神による終わりの日の裁きの働きは人をどのように清めて救うのか

2021年12月15日

大災害が降りかかっていることに人々は気づき、雲に乗った主の降臨を待望する人は、息を呑んで待っていますが、何年待っても主の降臨を見ていないどころか、東方閃電全能神による終わりの日の裁きの働きを証ししており、それで大いに失望しています。まっすぐ引き上げられて主に会うのをずっと望み、再臨した主が裁きの働きをするとは思ってもおらず、受け入れようとしません。多くの人が宗教界の反キリスト勢力に従い、神の出現と働きを批判断罪しています。「我らの罪は赦され、神に義とされたのだから、神の裁きは必要ない。主に天国へと引き上げられ、祝福を享受するのを待っている」と。彼らは観念にしがみつき、真の道を求めて調べようとしません。だから主をお迎えしておらず、むしろ災害の中に落ちたのです。これで主イエスの言葉が成就します。「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう(マタイによる福音書 25:29-30)。しかし、真理を愛する大勢の人が全能神の言葉を読み、その力と権威に気づいてどれも真理だと認めました。神の声に気づき、もはや観念に縛られず、ひたすら真の道を求めた彼らが真っ先に問うたのは、自分たちは罪を赦され義とされたのに、神による裁きの働きがなぜ必要なのか。神は終わりの日の働きで、人をどう清めて救うのか。この二つは、真の道を求める人が理解すべき、最も重要かつ最も厄介な問題です。

まずは、神による終わりの日の裁きの働きが必要な理由から。多くの宗教人はこの問いに困惑しています。「主はもう我らの罪を赦し、神も我らを罪人と見ていない。だから天国にまっすぐ上げられ、神の裁きは必要ない」これは大間違いです。確かに主は人の罪を赦したが、その赦しは清められたことを意味するでしょうか? 神への真の服従を意味するでしょうか? 違います。私たちは次の事実を見ています。信者は罪を赦されたにもかかわらず、例外なく罪と懺悔を日々繰り返し、昼に罪を犯しては夜に懺悔し、主イエスの戒めを守ろうとしても守れず、主を愛して従おうとしてもそうできない。善を為そうと決意しながら、いつの間にか嘘と罪を重ね、どれほど頑張っても自制できない。自分の肉体は堕落しすぎ、罪の生活は苦しいと感じながら、なぜ罪の束縛から抜け出すことができないのでしょう? 罪を重ねてしまうのはなぜでしょう? それは罪深い本性とサタンの性質のせいであり、それらが罪の根源です。根源を解決せずに罪から逃れることはできず、絶えず神に逆らい敵対し、神を断罪してしまう。パリサイ人は何世代も神を信じ、罪の生け贄を常に捧げていました。ヤーウェ神が主イエスとして受肉し、多数の真理を表わしたとき、なぜ主イエスがヤーウェ神の顕現だと気づけず、主を非難・断罪し、十字架にかけさえしたのでしょう? その問題は何だったのでしょう? 終わりの日の今、全能神が来て真理を表わしているのに、多数の宗教人がそれを調べようともせず、全能神を無闇に断罪・冒涜し、再び十字架にかけるのはなぜでしょう? それは何を意味するのでしょうか? そこからはっきりわかります。人は罪を赦されたものの、いまだサタンの本性に支配され、いつ神に逆らい断罪するかわからない。人の罪深さは単なる罪悪の問題ではなく、真理を表わすキリストを十字架にかけ、神と真理に敵対し、神に逆らう言動を重ね、神の敵になるほど深刻なのです。このように、神に逆らう汚れて堕落した者に、天国へ入る資格はあるでしょうか? 神は義にして聖く、その性質は犯せません。罪を赦されながら、裁きの働きで清められておらず、罪と神への抵抗を重ねるなら、その人は神の国に入る資格を決して得られず、これに疑いの余地はありません。それで主イエスの言葉が成就します。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。ヘブル人への手紙一二章一四節にも「きよさがなければ、だれも主を見られない」ゆえに主イエスは贖いの働きの際に何度も再来を預言したのです。では、主はここで何をするのでしょう? 真理を表わし、裁きの働きをし、人を罪とサタンの勢力から完全に救うのです。すると人は神に立ち返り、神を畏れて従う人になって、美しい終着点に導かれます。主イエスの預言の通りです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47-48)。そして「さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)。終わりの日に裁きの働きをすると、神がはるか昔に計画したことがわかります。それがまさに、堕落した人類が救われるのに必要なことです。終わりの日、全能神は真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをしています。それは人のあいだに来た真理の霊で、神の選民をあらゆる真理に導き、主イエスの預言を完全に成就させます。全能神の言葉をいくつか読みましょう。神による終わりの日の裁きの働きがなぜ必要かがわかります。

全能神は言われます。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。……人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)

恵みの時代、主イエスは自ら十字架にかけられ、人の罪の捧げ物となり、人の罪を贖いました。以降、人は罪を赦され、神から罪人とされていないので、神に直接祈って神の前に出られます。しかし神から罪人とされていないのは、罪を赦されたということであり、罪がなくなって完全に聖くなったわけではありません。いまだ罪深い本性とサタンの性質があるので、堕落を清めて完全に救われるよう、神による終わりの日の裁きの働きを経なければなりません。神による恵みの時代の贖いの働きは、終わりの日の裁きの働きに向けた地ならしです。つまり、裁きの働きは、主イエスによる贖いの働きを基になされるのです。神の贖いの働きは、完全なる救いの働きを途中まで完成させたに過ぎません。人を完全に清めて救えるのは全能神による終わりの日の裁きの働きで、それが神の救いの働きで一番重要な段階です。人は神の国に入る資格を得られるよう、神による終わりの日の裁きと清めを経て罪から完全に脱し、神に服従してその旨をなさねばなりません。

神が終わりの日に裁きの働きをしている理由がおわかりでしょう。この働きは人をどう清めて救うのかと問う人もいます。それについて、全能神は何と言っているか見てみましょう。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである(『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」〔『言葉』第1巻〕)

神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある『奥義』を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることができるように、神は暴露、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段を通して人間を完全にする(『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」〔『言葉』第1巻〕)

神が裁きの働きをどう行なうか、これでわかりましたね? 終わりの日の裁きの働きで、神はおもに真理を表わし、人の堕落した実質とサタンの性質を裁いて暴きます。すると人は堕落の真相を知って心から後悔し、自分を憎んで嫌い、肉を捨てて神の言葉を実践し、真に悔い改めて変わります。全能神の言葉は傲慢、不実、邪悪といった人の堕落した性質の表われや、信仰の動機と汚れ、さらには奥底の考えや思いを完全に暴きます。すべてはっきり明かされるのです。全能神の言葉を読むと、神に目の前で裁かれているように感じ、自分の汚(けが)れ、堕落、醜さが徹底的に暴かれ、恥ずかしくなって隠れることもできず、神の前で生きる資格などないと感じます。神は言葉で人を裁きつつ、現実の状況を作って人を暴き、事実で刈り込み、取り扱い、試すことで、自分を省みて認識できるようにします。現実に暴かれ、神の言葉でさらに暴かれ裁かれると、サタンの本性で生きる自分の醜さがよりはっきりわかります。後悔と自己嫌悪で一杯になり、徐々に真の悔い改めを育み、堕落した性質が清められて変わります。ここで人の堕落した性質を暴く神の言葉を聞いて、神が裁きの働きをどう行なうかを理解しましょう。

全能神は言われます。「わたしの行いは海岸の砂粒より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫を超えているのに、人はわたしのことをただの医師、あるいは人に教える無名の教師としてしか思っていない。何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)

神に付き従う者の多くは、どのようにして祝福を受けるかや、いかにして災いを避けるかということだけに気を揉んでいる。神の働きや神の経営と聞くと、彼らはとたんに口を閉ざし、興味を失う。そうした退屈な問題を理解したところで、いのちに成長に役立つわけでも、何らかの益をもたらすわけでもないと思い込んでいるので、神の経営について聞いてはいても、ほとんど注意を払わない。受け入れるべき大切なことだとは見ておらず、まして、自分のいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの単純な目的しか持っていない。その目的とは祝福を受けることである。このような者たちは、その目的に直接関係しないその他一切のことに、わざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じて祝福を受け取ること以上に正当な目標はなく、それがまさに彼らの信仰の価値なのである。その目的に貢献しなければ、彼らはそれにまったく心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。そのような者たちの目的や意図は、もっともらしく見える。神を信じ、また神のために費やし、神に身を捧げ、本分を尽くすからである。青春を犠牲にし、家族と職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目標のために自分の関心のありどころを変え、人生観を変え、求める方向までも変える。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分自身の理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に遭おうとも、頑張り抜いて死をも恐れない。彼らはどんな力に突き動かされて、そのような形で献身を続けるのか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しするという信念だろうか。神の旨を実現させるためならすべてを喜んで捨てるという忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを理解していない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただただ奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げてきたかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの振る舞いは分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人がそれほどまでに神のために捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題が見つかる。つまり、人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある。物事がこういう状態に至った今、誰がこの趨勢を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになったかを、どれほどの人が本当に理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである(『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」〔『言葉』第1巻〕)

あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、多少のささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。神を迎えもてなす代償として、金、贈り物、称賛を要求する。硬貨を一、二枚与えると、心が痛む。硬貨を十枚与えると、祝福と特別扱いを望む。あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。本分を尽くす人と尽くさない人、指導者と追随者、神を迎えもてなす人としない人、寄付する人としない人、言葉を説く人と受ける人など、このような人々は皆、自分を称賛する。これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心を持たないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。現在あなたがたは自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れるのが不可能なところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように取り組むつもりなのか。辿るべき道をどのように選ぶつもりなのか(『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」〔『言葉』第1巻〕)

数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪い。神に反対する悪魔になり、人による神への反抗は歴史書に記録されるほどになり、本人でさえその反抗的な振る舞いを完全に説明することができなくなっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているからである。今日でさえ、人はいまだ神を裏切っている。神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る者さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は、人間の装いをした獣、毒蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしはそのような人を決して憐れまない。人は白と黒の違い、真理と真理でないものの違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、依然として祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、それでも王として統治したいと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に座ることができようか。人は実に恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見るよう勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているのか。あなたは祝福を得られる者の顔をしているのか。性質にわずかな変化もなく、真理を一切実践していないのに、あなたはそれでも素晴らしい明日を願っている。自分自身を欺いているのだ(『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉はどれも実際的かつ現実的で、信仰の汚れと卑しい動機、神に逆らう本性を暴きます。これまで人は、神のために苦しみ、犠牲と代価を払えば、敬虔かつ従順で、神に認められると思っていました。しかし神の言葉で自分を省み、認識すると、犠牲はどれも汚れていて、祝福を得るのが目的だと気づきます。穏やかな暮らしで祝福されると、神に従い努力しますが、苦痛や災害に遭うと神を誤解し、守ってくれなかったといって責め、努力をやめさえします。すると、自分の信仰と犠牲がまったく打算的で、神から恵みと祝福をだまし取るためだとわかります。神を欺き利用している。実にずるくて自分勝手です! 良心や理知などなく、人と呼ばれる資格さえありません。かくも汚れて堕落しているのに、祝福されて天国に入る資格があると思っている。恥知らずで理知などありません。神の裁きと暴きの言葉は、義にして聖い神の犯せざる性質と、神が人に求めるのは誠実さと献身であることを示します。こうした動機や不純をもって神を信じ、本分を尽くすのは、神を騙して逆らうことであり、神に忌み嫌われます。神はそうした信仰を認めません。神の言葉の裁きを通じ、何度も取り扱いと試練を受けてようやく、自分の堕落の真相がわかり、真に自分を憎んで後悔し、神の前で悔い改めます。また神の義もわかり、神は真に人の心と思いを見て、表も裏もわかっているのだと知り、完全に納得し、神を畏れる心を育みます。信仰観も変わり、途方もない欲望を抱くことなく、より純粋に本分に取り組み、神に祝福されるかどうか、天国の祝福を受けられるかどうかに関係なく、神の采配に喜んで従い、被造物の本分を尽くします。ひとたび自分の成り立ちがわかると、以前ほど傲慢でなくなり、言動ともに理知が生まれ、真理を求めてそれに従います。これが神の裁きと刑罰で、人の堕落を徐々に清めて変えます。神の働きを経験した人は、終わりの日の裁きの働きがいかに実践的か、人をいかに清めて救うかを実感します。この裁きと刈り込みがなければ、自分の堕落を理解することはなく、いつまでも罪を犯しては告白する生活に囚われ、自分は罪を赦され神に認められたのだから、天国に入れると考えるでしょう。実に哀れで馬鹿げています! 神の裁きのおかげで、私たちは真に自己認識し、多数の真理を学んで堕落した性質が清められ、変わります。それはとてつもない自由です。神の裁きと刑罰は多くのものを授けますが、私たちに対する神の真の愛であり、最大の救いなのです。全能神が真理を表わし、裁きの働きを始めてから30年。災害に先立ち勝利者の一団をすでに完成させ、最初の果実としました。これで聖書の預言が成就します。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である(ヨハネの黙示録 14:4)。神の選民は神の裁き、刑罰、試練、精錬を経験し、堕落した性質が清められ、サタンの勢力からついに自由になりました。神に服従して神を崇め、大いなる救いを得ています。彼らの経験と証しは映画や動画としてネットで公開され、神による終わりの日の裁きの働きを全人類に証しし、疑いを一切残しません。全能神の国の福音は世の隅々に広まり、各地の選民が全能神の言葉を広めています。神の国の福音が前例のない規模で広まっているのです。明らかに、神の家から始まる裁きの働きは大成功で、神はサタンを負かし、すべての栄光を得ました。全能神の言葉の通りです。「神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる(『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日における神の裁きと刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中で揺るぎなく立てる者たちが、神と共に最後の安息に入る者たちである。このように、安息に入る者はみな、神による最後の清めの働きを経たあと、サタンの支配から解放され、神によって得られている。最終的に神によって得られたこのような人々が、最後の安息へと入るのである。神による刑罰と裁きの働きの目的は、本質的に、最後の安息のために人類を清めることである。こうした清めがなければ、人類の誰も、種類に応じて異なる種類に選り分けられることができず、安息に入ることもできない。この働きは、人類が安息に入るための唯一の道なのである(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

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