名利の足枷

スペイン竭力 ジェイリー

全能神は言われます。「サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために奮闘し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てるすべての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけ、人間にはそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに人間は足かせをかけられ、大変苦労しながら歩んでゆきます。この名声と利得のために、人類は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。このようにして世代を追うごとに人間はサタンの名声と利得の只中で破壊されてゆきます。サタンの行動を検討すると、サタンの邪悪な動機は、極悪非道ではありませんか。あなたがたはいまだに人は名声と利得なくしては生きてゆけないと考えているので、サタンの邪悪な動機を見抜くことができないかも知れません。名声と利得を捨て去ったら、将来が見えなくなり、目標を見失い、将来が暗く陰鬱になってしまうと人は考えています。しかし、ゆっくりとではありますが、名声と利得はサタンが人間を束縛するために用いる非常に重い足かせであると、やがてあなたがた皆が気づく日が来ます。その日が来れば、サタンの支配と、サタンがあなたを束縛するために使う足かせをあなたは徹底的に拒否します。サタンがあなたに吹き込んだあらゆる物事を捨て去りたいと望む時が来ると、あなたはきっぱりサタンと訣別し、サタンがあなたにもたらしたものすべてを心から嫌悪します。その時になって初めて、人は神への真の愛と思慕をもつのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉に関して私の経験を紹介します。

2015年、私は教会のリーダーに選ばれました。とても興奮して、数多くの兄弟姉妹の中からリーダーに選ばれたのは、自分が他の人より優れているからだと思った。その後、リーダーである私に、兄弟姉妹はいのちの入りのための助けを求め、チームリーダーは自分たちが直面した問題を相談に来ました。私は優越感を感じずにはいられず、傲慢な態度で胸を張って歩きました。集会では自信に満ち溢れていました。しばらくして、同労者の劉姉妹が明確に真理を交わり、解決のために問題の根源を把握できることに気づきました。実践の道も指摘し、皆が彼女の交わりに聞き入った。私は尊敬しつつも、羨ましくもあった。彼女に負けないために、集会の前には入念に準備しました。どうすれば効果的に光のある交わりができるか頭をひねった。彼女よりも優れていると思われたかったのです。私の交わりに兄弟姉妹が賛同するのを見て、満足し、達成感を味わっていました。その後、同労者の鄭兄弟には豊富な映画の専門知識があると知りました。そのうえパソコンも得意。撮影を担当する兄弟姉妹は、よく彼に相談していました。教会リーダーの私が補足することはありません。私はいても意味がない気がして、いら立ちました。鄭兄弟に相談するということは、私など彼にかなわない、そう思われているはず。私も映画について学ぼうと思った。そうすれば皆、私に相談しに来るでしょう。それから映画についてより多くの知識をつけるために、朝早くから夜遅くまで学ぶようになりました。教会の問題も、兄弟姉妹の状態も無視して。しばらくすると、いくつかのチームの仕事で問題が出たのですが、私は解決できずにいました。兄弟姉妹の状態が解決しないので、映画制作も進まず、さらに問題が起こり始めました。あまりのプレッシャーに息もできないほどで、とても辛かった。皆にどう思われているか心配でした。リーダーとしての能力も資格もない、そう思われれば、私の地位は危うくなるでしょう。考えが後ろ向きになりました。挫折感を味わい、もう力が出ません。落ち込んで本分を無視し、聖霊の働きも失いました。そして、何も成果を上げられずに交代させられた。そのときは恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。こう思いました。「兄弟姉妹から、能力のない偽のリーダーだと言われるだろうか」と。考えれば考えるほど、辛くなりました。

その夜は何度も寝返りを打ち、眠れなかった。何度も何度も神に祈り、自分を知るための助けを求めた。そして、神の御言葉を読んだのです。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、『わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう』と考える。……あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、自分を振り返りました。リーダーとして働くなかで、私はただ地位と名声を求めていました。劉姉妹の真理の交わりが自分より優れていると気づくと、恐れて、どうしたら彼女より優れた交わりをして尊敬と称賛を得られるか考えた。鄭兄弟に専門のスキルがあり、兄弟姉妹が彼に相談するのを見ると、嫉妬して、彼を拒絶しました。がんばって学んで、彼を追い抜こうとするあまり、チーム内の問題を無視してしまった。それらの問題を解決できなかったとき、神に頼ることも、真理を求めて交わりによって解決策を見つけることもなかった。自分の地位にとらわれていました。うまく本分を尽くさなければリーダーとしての地位を失うかもしれないと恐れていたのです。自分が本分において神の御旨に配慮せず、他の人より優れていたいという野心を満たそうとしていたことに、ようやく気づきました。兄弟姉妹からリーダーとして選んでもらったのに、教会の仕事もいのちの入りも頭にありませんでした。本分に責任を負わず、結局教会の仕事を損ねてしまった。自分勝手で卑劣でした。私は本分を尽くさず、悪事を犯し、神に抵抗していたのです! 間違った道を歩んで、地位と利益のために奮闘したことを悔やんだ。リーダーからの解任は、神の裁きでした。神は私を排除したのではなく、私が自らの態度を反省できるように、交代させたのです。神の加護であり、救いだったのです! ディボーションと反省によって状態が改善すると、教会リーダーから事務の本分を与えられた。チャンスをくださった神に感謝し、この本分を大切にすること、地位と名声を求めて神に抵抗しないことを決心した。

その経験を経て、地位と名声への願望を捨てられたと思っていた。でも私の堕落はひどすぎた。少し反省しただけで堕落した性質をなくすなんて無理。そのため神は、私を暴き救う別の状況を設定してくださりました。

数か月後のことです。教会のリーダーからチームリーダーを選ぶよう言われた。これを聞いてすぐに考え始めました。「自分も選ばれるチャンスはあるだろうか。でも仕事はできるけれど、専門スキルはないから、可能性は少ないだろう」と。そしてチームの兄弟姉妹について考えた。張兄弟は専門スキルがあり、真理の交わりも実践的。さらに、正義感があって教会の仕事を支えている。張兄弟が選ばれる可能性が高そうでした。自分が教会のリーダーだった頃は、私が張兄弟に仕事を割り当てていた。チームリーダーに選ばれたら、彼が私に指図するようになるだろう、私が劣って見えないだろうか、そう、嫌な気分になりました。選挙当日、私は心配で、葛藤を感じていました。「誰に投票したらいいだろう? 張兄弟だろうか」。兄弟姉妹のほとんど、他のチームの人々までもが、いつも彼に助けを求めていたことを思い出しました。とても立派に思えた。チームリーダーになったら、自分に勝るのでは? 張兄弟に投票したくなかったが、自分には専門知識もなく、チームリーダーになる資質もない。落胆し、落ち込みました。自分の仕事の未熟さを恨みました。その時、ひどい考えが浮かんだ。「自分がチームリーダーになれないなら、張兄弟にもならせない」。そして、専門知識の少ない呉兄弟に投票したのです。驚いたことに、それでも張兄弟が選ばれました。結果に満足ではありませんでしたが、それよりも自分が恥ずべきことをしたと思い、落ち着きませんでした。その後、神の御言葉を読みました。「そのような人は自分より優れた人を見ると、他の人々がその人を高く評価しないよう、また誰一人傑出した人がいなくなるよう、その人を押さえつけたり、その人に関する噂を流したり、何らかの卑劣な手段を用いたりします。それは傲慢さと独善性、また邪悪さ、不正直さ、狡猾さからなる堕落した性質であり、そのような人は自分の目標を達成するためには手段を選びません。このように生きながら、自分のことを偉大で善人だと考えています。しかし、このような人に神を畏れる心はありますか。まず何より、これらの事柄の特質という観点から言えば、このように行動する人はただ自分の好きなようにしているのではありませんか。神の家の益を考えていますか。神の家の働きが被る損害に関係なく、自分の感情しか考えず、自分の目標だけを達成したいのです。このような人は傲慢で独善的なだけでなく、利己的で卑劣でもあります。神の意図をまったく配慮しませんし、神を畏れる心がないことに疑いの余地はありません。自責の念も、恐怖、不安や心配も一切なく、結果を考えることもなく自分の望むことを何でもして、勝手気ままに振る舞うのはそのためです。このような人は頻繁にそうしており、絶えずそのように振る舞ってきました。こうした人たちが直面する結末はどういったものですか。彼らは困難に見舞われる、そうではないですか。寛容な言い方をすれば、こうした人たちはあまりに嫉妬深く、個人的な名声や地位に対する欲求が強すぎ、過度に不実で信頼できません。より厳しく言えば、本質的な問題は、こうした人たちに神を畏れる心がほんの少しもないということです。神を畏れず、自分が極めて重要な人物だと信じ、自分のことをあらゆる点で神より高く、真理よりも高いと見なしています。その心の中では、神はその名に言及する価値さえなく、何の意義もなく、このような人の心の中では何の地位もありません。心に神の居場所がなく、神を畏れない人は、真理への入りを成し遂げましたか。(いいえ。)では、いつものように嬉々として動き回り、絶えず忙しくしながら極めて多くの活力を費やすとき、その人たちは何をしているのですか。このような人たちは、自分はすべてを捨てて神のために費やし、大きな苦しみを受けてきたとさえ言い張りますが、実を言うと、すべての行動の動機、原則、そして目的は自分に利益をもたらすことです。自分の利益を残らず守ろうとしているだけなのです。この種の人は恐ろしいとあなたがたは言うでしょうか、それとも言わないでしょうか。どのような人間が神を畏れない人でしょうか。その人たちは傲慢ではありませんか。サタンではないのですか。神を畏れないのはどのようなものでしょうか。動物を別にすれば、悪魔、サタン、大天使、そして神と争うものはみな神を畏れません(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)。これを読んで、打ちひしがれました。選挙を思い返して、恥ずかしく感じました。私は個人的な利益のために投票した。神の吟味を受け入れず、神を敬い畏れていなかった。張兄弟は能力があり、真理の交わりも実践的です。彼がチームリーダーになれば、皆と教会の仕事のためになるでしょう。でも私は妬み、チームリーダーとして上に立たれるのを、恐れて投票しなかった。赤い大きな竜の原則に導かれてた。「独裁が失敗するなら、民主主義にも失敗させる」。赤い大きな竜は、権力を握れないなら、他の誰にも握らせません。必要であれば、両方を破滅させるのです。私も同じでした。地位が得られないなら、張兄弟にも渡さない。むしろ不適格な人にやらせて、教会の仕事がだめになれば、自分の評判が守られるのだ、と。私は利己的で、神を少しも敬い畏れていなかった。本分を尽くすあいだ、神の真理と優しさをたくさん享受したのに、神の愛に報いずに、自分の地位と名声を追い求め、サタンに奉仕し、神の働きを妨害した。私は悪事を行っていたのではないでしょうか。1年前にリーダーを降ろされたのは、私が地位と名声を求めたからです。でも同じ状況になってなお、真理ではなく名声と地位を求めています。そのままだと、私は神に拒絶されるでしょう。

後に、神の御言葉を読みました。「あなたがたは自分の地位を知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのか。あなたがたにわたしを真に畏敬する心があるならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどれほど高くても、あなたはやはり糞の中にいる小さな臭い虫ではないのか。羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか(『神の出現と働き』「落ち葉が土に還る時、あなたは自分の行なったあらゆる悪事を後悔する」〔『言葉』第1巻〕)。「なぜ神は人を『うじ虫』だと言うのでしょうか。神の目には、この堕落した人間は明らかに被造物ではありますが、人間は被造物の果たすべき責任や本分を果たしているでしょうか。本分を尽くしている人はたくさんいますが、それをどれだけ上手く表現できているでしょうか。彼らは本分を尽くすことにほんの少しも積極的ではなく、自ら進んで本分を引き受けることはまずありません。人は刈り込み、取り扱い、懲らしめを受けなければ、何もしないのです。また同時に、彼らがわずかでも信仰を持ち、わずかでも積極的になるようにさせるには、集会を開き、交わりを行ない、施すことが絶えず必要になります。これは人の堕落ではありませんか。……彼らが一日中考えていることはみな、真理や神の道に従うことと何の関係もなく、彼らは終日ガツガツ食べてばかりいて、何も考えていません。ふと思いついて何かをする気になっても、その行動は妨害や混乱を招くものです。彼らはお高くとまっていて、他の人や神の家の利益となることは一切しません。頭の中は、いかに肉に良いことを求めるか、いかに地位や名声のために戦うか、いかに自分が受け入れられ、地位と名声を得るかという考えで一杯になっています。神が授けてくださる食物を食べ、神が与えてくださるすべてのものを享受しているのに、人間がなすべきことはしていません。神はそのような人たちを好まれるでしょうか?……そして何よりも、こうしたうじ虫のような人々は、役立たずの恥知らずであり、神の目には何の価値もないのです! なぜそのような人たちに何の価値もないかといえば、それは神があなたを造り、いのちを与えたにもかかわらず、あなたは自分が果たすべき最小限の本分も尽くすことができず、ただ神にたかっているからなのです。神の目にはあなたはただのごくつぶしで、生きていても意味がありません。そのような人たちがうじ虫でないと言えるでしょうか? では、うじ虫になりたくなければ何をすべきでしょうか。まず、自分の場所を見つけ、可能な限りあらゆる手段で自分の本分を尽くすよう努めることです。そうすれば創造主に繋がり、釈明することができます。その後、自分の本分を尽くす上で、どうすれば忠誠を貫けるか考えてください。適当にどうにか切り抜けるようではいけません。そうではなく、全身全霊で行うのです。創造主を騙そうとしてはいけません。神があなたに求めることは何でも行ない、心に留めて服従すべきなのです(「いのちの進歩を表す六つの指標」『キリストの言葉の記録』)

神の御言葉をじっくり考え、ひどく動揺しました。わかったのは、地位と名声を求めて争う私を、神が下劣だと考えていたことです。神の家で本分を尽くせたのは、神が引き上げてくださったから。なのに私は義務を果たさなかった。それどころか、自らの地位と名声ばかり考え、神の家の仕事を混乱させました。私はサタンの役割を演じてた。これは神がひどく不快に思い、憎む行為です。神は言われます。「身分がどれほど高くても、あなたはやはり糞の中にいる小さな臭い虫ではないのか」。まさに。私は被造物で、汚れて堕落している。価値も尊厳もありません。だから地位があっても、自分を変えられなかったのです。本分を十分に尽くせず、常に地位と名声を求めた。私の良心はどこに? 私の価値は? 私はただ価値のない存在だったのではないでしょうか。神の御言葉が暴くことから自分の本性を理解した後、私は自己嫌悪し、進んで真理を実践するようになった。

その後張兄弟のところへ行き、自分の堕落について伝え、選挙での動機と行動を明かしました。彼は私を見下さないばかりか、自分の経験を共有して助けてくれた。交わりの後、2人の間の壁は消え、私は解放され、安心できた。それからは、本分で困難があるたびに、張兄弟に相談しました。彼はいつも忍耐強く質問に答えてくれた。まもなく私の専門スキルも向上した。名声と地位を手放すと、本分で安心と平安を体感し、より神に近づきました。再び名声と地位の足枷から逃れ、神の救いを味わえたのです。

2017年10月、教会の選挙が始まり、私は候補に推薦されました。少し不安になり、こう思いました。「リーダーを降ろされてから2年以上経ち、皆が私を評価しているそうだ。私の交わりはより実践的になったという。今回はリーダーになれるのだろうか」また自分が地位と名声を求めていることに気づいた。そして、その追求がどれだけつらいかを思いました。もうやめて、肉に背いて真理を実践すべきです。神の御言葉を思いました。「サタンのものである威信や地位を捨て去れれば、もうサタン的な考えや見方に囚われたり、だまされたりすることもなくなるでしょう。あなたは解放感を覚え、安堵感が増していき、自由になって解放されるのです。自由になり解放されると、自分が捨てたものは単なる足手まといに過ぎず、真に得られたものが自分にとって一番大事なものなのだと感じられるようになります。それらが一番貴重であり、大切にするかいがあると感じるようになるのです。以前あなたが好んでいたもの、つまり物質的な喜び、名誉や富、地位、金、評判、他人の評価といったものは無価値に思えるようになり、それらによって多大な苦しみを味わってきたため、もう欲しいとも思わなくなります。より高い名声や地位を与えられたとしても、もうそれを欲しいとは思わなくなり、むしろ心の底からそれらを憎み、拒絶するようになるのです(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。気持ちが明るくなり、もう名声と地位に価値を感じなくなった。真理を実践すること、被造物としての本分を尽くすことが、大事なのです。選挙に参加する意義とは、地位を争うことではなく、自分の責任を果たすことです。自分の野望を手放し、真理の原則に沿って投票しなければならなかった。それが教会の仕事に利益をもたらす。自分がリーダーになったなら、しっかり尽くさなければなりません。リーダーにならなくても、神を責めず、できる限り力を尽くします。選挙に対する心構えを正したら、驚いたことに、リーダーに選ばれました。この結果を見て、以前のように喜んだり、人より優れていると思ったりもせず、自分の責任を感じ、真理を求めて本分をしっかり尽くさなければと思いました。神の救いを受けるにふさわしい存在となるために。

この3年間、神の裁きと刑罰は、地位と名声が引き起こす害を示してくれた。真理を求める決意が固まった。時おり同じ考えを露わにしても、神に祈り、真理を実践して本分に集中できます。もう堕落した性質に縛られません。名声と地位を手放したときに、手放したものはそれだけではなかった。サタンにはめられた足枷も手放したのです。今では落ち着き、解放されています。

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