主イエスはおっしゃいました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネによる福音書 4:14)ほとんどの人は、主イエスがすでに私たちに永遠のいのちの道を与えてくださったと思っていますが、私は全能神の次の言葉を読みました。「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」これは一体何のことなのでしょうか。なぜ終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられるとあるのですか。
回答:永遠のいのちの道とは実際に何であるかに関しては、私たちはまずそれがどこから来るのかを知るべきです。神が肉となられた時、ご自身が真理であり道でありいのちであることを証されたことを私たちは皆知っています。このことはキリストだけが永遠のいのちの道を表せるという十分な証拠です。キリストが受肉された神の出現であり、肉をまとった神の霊であるということは、キリストの本質は神の本質であり、キリストご自身が真理、道、いのちであることを意味します。そのためキリストには真理を表し、人類を贖い救う働きを行うことができるのです。これは確かです。神がどの時代に肉となられても、キリストの本質は変わることがありません。主イエスは肉となられた神ご自身なのです。そのため主イエスは到来されたとき、ご自身が真理、道、いのちであり、人類にとってのいのちの生ける水の源であると証しされました。真理を表し、人に悔い改めの道を授けることができたのです。それは次のように仰せられた通りです。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネによる福音書4:13-14)。主イエスが語られたことは全て、主の神性本質の表れであり、主が行われた贖いの働きに従って表されるものでもあります。これは否定できません!主イエスは肉となられた神です。全能神は主イエスの再臨です。また受肉された神、真理の具現でもあります。そのため全能神も到来以来、ご自身が真理、道、いのちであると証しされ、人類を清めて救うために全ての真理を表し、人に永遠のいのちの道を授けておられます。神はなぜその受肉の一度目も二度目も、ご自身が真理、道、いのちであると証しされたのでしょうか。それはキリストに神の本質があるからです。簡単に言えば、神ご自身が永遠のいのちの道であり、神ご自身が永遠のいのちなのです。それゆえに受肉された神は真理を表し、人に永遠のいのちの道を授け、それぞれの時代ごとにご自身の働きを行うことができます。人類を救うという神の働きは段階に分けられます。それは贖いの働きという一段階だけで成し遂げられるものではないのです。神は贖いの働きを終えられてからは、まだ終わりの日において人類を裁き、清め、徹底的に救うという働きを行う必要があります。主イエスが戻ると約束されたのはそのためです。このことから、神の働きが絶えず前進するものであり、律法の時代や恵みの時代で止まるはずがないことが証明されます。神による人類の救いは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代の働きという三段階の働きから成っています。律法の時代から恵みの時代までの期間は約二千年で、恵みの時代から神の国の時代までの期間も約二千年でした。再臨された主イエスが行われる神の家から始まる裁きの働きは全て、人類を徹底的に清めて救う働きです。また、暗黒と悪の時代を終わらせ、神の国の時代を開く働きでもあります。人類の救いのための神の経営計画は、終わりの日の神の裁きの働きを通して成し遂げられ、人類は美しい終着地へと導かれるのです。それでは、終わりの日の神の働きによってこのような実を結ぶことができるのですから、終わりの日に神の働きにおいて表される真理は全て、神が人類に授けられる永遠のいのちの道であると言えないでしょうか。もし多くの人が終わりの日に神が表された真理によって征服されて清められ、完全にされ、神についての認識を得て、いのちの性質を変化させ、本当の人らしく生きているなら、彼らが得たいのちの道は本当に永遠のいのちの道なのでしょうか。もし本当に永遠のいのちの道であるなら、それは人を清めて救い完全にすることができる真理であることは確かですし、それにより人々が神を知り、神に従い、神を崇拝することができるようになるのも確かです。これは絶対です。この点を真に理解した上で、全能神が表された全真理をもう一度見れば、永遠のいのちの道が何であるかを知ることができます。
神は肉となられた時、その一度目も二度目も、真理、道、いのちを人類に授けることができましたが、主イエスがなさったのは贖いの働きだけです。終わりの日の全能神だけが裁きと清めの働きを行われるのであり、全能神の働きによって初めて、人類を徹底的に清めて救うという成果が実現できるのです。ここまでお話しすると、こう尋ねる人もいるでしょう。「主イエスは働きを行いに来られたとき、神が終わりの日に行われる働きや表される真理をなぜ前もって明かされなかったのだ。もしかして主イエスには人類を裁き刑罰ができなかったのか。もしかして人に真理といのちを授けることができなかったのか。主イエスの言葉を通して永遠のいのちを得ることはできないのか」これらの問題に関して多くの人には十分な理解がどう見ても欠けていますが、神の働きの各段階にはそれ固有の本質と内容が含まれ、どの段階の働きも何らかの成果を実現させるということを理解しなくてはなりません。ですから、神の働きのそれぞれの段階で表されている真理の全ても、神が語られる御言葉も全て意味があり、それぞれの目的があるのです。それらは全て特定の成果を実現させるためのものです。神の働きの各段階で表された御言葉は全て、神の働きの全てを主題とするもので、意図した成果を実現させるために語られます。神はご自身の働きと無関係なことは仰せられません。これが神の働きと御言葉の原則なのです。主イエスがなされた働きは全て贖いの働きであり、終わりの日における神の裁きの働きではありませんでした。ですから、主イエスが表された真理は全て、主の贖いの働きを主題とするもので、終わりの日に全能神が人を清めて救い完全にするために表される真理の全てと異なります。それゆえに、終わりの日に全能神が表される真理の全てだけが、人を清め救い完全にすることができる永遠のいのちの道だと言えるのであり、一方で主イエスが表された真理の全てはただ人類を贖う真理なのです。主が表されたのは、人類の悔い改めの道に過ぎません。神の働きには計画があり、段階があるからです。神が各時代になさるべきことは何であれ、どれも計画されています。神の計画は変わることができませんし、神はご自身の計画をご自身の働きで混乱なさることはありません。同様に、律法の時代にヤーウェ神がなさったのは、人類の必要とご自身の働きの計画に従って人類の地上での生活を導くための律法を発布することだけでした。神はただ地上での人類の生活を導く働きをされていたのです。後に主イエスが到来なさり恵みの時代を始められ、「悔い改めよ、天国は近づいた」と悔い改めの道を示し、ご自身の十字架刑を通して人類を贖う働きを行われました。そして終わりの日に全能神が到来し、人類を清めて救うための全真理を表されます。神の家から始める裁きの働きを行い、前の時代を終わらせて神の国の時代を開かれています。このことから分かるのは、神がどの時代に何の働きを行われても、どの真理を表す必要があっても、それは全て計画的かつ原則的だということです。神の働きは構造があって一歩一歩進むもので、その段階は全て互いに補完し合います。神の働きのどの段階も、人類の必要と人類の実際の霊的背丈、神が予定された采配に基づいています。主イエスが贖いの働きを行われていたとき、人は神のことも神の働きのことも知りませんでした。ただ神が天地万物を創造されたことを認め、神の律法と戒めに従うことしか知らなかったのです。そのため主イエスは、恵みの時代に人類を贖う働きを行われたとき、「悔い改めよ、天国は近づいた」と悔い改めの道を示されただけでした。それは人が神の御前に出て、自分の罪を告白して悔い改め、犯した罪の全てを神に認めて、神に赦しと救いを求められるようにするためでした。また、人が神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神の恵みを全て享受できるようにするためでもありました。これらが、神の贖いの働きによって既に実現した成果です。長年の信仰の末に自分が犯した罪が全て本当に神に赦されたことに認めることができる人は少なくありませんが、彼らの本来の罪深い本性はやはりそのまま存在し、深く根差しているため、依然としてこの罪深い本性に支配され、しばしば罪を犯して神に抵抗しています。罪の縛りから脱却して清めになっていないのです。これは誰もが事実として認めることです。それでは、罪を赦された私たちのような信者は、本当に永遠のいのちの道を受けたのでしょうか。罪の赦しとは、私たちは清められたということでしょうか。本当に救いを得て、神の称賛を受けたという意味でしょうか。これらの成果が実現できないなら、主への信仰を通して永遠のいのちの道を受けたとどうして言えるのでしょうか。そんなことを敢えて言える人などいるでしょうか。主イエスがなされた働きは贖いの働きであり、主が説かれたのは悔い改めの道でした。主の働きは明らかに、終わりの日における裁きの働きの準備をすることでした。それでは、主イエスを受け入れることによって、私たちはただ罪の赦しを得たに過ぎないのです。本当に永遠のいのちを得てはいないのです。再臨された主イエスが行われる終わりの日の裁きの働きを受け入れることができれば、清められ、神の称賛を受け、そうして初めて本当に永遠のいのちを得た者となるのです。主イエスを信じても罪を赦されるだけで、神に祈って神の恵みを享受することしかできません。これらは単に主イエスの贖いの働きを通して実現した成果なのです。主イエスの働きを理解していない人がたくさんいます。彼らは、主イエスが贖いの働きを終えられ、自分たちが主を信じることによって罪を赦されたのだから、神の救いの働きは完結したという印象を持っています。一つのことが行われたから全てが完結したと思っています。これは大きな間違いです。もしこれが事実なら、なぜ主イエスは戻って来ると仰せられたのでしょうか。多くの人は、主イエスが再臨なさったら実際にどのような働きをなさるのかを知りません。これは神の働きについての認識が欠けています。彼らはただ人間的な観念と想像に頼りながら主イエスの働きを理解しています。私たちがただ主を信じることで永遠のいのちを得られ、それだけで天国に入れると思い込んでいます。これらは人の観念と想像ではないでしょうか。
今や、終わりの日に再臨された主イエスが行われた働きによってのみ人は永遠のいのちを得ることができることをおそらく誰もが知っています。これ以上本当のことはありません。ではなぜ人に永遠のいのちの道を授けることは終わりの日のキリストにしかできないのでしょうか。もしかすると主イエスには授けられないのでしょうか。そんな話はもってのほかです。主イエスが神の受肉であり、主ご自身が真理、道、いのちであり、主自身が永遠のいのちの道を持っておられるという点を、私たちは明確にしておかなくてはなりません。それではなぜ主イエスを信じるだけでは永遠のいのちを得られないのでしょうか。人に永遠のいのちの道を与えることができるのはなぜ終わりの日のキリストだけなのでしょうか。これは神の働きによって実現した成果におもに基づいています。周知の通り、主イエスは恵みの時代に贖いの働きしか行われませんでした。そのため私たちは主を信じるようになってからは罪を許されましたが、未だに自分自身の罪深い本性で動いており、どうしても頻繁に罪を犯し、神に抵抗してしまいます。私たちは罪の束縛から脱却して清くなることができず、神の御国に入る資格がありません。このことから、主イエスの人類を贖う働きが人類を徹底的に清めて救う働きではなかったことが十分証明されます。再臨された主イエスが行われる終わりの日の裁きの働きだけが、人類を清めて救うことができるのです。主イエスはそのため、再臨されることを次のように預言されたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)。主イエスの預言は既に成就したのです。即ち、全能神は神の家から始まる裁きの働きを終わりの日に行い、人類を清めそして救うための全真理を表されています。これらの真理が、終わりの日に神が人に授けられる永遠のいのちの道です。裁きによって、全能神は表される全真理を人類に向けて作用させ、それらが人類のいのちになるようになされます。神は正当な理由がない限り真理を表されません。神が人類を裁き暴露するために真理を表されるのは、人の様々な観念や想像に対してであり、神に逆らって反抗する人の本性と本質に対してであり、人の様々なサタン的性質に対してであります。神の選民が真理を受け入れる過程は、裁きと刑罰を受けて精錬の苦しみに遭う過程であり、清められて救いを得る過程です。それゆえに、終わりの日に神の裁きと刑罰を受ける者はその一人ひとりが多くの真理を理解しているのです。彼らは、神に抵抗し裏切る自分自身の堕落した本質を本当に自覚しており、神の聖なる本質と義なる不可侵の性質も理解しています。神に対して真の崇敬と従順の心を持ち、誰もが神から真理といのちを受けています。神によって勝利者にされたのです。この人々の一団は、大きな患難をとおって勝利者になると黙示録において預言された人々です。このことから、神の裁きと刑罰を受ける過程において選民が完全に清められるには多くの困難に遭う必要があることが示されます。それは簡単なことでありえるでしょうか。真理を自分のいのちとして受け入れるのはたやすいでしょうか。彼らは多くの苦難に遭わなくてはならず、これらの苦難は全て、神の裁きと刑罰を経験することなのです。全て真理を自分のいのちとして受けるために苦しんでいます。そうした経験は全て臨死体験と呼べるものであったり、完全な変化を体験することに似ています。これらの人々が大きな患難をとおって勝利者になるとき、一体どのようないのちを得るのでしょうか。それこそが、終わりの日のキリストの裁きの働き全てによってもたらされる永遠のいのちの道なのです。
恵みの時代には主イエスが贖いの働きを行われましたが、この働きは人々に「悔い改めよ、天国は近づいた」という道しか与えませんでした。終わりの日には全能神が到来し、主イエスがなさった贖いの働きを土台として、人類を清めて救うための全真理を表されています。堕落した人類をサタンの支配下から徹底的に救い、人が自分の罪から、自分の汚れや堕落から解放されて本来の人らしさに戻るように働かれています。こうして人類は神の御前に生きることができ、神に従い崇拝する者になることができ、人類を救う神の経営計画が完結します。従って、終わりの日に全能神の裁きの働きを受け入れることによってのみ、清められて救われ、天の御国に入ることができるのです。ここまでお話しすれば、なぜ人に終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を授けることができるのかはもう誰にでも分かるはずです。
「脚本に関する質問への回答」より引用
主イエスは受肉した神様であり、神様の出現です。主は言われました。「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネによる福音書 11:26)。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネによる福音書 4:14)。「御子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハネによる福音書 3:36)ともある。これらの言葉は真理であり、事実を語っています。主イエスは受肉した神様ですから、神様の本質と身分を持っています。御自身が永遠の命の道なんです。主イエスの言葉や行いは、神様の命の自然な現れです。表されることはすべて真理で、神様の本質なんです。主イエスこそ永遠に尽きない命であり、その道を与えることができるんです。死者を生き返らせることもできます。主を信じることで唯一の神を信じ、永遠の命を得る。それは確かです。主イエスによるラザロの復活がよい証しでしょう。私たちは主イエスの権威によって永遠の命の道を得ます。それでは、なぜ主は永遠の命の道を、恵みの時代にくださらなかったんでしょう?主イエスが来られた理由が、十字架にかけられ人類を贖うためだったからです。終わりの日の清めと救いの働きをされるためではありません。主による贖いの働きは人の罪を赦すためのものです。ですから、人のサタン的な本性と性質を取り去れませんでした。つまり、主を信じると、私たちは罪を赦されますが、サタン的な性質はそのままということです。だから、私たちはまだ罪を犯し、神様に刃向かってしまうんです。これを前提に、はっきりさせておきましょう。主イエスが恵みの時代にされた贖いは、終わりの日の裁きの働きの道を開きました。ですから、主は贖いの働きを終えたあと、再来を約束されたんです。主は言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)主の御言葉からも分かるとおり、人を清め救うための真理が示されるのは、終わりの日の主の再来のときなんです。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。」これは終わりの日に、全能神が人類を清め救うために、表される真理のことです。これは諸教会への聖霊の御言葉です。終わりの日に神様が授ける永遠の命への道です。だから恵みの時代には、永遠の命への道を得られなかったんです。また主は言われました。「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」聖書に「御子を信じる者は永遠の命をもつ」ともある。実は、主がこうおっしゃったのは、自身が神様の出現であると証しするためです。永遠の命を授けることができると。主イエスを信じる者は決して死なないという約束は、神様の権威を証しするものです。神様自身が永遠の命の道であり、永遠の命を授けられる、人が主イエスの働きで永遠の命を授かったということではありません。皆さんは、もうお分かりですね?でも宗教界では多くの信者が、罪が赦されさえすれば、永遠の命が得られると信じています。神様の御言葉に、そう信じる根拠がありますか?主イエスはそんなことはおっしゃっていません。ここでちょっと考えてみましょう。人間の想像や観念によると、罪が赦されれば、天国で永遠の命を得られます。ではなぜ主は何度も再臨の預言をされているんですか?なぜ主イエスは弟子たちにあんなに多くの預言と例え話をしたんでしょう?預言や例え話は、主が再臨で達成される事柄です。長年主を信じる者も、これをよく理解できていません。人が主を受け入れても、その再臨を受け入れないなら、どうなるでしょうか?主を裏切ることになりませんか?主はこう言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:21-23)。御言葉は今完全に成就しました。主イエスを受け入れても、その再臨を受け入れないなら、それは御子を信じることですか?それは主を裏切ることです。真に御子を信じるとは、主を信じるだけでなく、その再臨を受け入れること、終わりまでキリストに従うことです。それでこそ永遠の命を得られる。主イエスを信じるだけで、全能神を受け入れない者は、主イエスを裏切っているんです。主を信じても、最後まで神様に従わないのなら、信仰虚しく、道を外れて、転げ落ちるでしょう。このような者は主イエスの名前を受け入れるだけで、その再臨を受け入れないため、悪しき者と主は断じられます。そして言われました。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」どうですか?主の名を呼ぶばかりで断罪され、主に追い払われたような人が永遠の命を得られますか?間違いなく何も得られません。むしろ地獄に落とされ罰せられるでしょう。これは神様の義にして聖なる性質の現れです。
恵みの時代に、人が主イエスを受け入れた時、人間は罪を赦され、神様に祈り、恵みと祝福を受ける資格を得ました。それなのに人間は、いまだに罪深い本性に縛られて、罪にまみれて生きています。主の御言葉を実践できず、神様に服従し、畏れ敬うこともできません。いまだ神様に嘘をつき欺きます。富と名声を求め、金銭をむさぼり、世の流れに追随します。神様の働きが人の観念に沿わないと、とくに人は神様を責め、裁き、抵抗さえする。こんな人は真に悔い改めることさえできない、主に認められることがあるでしょうか?たとえ多くの人が主に従って主の証しをし、主のために命をも捧げることができ、心から悔い改めていたとしても、堕落した性質は実際に清められたでしょうか?彼らは本当に主を知っていますか?サタンの影響から解放され、神様に迎えられましたか?それはありません。周知の事実です。それが証拠でしょう。恵みの時代の主の働きは、単なる贖いの働き、終わりの日の救いと完成への働きではありません。恵みの時代に主が発した御言葉は、どう悔い改めるかだけであって、永遠の命への道ではありません。だからこそ主イエスは戻ると言われたんです。主イエスの再臨は、人に真理を示し、永遠の命を与えるためです。人がサタンの影響から解放されて、命の真理を見出し、神様を知って従い、畏れ敬い、御心に沿うようになり、天国で永遠の命を得るためです。終わりの日、全能神は主イエスの贖いの働きをもとに、神の家から始まる裁きの働きに着手され、人類を清め救うための真理を示されました。神様の義にして威厳のある侵しがたい性質を示されました。サタンによる人の堕落を裁いて暴かれました。神様への反抗心の根源を暴き、人に神様の意図と要求をお伝えになりました。同時に、人が救いを受けるために、必要な真理を明確に示されました。三段階に渡る神様の救いの働きの内幕と本質、三段階の働きの関係、神様と人の働きがどう違うか。聖書の内幕と真実、終わりの日の裁きの奥義、災害の前に人を完全にして勝利者とする奥義、神様の受肉の奥義、神様を信じ従い愛するとはどういうことか。いかに神様を崇拝し悪を避け、キリストと融和するか。有意義な人生を送る方法などです。こうした真理は、終わりの日に人類に授けられた永遠の命への道なんです。皆さん、真理と命を得たいなら、救いと清めと完全にされることを求めるなら、終わりの日のキリスト・全能神の御言葉と働きを受け入れるべきです。それが真理と命を得る唯一の方法です。
全能神の御言葉を見てみましょう。「神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。神が過去の時代に語った言葉の記録を現代に適用するのなら、あなたは考古学者であり、あなたに最もふさわしい表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過去の時代に行なった働きの痕跡を信じており、神がかつて人の間で働いた際に残した神の影しか信じておらず、神がかつての信者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神による今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表わしている真理の道を信じていない。ゆえに、あなたが完全に浮世離れした空想家なのは間違いない。今、人にいのちをもたらすことのできない言葉になおも固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]である。あなたは保守的に過ぎ、あまりに強情で、理知に無頓着だからである」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)
「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)
「キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)
終わりの日のキリスト・全能神が人類を清め救うすべての真理を示されました。その御言葉は神様が与えてくださる糧のすべてです。神様のくださる糧が私たちの目を開き、知識を広げます。キリストは真理であり、道であり、命であることが分かります。キリストこそ永遠の命への道です。神の国の時代に神様が発した言葉は、律法の時代と恵みの時代の言葉をはるかに超えています。とりわけ、『言葉は肉において現れる』の「全宇宙への神の言葉」では、神様は全人類に初めて自身を表されました。全人類をお造りになった創造主のご発言を、人類が聞くのも初めてのことです。全世界に衝撃が走り、人は目を開かされた、これこそ終わりの日の白い玉座での裁きの働きです。この時代は神様が裁きの働きをされ、神様の義なる性質がすべての人類に表される時代なんです。神の国の時代には、神様は御言葉を示し、人を裁き、清め完全にします。災害をもたらし、善に報い悪を罰します。そして神様の義と威厳と怒りが人に露わにされるんです。全能神が表す人を清め、救い完全にする真理はすべて、終わりの日に人に与えられる永遠の命の道です。神様の玉座から流れる命の水なんです。ですから、信仰の中で永遠の命への道を授かり、天国へ引き上げられたいのなら、終わりの日のキリスト・全能神の裁きの働きを受け入れるべきです。全能神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れるんです。それでこそ聖霊の働きを受け、真理を理解し、受け取って、人間は清められ、救われるんです。終わりの日に全能神の裁きと刑罰を受けた人だけが、神の国に入る資格を得ます。これは間違いない事実です。私たちが自分の宗教的な思い込みに固執するなら、最後に失うものは大きくなります。賢い乙女は神様の言葉を聞き、真理を求めます。でも愚かな乙女は聖書の記述と勝手な思い込みや想像に頼るだけです。神様の声に耳を傾けず、真理も求めません。ある日突然大災害に見舞われ、泣いて歯ぎしりしても、後悔しても、手遅れでしょう。つまり全能神を受け入れない人はすべて、災難を被り罰せられるんです。神様のご意思は誰にも変えられません。特に終わりの日の全能神の働きをはげしく非難する人は、すでに暴かれています。彼らは終わりの日の反キリスト、このような人々は永遠の懲罰を受け、神様に会う機会を失うでしょう。確かなのは、全能神の働きが人を種別に振り分け、行く末を決め、時代を締めくくることです。私たちは今全能神の終わりの日の働きを受け入れ、真に神様の恵みと慈悲を受けます。これは神様から受ける最高の喜びです!私達は皆、全能神に感謝すべきです!
『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用
脚注
a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。
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