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神はどのように人類を今日まで導き養ったか。

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4.神はどのように人類を今日まで導き養ったか。

関連する神の言葉

「神の経営のための働きは世界創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神がすべてを創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、分や秒、瞬時に行われるといったものではないし、一、二年で終わるものでもない。神は人間が生きて行くために必要なもの─太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境─を数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりだった。」

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

神はどのように人類を今日まで導き養ったか

「神はどのような業を行って、様々な人種を配置したであろうか。まず、神は比較的大きな地理的その他の環境を用意し、人間のための様々な場所を割り当て、そこで人間は何世代にもわたり生存してきた。生存のための範囲は決定されている。そして人間の食事、生活、何を食べるか、何を飲むか、生活手段など、神はこれらの事柄も遠い昔に決定した。そして、神が万物を創造した時、神は様々な人種のために様々な用意を行った。土壌の構成成分、気候、植物、地理的環境には、様々なものがある。異なる場所には異なる鳥、獣が居り、異なる水域には異なる種類の魚や水産物があり、昆虫の種類でさえも神により決定された。…こうした様々な側面の相違点は、人間が見たり感じたり出来ない場合もあるが、神が万物を作っている最中に、神はこれらの側面を決め、異なる地理的環境、地形、生物、人種を用意した。神は様々な種類の人間を造ったので、神はそれぞれの人種に必要とされる物事やその生活様式について知っていた。従って、神が造った物事は、極めて善良である。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「こうした様々な人間の生活様式の前提条件は何であろうか。こうした人々が生存するには、環境の基本的維持が必要ではないだろうか。つまり、狩人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、狩人は生活が成り立たなくなる。したがって、狩猟を生業とする人々が山や森を失い、鳥や獣が居なくなったとしたら、狩人は生活の糧を得る源が無くなってしまう。こうした民族は、その後何処へ行き、何をするだろうか。こうした人々の生存の可能性の有無は不明となり、消滅してしまう恐れもある。また、牧畜を生業とする人々は、草原に依存している。こうした人々が依存しているのは、正確には家畜ではなく、家畜が生存する環境となっている草原である。草原が消滅したとしたら、こうした人々は、どこで家畜を放牧すれば良いだろうか。牛と羊は、何を食べるだろうか。家畜が無かったとしたら、遊牧民はどのような生業を営むだろうか。こうした人々は生業を失うであろう。生活の糧を得る手段が無くなったとしたら、人間はどうなるであろうか。生存の継続は極めて困難となり、人間に未来はなくなるであろう。水源が無くなったら、河川や湖沼は干上がってしまうであろう。生活を水に依存する様々な魚は、それでも存続するであろうか。全ての魚が絶滅するであろう。水と魚に生活の糧を依存する人々は、引き続き生存できるであろうか。こうした人々の食料が無くなり、生活の糧を得る源が無くなったとしたら、こうした人々は生存を継続できないであろう。生活の糧や生存に問題が発生するとすぐに、この種の人々は絶滅してしまうであろう。こうした人々は生存できず、絶滅して地上から消滅するであろう。そして、農業を生業とする者が土を失った場合、どのような結果となるであろうか。こうした人々は栽培出来なくなり、植物から食料を得られなくなるであろう。その結果、どうなるであろうか。食料が無かったとしたら、人間は餓死するのではなかろうか。人間が餓死した場合、その種の人間は消滅するのではなかろうか。そうしたわけで、これが様々な生態環境を維持する神の目的である。神が様々な環境や生態系を維持し、生き物をそれぞれの環境に維持する目的は、ただひとつである。その目的とは、様々な人々を育み、様々な地理的環境の中に生きる人々を育むことである。

万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物は存在しなくなるであろう。万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。…神により定められた、万物の成育に関する律法の観点から見ると、種類を問わず、全人類が神による供給、神による養育の下で生活しているのではなかろうか。これらの律法が破られたり、神がこの種の律法を定めなかったとしたら、人類の将来的見通しはどのようなものになるであろうか。人類の基本的な生存環境を人類が喪失したとしたら、人類には食料源があるであろうか。食料源が問題になる可能性があるであろう。もし人間が食料源を失ったとしたら、すなわち人間が食べ物を得る事が全く出来なかったとしたら、人間は1か月間存続出来ないであろう。人間の生存が問題となるだろう。したがって、神が人間の生存、継続的な存在と増殖のために行う業のそれぞれが、極めて重要である。神が万物に対して行う業のそれぞれが、人間の生存と密接に関連し、人間の生存と不可分である。そうした業は、人間の生存と不可分である。人間の生存が問題となった場合、神の経営は続行可能であろうか。神の経営は、その後も存在するだろうか。神の経営は、神が育む全人類と共存し、神が万物に対して用意した物や神の人間に対する業が何であるかを問わず、これらの物事は神にとって必要であり、人間の生存に不可欠である。もし神が万物のために定めた律法が守られなかった、つまり律法が破られた、あるいは乱されたとしたら、万物は存続が不可能となり、人間の生存環境や日常の糧、そして人間自身も、すべて存続不可能となるであろう。そのため、神による人間の救いの経営もまた消滅するであろう。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に彼らに知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのためヤーウェの人類創造の働きは半分完了しただけで、決して完了していなかった。ヤーウェは土で人間の雛形を形作り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を与えなかった。初めのうち、人間は神を崇めたり畏れたりする心をもたなかった。人間は神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上における生活についての基本的知識や適切な生活の規則に関しては無知であった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り七日間の作業を終えたものの、人間をすっかり完成させなかった。人間は殻でしかなく、本当にひとりの人ではなかったからである。人は人類を創造したのはヤーウェだということだけを知っていたが、ヤーウェの言葉と律法にいかに従うべきかについては何も知らなかった。だから人類創造の後も、ヤーウェの働きは決して完成といえるようなものではなかった。ヤーウェはまた、人々が地上で共に暮らしヤーウェを崇めることができるように、ヤーウェに導かれた後、人々が地上における適切な人間としての生活をおくるための正しい道程に入れるように、ヤーウェの面前にて人間をしっかりと導かなければならなかった。これがなされて初めて、主にヤーウェの名の下で行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そうなって初めてヤーウェの世界創造の働きが完全に完了したのである。このように、ヤーウェが人類を創造して以来、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における人間として適切な生活のあらゆる活動に携わることができるように、ヤーウェは人類の地上における生活を何千年間も導かねばならなかった。これで初めてヤーウェの働きはすっかり完成した。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。受肉して人間の形をとり、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、業を行った。しかし、例外なく、誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。...神の働きの第二段階が終わるとすぐ─十字架にはりつけになった後─人間を罪から回復させる(つまり、サタンの手から取り戻す)という神の働きは成就した。そこで、その時から、人間は主イエスを救い主であると認めるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が真の働きをし、罪深い肉の形を経験し、神自身が罪のための捧げ物となったからだ。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで贖われ、救われて、人間は十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものなのだ。

…………

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間により鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は公式に神の家族に戻っている。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、しかし、神から誰も予測していなかった正面切っての攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が『楽しむ』べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、『自分は羊だ。長い間迷っていた。それを神は大金を払って買い戻した。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか』と考えざるを得ない。これは、神がわたしを笑い、暴露しているのか。…長い年月の後、人間は練られ、鍛錬と刑罰の試練を経験してきた。人間は過去の『栄光』も『ロマン』も失ったが、無意識の中に人間であることの真理を理解し、人間を救うために神が長年懸命に働いて来たことがわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日々に癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しさが依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ人間を気遣い、その手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は、人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けない。もはやヤーウェの顔から顔を背けない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする─ああ!わが主、わが神!」

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

「神が経営をし始めてから今まで、神はいつでもその働きを十分に献身的に遂行している。神はその姿を人間に対して隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して業をなし、自身の性質を現し、自身の本質によって全ての人間を導き、力、知恵、権威を通して一人ひとりの人間に働きを行っている。従って律法の時代、恵みの時代、そして今日の神の国の時代を現実のものにする。神は人間に対し自分の姿を隠してはいるが、その性質、神であるものと持っているもの、そして人間への意志は人間が見て、経験できるようにそのまま現されている。別の言い方をすれば、人類には神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験してきている神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということである。それが真実ではないだろうか。神がどのような方法で見地からその働きを行うにかかわらず、神は人間を自身の存在を基準として扱い、すべきことを行い、言うべきことを言う。どの位置から語るとしても――それが第三の天であったとしても、もしくは肉を持った存在としてであったとしても、もしくは普通の人としてであったとしても――神は人間に、常に心と思いを尽くして、欺かれたり隠されたりすることなく語りかけてくる。神が業を行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして持っているものと神であるものを余すところなく現す。そして自身のいのち、神の持っているもの、神であるものにより、人間を導くのである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

「神が誰かに業を行う時、神が誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またそれをサタンに告げることも無い。神がそれを誇示することが無いのは、なおさらである。神は、静かに、そして自然に、必要な業を行うのみである。まず、神はあなたの家族を選ぶ。その家族にはどのような経緯があるか、あなたの両親や祖先は誰か、そうした事柄は、既に神により決定されている。つまり、そうした事柄は、神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業である。神があなたが生まれる家族を選んだ後、神はあなたが生まれる日を選ぶ。現在、神はあなたが産声を上げて生まれるのを見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ている。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できるようになる。こうして人間が成長する間、サタンの眼差しは、あたかも獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれている。しかし神は、業を行う時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべき業、神が行なわなくてはならない業を行なう。あなたは、成長過程において、あなたが好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがある。しかし、あなたがその道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにある。神は、あなたの人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証を、あなたに与える。あなたは、それを知らずに育つ。あなたは、新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになる。あなたにとって、すべてが新鮮なものである。あなたは、自分自身のことや、自分の好きなことをするのを好む。あなたは、自分の人間性と生活環境のなかで生活し、神の存在について認識することは一切ない。しかし、あなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを、神は見ている。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無い。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味のある物事があり、高尚な大志を抱く。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどのようなものであるべきかを思い描く。しかし、その後何があったとしても、神はその全てをはっきりと見ている。あなたは、自分の過去について忘れていることもあるが、神以上にあなたを深く理解している者は、存在しない。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟する。...あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの業を行ってきたが、神が業を行った時、その都度あなたにその旨を伝えることは無かった。あなたが知るべき事ではないので、あなたに伝えることは無かったのではないか。(その通りである。)人間にとって、神の業は、全て重要である。神にとって、それは神が行うべき事である。しかし神の心中には、神がなすべき業として、そうした事柄よりも遙かに重要なことがある。それは何であろうか。つまり、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということである。あなたがたは完全に理解できないと感じ、『その安全とは、それほど重要なものなのか。』と言うかも知れない。『安全』という言葉の文字通りの意味は何であろうか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているであろう。しかし、安全とは、それほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知る必要がある。それでは、わたしがこのように話してきている、神が行う必要のある業とは、一体何であろうか。それは、神にとって何を意味するであろうか。それは、本当にあなたがたの安全の保証であろうか。それは、たとえば現在の安全の保証であるか、というと、そうではない。それでは、一体その業とは何であろうか。この場合の安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということである。それは重要であろうか。あなたはサタンに食い尽くされていないが、そうであれば、そのことはあなたの安全に関連するであろうか。それはあなた個人の安全に関するもので、それよりも重要な事は存在し得ない。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの霊も肉も、神に属さなくなってしまう。神は、あなたを救わなくなってしまう。神はそうした魂や人々を見捨てる。そうしたわけでわたしは、神が行う必要のある最も重要な業は、あなたの安全、すなわちあなたがサタンに食い尽くされないことを保証することであると言うのである。これは極めて重要ではないだろうか。それでは、あなたがたが回答できないのは何故だろうか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようだ。

神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、数多くの業を行う。神は、人間を選んで救う準備のために、数多くの業を行う。まず、あなたがどのような性格を持つか、どのような家庭に生まれるか、あなたの両親は誰か、あなたの兄弟姉妹は何名いるか、あなたの家庭の状況はどのようなものか、あなたの家族の者それぞれの状態はどのようなものかなどは、神があなたのために、苦心して用意したものである。...外面的には、神は人間のために劇的な業を行われているようには考えられないが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからである。しかし実際には、神の業は全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、人間の救いに必要な全ての条件を用意するためのものである。神は、各人に指定された時間になると、即時的にこれらの人々を神の前に戻される。あなたが神の声を聞く時になった場合、それはあなたが神の前に行く時である。神の前に行く時、ある者は自分自身が既に両親となり、ある者は誰かの子である。換言すると、ある者は既に結婚して子をもうけており、ある者は独身のままであり、自分自身の家庭を持っていない。しかし、人々の状況を問わず、神はあなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、既に決定している。神は、あなたが神の言葉を聞くことが出来るよう、既に状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定している。神は、あなたが無意識のうちに神の前に来て神の家族に戻るよう、必要とされる全ての条件を既に用意している。また、あなたは、無意識のうちに神に付き従い、神があなたのために段階的に用意した、段階的な業に関与する。...神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、その理由は神が用意し、導いたものであることに相違ない。

神は、まず様々な方法であなたを選び、神の家族へと迎え入れる。神が最初に行うのは、そうした業であり、それは神が各人に与える恵みである。今は終わりの日における神の業の時となり、神は最初の時のように恵みと祝福を与えるのみではなくなり、また人間を促し続けることもないが、これは恵みの時代の業の基礎によるものである。終わりの日の業の間に、人間が経験した神の業のあらゆる側面から、何を認識したであろうか。人間は、神の愛だけでなく、神の裁きと罰を認識した。この時、神は人間に対して施し、支援し、人間の目を開き、人間を導くので、人間は次第に神の意思と語られる言葉、そして神が人間に与えた真理について理解するようになる。人間が弱く、落胆し、よりどころとするものを失った時、神は言葉により人間を慰め、忠告し、励ますので、器量の小さな人間は次第に自分の力を見出し、前向きに立ち上がり、神と協力することを望むようになる。しかし、人間が神に従わなかった場合、あるいは神を拒絶した場合、あるいは自分自身の腐敗を表して神に反抗した場合、神は容赦なくそうした人々を懲らしめ、抑制する。しかし、人間の愚かさ、無知さ、弱さ、未熟さに対し、神は寛容と忍耐を示す。このように、神が人間に対して行う全ての業により、人間は次第に成熟し、神の意思や真理の一部、肯定的な物事や否定的な物事、邪悪とは何か、闇とは何かを知るようになる。神は、人間を常に懲らしめ、罰するとは限らず、また常に寛容と忍耐を示すとは限らない。むしろ、神は各人に対し、様々な段階において、また人間の様々な器量や背丈に応じて、異なる方法で施す。神は、人間に対して多くの業を行い、人間はそうした代償や業を認識することは無いものの、神の業は、すべて人間ひとりひとりに対して実際に行われている。神の愛は、実在する。神の恵みにより、人間は数々の災害を回避する一方で、人間の弱さについて、神は何度となく寛容を示す。神の裁きと刑罰により、人間は、人類の腐敗と、人類のサタンのような腐敗した要素を次第に認識するようになる。神が与える物事、神が人間の目を開くこと、そして神による導きにより、人間は、真理の本質、人間に必要な物事、自分が進むべき道、人生の意味、自分の人生の意味、将来へと進む方法を、一層多く知ることができるようになる。こうした神の業は、神の元来の目的と不可分のものである。それでは、その目的とは何であろうか。あなたがたは、その計画を知っているであろうか。神がそのような方法で人間に対する業を行うのは、何故だろうか。神はどのような結果を実現しようとしているのであろうか。すなわち、神は人間がどのようになることを求め、人間から何を得ることを求めているのであろうか。神は、人間の心が蘇ることを求めている。つまり、神がこのようにして人間に対して業を行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、魂を目覚めさせ、人間がどこから生まれたか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためである。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神による人間救いの業の根拠となる大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためである。人間の心が蘇ると、人間は堕落し、腐敗した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を求めることを望むようになる。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなる。その代わりに、人間は神の業と言葉に積極的に協力して神の心を満足させ、神に対する畏れと邪悪の忌避を得る。これが神の業の元来の目的である。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より

「数千年が経過した現在、人類は神から授かった光りと空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が造った花々や鳥たち、魚や昆虫を楽しみ、神から授かった全てを享受している。昼と夜が引き続き交互に入れ替わり、四季は通常通り移ろいでおり、今年の冬には、空を舞うガンの群れが渡り去ってゆき、次の年の春に舞い戻り、魚は河川や湖沼以外へと移動して生活の場とすることなく、夏の日中にはセミが魂を歌い上げ、秋には鈴虫が草の間で風に合わせて優しい歌を口ずさみ、ガンは群れを成し、鷹は単独で行動し、ライオンの群れは狩りを行うことで生命を維持し、ヘラジカは草原の草花から立ち去ることが無い。万物のなかでも、動物は、すべて行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして発生する。しかし、その本能と生存のための律法は不変である。動物は神の施しと糧により生きており、動物の本能を変えることや、動物の生存の律法を妨害することは、誰にもできない。万物の中で生きる人間はサタンにより腐敗し、騙されたものの、人間は依然として、神により造られた水、空気など、神により造られた全ての物を差し控えることができず、また人間は依然として神により造られた空間で生活し、繁殖している。人間の本能は、依然として不変のままである。人間は、見ることを眼に、聞くことを耳に、考えることを脳に、理解することを心に、歩くことを脚に、業を行うことを手に、それぞれ依存している。神の施しを人間が受け取れるように神が人間に授けられた本能や、人間が神と協力するために必要な能力、創造物としての義務を履行するために必要な能力は変わっておらず、人間の霊的な必要性、人間が自分達の起源を知りたいという願望、創造主による救いに対する人間の切望は、変わっていない。以上が、神の権威の下で生活し、サタンによる残酷な破壊を幾度となく経験してきた人間の現況である。人間はサタンによる抑圧を受けてきており、また人間はもはや創造された時のアダムとエバのようではなく、知識、想像、自分の意志など、神に反対する物事や、サタンのような腐敗した性質に満たされているが、神の観点から見ると、人間は依然として神が造った時と同じ人間である。人間は依然として神により支配され、指揮され、神が定めた生涯から逸脱することなく生活しているので、神の観点から見ると、サタンにより腐敗させられた人間は、埃をかぶったようなもの、つまり空腹でお腹が鳴り、反応が少し遅くなり、従前よりも記憶力が悪くなり、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能は、全く損傷していない。これが、神が救済しようとしている人間である。しかし、人間は創造主の呼ぶ声や言葉を聞くだけで、立ち上がってその言葉がどこから聞こえているかを探しまわるであろう。人間は、創造主の姿を見ただけで、その他のことは全く心に無くなり、全てを投げ出して、自らを神に捧げ、神のために命すら捧げるであろう。人間の心が、創造主の心からの言葉を理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の味方となるであろう。また人間が身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を授かったとき、人間の記憶が蘇り、その時人間は、真に創造主の支配下に戻るであろう。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身1」より