神はその本体を人間から隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して働きをなし、自身の性質を現し、自身の本質によってすべての人間を導き、その力、知恵、権威を通して一人一人の人間に働きを行っています。こうして神は、律法の時代、恵みの時代、そして現在の神の国の時代を現実のものにしたのです。神は人間から自分の本体を隠してはいますが、その性質、その存在と所有しているもの、そして人間に対する旨は、人間が目にし経験することができるよう、無条件に露わにされています。言い換えれば、人類は神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験する神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということです。それが真実ではないでしょうか。神はどのような方法あるいは見地からその働きを行うにせよ、常にその正体を通じて人間を扱い、自身がすべきことを行い、語るべきことを語ります。どの位置から語るにしても――神は第三の天にいることも、肉を持って存在することも、さらに普通の人として存在することもありますが――神は常に心と思いを尽くして、欺きも隠しもせず人に語りかけてきます。働きを行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして神が所有するものと神そのものを余すところなく現します。そして自身のいのちと神であるもの、神が所有するものを用いて人間を導くのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

数千年が経過した現在、人類は神から授かった光と空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が創った花や鳥、魚や昆虫を楽しみ、神から授かったすべてのものを享受しています。昼と夜はいまも絶えず入れ替わり、四季はいつものように移り変わり、空を舞うガンは冬に去り、次の春に舞い戻るとともに、魚は住みかである川や湖から決して離れません。また夏の日中には地上のセミが心から高らかにうたい、秋には草の中にいる鈴虫が風に合わせて優しく口ずさみ、ガンが群れをなす一方、鷹は孤独なままです。ライオンは誇り高く狩りを行なうことで自分を支え、ヘラジカは草原の草花を離れません……。万物の中でも、すべての生物は行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして生じます。しかし、その本能と生存法則が変わることはありません。それらは神の施しと糧によって生きており、その本能を変えたり、生存法則に害を及ぼしたりすることは誰にもできないのです。万物の中で生きる人類はサタンに堕落させられ、欺かれてきたものの、神が創った水、神が創った空気、そして神が創ったすべてのものを捨てることは依然できず、いまなお神が創ったこの空間で暮らし、繁殖しています。人間の本能は変わっていないのです。人間はいまなお目で見、耳で聞き、脳で考え、心で理解し、足で歩き、手で作業を行なうなどしています。神の施しを受け取れるよう、神が人間に授けた本能は変わらないままで、人間が神と協力する能力、被造物の本分を尽くす能力、人類が霊的に必要とするもの、自分の起源を知りたいという願望、そして創造主に救われることへの渇望は変わっていません。以上が、神の権威の下で暮らし、サタンによる血なまぐさい破壊を経験してきた人類の現状です。人類はサタンの圧迫を受け、もはや創造当初のアダムとエバではなく、知識、想像、観念といった神に敵対する物事や、堕落したサタン的性質でいっぱいですが、神の目から見て、人間は依然として神が造った時と同じ人間です。人間はいまなお神に支配され、指揮され、神が定めた過程の中で暮らしているので、神の目から見ると、サタンによって堕落させられた人類は埃をかぶり、空腹でお腹を鳴らし、反応がいささか遅くなり、以前ほどの記憶力がなく、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能はまったく損なわれていません。これが、神が救おうとしている人類なのです。この人類は創造主の呼びかけを聞き、創造主の声に耳を傾けさえすれば、立ち上がってその声がどこから聞こえるのかをただちに突き止めようとするはずです。創造主の姿を見さえすれば、その他のことには注意を払わず、すべてを捨てて自分自身を神に捧げ、神のために命すら捧げます。創造主の偽りなき言葉を心の中で理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の側につきます。また身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を再び授かった時、人間の記憶は蘇り、そこで人間は創造主の支配下へと本当に戻るのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

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