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神はいかにして人類を今日まで導き養ってきたのか

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関連する神の言葉

神の経営(救い)の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

神はどのような働きを行って、様々な人種を配置したであろうか。まず、神は比較的大きな地理的環境を用意し、人々に様々な場所を割り当て、そこで人間は何世代にもわたり生存してきた。生存のための範囲は決定されている。そして人間の生活、何を食べるか、何を飲むか、生活手段など、神はこれらの事柄も遠い昔に決定した。そして、神が万物を創造した時、神は様々な人種のために様々な用意を行った。土壌の構成成分、気候、植物、地理的環境には、様々なものがある。異なる場所には異なる鳥、獣が居り、異なる水域にはそれぞれに固有の種類の魚や水産物がある。昆虫の種類でさえも神により決定された。…こうした様々な側面の相違点は、人間が見たり感じたり出来ない場合もあるが、神が万物を作っている最中に、神はこれらの側面を決め、異なる地理的環境、地形、生物、人種を用意した。それは、神が様々な種類の人間を造り、それぞれの人種に必要とされる物事やその生活様式について知っているからである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 9」より

こうした様々な人間の生活様式の前提条件は何であろうか。こうした人々が生存するには、環境の基本的維持が必要ではないだろうか。つまり、狩人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、狩人は生活が成り立たなくなる。したがって、狩猟を生業とする人々が山や森を失い、鳥や獣が居なくなり、生活の糧を得る源が無くなってしまったら、こうした民族が向かう方向や、こうした人々が何処へ行くかは不明となり、消滅してしまう恐れすらある。また、牧畜を生業とする人々は、何に依存しているか。こうした人々が依存しているのは、正確には家畜ではなく、家畜が生存する環境、すなわち草原である。草原が消滅したとしたら、こうした人々は、どこで家畜を放牧すれば良いだろうか。牛と羊は、何を食べるだろうか。家畜が無かったとしたら、遊牧民には生業がなくなるだろう。生活の糧を得る手段がないとしたら、このような人々はどこへ行くであろうか。生存の継続は極めて困難となり、人間に未来はなくなるであろう。水源が無くなったら、河川や湖沼は干上がってしまうであろう。生活を水に依存する様々な魚は、それでも存続するであろうか。全ての魚が絶滅するであろう。水と魚に生活の糧を依存する人々は、引き続き生存できるであろうか。こうした人々の食料が無くなり、生活の糧を得る源が無くなったとしたら、こうした人々は生存を継続できないであろう。つまり、生業や生存に問題が生じた場合、この種の人々は存続できず、絶滅して地上から消滅するであろう。そして、農業を生業とする者が土を失い、栽培が出来なくなって様々な植物から食料を得られなくなった場合、その結末はどうなるであろうか。食料が無かったとしたら、人間は餓死するのではなかろうか。人間が餓死した場合、その種の人間は消滅するのではなかろうか。そうしたわけで、これが様々な環境を維持する神の目的である。神が様々な環境や生態系を維持し、生き物をそれぞれの環境に維持する目的は、ただひとつである。その目的とは、様々な人々を育み、様々な地理的環境の中に生きる人々を育むことである。

万物がそれぞれの法則を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 9」より

ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に彼らに知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのためヤーウェの人類創造の働きは半分完了しただけで、決して完了していなかった。ヤーウェは土で人間の雛形を形作り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を与えなかった。初めのうち、人間は神を崇めたり畏れたりする心をもたなかった。人間は神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上における生活についての基本的知識や適切な生活の規則に関しては無知であった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り七日間の作業を終えたものの、人間をすっかり完成させなかった。人間は殻でしかなく、本当にひとりの人ではなかったからである。人は人類を創造したのはヤーウェだということだけを知っていたが、ヤーウェの言葉と律法にいかに従うべきかについては何も知らなかった。だから人類創造の後も、ヤーウェの働きは決して完成といえるようなものではなかった。ヤーウェはまた、人々が地上で共に暮らしヤーウェを崇めることができるように、ヤーウェに導かれた後、人々が地上における適切な人間としての生活をおくるための正しい道程に入れるように、ヤーウェの面前にて人間をしっかりと導かなければならなかった。これがなされて初めて、主にヤーウェの名の下で行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そうなって初めてヤーウェの世界創造の働きが完全に完了したのである。このように、ヤーウェが人類を創造して以来、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における人間として適切な生活のあらゆる活動に携わることができるように、ヤーウェは人類の地上における生活を何千年間も導かねばならなかった。これで初めてヤーウェの働きはすっかり完成した。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、働きを行った。しかし、例外なく誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。…神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

…………

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間の前にさらに鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「私は長い間迷っていたのを神が大金を払って買い戻した羊だ。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、私を笑い、さらし者にする神のやり方なのか。…長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間であることの真理を理解し、人類を救うための神による長年の献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする──ああ!わが主、わが神!

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

神が経営をし始めてから今まで、神はいつでもその働きを十分に献身的に遂行している。神はその姿を人間に対して隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して業をなし、自身の性質を現し、自身の本質によって全ての人間を導き、力、知恵、権威を通して一人ひとりの人間に働きを行っている。従って律法の時代、恵みの時代、そして今日の神の国の時代を現実のものにする。神は人間に対し自分の姿を隠してはいるが、その性質、神であるものと持っているもの、そして人間への意志は人間が見て、経験できるようにそのまま現されている。別の言い方をすれば、人類には神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験してきている神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということである。それが真実ではないだろうか。神がどのような方法で見地からその働きを行うにかかわらず、神は自身の真の身分でもって人間を扱い、すべきことを行い、言うべきことを言う。どの位置から語るとしても――それが第三の天であったとしても、もしくは肉を持った存在としてであったとしても、もしくは普通の人としてであったとしても――神は人間に、常に心と思いを尽くして、欺かれたり隠されたりすることなく語りかけてくる。神が業を行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして持っているものと神であるものを余すところなく現す。そして自身のいのち、神の持っているもの、神であるものにより、人間を導くのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

神が誰かに対して働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることも無ければ、それを誇示することが無いのは、なおさらです。神は静かに、そして自然に必要なことを行うのみです。まず、神はあなたの家族を選びます。家族の背景はどのようなものか、あなたの両親や祖先は誰かといった事柄は、既に神により決定されています。つまり、そうした事柄は神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業です。神があなたの家族を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。今、神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを、あなたの誕生を見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できます。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべきこと、行なわなくてはならないことを行います。成長過程において、人が自分が好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがあります。しかし、その道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにあります。神は、人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証をあなたに与えます。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたは好きなことをするのを好みます。あなたは自分の人間性と生活環境の中で生活し、神の存在については一切の認識をもちません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無いのです。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神は全てをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神以上にあなたを深く理解している者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。…あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの働きを行なってきましたが、神が行ったことを全て詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人間にとって、神の行いは全て重要です。神にとって、それは行うべき事です。神の心中には、神がなすべきことで、それらよりも遙かに重要なことがあります。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神はその人の安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないと感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているでしょう。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知らなければなりません。それでは、わたしがこのように話している、神が行うべきこととは一体何でしょうか。安全は、神にとって何を意味するのでしょうか。本当にあなたがたの安全の保証のことでしょうか。いいえ。それでは、神が行なうことは何でしょうか。この安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということなのです。これは重要ですか。あなたはサタンに食い尽くされていませんが、そうであれば、これはあなたの安全に関連するでしょうか。これはあなた個人の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はそうした魂や人々を見捨てるのです。ですから、神が行うべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。それでは、あなたがたはなぜ回答できないのですか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようですね。

神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、さらなることを行います。神は、誰かを選んで救う準備のために、数多くの働きを行います。まず、あなたはどのような性格か、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、あなたが生まれる家庭の状況と、その経済状態や条件はどのようなものかなどは、神があなたのために、苦心して用意しました。…外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。神は、各人に指定された時間になると即時に人々を神の前に戻します。あなたが神の声を聞く時が来ると、それはあなたが神の前に行く時です。その時、ある者は既に人の親となり、ある者はまだ誰かの子のままです。換言すると、既に結婚して子をもうけた人もいれば、独身のままで自分の家庭を持っていない人もいます。しかし、人々の状況を問わず、神はあなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、既に決定しています。神は、あなたが神の言葉を聞くことができるよう、既に状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定しています。神は、あなたが知らないうちに神の前に来て神の家に戻るよう、必要とされる全ての条件を既に用意しています。また、あなたは知らないうちに神に付き従い、神があなたのために段階ごとに用意した、段階的な働きに入っていきます。…信仰には様々な理由や在り方がありますが、神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、それは全て神が用意し、導いたものなのです。最初、神は様々な方法であなたを選び、あなたを神の家に連れてきます。これが神があらゆる人に与える恵みです。

今は終わりの日における神の働きの時となり、神はもはや最初のように恵みと祝福を人間に与えるのみではなく、また人間をなだめることもありません。この働きの間に、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を認識したでしょうか。人間は、神の愛と神の裁きと刑罰を認識したのです。この時、神は人間にさらに施し、支援し、啓き、導き、人間は次第に神の意図と語られる言葉、そして神が人間に与える真理を理解するようになります。人間が弱く、落胆し、よりどころとするものを失った時、神は言葉により人間を慰め、忠告し、励ますので、霊的背丈の小さな人間は次第に自分の力を見出し、前向きに立ち上がることができ、神と協力することを望むようになります。しかし、人間が神に従わなかったり、神に抵抗した場合、あるいは自分自身の堕落を表した場合、神は容赦なくそうした人々を懲らしめ鍛錬します。しかし、人間の愚かさ、無知さ、弱さ、未熟さに対し、神は寛容と忍耐を示します。このように、神が人間に対して行う全ての働きにより、人間は次第に成熟し、神の意図や真理の一部を知り、肯定的な物事や否定的な物事、邪悪とは何か、闇とは何かを知るようになります。神は人間を常に懲らしめ、鍛錬するとは限らず、また常に寛容と忍耐を示すとは限りません。むしろ、神は各人に対し、異なる方法で、様々な段階において、人間の様々な霊的背丈や能力に応じて施すのです。神は、人間に対して多くのことを行い、大きな代償をはらいます。人間はその代償や業を認識することは無いものの、神のすることはすべて人間ひとりひとりに対して実際に行われています。神の愛は実在します。神の恵みにより、人間は災害を次々と回避する一方で、人間の弱さには、神は何度となく寛容を示します。神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与える物事、神が人間の目を開くこと、そして神による導きにより、人間は、真理の本質、人間に必要な物事、自分が進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。こうした神の業は、神の唯一の元来の目的と不可分です。それでは、その目的とは何でしょうか。神がそのような方法で人間に対する働きを行うのは、何故でしょうか。神はどのような結果を実現しようとしているのでしょうか。言い換えれば、神は人間に何を見、人間から何を得たいのでしょうか。神は、人間の心が蘇ることを見たいのです。神がこのようにして人間に対して働きを行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、霊を目覚めさせ、人間がどこから来たのか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためです。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神の人間を救う働きの背後にある大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためです。人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

数千年が経過した現在、人類は神から授かった光りと空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が造った花々や鳥たち、魚や昆虫を楽しみ、神から授かった全てを享受している。昼と夜が引き続き交互に入れ替わり、四季は通常通り移ろいでおり、今年の冬には、空を舞うガンの群れが渡り去ってゆき、次の年の春に舞い戻り、魚は河川や湖沼以外へと移動して生活の場とすることなく、夏の日中にはセミが地上で魂を歌い上げ、秋には鈴虫が草の間で風に合わせて優しい歌を口ずさみ、ガンは群れを成し、鷹は単独で行動し、ライオンの群れは狩りを行うことで生命を維持し、ヘラジカは草原の草花から立ち去ることが無い。万物のなかでも、動物は、すべて行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして発生する。しかし、その本能と生存のための法則は不変である。動物は神の施しと糧により生きており、動物の本能を変えることや、動物の生存の法則を妨害することは、誰にもできない。万物の中で生きる人間はサタンにより腐敗し、騙されたものの、人間は依然として、神により造られた水、空気など、神により造られた全ての物を差し控えることができず、また人間は依然として神により造られた空間で生活し、繁殖している。人間の本能は、依然として不変のままである。人間は、見ることを眼に、聞くことを耳に、考えることを脳に、理解することを心に、歩くことを脚に、業を行うことを手に、それぞれ依存している。神の施しを人間が受け取れるように神が人間に授けられた本能や、人間が神と協力するために必要な能力、創造物としての義務を履行するために必要な能力は変わっておらず、人間の霊的な必要性、人間が自分達の起源を知りたいという願望、創造主による救いに対する人間の切望は、変わっていない。以上が、神の権威の下で生活し、サタンによる残酷な破壊を幾度となく経験してきた人間の現況である。人間はサタンによって踏み躙られ、また人間はもはや創造された時のアダムとエバのようではなく、知識、想像、観念など、神に反対する物事や、サタンのような堕落した性質に満たされているが、神の観点から見ると、人間は依然として神が造った時と同じ人間である。人間は依然として神により支配され、指揮され、神が定めた生涯から逸脱することなく生活しているので、神の観点から見ると、サタンにより腐敗させられた人間は、埃をかぶったようなもの、つまり空腹でお腹が鳴り、反応が少し遅くなり、従前よりも記憶力が悪くなり、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能は、全く損傷していない。これが、神が救済しようとしている人間である。しかし、人間は創造主の呼ぶ声や言葉を聞くだけで、立ち上がってその言葉がどこから聞こえているかを探しまわるであろう。人間は、創造主の姿を見ただけで、その他のことは全く心に無くなり、全てを投げ出して、自らを神に捧げ、神のために命すら捧げるであろう。人間の心が、創造主の心からの言葉を理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の味方となるであろう。また人間が身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を授かったとき、人間の記憶が蘇り、その時人間は、真に創造主の支配下に戻るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 1」より

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  • 神の働きの各段階と神の名との関係

    ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。

  • 神の働きの三段階のそれぞれの目的と意義

    終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。

  • 神の全能性と知恵がおもに明らかにされるのはどの側面においてか

    創造主は、言葉により神が求めていることの全てを得て、実現しようとしていることの全てを実現することができるだけでなく、神が創造した全ての物をその手中に収め、神の権威により造った全ての物を支配することも可能である。

  • 神の心に従う人とは何か。神への信仰の真の証とは何か

    イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。