災い転じて福となす

ドゥ・チュアン(日本)

全能神は言われます。「人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう!……神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。この御言葉はわたしの人生を正確に描いており、心から感動します。

わたしは貧しい農村の家庭に生まれ、ずっと人に見下されてきました。家族は貧しく、次の食事がどこで手に入るかわからないこともありましたし、着るのはいつも姉のお古でだぶだぶでした。クラスメートもみんなわたしのことをからかい、仲良くしてくれる人は誰もいません。本当につらい子ども時代でした。そのころからわたしは決意していました。大きくなったら絶対にお金を稼いで素晴らしい人生を送ろう、そうすれば誰にも見下されない、と。我が家にはお金がなかったので中学校を卒業する前に中退せざるを得ず、地元にある医薬品会社の工場で働くことになりました。少しでもお金を稼ごうと、夜の10時まで残業したものです。その後、姉が野菜を売ることで、わたしの月給と同じ額を5日間で稼いでいると聞き、すぐに医薬品工場を辞めて野菜を売ることにしました。結婚後は夫とレストランを開きました。レストランを経営してもっとお金を稼げば裕福で立派な生活を送れるし、他の人たちに羨まれ、尊敬されると考えたのです。しかし、その業界の競争は厳しく、わたしたちはお金を節約しようと給仕を1人しか雇いませんでした。わたしはあらゆる仕事をこなし、厨房と店内のあいだを駆け回っていました。時には疲労のあまり立っていることもできません。政府の役人が来ることもあるのですが、決して代金を払わず、ありとあらゆる罰金や税金を課してきました。口実を見つけて罰金を課し、1日分の稼ぎを持ち去っていくこともあったくらいです。本当に腹が立ちましたが、中国でわたしにできることは何もありません。ただうなだれているしかないのです。これほど必死に働いても、稼ぎは少ないままでした。しばらく事業を続けていると不安になり始め、「いつになったら大金を稼いでよい暮らしを送れるのだろう?」と思ったものです。

2008年、日本で1日働けば、中国の5日分の給料を稼げると友人が教えてくれたのですが、わたしはそれを聞いて胸躍らせました。やっとお金を稼ぐチャンスが見つかった。日本に向かう仲介業者の料金は高額でしたが、「蒔かぬ種は生えぬという言葉もあるし、日本で仕事を得られさえすれば、そんなお金すぐに稼げる」と思いました。そこで夫とわたしはその夢を追い、すぐに日本へ行くことにしました。日本では毎日13時間から14時間働き、本当にくたくたでした。仕事が終わると横になって休みたいとしか思わず、何も食べたくありません。背中の下のほうがいつも痛むのですが、病院に行く余裕などないので、痛み止めで我慢していました。苦痛に耐えていただけでなく、上司には叱られ、同僚にはいじめられていました。あるとき、慣れない仕事をしていてちょっとしたミスをしました。上司に激しく叱られ、わたしは動揺のあまり泣いてしまったのですが、他に何ができるでしょう。このままお金を稼げるよう、気持ちを押し殺すしかありませんでした。そして自分に、「今はつらいけど、お金を稼げば胸を張れるし、卑屈になる必要もない。だから我慢しなきゃ」と何度も言い聞かせたものです。そうしたわけで、馬車馬のように毎日必死に働き続けました。ところが2015年、重労働による過労から、思いがけず病気になってしまいました。病院に行って診察を受けたところ、椎間板がずれて神経を圧迫しており、このまま働き続ければ寝たきりになって自分の面倒も見られなくなると、医者から言われました。まさに青天の霹靂で、全身から一気に力が脱けました。生活が好転して自分の夢に近づきつつあったのに、結局身体を壊してしまった。わたしはそれを受け入れられず、こう思いました。「自分はまだ若い。歯を食いしばればきっと乗り越えられるはず。今お金を稼がず、両手が空っぽのまま中国に戻るなんて、屈辱的なことじゃない?」。そこでわたしは歯を食いしばり、悲鳴を上げる身体を引きずるようにして働き続けました。痛みがひどくなっても湿布を貼るだけで、そのまま頑張りました。一日ずっと働くと、苦痛のあまり夜は寝られず、寝返りさえ打てません。数日もすると、ベッドから這い出ることもできないほど体調が悪化してしまいました。

ベッドに横たわりながら無力さと孤独を感じ、「自分はこんなに若いのに、どうしてこういうことになったんだろう? 本当に寝たきりになってしまうの?」と思いました。表現しがたい悲しみを覚え、こう自分に問いかけることしかできません。「人は結局何のために生きているの? 本当にお金を稼いで傑出するため? お金があれば本当に幸せになれるの? お金を稼ごうと必死になっているけれど、本当にそれだけの価値があるの?」。工場で働き、野菜を売り、レストランを経営し、日本に働きに来るなど、わたしは30年近く身を粉にして働いてきました。そうする中でいくらかお金を稼ぎましたが、惨めさも数多く味わいました。最初は、日本に来たことで夢が叶う、一夜で大金持ちになり、人も羨む生活を送れると考えていました。しかしそうなる代わりに、わたしはベッドから出られず、残りの人生を車椅子の中で送ることになるかもしれません。そう考えると、お金を稼いで偉くなろうと必死になったことがとりわけ悔やまれ、苦悩と惨めさと悲しみを感じました。そして泣かずにはいられなくなり、心の中でこう叫びました。「天よ、わたしを救ってください!わたしの人生はどうしてこんなにつらく、疲れ果てるものなのですか?」

無力さと苦痛を感じていたまさにそのとき、神による終わりの日の救いがわたしのもとに届きました。偶然のきっかけから、神を信じる2人の姉妹と出会ったのです。彼女たちと神の御言葉を読み、真理に関する交わりに耳を傾けることで、万物は神によって創られ、神が全宇宙を支配し、すべての人の運命は神の手中にあり、神が人類をずっと導いて糧を施し、常に人類を見守り保護してくださることを理解しました。しかしそれでも、わからないことがありました。わたしたちの運命は神によって支配され、神はずっとわたしたちを導き、守ってこられたのだから、わたしたちは幸せなはず。そうであれば、今なお病気や痛みに苦しむのはどうして? 人生はなぜこんなにつらいの? この苦痛はいったいどこからやって来るの? わたしはそうした疑問を2人の姉妹にぶつけました。

すると、チン姉妹が全能神の御言葉をいくつか読んでくれました。「人間が生涯にわたって耐える、出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何が根源なのでしょうか。これらのことが人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したかというと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、これらのことは、何に由来するのでしょうか。この苦痛は、人間がサタンによって誘惑され、肉体が堕落したあとで発生しました。人間の肉の痛みや苦しみ、虚無感、人の世における極度の悲惨な出来事といったことは、サタンが人類を堕落させて初めて生じました。人間がサタンによって堕落させられた後、それは人間を苛み始めました。結果として人間は一層堕落してゆき、人間の病はますます深刻になり、人間の苦しみは一層激しくなりました。人々は人の世の空虚感と悲劇をますます感じ、生き延びる術がなく、ひとかけらの希望もなくなったのですこの苦しみはサタンから人間にもたらされたものです(『終わりの日のキリスト講話集』の「神が世俗の苦しみを味わうことの意義」)。そしてこう交わってくれました。「神が人を創られたとき、人は神に付き添われ、気遣われ、守られていました。出生、老化、病気、死といったものはなく、不安や悩みもなかったのです。人はエデンの園で何の心配もなく暮らし、神によって授けられ、享受することのできるすべてのものを享受していました。神の導きのもと、幸せと喜びに満ち溢れながら生きていたのです。しかしそのとき、人はサタンに騙され、堕落させられてしまいます。サタンの嘘を信じ、罪を犯して神を裏切ったため、神の気遣いと加護を失いました。それ以来、わたしたちはサタンの支配下で暮らしており、闇に陥っています。苦労、不安、苦痛、悲しみの人生を送っているのです。サタンは数千年にわたり、唯物論、無神論、進化論といった異端や誤謬、有名人や偉人が広める格言をひたすら用い、人を惑わし傷つけてきました。例えば、『この世には神も仏もない』、『運命は己の手中にあり』、『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』、『出世して先祖に栄誉をもたらす』、『人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす』、『金があれば鬼にひき臼を回させることができる』などです。こうしたサタンの誤謬を受け入れた人は、神の存在と支配を否定し、神から距離を置き、神を裏切ってきました。ますます傲慢になって思い上がり、より利己的に、狡猾に、そして意地悪くなりました。人は名声や地位や富のために陰謀を巡らせ、争い、殺人を犯します。夫婦や友人は互いに騙し合い、果ては父と子が互いに敵意を抱き、兄弟が互いに攻撃し合っています。わたしたちは正常な人間性を完全に失い、人間ではなく獣のように生きています。サタンの誤謬はあまりに多くの人を傷つけました。自分の運命を操れる、または変えられると思い、それに抗っています。始終争い続け、自分の運命を変えられないだけでなく、そう試みる中で身を滅ぼします。人類はサタンに騙され、堕落させられてしまいました。一日中苦労し、心身ともに苛まれ、ありとあらゆる病気や苦しみが生じています。そうした苦しみや不安のために、この世における人生はあまりにつらく苦労に満ちていると、わたしたちは感じています。それはどれも、サタンが人を堕落させたあとに生じたものですが、サタンがわたしたちを傷つけているだけでなく、人類が神を拒み、神を裏切ったことの苦い果実なのです」。

チン姉妹の交わりのおかげで、人の病気はサタンによるものだとわかりました。サタンが人を堕落させたあと、わたしたちは神の気遣いと加護を失い、ありとあらゆる病気や苦痛に苛まれるようになったのです。するとチン姉妹はこう続けました。「人類がサタンにもてあそばれ、苦しめられているのを見ることに、神は耐えられません。神は人類を贖って救うべく、二度受肉なさいました。最初は主イエスとして受肉なさり、人類のための罪の捧げ物として十字架にかけられ、わたしたちを罪から贖われました。主イエスを信じることでわたしたちの罪は許されましたが、罪深い本性はそのままで、いまだ完全には罪がなくなっていません。そして終わりの日、神は人類のあいだで再び受肉なさり、真理を表わし裁きと清めの働きをなさっています。わたしたちがサタンから完全に救われ、罪を捨て去り、清められ、最後は神の国へ導かれるようにするためです。神の御言葉をもっと読めば、真理を理解して識別力を身につけることができます。サタンが人をいかに堕落させるかを理解し、その悪しき本質を見抜けるのです。そうすればサタンを拒んでその支配から逃れることができ、サタンはこれ以上わたしたちをもてあそんだり、傷つけたりすることができなくなります」。わたしたちを救うべく、神が自ら来られたと聞いて、わたしは興奮を覚えました。このような形でサタンに傷つけられるのはもう嫌だと心の底から思いましたが、いったいどのようにわたしを傷つけているかがわかりません。そこで、姉妹にこう尋ねました。「わたしは偉くなって他の人の上に立とうと、必死になって働いてきましたが、そのせいで耐えがたい苦痛を負ってしまいました。それはサタンのせいなのですか?」

わたしの質問に答えて、今度はチャン姉妹が全能神の御言葉をいくつか読んでくれました。「サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法、まったく過激でない方法を用いて、それにより人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生における大志を抱くようになります。そうした人生の大志にどれほど高尚な響きがあったとしても、『名声』と『利得』に複雑に関連しています。偉人や有名人、実はあらゆる人が人生において従う事柄はすべて『名声』と『利得』だけに関連しています。人間はひとたび名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を、悦楽の追求と不徳な肉の快楽を手に入れるために利用できるある種の資本と考えるのです。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有するすべて、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。こうするのに実に一瞬たりとも躊躇することなく、引き渡したものをすべて奪回する必要にも気づかないままです。このようにしていったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。もちろんできません。人間はすっかり完全にサタンに支配されます。すっかり完全に泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に及ぼす名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間が生涯を通して終わりなく永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。「サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために奮闘し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てるすべての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけ、人間にはそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに人間は足かせをかけられ、大変苦労しながら歩んでゆきます(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)

御言葉を読んだあと、サタンが名声と利益を使って人を堕落させる方法に関する真理を、彼女は交わってくれました。そのとき初めて、サタンがいかに憎むべき存在かがわかったのです。サタンは正規の教育や社会的な影響を利用して、「労なくして得るものなし」、「人から立派に見られたければ、見られていないときに苦労せよ」、「金があれば鬼にひき臼を回させることができる」といった人生哲学をわたしたちに吹き込みます。そうした人生哲学に惑わされた人は、お金がなければ生きられず、ひとたびお金持ちになればみんなから尊敬され、威厳を持つようになるけれど、貧しい人には価値がないと思います。人が命がけでお金や名声や利益を求め、どんな結末が待っているかにかかわらず、全力でそれらを得ようとするのは、それが理由なのです。人はますます堕落し、人生も苦痛に満ちたものになります。これは、サタンが人を束縛するために用いる足かせであり、わたしたちを堕落させるサタンの策略でもあるのです。人の上に立とうと躍起になり、他人に尊敬されるべく必死になってお金を稼いでいたわたしは、お金を生み出す機械になってしまいました。欲望が膨らんで満足することが決してできず、健康を損なって初めて立ち止まらざるを得ませんでした。お金と名声と利益の奴隷になり、名声と利益を追い求めたせいで、人生が疲労に満ちたつらいものになったのです。それらをずっと求めたことで、わたしは苦痛に圧倒され、結局身体を壊しました。この苦しみはすべて、サタンに傷つけられ、堕落させられたことが原因です! 神の御言葉による啓きがなければ、サタンがお金と名声と利益を使って人を堕落させることを知らず、まして名声と利益が人間に対するサタンの足かせだとはわからなかったでしょう。

その後、チン姉妹が何度も来て、わたしと交わりをしてくれたのですが、時間が経つにつれ、サタンが人を堕落させるために用いる戦術がわかってきました。また、一番大事なのは何かも理解するようになりました。それは神の御言葉を読むこと、真理を追い求めること、そして神の支配と采配に従うことです。それ以上に有意義で幸せな生き方はなく、これが神に褒めていただく唯一の方法なのです!

ある日、ご主人と一緒に日本へ来て、必死にお金を稼ごうとしている同僚がいることを知りました。その夫妻は多少のお金を稼いだのですが、やがてご主人が体調を崩し、治療のために中国へ戻らざるを得なくなりました。結局末期の癌と診断され、家族は恐怖と悲しみの中で暮らしていたのです。わたしはその不幸を通じ、自分たちのはかなさといのちの大切さを実感しました。いのちがなければ、お金があったところで何になるでしょう? お金でいのちが買えるでしょうか? その後、わたしは次の全能神の御言葉を読みました。「人々は、金銭と名声を追い求めて人生を過ごします。それらがあれば、生き長らえて死を免れるとでもいうように、金銭と名声が唯一の支えだと考え、それらの藁にしがみつくのです。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独で無力であり、進退窮まった状態にあるかを悟ります。人間は、いのちは金銭や名声で買うことができないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死を前にした人間は皆同様に貧しく取るに足らない存在であることを悟ります。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭や名声では、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを悟ります(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉のおかげでさらに理解することができました。神を信じず、真理を理解することもなければ、サタンの企みを見抜けず、サタンがお金と名声を使って人を堕落させることもわからない。抜け出すことのできないこの渦に飲み込まれ、否応なくサタンに騙され、傷つけられ、自分のいのちをも台無しにしてしまいます。あまりに悲劇です。わたしは神を信じ、神の御言葉を多数読んだおかげで、そうしたことをやっと理解するようになりました。神を信じず、神の御言葉を読んでいなければ、サタンの堕落を振り払うことはできなかったでしょう。闇と苦痛の中であがくばかりで、そこから抜け出せなかったはずです。

わたしが身体を壊していたとき、教会の姉妹が何度も訪れ、わたしの苦痛を和らげようとしてくれました。また家事もしてくれましたし、自分の家族のようにわたしの面倒を見てくれました。外国にいたわたしは、姉妹たちの熱心な気遣いに深く感動して、ますます全能神に感謝しました。神の気遣いと加護によって、知らぬ間に体調もよくなりました。

その後、わたしは全能神のこの御言葉を読みました。「人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう! 人が自分の運命に対して消極的な姿勢でいる場合、それは、神が彼らのために用意したあらゆる物事をその人が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味します。神による人間の運命の統治に対して、人が能動的な姿勢でいるならば、人が自分の旅路を回顧し、神の統治を真に把握するようになった時、人は神が用意した物事のすべてに従うことを一層真剣に望むようになるとともに、人の運命を神の指揮に委ね、神に反抗することを止めるということに一層強い決断と確信を得るでしょう。運命を把握することもなく、神の統治を理解することもなく、霧の中を敢えて苦労してよろめきながら手探りでさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かります。したがって、人の運命への神の統治を人々が認めた時、賢明な人は、それを知り、受け容れて、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別することを選び、運命に逆らい、いわゆる『人生の目標』なるものを自らの方法で追い求めることを止めます。神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉は実に実践的で、一つひとつの文章がわたしの心の奥底に語りかけてきます。神の御言葉から、神は創造主であり、わたしたちはその被造物なのだと理解できます。一人ひとりの人生は神の手中にあり、神の支配と采配の下に置かれています。わたしたちが人生で得るものはすべて神の支配下にあり、神によって予め定められています。あちこち駆け回ることが決定要素では決してないのです。神が授けられるだけのものを、わたしたちは手にします。神が何かを授けられないのであれば、わたしたちがどれほど頑張っても無駄です。まさに、「人は種を植える。しかし収穫を決めるのは天である」、「人が提案し、神が取り決める」といった言い回しのとおりです。わたしたちは人生において、創造主の支配と采配に従わなければなりません。これが幸せな人生の秘訣なのです! わたしはまた、お金と地位が世俗に属するものであることも認識しました。名声と利益の追求に自分自身を捧げても、最後に得られるのは空しさと苦痛だけで、最終的にはサタンに食い尽くされます。「労なくして得るものなし」といったサタンの哲学で生き、お金と名声を追い求めていたことを振り返ると、自分は幸せな人生を送れるし、他者に尊敬され、羨望のまなざしで見られると思っていましたが、その代わりに得るのが痛みと苦しみで、平穏や幸福を得られないとは思いもしませんでした。神の御言葉を読んだ今、神の御旨がわかります。自分の運命を争うのはもう嫌で、名声と地位を追い求めようとはこれっぽっちも思いません。そのような人生はもうほしくありません。わたしは人生の違う道を歩もうと決意し、残りの人生を神の手による采配に委ね、懸命に神に従い、自身の本分を尽くすことだけを望みました。

信仰により多くの時間を割いて集会に出るため、わたしは以前の仕事を辞めてより簡単な職に就きました。働いていないときはよく神の御言葉を読みますが、読めば読むほど心が明るくなります。また、人が罪を犯す根源もわかり、神はどのように人類を一歩一歩救うのか、人は何のために生きるべきか、有意義な人生を送るにはどうすればよいかを理解しました。そして兄弟姉妹としばしば集まり、自分たちの経験を分かち合ったり、神の御言葉の賛美歌を練習したりしています。今、わたしの人生はとても幸せです。以前ほど稼いではいませんが、それまで感じることのなかった穏やかさと心の安定を感じています。今振り返ると、まさに「災い転じて福となす」だったのです! これはまさに、わたしに対する神の救いです。

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