神を知る(2)

日々の神の御言葉 抜粋 31

神は人を創造した後、すぐに人と関わって人に話しかけ、そして神の性質が人間に表わされ始めました。つまり、神は最初に人と関わったときから、何ら妨げられることなく、自身を人間に対して明かし始め、神の本質、そして神が所有するものと神そのものを人に示したのです。初期の人々、あるいは今日の人々がそれを見たり理解したりできるかどうかに関係なく、神は人間に語りかけ、人間の間で働き、自身の性質を表わし、自身の本質を表現するのです。これは事実であり、誰も否定できません。このことは、神が働きを行なって人間と関わる際、神の性質と本質、そして神が所有するものと神そのものが常に発せられていることも意味しています。神は人間に何一つ隠したことがなく、むしろ自身の性質を惜しみなく公に示しています。つまり、神は人間が神を知り、神の性質と本質を理解できることを望んでいるのです。神は、人間が神の性質と本質を永遠の奥義として扱うことを望んではおらず、また人間が神のことを絶対に解決できない謎と見なすことも望んでいません。人間は神を認識して初めて前進する道を知り、神の導きを受け入れることができます。そしてそのような人間だけが、神の支配下で、また光の中、神の祝福の中で真に生きることができるのです。

神によって発せられ、明らかにされた言葉と性質は神の旨を表わし、また神の本質も表わしています。神が人間と関わるとき、神が何を言い、何をしようと、あるいはどのような性質を表わそうと、また人間が神の本質、および神が所有するものと神そのものをどのように捉えようと、それらはすべて人間に対する神の旨を表わしています。人間がそれをどれだけ認識し、把握し、理解できるかに関わらず、それらはどれも神の旨、人間に対する神の旨を表わしているのです。これは間違いありません。人間に対する神の旨というのは、どのようになるよう人々に求めているか、何を行なうよう求めているか、どのように生きるよう求めているか、そして神の旨を満たすにあたり、どのように能力を発揮するよう求めているかということです。これらのことは神の本質から切り離せないものでしょうか。つまり、神は人間に要求すると同時に、自身の性質と、自身が所有するものと自身そのものを示しているのです。そこには偽りも、見せかけも、隠匿も、粉飾もありません。それでも人間が神の性質を知ることができず、はっきりと認識することができないのはなぜでしょうか。そしてなぜ、神の旨を理解できないのでしょうか。神により示され、発せられているものは神が所有するものと神そのものであり、それは神の真の性質のあらゆる側面です。なのになぜ、人間には理解できないのでしょうか。人はなぜ詳細に知ることができないのでしょうか。そこには重要な理由があります。その理由とは何でしょうか。創造のときから、人間は神を神として扱っていませんでした。最も初期の時代、創造されたばかりの人間に対して神が何をしたかはさておき、人間は神のことを単に頼れる仲間としてしか扱わず、神に関する認識や理解はありませんでした。つまり人間は、仲間と見なして頼っていたこの存在によって示されるものが神の本質であったことを知らず、またこの存在が万物を治めていることを知らなかったのです。簡単に言って、当時の人々は神をまったく認識していなかったのです。天地と万物が神によって創造されたことを知らず、その神がどこから来たのかを知らず、そしてそれ以上に、その神が何者なのかをまったく知りませんでした。もちろん当時、人間が神を知り、認識し、神のしていることをすべて理解し、神の旨を知ることを、神は求めてはいませんでした。当時は人類の創造から間もない時期だったからです。神は律法の時代の働きに向けて準備を開始したとき、人間に対していくつかのことを行ない、人間にいくつかの要求をし始め、どのように捧げ物を捧げ、神を礼拝すべきかを教えました。そのとき初めて、人間は神に関する簡単な概念を少しばかりもつようになり、人と神の違い、そして神が人類を創造した存在であることを知ったのです。神は神であり、人間は人間であるということを人間が知ったとき、神と人間のあいだに一定の距離が生まれたわけですが、神は自身に関する多くの認識や深い理解を人間に求めることはしませんでした。つまり神は、自身の働きの段階と状況に応じ、人間に対して異なる要求をするのです。このことから何がわかりますか。神の性質のどのような側面が理解できるでしょうか。神は真実ではないのでしょうか。神が人間に求めることは、人間の身の丈にあったものでしょうか。神が人間を造って間もないころ、人間を征服して完全にする働きをまだ行なっておらず、人間に対し多くを語ってもいないとき、神は人間に対してほとんど何も求めませんでした。人間が何を行ない、どのように振る舞おうとも、たとえ神に背くことをしていたとしても、神はそのすべてを許し、見逃しました。それは、自分が人間に与えたものと、人間の中にあるものを神は知っていて、そのため人間に対して行なうべき要求の基準もわかっていたからです。当時、神の要求の基準は非常に低いものでしたが、だからと言って、神の性質が素晴らしくないとか、あるいは神の知恵や全能が単なる空しい言葉であるということではありません。人間にとって、神の性質と神自身を知る方法は一つしかありません。それは神による人類の経営と救いの歩みに従い、神が人類に語る言葉を受け入れることです。いったん神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を知れば、人間はそれでも神の真の実体を見せてほしいと神に求めるでしょうか。いや、人間は求めないでしょうし、求めようとすることすらないはずです。なぜなら、神の性質、そして神が所有するものと神そのものを理解していれば、人間はすでに真の神自身を目の当たりにし、神の真の実体を見ていることになるからです。これは必然的な結果です。

神の働きと計画が絶え間なく前進する中、洪水で世界を滅ぼすことは二度としないというしるしとして、人間との虹の契約を打ち立てたあと、神は自分と思いが一致する者を得たいとますます強く願うようになりました。またそのため、自分の旨を地上で行なえる者、そしてさらに、闇の力から自由になることができ、サタンに縛られず、地上で神に証しできる人々の集団を得たいと、さらに強く切望するようになりました。そのような人々の集団を得ることは神の長きにわたる願いであり、創造のときから待ち望んでいたことでもあります。したがって、神が洪水で世界を滅ぼそうとも、あるいは人間との契約があろうとも、神の旨、思い、計画、そして望みはすべて同じままだったのです。神がしたいと望んでいたこと、創造の前からずっと切望していたこと、それは人類のうち自身が得ようと望む者を得ること、つまり神の性質を知って理解し、神の旨を認識している人々の集団、神を礼拝することのできる人々の集団を得ることです。そのような人々の集団は神に証しをすることができるでしょうし、神の心を知る者だと言えるでしょう。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 32

神がアブラハムに息子を与える約束をする

創世記 17:15-17 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

創世記 17:21-22 「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。

神が行なうと決意した働きを止めることは誰にもできない

先ほど、みなさんはアブラハムの物語を読みましたね。世界が洪水で滅ぼされた後、彼は神に選ばれ、その名をアブラハムといい、彼が百歳でその妻サラが九十歳のとき、神の約束が彼のもとに届きました。神はアブラハムに何の約束をしたのでしょうか。神は聖書に書いてあるこのことを約束しました。すなわち「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう」という約束です。息子を与えるという神の約束の背景には何がありましたか。聖書ではこのような説明がなされています。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」。つまり、この老夫婦は子どもをもうけるには年をとりすぎていたということです。そして神がこの約束をした後、アブラハムは何をしましたか。笑いながら地面にひれ伏し、「百歳の者にどうして子が生れよう」と心の中で言ったのです。そのようなことは不可能だとアブラハムは思いましたが、彼にとって、神の与えた約束は冗談でしかなかったということです。人間の視点から見れば、これは実現不可能なことであり、また同様に、神にとっても実現できない不可能なことです。おそらく、アブラハムにとってそれは笑い事であり、「神は人間を創造したのに、老いた人間が子どもをもうけられないことを知らないようだ。神はわたしに子どもを授けられると思っている。そんなことは間違いなく不可能だ!」と思ったことでしょう。そのため、アブラハムはひれ伏して笑い、こう考えたのです。「不可能だ。神は冗談を言っているに違いない。本当であるわけがない」。彼は神の言葉を真に受けませんでした。それでは、神の目にアブラハムはどのような人物に映っていたでしょうか。(義なる人物です。)アブラハムは義なる人物だとどこで言われたのでしょうか。あなたがたは、神が呼びかけた人はみな義なる人で、完全で、神と歩む人だと思っています。あなたがたは教義に固執しています! 神は誰かを定義するとき、気ままに定義するのではないのだとはっきり理解しなければいけません。ここで、神はアブラハムを義なる人だとは言っていません。神は心の中に、一人ひとりをはかる基準をもっています。神はここでアブラハムがどのような人物かを言ってはいませんが、彼の行ないという点から見て、アブラハムはどのような信仰を神に対してもっていたでしょうか。いささか抽象的なものだったでしょうか。あるいは大きな信仰をもっていたでしょうか。いや、違います。笑ったこと、そして考えたことが、彼がどのような人物だったかを示しています。したがって、アブラハムは義なる人だったとあなたがたが信じているのは、単なる想像上の虚構に過ぎず、教義を盲目的に当てはめているのであり、無責任な評価です。神はアブラハムの笑いと小さな動作を見ていたでしょうか。それを知っていたでしょうか。神は知っていました。しかし、神は行なおうと決意していたことを変えたでしょうか。いや、変えてはいません。神がこの男を選ぶと計画し、そう決意した時点で、それは達成されたのです。人間の考えも行ないも、神に影響を与えたり、干渉したりすることは一切ないのです。神は人間の行ない、無知かもしれない行ないのために計画を気まぐれに変更することもなければ、それを衝動的に変えたり、狂わせたりすることもありません。では、創世記17章21-22節には何と書いてあるでしょうか。「『しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう』。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた」とあります。神はアブラハムの思いや言葉に少しも注意を払わなかったのです。神が無視した理由は何ですか。当時、神は人間に対し、大きな信仰をもつことも、神を深く認識できるようになることも、神の言動を理解できるようになることも求めていなかったのがその理由です。ゆえに、神が行なおうと決意したこと、神が選ぶと決意した人、あるいは神の業の原則を人が完全に理解することを、神は求めていなかったのです。なぜなら、人間の霊的背丈が単に不十分だったからです。当時、アブラハムが何をしようと、どのように自分を律しようと、神はそれらを普通のことだと見なしていました。神は彼を非難することも叱責することもなく、ただ「来年の今ごろサラはあなたにイサクを産む」と言っただけです。神がこれらの言葉を宣言した後、そうした事柄は一つひとつ現実となりました。神の目から見て、自身の計画により達成されるべきことはすでに達成されていました。そしてそのための采配を完了させた後、神は去って行ったのです。人間がすることや考えること、人間が理解すること、人間の計画はどれも、神にはまったく関係ありません。すべてのことは神の計画にのっとり、神が定めた時間と段階に従って進むのです。それが神の働きの原則です。人間が何を考えようと、あるいは何を認識しようと、神はそれらに干渉しませんが、人間が信じなかったり理解しなかったりしても、それが原因で神が自身の計画や働きを放棄することはありません。神の計画と思いによって、事実はこのように実現されるのです。聖書から正確に分かるのは次のことです。つまり、神は自身の決めたときにイサクが生まれるようにしました。その事実は、人の振る舞いや行ないが神の働きを妨げることの証明になるでしょうか。いいえ、それらは神の働きを妨げてはいません。神に対する人間のささやかな信仰、および神に関する人間の観念と想像が、神の働きに影響したでしょうか。影響してはいません。これっぽっちも影響しなかったのです。神の経営計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されません。神が行なうと決意したことはすべて、神の計画に沿って時間通りに完了し、実現され、神の働きが誰かに影響されることなどあり得ません。神は人間の愚かさや無知のある側面や、自分に対する人間の拒絶や観念のある側面さえも無視し、自分がすべき働きを構わず実行します。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 33

アブラハムがイサクを捧げる

創世記 22:2-3 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

創世記 22:9-10 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした。

神の経営と人間の救いの業はアブラハムがイサクを捧げたことから始まる

アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに語った言葉は成就しました。このことは、神の計画がここで止まったという意味ではありません。それとは逆に、人間を経営して救うという神の壮大な計画は始まったばかりであり、アブラハムに息子を授けた祝福は、神の経営計画全体からするとまだ序章に過ぎなかったのです。アブラハムがイサクを捧げたそのとき、神とサタンの戦いが静かに始まっていたことを、当時誰が知っていたでしょう。

神は、人間が愚かであるのは構わない――ただ誠実であることだけを求める

次に、神がアブラハムに何をしたのかを見てみましょう。創世記22章2節で、神は次の命令をアブラハムに与えました。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の旨は明確です。愛するひとり息子イサクを燔祭として捧げなさいと、神はアブラハムに言ったのです。今日の基準からしても、神のこの命令は人間の観念にそぐわないものではないでしょうか。その通りです。神が当時行なったすべてのことは、人間の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではありません。人々は自身の観念の中で、次のように信じています。ある人間が信じておらず、それは不可能だと考えたとき、神はその人に息子を与えた。息子を与えた後、神はその息子を自分に捧げよと言う。まったく信じられない。神はいったい何をしようとしていたのか。実際の意図は何だったのか。神はアブラハムに無条件で息子を与え、そして今度は無条件で捧げ物をせよとアブラハムに命じる。これはやり過ぎなのか。第三者から見れば、単にやり過ぎなだけでなく、「理由もなしにもめ事を起こす」ようなものでしょう。しかしアブラハム自身は、神があまりに多くを求めているとは考えませんでした。アブラハムはそれについてつまらない考えをいくつか抱き、多少神を疑ったものの、捧げ物をする覚悟はできていました。ここで、アブラハムが進んで息子を捧げようとしていたことを、何をもって証明できるかわかりますか。これらの文章で言われているのは何ですか。原文には次のような記載があります。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創世記 22:3)。「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記 22:9-10)。アブラハムが手を伸ばして刃物をとり、息子を殺そうとしたとき、神は彼の行動を見ていたでしょうか。もちろん見ていました。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるよう命じたときから、アブラハムが実際に刃物を振り上げ、息子を殺そうとしたときに至るすべての過程により、アブラハムの心が神に示されたのです。そしてこのとき、かつての愚かさ、無知、および神に対する誤解にもかかわらず、神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神に返そうとしていたのです。神はアブラハムの中に、自身がまさに望んでいた従順さを見たのです。

人間にとって、神が行なう多くのことは理解しがたいものであり、信じられないことすらあります。神が誰かの指揮をとろうとするとき、その指揮はしばしば人間の観念にそぐわず、理解不能なことがあるものの、その不協和音と理解不能なことこそまさに、人間に対する神の試練なのです。一方、アブラハムは自身の内にある神への従順を示すことができました。そしてそれが、彼が神の要求を満たせたことの最も基本的な条件だったのです。アブラハムが神の要求に従うことができ、イサクを捧げたときに初めて、神は人間に対して、すなわち自分が選んだアブラハムに対して真に安心し、彼を認める気になりました。このとき初めて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営計画になくてはならないリーダーであることを確信するのです。それは試練と試みでしたが、神は喜び、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを感じました。アブラハムがイサクを殺そうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めたでしょうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許しませんでした。イサクの命を奪うつもりはまったくなかったからです。そのため、神は直前でアブラハムを止めました。神にとって、アブラハムの従順さは試験に合格しており、アブラハムの行ないは十分なものであり、神は行なおうと意図していたことの結果をすでに見ていたのです。この結果に神は満足したでしょうか。この結果は神にとって満足ゆくものであり、またそれは神の望んでいたこと、見たいと切望していたことだと言えるでしょう。本当にそうでしょうか。状況に応じて、神はそれぞれ異なる方法で一人ひとりを試しますが、アブラハムの中に自身の望むものを見、アブラハムの心が真実で、その従順が無条件であることを知りました。この「無条件」こそ、神の望むことでした。人々はしばしば、「わたしはこれを捧げたし、あれを捨てた。なぜ神はそれでもわたしに満足しないのか。なぜ神はわたしを試練に遭わせ続けるのか。どうしてわたしを試み続けるのか」と言います。これは一つの事実を示しています。つまり、神はあなたの心を見ておらず、あなたの心を得ていないということです。言い換えると、アブラハムが刃物を振り上げ自らの手で息子を殺し、神に捧げようとしたほどの誠意を、神はあなたの中に見出していないということです。神はあなたの無条件の従順さを見ておらず、あなたから慰めを得ていません。そうであれば、神があなたを試み続けるのは当然のことです。違いますか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 34

アブラハムに対する神の約束 (抄出)

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

これはアブラハムに対する神の祝福の完全な記録です。短い箇所ですが、内容は濃いです。そこには、神がアブラハムに賜物を与えた理由と背景、そして神がアブラハムに何を与えたかが含まれています。また、神がこれらの言葉を発した際の喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けられる者を一刻も早く自分のものにしたいという差し迫った切望もそこには込められています。わたしたちはこの中に、神の言葉に服従し、神の命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを見ることができます。そして、神が人々を得るために払う代価と、そこに注ぐ慈しみと思いを見ることもできます。さらに、この「わたしは自分をさして誓う」という言葉を含むこの一節は、自身の経営計画におけるこの働きの背後にある、神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚をわたしたちに与えます。この一節を通して考えることは多く、後から来る者たちにとって特別な意義をもち、非常に大きな影響を与えた一節なのです。

人間はその誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る

ここから読み取ることができる、アブラハムに対する神の祝福は大きなものでしたか。それはどれほど大きなものでしたか。ここに鍵となる一文があります。「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。この一文から、アブラハムは以前に来た者も、後から来た者も、誰一人与えられたことのない大きな祝福を受けたことがわかります。神に求められたとおり、アブラハムが自分の愛するひとり息子を神に返したとき(この場合、「捧げた」と言わずに、神に返したと言うべきです。)、神はアブラハムにイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福しました。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのでしょうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもって、アブラハムを祝福したのです。また、どれほど多く繁栄させるというのでしょうか。聖書には次のように書かれています。「天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。神が発したこの言葉にはどのような背景があったでしょうか。つまり、アブラハムはどのようにして神の祝福を受け取ったのでしょうか。聖書で神が言うとおり、「あなたがわたしの言葉に従ったから」、アブラハムはそれを受け取ったのです。つまり、アブラハムは神の命令に従い、神が言ったこと、求めたこと、命じたことを、不平を言わずすべて行なったために、神はそのような約束をしたのです。この約束には当時の神の考えを示す重要な一文が含まれています。それに気づいたでしょうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなたがたはそれほど注意を払わなかったかもしれません。それが意味するのは、神はこれらの言葉を発したとき、自分を指して誓っていたということです。人は誓いを立てるとき、何を指して誓うでしょうか。天を指して誓う、つまり、神に対して誓いを立て、神を指して誓います。神が自身を指して誓うという状況を、人々はあまり理解していないかもしれませんが、わたしが正しく説明すればあなたがたも理解できるようになります。神の声は聞けるものの、その心を理解できない人間と向き合う際、神は再び孤独を感じ、途方に暮れました。そして切羽詰まって、あるいは無意識のうちにと言ってよいでしょうが、神は極めて自然なことをしました。つまり、アブラハムにこの約束を授けるとき、神は自身の胸に手を置いて自ら語りかけ、そこから人は、「わたしは自分をさして誓う」と神が言うのを聞いたのです。神の行動を通じて自分のことを考えるのもよいでしょう。あなたが自分の胸に手を置いて自身に語るとき、自分が言っていることをはっきり理解できるでしょうか。あなたの態度は誠実でしょうか。心から、率直に語るでしょうか。ゆえに、神はアブラハムに語りかける際、真摯で誠実だったことがここでわかります。神はアブラハムに語りかけ、彼を祝福すると同時に、自分自身にも語っていました。神は自身にこう語っていたのです。「わたしはアブラハムを祝福し、彼の子孫が天の星と同じくらい、海辺の砂と同じくらい増えるようにする。彼はわたしの言葉に従い、わたしが選んだ者だからだ」。「わたしは自分をさして誓う」と言ったとき、神はアブラハムを通じてイスラエルの選民を生み出し、その後は自身の働きによって彼らを速やかに導こうと決意したのです。つまり、アブラハムの子孫に自身の経営の働きを担わせ、自身の働きと、自分によって表わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人を救うという自身の望みを叶えようとしたのです。これを祝福と言わずして何と言うでしょうか。人間にとって、これ以上の祝福はありません。これが最大の祝福だと言えます。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営、神の任務、そして神の働きです。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営計画が進む中で継続するものなのです。語り、自身を指して誓ったとき、神はすでに決意していました。この決意の過程は真実だったでしょうか。現実だったでしょうか。これ以降はアブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身が所有するものと自身そのもの、自身のすべて、そしていのちまでも差し出すと、神は決意しました。また、まずはこの人々の集団に自身の業を表わし、人間が自身の知恵、権威、そして力を見るようにすることも決意したのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 35

アブラハムに対する神の約束 (抄出)

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが、神の変わらぬ願いである

神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムに対しても語ったのですが、その際神が語ったすべての言葉から、アブラハムは神より与えられた祝福以外に、神の真の願いを理解することができたでしょうか。できませんでした。そのため、神が自身を指して誓ったその瞬間、神の心はいまだ孤独で悲しみに満ちていました。神の意図や計画を認識している人、あるいは理解している人は依然として一人もいなかったのです。この時点で、神と親密に話せる人はアブラハムを含めて誰もおらず、まして神が行なわなければならない働きに協力できる人などいませんでした。表面上、神はアブラハムという自分の言葉に従える人を得たかのように見えますが、実際には、神に関するこの人物の認識は無に等しいものでした。神はアブラハムを祝福したものの、神の心はいまだ満足していませんでした。神が満足していなかったとはどういうことでしょうか。それは、神の経営はまだ始まったばかりで、神が自分のものにしたいと望む人々、目の当たりにしたいと切望する人々、そして愛する人々がいまだ神から離れていたということです。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要がありました。と言うのは、神が必要としているものを知る人は神自身以外におらず、神が何を得たいと望んでいるのか、何を切望しているのかを知る人もいなかったからです。そのため、神は非常に感激したと同時に、心の重さも感じました。それでも神は自身の歩みを止めず、行なわなければならない次なる段階を引き続き計画しました。

あなたがたはアブラハムに対する神の約束の中に何を見ますか。アブラハムが神の言葉に従ったというだけで、神はアブラハムに大いなる祝福を授けました。表面上、これはごく普通のこと、当然のことに思えますが、そこに神の心を見ることができます。神は自分に対する人の従順さをとりわけ大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊びます。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのでしょうか。どれほど尊ぶかは、あなたがたには理解できないかもしれませんし、誰一人認識していない可能性も十分あります。神はアブラハムに息子を与えました。そしてその息子が成長したとき、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるよう命じました。アブラハムは神の命令に一言一句従い、神の言葉に服従しましたが、その誠実さは神を感動させ、神はそれを尊びました。どれくらい尊んだのでしょうか。なぜ尊んだのでしょうか。神の言葉や心を誰も理解していなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせ、神にそれまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従える人を得たという喜びをもたらしました。この満足感と喜びは、神が自らの手で創った被造物から生じたものであり、人間が神に捧げた最初の「捧げ物」であると同時に、人間が創造されて以来最も神に尊ばれました。神はこの捧げ物を待ち焦がれ、自分が創造した人間からの最も大事な贈り物として扱いました。それは神の努力と払った代価による初めての成果を示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出しました。その後神は、このような人の集団が自分の道連れとなり、自分と誠実に接し、自分を誠実に慈しむことをさらに強く切望しました。神はアブラハムが生き続けることさえ望みました。自身の経営を続ける中で、アブラハムのような心をもつ人間を道連れにもち、ともにいたかったからです。しかし神が何を望もうと、それは単なる望み、思いでしかありませんでした。アブラハムは神に従うことのできる人間であったに過ぎず、神に関する理解や認識をまったく持ち合わせていなかったからです。神を知り、神に証しをすることができ、神と同じ思いになれるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間でした。そのため、アブラハムは神と共に歩むことができませんでした。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、彼が神の試練に耐えたことを知り、アブラハムの誠実さと従順さを受け入れましたが、それでも神の心を知る者となり、神を知り、理解し、神の性質を知るのに相応しくはなかったのです。神と思いを同じくし、神の旨をなす者にはほど遠かったのです。そのため、神は心の中で依然寂しく不安でした。その寂しさと不安が増せば増すほど、神はできるだけ迅速に自身の経営を続け、また経営計画を全うして自身の旨を一刻も早く成就させるべく、人々の集団を選んで自身のものとする必要がありました。それは神の切実な願いであり、初めのときから今日まで変わりません。最初に人を創ったときから、神は勝利者の集団、つまり神とともに歩み、神の性質を認識し、知り、理解することのできる集団を切望してきたのです。神のこの願いは一度も変わったことがありません。どれほど待たなければならないとしても、その行く手がいかに困難でも、また神の切望する目標がどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはありません。ここまでの話を聞いて、みなさんは神の望みについて何か理解できたでしょうか。おそらくまだそれほど深くは理解していないでしょうが、徐々に理解できるようになるでしょう。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 36

神はソドムを滅ぼさなければならなかった (抄出)

創世記 18:26 ヤーウェは言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

創世記 18:29 アブラハムはまた重ねて神に言った、「もしそこに四十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。

創世記 18:30 アブラハムは言った、「……もしそこに三十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。

創世記 18:31 アブラハムは言った、「……もしそこに二十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。

創世記 18:32 アブラハムは言った、「……もしそこに十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。

神の言葉に従い、命令に従う者だけを神は慈しむ

上の各節には鍵となる単語がいくつか含まれていますが、それは数字です。まずヤーウェは、その町に五十人の正しい者があったら、その所をすべて許す、つまりその町を滅ぼさないと言いました。では、ソドムには五十人の正しい者が実際にいましたか。いませんでした。その後すぐ、アブラハムは神に何と言いましたか。「もしそこに四十人いたら」と言いました。すると神は、「これをしないであろう」と言いました。次にアブラハムが「もしそこに三十人いたら」と言うと、神は「これをしないであろう」と答えました。「もしそこに二十人いたら」、「わたしは……滅ぼさないであろう」。「もしそこに十人いたら」、「わたしは……滅ぼさないであろう」。本当に十人の正しい者がその町にいたでしょうか。十人はいません。いたのは一人だけです。それは誰ですか。ロトです。このとき、ソドムには正しい者が一人しかいなかったのですが、この数字について、神は厳しく、あるいは細かく追及しましたか。しませんでした。人間に「もしそこに四十人いたら」、「もしそこに三十人いたら」、そして最後に「もしそこに十人いたら」と訊かれた神は、「たとえ十人だとしても、その町を滅ぼすまい。それを許し、その十人以外の全員を許そう」と言いました。十人しかいないだけでも十分哀れですが、実際のところ、正しい者はソドムに十人もいなかったのです。ゆえに神の目から見て、この町の人々の罪と悪は、彼らを滅ぼすより他にないほどだったということがわかるでしょう。五十人の正しい者がいれば町を滅ぼさないと言ったとき、神は何を言わんとしていたのでしょうか。これらの数字は神にとって重要ではありませんでした。重要なのは、神の望む正しい者がその町にいるかどうかでした。正しい者が一人でもその町にいれば、町を滅ぼすことでその正しい者に危害が及ぶことを神は許さなかったでしょう。つまり、神がその町を滅ぼすつもりだったか否か、あるいは正しい者がそこに何人いたかに関係なく、神にとって、この罪深い町は呪われた忌まわしき存在であり、滅ぼされて自身の目の前から消えなければならず、その一方で正しい者は残るべきだったのです。時代、あるいは人類の発展段階がどうあれ、神の態度は変わりません。悪を憎み、自身の目から見て正しい者を慈しみます。この明確な神の態度は、神の本質の真の現われでもあります。ソドムの町には正しい者が一人しかいなかったので、神はもはやためらいませんでした。ソドムは必ずや滅ぼされるというのが、その最終的な結果でした。このことから何がわかりますか。その時代、ある町にいる正しい者が五十人でも十人でも、神はその町を滅ぼそうとしませんでした。つまり、神を畏れて崇拝することができる数名の人間のために、神は人類を赦して寛容であろうとした、あるいは導きの働きをしようとしたのです。神は人の正しい行ないを重視します。神を崇拝できる人、神の前でよき行ないをできる人を、神は重視するのです。

最初の時代から今日に至るまで、神が誰かに真理を伝えたり、神の道について語ったりしているのを、聖書で読んだことがありますか。いいえ、決してないはずです。わたしたちが読んでいる、人に対する神の言葉は、何をすべきか人々に伝えているだけです。その通りに行なった人もいれば、行なわなかった人もいます。信じた人もいれば信じなかった人もいます。それだけのことです。したがって、この時代の正しい人たち、つまり神の目から見て正しい人たちは、神の言葉を聞いて神の命令に従える人に過ぎなかったのです。そのような人は、人のあいだで神の言葉を実行するしもべでした。そのような人たちが、神を知る者だと言えるでしょうか。神によって完全にされた者だと言えるでしょうか。いや、言えません。ならばその人数にかかわらず、神の目から見て、彼らは神の心を知る者と呼ばれるのに相応しかったでしょうか。神の証人と呼ぶことができるでしょうか。決してそう呼ぶことはできません。神の心を知る者、神の証人などと呼ばれる価値など当然ありません。では、神はそのような人を何と呼びましたか。旧約聖書の中で、神は彼らを何度も「わたしのしもべ」と呼んでいます。つまり当時、神の目から見て、このような正しい人たちは神のしもべであり、地上で自身に仕える人たちでした。神はこの呼び名をどう思っていましたか。なぜそう呼んだのですか。人々の呼び方について、神は心の中で基準をもっているのでしょうか。もちろんもっています。正しい人、完全な人、公正な人、しもべなど、神が人をどう呼ぶにせよ、神には基準があります。神がある人を「神のしもべ」と呼ぶとき、その人は神の使いを受け入れ、神の命令に従い、その使いに命じられたことを実行できると、神は確信しています。この人物は何を実行しますか。神が人に地上で実行するよう命じたことを、この人物は実行します。このとき、神が人に地上で実行するよう求めたことを、神の道と呼べるでしょうか。いや、呼べません。当時、神は人に対し、いくつかの簡単なことをせよとしか求めなかったからです。つまり、いくつかの単純な命令を発し、これをせよ、あれをせよと命じただけだったのです。神は自身の計画に従って働きを行なっていました。当時は条件が整っておらず、機も熟しておらず、人間が神の道を背負うのは難しかったため、神の心から神の道がいまだ発せられていなかったからです。ここでわたしたちが見た、神が語った正しい人を、神は三十人であれ二十人であれ、自分のしもべと見なしました。神の使いが彼らに臨んだとき、彼らは使いを受け入れ、命令に従い、使いの言葉通りに行動することができました。これはまさに、神の目から見てしもべである者たちによってなされ、成し遂げられるべきことでした。神は人の呼び名に関して思慮深いのです。神が彼らをしもべと呼んだのは、彼らが今のあなたがたのような人だったからではありません。つまり、数多くの説教を聞き、神が行なおうとすることを知り、神の旨の多くを理解し、神の経営計画について深く知っていたからではないのです。むしろ、彼らの人間性が正直で、神の言葉に従えるからでした。神が彼らに命令すると、彼らは自分のしていることを脇にのけて、神が命令したことを実行できたのです。そのため、神にとって、しもべという肩書きに込めたもう一つの意味は、地上における自身の働きに協力する者ということでした。そして彼らは神の使いではないものの、地上で神の言葉を遂行し、実現させる者たちだったのです。したがって、これらのしもべ、あるいは正しい人たちは、神の心の中で大きな比重を占めていたことがわかります。神が地上で行なおうとしていた働きは、神に協力する人間なくして行なうことができず、また神のしもべが引き受けた役割は、神の使いには果たせないものだったのです。神がこれらのしもべに命令した一つひとつのことは神にとって非常に重要だったので、神は彼らを失うわけにはいきませんでした。これらのしもべによる神への協力がなければ、神が人類のあいだで行なう働きは行き詰まり、その結果、神の経営計画と希望も無に帰していたことでしょう。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 37

神はソドムを滅ぼさなければならなかった (抄出)

創世記 18:26 ヤーウェは言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

創世記 18:29 アブラハムはまた重ねて神に言った、「もしそこに四十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。

創世記 18:30 アブラハムは言った、「……もしそこに三十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。

創世記 18:31 アブラハムは言った、「……もしそこに二十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。

創世記 18:32 アブラハムは言った、「……もしそこに十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。

神は自身が慈しむ人々に溢れるほどの憐れみを与え、忌み嫌い拒絶する人々に深く怒る

聖書の記録では、ソドムに神のしもべが十人いたでしょうか。いや、いませんでした。この町は神に許されるに値したでしょうか。この町で唯一ロトだけが、神の使いを受け入れました。これが意味するのは、この町に神のしもべが一人しかいなかったこと、また神はそのためにロトを救い、ソドムの町を滅ぼすより他になかったということです。先ほど引用したアブラハムと神のやりとりは単純なものに見えますが、実はとても深い事柄を示しています。神の行動には原則があり、神は決断を下す前に長い時間をかけて観察し、熟考する、ということです。ふさわしいときにならなければ、決断を下すことも何らかの結論に飛びつくことも決してありません。アブラハムと神のやりとりは、ソドムを滅ぼすという神の決断に少しの間違いもなかったことを示しています。その町に正しい者が四十人、三十人、いや二十人もいないことをすでに知っていたからです。正しい者は十人すらおらず、町で正しい者はロトだけでした。ソドムで起こったすべてのこと、そしてその状況を神は見ており、手に取るようにわかっていたのです。したがって、神の決断が間違っていたはずはありません。対照的に、人間は神の全能性に比べてとても鈍く、愚かで無知であり、まったく近視眼的です。これがアブラハムと神とのやりとりからわかることです。神は初めのときから今日まで、自身の性質を現わし続けています。ここにもまた、わたしたちが見るべき神の性質があります。数字は単純なもので、それ自体は何も示しませんが、ここでは神の性質を示す非常に重要なことが表現されています。神は五十人の正しい者のために町を滅ぼしません。これは神の憐れみによるものですか。神の愛と寛容によるものですか。神の性質のこの側面をあなたがたは理解していましたか。たとえ正しい者が十人しかいなかったとしても、その十人がいるために、神は町を滅ぼさなかったはずです。これは神の寛大さと愛ですか、それとも違いますか。これらの正しい者たちに対する憐れみ、寛容、そして慈しみのために、神は町を滅ぼそうとしませんでした。これが神の寛容なのです。では、わたしたちは最後にどのような結果を見ますか。アブラハムが「もしそこに十人いたら」と言ったとき、神は「滅ぼさない」と答えました。その後、アブラハムはそれ以上何も言いませんでした。ソドムにはアブラハムの言う十人の正しい者がおらず、それ以上何も言えなかったからです。またそのとき、なぜ神がソドムを滅ぼすと決めたのか、アブラハムは理解したのです。ここで神のどのような性質がわかりますか。神はどのような決意をしましたか。つまり、この町に十人の正しい者がいなければ、町が存在することを許さず、必ずや滅ぼすと決意したのです。これは神の怒りではないでしょうか。この怒りは神の性質を表わすものでしょうか。この性質は神の聖い本質を示すものでしょうか。これは人間が犯してはならない神の義なる本質の現われでしょうか。ソドムに十人の正しい者がいないことを確認すると、神は必ずやソドムを滅ぼし、その町の人を厳しく懲罰しようとしました。彼らが神に敵対し、非常に汚れて堕落していたからです。

これらの聖句をこのように分析してきたのはなぜですか。これらいくつかの単純な文章が、豊富な憐れみと深い怒りを兼ね備えた神の性質を完全に表現しているからです。神は正しい者を尊び、憐れみ、寛容を示し、慈しみますが、それと同時に、神の心の中には堕落したソドムの民全員への深い嫌悪がありました。これは豊富な憐れみと深い怒りですか、それとも違いますか。神はどのような方法でこの町を滅ぼしましたか。火によってです。では、なぜ火を使って滅ぼしたのですか。何かが火によって燃やされるのを見たり、自分が何かを燃やそうとしたりするとき、あなたはそれに対してどのような感情を抱きますか。なぜそれを燃やしたいのですか。それがもう必要ないからですか、あるいはもう見たくないからですか。それを捨てたいからですか。神が火を使うのは放棄と嫌悪を意味しており、ソドムをこれ以上見たくないということでした。それがソドムを焼き滅ぼした際の神の感情です。火を使ったことは、神がどれほど怒っていたかを表わしています。確かに、神の憐れみと寛容は存在しています。しかし、神が怒りを解き放つ際の聖さと義は、一切の背きを許さない神の側面を人に見せます。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動するとき、神は人に対する憐れみで満ちています。しかし、人間が堕落で満ちていたり、神への憎悪と敵意で一杯だったりするとき、神は深く怒ります。では、神の怒りはどれほど深いのでしょうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、それらが神の目の前から消えてなくなるまで続きます。そのとき初めて、神の怒りは消えるのです。言い換えると、誰であれ心が神から遠くなり、離れ、神に立ち返ることがないならば、その人が外見上、あるいは主観的な願望において、いかに神を崇拝し、神に従っても、そして肉において、あるいは思考の中で神に服従しても、神の怒りは途切れることなく解き放たれます。そのため、人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、神がそれを撤回することはなく、二度とそのような人に憐れみや寛容を示しません。これが一切の背きを許さない神の性質の一側面です。ここで、神がある町を滅ぼすのは当然のように人々には思えます。と言うのも、神の目から見て、罪に満ちた町が存続することはできず、神によって滅ぼされるのが理にかなっているからです。しかし、神がソドムの町を滅ぼす前後に起こったことの中に、神の性質の全体像が見てとれます。優しく、美しく、善いものに対し、神は寛大で憐れみに満ちています。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対して神は深く怒り、その怒りは止まることがないほどです。溢れんばかりの憐れみと深い怒りが、神の性質における主要かつ最も顕著な二つの側面であり、またそれ以上に、最初から最後まで神によって示されてきたものです。あなたがたの大半は神の憐れみを何かしら経験していますが、神の怒りを味わった人はほとんどいません。神の憐れみや慈愛は誰の中にも見ることができます。つまり、神はすべての人に対して憐れみ深いのです。しかし、神があなたがたの誰かに、あるいは人々の一団に、深い怒りを向けたことはほとんどありません。いや、一度もないと言っていいでしょう。落ち着きなさい。早かれ遅かれ、誰もが神の怒りを見て経験します。いまはまだそのときではないのです。それはなぜですか。神が常に誰かに対して怒っているとき、つまり神が深い怒りを彼らのうえに解き放つときというのは、神が長いあいだその者を嫌い、拒絶し、その存在を忌み嫌い、耐えられなくなったということです。神の怒りが下るや否や、その者たちは消え去ります。今日、神の働きはまだそこまで達していません。いったん神が深く怒ると、あなたがたの中に耐えられる人は一人もいません。そうであれば、神は現時点であなたがたに憐れみ深いだけで、あなたがたはまだ神の深い怒りを見ていないということがわかります。まだ納得していない人がいたら、神が自分に怒りを注ぐように頼んでみるとよいでしょう。そうすれば、神の怒りと、人による背きを許さない神の性質が、本当に存在するかどうかがわかるはずです。あえて試そうと思いますか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 38

終わりの日の人々は神の言葉の中に神の怒りを見るだけで、神の怒りを真に体験することはない

創造のときから今日に至るまで、この最後の集団ほど神の恵み、あるいは神の憐れみと慈愛を享受した集団は他になかったのです。最後の段階において、神は裁きと刑罰の働きを行ない、威厳と怒りによって働きを行なってきましたが、ほとんどの場合、言葉だけを使って自身の働きを成し遂げます。言葉を用いて教え、潤し、施し、養うのです。その間、神の怒りはずっと隠されており、その言葉の中で怒りに満ちた神の性質を経験する場合を除き、神の怒りを自ら経験したことのある人はほとんどいません。つまり、神の裁きと刑罰の働きが行なわれている間、その言葉の中で現わされている神の怒りによって、人々が神の威厳と、神が背きを許さないことを経験することはできますが、その怒りが言葉の枠からはみ出ることはありません。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、そして断罪することさえあります。しかし、人間に対してまだ深く怒ってはおらず、言葉を用いる以外に人への怒りを発したことはほとんどありません。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛は神の真の性質の現われであり、一方、人間が経験した神の怒りは単に神の発言の口調と語感の影響に過ぎないのです。この影響をもって、神の怒りを真に経験した、あるいは真に認識したと、多くの人が誤解しています。その結果、ほとんどの人が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして神が人の背きを許さないことを見たと信じており、その大半が人間に対する神の憐れみと寛容を理解するようになったとさえ思っています。しかし、人間の行ないがどれだけ悪くても、人間の性質がどれだけ堕落していても、神はいつも耐えてきました。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、注いだ労力、および払った代価が、自分が得ようと望む人たちの中で効果を発揮するのを待つことです。このような結果を待つのは時間がかかることであり、人のために様々な環境を創る必要があります。それは、人が生まれてすぐには大人にならず、成熟した本当の大人なるまで十八年から十九年かかり、二十年から三十年かかる人さえいるのと同じことです。神はこの過程が完了するのを待っており、そのようなときが来るのを待っています。そしてその結果が訪れるを待っているのです。そして待つあいだ、神はずっと溢れんばかりの憐れみに満ちています。しかし、神の働きのこの期間に、極めて少数の人々が打ち倒され、また神への重大な反抗のために懲罰を受けた人もいます。そのような例は、人間の背きを許さない神の性質のより確かな証明でもあり、また選民に対する神の寛大さと寛容が実在することを完全に立証しています。もちろん、これらの典型的な例において、神の性質の一部がこれらの人々において表わされたことは、神の経営計画全体に影響を及ぼすものではありません。事実、神の働きにおけるこの最終段階で、神は待ち続けていた間ずっと耐えてきたのであり、自分の忍耐およびいのちと引き換えに、自身に従う人たちを救ってきたのです。あなたがたにそれがわかりますか。神は何の理由もなく計画を覆すことはしません。神は怒りを解き放つことも、憐れみで満ちていることもできるのです。これが神の性質における二つの主要な部分の現われです。はっきりわかりますか。あるいははっきりしていませんか。別の言葉で言えば、神に関して言うなら、善悪、公正と不正、肯定的なものと否定的なものはすべて、人間に対してはっきり示されているのです。神が行なうこと、好むもの、嫌うものはどれも、神の性質の中に直接反映されることができます。それらのことはまた、神の働きの中で極めてわかりやすく明確に見ることができ、漠然としていたり全般的であったりすることはありません。むしろそれらは、すべての人が神の性質、および神が所有するものと神そのものを、ひときわ具体的に、真に、かつ現実的に見ることを可能にします。これが本当の神自身なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 39

神の性質が人間から隠されたことはない――人間の心が神から離れたのである

創世以来、神の性質はその働きと歩みをともにしてきました。それが人間に隠されていたことはなく、完全な形で公に、人間にもわかりやすく表わされてきました。それでも時間が経つとともに、人間の心はよりいっそう神から遠ざかり、人間の堕落がより深くなるにつれ、人間は神からますます離れていきました。ゆっくりと、しかし確実に、人間は神の視界から消えていったのです。人間は神を「見る」ことができなくなり、そのせいで神についての「知らせ」が届かなくなりました。かくして、人間は神が存在するかどうかがわからなくなり、神の存在を完全に否定するまでになったのです。結果として、神の性質、および神が所有するものと神そのものに対する人間の無知は、神が人間から隠れていることが原因ではなく、人間の心が神から離れたことが原因なのです。人間は神を信じているものの、その心に神はおらず、神をどう愛するかもわからず、神を愛したいとも思っていません。人間の心は神に近づいたことがなく、常に神を避けているからです。その結果、人間の心は神から離れているのです。では、人間の心はどこにあるのでしょうか。実際には、人間の心がどこかに行ってしまったわけではありません。自分の心を神に捧げたり、神に示して見てもらおうとしたりする代わりに、自分の中に閉じ込めているのです。それにもかかわらず、中には「ああ神よ、わたしの心をご覧ください。わたしの考えるすべてのことをあなたはご存知です」としばしば祈る人もいれば、自分の心を神に見せると誓い、その誓いを破れば懲罰を受けても構わないと言う人さえいます。たとえ自分の心のうちを神に見えるようにしたとしても、それは人間が神の指揮と采配に従えるという意味でも、自分の運命や将来を手放し、自分のすべてを神の支配に委ねたという意味でもありません。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたが神に宣言したことにかかわらず、神の目から見て、あなたの心は神に閉ざされたままです。なぜなら、あなたは神に自分の心を見せるばかりで、それを支配することは許していないからです。言い換えると、あなたは神に自分の心をまったく捧げておらず、神に対して聞こえのいい言葉を述べているに過ぎないのです。その一方、あなたは諸々の不誠実な意図に加え、陰謀、策略、計画を神から隠しており、また自分の将来と運命が神に取り上げられることを深く恐れ、それらを固く握りしめています。このように、神に対する人間の誠実さというものを、神は決して目にしません。神は人間の心の奥深くを観察し、人間が心の中で考えていることや願っていること、および人間が心にしまい込んでいるものを見ることができますが、それでも人間の心は神に属しておらず、神の支配に委ねられてもいません。つまり、神には観察する権利があっても、支配する権利はないのです。人間は主観的な意識の中で、自分を神の采配に委ねることを望んでもいなければ、そうしようとも思っていません。自分を神から閉ざしてきただけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考える人さえいます。そのような人は聞こえのよい言葉とお世辞を並べて偽りの印象を生み出し、神の信頼を得て、自分の素顔を神の目から隠そうとします。神に見させまいとする彼らの目的は、自分が本当はどのような存在であるかを、神に知られないようにするためです。そのような人は神に心を捧げようとは思わず、手放さずにいることを望んでいます。そのことは、人間が行なうことや望むことはすべて人間自身が計画し、計算し、そして決定するということを暗に意味しています。神による参加や介入は必要としておらず、ましてや神の指揮や采配など無用です。したがって、神の命令、神が与える使命、あるいは神が人間に行なう要求にかかわらず、人間の決定は自分の意図と利益、そのときの状態と状況に基づいているのです。人間は常に、自分に馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使い、自分が進むべき道を判断して選択し、神の介入や支配を許しません。これが神から見た人間の心です。

初めのときから今日に至るまで、神と対話できるのは人間だけでした。つまり、すべての生き物と神の被造物の中で、人間以外に神と対話できるものはいなかったということです。人間には耳があって聞くことができ、目があって見ることができます。また人間は言葉、自分の考え、そして自由な意志をもっています。神が語るのを聞き、神の旨を理解し、神からの使命を受け入れるにあたり、人間はそのために必要なものをすべて持ち合わせており、それゆえ神は自身の一切の望みを人間に託すとともに、自身と同じ心をもち、ともに歩める仲間にしたいと願っているのです。神は経営を始めて以来、人間が自分の心を神に捧げ、神によって清められてそれを備え、神を満足させて愛されるもの、神を畏れ悪を避けるものにしたいと願っています。神はその実現をずっと心待ちにしています。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 40

神と聖書によるヨブの評価

ヨブ記 1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

ヨブ記 1:5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

ヨブ記 1:8 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

これらの聖句から読み取れる重要な点は何でしょうか。この三つの短い聖句はいずれもヨブに関連しており、文章は短くても、ヨブがどのような人物だったかを明確に示しています。聖句で描かれたヨブの日々の振る舞いや行動から、ヨブに対する神の評価は根拠のないものではなく、十分な根拠に基づいていたことが誰にでもわかります。またこれらの箇所から、ヨブに対する人間の評価(ヨブ記 1:1)も神の評価(ヨブ記 1:8)も、神と人の前におけるヨブの行ない(ヨブ記 1:5)の結果であることがわかります。

まずは一つ目の聖句を読みましょう。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。これは聖書における最初のヨブの評価であり、この一文は著者によるヨブの評価です。当然、それは人によるヨブの評価を表わすものでもあります。つまり、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」という評価です。次に、神によるヨブの評価を読みましょう。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」。この二つのうち、一つは人間によるもの、もう一つは神によるものであり、同じ内容に対する二つの評価です。こうして、ヨブの振る舞いと行動は人間に知られており、また神にも賞賛されていたことがわかります。つまり、ヨブの行ないは人の前でも神の前でも変わらなかったということです。神が自分の振る舞いと動機を観察できるよう、ヨブはそれらを絶えず神の前に晒しており、また彼は神を畏れて悪を避ける人でした。そのため、神の目から見て、ヨブは地上で唯一完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間だったのです。

ヨブが日常生活において神を畏れ悪を避けていたことを示す具体的な描写

次に、ヨブが神を畏れて悪を避けている具体的な例を検討しましょう。ヨブ記第1章5節を、その前後の句も含めて読んでみましょう。この一節は、ヨブが神を畏れて悪を避けた様子を具体的に描写しており、ヨブが日々の生活の中でどのように神を畏れて悪を避けたかと関連しています。特筆すべきは、ヨブは神を畏れて悪を避けるために自分のすべきことをしただけでなく、自分の息子たちのために定期的に燔祭の捧げ物をしたことです。それは、息子たちが「罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」ことを恐れたからです。その恐れはヨブにおいてどう現われたでしょうか。聖書には次のように書かれています。「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。ヨブの行ないは、彼の神への畏れが表面的な振る舞いに現われているのではなく、心の内側から生じるものであり、日常生活のあらゆる側面において神への畏れが常に見出せたことを示しています。自分が悪を避けただけでなく、自分の息子たちのためにしばしば燔祭の捧げ物をしていたからです。言い換えれば、ヨブは神に対して罪を犯し、心の中で神を拒むことを深く恐れていただけでなく、息子たちが神に対して罪を犯し、心の中で神を拒むことをも心配していたのです。このことから、神に対するヨブの畏れは非の打ち所がない真実であり、誰にも疑う余地のないことがわかります。ヨブは時折こうしていたのでしょうか、それとも頻繁にでしょうか。聖句の最後の一文に、「ヨブはいつも、このように行った」とあります。これは、ヨブが時折、あるいは気が向いたときに息子たちの様子を見に行ったのではなく、また祈りを通じて悔い改めていたのでもないということを意味しています。むしろ、ヨブは定期的に息子たちを送り出して聖別させ、息子たちのために燔祭の捧げ物をしました。ここで言う「いつも」は、ヨブが一日か二日、もしくはほんの一瞬そのようにしたということではありません。神に対するヨブの畏れは一時的な現われではなく、認識や口先の言葉に留まるものでもなく、むしろ神を畏れて悪を避ける道がヨブの心を導き、彼の振る舞いを決定していたのであって、それが心の中で自身の生存の根源となっていた、ということを言っているのです。ヨブがいつもそのようにしていたことは、自分が神に対して罪を犯すのではないか、また息子と娘たちも罪を犯すのではないかと恐れていたことを示しています。ここから、神を畏れて悪を避ける道がヨブの心の中でいかに多くの比重を占めていたかがわかります。ヨブは心の中で恐怖と不安を感じていたので、いつもそのようにしていました。つまり、悪事を行なって神に対して罪を犯し、神の道から外れて神に満足してもらえないことを恐れたために、いつもそのようにしていたのです。ヨブは同時に、息子と娘たちが神に背いたのではないかとも心配しました。日常生活におけるヨブの普段の行ないはこのようなものでした。この普段の行ないこそが、ヨブの「神を畏れて悪を避ける」ことが空虚な言葉ではなく、実際にそうした現実を生きたことを証明しています。「ヨブはいつも、このように行った」。この言葉は、神の前におけるヨブの日常の行ないを示しています。ヨブがいつもこのように行動していたとき、彼の振る舞いと心は神のもとに届いたでしょうか。つまり、神はヨブの心と行ないをしばしば喜んだでしょうか。そうであれば、どのような状態で、どのような背景で、ヨブはそのようにし続けたのでしょうか。「神が頻繁に目の前に現われたから、ヨブはそのように行動したのだ」と言う人がいます。また、「悪を避ける意志があったから、いつもそうしたのだ」と言う人もいます。さらには、「おそらく自分の富が簡単に手に入ったものではなく、神から授けられたものだと知っていたので、罪を犯した結果、あるいは神に背いた結果として、自分の富を失うことを深く恐れたのだ」と言う人もいます。この中に正解はあるでしょうか。どれも明らかに違います。なぜなら、神の目から見て、神がヨブに関して受け入れ、もっとも尊いと感じたのは、彼がいつもそのようにしていたということだけでなく、それ以上に、サタンの手に引き渡されて試みを受けた際、ヨブが神、人、そしてサタンの前でそのような振る舞いを見せたことです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 41

サタンがヨブを初めて試みる(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる) (抄出)

1) 神が語った言葉

ヨブ記 1:8 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

ヨブ記 1:12 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。

2) サタンの返答

ヨブ記 1:9-11 サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

ヨブの信仰が完全なものになるよう、神はサタンがヨブを試みることを許す

ヨブ記第1章8節は、聖書においてヤーウェ神とサタンのやりとりが記されている最初の箇所です。では、神は何と言いましたか。原文には次の記述があります。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」。これが、サタンの前でのヨブに対する神の評価です。ヨブは完全で正しい人、神を畏れて悪を避ける人だと神は言いました。神とサタンのこのやりとりに先立ち、神はサタンを用いてヨブを試みよう、ヨブをサタンの手に渡そうと決意しました。そのことは、一面から見れば、ヨブに対する神の観察と評価が正確で何も間違えていないことを証明しており、ヨブの証しを通じてサタンを辱めることになるでしょう。また別の面から見れば、神に対するヨブの信仰と畏れを完全なものとするはずです。そのため神は、サタンが自身の前に現われたとき、曖昧な言葉を使わず、単刀直入にこう訊いたのです。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味があります。つまり、サタンがあらゆるところを巡り、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していたことを、神は知っていたのです。サタンは頻繁にヨブを試み、攻撃することで、神に対するヨブの信仰と畏れが堅固なものではないと証明すべく、彼を破滅させる方法を見つけようとしたのです。またサタンは、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪い取れるよう、ヨブを打ちのめす機会をただちに窺いました。しかし神はヨブの心の中を見て、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けることがわかりました。神は質問をすることで、ヨブが神を畏れて悪を避ける完全で正しい人であり、神を捨ててサタンに従うことは決してないとサタンに伝えたのです。ヨブに対する神の評価を聞いたサタンは屈辱のあまり激怒し、その怒りは大きくなって、何としてもヨブを奪おうと思いました。完全で正しい人間、神を畏れて悪を避けることのできる人間などいないと、サタンは信じていたからです。それと同時に、サタンは人間の完全さと正しさを嫌い、神を畏れて悪を避ける人を憎んでもいました。ゆえに、ヨブ記第1章9-11節には以下のように書かれています。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」。神はサタンの悪意に満ちた本性をよく知っており、ヨブに破滅をもたらそうとずっと企んでいたことも熟知していました。そのため神は、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人間であると改めてサタンに伝えることで、サタンを自分に協力させ、サタンがその素顔を晒した上で、ヨブを攻撃して試みることを望んだのです。つまり神は、ヨブは完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だと意図的に強調し、そうすることで、完全で正しく、神を畏れて悪を避けるヨブに対する憎みと怒りのために、サタンがヨブを攻撃するようにさせたのです。結果として、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だという事実を通じて、神はサタンを恥じ入らせ、サタンは完全に辱められ、打ち倒されることになるはずです。その後は、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人であることを、サタンが疑ったり非難したりすることはなくなるでしょう。そのようなわけで、神の試練とサタンの試みはほぼ避けられないものになりました。神の試練とサタンの試みに耐えられる唯一の人はヨブでした。このやりとりの後、サタンはヨブを試みることを許され、かくしてサタンによる最初の攻撃が始まりました。このとき、攻撃の標的はヨブの財産でした。と言うのも、サタンはヨブを次のように非難していたからです。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。……あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。その結果、神はサタンに対し、ヨブの持ち物をすべて取ることを許しています。これがまさに、神がサタンと話した目的でした。それにもかかわらず、神はサタンに一つのことを要求しました。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記 1:12)。これが、ヨブへの試みをサタンに許し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件でした。そしてこれが、神がサタンに定めた制限でした。つまり神は、ヨブに危害を加えてはならないと命令したのです。ヨブが完全で正しいことを神は知っており、またヨブが自分の前で完全で正しいことに疑いの余地はなく、試練に耐えられると信じていたので、神はサタンにヨブへの試みを許すと同時に、制限を設けたのです。サタンはヨブの全財産を取ることを許されましたが、指一本触れることができませんでした。これは何を意味しますか。そのとき、神はヨブを完全にサタンに与えたわけではないということです。サタンは好きな手段を使ってヨブを試みることができたものの、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできませんでした。それは、人間に関する一切のことは神によって支配されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにその資格はなかったからです。神がサタンにこれらの言葉を述べたあと、サタンは即座にヨブへの試みを開始しました。あらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは山ほどの羊や牛に加え、神から与えられたすべての財産を失いました……。このようにして、神の試練がヨブに降りかかったのです。

聖書を読めば、ヨブに試みが降りかかった経緯がわかりますが、試みの対象となったヨブ自身は、何が起きていたかを理解していたでしょうか。ヨブはただの人に過ぎませんでした。もちろん、自分の周りで展開している物語など知るはずもありません。しかし、神を畏れ、完全で正しいおかげで、神の試練が自分に降りかかっているのだと認識することができました。霊の領域で起きたことや、これらの試練の背後にある神の意図こそわからなかったものの、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れて悪を避ける道に従うべきだということを、ヨブは知っていました。そうした事柄に対するヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていました。神は何を見ていたのでしょうか。神を畏れるヨブの心を見ていたのです。なぜなら、最初のときから試練を受けるときまでずっと、ヨブの心は神に対して開かれ、神の前に晒されており、またヨブが自身の完全さと正しさを捨てることはなく、神を畏れて悪を避ける道を捨て去ったり、そこから背を向けたりすることもなかったからです。神にとってこれ以上に嬉しいことはなかったのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 42

サタンがヨブを初めて試みる(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる) (抄出)

ヨブの反応

ヨブ記 1:20-21 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。

ヨブが自分の所有するすべてのものを進んで返したのは、神への畏れのためである

「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」と神がサタンに言ったあと、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然激しい攻撃を受けました。まず、ヨブの雄牛とロバが略奪され、何人かのしもべが殺されました。次に、ヨブの羊とさらに多くのしもべたちが焼き殺されました。その後はらくだが連れ去られ、ますます多くのしもべたちが殺され、ついには息子と娘たちの命も奪われました。この一連の攻撃が、最初の試みでヨブに降りかかった責め苦です。神に命じられた通り、サタンはこれらの攻撃の最中、ヨブの財産と子どもたちだけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはありませんでした。それにもかかわらず、ヨブは巨大な富をもつ裕福な人間から、何ももたない人間へと即座に変わってしまったのです。この驚くべき打撃に耐えたり、正しく反応したりすることなど誰にもできませんが、ヨブは自身の並外れた側面を見せました。聖書には次の記述があります。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。自分の子どもたちと全財産を失ったと聞き、ヨブが最初に見せた態度はこのようなものでした。何より、驚いた素振りをすることも、うろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを表わすことなどありませんでした。つまり、これらの災いは偶然でなく、人間の手によるものでもなく、ましてや報いや懲罰が訪れたのでもないと、ヨブはすでに心の中で気づいていたのです。むしろ、ヤーウェの試練が我が身に降りかかったのであり、ヤーウェこそが自分の財産と子どもたちを取ろうとしていたのです。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていました。完全で正しい人間性のおかげで、ヨブは降りかかった災いを理性的に、自然に、そして正確に判断して決断することができ、その結果、並外れた冷静さで振る舞うことができたのです。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。「上着を裂き」というのは、ヨブが衣服を身につけておらず、何ももっていなかったことを意味します。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味します。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸で生まれ、今日も何一つもたず、赤児のように神のもとへ戻ったことを意味します。自身に降りかかったすべての出来事に対するヨブの態度は、いかなる被造物もとることができないものでした。ヤーウェに対するヨブの信仰は、信心の領域を越えるものでした。それは神への畏れであり、従順だったのです。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝しました。さらにヨブは、自分の命も含めて、自分がもつすべてのものを自ら進んで神に返すことができたのです。

神に対するヨブの畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さと正しさは人間がもつべき人間性の頂点でした。彼は神を見ることこそありませんでしたが、神は実在すると認識しており、そのために神を畏れました。そして神への畏れのために、神に従うことができました。自分がもつすべてのものについて、ヨブはそれらを神の意のままにさせましたが、一言も不満を漏らさず、神の前にひれ伏し、たとえいまの瞬間に神が自分の肉体を取り上げても、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのです。ヨブのすべての行ないは、彼の完全で正しい人間性によるものでした。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果として、神の存在に対するヨブの認識と経験は揺らぐことがなかったのです。この土台の上に、神による導きと、万物において自分が目にした神の業に沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方、振る舞い、行ない、そして行動の原則を標準化したのです。やがて時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的かつ実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせました。これが、ヨブが堅く保持する完全さの根源となっているものです。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性をもっており、神を畏れ、神に従い、悪を避けることを実際に経験しており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識をもっていました。ひとえにこれらのことにより、ヨブはサタンによるかくもひどい攻撃を受けながらも、しっかり立って証しをすることができました。またひとえにそのおかげで、神の試練が降りかかった際も神を失望させず、神に満足ゆく答えを返すことができたのです。最初の試みにおけるヨブの行ないは非常に率直なものでしたが、後の世代の人々は、一生努力を重ねてもヨブのような率直さを会得できるかどうか、あるいは先ほど述べたヨブの行ないを自分のものにできるかどうか、自信をもてませんでした。今日、ヨブの率直な行動を目の当たりにし、神を信じて従っていると自称する人々の「死に至るまでの完全な従順と忠誠」という叫びと決意をそれと比べるとき、あなたがたは深く恥じ入りますか、それとも恥じ入りませんか。

ヨブと彼の家族が受けた苦しみを聖書で読んで、みなさんはどのように受け取ったでしょうか。考え込んでしまうでしょうか。驚くでしょうか。ヨブに降りかかった試練は「恐ろしい」と言えるものでしょうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、それが実生活においていかに恐ろしいものだったかは言うまでもないということです。したがって、ヨブに降りかかったことは「演習」ではなく、実際の「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」だったことがわかります。では、誰の手によってこれらの試練がヨブの身に起きたのでしょうか。もちろん、それらはサタンの仕業であり、サタンが自らの手で行なったことです。それにもかかわらず、それらは神に許可されていました。神はサタンに、どの手段を用いてヨブを試みよと言ったのでしょうか。神はそのようなことは言っていません。神はサタンが守るべき一つの条件を設けただけで、それからヨブに試みが降りかかりました。ヨブに試みが降りかかったとき、人々はそれによってサタンの邪悪さと醜さ、人間に対する悪意と嫌悪、そして神への敵意を感じとりました。そのことから、この試みがいかに残酷なものだったか、言葉では表現できないことがわかります。この瞬間、サタンが人を虐げる際の悪意に満ちた本性とその醜い顔が完全に露呈したと言えます。サタンはこの機会、つまり神の許可によってもたらされた機会を用いて、ヨブを激しく、かつ冷酷に痛めつけ、その残酷さの手段と程度は、今日の人々には想像することも許容することも一切できないものでした。ヨブはサタンの試みに遭い、またその試みのさなかに固く立って証しをしたというよりも、むしろ神から与えられた試練の中、自身の完全さと正しさを守り、神を畏れて悪を避ける道を守るべく、サタンとの戦いに乗り出したと言うほうが適切でしょう。この戦いで、ヨブは山ほど多くの羊と牛、すべての財産、そして息子と娘たちを失いました。しかし、完全さと正しさ、神に対する畏れを捨てることはありませんでした。つまり、このサタンとの戦いにおいて、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子どもを奪われるほうを選んだのです。人間であることの意味の根源を手放さないほうを選んだのです。聖書にはヨブが財産を失った過程全体が簡潔に記されており、ヨブの行ないや態度も記録されています。記述が短く簡潔なために、この試みに遭ったヨブはあたかもゆったり構えていたかのような感じを与えますが、そのとき実際に起きたことを再現し、悪意に満ちたサタンの本性の事実も考慮すれば、物事はこれらの文章に書かれているほど単純なものでも簡単なものでもありません。実際にははるかに残酷だったのです。人類、および神が認めるすべての人に対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのです。ヨブを傷つけてはならないと神がサタンに求めていなければ、サタンは平気でヨブを殺していたでしょう。サタンは誰も神を崇拝しないことを望み、神の目から見て義なる者や、完全で正しい者が引き続き神を畏れ、悪を避けていられることを望みません。人々が神を畏れて悪を避けるというのは、サタンを避けて捨てるということです。ゆえに、サタンは神から許可されたのをいいことに、すべての怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのです。したがって、ヨブが心身ともに、また内側も外側も、どれほど苦しんだかがわかるでしょう。そのときの様子がどのようなものだったかは、今日のわたしたちが知ることはできず、聖書の記録から、責め苦に見舞われたヨブの当時の感情をわずかに垣間見ることしかできません。

ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

では、ヨブがこの責め苦に見舞われていたとき、神は何をしていましたか。神は観察し、見守り、その結果を待っていました。観察して見守りながら、神はどう感じたでしょうか。もちろん悲しみに打ちひしがれていました。しかし悲しみを感じたからというだけで、サタンがヨブを試みるのを許したことに対し、神は果たして後悔したでしょうか。答えはいいえです。神がそのような後悔を感じたはずはありません。ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けると、神は堅く信じていたからです。ヨブが神の前で義であることを証明し、サタン自身の邪悪さと卑劣さを暴く機会を、神はサタンに与えただけなのです。さらにそれはヨブにとって、自分が義なる人であり、神を畏れて悪を避けることを、世界の人々とサタン、さらには神に従うすべての人にまで証しする機会でもありました。そしてその最終的な結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明したでしょうか。ヨブは実際にサタンに勝利したでしょうか。ここでヨブがサタンに勝利したことを証明する、ヨブが語った典型的な言葉を読みましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」とヨブは言いました。これが神に対するヨブの従順さの態度でした。次にヨブはこう言いました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。ヨブが語ったこれらの言葉は、神が人の心の奥深くを観察していること、人の考えを見通せることを証明するものであり、ヨブに対する神の評価に誤りがなく、神に認められたこの人が正しい者だったことを証明しています。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉は神に対するヨブの証しです。何の変哲もないこれらの言葉がサタンを脅かし、辱め、慌てて退散させ、さらにはサタンに足かせをはめ、どうしようもなくさせたのです。またこれらの言葉はサタンにヤーウェ神の業の偉大さと力を実感させ、神の道に心を支配されている人がもつ並外れた資質を思い知らせました。そしてさらに、取るに足りない普通の人間が神を畏れて悪を避ける道に従う中で見せる、強力な活力をサタンに対して見せつけたのです。こうしてサタンは最初の戦いに敗れました。「思い知った」にもかかわらず、サタンにヨブを諦めるつもりはなく、その邪悪な本性も何一つ変わりませんでした。引き続きヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来ました……。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 43

サタンがもう一度ヨブを攻撃する(腫れ物がヨブの全身を覆う) (抄出)

1) 神が語った言葉

ヨブ記 2:3 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

2) サタンの言葉

ヨブ記 2:4-5 サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

3) ヨブは試練にどう対処したか

ヨブ記 2:9-10 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

ヨブ記 3:3-4 わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように

神の道に対するヨブの愛は他の全てを越える

聖書には神とサタンの述べた言葉が次のように書かれています。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした』」(ヨブ記 2:3)。この会話の中で、神はサタンに同じ質問を繰り返しています。この質問は、ヨブが最初の試練で見せたもの、および生きたものに対してヤーウェ神が良い評価を与えたこと、そしてその評価が、サタンによる試みを受ける前の評価と何ら変わっていないことをわたしたちに示しています。つまり、ヨブに試練が降りかかる以前、神の目から見てヨブは完全であり、そのため神はヨブとその家族を守り、祝福したのです。神の目から見て、ヨブは祝福されるにふさわしかったのです。試練の後、ヨブは財産と子どもたちを失ったからといって自らの舌で罪を犯すことはなく、ヤーウェの名を称え続けました。ヨブの実際の行ないのために神はヨブを称え、満点の評価を与えました。ヨブにとって、自分の子どもも財産も、神を捨てるほど価値あるものではなかったのです。言い換えれば、ヨブの心における神の居場所が、彼の子どもたちや財産によって置き換わることはあり得なかったということです。最初の試みの中、ヨブは神に対し、神に対する自分の愛、そして神を畏れて悪を避ける道に対する自分の愛が他のすべてを超えることを示しました。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子どもたちをヤーウェ神に取り上げられるという経験をヨブに与えたに過ぎなかったのです。

ヨブにとってこの試みは、自分の魂をきれいに洗い流す実体験になりました。それは彼の人生を充実させるいのちのバプテスマであり、またそれ以上に、神に対するヨブの従順と畏れを試す壮麗な祝宴でもありました。この試みはヨブの立場を富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐待も経験させました。ヨブは貧窮したからといってサタンを憎みはしませんでした。それどころか、サタンの下劣な行ないの中にサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのです。ヨブはそれに励まされ、神を畏れて悪を避ける道への決心をよりいっそう、永遠に固くしました。そして財産、子ども、あるいは家族といった外部の要因のために神を見捨てて神の道に背を向けることは決してせず、またサタン、財産、およびどのような人に対しても、その奴隷には決してならないと誓いました。ヤーウェ神を除き、誰かが自分の主、自分の神になるなどあり得なかったのです。それがヨブの強い思いでした。一方、ヨブがこの試みから得たものもありました。神から与えられた試練の中で、ヨブは巨大な富を得たのです。

それまでの数十年間の人生において、ヨブはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェ神からの祝福を受けてきました。それらはヨブを大いに不安にさせ、また恐縮させた祝福でした。と言うのも、自分は神のために何もしていないのに、これほど偉大な恵みを授けられ、これほど多くの恵みを享受したのだと信じていたからです。そのためヨブは心の中でしばしば祈り、神に報いられるようになること、神の業と偉大さを証しする機会を得ること、自分の従順さが試されること、そしてさらに、自分の従順と信仰が神から認められるまで、自分の信仰が清められることを願いました。かくして、試練が自分に降りかかった際、神は自分の祈りを聞いてくださったのだとヨブは信じました。そしてこの機会を他の何より大切にし、あえて軽々しく扱おうとはしませんでした。最も大きな長年の願いが叶えられるからです。この機会が訪れたのは、神に対する自身の従順と畏れが試され、純粋なものにされることを意味していました。そのうえそれは、神に認められ、近づく機会がもたらされたことも意味していました。試練の間、ヨブはそうした信仰と追求のおかげでより完全になり、神の旨に関する理解をさらに深めました。また、神の祝福と恵みにますます感謝し、心の中で神の業をよりいっそう称え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛、偉大さ、そして聖さを切望しました。この時点で、ヨブは神の目から見て、いまだ神を畏れて悪を避ける者でしたが、経験という点から言えば、ヨブの信仰と認識は飛躍的に成長していました。信仰が増し、従順さが足がかりを得て、神への畏れがより深まっていたのです。この試練はヨブの霊といのちを変えましたが、そのような変化はヨブを満足させず、彼の前進を遅らせることもありませんでした。この試練から得たものは何かと計算し、自分の欠点を考えるのと同時に、ヨブは静かに祈り、次なる試練が自分の身に降りかかるのを待ちました。と言うのも、神の次なる試練において、自分の信仰、従順、そして神への畏れが引き上げられることを切望していたからです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 44

サタンがもう一度ヨブを攻撃する(腫れ物がヨブの全身を覆う) (抄出)

1) 神が語った言葉

ヨブ記 2:3 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

2) サタンの言葉

ヨブ記 2:4-5 サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

極限の苦しみの中、ヨブは人類に対する神の気遣いを実感する

自分に対するヤーウェ神の質問を聞き、サタンは密かに喜びました。神の目から見て完全であるこの人間を攻撃することが再び許されるとわかったからです。サタンにとって、それはまたとないチャンスです。この機会を利用してヨブの信念を完全に崩し、神に対する彼の信仰を失わせ、彼が神を畏れることも、ヤーウェの名を称えることもなくなるようにさせようとしたのです。これはサタンに一つの機会を与えるものでした。つまり、いつでもどこでもヨブを思いのままもてあそべるのです。サタンはその悪意に満ちた意図を跡形もなく隠しましたが、邪悪な本性を抑えることはできませんでした。聖句に書かれているヤーウェ神の言葉に対するサタンの返答から、その事実がうかがえます。「サタンはヤーウェに答えて言った、『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」(ヨブ記 2:4-5)。この神とサタンのやりとりから、サタンの邪悪さを明確に理解し、感じることができないはずはありません。サタンのこの詭弁を聞いて、真理を愛し悪を憎む人はみな間違いなくサタンの下劣さと無恥さをさらに憎み、ぞっとして嫌悪するでしょう。同時に、ヨブに対して心からの祈りと真摯な願いを捧げ、この正しい人が完全にされるよう祈り、神を畏れて悪を避けるこの人が永遠にサタンの試みに打ち勝ち、神の導きと祝福の中、光の中で生きることを願うでしょう。そしてこのような人は、ヨブの義なる行ないが、神を畏れて悪を避ける道を追い求めるすべての人々を永遠に駆り立て、励ますことを願うでしょう。この言葉の中にサタンの邪悪な意図が見て取れますが、神はサタンの「要求」を快諾しました。ただ、一つだけ条件をつけました。それは、「彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」(ヨブ記 2:6)というものです。今回、サタンは手を伸ばしてヨブの肉と骨を傷つけることを求めたので、神は「ただ彼の命を助けよ」と言ったのです。この言葉の意味は、神はヨブの肉をサタンに与えたものの、彼の命は自ら守ったということです。サタンはヨブの命を奪うことこそできませんでしたが、それ以外のことであれば、ヨブに対してどんな方法や手段でも使うことができたのです。

神の許しを得たサタンはヨブのもとへ急ぎ、手を伸ばしてヨブの皮膚を痛めつけました。するとヨブの全身に腫れ物ができ、ヨブは皮膚に痛みを感じました。それでもヤーウェ神の素晴らしさと聖さを称えたため、サタンは厚かましくもより手荒になりました。人を傷つけることに喜びを感じていたサタンは、手を伸ばしてヨブの肉をかきむしり、腫物がただれるようにしました。ヨブはすぐに比類なき痛みと苦痛を感じ始め、この肉体の痛みが魂に与えた打撃を和らげるかのように、頭の先からつま先まで両手でかきむしらずにはいられなくなりました。また、神がそばにいて自分を見守っていることにヨブは気づいており、全力で覚悟を固めようとしました。そして再び地にひざまずき、こう言いました。「あなたは人の心をご覧になり、その人の苦悩を見られます。あなたはなぜ人の弱さを心配されるのでしょう。ヤーウェ神の御名はほむべきかな」。サタンはヨブの耐えがたい苦しみを目にしましたが、ヨブがヤーウェ神の名を捨てるのは見ませんでした。そこでサタンは急いで手を伸ばし、ヨブの骨を痛めつけて必死に彼の四肢を砕こうとしました。ヨブは瞬く間に経験したことのない苦痛を感じました。それはあたかも自分の肉が骨から剥がされ、骨を一つひとつ砕かれるかのようであり、その痛さたるや死んだほうがましだと思うほどでした……。苦痛への我慢も限界に達していたのです……。ヨブは叫び声を上げ、少しでも傷みを和らげるために自分の皮膚をはがしたいと思うほどでした。それでもヨブは叫ぶのをこらえ、自分の皮膚をはがすこともしませんでした。自分の弱さをサタンに見せたくなかったからです。そこで再びひざまずいたのですが、今度はヤーウェ神の存在を感じませんでした。ヤーウェ神がしばしば自分の前後左右にいることをヨブは知っていましたが、この痛みの中、神はヨブを一顧だにせず、顔を覆って隠れていたのです。と言うのも、神が人間を創造したのは、人間に苦しみをもたらすためではなかったからです。このときヨブは涙を流しながら、必死に身体の痛みに耐えていましたが、もはや神に感謝せずにはいられなくなりました。「人は最初の一撃で倒れます。人は弱く無力で、若くて無知です。なぜあなたは人を労り、優しくしようと望まれるのですか。あなたはわたしを打ちますが、そうすることで痛みを感じておられます。人のいったい何が、あなたの労りとお気遣いにふさわしいのでしょう」。ヨブの祈りは神の耳に届きました。そして神は無言のまま、黙って見ているだけでした……。あらゆる策を試みながらそのどれも失敗に終わり、サタンは静かに去りました。しかし、ヨブに対する神の試練はまだ終わっていませんでした。ヨブにおいて明らかにされた神の力はまだ公にされていなかったので、ヨブの物語がサタンの退散で終わることはなかったのです。別の人物が登場し、さらに壮大な場面が続きました。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 45

ヨブが神を畏れ悪を避けたことは、万事において神の名を讃えたことにも示されている

サタンの暴虐に苦しんだヨブは、それでもヤーウェ神の名を捨てませんでした。最初に舞台に登場し、人の目に見える姿でサタンの役を演じてヨブを攻撃したのは彼の妻でした。原文はその様子を次のように描写しています。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」(ヨブ記 2:9)。これは人の姿をしたサタンによる言葉です。この言葉は攻撃であり、断罪であり、誘惑であり、試みであり、中傷です。ヨブの肉への攻撃に失敗したサタンは彼の高潔さを直接攻撃し、彼がその高潔さを捨て去り、神を捨て、これ以上生き続けないことを望んだのです。そのためサタンは、次の言葉を用いてヨブを試みることもしました。つまり、ヤーウェの名を捨てればこのような苦しみに耐える必要はなく、肉体の責め苦から解放される、と。妻の忠告を聞いたヨブは彼女を叱ってこう言いました。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記 2:10)。ヨブはこれらの言葉をずっと以前から知っていましたが、このとき、これらの言葉に関するヨブの認識の真実が証明されたのです。

ヨブの妻は神を呪って死になさいとヨブに忠告しましたが、その意味はこうです。「あなたの神はあなたをこのように扱っています。それならなぜ神を呪わないのですか。それでもなお生きて何をしているのですか。あなたの神はあなたに対してとても不公平なのに、それでもあなたは『ヤーウェのみ名はほむべきかな』などと言うのですか。あなたがヤーウェの御名を称えているというのに、災難をもたらすというのはどういうことですか。さっさと神の名を捨てて、従うのをやめなさい。そうすれば災難は終わるのです」。この瞬間、神がヨブにおいて見ることを望んでいた証しが生まれました。普通の人間にそのような証しはできず、また聖書のどの物語にもそのようなことは記されていません。しかしヨブがこのような言葉を発するずっと前から、神はそれを知っていたのです。神はこの機会を使うことで、ヨブがすべての人間に対し、神は正しいのだと証明させることを望んだに過ぎないのです。ヨブは妻の忠告を聞いても高潔さを失わず、また神を捨てることもしなかっただけでなく、妻にこう言いました。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。これらの言葉に大きな重みはありますか。ここに唯一、この言葉の重みを証明できる事実があります。この言葉の重みは、それが神に認められ、神が望むもの、神が聞きたいものであり、また神が見ることを切望していた結果であるということです。また、これらの言葉はヨブの証しの核心でもあります。これにより、ヨブの完全さ、正しさ、そして神を畏れて悪を避けることが証明されたのです。ヨブが尊いのは、試みに遭い、全身が腫物に覆われ、極度の責め苦にさいなまれ、妻や身内に忠告されても、このような言葉を発することができた点にあります。言い換えれば、どのような試みに遭おうと、困難や責め苦がいかに深刻だろうと、ヨブはたとえ死に直面しても神への信仰を捨てず、神を畏れて悪を避ける道を一蹴することがなかったのです。こうして、ヨブの心の中で最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心には神だけがいたということがわかります。そのようなわけで、ヨブに関する次のような描写が聖書にはあるのです。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯さなかっただけでなく、心の中で神への不満を漏らすこともありませんでした。また神を傷つける言葉を発することも、神に対して罪を犯すこともありませんでした。ヨブは唇によって神の名を称えただけでなく、心の中でも神を称えたのです。ヨブの唇と心は一つでした。これが神の見た真のヨブであり、まさにこの理由で、神はヨブを大切にしたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 46

人々がヨブについて抱く数多くの誤解

ヨブが受けた苦難は神の使いによる働きではなく、神自身の手によるものでもありませんでした。むしろそれは、神の敵であるサタンが直接引き起こしたものです。その結果、ヨブが受けた苦しみは大きなものになりました。それでもヨブはこの瞬間、心の中に抱く神に関する日々の認識、日々の行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表わしました。これは事実です。ヨブが試みを受けていなければ、また神がヨブに試練を与えなければ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と述べたヨブは偽善者だとあなたは言うでしょう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を称えたのは当然だと。もしヨブが試みを受ける前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなたは「ヨブは誇張しているだけだ。神の手で何度も祝福されてきたのだから、神の名を捨てるはずがない」と言うでしょう。また、「神がヨブに試練をもたらしていれば、ヨブは神の名を捨てたはずだ」とも言うでしょう。しかしヨブは、誰も望まない、あるいは誰も見たくない状況、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれた際、それでも高潔さを保ち、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言うことができました。仰々しい言葉を語ることが大好きな人、文字や教義を語ることが大好きな人も、そのときのヨブの行ないを見れば言葉を失います。口先だけで神の名を称え、神の試練を受け入れたことがない人は、ヨブが固く抱いていた高潔さのために咎められ、また人間は神の道を固く守れると信じたことのない人は、ヨブの証しによって裁かれます。試練におけるヨブの行ない、およびヨブが語った言葉を目の当たりにして、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいるでしょう。さらにはヨブの証しに関心を示さず、鼻であしらう人もいるでしょう。そのような人は、試練のさなかにヨブに降りかかった責め苦を目にしたとき、ヨブの言葉を読むだけでなく、試練が降りかかった際にヨブが見せた人間の「弱さ」も見ているからです。彼らはこの「弱さ」を、ヨブの完全さにおける不完全らしきもの、神の目から見て完全である人間の欠点だと信じています。つまり、完全な人は完璧であり、欠点も汚点もなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、憎しみを感じることも、外面的に極端な振る舞いをすることもないと信じているのです。結果として大半の人が、ヨブは真に完全であると信じていません。ヨブが試練のさなかに見せた振る舞いの多くを、人々は認めません。例えば、ヨブは財産と子どもを失ったとき、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしませんでした。ヨブが見せた「非礼」のせいで、人々はヨブのことを冷たい人間だと思いました。家族のために涙を流さず、家族への愛情もなかったからです。これが、人々がヨブに対して最初に抱く悪い印象です。その後のヨブの振る舞いはさらに彼らを困惑させます。「上着を裂いた」のは神に対する不敬と解釈され、「頭をそり」は神への冒瀆および反抗だと誤解されました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」というヨブの言葉を除き、人々は神に称えられたヨブの義を一つも識別せず、大多数の人がヨブに行なう評価は理解不能、誤解、疑い、断罪、そして理論上だけの承認という域を超えないのです。ヨブは完全で正しい人、神を畏れて悪を避ける人であるというヤーウェ神の言葉を真に理解し、認識できる人は一人もいません。

人々はヨブに対するこのような印象を基に、彼の義についてもさらなる疑いを抱きます。と言うのも、ヨブの行動と聖書に書かれているヨブの行ないは、人々が想像するように、地を揺るがすような感動的なものではないからです。ヨブは偉業を行なわなかっただけでなく、陶器の破片を手に取り、灰の中に座りながら自らの皮膚をかきむしりました。この行動は人々を驚かせただけでなく、ヨブの義について疑いを抱かせ、さらにはそれを否定させました。と言うのも、ヨブは自分の皮膚をかきむしりながら、神に祈ることも誓いを立てることもせず、それ以上に、苦痛の涙も見せなかったからです。人々がこのとき見たのはヨブの弱さだけであり、それゆえ「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いてもまったく感動せず、さもなければ決心がつかず、ヨブの言葉から彼の義を識別することができません。試練による責め苦のさなか、ヨブが人々に与える基本的な印象は、彼が卑屈でも傲慢でもないというものです。人々はヨブの心の奥底で演じられていた、彼の振る舞いの裏にある物語を見ておらず、また心の中にある神への畏れも、悪を避ける道の原則を遵守することも見てはいません。人々はヨブの冷静さのために、彼の完全さと正しさは空虚な言葉に過ぎず、神への畏れも単なるうわさだと考えています。その一方で、彼が外面的に示した「弱さ」は人々に強い印象を残し、神が完全で義であるとしたこの人間に関する「新たな視点」や、さらには「新たな認識」さえも与えるのです。そのような「新たな視点」や「新たな認識」は、ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪った際に証明されることになります。

ヨブが受けた苦しみの程度は、誰一人想像することも理解することもできないものでしたが、ヨブは神に背く発言をせず、自分にできる手段で身体の痛みを和らげるだけでした。聖書に記されているとおり、ヨブはこのように言いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」(ヨブ記 3:3)。この言葉を重視した人はおそらく一人もおらず、注意を払った人ならいるかもしれません。あなたがたの考えでは、それらの言葉はヨブが神に反抗したことを意味するものでしょうか。ヨブの言葉は神に対する不平でしょうか。わたしは知っていますが、あなたがたの多くはヨブの言葉について特定の考えをもち、ヨブが完全で正しかったのなら、弱さや悲痛を示すのではなく、サタンのどのような攻撃にも積極的に立ち向かい、サタンの試みを前に笑みすら浮かべるべきだったと信じています。サタンによって肉体にもたらされた責め苦に何の反応も示さず、心中の感情も見せるべきではなかったのです。そしてさらに、神がこれらの試練をより厳しいものにするよう求めるべきだったのです。これが、揺るぎない人間、神を畏れて悪を避ける人間が示し、自分のものにすべきことなのです。この極度の責め苦の中、ヨブは自分の生まれた日を呪う以外に何もしませんでした。神について不平を言わず、ましてや神に背く意図などなかったのです。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではありません。と言うのも、はるか昔から今日に至るまで、ヨブに降りかかった試みと苦しみを経験した人はいないからです。では、ヨブと同じような試みに晒された人がいないのはなぜでしょうか。それは、神の目から見て、ヨブと同じくらい責任感や使命感をもち、ヨブのように物事を行ない、そしてさらに、このような責め苦が降りかかった際、自分の生まれた日を呪った以外に、神の名を捨てずにヤーウェ神の名を称え続けられた人がいなかったからです。そのようなことをできる人がいるでしょうか。ヨブについてこのように話すとき、わたしたちは彼の振る舞いを称賛しているのでしょうか。ヨブは義なる人であり、神への証しをすることができ、またサタンが神の前に出て自分を責めることが二度とないよう、尻尾を巻いて退散させることができました。であれば、ヨブを称えることの何が間違っているのですか。あなたがたの基準は神の基準より高いとでも言うのですか。試練が自分に降りかかるとき、ヨブより立派に行動できるとでも言うのですか。ヨブは神に称賛されました。それに対して何の異議を唱えられますか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 47

ヨブが自分の生まれた日を呪ったのは、神に心を痛めてほしくなかったからである

神が人の心の中を見る一方、人間は人の外側を見るとわたしはよく言います。神は人の心の中を見るので、人の本質を理解しますが、人間は人の外見に基づいてその人の本質を判断します。ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪ったとき、ヨブの三人の友人を含むすべての霊的な人たちが驚きました。人は神から来たのだから、神から授かった命と肉体、そして自分の生まれた日を感謝すべきであり、それらを呪うべきではないというのです。これは普通の人間なら理解して思いつけることです。神に従う誰にとっても、その理解は犯すことのできない神聖なものであり、決して変わることのない真理です。一方、ヨブはこれらの規則を破り、自分の生まれた日を呪いました。それは、大半の人が一線を越えたと見なす行ないでした。ヨブは人々の理解と慈悲に値しないだけでなく、神の赦しにも値しないのです。同時に、さらに多くの人々がヨブの義を疑うようになりました。なぜなら、ヨブは神に気に入られたことでわがままになり、これまでの人生で神から与えられてきた祝福と慈しみに感謝しないばかりか、自分の生まれた日を呪って滅ぼすほど大胆かつ無謀になったように見えたからです。これが神への反抗でないとすれば何でしょうか。このような表面的な見方は人々にとって、ヨブのこの行ないを断罪する証拠となりましたが、そのときヨブが本当は何を考えていたのか、いったい誰が理解できるでしょうか。ヨブがそのように行動した理由を、いったい誰が知り得るでしょうか。この出来事の真相と理由は、神とヨブ自身だけが知っています。

サタンが自らの手を伸ばしてヨブの骨を痛めつけようとしたとき、ヨブは逃げる手段も抵抗する力もないまま、サタンの手中に落ちました。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、その痛みのために、肉に生きる人間の卑小さ、もろさ、無力さを実感しました。同時に、神がなぜ人間を慈しみ、見守るのかに関する深い認識と理解も得ました。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血でできた人間が実に無力で弱いことを知ったのです。ヨブがひざまずいて神に祈ると、あたかも神が顔を覆って隠れているかのように感じられました。神はヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからです。それと同時に、神もヨブのために涙を流し、またそれ以上に苦しみました。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついたのです……。ヨブは神の痛みを感じ、神にとってそれがいかに耐え難いかも感じとりました……。それ以上神を悲しませることも、神が自分のために涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望みませんでした。このとき、ヨブは自分の肉を取り除き、これ以上この肉からもたらされる傷みに苛まれないことだけを望みました。そうすれば、自分の痛みのために神が苦しまなくて済むからです。しかし、ヨブはそうすることができず、肉の痛みに耐えなければならないばかりか、神に心配をかけたくないという思いの責め苦にも耐えなくてはなりませんでした。この二つの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血でできた人間の限界がもたらす失望と無力を痛感させました。そのような状況のもと、神を切望するヨブの思いはさらに強くなり、サタンに対する嫌悪がさらに増しました。ヨブはこのとき、人の世界に生まれて来なければよかったと思いました。神が自分のために涙を流したり、痛みを感じたりするくらいなら、自分が存在しないほうがよいと思ったのです。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身、自分の生まれた日、そして自分に関係する一切のことさえつくづく嫌になり始めました。そして自分の生まれた日やそれに関するものをすべて忘れたいと思い、口を開いて自分の生まれた日を呪いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」(ヨブ記 3:3-4)。ヨブの言葉には「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」という自責の念、そして神に痛みをもたらした罪悪感が込められています。この二つの聖句は当時のヨブの感情を表わす極限の言葉であり、彼の完全さと正しさをすべての人に余すところなく示すものです。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは真に高められたのです。もちろんこれは、神が予期した通りの効果でした。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 48

ヨブはサタンを打ち負かし、神の目から見て真の人となる

最初に試練に遭った際、ヨブは財産と子どもを残らず失いましたが、それによって躓くことも、神への罪となる言葉をを口にすることもありませんでした。ヨブはサタンの試みに勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世俗の財産をすべて失うという試練に勝利しました。つまり、自分から何かを取り上げる神に従い、また神がしたことに対し、神に感謝と讃美を捧げられたのです。それがサタンによる最初の試みにおけるヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもありました。二度目の試練において、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめました。ヨブはかつて感じたことのない苦痛を経験しますが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるのに十分でした。ヨブはその不屈の精神、信念、神への従順、そして神への畏れによって再びサタンに勝利し、彼の行ないと証しはまたしても神に認められ、喜ばれました。この試みの間、ヨブはサタンに対し、肉の苦痛は神への信仰と従順を変えることも、神に対する強い愛着と畏れを奪うこともできないと、実際の行ないによって宣言しています。死に直面したからといって、神を拒んだり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしないのです。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを臆病にさせて震えさせ、サタンとの生死をかけた戦いの激しさは、サタンの中で強い憎しみと恨みを膨らませ、そしてヨブの完全さと正しさの前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前で行なったヨブへの非難を捨てました。これが意味するのは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に打ち勝ったということです。ヨブはまさに、完全に神に属する人でした。この二度の試練の間、ヨブは固く立って証しを行ない、自身の完全さと正しさを生き通し、神を畏れて悪を避けるという生きる上での原則の範囲を広げました。二つの試練を経たことで、ヨブの中にさらなる経験が生まれ、この経験によってヨブはさらに成熟して鍛えられ、それまで以上に強くなり、さらに強い信念をもち、自身が固く保つ高潔さの正しさと価値をさらに確信しました。ヤーウェ神によるヨブへの試練は、神が人間に対して抱く配慮を彼に深く理解させ、また実感させ、神の愛の尊さを感じ取れるようにしました。そしてそこから、神への思いやりと愛が、神に対するヨブの畏れに加わりました。ヤーウェ神による試練は、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけました。自分の肉の苦痛が頂点に達したとき、ヨブはヤーウェ神から感じ取っていた懸念のために、自分の生まれた日を呪うしかありませんでした。このような行ないは前もって計画されていたものではなく、神への思いやりと愛の自然な表現、神への思いやりと愛から生じた自然な表現なのです。つまり、ヨブは自身を忌み嫌い、神を苦しめることを望まず、またそうすることに耐えられなかったので、ヨブの思いやりと愛は無私のレベルに達したのです。このとき、長年にわたる神への敬慕と切望、そして神に対する強い愛着が、思いやりと愛というレベルに引き上げられたのです。それと同時に、神に対するヨブの信仰と従順、そして神への畏れもまた、思いやりと愛というレベルに引き上げられました。神に痛みを与え得ること、神を傷つける行ない、そして神に悲しみや嘆き、さらには不幸をもたらすことを、ヨブは一切自分に許しませんでした。神の目から見て、ヨブは以前と同じヨブのままでしたが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神に完全なる満足と喜びをもたらしたのです。このとき、神がヨブに期待した完全さをヨブは獲得しており、神の目から見て「完全で正しい」と呼ばれるに値する人となっていました。ヨブは自身の義なる行ないのおかげでサタンに勝利し、固く立って神への証しをすることができました。そしてまた、ヨブの義なる行ないは彼を完全にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでになく超越させるとともに、ヨブがサタンによる攻撃や試みを二度と受けない最初の人物となるようにしました。ヨブは義なる人だったので、サタンに責められ、試みられました。ヨブは義なる人だったので、サタンに引き渡されました。そしてヨブは義なる人だったので、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、固く立って証しをしました。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の玉座の前に出て、神の祝福のもと、サタンによる監視も破滅もなく、光の中で生きたのです……。ヨブは神の目から見て真の人となり、解放されたのです……。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 49

ヨブの日常生活の中に、わたしたちは彼の完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避けることを見いだせる

ヨブについて語ろうとするなら、「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」という、神自身の口から発せられたヨブの評価から始めなければなりません。

まずはヨブの完全さと正しさについて学びましょう。

あなたがたは「完全」および「正しい」という言葉をどのように理解していますか。ヨブに非難すべき点はなく、高潔だったと思うでしょうか。もちろん、これは「完全」および「正しい」という言葉の文字通りの解釈です。しかし、ヨブのことを真に理解するには実生活の背景が不可欠であり、言葉や書籍や理論が答えをもたらすことはありません。まずはヨブの家庭生活、つまり日々の生活における通常の行ないがどのようなものだったかを検討しましょう。そうすることで、人生における彼の原則と目的、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからです。それではヨブ記第1章3節の最後の部分を読んでみましょう。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するのは、ヨブの地位と立場が非常に高かったということであり、多くの財産を所有しているからといって、または完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人間だからといって、東方で最も偉大な人間だったかどうかはわからないにしても、ヨブの地位と立場は非常に尊ばれていたことがわかります。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れて悪を避ける完全な人で、巨大な富と尊敬される地位を有していたということです。ヨブはそのような環境と条件のもとで暮らす普通の人間でしたが、その食生活や生活水準、および個人的生活の様々な側面は、ほとんどの人が注目するところでしょう。そこで、引き続き聖句を読む必要があります。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記 1:4-5)。この聖句から二つのことが分かります。一つは、ヨブの息子や娘たちが定期的に宴を催し、たらふく飲み食いしていたこと。もう一つは、ヨブが息子や娘のことを心配し、子どもたちが罪を犯しているのではないか、心の中で神を捨てたのではないかと恐れ、たびたび燔祭の捧げ物をしていたということです。この聖句には異なる二種類の人間が描かれています。まずはヨブの息子と娘たち。彼らは裕福なおかげでたびたび宴を催し、贅沢な暮らしを送りつつ、心ゆくまで豪華な飲み物や食事を楽しみ、物質的な富がもたらす高水準の暮らしを享受していました。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神に背くことは避けられません。それでも彼らは自らの身を清めたり、燔祭の捧げ物をすることはありませんでした。そこからわかるのは、彼らの心に神の居場所がなかったこと、彼らが神の恵みに思いを馳せることはなく、神に背くのを恐れなかったこと、ましてや神を捨てるのを恐れてなどいなかったことです。もちろん、わたしたちがいま問題にしているのはヨブの子どもたちではなく、そのようなことを目の当たりにしたヨブがどうしたかです。これが、この聖句に書かれているもう一つのことであり、ヨブの日常生活と彼の人間性実質がそこに関わっています。ヨブの息子と娘たちによる宴を描いている一節に、ヨブに関する記述はありません。ヨブの息子と娘たちはしばしば一緒に飲み食いしていたとだけ書いてあります。言い換えれば、ヨブが宴を催したわけではなく、そこで息子や娘たちと一緒に贅沢に飲み食いしてもいないのです。ヨブは裕福であり、多くの財産としもべを所有していたが、その暮らしは贅沢なものではありませんでした。最高の生活環境を楽しむことなく、富のために肉の享楽にふけることもなく、燔祭の捧げ物を忘れるということもなく、ましてやそのために心の中で神を徐々に避けることなどありませんでした。明らかに、ヨブは自制した生活を送っており、神の祝福の結果として貪欲になることも、快楽主義に陥ることもなく、生活水準にこだわることもなかったのです。むしろ、彼は謙虚で慎み深く、見栄を張らず、神の前で注意深く慎重でした。しばしば神の恵みと祝福に思いを馳せ、常に神を畏れました。日常生活において、ヨブはしばしば朝早く起き、息子と娘たちのために燔祭の捧げ物をしました。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子どもたちも同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていたのです。物質的な富がヨブの心を占めることはまったくなく、神が占める地位に取って代わることもありませんでした。自分自身のためであれ、子どもたちのためであれ、ヨブの日頃の行ないはすべて神を畏れて悪を避けることに結びついていました。ヤーウェ神に対するヨブの畏れは言葉だけにとどまらず、行動に移され、日常生活のあらゆる場面に反映されていました。このような実際の振る舞いから、ヨブは正直で、正義と肯定的な物事を愛する本質の持ち主だったことがわかります。ヨブがしばしば息子と娘たちを聖別しに送らせたということは、彼が子どもたちの振る舞いを良しとせず、認めもしなかったことを意味します。むしろ、心の中で子どもたちの振る舞いにうんざりしており、彼らを非難していました。息子と娘たちの振る舞いはヤーウェ神に喜ばれていないと結論づけていたのです。そのため、ヨブは頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に赴かせて罪を告白させました。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見えます。それは、頻繁に罪を犯し、神に背く者と決して歩まず、遠ざかって避けたということです。そのような者が自分の息子や娘たちであっても、自分の親族だからという理由で自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃すこともありませんでした。むしろ子どもたちに、罪を告白してヤーウェ神の赦しを得るよう熱心に勧めるとともに、貪欲な享楽のために神を捨ててはならないと警告しました。他の人に対するヨブの接し方の原則は、神を畏れて悪を避ける原則と切り離すことができません。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が嫌悪する物事を憎みました。心の中で神を畏れる人を愛し、神に対して悪事を行なったり罪を犯したりする人を憎みました。そのような愛と憎しみはヨブの日常生活において示されており、まさに神の目から見たヨブの正しさでした。また、それは当然ながら、日常生活における他の人との関わりの中でヨブが表わし、そして生きた真の人間性であり、わたしたちはこれについて学ばなければなりません。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 50

試練の中で表わされたヨブの人間性(試練におけるヨブの完全さ、正しさ、そしてヨブが神を畏れ悪を避けたことを理解する)

財産が奪われ、息子と娘たちが命を落とし、しもべたちが殺されたと聞いた際のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し」(ヨブ記 1:20)というものでした。この言葉は一つの事実をわたしたちに示しています。知らせを聞いたヨブは動揺せず、泣くこともなく、知らせをもたらしたしもべを責めることもせず、ましてや犯行現場を調べて詳細を確かめ、いったい何が起きたのかを突き止めることなどしませんでした。また持ち物を失ったことに対して苦痛や遺憾を一切見せず、子どもたちや愛する家族を失ったことで泣き崩れることもありませんでした。それどころか、自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して拝しました。ヨブの行動は普通の人間の行動とは異なっていました。ヨブの行動に多くの人は混乱し、心の中でヨブの「冷血」を叱責しました。持ち物を突然失えば、普通の人間であれば悲しみや落胆を見せます。人によっては深い絶望に陥るでしょう。人の心の中で、財産は人生の苦労を表わしており、生きる術であり、生きる望みであるからです。財産を失うということは、それまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということです。これが普通の人の財産に対する考え方であり、それほど深く財産と関わっているのです。人の目から見て、財産とはそれほど重要なのです。そのようなわけで、財産を失っても無関心でいられるヨブに大半の人々は困惑するのです。今日はヨブの心の中で何が起きていたかを説明することで、これらの人々が残らず感じていた困惑を払拭していきましょう。

常識に照らせば、神からこれほど膨大な財産を与えられたヨブは、それを失ったことを神の前で恥じるべきでしょう。きちんと見張ることも、管理することもしなかったのですから。神から与えられた財産を、彼は守り抜けなかったのです。ゆえに、財産が奪われたと聞いた際、ヨブはまず現場に赴いて失われたものをすべて記録し、次いで神に罪を告白し、もう一度神の祝福を得られるようにすべきでした。しかし、ヨブはそのようなことをしませんでしたが、当然ながらそうしない理由がありました。自分の所有物はすべて神から授けられたものであり、自分の労働の産物ではないと、心の中で深く信じていたのです。そのため、それらの祝福を資本とすべきものとは考えず、その代わり、何が何でも自分が守るべき道から離れないよう、自身の生存の原則に留まったのです。ヨブは神の祝福を大切にし、感謝しましたが、祝福に心を奪われることも、祝福をさらに求めることもしませんでした。それが財産に対するヨブの姿勢です。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、神からの祝福がなかったり、それを失ったりしても心配せず、悲しむこともありませんでした。神から祝福を受けたからといって、我を忘れて有頂天になることもなく、また繰り返し享受する祝福のせいで神の道を無視したり、神の恵みを忘れたりすることもありませんでした。財産に対するヨブの姿勢は、彼の真の人間性を人々に示しています。まず、ヨブは貪欲な人間ではなく、物質的な生活において多くを求めませんでした。次に、自分の持ち物を神が残らず取り上げることを、ヨブは決して心配せず、不安に思うこともありませんでした。これは心の中における神への従順の姿勢です。つまり、神が自分の財産を取り上げるかどうか、そしていつ取り上げるのかについて、ヨブは注文をつけたり文句を言ったりすることが一切なく、理由も訊かず、神の采配に従うことだけを求めたのです。そして三番目に、ヨブは自分の財産が自分の労働によるものだとは決して思わず、神から授けられたものだと信じていました。これが神に対するヨブの信仰であり、彼の信念の現われです。ヨブに関するこれら三つの要点から、ヨブの人間性と日々追い求めていたものがわかったでしょうか。財産を失った際の冷静な振る舞いには、ヨブの人間性と追い求めていたものが不可欠でした。神の試練のさなか、ヨブが霊的背丈と確信をもって「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのはまさに、日常におけるヨブの追求のおかげでした。この言葉は一朝一夕で得られるものではなく、単なる思いつきでもありません。長年にわたる人生経験でヨブが見たもの、獲得したものだったのです。神の祝福ばかり求め、神に取り上げられることを恐れ、嫌い、不平を言う人たちに比べ、ヨブの従順さは現実そのものではないでしょうか。神の存在を信じながら、神が万物を支配することを決して信じない人たちに比べ、ヨブは大いなる正直さと正しさを自分のものにしているのではないでしょうか。

ヨブの理性

ヨブの実際の経験、そして正しく正直な人間性は、彼が財産と子どもたちを失ったときに最も理性的な判断と選択を行なうことにつながりました。そうした理性的な選択は、彼が日々追い求めていたもの、および日常生活の中で知るようになった神の業と切り離すことができません。ヨブは自分の正直さのおかげで、ヤーウェ神の手が万物を支配しているのだと信じることができました。そしてその信仰のおかげでヤーウェ神による万物支配の事実を知ることができ、その知識のおかげでヤーウェ神の支配と采配に喜んで従うことができ、その従順さのおかげでヤーウェ神への畏れがますます本物になり、その畏れのおかげで悪を避けることがますます本物になり、そして最終的に、神を畏れて悪を避けたために完全になったのです。ヨブの完全さは彼を賢明にするとともに、最高の理性を彼に与えました。

この「理性的」という言葉を、わたしたちはどのように理解すべきでしょうか。文字通りの解釈は、素晴らしい理知をもち、思考において論理的で分別があり、健全な話し方、行動、判断ができ、健全かつ規則正しい道徳的基準を自分のものにしているということです。しかし、ヨブの理性はそれほど簡単には説明できません。ヨブは最高の理性を自分のものにしていたとここで言ったのは、彼の人間性、および神の前での行ないと繋がっています。ヨブは正直だったために、神の支配を信じて従うことができました。そしてそのおかげで、他の人々が得られない認識を与えられ、その認識によって、自分に降りかかった物事をより正確に見極め、判断し、定義づけることができました。そしてそのために、自分が何をすべきか、何を守るべきかについて、より正確かつ明敏に判断できたのです。つまり、ヨブの言葉、振る舞い、自身の行動の背後にある原則、および行動の規範は規則的で、明解で、具体的であり、盲目的でも衝動的でも感情的でもありませんでした。我が身に何が降りかかろうと、ヨブは対処の仕方を知っており、複雑な出来事の関係についてどうバランスをとり、どう扱うべきかを心得ていました。また、自分が固守すべき道をどう固守するか、さらにはヤーウェ神が与えた際、あるいは取り上げた際、それにどう対処すべきかを知っていました。まさにこれがヨブの理性です。このような理性を備えていたからこそ、ヨブは財産と息子と娘たちを失ったとき、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 51

真実で、純粋で、偽りのないヨブの真の姿

ヨブ記第2章7-8節を読みましょう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」。この聖句は、身体に腫れ物ができた際のヨブの振る舞いを説明しています。そのとき、ヨブは灰の中に座りながら痛みに耐えました。誰も彼の治療をせず、痛みを和らげようと手を差し伸べる人もいませんでした。ヨブは陶器のかけらで腫物の表面をかきむしりましたが、表面的に見れば、これはヨブの苦しみの一段階に過ぎず、彼の人間性や神への畏れとは何の関係もありません。このときヨブは一言も発することなく、自分の心情や見方を示さなかったからです。それでもヨブの行動と行ないは彼の人間性を如実に表わしています。前の章の記述には、東に住むすべての人の中でヨブが最も大いなる者だったとあります。一方、第2章のこの一節は、東方のこの偉大な人物が、灰の中に座って実際に陶器のかけらを手に取り、自分の身体をかきむしる様子を描いています。この二つの描写は実に対照的ではないでしょうか。この好対照はヨブという人を真に表わしています。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にもかかわらず、ヨブはそれらのものを愛しておらず、まったく無関心だったのです。自分の地位が他の人にどう見られているかなど気にしておらず、自分の行動と行ないが地位や立場に悪影響を及ぼすかどうかなどと心配することもありませんでした。また、地位の利益に浸ることも、地位と立場から生じる栄光を楽しむこともありませんでした。ヨブが気にかけていたのは、ヤーウェ神の目から見た自分の価値と人生の意義でした。ヨブの真の姿は彼の本質そのものでした。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもなかったのです。ヨブは真実で、純粋で、偽りのない人間だったのです。

ヨブの愛と憎しみの分別

ヨブの人間性に関するもう一つの側面が、妻とのこの会話の中で表わされています。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』」(ヨブ記 2:9-10)。ヨブが受けている責め苦を見た妻は、ヨブがその苦しみから解放されるよう、彼に助言を与えようとしました。しかしその「善意」はヨブに認められず、それどころか彼の怒りをかき立てました。と言うのも、彼女はヤーウェ神に対するヨブの信仰と従順を否定し、ヤーウェ神の存在も否定したからです。それはヨブにとって許し難いことでした。と言うのも、神に反抗したり神を傷つけたりすることを、ヨブは決して自分に許さなかったからであり、他人については言うまでもありません。他の誰かが神を冒瀆したり中傷したりするような言葉を発するのを見て、どうして無関心でいられるでしょうか。それゆえヨブは自分の妻を「愚かな女」と呼んだのです。妻に対するヨブの態度は怒りと憎しみ、非難と叱責のそれでした。これは愛と憎しみを区別するヨブの人間性の自然な現われであり、彼の正しい人間性を真に表わしています。ヨブには正義感がありました。その正義感のために悪の横行を憎み、ばかげた異端、愚かな論争、くだらない主張を忌み嫌い、非難し、拒絶するとともに、大衆に拒絶され、親しい人たちに見放されたときも、自身の正しい原則と立場を堅く守ることができたのです。

ヨブの優しさと誠実さ

ヨブの行ないから彼の人間性の様々な側面を見ることができるわけですが、ヨブが口をひらいて自分の生まれた日を呪った際、彼のどのような人間性を見ることができるでしょうか。それが次に検討するテーマです。

ヨブが自分の生まれた日を呪った理由についてはたったいま説明しました。そこから何がわかるでしょうか。ヨブの心が頑なで愛もなかったとしたら、またヨブが冷たい人間で感情に乏しく、人間性に欠けていたならば、神が心に抱く願望を思いやることができたでしょうか。神の心を思いやり、そのために自分の生まれた日を呪うことなどあり得たでしょうか。言い換えれば、ヨブの心が頑なで人間性に欠けていたなら、果たして神の痛みに心を苦しめたでしょうか。自分が神を悩ませたからといって、自分の生まれた日を呪ったでしょうか。決してそのようなことはありません。ヨブは心優しかったので、神の心を思いやりました。神の心を思いやったので、神の痛みを感じとりました。心優しかったので、神の痛みを感じとった結果、さらに大きい責め苦を経験しました。そして神の痛みを感じとったので、自分の生まれた日を憎み始め、ゆえに自分の生まれた日を呪いました。第三者にとって、試練におけるヨブの行ないはどれも模範的なものです。自分の生まれた日を呪うという行為だけが、彼の完全さと正しさに疑問符をつけ、違った評価をもたらすことになります。実はこれが、ヨブの人間性実質に関する最も真実の表現なのです。ヨブの人間性実質は、隠されてもいなければ梱包されてもおらず、他の誰かによって修正されたものでもありません。自分の生まれた日を呪ったとき、ヨブは心の奥深くにある優しさと誠実さを示したのです。ヨブは清い泉のようであり、その水は底が見えるほど澄んで透明なのです。

ここまでヨブについて学んできたわけですが、大半の人は間違いなく、ヨブの人間性実質を極めて正しく、客観的に評価するはずです。また、神が語るヨブの完全さと正しさについても、より深く実践的で、さらに高度な理解と認識ももつはずです。この理解と認識が、神を畏れて悪を避ける道に乗り出す手助けとなることを願います。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 52

神がヨブをサタンに渡したことと、神の働きの目的との関係

ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けたことをほとんどの人は知っていますが、その認識によって神の意図をより深く理解できるわけではありません。人々はヨブの人間性と追求を羨むと同時に、神に次のような疑問を呈します。「ヨブが完全で正しく、人々にそれほど愛されたのなら、なぜ神はヨブをサタンの手に渡し、かくも大きな責め苦を経験させたのか」。大勢の人が心の中でそのような疑問を抱いているのも当然であり、そのような疑問をもつ人は多いのです。この点に悩む人は多いので、この疑問を改めて取り上げ、きちんと説明する必要があります。

神が行なうことはどれも必要であり、そこには並外れた意義があります。なぜなら、神が人において行なうすべてのことは、神の経営と人類の救いに関連するからです。神の目から見て、ヨブは完全で正しい人でしたが、当然、神がヨブにおいて行なった働きも同じです。言い換えれば、神が何を行なうか、その手段がどのようなものか、代価がどれほどのものか、および神の目標がどのようなものかにかかわらず、神の業の目的は変わらないのです。神の目的は自身の言葉を人の中に働かせること、そして人間に対する自身の要求と旨を人の中に働かせることです。つまり、肯定的だと信じるすべてのものを、自身の歩みに応じて人間に対して働かせ、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を把握できるようにするとともに、神の支配と采配に従えるようにすることで、神を畏れて悪を避けるようにするためです。これらが、神が行なう一切のことにおける、神の目的の一つの側面です。もう一つの側面は、サタンが引き立て役で神の働きに役立つものなので、人間がしばしばサタンに与えられるということです。これは、サタンによる試みと攻撃の中、人々がサタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを見るために神が用いる手段であり、それによって人々はサタンを憎み、否定的なものを知って理解するようになります。この過程により、人々はサタンの支配、断罪、妨害、攻撃から徐々に解放され、やがては神の言葉のおかげで、そして神に関する認識と神への従順、神に対する信仰と畏れのおかげで、サタンの攻撃と断罪に勝利します。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放されるのです。サタンからの解放とは、サタンが打ち負かされたという意味であり、人々がもはやサタンの餌食ではないということです。サタンは人々を飲み込む代わりに手放したのです。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰をもち、従順であり、神を畏れ、サタンと完全に決別したからです。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かします。神に付き従うという彼らの信念、そして神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、自分たちへの攻撃を諦めさせるのです。このような人たちだけが真に神のものとされ、それが人間を救う神の最終目標です。救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従うすべての人はサタンによる大小の試みと攻撃に直面しなければなりません。このような試みや攻撃から抜け出てサタンを完全に打ち負かせる人こそ、神によって救われた人なのです。つまり、神により救われた人は神の試練を経た者、サタンの試みと攻撃を無数に受けた者なのです。神によって救われた人は神の旨と要求を理解し、神の支配と采配に従い、サタンの試みのさなかにあっても、神を畏れて悪を避ける道を捨てません。神によって救われる人は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、正義感と理性をもっており、神を気遣い神のすべてを大切にすることができます。そのような人たちはサタンに束縛されたり、監視されたり、断罪されたり、虐げられたりしておらず、完全に自由で解放されています。ヨブはまさにそうした自由な人であり、それこそが、神が彼をサタンに渡した理由の意義なのです。

ヨブはサタンに虐げられましたが、同時に永遠の自由と解放を獲得し、二度とサタンの堕落、虐待、および中傷の対象にならず、その代わり神の顔の光の中、束縛されず自由に生きる権利、神から与えられた祝福の中で生きる権利を得ました。誰もこの権利を剥奪したり、滅ぼしたり、取り上げたりすることはできません。それはヨブの信仰、決意、そして神への畏れと従順に対して与えられたものです。ヨブは自らの命という代価を払って地上での喜びと幸せを勝ち取り、また地上における神の真の被造物として、誰にも妨げられずに創造主を礼拝する権利と資格を勝ち取りましたが、それは完全に自然で理にかなったことです。これもまた、ヨブが耐え抜いた試みによる最も偉大な成果の一つです。

まだ救われていない人々の生活はしばしばサタンに干渉され、支配さえされています。言い換えれば、救われていない人々はサタンの虜であり、自由がなく、サタンに放棄されておらず、神を礼拝する権利も資格もなく、サタンにしっかり追跡され、激しく攻撃されます。そのような人には語るべき幸せがなく、普通の存在でいる権利もなく、さらには尊厳もありません。あなたが立ち上がり、神への信仰、従順、そして畏れを武器に命がけでサタンと戦い、サタンを完全に打ち負かし、そうしてサタンがあなたを見るたびに尻尾を巻いて怯えるようになり、あなたへの攻撃と非難を完全に放棄するなら、そのとき初めてあなたは救われ、自由になるのです。サタンとの関係を完全に断ち切ろうと決意していても、サタンを打ち負かす武器を身につけていないのであれば、あなたはまだ危険な状態にあります。時間が経ち、サタンにひどく苦しめられ、一握りの力も自分の中に残っていないのに、それでもまだ証しをすることができず、サタンの断罪と攻撃から完全に解放されていないのであれば、救われる望みはほぼありません。最後に神の働きの完了が告げられるとき、あなたはいまだサタンの手中にあり、自分を解放することができず、ゆえに救われる機会も望みもありません。これが意味するのは、そのような人々は完全にサタンの虜となってしまうということです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 53

神の試験を受け入れ、サタンの試みに勝利し、神があなたの存在全体を得られるようにせよ

人間に対する永続的な施しと支えの働きの間、神は自身の旨と要求を余すところなく人間に伝え、自身の業、性質、そして自身が所有するものと自身そのものを人間に示します。その目的は、人間が神に付き従う中、彼らに霊的背丈を身につけさせ、神から様々な真理を得られるようにすることです。その真理は、サタンと戦う武器として神から人間に与えられるものです。これらのものが備わったならば、人は神の試験に直面しなければなりません。神は人間を試す多くの手段や手法をもっていますが、どれも神の敵であるサタンの「協力」を必要とします。つまり、サタンと戦う武器を人に与えたあと、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の霊的背丈を「試す」ことを許すのです。人間がサタンの軍勢から脱出し、サタンの包囲網から逃れ、それでも生きていられるなら、試験に合格したということです。しかし、サタンの軍勢を離れるのに失敗し、サタンに服従するのであれば、その人は試験に合格しなかったということです。神が人間のどの側面を検証しようと、その基準は、サタンの攻撃を受けた人間がしっかり立って証しをできるかどうか、またサタンに誘惑された際に神を捨て、サタンに降伏して服従するかどうかです。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利して打ち倒せるかにかかっており、また自由を獲得できるかどうかは、神から与えられた武器を自ら手にしてサタンの束縛に打ち勝ち、サタンが完全に希望を失って手出ししなくなるかどうかにかかっています。サタンが希望を失って誰かを手放すとは、二度とその人を神から奪おうとはしない、二度とその人を断罪したり、干渉したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味です。そのような人だけが、真に神のものとされるのです。これが、神が人々を自分のものにする過程です。

ヨブの証しによって後の世代に与えられた警告と啓示

神がある人を完全に自分のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡した目的と意義も同時に理解するようになります。ヨブの苦しみに心をかき乱されることがなくなり、その意義を新たに理解するのです。自分たちも同じ試みに遭うのだろうかと心配することがなくなり、神の試練が来ても反対したり拒絶したりしなくなります。ヨブの信仰、従順、そしてサタンに勝利した証しは、人々にとって大きな助け、そして励ましであり続けてきました。人々はヨブの中に自分の救いの望みを見出し、また信仰を通じて、そして神への従順と畏れを通じて、サタンを打ち負かして勝利することが完全に可能であることを見出します。神の主権と采配に従い、すべてを失っても神を捨てないという決意と信仰がある限り、サタンを辱めて打ち勝つことができると知るのです。また、たとえそれが命を失うことを意味しても、固く立って証しをする決意と忍耐力さえあれば、サタンを怯えさせて退散させられることも知るのです。ヨブの証しは後の世代への警告であり、サタンを打ち負かさなければその断罪と干渉から逃れられず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すのも不可能だと伝えています。ヨブの証しは後の世代に啓示を与えました。この啓示は人々に対し、完全で正しくありさえすれば、神を畏れて悪を避けることができると教えています。つまり、神を畏れて悪を避けさえすれば、神に対する鳴り響くような力強い証しをすることができる、そして神に対する鳴り響くような力強い証しをするだけで、その人は決してサタンに支配されず、神の導きと加護のもとで生きることができる、そうして初めて真に救われるということを教えているのです。救いを求める人はみな、ヨブの人格と、彼が人生において追い求めたものを見習うべきです。ヨブがその生涯をどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったかは、神を畏れて悪を避ける道を追求するすべての人にとって、大切な宝であるのです。

ヨブの証しが神に慰めをもたらす

いまここで、ヨブは愛すべき人間だとわたしが言ったなら、あなたがたはその意味を理解することができず、なぜわたしがこうしたことを語ってきたのか、その背後にある感情も把握できないかもしれません。しかし、あなたがたがヨブとまったく同じ試練、あるいはそれに似た試練を経験し、逆境に直面し、神があなたがたのために自ら用意した試練を通り、その試みのただ中にあって自分のすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、それによってサタンに勝利して神への証しをする日を待ちなさい。そうすれば、わたしが語るこれらの言葉の意味がよくわかるはずです。そのときあなたは、自分はヨブよりはるかに劣ると思い、ヨブは愛すべき人間であり、見習うべき人物だと感じるでしょう。そのときになれば、ヨブが語ったこれらの古典的な言葉がいまの時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要か、またヨブの成し遂げたことが今日の人々にとってどれほど達成困難かがわかるでしょう。それが難しいと感じるなら、神がどれほど心配して不安になるか、そのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、そして人間のために神がしたこと、および費やしたものがいかに尊いかを理解するでしょう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正確な理解と正しい評価が得られたでしょうか。あなたがたの目から見て、ヨブは真に完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だったでしょうか。ほとんどの人がはいと答えるに違いないと、わたしは信じています。ヨブが行なったこと、および示したことの事実は、人間にもサタンにも否定できないことだからです。それらのことは、サタンに対するヨブの勝利を最も力強く証明しています。その証明はヨブにおいて生み出され、神に受け入れられた最初の証しです。そのため、ヨブがサタンの試みに勝利して神に証しを行なったとき、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められました。創造のときからヨブの時代に至るまで、神が慰めとは何かを実感し、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、これが最初だったのです。このとき初めて、神は自分のためになされた真の証しを見て自分のものにしたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 54

ヨブは耳で神のことを聞く (抄出)

ヨブ記 9:11 見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。

ヨブ記 23:8-9 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。

ヨブ記 42:2-6 わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。「無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか」。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。「聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。

神がヨブに自身を現わさなくても、ヨブは神の主権を信じた

これらの言葉の趣旨は何でしょうか。ここにある事実が含まれていることに気づいた人はいるでしょうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのでしょうか。そして、天地と万物が神によって支配されていることをどのようにして知ったのでしょうか。これら二つの疑問に答える一節があります。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。この言葉から、ヨブはその目で神を見たというよりも、言い伝えから神のことを知っていたということがわかります。こうした状況のもと、ヨブは神に従う道を歩み始め、その後、神が自分の生活の中に、そして万物の中に存在することを確信したのです。ここに否定できない一つの事実があります。その事実とは何でしょうか。神を畏れて悪を避ける道に従えたにもかかわらず、ヨブは神を見たことがなかったのです。この点において、ヨブも今日の人間と同じだったのではないでしょうか。ヨブは神を見たことがありませんでしたが、その含意は、ヨブは神について聞いてはいても、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかは知らなかったということです。これらはみな主観的要因であり、客観的に言えば、ヨブは神に従っていたものの、神はヨブの前に現われたことがなく、語ったこともないのです。これは事実ではないでしょうか。神はヨブに語りかけたことも、何らかの命令を下したこともありませんが、ヨブは万物の中に、そして自分の耳で聞いた伝説の中に神の存在を見、神の主権を目の当たりにしており、それから神を畏れて悪を避ける生活を始めました。ヨブが神に従うようになった起源と過程はそのようなものです。しかし、ヨブがどれほど神を畏れて悪を避けても、どれほど自分の高潔さを守っても、神がヨブの前に現われることはありませんでした。次の箇所を読みましょう。ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記 9:11)と言いました。この言葉が言わんとしているのは、ヨブは自分の周りに神がいるのを感じたかもしれないし、感じなかったかもしれないが、とにかく一度も神を見ていないということです。神が自分の前を通ったり、行動したり、人を導いたりするのを想像したことはあっても、それを知っていたわけでは決してありません。神は人間が予想しないときに来ます。神がいつ、どこで自分のもとに来るのか、人にはわかりません。人には神が見えないからです。そのようなわけで、人間にとって、神は自分から隠れている存在なのです。

神が自分から隠れていても、神に対するヨブの信仰は揺るがない

次の聖句でヨブはこう言っています。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記 23:8-9)。この記述から、ヨブの経験の中で、神がずっと隠れていたことがわかります。神が公然とヨブの前に現われることはなく、ヨブに言葉を語ることもなかったのですが、ヨブは心の中で神の存在を確信していました。神は自分の前を歩いている、あるいは自分のそばで行動している、そして自分に神は見えないけれども、自分の横にいて自分にまつわる一切のことを支配していると信じていました。ヨブは神を見たことがないものの、自分の信仰に忠実であり続けることができました。これは他の誰にもできなかったことです。なぜ他の人たちにはそれができなかったのでしょうか。それは、神がヨブに語ることも彼の前に現われることもなかったからであり、ヨブが本当に信じていたのでなければ、そうし続けることも、神を畏れて悪を避ける道を固く守ることもできなかったでしょう。そうではありませんか。ここに書かれているヨブの言葉を読んで、あなたはどう感じますか。ヨブの完全さと正しさ、そして神の前での義は真実で、神による過大評価ではないと思いますか。神はヨブを他の人たちと同じように扱い、ヨブの前に現われたり彼に語ったりすることはありませんでしたが、それでもヨブは自分の高潔さを固く守り、神の主権を信じ、さらには神に背いたかもしれないという恐れからしばしば燔祭の捧げ物をし、神の前で祈ったのです。神を見たことがないまま畏れることができたという事実の中に、ヨブが肯定的なものをどれほど愛したか、ヨブの信仰がいかに堅く本物であったかを見て取ることができます。神が自分から隠れているからといって、ヨブは神の存在を否定せず、また神を見たことがないからといって、神への信仰を失ったり神を捨てたりすることもありませんでした。それどころか、万物を支配する神の隠れた働きの中で神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのです。神が隠れているからといって、ヨブは正しさを捨てず、また神が一度も自分の前に現われたことがないからといって、神を畏れて悪を避ける道を捨てることもありませんでした。ヨブは神が公然と自分の前に現われ、その存在を証明してほしいと願ったことはありませんでした。万物における神の主権をすでに見ており、他の人が得ていない祝福と恵みを自分は得たと信じていたからです。神はヨブの前から隠れたままでしたが、神に対するヨブの信仰は決して揺るぎませんでした。そのようなわけで、ヨブは他の人々にはないもの、つまり神からの承認と祝福を得たのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 55

ヨブは神の名を称え、祝福や災いのことは考えない

ヨブに関する聖書の物語の中で、語られていない事実が一つあります。それが今日のテーマです。ヨブは神を見たこともなければ、自分の耳で神の言葉を聞いたこともありませんが、心の中に神の居場所がありました。神に対するヨブの態度はどのようなものだったのでしょうか。それは先ほど触れたように、「ヤーウェのみ名はほむべきかな」というものでした。ヨブは神の名を無条件に、状況に関係なく、理屈抜きに称えました。ヨブは自分の心を神に捧げ、それが神に支配されるようにしました。ヨブの思考、決定、そして心の中の計画はどれも神に明らかにされ、神から隠されることはありませんでした。ヨブが心の中で神に敵対することはありませんでした。また、神が自分のために何かをするよう、あるいは何かを与えてくれるよう願ったこともなく、自分は神を崇拝しているから何かを与えられるはずだという、途方もない願望を抱くこともありませんでした。神に取り引きを持ちかけることも、願い事や要求をすることもありませんでした。ヨブが神の名を称えたのは、万物を支配する神の偉大な力と権威のためであり、祝福を得たかどうか、災いに遭ったかどうかに左右されるものではありませんでした。神が人々に祝福をもたらすか、それとも災いをもたらすかに関係なく、神の力と権威は不変であり、ゆえにその人の状況に関係なく神の名は称えられるべきだとヨブは信じていました。人が神に祝福されるのは神の主権のためであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権のためなのです。神の力と権威は人間に関する一切のことを支配し采配します。人間の運命が流転するのは神の力と権威の現われであり、人がどう見るかにかかわらず、神の名は称えられなければなりません。それが、自らの人生においてヨブが経験し、悟ったことです。ヨブの考えと行ないはすべて神の耳に届き、明らかにされ、重要なものと見なされました。神はヨブのこの認識と、ヨブがそのような心をもつことを大切に思いました。ヨブの心は絶えず神の命令を待っており、そして時間や場所に関係なく、あらゆるところで自分に何が起ころうとも、そのすべてを歓迎しました。ヨブが神に何かを要求することはなく、神から来るすべての采配を待ち、受け入れ、それに向き合い、従うことを自分に課しました。ヨブはそれを自分の本分だと信じていましたが、それこそ神がヨブに望んでいたものです。ヨブは神を見たことがなく、神が言葉を語ったり、命令を発したり、教えを与えたり、何かについて指示したりするのを聞いたこともありません。今日の言葉で言えば、真理に関する啓き、導き、あるいは施しを一切与えられていなかったヨブがそのような認識をもち、そうした姿勢をとることができたのは、神にとって尊いことでした。そしてヨブがそうしたことを示しただけでも神にとっては十分であり、またヨブの証しは神の称賛を受けて大事にされました。ヨブは神を見たことがなく、神の教えを直接聞いたこともありませんが、神にとってヨブの心とヨブ自身は、神の前で難しい理論を説き、豪語し、いけにえを捧げることについて語れるだけで、神に関する真の認識を得たことがなく、心から神を畏れたことのない人々よりもはるかに尊かったのです。ヨブの心は純粋で神から隠されておらず、ヨブの人間性は正直で優しく、そしてヨブは正義と肯定的なものを愛したからです。そのような心と人間性を持ち合わせた人だけが神の道に従うことができ、神を畏れて悪を避けることができます。そのような人は神の主権、および神の権威と力を見ることができ、神の主権と采配に従うことができます。そのような人だけが神の名を真に称えることができるのです。なぜなら、その人は神が祝福を与えるか、それとも災いをもたらすかを見ておらず、すべては神の手で支配されていること、また人間が思い煩うのは愚かさ、無知、理不尽さ、神が万物に対する主権を握っていることへの疑い、そして神を畏れないことのしるしだと知っていたからです。ヨブの認識はまさに神が望むものでした。では、ヨブはあなたがたよりも神に関する素晴らしい理論的な認識をもっていたでしょうか。当時における神の働きと発言はごくわずかなので、神に関する認識を獲得するのは容易なことではありませんでした。ヨブがそうしたことを成し遂げたのは決してただ事ではありません。彼は神の働きを経験しておらず、神が語るのを聞いておらず、神の顔も見ていないのですから。ヨブが神に対してそうした態度をとれたのは、彼の人間性と個人的な追求の賜物であり、いずれも今日の人々にはないものです。ゆえに当時、神は「彼のように全く、かつ正しい者は地上にいない」と言ったのです。その時代、神はすでにヨブをそのように評価しており、そうした結論に至りました。では今日、それはどのくらい真実味を増したでしょうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 56

神は人から隠れているが、万物における神の業から、人は十分神を知ることができる

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の語る言葉を聞いたこともなく、ましてや神の働きを直接経験したこともありません。それでいながら、神に対するヨブの畏れと、試練の際の彼の証しは誰もが目にしており、神に愛され、喜ばれ、称えられました。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、それ以上に讃美を捧げました。ヨブの人生は偉大なものでも非凡なものでもありません。普通の人と同じく平凡な生活を送り、日の出とともに仕事へ出かけ、日が落ちると帰宅して休息しました。他の人たちと違っていたのは、平凡だった数十年間の人生において、神の道に関する洞察を得て、神の偉大な力と主権を認識して知るようになったことであり、それは他の人にはなし得ないことでした。ヨブは他のどの平凡な人よりも賢かったわけではなく、ひときわ強いいのちを持っていたわけでもありません。ましてや目に見えない特殊な能力をもっていたということはないのです。しかし、ヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義、そして肯定的なものを愛するという性格がありました。これらはいずれも大多数の普通の人間にはないものです。ヨブは愛と憎しみを区別し、正義感をもち、断固とした不屈の精神があり、自分の考えの隅々まで細かな注意を払っていました。そのため、地上において平凡な日々を過ごしながら、神がなした驚異的な物事をすべて目の当たりにし、神の偉大さ、聖さ、義を見、人間に対する神の気遣い、恵み深さ、加護を知り、至高の神の高貴さと主権を目にすることができたのです。普通の人が誰もなし得なかったこれらのことをヨブがなし得た第一の理由は、ヨブが純粋な心をもち、ヨブの心が神に属しており、創造主により導かれていたことです。第二の理由はヨブの追求です。つまりヨブは、非の打ち所のない完全な人になること、天の旨と一致し、神に愛され、悪を避ける人になることを追い求めたのです。ヨブは神を見ることも神の言葉を聞くこともできませんでしたが、これらのものを獲得し、追い求めました。また神を見たことがないものの、神がどのように万物を支配するかがわかるようになっており、神がそうする際の知恵を理解していました。そして神の語る言葉を聞いたことがないものの、人に報いたり人から取り上げたりするという業はすべて神に由来することを知っていました。ヨブの人生の年月は普通の人のそれと何ら変わらなかったのですが、自分の人生の平凡さのせいで、万物に対する神の主権の認識や、神を畏れて悪を避ける道が影響を受けることは許しませんでした。ヨブの目から見て、万物の法則は神の業で満ちており、神の主権は人の生活のいたるところで見られるものでした。ヨブは神を見たことがないものの、神の業が至るところにあることを認識でき、また地上で平凡な時間を過ごす間、自分の生活のあらゆるところで神の並外れた不思議な業を見てそれに気づくことができ、神の不思議な采配を知ることができました。神が隠れていたこと、そして無言であったことは、ヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、万物に対する神の主権を知る上で影響を及ぼすこともありませんでした。ヨブの人生は、万物の中に隠されている神の主権と采配の認識を、日常生活の中で得てゆくというものでした。また、ヨブは日々の生活の中で、神の心の声と言葉を聞いて理解しましたが、神は万物のあいだで無言を貫きつつも、万物の法則を司ることで自身の心の声と言葉を表わします。それにより、人々がヨブと同じ人間性をもち、ヨブと同じように追求すれば、ヨブと同じ認識と知識を得ることができ、また万物に対する神の主権についても、ヨブと同じ理解と認識を獲得できることがわかります。神はヨブの前に姿を見せず、彼に語りかけることもありませんでしたが、ヨブは完全で正しい人になり、神を畏れて悪を避けることができました。つまり、神が目の前に現われたり語りかけたりすることがなくても、万物における神の業、そして万物に対する神の主権だけでも、人間が神の存在と力と権威に気づくのに十分であり、また神の力と権威は人間に対し、神を畏れて悪を避ける道に従わせるのに十分なのです。ヨブのような普通の人間が神を畏れて悪を避けられるのであれば、神に従う普通の人であれば誰でも同じことが可能なはずです。これは論理的推論に聞こえるかもしれませんが、物事の法則と矛盾しません。とは言え、事実が予想と一致したことはありません。神を畏れて悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように思えるでしょう。「神を畏れて悪を避ける」と聞けば、それはヨブだけに可能なことだと人は考えます。あたかも神を畏れて悪を避ける道にはヨブの名のラベルが貼られており、他の人には無関係であるかのようです。その理由ははっきりしています。正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する性格をもっていたのはヨブだけであり、そのためヨブだけが神を畏れて悪を避ける道に従うことができたからです。この意味はみなさん理解したはずです。つまり、正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する人間性をもつ人がいないので、誰一人神を畏れて悪を避けることができず、ゆえに人々は神の喜びを得られず、試練の際に固く立つことができないのです。これはまた、ヨブという例外を除き、すべての人間がいまだサタンに束縛され、サタンの罠に陥ったままであり、みなサタンに断罪され、攻撃され、虐げられていることを意味しています。サタンはそのような人たちを呑み込もうとしており、彼らには自由がなく、サタンに囚われた虜なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 57

人の心が神に敵対していれば、どうして神を畏れ悪を避けることができようか

今日の人々がヨブと同じ人間性をもっていないのであれば、彼らの本性実質と、神に対する姿勢はどのようなものでしょうか。神を畏れているでしょうか。悪を避けているでしょうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の三文字で表わすことができます。すなわち「神の敵」です。あなたがたは頻繁にこの言葉を口にしますが、本当の意味を理解していません。「神の敵」という言葉は実質を伴うものです。それは、神が人間を敵とみなすということ言っているのではなく、人間が神を敵と見なすという意味です。第一に、神を信じ始めるとき、目的も動機も野心もない人がいるでしょうか。一部の人は神の存在を信じ、神が存在するのを見たかもしれませんが、神に対する彼らの信仰にはやはり動機があり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得ることです。人々は人生経験を重ねる中で、「自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……」とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、「神を信じる」ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、陰険で、ずる賢く、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心の面倒を見て、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です。ここで再度ヨブに目を向けましょう。まず何より、ヨブは神と取引をしたでしょうか。神を畏れて悪を避ける道を固く守ろうとしたことに、何か下心があったでしょうか。当時、神は誰かに来たるべき結末について話していたでしょうか。当時、神は誰にも結末に関する約束をしたことがなく、ヨブはこれを背景として神を畏れて悪を避けたのです。今日の人々はヨブと比較になるでしょうか。違いがあまりに大きく、ヨブと同じ土俵に上れる者はいません。ヨブには神に関する認識がさほどありませんでしたが、自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていました。ヨブは決して神と取り引きせず、神に対して途方もない要望や要求をすることもありませんでした。むしろ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」と信じていました。ヨブはその長い人生で神を畏れて悪を避ける道を固く守りましたが、そこから理解し、獲得したのはそのようなものでした。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉に示されている成果もヨブは獲得しました。この二つの文章は、ヨブが人生経験を重ねる中で神に服従する態度をとった結果、目の当たりにしたこと、知るに至ったことであり、またサタンによる試みのさなか、ヨブが勝利を収めた最も強力な武器、固く立って神への証しをする土台でもありました。いまの時点で、あなたがたはヨブを愛すべき人間だと思っていますか。そのような人になりたいと思いますか。サタンの試みを経験しなければならないことに恐れを感じますか。ヨブと同じ試練を降らせてくださいと神に祈る決意がありますか。間違いなく、大半の人はそのようなことを求めて祈ることなどしないでしょう。そうであれば、あなたがたの信仰が惨めなまでに小さいことは明らかです。つまり、あなたがたの信仰はヨブのそれと比べて触れる価値すらありません。あなたがたは神の敵であり、神を畏れず、固く立って神に証しすることができず、サタンの攻撃、断罪、そして試みに勝利することもできません。それでどうして、神の約束を受け取る資格があるでしょう。ヨブの物語を聞き、人間を救う神の意図と、人間の救いの意味を理解したいま、ヨブと同じ試練を受け入れる信仰があなたがたにありますか。神を畏れて悪を避ける道に従う決意を、少しはすべきではありませんか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 58

神の試練に疑念を抱いてはならない

ヨブの試練が終わり、彼から証しを受けた神は、ヨブのような人々の一団、あるいは複数の集団を得ようと決心しましたが、サタンが神と賭けをし、ヨブを試み、攻撃し、そして虐待した手段を使って他の誰かを攻撃したり、虐待したりすることを二度と許すまいと決意しました。弱く愚かで無知な人間に対してそのようなことを繰り返すことを、神はサタンに許しませんでした。サタンがヨブを試みただけで十分だったのです。サタンが思いのままに人々を虐げることを許さなかったのは、神の憐れみでした。神にとって、ヨブがサタンの試みと虐待に苦しんだだけでもうたくさんだったのです。サタンがそのようなことをするのを神は二度と許しませんでした。神に従う人々の命、そして彼らのすべては神によって支配され、指揮されており、神の選民を思いのままに操る権利はサタンにないからです。この点ははっきりと理解しなければいけません。神は人の弱さを気遣い、人の愚かさや無知に理解を示します。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければなりませんが、人がサタンにもてあそばれて虐げられるのを、神が喜んで見ることはありません。人が常に苦しむのを、神は見たいと思っていません。人間は神によって創られたのであり、人間に関するすべてのことが神によって支配され、采配されるのは、完全に自然で理にかなったことです。それは神の責任であり、神が万物を支配する権威なのです。神はサタンに対し、思いのままに人間を虐げたり、ひどい扱いをしたり、様々な手段で人間を迷わせたりすることを許さず、またそれ以上に、人間に対する神の主権を犯すこと、神が万物を支配する法則を踏みにじって壊すことを許さず、人類を経営して救う神の偉大な働きについては言うまでもありません。神が救いたいと望む人、神に証しをすることができる人は、六千年にわたる神の経営計画の中心であり、その結晶であると同時に、六千年にわたる働きで神が払った努力の代価でもあります。そのような人たちをどうしてたやすくサタンに渡せるでしょうか。

人々は神の試練をしばしば懸念し、恐れながら、常にサタンの罠の中で生き、サタンに攻撃され、虐げられる危険な領域で生活しています。それでも人々は恐れを知らず、動揺することもありません。これはどういうことでしょうか。神に対する人間の信仰は、その人が見える物事に限られます。人間に対する神の愛と気遣い、あるいは神の優しさや配慮に対してまったく感謝することがありません。神の試練、裁き、刑罰、威厳、怒りに対するわずかな不安と恐れを別にして、人間は神の善意をほんの少しも理解したことがないのです。人々は試練と聞いただけで、神にあたかも隠れた動機があると感じており、また神が自分たちに対して何をするかに気づかないまま、神は邪悪な意図を抱いていると信じる人さえいます。そのため、人々は神の主権と采配に従うと叫びながら、同時にあの手この手で人間に対する神の主権と采配に反対するのです。気をつけなければ神によって間違った方向へ導かれてしまう、自分の運命をしっかり握っていなければ、自分がもつものをすべて神に取り上げられてしまい、人生すら終わってしまうかもしれないと信じているからです。人間はサタンの陣営にいますが、サタンに虐げられることを恐れず、またサタンに虐げられていながら、サタンに囚われることを恐れません。人間は神の救いを受け入れると言い続けながら神を信頼せず、神がサタンの爪から人間を真に救うことも信じません。人がヨブのように神の指揮と采配に従うことができ、自分の存在全体を神の手に委ねることができれば、ヨブと同じ結末を迎えられる、つまり神の祝福を受け取れるのではないでしょうか。神の支配を受け入れ、それに従うことができれば、失うものなどあるでしょうか。ゆえに忠告しますが、あなたがたは自分の行ないに注意し、自分に降りかかろうとしているすべてのことに気をつけるべきです。軽はずみに、あるいは衝動的になることなく、神、および神があなたに用意した人や物事を、自分の激情や天性によって、または自分の想像や観念に従って扱ってはなりません。自分の行ないに気をつけ、さらに祈って求め、神の怒りを招いてはいけません。それを憶えておきなさい。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 59

試練の後のヨブ (抄出)

ヨブ記 42:7-9 ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られた後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、ヤーウェが彼らに命じられたようにしたので、ヤーウェはヨブの祈りを受けいれられた。

ヨブ記 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、ヤーウェはヨブの繁栄をもとにかえし、そしてヤーウェはヨブのすべての財産を二倍に増された。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

ヨブ記 42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

神を畏れて悪を避ける人は神に大切にされ、愚かな人は卑しく見られる

ヨブ記第42章7-9節において、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいます。「しもべ」という言葉でヨブに触れたことの中に、神の心におけるヨブの重要性が表わされています。神がヨブをさらに立派な名前で呼ぶことはありませんでしたが、この呼び名は神の心におけるヨブの重要性と何の関係もありませんでした。ここで言う「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と何度も述べたことは、ヨブにどれだけ喜んでいたかを示しています。「しもべ」という言葉の裏にある意味を神は語りませんでしたが、聖書のこの一節における神の言葉から、神による「しもべ」という言葉の定義がわかります。神はまず、テマン人エリパズに言いました。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。神が人々に対し、自分は試練を受けた後のヨブの言動をすべて受け入れたと公に語り、ヨブの言動がどれも正確で正しいと公に確認したのは、この言葉が最初です。神はエリパズと他の人々に怒りを覚えました。なぜなら、彼らの話は間違っていて馬鹿げており、またヨブのように、自分たちの生活の中で神の出現を見ることも、神が語る言葉を聞くこともできず、それでいてヨブは神のことを正確に認識していた反面、彼らは盲目的に神のことを推理し、何をするにも神の旨に背き、神の忍耐を試したからです。結果として、神はヨブの言動をすべて受け入れると同時に、他の人々に対して怒りを募らせました。彼らの中に、神を畏れることの現実が見られないばかりか、彼らの言葉の中に神への畏れを聞くことが一切なかったからです。そのため、神は彼らに次の要求をしました。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」。この一節で、神はエリパズと他の人々に対し、罪を贖う何かをするよう言っています。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、それゆえ自分の過ちを償うために燔祭の捧げ物をする必要があったのです。燔祭の捧げ物はしばしば神に対して行なわれましたが、ここでの燔祭の捧げ物は、ヨブに行なわれたという点で普通ではありません。ヨブは試練の中で神に証しをしたので、神に受け入れられました。一方ヨブの友人たちは、ヨブの試練の中で暴かれました。つまり、愚行のために神に断罪され、神の怒りを招き、またヨブの前に燔祭の捧げ物をすることで、神から懲罰を受けなければならなかったのです。その後ヨブは、彼らが自分たちに対する神の懲罰と怒りを一掃するよう祈りました。神の目的は彼らを恥じ入らせることでした。彼らが神を畏れて悪を避けることをしない人であり、ヨブの高潔さを断罪したためです。ある側面から見ると、神は彼らの行ないを受け入れないと言う一方、ヨブを大いに受け入れ、彼に喜びました。また別の側面から見れば、神は彼らに対し、人は神に受け入れられることで神の前で引き上げられ、また愚行のせいで神に憎まれ、神に背くのであって、そのような人は神の目から見て低く卑しい者であると言っています。これが神による二種類の人間の定義であり、これら二種類の人間に対する神の姿勢であり、これら二種類の人間の価値や地位に関する神の明確な説明です。神はヨブを自分のしもべと呼びましたが、神の目から見てこのしもべは愛されており、他の人々のために祈り、彼らの過ちを赦す権威を与えられていました。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他の誰よりも高く栄誉あるものでした。これが神の言う「しもべ」の意味です。ヨブは神を畏れて悪を避けたためにこの特別な栄誉を与えられました。また他の人々が神にしもべと呼ばれなかったのは、神を畏れて悪を避けることをしなかったからです。はっきり異なる神の二つの態度は、二種類の人々に対する神の態度を示しています。つまり、神を畏れて悪を避ける者は神に受け入れられ、神の目から見て尊いものと見なされますが、愚かな者たちは神を畏れず、悪を避けることができず、神の好意を受け取れません。そのような人はしばしば神に憎まれ、断罪され、神の目から見て卑しい者なのです。

神はヨブに権威を授ける

ヨブは友人たちのために祈りましたが、その祈りのために、神は後でヨブの友人たちに対し、その愚かさに応じた扱いをしませんでした。つまり、彼らを懲罰することも報復することもしなかったのです。それはなぜでしょうか。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いていたからです。神はヨブの祈りを受け入れたので、彼らを赦したのです。ここから何がわかりますか。神は誰かを祝福するとき、多くの報いを与えますが、それは物質的なものに限定されません。その人に権威も与え、他の人のために祈る資格を与えるとともに、彼らの過ちを忘れて赦します。神はその人の祈りを聞くからです。これこそまさに、神がヨブに与えた権威です。彼らへの断罪をやめるようにというヨブの祈りを通じ、ヤーウェ神はこれら愚かな人たちを恥じ入らせました。これはもちろん、エリパズたちに対する神の特別な懲罰だったのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 60

ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった

ヤーウェ神の発言の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という言葉があります。ヨブが述べたこととは何だったのでしょうか。これは以前に話し合った内容であり、またヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる言葉でもあります。これらのページに記された言葉の中で、ヨブは神について一度も不平や疑念を述べていません。ただ結果を待っていたのです。このように待っていたことがヨブの従順の態度であり、その結果、またヨブが神に述べた言葉の結果、ヨブは神に受け入れられました。ヨブが試練に耐え、困難に苦しんでいたとき、神はヨブの傍らにいて、たとえ彼の苦しみが神の存在によって軽くなることはなくても、神は見たいものを見、聞きたいことを聞きました。ヨブの言動の一つひとつが神の目と耳に届いたのです。神は聞き、そして見ました。これは事実です。当時、神に対するヨブの認識と、心の中の思いは、今日の人々がもつそれに比べて実のところ具体的ではありませんが、時代背景の中、神はヨブの言ったことをすべて認めました。なぜなら、ヨブの態度、心の中の思い、そしてヨブが表わしたものや示したものは神の要求を満たしていたからです。試練に晒されている間、ヨブが心の中で考えたこと、行なおうと決意したことは神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものでした。その後、神はヨブの試練を取り除き、ヨブは自身の困難から抜け出て、試練は終わり、二度とヨブに降りかかりませんでした。ヨブはすでに試練に晒され、その中で固く立ち、サタンを完全に打ち負かしたので、神は彼にふさわしい祝福を与えました。ヨブ記42章10節、および12節に記されているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものでした。このとき、サタンはヨブのもとを去っており、再び何かを話したり、何かをしたりすることはありませんでした。このとき以降、ヨブはサタンに干渉されることも、攻撃されることも二度となくなり、また神によるヨブへの祝福をサタンが非難することもありませんでした。

ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす

当時における神の祝福は、羊、牛、らくだ、および物質的な資産などに限られてはいたものの、神がヨブに授けたいと心の中で思った祝福はそれらをはるかに越えるものでした。当時、神がヨブに与えたいと思っていた永遠の約束がどのようなものであるか、記録は残っているでしょうか。神はヨブを祝福する中で、彼の最後に言及することはなく、また神の心に占めるヨブの重要性や立場が何であれ、要するに、神は慎重に考慮して祝福を与えたのです。神はヨブの最後を告げませんでした。これは何を意味するでしょうか。当時、神の計画は人間の最後を宣言するところまでに達しておらず、またその計画は神の働きの最終段階に入っていなかったので、神が人間の最後に触れることはなく、人間に対して物質的な祝福を授けただけなのです。これが意味するのは、ヨブの後半生は神の祝福の中で過ぎゆき、そのためヨブは他の人と違う存在になったということです。しかし、ヨブも彼らと同じく年齢を重ね、普通の人と同じようにこの世に別れを告げる日を迎えました。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)と書かれているとおりです。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味でしょうか。神が人々の終わりを宣言する以前の時代に、神はヨブの寿命を決めました。そしてヨブがその年齢に達したとき、神はヨブをこの世から自然に去らせました。ヨブの二度目の祝福から彼の死に至るまでの間、神はさらなる苦難を加えることはしませんでした。ヨブの死は神にとって自然なものであり、また必要なものでもあり、極めて普通のことであって、裁きでも断罪でもありません。生前のヨブは神を崇拝して畏れました。つまり、ヨブが死後にどのような最後を迎えるかについて、神は何も言わず、何の言及もしなかったのです。神には自らの言動に関する強い平衡感覚があり、その言動の内容と原則は自身の働きの段階と、自身が働いている期間に沿うものです。ヨブのような人間について、神は心の中でどのような最後を思い描いていたでしょうか。何らかの決定に達したでしょうか。もちろん達しました。人間がそれを知らなかっただけのことです。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのです。このように、表面的に見れば、ヨブは寿命を迎えて死にました。それがヨブの生涯でした。

ヨブが一生を生きた価値

ヨブは価値ある人生を送ったでしょうか。その価値はどこにあったでしょうか。ヨブは価値ある人生を送ったと言われるのはなぜでしょうか。人間にとって、ヨブの価値とは何でしょうか。人間の観点から言うと、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行なったという点で、ヨブは神が救いたいと願う人間を代表していました。ヨブは被造物が尽くすべき本分を尽くし、神が救いたいと願うすべての人の見本となり、その模範として振る舞いました。そうすることで、神にすがってサタンに打ち勝つことは間違いなく可能だと、人々がわかるようにしたのです。神にとってのヨブの価値は何だったでしょうか。神にとってヨブの人生の価値は、神を畏れ、崇拝し、神の業を証しし、神の業を称え、神に慰めと喜びをもたらせたことにありました。そして、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行ない、それによって神は人類の中にあって栄光を得て、神の心は慰められ、熱意に満ちた神の心に一つの結末と希望を見せたのですが、それもまた神にとってのヨブの人生の価値でした。ヨブの証しは、人類を経営する神の働きの中で、人が固く立って神の証しをできることの前例となり、また人が神に代わってサタンを辱められることの前例となりました。これがヨブの人生の価値ではないでしょうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、栄光を得ることの喜びを前もって味わわせるとともに、神の経営計画が素晴らしいスタートを切れるようにしました。このとき以降、ヨブの名は、神が栄光を得たことの象徴となり、サタンに対する人類の勝利の象徴となりました。ヨブがその生涯において生きた物事、そしてサタンに対する勝利は神によって永遠に尊ばれ、またヨブの完全さ、正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるでしょう。ヨブは傷のない輝く真珠のように、神に尊ばれるでしょう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれるに値する人なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 61

律法の時代における規則

十戒

祭壇を建てる際の原則

しもべの扱いに関する規則

盗みと賠償に関する規則

安息年と三つの祭日を守る

安息日に関する規則

捧げ物に関する規則

燔祭の捧げ物

穀物の捧げ物

和解の捧げ物

罪の捧げ物

罪過の捧げ物

祭司による捧げ物に関する規則(アロンと彼の息子たちが守るよう命じられたもの)

祭司による燔祭の捧げ物

祭司による穀物の捧げ物

祭司による罪の捧げ物

祭司による罪過の捧げ物

祭司による和解の捧げ物

祭司が捧げ物を食べることに関する規則

清い動物と不浄の動物(食べてよい動物とそうでない動物)

産後の女性の清めに関する規則

らい病検査の基準

らい病から回復した人に関する規則

感染病にかかった家の清めに関する規則

長血を煩っている女性に関する規則

年に一度遵守すべき贖罪の日

牛と羊を殺す際の規則

異邦人による忌むべき習慣(近親相姦など)の禁止

民が従うべき規則(「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」。〔レビ記 19:2〕

モレクに子どもを捧げた者の処刑

姦淫の罪を犯した者への懲罰に関する規則

祭司が守るべき規則(日々の振る舞いに関する規則、聖なるものの消費に関する規則、捧げ物に関する規則など)

遵守すべき祭日(安息日、過越祭、聖霊降臨祭、贖罪の日など)

その他の規則(ともし火、聖年、土地の贖い、誓願、十分の一の捧げ物など)

律法の時代の規則は、神が全人類を導く本物の証拠である

律法の時代の規則と原則をみなさん読みましたね。これらの規則は広範囲にわたるものですか。まず十戒が記され、続いて祭壇の建て方などが記されています。その後、安息日を守って三つの祭日を遵守することが続き、そして捧げ物に関する規則と続きます。何種類の捧げ物があるかわかったでしょうか。燔祭の捧げ物、穀物の捧げ物、和解の捧げ物、罪の捧げ物などがあります。その後、祭司による捧げ物の規則が続き、その中には祭司による燔祭の捧げ物や穀物の捧げ物などが含まれます。八つめの規則は祭司が捧げ物を食べることに関するものです。続いて人々が生活において守るべき規則が示されています。生活の多方面に関する規定がありますが、その中には食べてよいものと食べてはならないもの、出産後の女性の清め、らい病から回復した人に関する規定などが含まれます。これらの規則の中で、神は病についても語っており、羊や牛を殺す規則さえあります。羊や牛は神によって創られたものであり、神の言う通りに殺さなければなりません。神の言葉には間違いなく根拠があり、神が命じた通りに行なうのが正しいことは確かで、人間にとって必ず益となるのです。安息日や過越の祭など、遵守すべき祝祭と規則もありますが、神はそれらのすべてについても語っています。最後に書かれている規則、その他の規則を検討しましょう。ともし火、聖年、土地の贖い、誓願、十分の一の捧げ物などです。これらの規則は広範囲にわたるものでしょうか。まずは人々の捧げ物について触れられており、それから盗みと賠償、そして安息日の遵守と続いており、生活の細部の一つひとつが含まれています。つまり、神は自身の経営計画の正式な働きを始めたとき、人間が従うべき数多くの規則を定めたのです。それらの規則は、人間が地上で普通の生活を送れるようにするためのものであり、人間の普通の生活は神および神の導きから切り離せないものです。神は最初に、どのように祭壇を作って建てるべきかを教えました。その後、人間に捧げ物をするよう指示し、人間はどのように生きるべきかを定めました。つまり、生活の中で何に注意を払い、何に従い、何をすべきで何をすべきでないかを定めたのです。神が人間のために定めたものは包括的で、それらの習慣、規則、原則により、神は人間の振る舞い方に基準を設け、人間の生活を導き、神の律法の手ほどきを行ない、そして人間が神の祭壇の前に出るよう導き、神が人間のために造った、秩序と規則と節度を兼ね備えたすべてのものの中での生活において、人間を指導したのです。神はまずこれらの簡単な規則と原則を用い、人間に対して様々な制限を設けましたが、そうすることで、人間が地上において神を礼拝する正常な生活、正常な人間の生活を送れるようにしました。それが六千年にわたる神の経営計画の始まりの具体的な内容です。それらの規則や決まりは極めて多岐にわたり、律法の時代における神による人間の導きの具体例であって、律法の時代の前に来た人間が受け入れ、従うべきもの、律法の時代に神が行なった働きの記録、そして全人類に対する神の指導と導きの確かな証拠なのです。

人類は永遠に神の教えと施しから離れられない

これらの規則から、自身の働き、経営、そして人類に対する神の態度は真剣で、良心的で、厳格で、責任感に溢れていることがわかります。神は人類のあいだにおいて、自らの働きの段階に応じ、なすべき働きをまったく矛盾なく行ない、人類に語るべき言葉を少しの誤りも抜けもなく語り、人間が神の指導から離れられないことを理解させ、神のすべての言動が人類にとってどれほど重要であるかを示します。次の時代の人間がどのようであるかを問わず、最初のとき、すなわち律法の時代に、神はこれらの簡単な働きをしたのです。神にとって、人々がその時代にもっていた神、世界、そして人間に対する概念は抽象的かつ不明瞭なものであり、意識的な考えや意図がいくらかあったものの、それらはすべて不明確で間違っており、そのため人類には神の教えと施しが不可欠だったのです。初期の人類は何も知らなかったため、神は最も表面的かつ基本的な生存の原則と、生きる上で必要な規則から教え始め、それらの物事を人間の心に少しずつ吹き込む必要がありました。言葉によるこれらの規則を通じ、そしてこれらの規制を通じ、神のことを徐々に認識させ、神の指導、そして神と人間との関係についての基本的な概念を徐々に理解させたのです。その効果が発揮されて初めて、神は後に行なう働きを少しずつ実行することができるのです。したがって、律法の時代におけるこれらの規則と神の働きは、人間を救う働きの基盤であり、神の経営計画における働きの第一段階なのです。律法の時代の働きに先立ち、神はアダム、エバ、そして彼らの子孫に語りかけましたが、その際の命令や教えは、人間一人ひとりに対して発せられるような系統的なものでも具体的なものでもなく、書き留められたものでもなく、規則になってもいませんでした。なぜなら、神の計画は当時そこまで進んではいなかったからです。神が人間をこの段階へ導いて初めて、神は律法の時代におけるこれらの規則を語り始めることができ、人間にそれを実行させ始めることができたのです。それは必要な過程であり、その結果は必然的なものでした。これらの簡潔な習慣と規則は、神の経営の働きの各段階と、神の経営計画において表わされた神の知恵を人間に示しています。自分に証しを行なう人々の集団、自分と同じ思いをもつ人々の集団を得るべく、どのような内容と手段を用いて始めるべきか、どのような手段を用いて継続すべきか、そしてどのような手段を用いて終わらせるべきかを、神は知っています。神は人間の内側にあるものを知っており、人間に何が欠けているかを知っています。神は自分が何を施さなければならないか、いかに人間を導くべきかを知っており、また同じく、人間が何をすべきで何をすべきでないかも知っています。人間はあやつり人形のようなものです。たとえ神の旨をまったく理解していなくても、神の経営の働きによって一歩一歩導かれるしかなかったのです。自分が行なおうとすることについて、神は一点の曇りもなく理解していました。神の心は明瞭で、そこには鮮明な計画がありました。そして自身の段階と計画に従い、自ら行なおうと望む働きを実行し、表面的な働きから深遠な働きへと進めていきました。神は後にどのような働きを行なおうとしているかを示すことはありませんでしたが、その後の働きは自身の計画に厳密に従う形で続けられ、進行しました。それは神が所有するものと神そのものの明示であり、神の権威でもありました。神が自身の経営計画におけるどの段階の働きを行なっているかにかかわらず、神の性質と本質は神自身を表わしています。それは絶対に真実です。時代や働きの段階を問わず、神がどのような人を愛するか、どのような人を憎むか、さらには神の性質、そして神が所有するものと神そのものは決して変わりません。律法の時代の働きで神が確立したこれらの規則と原則は、今日の人々にはとても簡素で表面的に思われるかもしれず、また理解しやすく簡単に達成できますが、そこにはやはり神の知恵があり、神の性質、そして神が所有するものと神そのものが存在します。というのも、見るからに簡素なそれらの規則の中に、人類に対する神の責任と配慮、および神の考えの素晴らしい本質が表現されており、それにより、神が万物を統治し、万物が神の手で支配されていることを、人は真に理解することができるからです。人間がどれほど知識を得ても、どれほど多くの理論や奥義を理解しても、神にとって、これらの事柄のうち、自身の施しと人類に対する指導に代われるものは一つもありません。人間が神の導きと直接の働きから離れることは永遠にできないのです。それが人間と神との切り離せない関係です。神があなたに戒めを与えるか、規則を与えるか、あるいは神の旨を理解するための真理を与えるかどうかを問わず、また神が何を行なうかにかかわらず、神の目的は人間を美しい明日へと導くことです。神が発する言葉と神が行なう働きは、神の本質の一側面、神の性質と知恵の一側面を示すものであり、神の経営計画における不可欠の一段階です。これを見落としてはいけません。神が行なうすべてのことの中に、神の旨があります。神は誤解を恐れることも、神に対する人間の観念や考えに不安を感じることもありません。どんな人や出来事や物事に縛られることもなく、自身の経営計画に沿って働きを行ない、自身の経営を続けるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 62

創世以降の神の思い、考え、行ないを振り返る

本日は、神による人類創造以降の神の旨、考え、そして行動についてまとめ、創世から恵みの時代の開始時点までに神が行なった働きを検討します。すると、神の旨と考えのうち、人間に知られていないものがどれかを突き止めることができ、そこから神の経営計画の秩序をはっきりさせ、神が経営の働きを創った背景、起源、そして展開過程を完全に理解することができ、また神が経営の働きからどのような結果を望んでいるか、つまり神による経営の働きの核心と目的を完全に理解することができます。これらの事柄を理解するには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要があります……

神が最初の生きた人を自ら造る

目覚めた神が最初に考えたことは、生きている現実の人間、常に神とともに生き、神の道連れとなる人を創ることでした。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話せる人でした。次に、神はまずひと握りの土をすくい上げ、心の中で想像していた姿にしたがって最初の人間を創り、その生きた被造物をアダムと名づけました。息をして生きているこの人間を創った後、神はどのように感じましたか。愛すべき道連れをもつ喜びを初めて感じたのです。また、父としての責任と、それに伴う懸念も初めて感じました。息をして生きているこの人間は、神に幸福と喜びをもたらしました。神は初めて慰めを感じたのです。これが、神が自身の考え、さらには自身の言葉によってではなく、自身の手で行なった最初の業でした。いのちをもち、息をする人間、肉と血で創られた身体をもち、神と話せるこのような存在が目の前に立ったとき、神はかつてない喜びを感じました。神は自らの責任を実感し、この生き物に心惹かれるだけでなく、その一つひとつの行動に心が温まって感動しました。この生き物が神の前に立ったとき、神は初めて、このような人間をさらに得たいと考えました。これら一連の出来事は、神が当初に抱いたこの考えから始まったものです。神にとって、こうした出来事はどれも初めてのことでしたが、これら最初の出来事において、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、懸念であれ、それを分かち合う相手が神にはいなかったのです。この瞬間から、神はそれまで感じたことのなかった寂しさと悲しさを心から感じました。人間は自分の愛と懸念、そして人間に対する自身の旨を受け入れることも理解することもできないと思った神は、依然として悲しみと心の痛みを感じていました。人間のためにこれらのことを行なったにもかかわらず、人間はそれに気づかず、理解することもありませんでした。幸福に加え、人間が神にもたらした喜びと慰めは、ほどなくして最初の悲しみと寂しさをも神にもたらしたのです。以上が、この時点で神が考え、感じていたことです。そうしたことを行なっている間、神の心は喜びから悲しみに、悲しみから苦痛に変わり、その感情には懸念が入り交じっていました。神が望んだのはひとえに、自身の心にあるものをこの人間、この人類に急いで知らしめ、一刻も早く自身の旨を理解させることでした。そうすれば、人間は神に付き従う者となって神の考えを分かち合い、神の旨に従えるようになるはずです。ひたすら無言で神の言葉に耳を傾けることも、神の働きにどう加わるべきかを知らずにいることもなくなり、そして何より、神の求めに無関心でいることはなくなるでしょう。神が最初になしたこれらの事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに価値あるものでした。

万物と人類を創った後、神が休むことはありませんでした。自身の経営を実行し、自身がこよなく愛する人間を得ようと待ちきれなかったのです。

律法の時代の前後、神が前例のない一連の働きを行なう

その後、神が人間を創ってからほどなくして、世界中で大規模な洪水が起きたと聖書には記されています。この洪水の記録はノアについて触れていますが、ノアは、神の務めを遂行すべく神とともに働くよう、神の命令を受けた最初の人間だと言えるでしょう。もちろん、神が地上の人間に対して、自身の命令に従って何かをするよう呼びかけたのもこれが最初でした。ノアが箱舟を完成させると、神は地球に最初の洪水を起こしました。洪水によって大地を滅ぼしたとき、神は人間を創ってから初めて、人間への嫌悪感に圧倒されました。それにより、神は洪水によって人類を滅ぼすという悲痛な決断を余儀なくされたのです。地球が洪水によって滅ぼされた後、神は人間との間で、二度と洪水によって世界を滅ぼさないという内容の最初の契約を交わしました。この契約のしるしは虹でした。これが神と人類との最初の契約であり、したがって虹は、神による契約の最初のしるしでした。虹は実体のある物理的な存在です。この虹こそが、洪水で失った以前の人類に対する神の悲しみをしばしば呼び起こし、それらの人々が見舞われた出来事を、絶えず神に思い出させるものなのです……神は歩を緩めることなく、ひたすら自身の経営を次の段階へと進めました。次に、イスラエル全土における自身の働きの中で、神は最初にアブラハムを選びました。これは、神がアブラハムのような者を選んだ最初の時でもありました。神はこの人物を通じて人類を救う働きを始め、それから彼の子孫を通じて自らの働きを継続することを決意しました。神がアブラハムに対してそのようにしたことは、聖書で確認することができます。その後、神はイスラエルを最初の地として選び、選民であるイスラエル人を通じて律法の時代の働きを始めました。この時も、神は初めて、人類が従うべき明確な規則と律法をイスラエル人にもたらし、それらを詳しく説明しました。どのように生贄を捧げるべきか、どのように暮らすべきか、何をすべきで何をすべきでないか、どのような祝祭や期日を守るべきか、そして万事においてどのような原則に従うべきかについて、神は初めて具体的かつ標準的な規則を人間にもたらしたのです。

ここで「初めて」というのは、神はそれ以前に同様の働きを行なったことがなかった、という意味です。そうした働きはそれまで存在しておらず、神は人類を創り、ありとあらゆる生き物を創ったにもかかわらず、こうした働きを行なうことは以前になかったのです。これらの働きはすべて、神による人類の経営が関係しています。どれも人々に、そして神による人々の救いと経営に関係していたのです。アブラハムの後、神は再び初めてのことをしました。つまりヨブを選び、彼を律法のもとで暮らし、サタンの試みに耐え、その一方で引き続き神を畏れ、悪を避け、神の証しに立つ人間としたのです。それはまた、サタンが人を試すのを神が許した最初の時であり、神がサタンと賭けをした最初の時でもありました。最終的に、サタンと対峙しながら神の証しに立ち、その証しをできる人、サタンを完全に辱められる人を、神は初めて得たのです。神による人類の創造以来、神が自身の証しをできる人を得たのはこれが最初でした。ヨブを得た神はより精力的に経営を続け、働きの次なる段階へと進み、それを行なう場所と人を選んで用意しました。

ここまでの交わりで、神の旨を真に理解しましたか。このように人間を経営して救うことを、神は何より重要だと考えます。神はこうした業を、自身の考えや言葉だけでそれらのことを行なうのではなく、ましてや軽々しい態度で行なうことなどあり得ません。計画、目的、基準、そして自身の旨にしたがってそれらのことを行なうのです。人類を救うその働きが、神と人間の両方にとって極めて大きな意義をもつことは明らかです。その働きがいかに困難だとしても、障害がいかに大きくても、人間がいかに弱くても、あるいは人類の反逆心がいかに強くても、そのいずれも神にとって困難とはなりません。神はひたすら血のにじむような努力を続け、自身が行なおうとしている働きを経営します。また、神はすべてを采配し、働きの対象となるすべての人間と、完了させたいと望むすべての働きを経営していますが、それらはどれも以前に行なわれたことがないものです。人類を経営して救うという一大事業のために、神がこれらの手段を使い、かくも大きな代価を支払ったのはこれが初めてなのです。神はこの働きを行なう一方、自身の血のにじむような努力、自身が所有するものと自身そのもの、自身の知恵と全能、そして自身の性質の各側面を、人類に対して少しずつ、かつ惜しみなく示して明らかにします。それまで明かしてこなかったこれらのことを明らかにして示すのです。ゆえに、神が経営して救おうとする人間を除き、神にこれほど近づき、親密な関係をもつ生物は全宇宙に存在しません。神の心の中では、自分が経営して救おうとしている人間が最も重要であり、神はこの人類を他の何より大切にしています。たとえ彼らのために大きな代価を支払ってきたとしても、また彼らに絶えず傷つけられ、反抗されたとしても、神は彼らを決して見捨てず、不満を言うことも後悔することもなく、自身の働きをひたすら続けます。と言うのも、人々が遅かれ早かれ自身の呼びかけで目覚め、自身の言葉によって動かされ、神が創造主であることを認めて神のもとへ戻ることを、神は知っているからです。

今日ここまでの話を聞いて、神が行なうことはすべてごく普通だと感じるかもしれません。人間は神の言葉と働きから、神の旨の一部を絶えず感じ取っているように思われますが、人々の感情や認識と、神が考えていることとの間には、常に一定の差があります。そのためわたしは、神が人類を創った理由や、自ら望む人々を獲得したいという神の望みの背景について、すべての人に伝える必要があると思うのです。一人ひとりが心の中ではっきりさせて理解するよう、これを全員に分かち合うことが不可欠なのです。神の一つひとつの考えや発想、そして神の働きの各段階と各期間は、いずれも神の経営の働き全体と結びつき、密接に関連しているので、働きの各段階における神の考え、発想、そして旨を理解することは、神の経営計画の働きがどのように生じるかを理解することと同じなのです。これを土台として、神に関するあなたの理解は深まります。先ほど述べた、神が世界を創った際に行なったすべてのことは、いまや「情報」に過ぎず、真理の追求と何ら関係ないように見えます。しかし、経験を積んでゆく過程で、それが単なる情報のように単純なものでもなければ、ある種の謎のように簡単なものでもないことに気づく日が来ます。今後の人生のなかで、心の中に少しでも神の居場所があれば、あるいは神の旨をより徹底的に、より深く理解すれば、わたしが本日話している内容の重要性と必要性を真に理解することができます。いまこれをどの程度受け入れるかに関係なく、こうした事柄を理解して知ることは、あなたがたにとって必要なことです。神が何かを行なったり働きを実行したりするとき、それが神の考えによるものか、あるいは神自身の手によるものかを問わず、また神がそれを行なうのが最初であるか最後であるかを問わず、最終的に、神には計画があり、神が行なうすべてのことには神の目的と考えが込められているのです。こうした目的と考えが神の性質を示し、神が所有するものと神そのものを表わしています。これら二つのこと、つまり神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、すべての人が理解しなければならないことです。いったん神の性質や、神が所有するものと神そのものを理解すれば、その人は徐々に、神がなぜそれを行なうのか、なぜそれを言うのかを理解できるようになります。そこから神に従い、真理と性質の変化を追い求める信仰をさらに得られるのです。つまり、神に関する人間の理解と、神への信仰は不可分なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 63

人々が知って理解するようになったことが、神の性質や神が所有するものと神そのものだとしたら、それによって得られるのは神から生じるいのちです。ひとたびこのいのちが自分の中で形作られると、神への畏れが次第に大きくなります。それは極めて自然に生じる成果です。神の性質や本質について、それを理解しようと望まず、また知ろうともしないなら、あるいはそれらの事柄を考えたり重視したりすることさえ望まないなら、神への信仰を追求するにあたってあなたが現在行なっている方法では、神の旨を満足させることも、神の称賛を得ることも決してできないと断言できます。それ以上に、神の救いも決して得られません。それが最終的な結果です。神を理解せず、神の性質を知らなければ、神に対して真に心を開くことはできません。いったん神を理解すれば、神の心中にあるものを、関心と信仰をもって理解し、味わうようになります。神の心中にあるものを理解して味わうとき、神に対して徐々に心が開かれていきます。神に対して心が開いたとき、自分がしてきた神とのやりとり、神に対する要求、そして自分自身の過度な欲望がどれほど恥ずかしく軽蔑に価するかを感じるようになります。神に対して真に心を開いた時、神の心が無限の世界であることや、自分が未体験の領域へと入ってゆくのがわかります。この領域には嘘や欺瞞、闇や邪悪がまったくありません。そこにあるのは誠実さと忠実さ、光と正しさ、義と優しさだけなのです。この領域は愛と思いやり、慈悲と寛容にあふれ、それを通じて生きていることの幸福と喜びを感じることができます。あなたが神に心を開いたとき、神はこれらのことをあなたに明かすのです。この無限の世界は神の知恵と全能、また神の愛と権威に満ちています。そこでは、神が所有するものと神そのもの、神に喜びをもたらす物事、神が懸念を抱く理由、神が悲しむ理由、神が怒りを抱く理由について、そのあらゆる側面がわかります。心を開いて神が入ってくるのを受け入れた人はみな、これらの事柄がわかるのです。神があなたの心に入れるのは、あなたが神に心を開くときだけです。神があなたの心に入ったときにだけ、あなたは神が所有するものと神そのもの、そしてあなたに対する神の旨を理解できるのです。そのとき、神に関するすべての物事が尊いこと、神が所有するものと神そのものが大切にする価値のあるものだとわかります。それに比べると、あなたの周囲の人々、生活における物事や出来事、そしてあなたの家族や伴侶、あるいはあなたが愛する物事さえ、述べる価値すらありません。それらはとても小さく卑しいものであって、自分が何らかの物体に引きつけられることはない、あるいは何らかの物体が自分を誘惑し、その代価を払わせることは二度とできないと感じるようになります。あなたは神の謙虚さの中に、神の偉大さと至高を目の当たりにします。そのうえ、あなたは神の業の中に、自分がそれまで、神の無限なる知恵と寛容はごく小さなものだと信じていたこと、そして自分に対する神の忍耐、寛容、および理解を目の当たりにします。こうした事柄により、あなたの中に神への愛が育まれます。あなたはその日、人類がとてつもなく汚れた世で生きていること、身近な人々や生活の中の出来事、自分が愛する人や、そうした人のあなたに対する愛、そしていわゆる保護や気遣いさえも、述べる価値すらないものと感じられ、自分が愛するのは神だけであり、自分にとって最も貴重なのは神だけであると感じます。この日が来たとき、次のように言う人々が現われることをわたしは信じています。「神の愛はかくも偉大であり、神の本質はかくも聖なるものだ。神には欺瞞、邪悪、ねたみ、争いが皆無であり、正義と正当性しかなく、神が所有するものと神そのもののすべては、人間が望むべきものである。人間はそれを求めて努力し、熱望すべきだ」では、それを成し遂げる人類の能力は何を基盤としていますか。そうした能力は、神の性質と本質に関する自分自身の理解を基盤としています。したがって、神の性質、そして神が所有するものと神そのものを理解することは、各人が生涯をかけて学ぶことであり、また自分の性質を変え、神を知ろうと努力するすべての人が追い求める目標でもあるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 64

神が初めて肉となり、働きを行なう

神が所有するものと神そのものについてもっと理解したいと望むなら、旧約聖書や律法の時代で立ち止まることはできず、神がその働きのなかで辿った段階にしたがい先へと進む必要があります。ゆえに、神は律法の時代を終えて恵みの時代を始めたのですから、わたしたちもそのあとを追い、恵みと贖いに満ちた時代、すなわち恵みの時代へと進みましょう。この時代、神は再び初めての重要なことを行ないました。神と人類の両者にとって新しいこの時代における働きは、新たな出発点となりました。この新たな出発点もまた、神がそれまで行なったことのない働きから成り立っていました。この新たな働きは前例のないものであり、人間やあらゆる被造物の想像力を超えるものでした。それはいまや誰もが知っています。つまり、神は初めて人間となり、初めて人間の姿で、人間の身分において新たな働きを始めたのです。この新たな働きは、神が律法の時代の働きを終えたこと、そして律法に基づく言動をもはやしないことを示しました。また律法の形で、あるいは律法の原則や規則にしたがって、何かを述べたり行なったりすることもなかったのです。つまり、律法に基づく神の働きは永遠に止まり、継続することは二度とありませんでした。なぜなら、神は新たな働きを始め、新たな業を行なうことを望んだからです。神の計画は再び新たな出発点を迎え、ゆえに神は人類を新たな時代へと導く必要がありました。

それが人間にとって喜ぶべき知らせであるか、忌むべき知らせであるかは、各人の本質によって決まります。一部の人々にとって、それは嬉しい知らせでなく忌むべき知らせだったと言えるでしょう。と言うのも、神が新たな働きを始めた際、律法と規則に従うだけだった人、教義に従うばかりで神を畏れなかった人は、神による以前の働きを持ち出して、神の新たな働きを非難しようとする傾向にあったからです。こうした人たちにとって、それは悪い知らせでした。しかし、汚れがなく率直であり、神に対して誠実であり、神の贖いを喜んで受けた人々にとって、神の最初の受肉は極めて喜ばしい知らせでした。なぜなら、人間が存在するようになってからというもの、神が霊ではない形で現われ、人間とともに生活したのはこれが初めてであり、神は今回人間として生まれ、人の子として人々の間で生活し、人々の中で働きを行なったからです。この「初めての出来事」は、人々の観念を打ち壊し、あらゆる想像を越えるものでした。さらに、神の信者は残らず目に見える益を得ました。神は古い時代を終わらせただけでなく、自身の働きにおけるそれまでの手段や方式をも終わらせたのです。つまり、神は使者に自身の旨を伝えさせることを止め、もはや雲間に隠れず、稲妻を通じて現われることも、人間に命令口調で語ることもなくなりました。それ以前とは異なり、人間にとって想像もつかず、理解することも受け入れることも極めて困難な方法、つまり肉になるという方法でその時代の働きを始めるべく、神は人の子となりました。神によるこの行動は、人間にとってまったくの不意打ちであり、また不快なものでした。なぜなら、神はまたしても、それまで行なったことのない新しい働きを始めたからです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 65

イエスが安息日に麦の穂を摘んで食べる

マタイによる福音書 12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

人の子は安息日の主である

マタイによる福音書 12:6-8 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。

まずは「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた」という聖句を検討しましょう。

わたしがこの聖句を選んだのはなぜですか。この聖句と神の性質との間にはどのようなつながりがありますか。この聖句で最初にわかるのは、安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子たちを率いて麦畑を歩いたということです。さらに「けしからぬ」こととして、弟子たちは「穂を摘んで食べはじめた」のです。律法の時代、ヤーウェ神の律法には、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりしてはならないと明記されていました。安息日にしてはならないことが沢山あったのです。主イエスによるこの行動は、長らく律法の下で暮らしてきた人にとっては不可解であり、非難を招きさえしました。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかは検討せず、まずは主イエスがすべての曜日の中でなぜ安息日にこうした行動をとったのか、またその行動により、律法の下で暮らしていた人々に何を伝えたかったかを検討します。それがこの聖句と、わたしがこれからお話しする神の性質とのつながりなのです。

来臨した主イエスは、神が律法の時代を離れて新たな働きを始めたこと、またその新たな働きが安息日の遵守を求めないことを、実際の行動によって人々に伝えました。神が安息日の拘束から抜け出たのは、神の新たな働きの前触れに過ぎず、実際の偉大な働きはいまだ行なわれていなかったのです。主イエスは働きを始めた際、律法の時代の「束縛」をすでに捨て去っており、その時代の規制や原則を打破していました。イエスには、律法に関連する部分がまったく見られませんでした。律法を完全に捨て去り、もはやそれを守らず、また律法の遵守を人に要求することもなかったのです。ゆえにここで、主イエスが安息日に麦畑を歩いていたこと、およびその日に休まなかったことがわかります。主イエスは外に働きに出て休まなかったのです。主イエスによるこの行動は人々の観念に衝撃をもたらし、イエスがもはや律法の下で暮らしていないこと、およびイエスが安息日の束縛を離れ、新たな姿で、新たな働き方を携えて人類の前に現われたことを人々に伝えました。またイエスによるこの行動は、彼が新たな働きを携えてきたことを人々に示しました。それはつまり、律法の支配と安息日を離れることから始まる働きです。新たな働きを行なう際、神はもはや過去に固執せず、律法の時代の規則を気にかけることもありませんでした。また過去の時代の働きに影響されることもなく、他の各曜日と同じく安息日であっても働きを行ない、かくして弟子たちは空腹となったとき、麦の穂を摘んで食べることができました。これはどれも、神の目にはごく普通のことでした。神にとって、自身が行なおうとしている新たな働きや、言おうとしている新たな言葉の大部分について、それらが新たに始まるのは許されることなのです。神は何か新しいことを始めるとき、以前の働きに触れることも、それを続けることもありません。神の働きには原則があるので、神が新たな働きを始めようとしたら、それは自身の働きの新たな段階に人類を連れ出すとき、自身の働きがより高次の段階に入るときなのです。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動し続けたり、それらに固執し続けたりした場合、神はそれを記憶することも讃えることもしません。なぜなら、神はすでに新たな働きをもたらし、働きの新たな段階へと入ったからです。神は新たな働きを始めるとき、人々が神の性質や神が所有するものと神そのものの様々な側面を見て取れるよう、まったく新しい姿で、まったく新しい角度から、まったく新しい方法でもって、人類の前に現われます。これが神による新たな働きの目的の一つです。神は以前の物事にしがみつくことも、踏みならされた道を歩くこともありません。また働きを行なって言葉を語るときも、人間が想像するように何かを禁じたりはしません。神においてはすべてが自由であり、解放されており、禁止も束縛もありません。神が人類にもたらすのは自由と解放なのです。神は生きている神であり、本当に実在する神です。操り人形でも粘土の像でもなく、人間が崇め奉る偶像とはまったく違います。神は生きており、活気に満ち、神の言葉と働きが人類にもたらすのは、ひとえにいのちと光、自由と解放です。なぜなら、神には真理といのちと道があり、働きの中でいかなる物事にも制約されないからです。人々が何を言おうと、あるいは神の新たな働きをどのように見たり評価したりしようと、神は何のためらいもなく働きを行ないます。自身の働きや言葉に対する人間の観念と批判、さらには自身の働きに対する強い反感や反抗を、神が懸念することはないのです。人間の理知、あるいは人間の想像、知識、倫理によって、神の働きの評価や定義をしたり、それを貶め、混乱させ、妨害することができる者は、あらゆる被造物の中に一人もいません。神の働きや業の中に禁じられていることは一切なく、人や出来事や物事に制約されることも、敵対する勢力に妨害されることもありません。神の新たな働きに関する限り、神は永遠に勝利する王であり、いかなる敵対勢力も、あるいは人類による異端や詭弁も、すべて神の足台の下で踏みにじられます。神の働きのうち、どの新たな段階が現在なされているかを問わず、神の大いなる働きが完了するまで、それは必ずや人類の間で発展、拡大し、全宇宙において妨害されることなく実行されます。これが神の全能と知恵、そして権威と力なのです。そのため、主イエスは安息日に公然と外出して働くことができました。なぜなら主の心には、人間に由来する規則も、知識も、教義もなかったからです。イエスにあったのは神の新たな働きと道でした。その働きは、人間を自由にして解放し、人間が光の中に存在して生きられるようにする道でした。一方、偶像や偽の神を崇拝する人は、サタンに束縛され、ありとあらゆる規則や禁忌に制約されながら毎日を生きています。今日はあることが禁止され、明日はまた別の何かが禁止されるという具合に、彼らの生活に自由はないのです。彼らは足かせをはめられた囚人のようなもので、語るべき喜びをもたずに生きています。「禁止」とは何を表わしていますか。それは、制約、束縛、そして邪悪を表わしています。偶像を崇拝するや否や、その人は偽の神、悪霊を崇めていることになります。そうした行ないがなされると、そこには禁止が伴います。あれやこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日は料理できない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある、といった具合です。それは何と呼ばれますか。それを「禁止」というのです。それは人間の束縛、サタンと悪霊の足かせであり、人々を操ってその心身を拘束しているのです。これらの禁止事項は神に存在しますか。神の聖さについて語るとき、まずは神に禁止事項がないことを考えなければなりません。神の言葉と働きには原則があっても、禁止事項はありません。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 66

「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書 12:6-8)という聖書の一節を検討しましょう。ここでいう「宮」、つまり神殿は何を指していますか。簡単に言えば、それは高くて壮麗な建物を指しており、律法の時代においては、司祭が神を礼拝する場所でした。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる」と言った際、「大いなる者」とは誰を指していましたか。それは明らかに、肉体をもつ主イエスを指しています。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスだけだったからです。この言葉は人々に何を伝えましたか。神殿から出るよう、人々に伝えたのです。神はすでに神殿から出ており、もはやそこでは何も行なっていなかったので、人々は神殿の外で神の足跡を求め、新たな働きにおける神の歩みに従うべきなのです。主イエスがそう言ったとき、その言葉の背景には一つの前提がありました。つまり、人々は律法のもと、神殿を神自身よりも偉大なものとして見なすようになっていたことです。要するに、人々が神でなく神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、至高の存在である神を崇拝するよう警告したのです。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べました。主イエスから見て、ほとんどの人は律法のもと、もはやヤーウェを礼拝しておらず、単に生贄を捧げる動作を繰り返していたのは明白であり、主イエスはその動作を偶像崇拝だと判断しました。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていました。彼らの心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失うとすみかを失うことになりました。神殿がなければ礼拝する場所がなく、生贄を捧げることができませんでした。ここでいう「すみか」とは、神殿に留まって自分の活動を行なうべく、ヤーウェ神を礼拝するふりをしていた場所のことです。また「生贄を捧げる」とは、神殿で奉仕を行なうという口実のもと、自分個人の恥ずべき取引を行なうということでした。当時の人々が、神殿は神より偉大だと見なしていたのはこれが理由でした。こうした人たちは神殿を隠れ蓑として、生贄を人々と神を欺く口実として利用していたので、主イエスは人々への警告としてこれらの言葉を語ったのです。現在に当てはめても、これらの言葉は依然として正当であり、適切なものです。現在の人々は律法の時代の人々と異なる神の働きを経験していますが、人の本性実質は同じです。現在の働きに関しても、人々は「神殿は神よりも偉大である」という言葉に代表されるような物事を依然として行なっています。たとえば、自分の本分を尽くすことを仕事と考えており、神を証しすること、赤い大きな竜と戦うことを、人権保護、民主主義、そして自由のための政治活動だと考えています。また人々は、自分の技能を活用する本分を職務としていますが、神を畏れて悪を避けることを、遵守すべき単なる宗教的教義として扱っています。このような振る舞いは、「神殿は神よりも偉大である」というものと本質的に同じではないですか。二千年前、人々は形ある神殿で自分の個人的な仕事を行なっていたのに対し、現在において、人々は無形の神殿で自分の個人的な仕事を行なっているというだけの違いです。規則を重視する人は、規則を神よりも偉大なものと見なし、地位を好む人は、地位を神よりも偉大なものと見なし、職務を好む人は、職務を神よりも偉大ものと見なしています。そうした人たちが表わしていることのために、わたしは次のように言うのです。「人々は、口では神を最も偉大だと褒め讃えるが、その人たちの目には、あらゆる物事が神よりも偉大なものとして映る」。その理由は、神に付き従う道において、自分自身の才能を示したり、あるいは自分自身の仕事や職務を行なったりする機会を見出すとすぐ、人は神から離れ、自分が愛する職務に没頭してしまうからです。神が彼らに託した物事や、神の旨は、はるか昔に捨て去られたのです。これらの人たちの状態と、二千年前に神殿の中で自分の仕事を行なっていた人たちの状態と、いったい何が違うでしょうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 67

この「人の子は安息日の主である」という一文は、神に関する一切のものが非物質的であることを人々に伝えています。それでは、神はあなたが必要とする物質的な物事をすべて授けることができますが、物質的な必要性がすべて満たされた後、こうした物事による満足感で真理の追求を置き換えることはできますか。それは明らかに不可能です。ここまで交わってきた神の性質、および神が所有するものと神そのものは、どちらも真理です。その価値を物質的な物事で計るのは不可能であり、またそれがいかに貴重でも、その価値を金銭で数量化することもできません。なぜなら、それは物質的なものではなく、各人の心が必要とするものを満たすものだからです。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが大事にしているいかなる物体の価値よりも高いはずです。違いますか。この問題についてはじっくり考える必要があります。わたしが述べてきたことの要点は、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、あらゆる人にとって最も重要なことであり、どのような物体もその代わりにはなり得ないということです。一つ例を挙げましょう。空腹のときには食べ物が必要です。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があります。しかし腹一杯食べさえすれば、空腹の不快感は解消されてなくなります。落ち着いていられるようになり、身体も安らぎます。人間の空腹は食べ物で解消されますが、神に付き従っているのに、自分は何ら神を理解していないと感じるなら、その心の空虚さはどうすれば解消することができますか。食べ物で解消することができますか。また、神に付き従っているのに、神の旨を理解していなければ、そうした心の飢えは何を使えば満たせますか。神による救いを経験する過程において、性質の変化を追い求めながら、神の旨を理解することも、真理とは何かを知ることもなく、神の性質を知らなければ、あなたは極めて不安に感じませんか。心の飢えと渇きを強く感じませんか。そうした感覚によって心の安息が妨げられはしませんか。では、こうした心の飢えを解消するにはどうすればよいですか。それを解消する方法はありますか。ショッピングに出かける人もいれば、悩みを打ち明けられる友達を探す人、ひたすら眠る人、神の言葉をさらに読む人、より懸命に働き、本分を尽くすためにいっそう努力する人もいます。こうしたことで実際の問題を解決できますか。このような行動については、あなたがたの誰もが完全に理解しています。無力感を覚えたとき、あるいは真理や神の旨を実際に知ることができるよう、神の啓示を得たいと渇望するとき、あなたに一番必要なものは何ですか。大量の食事でも二、三の優しい言葉でもなく、ましてや束の間の慰めでも肉の満足でもありません。あなたに必要なのは、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、神から明瞭に直接伝えてもらうことです。ほんの少しでもそれを理解したら、良い食事を食べたときよりも心の中で満足感を覚えませんか。心が満たされたとき、心と自分の存在全体が真の安らぎを得られるのではないですか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である」という文章をあなたがたと分かち合いたい理由が理解できたでしょうか。この文章が意味するのは、神から生じるもの、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、他の何より偉大だということです。そこには、あなたがそれまで最も貴重だと信じていた物事や人も含まれます。つまり、神の口から言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりすれば、その人は安らぎを得られないのです。あなたがたは今後の経験のなかで、わたしが今日あなたがたにこの聖句を考察してほしいと望んだ理由を理解するでしょう。これは非常に重要なことです。神が行なうことはどれも真理であり、いのちです。この真理は人間のいのちに不可欠なものであり、それなしで生きることは決してできません。また、それは最も偉大なものだとも言えるでしょう。真理は見ることも触れることもできませんが、あなたに対する重要性を無視することはできません。それはあなたの心に安らぎをもたらす唯一のものなのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 68

真理に関するあなたがたの理解は、自分自身の状態と一体となっていますか。実生活では、どの真理が、自分が遭遇した人や出来事や物事に関連しているかをまず考えなければなりません。こうした真理の中に神の旨を見出し、自分が遭遇した物事と神の旨を関連づけることができるからです。自分が遭遇した物事について、真理のどの側面がそれと関連しているかを知ることなく、神の旨を直接求めにいったところで、そのような盲目的なやり方で成果を得ることはできません。真理を求めて神の旨を理解したければ、まずは自分にどのようなことが起きているのか、それが真理のどの側面と関連しているかを検討してから、神の言葉の中に、自分が経験したことに関連する特定の真理を探し出す必要があります。次に、その真理の中から自分にふさわしい実践の道を探します。そのようにすることで、神の旨に関する間接的な理解が得られます。真理を探して実践することは、機械的に教義を適用することでも、公式に従うことでもありません。真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。神の言葉から神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を理解することを除いて最も重要なのは、実践的な経験を通じてこの理解に達する必要性です。神を知るために自分を実生活から切り離せば、その人は神を知ることができません。神の言葉から何らかの理解を得られる人がいたとしても、その理解は教義や言葉に限られ、本当の神自身と差異が生じることになります。

いま話し合っていることはどれも、聖書に記録された物語の範囲内にあるものです。これらの物語と、そこで起きたことの分析によって、人間は神が表わしてきた神の性質と、神が所有するものと神そのものを理解することができ、それによって神のあらゆる側面をより広く、深く、包括的に、そして徹底的に知ることができます。では、神のあらゆる側面を知るには、これらの物語を通して知るのが唯一の方法ですか。違います。それが唯一の方法ではありません。神の性質をより十分に知るには、神の国の時代における神の言葉と働きのほうが役立つからです。しかし、神の性質を知り、神が所有するものと神そのものを理解するには、人々が親しんでいる聖書の中の実例や物語を通して行なうほうがより簡単だと思います。裁きと刑罰の言葉、および神が現在表わしている真理を一語一語取り上げ、それによってあなたに神を理解させようとすれば、あなたはあまりに退屈で面倒だと感じ、中には神の言葉は型通りだと感じる人さえいるでしょう。しかし、こうした聖書の物語を例として取り上げ、神の性質を知る手助けとすれば、人々は退屈さを感じません。これらの例を説明する過程で、気分や感情、思いや考えといった、神の心にそのときあった事柄の詳細は人間の言葉で語られており、その目標はひとえに、神が所有するものと神そのものが型通りのものでないことを人々が理解し、感じ取るようにすることだと言えるでしょう。それは伝説でもなければ、人々が見たり触ったりすることができないものでもありません。それは実在するもの、人々が感じ取って理解できるものなのです。これが最終的な目標です。この時代に生きる人々は祝福されていると言えるでしょう。聖書の物語を用いることで、神の以前の働きについて認識を広げ、神が行なった働きを通して神の性質を知ることができるからです。そして神が表わしてきた性質を通じて、人類に対する神の旨を理解し、神の聖さと人間への配慮の具体的な現われを理解することができます。このようにして、人々は神の性質をより詳細に、より深く知ることができるのです。これはあなたがたの誰もがいま感じられることだと思います。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 69

主イエスが恵みの時代に完成させた働きの中に、神が所有するものと神そのものに関するもう一つの側面を見ることができます。それは神の肉によって表わされた側面であり、人々は神の人間性のおかげでそれを見て理解することができました。人々は人の子の中に、受肉した神がどのように人間性を生きたかを見、肉を通じて表わされた神の神性を理解したのです。これら二種類の表われにより、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関する別の考えを形作ることができました。しかし、創世から律法の時代の終焉に至るまで、つまり恵みの時代の以前、人々が見聞きして経験した神の側面は、神の神性、無形の領域における神の言動、そして見たり触れたりすることのできない、神の真の実体から表わされた事柄だけでした。これらのことにより、神が圧倒的に偉大であり、自分は神に近づくことができないと、人々は往々にして感じました。神が人間に対して通常与える印象は、神は知覚できることもあればできないこともあるというものです。そして人々は、神の思いや考えはすべて神秘的であり、捉えどころがないので、それらに到達する術はなく、まして理解や認識を試みることすら不可能だと感じました。人間にとっては神に関するすべての事柄が、自分たちには見ることも触れることもできないほどはるか遠くに離れていたのです。神は天高くにいて、まったく存在しないかのようでした。そのため人間にとって、神の心や思い、あるいは神のどんな考えも理解不可能であり、到達することさえ不可能でした。神は律法の時代にある程度の具体的な働きを行ない、また具体的な言葉を発したり、具体的な性質を表わしたりすることで、人間が神に関する真の理解と認識を得られるようにしましたが、結局のところ、神が所有するものと神そのものに関するそれらの表われは無形の領域から生じたものであり、人々が理解したこと、知ったことは依然として、神が所有するものと神そのものがもつ神性の側面でした。人間は、神が所有するものと神そのものにまつわるこうした表われから具体的な考えを得ることができず、彼らの神に対する印象は依然、「出現と消滅を繰り返す、近づきがたい霊体」という範疇に留まっていました。神は物質界に属する特定の物体や姿を用いて人々の前に出現することはなかったので、人々は人間の言葉で神を定義することができないままでした。そして心と頭の中では、たとえば神の身長、体重、外見、好み、そして性格などといったことについて、自分たちの言葉を使って神の基準を定め、神を有形化したい、人間化したいといつも望んでいました。事実、神は心の中で、人々がこのように考えていたことを知っていました。神は人々が必要としているものを極めて明確に理解しており、当然ながら、自分が何をすべきかも知っていたので、恵みの時代には違う方法で働きを行ないました。この新しい方法は神性と人間性の両方によるものでした。主イエスが働きを行なっている間、人々は、神には数多くの人間的な表われがあることを知りました。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話したり、様々な事柄を話し合ったりすることができました。さらに、主イエスはその神性を示す働きを数多く成し遂げましたが、当然ながらそうした働きはどれも神の性質を表わし、示すものでした。その間、神の神性が普通の肉において具体化され、人々が見たり触れたりできるようになったとき、彼らは神が出現と消滅を繰り返す存在、自分たちが近づけない存在だとは感じなくなりました。それとは逆に、人の子の一挙手一投足、言葉、そして働きを通じ、神の旨を把握したり、神の神性を理解したりすることを試みられるようになったのです。受肉した人の子は、その人間性を通じて神の神性を表わし、神の旨を人類に伝えました。また、神の旨と性質を表わすことで、霊的領域に暮らし、見ることも触れることもできない神を人間に表わしたのです。人々が見たのは、肉と骨から成る、姿形のある神自身でした。そうして受肉した人の子は、神の身分、地位、姿、性質、そして神が所有するものと神そのものを、具体的かつ人間的なものにしました。人の子の外見は、神の姿に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質、および人の子が所有するものと人の子そのものは、神自身の身分と地位を完全に示すことができました。ただ表わし方に違いがあっただけなのです。人間性と神性の両方において、人の子が神自身の身分と地位を示していたことは否定できません。しかし、この時期、神は肉を通じて働きを行ない、肉の見地から語り、人の子の身分と地位をもって人間の前に姿を見せたのであり、人々はそれによって、人類の間における神の真の言葉と働きに遭遇し、それらを経験する機会が得られました。それはまた、謙虚さの中にある神の神性と偉大さについて、人間が見識を得ることを可能にするとともに、神の真正さと実在に関する予備的な認識と定義を得ることも可能にしました。主イエスが完成させた働き、イエスが働きを行なう方法、および言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の実体とは異なるものでしたが、イエスにまつわる一切のことは、人類がかつて見たことのない神自身を真に示しており、その事実は決して否定できません。つまり、神がどのような形で現われるか、どの観点から言葉を述べるか、どのような姿で人類と向き合うかにかかわらず、神は他ならぬ神自身を示すのです。神は誰か一人を示すことも、堕落した人類の誰かを示すこともできません。神は神自身であり、それを否定することはできないのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 70

迷える羊の喩え

マタイによる福音書18:12-14 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

この一節は喩えですが、人々にどのような印象を与えますか。この喩えでは、人間の言語による修辞的な表現が用いられており、人間の知識の範囲内にあります。もし律法の時代に神がこのようなことを述べていたとしたら、そのような言葉は神のありようにそぐわないと人々は感じていたでしょう。しかし、恵みの時代に人の子がこの言葉を述べたとき、それは慰めとなり、人に暖かさと親密さを感じさせました。受肉して人の姿で現われた神は、自身の心の声を表わすべく、自身の人間性に由来する極めて適切な比喩を用いました。その声は神自身の声と、その時代に神が行なおうとした働きを示すものでした。それはまた、恵みの時代における神の人間に対する姿勢も示していました。神の人間に対する姿勢という観点から、神は一人ひとりを羊に喩えたのです。一匹の羊がいなくなれば、神はあらゆる手を尽くしてその羊を探すでしょう。このことは、当時、受肉した神が人類の間で行なった働きの原則を示しています。神はこの喩えを用いることで、その働きに対する自身の決意と態度を説明したのです。これが、神が受肉したことの利点でした。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言語を用いることで、人々に語りかけて自身の旨を表わすことができたのです。人々が人間の言語で理解しようと悪戦苦闘していた、神の深遠な神性の言語を、神は人に対して説明した、ないしは「翻訳」したのです。このことは、人々が神の旨を理解し、神が行なおうとしていたことを知る一助になりました。また、神は人間の立場から、人間の言語を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行なうことができました。その上、人々が神の優しさと親密さを感じ、神の心を理解できるよう、神は人間の言語と知識を用いて言葉を述べ、働きを行なうことさえできたのです。このことから何がわかりますか。神の言葉や業には何かを禁じるものが存在しないということでしょうか。人の見るところ、神が人間の知識、言語、あるいは話し方を用いることで、自身の話したいことや行ないたい働きについて語ったり、自分の旨を表わしたりすることはとうてい不可能です。しかし、それは誤った考えです。人々が神の現実性と誠実さを感じ、この時期における神の人間に対する態度を理解できるよう、神はこうした喩えを用いました。この喩えにより、長年にわたり律法の下で生活してきた人間は夢から覚め、さらにこの喩えは、恵みの時代に生きた何世代にもわたる人々に励ましを与えました。人はこの喩えの一節を読むことにより、人間を救う神の誠実さや、神の心における人間の重みと重要性を知るのです。

次に、この一節の最終文「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」を検討しましょう。これは主イエス自身の言葉ですか、それとも天なる父の言葉ですか。表面的には、話しているのは主イエスであるように思われますが、イエスの旨は神自身の旨を示しています。そこで主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と述べたのです。当時の人々は天なる父だけを神と認め、自分が目の当たりにしているこの人物は神から遣わされたに過ぎず、ゆえに天なる父を示すことはできないと信じていました。それゆえ、人間に対する神の旨を人々が実感し、その言葉の真正さと正確さを感じ取れるよう、主イエスは喩えの最後にこの一文を加える必要があったのです。この文章は単純なものですが、それは思いやりと愛をもって語られたのであり、主イエスの謙遜と慎ましやかさを示すものでした。受肉したか、あるいは霊的領域で働きを行なったかを問わず、神は人間の心を最もよく知っており、人々が必要とするものを最もよく理解し、人間が不安に感じること、人間を困惑させることは何かを知っていました。そのため、神はこの一文を付け加えたのです。この文章は人間に潜む問題を浮き彫りにしています。人々は人の子が述べることに懐疑的だったという問題です。つまり、主イエスは話をしているとき、「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と付け加える必要があったのです。この前提があって初めて、イエスの言葉は実をつけることができ、その正確さを人々に信じさせるとともに、信憑性を増すことができました。このことは、神が普通の人の子となったとき、神と人間の間に極めて不自然な関係があったこと、人の子を巡る状況が極めて情けないものだったことを示しています。また当時、人間の中で主イエスの地位がどれほど低かったかも示しています。イエスがこの言葉を述べたとき、それは実際のところ、「安心しなさい。この言葉はわたし自身の心にあるものを示しているのではなく、あなたがたの心にいる神の旨である」と人々に伝える言葉でした。人間にとって、これは皮肉なことではないですか。受肉して働きを行なう神には、神の実体にはない多くの利点がある一方で、神は人間の疑念と拒絶だけでなく、その愚鈍さに耐えなければなりませんでした。人の子の働きが辿った過程は、人間からの拒絶を経験する過程、および人間と自分自身の争いを経験する過程でもあったと言えるでしょう。それにもまして、この過程は、神が所有するものと神そのもの、そして神自身の本質により、人間の信頼を絶えず勝ち取り、人間を征服しようとする働きの過程でもありました。受肉した神が地上でサタンを相手に戦っていたというよりも、神は普通の人間になり、神に従う者たちとの戦いを始め、そしてその戦いの中で、人の子が、自身の謙虚さ、人の子が所有するものと人の子そのもの、そして自身の愛と知恵により、その働きを完成させたということなのです。神は自ら望む人々を獲得し、自身に相応しい身分と地位を勝ち取り、神の玉座に「戻った」のです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 71

七の七十倍赦すこと

マタイによる福音書 18:21-22 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。

主の愛

マタイによる福音書 22:37-39 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。

これら二つの聖句のうち、一方では赦しについて、他方では愛について述べられています。この二つの主題はまさに、主イエスが恵みの時代に行なおうと望んでいた働きを浮き彫りにするものです。

神は受肉した際、働きの一段階、つまりこの時代に表わしたいと望んでいた性質と具体的な働きの項目を携えてきました。この時期に人の子が行なった業はどれも、神がこの時代に行なうことを望んでいた業にまつわるものでした。それ以上でも以下でもなかったのです。人の子が述べた言葉と行なった業はどれも、この時代に関連するものでした。それを人間の言語、人間のやり方で表わしたかどうか、あるいは神性の言語で表わしたかどうかを問わず、またどの方法で、あるいはどの観点からそうしたのかを問わず、人の子の目的は、自分が何をしたいのか、自分の旨は何か、そして人々に対する自分の要求が何かを、人間が理解するのを助けることでした。様々な方法と観点を用いることで、自身の旨と、人間を救う自身の働きを、人間が理解するように助けることもありました。そうしたわけで、主イエスは恵みの時代、人間に伝えようと望んでいた事柄を、ほとんどの場合人間の言語で表わしたのです。さらに、主イエスが普通の案内役としての観点から、人々と会話し、人々が必要としていた物事を施し、人々の要求に応じて彼らを助けたことがわかります。このような働き方は、恵みの時代に先立つ律法の時代には見られないものでした。主イエスは人間とより親密になり、かつ彼らに対して哀れみ深くなり、また形式と方法の両方において実践的な結果をさらに達成できることができるようになりました。「七の七十倍」人を赦すという比喩は、この点を実に明らかにしています。この比喩の数値によって実現される目的は、主イエスがそう述べた際の意図を人々に理解させることです。主の意図は、人は一回や二回ではなく、七回でもなく、七の七十倍まで他人を赦すべきである、ということでした。「七の七十倍」という言葉の中には、どのような考えが込められていますか。それは人々に対し、赦しを自分自身の責任、学ぶべき事柄、そして守るべき「道」とさせることです。これは単なる比喩に過ぎませんが、重要な点を浮き彫りにする役目を果たしました。人間がイエスの真意を深く理解し、正しい実践の道を見出し、実践における原則と基準を見出すにあたり、その手助けをしたのです。人々はこの比喩のおかげで明確に理解し、正しい考えを与えられました。つまり、人は赦しを学ぶべきであり、何度でも無条件で赦し、なおかつ寛容な姿勢と他人への理解をもって赦すべきだということです。主イエスがこう述べたとき、その心中はどのようなものでしたか。イエスは本気で七の七十倍と考えていたのですか。違います。神が人を赦す回数というものはありますか。ここで触れた「回数」に強い関心を抱き、その数字の根拠と意味を知りたいと強く願う人が大勢います。このような人たちは、主イエスがこの数字を口にした理由を理解したがりますが、それはこの数字に深い意味があると考えているからです。しかし実際には、神が人間の話し方をする中で出た数字に過ぎません。いかなる含意や意味であっても、それは主イエスの人間に対する要求に即したものでなければなりません。神がいまだ受肉していなかったとき、人々は神が言うことのほとんどを理解していませんでした。神の言葉が完全な神性から発せられていたためです。神の言葉の観点と背景は、人間が見ることも触れることもできないものでした。それは、人には見えない霊の領域から発せられていたのです。肉において生きる人間にとって、霊の領域に立ち入ることは不可能でした。しかし神は受肉したあと、人間性の観点から人に対して語り、霊の領域から出てそれを超えました。神は自身の神性、旨、および姿勢を、人間が想像できる物事や、生活の中で見たり遭遇したりする物事を通じ、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表わしました。そうすることで、人間が神を知って理解し、人間の能力の範囲内で、そして人間に可能な程度まで、神の意図と神が求める基準を理解できるようにしたのです。これが、神の人間性における働きの方法と原則でした。神が肉において行なった働きの方法と原則は、もっぱら人間性によって実現されましたが、それはまさに、神性において直接働いたのでは得られない成果を獲得したのです。神の人間性における働きはさらに具体的であり、真正であり、的を絞ったものであって、その方法は格段に柔軟であり、形式においても律法の時代になされた働きを超えるものでした。

次に、主を愛し、隣人を自分のように愛することについて話しましょう。これは神性において直接表わされたことですか。明らかに違います。これはひとえに、人の子が人間性において述べたことなのです。「隣人を自分のように愛せよ」、「自分のいのちを大切にするように他人を愛せよ」などと言うのは人間だけであり、このような言い方をするのは人間だけです。神はこのような話し方をしたことがありません。少なくとも、神性における神はこの種の言葉をもっていません。なぜなら、神は人間への愛を律する上で「隣人を自分のように愛せよ」などという信条をもつ必要がなく、人間に対する神の愛は、神が所有するものと神そのものの自然な現われだからです。神が「わたしは自分を愛するように人間を愛する」などと言っているのをいつ聞いたことがありますか。聞いたことなどないはずです。なぜなら、愛は神の本質の中、神が所有するものと神そのものの中にあるからです。人間に対する神の愛と姿勢、そして神による人間の扱い方は、神の性質を自然に表わし、かつ明らかにするものなのです。神は隣人を自身と同じように愛するために、そうしたことを意図的に特定の方法で行なったり、故意に特定の方法や倫理的な規範に従ったりする必要はありません。神にはこの種の本質がすでに備わっているからです。このことから何がわかりますか。神が人間性において働きを行なうとき、神の方法、言葉、真理の多くが人間的な方法で表わされるということです。しかし同時に、神の性質、神が所有するものと神そのもの、そして神の旨も、人々が知って理解できるように表わされました。人々が知って理解したのはまさに神の本質であり、神が所有するものと神そのものなのであって、それらは神自身に固有の身分と地位を示しています。つまり、受肉した人の子は神自身に固有の性質と本質を、最大限度まで、かつ可能な限り正確に表わしたのです。人の子の人間性は、人間と天なる神との意思疎通や相互交流の障害および障壁にならなかったのみならず、実際には人間が創造主とつながる唯一の経路、架け橋でした。さて、あなたがたは現時点で、主イエスが恵みの時代に行なった働きの性質や方法と、現段階の働きとの間に多くの似ている点があると感じませんか。また現段階の働きでも、人間の言語が数多く使われて神の性質を表わすとともに、人間の日常生活における言語や方法、そして人間の知識が数多く用いられることで、神自身の旨が表わされています。いったん神が受肉すると、人間性の観点から話しているか神性の観点から話しているかを問わず、神の言語と表現方法の多くは、人間の言語と方法を媒介として生まれます。つまり、神が受肉したときは、あなたが神の全能と知恵を理解し、神にまつわる真の側面を残らず知る最高の機会なのです。受肉して成長している間、神は人間の知識、常識、言語、および人間性の表現方法の一部を理解し、学習し、把握しました。受肉した神は、自ら創った人間から生まれたこれらの物事を自分のものにしていたのです。それらは、受肉した神が自らの性質や神性を表わす道具となり、神が人間の中で、人間の観点から、人間の言語で働きを行なう際、その働きをより適切で、真正で、正確なものにするのを可能にしました。それによって神の働きは人々にとってより手の届きやすいもの、より理解が簡単なものになり、かくして神が望んだ結果を達成させたのです。神がこのように肉において働くほうが、より実践的ではありませんか。それが神の知恵ではありませんか。神が肉となり、その肉体によって自ら望む働きを実行できるようになったとき、神は自身の性質と働きを現実的に表わし、また人の子としての職分を正式に始めることができました。このことは、神と人間との間にもはや「世代の溝」が存在しないこと、神はもうすぐ使いによる意思疎通を行なわなくなること、そして神自身が肉において、表わそうと望む言葉と働きをすべて表わすことを意味していました。またこのことは、神が救う人々は神の近くにいること、神の経営の働きが新たな領域に入ったこと、そしてあらゆる人間が新時代を迎えようとしていることを意味するものでもありました。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 72

聖書を読んだことのある人は誰でも、主イエスが生まれたときに多くの出来事があったことを知っています。これらのうち最も大きいものは、悪魔の王に追われたことです。その出来事はあまりに苛酷で、その街に住む二歳以下の幼児が残らず虐殺されたほどです。神は人間の中で受肉することで、大きな危険を冒したのは明らかです。さらに、人間を救うという自らの経営を遂行すべく、神が大きな代価を払ったことも明白です。また、人の間で肉においてなされる働きに対し、神が大きな希望を抱いていたことも明らかです。神の肉体が人の間で働きを行なえたとき、神はどう感じましたか。人々は多少なりともそれを理解できなければなりません。違いますか。少なくとも、神は新たな働きを人の間で実行できたので幸せでした。主イエスが洗礼を受け、自身の職分を尽くすべく正式に働きを始めたとき、神の心は喜びで一杯でした。長年にわたり準備をして待ち続けた末、ようやく普通の人間の身体をまとい、血と肉を備え、人々が見て触ることのできる人の姿で新たな働きを始められたからです。神はついに、人間の身分で面と向かって、心と心で人々と話せるようになったのです。神はついに、人間の方法と言語を媒介として、人類と直接向かい合えたのです。神は人間に施し、彼らを啓き、人間の言語で助けられるようになりました。人間と同じ食卓で食事をとり、人間と同じ空間で生活できるようになりました。そして人間や物事を見るとともに、人間と同じ方法で、さらには人間の目を通して、あらゆるものを見ることができるようになりました。神にとって、これは肉における働きの最初の勝利でした。また、これは大いなる働きの成就だとも言えるでしょう。もちろん、それは神が最も喜んだことでした。このとき以来、人類の間における働きについて、神は初めて一種の慰めを感じました。これらの出来事はどれも実践的であり、自然であり、また神が感じた慰めは真実そのものでした。人間にとって、神の働きの新たな段階が成就したとき、そして神が満足したときというのは、いずれも人間が神に、そして救いに近づけるときです。また神にとっては、自身の新たな働きの始まりであり、経営計画の前進であり、そしてそれ以上に、自身の旨が完全な成就に近づくときでもあります。人間にとって、そうした機会が訪れるのは幸運なことであり、とてもよいことです。神の救いを待つすべての人にとって、これは重大かつ喜ばしい知らせです。神が働きの新たな段階を実行し、新たな始まりを迎え、この新たな始まりと働きが人の間で出発を迎えて採り入れられたとき、働きのこの段階の結果はすでに決定し、成就しており、そして神はその最終的な効果と成果をすでに見ているのです。またこのとき、神はそれらの効果に満足し、そしてもちろん、神の心は幸福です。神は自ら探している人々をその目ですでに見定めており、神の働きを成功に導き、神に満足をもたらすこの人々の集団をすでに得ているので、安心しています。こうして不安を脇にのけて幸せを感じているのです。言い換えると、神の肉体が人の間で新たな働きを始められ、すべき働きを妨げられることなく開始し、すべてが成し遂げられたと感じるとき、神にとってその結末はもう視界に入っているのです。そのため、神は満足し、幸福な心でいます。神の幸福はどのように表わされますか。その答えがあなたがたに想像できますか。神は泣くでしょうか。泣くことができるでしょうか。神は拍手できるでしょうか。踊れるでしょうか。歌えるでしょうか。歌えるなら、どのような歌を歌うでしょうか。もちろん、神は美しく感動的な歌、自身の心の喜びと幸福を表わす歌を歌うことができるでしょう。神は人間のため、自分自身のため、そして万物のためにその歌を歌うことができるのです。神の幸福はあらゆる方法で表わされますが、それはどれも普通のことです。なぜなら、神には喜びと悲しみがあり、神の様々な感情は多様な方法で表わすことができるからです。これは神の権利であり、これ以上に普通で適切なことはありません。これについて考え違いをしてはいけません。また、神に対して「緊箍呪」[a]をかけることで、神はあれこれしてはならないとか、こんな風に振る舞ってはいけないなどと言って、神がもつ幸福や感情を抑えようとしてはいけません。人々の心の中では、神は幸福になることができず、涙を流してすすり泣くこともできず、いかなる感情も表わすことができません。過去二回の交わりで話し合ったことから、あなたがたはもう神のことをそのように見ておらず、神がいくばくかの自由と解放をもてるようにすると信じています。それは非常によいことです。今後、神が悲しんでいると聞いて神の悲しみを実感でき、神が幸せであると聞いて神の幸福を実感できれば、あなたがたは少なくとも、神を幸せにするのは何か、神を悲しませるのは何かをはっきり知ることができるようになります。神が悲しんでいるので自分も悲しむことができ、神が幸せなので自分も幸せを感じられるなら、神はあなたの心を完全に得たことになり、あなたと神との間にもはや障壁はありません。人間の想像や観念、知識によって神を制約しようとすることもなくなります。そのとき、神はあなたの心の中に生き、鮮明な存在となります。神はあなたのいのちの神となり、あなたにまつわるすべての主となるでしょう。あなたがたはこうしたことを熱望していますか。それを成し遂げる自信がありますか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

脚注

a.「緊箍呪」は中国の小説『西遊記』の中で三蔵法師が使った呪文である。三蔵法師はこの呪文を使い、孫悟空の頭にはめられた金属の輪を締め上げ、激しい頭痛を生じさせることで彼を操り支配下に置いた。そこからこの表現は、人を縛るものを表す比喩になった。


日々の神の御言葉 抜粋 73

主イエスの喩え

種まきの喩え(マタイによる福音書 13:1-9)

毒麦の喩え(マタイによる福音書 13:24-30)

からし種の喩え(マタイによる福音書 13:31-32)

パン種(マタイによる福音書 13:33)

毒麦の喩えの説明(マタイによる福音書 13:36-43)

宝の喩え(マタイによる福音書 13:44)

真珠の喩え(マタイによる福音書 13:45-46)

網の喩え(マタイによる福音書 13:47-50)

一つ目は種まきの喩えです。これは極めて興味深い喩えです。種まきは人々の生活で一般的に行なわれていることだからです。二つ目は毒麦の喩えです。穀物を栽培したことのある人、そしてもちろんすべての大人は、「毒麦」とは何かを知っているでしょう。三つ目はからし種の喩えです。からしとは何か、みなさん知っていますね。知らなければ聖書をご覧なさい。四つ目はパン種の喩えです。いまではたいていの人が、パン種が発酵に用いられること、そして人間が日常生活で用いるものであることを知っています。六つ目の宝物の喩え、七つ目の真珠の喩え、八つ目の網の喩えなど、それ以降の喩えはすべて人間の実生活から採り上げられたものであり、それに由来しています。これらの喩えはどのような光景を描いていますか。それは、神が普通の人間となり、人間と共に生活し、人間の日常言語を使って人間と意思疎通し、人間に必要な物事を施す光景を描いています。神は受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにしましたが、その後そうした経験は、神が自身の神性の言語を人間の言語へと変換する教材となりました。もちろん、神が生活の中で見聞きしたことはまた、人の子による人間としての経験を豊かにしました。そして、何らかの真理や神の旨を人々に理解させたいと望んだとき、人の子は上記と似た喩えを用いることで、神の旨や人間に対する要求について人々に伝えることができたのです。これらの喩えはどれも人々の生活と関連しており、人間生活に関係ない喩えは一切ありませんでした。人間とともに生活していた際、主イエスは畑を耕す農民を目の当たりにし、毒麦とは何か、パン種とは何かを知りました。また人間が宝物を好むことを知っていたので、宝物と真珠の喩えを使いました。さらに生活する中で、漁師が網を投げるのも頻繁に目にしました。主イエスは人間生活に関係するこれらの活動を見、またそうした生活を経験しました。普通の人間とまったく同じく、一日に三回食事するなど、人間の日常を経験したのです。イエスは一般的な人間の生活を自ら経験し、他者の生活を観察しました。こうした事柄を目の当たりにし、自ら経験したときにイエスが考えたのは、どうすればよい生活を送れるか、どうすれば一層自由で快適に暮らせるか、ということではありませんでした。むしろ本物の人間生活を経験したことから、主イエスは人々の生活における困難を見ました。サタンの支配下で暮らす人々、サタンの堕落による罪の生活を送っている人々の困難、悲惨さ、そして悲しさを目の当たりにしたのです。人間生活を自ら経験している間、イエスは堕落の中で生きる人々がいかに無力であるかも経験し、また罪の中で生き、サタンや悪による拷問の中ですべての方向性を失った人々の哀れな状況を見て経験しました。こうしたことを目の当たりにした主は、神性をもってそれらを見ましたか、それとも人間性をもって見ましたか。主イエスの人間性は実在し、極めて鮮明なものでした。イエスはそのすべてを経験して見ることができたのです。しかしもちろん、イエスは自らの本質、すなわち自身の神性においてもそれらを見ました。つまり、キリスト自身、人間であった主イエスがそれを見たのであり、見た事柄のすべてが、神が今回肉において行なう働きの重要性と必要性を自身に強く感じさせたのです。イエス自身、肉において引き受けるべき責任が極めて重いこと、自分が直面するであろう苦痛が極めて苛酷なものになることを知っていましたが、罪の中にある無力な人々を見、彼らの悲惨な生活や、律法の支配下でのはかない奮闘を見て、いっそう深い悲しみを感じるとともに、人間を罪から救おうとする切望がますます強くなりました。直面するであろう困難がどのようなものであれ、また受けるであろう痛みがどのようなものであれ、罪の中で生きる人間を贖おうという決意がいっそう強くなったのです。この過程において、主イエスは自身が行なう必要のある働きと、自身に託された物事をより明確に理解した、と言えるでしょう。またイエスは、自分が行なう働きを完遂させたいとますます強く望むようになりました。人間のあらゆる罪を負い、人間を贖い、そうすることで人間がこれ以上罪の中で生きることなく、それと当時に神が罪のいけにえによって人の罪を赦し、人間を救う働きをさらに進められるようにするのです。主イエスは心の中で、人間のために進んで自分自身を捧げ、自分を生贄にしようとした、と言えるでしょう。また、イエスは進んで罪の生贄となり、十字架にかけられ、この働きを完成させることを心から望んでいました。人間生活の悲惨な状態を見たイエスは、できるだけ早く、一分一秒たりとも遅れることなく自身の使命を果たしたいとますます強く願いました。イエスはこのような差し迫った思いをしながら、自身の受ける痛みがどれほど酷いものかを考慮することも、耐えるべき恥辱がどれほど大きいかと不安を抱くこともありませんでした。イエスが心に抱いていたのは一つの確信だけです。つまり、自分が我が身を捧げ、罪の生贄として十字架にかけられる限り、神の旨は実行され、神は新しい働きを始められるという確信、人間のいのちと、罪の中で生存している状態が完全に変わるという確信です。イエスの確信と決意は人を救うことに関係しており、イエスにはただ一つの目標、すなわち神が働きの次なる段階を首尾よく始められるよう、神の旨を行なうという目標しかありませんでした。これが、当時の主イエスの心中にあったものなのです。

受肉した神は肉において暮らしつつ、普通の人間性を有していました。普通の人間の感情と理性を有していたのです。幸せとは何か、痛みとは何かを知っており、このような生活を送る人類を見たとき、人々に何らかの教えを授けたり、何かを施したり、あるいは何かを教えたりするだけでは、彼らを罪から導き出すのに十分ではないと痛感しました。また人々を戒めに従わせるだけでは、彼らを罪から贖うこともできないでしょう。人類の罪を背負い、罪深い肉体に似た姿になって初めて、それと引き換えに人類の自由と、神による人類の赦しを勝ち取ることができるのです。そのため、罪に暮らす人々の生活を経験して目の当たりにした後、主イエスの心中には強い願望が生じました。罪の中で悪戦苦闘する生活から、人間を自由にさせるという願望です。イエスはその願望により、一刻も早く十字架にかけられて人類の罪を背負わなければならないと、ますます強く感じるようになりました。これが、人々と暮らし、罪における彼らの生活の惨めさを見聞きし、感じた後の、当時の主イエスの考えなのです。受肉した神は人類に対してこのような旨をもち、このような性質を表わして明らかにすることができたのですが、それは普通の人間にでき得たことでしょうか。この種の環境で暮らす普通の人は何を見るでしょうか。何を考えるでしょうか。普通の人間がこのようなことに直面したら、一段高い視点から問題を見つめるでしょうか。絶対にそうはしません。受肉した神は外見こそ人間とまさに同じで、人間の知識を学んで人間の言語を話し、ときには人間自身の方法や話し方を通じて自身の考えを表わしますが、人間や物事の本質に対する見方は、堕落した人々のそれらに対する見方と絶対に同じではありません。受肉した神の視点と立っている高さは、堕落した人間には決して到達できないものなのです。と言うのも、神は真理であり、神がまとう肉もまた神の本質を有しており、神の考え、および神の人間性によって表わされるものも真理だからです。堕落した人々にとって、神が肉において表わすことは真理の施し、いのちの施しなのです。これらの施しは一人の人間だけでなく、全人類に対してなされます。堕落した人間の心の中には、自分と結びついている少数の人しかいません。彼らはその一握りの人たちだけを気遣い、配慮します。災害が迫るとき、彼らはまず自分の子どもたち、親族、あるいは両親のことを考えます。より思いやりのある人であれば、親戚や親友にいくらか思いを巡らせるでしょうが、そのような人の思いが、それ以上に広がることはあるでしょうか。いいえ、決してありません。結局のところ人間は人間であり、人間としての高さや視点からしかすべてのものを見られないからです。しかし、受肉した神は堕落した人間とまったく違います。受肉した神の肉体がいかに平凡でも、いかに普通でも、いかに卑しくても、さらには人々がどのような軽蔑の眼で受肉した神を見下そうと、人類に対するその考えと姿勢は、人間には備えることも真似ることもできないものです。受肉した神は常に神性の視点から、そして創造主としての立場の高さから、人類を観察します。神の本質と心構えを通じて絶えず人類を見るのです。神が一般的な人間と同じ低さから、あるいは堕落した人間の視点から人類を見ることはあり得ません。人が人類を見るとき、彼らは人間のビジョンをもって見るのであり、人間の知識、規則、理論といったものを基準として使います。それは、人々が自分の目で見られるものの範囲内、堕落した人々が到達可能な範囲内にあります。神は人類を見るとき、神性のビジョンをもって見るのであり、神の本質と、神が所有するものと神そのものを基準として使います。人には見ることができないものもその範囲に含まれており、そこが、受肉した神と堕落した人がまったく違う点なのです。この違いは、人間と神のそれぞれ異なる本質によって決まります。両者の身分と地位、そして物事を見る視点と高さは、これら異なる本質によって決まるのです。あなたがたは、神が主イエスにおいて表わしたこと、明らかにしたことが見えますか。主イエスの言動は自身の職分と神の経営の働きに関係しており、それはどれも神の本質を表わし、明らかにするものだと言えるでしょう。神は確かに人間の姿をとりましたが、その神性の本質と現われを否定することはできません。その人間の姿は、本当に人間性を表わしていたでしょうか。本質的に言えば、神がとった人間の姿は、堕落した人間がとる人の姿とまったく違っていました。主イエスは受肉した神でした。イエスが本当に普通の堕落した人々の一人だったなら、罪の中にある人類の生活を神性の観点から見ることができたでしょうか。絶対にできません。これが人の子と普通の人との違いです。堕落した人々はみな罪の中で暮らし、罪を見ても特別な感情を抱きません。彼らはどれも同じであり、泥の中で暮らしながら、それを不快とも不潔とも感じない豚同然です。それとは逆に、よく食べてぐっすり眠っています。誰かが豚舎をきれいにしたら、その豚は気分が落ち着かず、きれいなままではいません。やがて泥の中で再び転がり回り、気分がすっかり落ち着きます。豚は不潔な生物だからです。人間は豚を汚いものと見なしますが、豚舎をきれいにしたところで豚の気分はよくなりません。自宅で豚を飼う人がいないのはそれが理由です。人間が豚をどのように見るかは、豚自身がどのように感じているかと常に異なっています。人間と豚は同類ではないからです。そして受肉した人の子は堕落した人類と同類ではないので、受肉した神だけが神の視点、神の高さに立てるのであって、そこから人類と万物を見ているのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 74

神は肉となって人の間で暮らすとき、どのような苦しみを経験しますか。それは何の苦しみですか。本当に理解している人はいますか。中には、神は大いに苦しむとか、受肉した神は神自身であるにもかかわらず、人はその本質を理解せず、いつも人間のように扱い、神を悲しませ、不当に扱われていると感じさせる、などと言う人がいます。つまり、これらのせいで、神の苦しみは本当に大きいと言うのです。また、神には汚れも罪もなかったが、人間と同じように苦しみ、人間とともに迫害や中傷や侮蔑に苛まれ、また自身に付き従う人の誤解や反抗にも苦しんだ、と言う人もいます。それゆえ、神の苦難はまことに計り知れないと言うのです。あなたがたはいま、神を真に理解していないと考えられます。実のところ、あなたがたの言う苦しみは、神にとって真の苦しみには数えられません。それよりも大きな苦しみがあるからです。では、神自身にとって真の苦しみとは何ですか。受肉した神にとって真の苦しみとは何ですか。神にとって、人間が自身を理解しないことは苦しみのうちに入らず、人々が神について何らかの誤解を抱いたり、神と考えなかったりすることも、苦しみのうちには入りません。しかし、人々は往々にして、神はひどく不当に扱われたに違いないとか、神は受肉している間、自身の実体を人類に見せることも、自身の偉大さを人が見られるようにすることもできないとか、神は平凡な肉体に身をやつしており、それは神にとって大きな責め苦に違いない、などと感じています。人々は、神の苦しみについて自分たちが理解できること、見て取れることを心に留め、ありとあらゆる形で神に同情し、神の苦しみを少しばかり賞賛することさえたびたびあります。実際には、神の苦しみに関する人々の認識と、神が本当に感じていることとの間には、違いと隔たりがあります。ここで本当のことをお話しします。神の霊であるか、受肉した神であるかを問わず、神にとって、以上の苦しみは真の苦しみではありません。では、神は実のところ何に苦しんでいますか。ここでは受肉した神の視点からのみ、神の苦しみについて話し合いましょう。

受肉して平均的な普通の人間になり、人間の中で人々と共に暮らすとき、神は人々の生存の方法、法則、哲学を見て感じることができないのでしょうか。こうした生存の方法や法則は、神にとってどう感じられますか。心の中で嫌悪感を抱くでしょうか。嫌悪感を抱くのはなぜでしょうか。人類の生存方法、生存法則とは何ですか。それらはどのような原則に基づいていますか。何を土台としていますか。人類の生き方に関係する方法や法則などはどれも、サタンの理論、知識、哲学を基に創られたものです。この種の法則にしたがって生きる人に人間性はなく、真理もありません。みな真理に逆らい、神に敵対しているのです。神の本質に目を向けると、それはサタンの理論、知識、哲学と正反対であることがわかります。神の本質は義と真理と聖さに満ち、その他の肯定的な物事の現実で溢れています。この本質をもちつつ、このような人の間で暮らす神は何を感じていますか。心の中で何を感じているのですか。苦痛に満ち溢れているのではないですか。神の心は苦痛の中にあります。誰一人理解することも経験することもできない苦痛です。神が直面し、見聞きし、経験することはどれも、全人類の堕落と邪悪、そして真理に対する反逆と反抗だからです。人間に由来する一切の物事が、神の苦しみの根源なのです。つまり、神の本質は堕落した人間とは異なるため、人間の堕落が神の最も大きい苦しみの源になるのです。神は受肉するとき、自身と共通の言語をもつ人を見つけることができますか。人類の中に、そうした人を見つけることはできません。神と意思疎通することができたり、対話できたりする人を見つけることはできないのです。それについて、神はどのような感情を抱いているでしょうか。人々が語り合い、愛し、追い求め、切望する物事はどれも、罪と悪しき傾向に関係しています。神がこうした物事に直面すれば、それは神の心にとって刃のようなものではありませんか。こうした物事に直面して、神は心の中で喜べるでしょうか。慰めを見つけることができるでしょうか。神と共に暮らしている人たちは、反逆と邪悪に満ちています。そうであれば、神の心が苦しまずにいられるでしょうか。実際のところ、この苦しみはどれほど大きいものですか。誰がそれを気にかけますか。誰が心を留めますか。誰がそれを理解できますか。人々には神の心を理解する術がありません。神の苦しみは人々がとりわけ理解できないことであり、人間の冷たさと愚鈍により、神の苦しみはいっそう深まるのです。

「きつねには穴があり、鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」という聖書の聖句があるために、しばしばキリストの苦境に同情する人がいます。人々はこれを聞いて心に留め、それは神が堪え忍んだ最大の苦しみ、キリストが堪え忍んだ最大の苦しみだと信じます。さて、事実という観点から見た場合、本当にそうでしょうか。違います。神はそうした困難を苦しみとは考えません。肉の困難のせいで、神が不当な扱いに声をあげたことはなく、人間に何らかの報いや代価を求めたこともありません。しかし、人類に関する一切のことや、堕落した人間の堕落した生活と邪悪を目にしたり、人類がサタンの手中にあって囚われの身となり、そこから逃れられないのを目の当たりにしたり、罪の中で暮らす人々が真理とは何か知らないのを見たとき、神はそれらの罪を大目に見ることができません。人間に対する神の嫌悪は日ごとに増していきますが、神はそれに耐えなければなりません。これが神の大いなる苦しみです。神は自身に付き従う者に対し、心の声や感情を完全に表わすことさえできず、また神に付き従う人の中に、神の苦しみを真に理解できる人はいません。誰一人として、毎日、毎年、そして幾度となくこの苦しみを耐え忍んでいる神の心を理解し、慰めようとすらしないのです。このことから何がわかりますか。神は自身が授けた物事について、その見返りを人間に求めることはありませんが、自身の本質のゆえに、人間の邪悪、堕落、罪を大目に見ることが絶対にできず、極度の嫌悪と憎悪を覚え、そのため心身ともに果てしない苦しみを耐え忍んでいるのです。あなたがたにそれがわかりますか。あなたがたの中にこれがわかる人はいないでしょう。誰一人、神を真に理解することができないからです。あなたがたは時間をかけて、徐々にそれを経験しなければなりません。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 75

イエスが五千人に食事を与える

ヨハネによる福音書 6:8-13 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。

「五つのパンと二匹の魚」とは、どのような考えですか。通常、五つのパンと二匹の魚で何名の人を満腹させられますか。一般的な人の食欲を基に計算すると、二人しか満腹させられません。これが、五つのパンと二匹の魚に関する最も基本的な考えです。しかしこの聖句では、五つのパンと二匹の魚で何人が満腹になりましたか。聖書には、「その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった」と記されています。五つのパンと二匹の魚に対して、五千人というのは大きな数ですか。人数が極めて多いことは何を示していますか。人間の視点から見て、五つのパンと二匹の魚を五千人で分け合うことは不可能です。なぜなら人数と食べ物の差が大きすぎるからです。各人がほんの一口しか食べなかったとしても、五千人に十分な量とは言えません。しかしここで、主イエスが奇跡を行ないました。五千人全員が腹一杯食べられるようにしただけでなく、残った食べ物さえあったのです。聖書には「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった」とあります。この奇跡によって、人々は主イエスの身分と地位を目の当たりにし、神に不可能なことはないと知ることができました。このようにして、神の全能が真実であることを理解したのです。五つのパンと二匹の魚は五千人を満腹させるのに十分でしたが、食べ物がまったくなかったとしたら、神は五千人に食事を与えられたでしょうか。当然、与えられたでしょう。これは奇跡であり、理解不能で、驚異的で、謎であると人々が感じたのも無理はありませんが、神にとって、こうしたことを行なうのは何でもないことでした。神にとって普通のことであるなら、ここで採り上げて解釈すべきなのはなぜですか。この奇跡の裏には主イエスの旨があり、それは人類がかつて認識したことのないものだからです。

まず、この五千人がどのような人だったかを理解しましょう。彼らは主イエスに付き従う人でしたか。聖書によると、この人たちは主イエスに付き従う人ではありませんでした。彼らは主イエスが誰かを知っていましたか。間違いなく知りません。少なくとも、目の前に立つ人物がキリストであることを知らず、一部の人が名前を知っているか、イエスの行なったことを聞いたり知っていたりしていただけでしょう。主イエスに対する彼らの好奇心は、イエスにまつわる話を聞いて生じたものに過ぎませんが、だからと言ってその人たちがイエスに付き従っていたとは言えず、ましてイエスのことを理解していたとは絶対に言えません。主イエスがこの五千人を見たとき、彼らは空腹で腹一杯食べることしか考えられませんでした。そこでこの状況のもと、主イエスは彼らの欲求を叶えたのです。この人たちの欲求を叶えた際、イエスの心中には何がありましたか。空腹を満たしたいだけの人々に対し、主はどのような態度をとりましたか。このとき、主イエスの考えと態度は、神の性質と本質に関連するものでした。空腹を抱えて腹一杯食べることしか考えていない五千の人々、自分への好奇心と希望に満ちているこれらの人々を前に、主イエスはこの奇跡を使って彼らに恵みを授けることしか考えていませんでした。しかし、この人たちが自分に付き従う人になるという希望を抱くことはありませんでした。彼らは楽しく腹一杯になるまで食事をしたいとしか考えていないことを知っていたからであり、そのためそこにあったもの、つまり五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのです。彼らは素晴らしいものを見て自分の目を楽しませ、奇跡を見たいと望んでいたのですが、イエスによって目を開かれ、受肉した神が実現可能なことをその目で見たのです。主イエスは形あるものを使って彼らの好奇心を満足させたものの、この五千人がよい食事しか望んでいないことを心の中で知っていたので、説教することも、何かを言うことも一切ありませんでした。彼らにありのままの奇跡を見せただけなのです。心から自分に付き従う弟子たちと同じように、この人たちを扱うことは絶対にできませんでしたが、神の心の中では一切の被造物が自身の支配下にあり、また自身の視界にあるすべての被造物に対し、必要に応じて神の恵みを享受させます。これらの人々はパンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰かを知らず、イエスのことを理解しておらず、イエスについて具体的な印象をもつことも、感謝の念を抱くこともありませんでしたが、それは神が取り上げるような問題ではありませんでした。神は彼らに対し、神の恵みを享受するという素晴らしい機会を与えたのです。中には、神は自らの業について原則に従っているので、非信者を見守ることも保護することもなく、特に神の恵みを享受させることはなかった、と言う人がいます。それは事実ですか。神の目においては、自身が創った生物である限り、神はそれらの被造物を支配し、配慮します。神は様々な方法でそれら被造物に接し、計画し、支配します。これが万物に対する神の考えと態度です。

パンと魚を食べた五千人には、主イエスに付き従う意図はありませんでしたが、イエスが彼らに厳しい要求をすることはありませんでした。彼らが腹一杯食べたあと、主イエスがどうしたかをあなたがたは知っていますか。彼らに何か説教しましたか。その後、どこに行きましたか。聖書には、主イエスが彼らに何か言ったとは記されておらず、奇跡を行なってから静かに立ち去ったとしか書かれていません。では、イエスはこれらの人々に何か要求しましたか。憎しみを抱いていましたか。いいえ、要求も憎しみもありませんでした。イエスは単に、自分に付き従うことができないこれらの人々をそれ以上気遣うことを望まず、またそのとき、イエスの心は苦痛の中にありました。イエスは人間の堕落を目の当たりにし、人間による拒絶を感じたので、このような人々を見て共にあったとき、人間の愚鈍さと無知に悲しみ、心を痛め、これらの人々から一刻も早く離れることだけを望んだのです。主は心の中で、彼らに何かを要求することはなく、彼らを気遣うことを望まず、それ以上に、労力を費やすことを望みませんでした。また、これらの人々が自身に付き従えないことも知っていましたが、それにもかかわらず、彼らに対するイエスの態度は極めて明確でした。イエスはただ、彼らに優しく接し、恵みを授けることを望んだのですが、これがまさに、自身の支配下にあるすべての被造物に対する神の姿勢だったのです。つまり、すべての被造物に優しく接し、それらに施し、糧を与えるという姿勢です。主イエスが受肉した神だったというまさにその理由のため、イエスはごく自然に神の本質を示し、これらの人々に優しく接しました。憐れみと寛容の心をもって彼らに接し、そのような心持ちで彼らに優しさを見せたのです。この人たちが主イエスをどのように考えていたかにかかわらず、また結果がどうなるかにかかわらず、イエスは万物の創造主としての立場に基づいて、あらゆる被造物に接しました。イエスが示した一切のものは例外なく神の性質であり、神が所有するものと神そのものでした。主イエスは静かにそれを行ない、静かに立ち去りましたが、これは神の性質のどのような側面ですか。神の慈愛だと言えますか。神の無私だと言えますか。普通の人間にできることですか。絶対に違います。本質的に言って、主イエスが五つのパンと二匹の魚で食事を授けた五千の人々は、どのような人たちでしたか。イエスと相容れられる人だと言えるでしょうか。全員神に敵対していたと言えるでしょうか。この人たちは絶対に主と相容れられず、その本質は間違いなく神に敵対するものだと断言できます。しかし、神はこの人たちにどう接しましたか。ある手段を使うことで、神に対する人々の敵対心を取り除いたのです。その手段とは「優しさ」です。つまり、主イエスはこの人たちを罪深き者と見なしましたが、神の目からみれば依然として自身の被造物です。ゆえにイエスはこれらの罪深き者たちに優しく接したのです。これは神の寛容であり、この寛容は神自身の身分と本質によって決まります。したがって、神が創った人間にこのようなことはできず、それが可能なのは神だけなのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 76

人類に対する神の考えと姿勢を真に理解し、一つひとつの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に認識できるとき、あなたがたは創造主によって創られた一人ひとりの人間に対する神の献身と愛情を理解することができます。そのとき、あなたは二つの言葉を使って神の愛を表わすでしょう。その二つの言葉とは何ですか。「無私」と言う人もいれば、「博愛」と言う人もいます。これら二つのうち、「博愛」は神の愛を表わす言葉として最も不適切なものです。この言葉は、寛大な人、あるいは心の広い人を表わすために人々が使う言葉です。わたしはこの言葉に強い嫌悪を感じます。と言うのも、原則に一切意を払わず、手当たり次第に、そして無差別に慈善を行なうことを指すからです。博愛というのは、愚かで混乱している人々に共通する、過度に感情的な性向です。この言葉を使って神の愛を表わす場合、そこには必然的に冒涜の意味があります。神の愛を表わすより適切な二つの単語を、ここでお教えします。それは何ですか。最初の言葉は「計り知れない」です。この言葉は示唆に富むものではありませんか。二番目は「広大」です。わたしが神の愛を表わす際に用いるこれらの単語の裏には、真の意義があります。文字通りの意味にとると、「計り知れない」という言葉は物事の数量や能力を指しますが、その大きさにかかわらず、それは人間が見たり触れたりできる物事です。なぜなら、それは実在し、抽象的なものではなく、比較的正確に、かつ現実的な形で、人にその概念を与えられるからです。それを二次元の視点で見るか、三次元の視点で見るかにかかわらず、その存在を想像する必要はありません。なぜなら、それは現実に存在するものだからです。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を計量しているように感じられますが、それと同時に計量不可能であるという感覚も与えます。神の愛は計量可能だとわたしが言うのは、それが空虚なものでも、伝説の存在でもないからです。むしろ、神の支配下にある万物が共有しているものであり、様々な程度で、様々な視点から、すべての被造物が享受しているものです。人々は神の愛を見ることも触れることもできませんが、人生の中で少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物に糧といのちをもたらし、その人たちは自分が絶えず享受している神の愛を数え上げ、その証しをするようになります。神の愛は計量不可能だとわたしが言うのは、神が万物に施し、糧を与えるという奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する神の思いと同じく、人間には推し測るのが難しいものだからです。つまり、創造主が人類に注いできた血と涙を知る人は誰もいないのです。自らの手で創った人間に対する創造主の愛の深さや重さを、理解したり認識したりすることができる人はいません。神の愛を計り知れないと説明したのは、その広さと、それが存在するという真実を、人々が理解できるようにするためです。それはまた、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という呼び名がもつ真の意味をさらに深く理解できるようにするためです。「広大」という単語は通常何を表わしますか。一般的には海や宇宙などを表わすために用いられます。「広大な宇宙」「広大な海」といった具合です。宇宙の広さや静かなる深さは人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を捉えるとともに、大きな驚異を感じさせます。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではありません。海のことを考えれば、その広さが頭に浮かびます。それは果てしないもののように見え、神秘と包容力を感じさせます。そのため、わたしは「広大」という単語を用いることで、神の愛を説明するとともに、人々がその尊さを感じ、神の愛の深遠なる美しさと、無限の広がりをもつ神の愛の力を実感できるようにしたのです。この単語を用いたのは、人々が神の愛の聖さ、そして神の愛を通じて示される神の威厳と不可侵性を感じられるようにするためです。あなたがたはいま、神の愛を説明するにあたって「広大」がふさわしい単語だと思いますか。神の愛は、「計り知れない」と「広大」という二つの単語に集約することができますか。間違いなくできます。人間の言語の中で、この二語だけがいくぶん適切であり、神の愛の説明に比較的近いものです。そうは思いませんか。神の愛を説明するよう求められたとしたら、あなたがたはこの二語を使うでしょうか。きっと使わないでしょう。なぜなら、神の愛に関するあなたがたの理解は二次元の視点に限られており、高さをもつ三次元の空間に達していないからです。したがって、あなたがたに神の愛を説明するよう求めたとしたら、あなたがたは言葉を見つけられず、言葉を失いさえするでしょう。本日話し合ってきたこの二語は、あなたがたにとって難解だったり、まったく同意できないものだったりするかもしれません。そのことはひとえに、神の愛に対するあなたがたの認識と理解が表面的で、狭い範囲に限られていることを示しています。先ほど、神は無私だと言いましたが、この「無私」という単語を思い出してください。神の愛は無私としか説明できない、ということでしょうか。それではあまりに範囲が狭くはありませんか。あなたがたはこの問題をさらに深く考え、そこから何かを得るべきです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 77

ラザロの復活が神を讃える

ヨハネによる福音書 11:43-44 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

この一節を読んで、あなたがたはどのような感想をもちますか。主イエスが行なったこの奇跡の意義は、先ほど検討した奇跡よりもはるかに重大なものです。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡はないからです。この時代、主イエスがそのような業を行なったことには極めて大きな意義がありました。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、実際的な側面、取るに足らない要素しか見ることができませんでした。神の性格、あるいは神がもっていると思しき特別な能力を、見て理解している人も中にはいましたが、主イエスがどこから来たか、本質的にどのような者か、他に何をできるかについては誰一人知りませんでした。それはどれも人類に知られていなかったのです。そのため、主イエスにまつわるこれらの疑問に答えるべく証拠を見つけ、真相を知ろうと望む人が数多くいました。神は何らかの業を行なうことで、自身の身分を証明することができましたか。神にとってそれは朝飯前、極めて容易なことでした。神はいつでもどこでも何かを行ない、自身の身分と本質を証明することができましたが、神には物事を行なう方法がありました。計画通りに、段階的に行なうのです。神が無闇に何かを行なうことはなく、最適な時期と機会が到来するのを待って、人間に見させる物事、本当に有意義な物事を行なうのです。そのようにして、神は自身の権威と身分を証明しました。では、ラザロの復活は主イエスの身分を証明できたでしょうか。次の聖句の一節を検討しましょう。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は……出てきた」主イエスがこの業を行なったときに言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。するとラザロは墓から出てきましたが、それは主の発したたったひと言で成し遂げられたものです。このとき、主イエスは祭壇を立てることも、それ以外の業を行なうこともありませんでした。そのひと言を述べただけなのです。これは奇跡と呼ぶべきでしょうか。それとも命令と呼ぶべきでしょうか。あるいは何らかの魔術だったのでしょうか。表面上はこれを奇跡と呼ぶことができ、現在の観点から見ても、当然奇跡だと言えるでしょう。しかし、魂を死から呼び戻す類の魔術とは決して考えられず、絶対にいかなる魔法でもありません。この奇跡は創造主の権威を実証する、最も普通かつ些細な証明である、というのが正しいのです。これが神の権威と力です。神には人を死なせたり、その魂を身体から離れさせて冥府へ還らせたり、その他の然るべき場所に戻らせたりする権威があります。人がいつ死ぬか、死後にどこへ向かうかは、いずれも神によって定められます。神はいつでもどこでもその決断を下すことができ、いかなる人間や出来事、物事、空間、および地理的条件の制約を受けません。神は望むことを何でも行なえます。なぜなら、万物とすべての生物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威によって生まれ、生き、消滅するからです。神は死者を復活させることができますが、これもまた、神がいつでもどこでも行なえることです。これが、創造主のみがもつ権威です。

主イエスがラザロを死から復活させるといった業を行なったのは、人に関する一切のこと、および人の生死は神によって定められること、またたとえ肉になったとしても、神は依然として目に見える物理的世界を支配するとともに、人には見えない霊的世界をも支配し続けていることについて、人間とサタンに証拠を与えて知らしめるのが目的でした。これは、人に関する一切の事柄がサタンの支配下にないことを、人間とサタンに知らしめるためです。これはまた神の権威の現われ、顕現であり、人類の生死が神の手中にあることを万物に伝える手段でもあるのです。主イエスによるラザロの復活は、創造主が人類を教え導く手段の一つでした。これは、神が自身の力と権威を使って人類を指導し、彼らに糧を施す具体的な行動だったのです。また、創造主が万物を支配しているという真理を、言葉を用いることなく、人類が理解できるようにするための手段でもありました。さらに、神による以外に救いは存在しないことを、実際の業を通じて人類に伝える手段でもありました。神が人類を教え導くこの無言の手段は永続的なものであり、消えることがなく、決して色あせない衝撃と啓示を人間の心にもたらします。ラザロの復活は神を讃えるものであり、神に付き従うすべての人に大きな衝撃を与えます。それにより、この出来事を深く理解するすべての人に、神だけが人類の生死を支配できるという認識、そしてビジョンが固く定着します。神にはこの種の権威があり、ラザロの復活を通じて人類の生死に対する自身の権威を伝えましたが、これは神の主要な働きではありませんでした。神は決して無意味なことをしません。神が行なうすべてのことには大きな価値があり、どれも宝物庫に眠る比類なき宝石なのです。「人を墓から出させる」ことを、自身の働きの最優先事項、あるいは唯一の目的ないし項目にすることは決してないのです。神は無意味なことを一切行ないません。ラザロの復活は、それだけで神の権威を示し、主イエスの身分を証明するのに十分です。そのため、主イエスはこの種の奇跡を繰り返しませんでした。神は自身の原則にしたがって業を行ないます。人間の言語で言うならば、神は重要な物事にしか関心がないと言えるでしょう。つまり、神は業を行なうとき、自身の働きの目的から外れることがないのです。神はこの段階でどのような働きを行ないたいのか、何を成し遂げたいのかを知っており、自身の計画に厳密にしたがって働きを行ないます。堕落した人間にこうした能力があっても、その人は単に、自分がどれほど優れているかを他人に知らしめ、頭を下げさせ、その人たちを支配して呑み込もうと、自分の能力を誇示する手段を考えるだけでしょう。それはサタンに由来する邪悪であり、堕落と呼ばれます。神にそうした性質はなく、またそうした本質もありません。神が業を行なうのは自己顕示のためではなく、人類により多くの啓示と導きを施すためであって、そのため聖書には、この種の出来事がごくわずかしか見られないのです。そのことは、主イエスの力が限られていたという意味でも、そうしたことを行なえなかったという意味でもありません。それは単に、神が行なおうと思わなかっただけなのです。と言うのも、主イエスがラザロを復活させたことには極めて現実的な意義があり、また受肉した神による主要な働きは、奇跡を行なうことでも、人間を死から復活させることでもなく、人類を贖う働きだったからです。そうしたわけで、主イエスが成し遂げた働きの大半は、人々に教え、糧を施し、助けるものであり、ラザロを復活させるといった出来事は、主イエスが果たした職分のほんの一部に過ぎませんでした。さらに、「自己顕示」は神の本質に含まれていない、とも言えるでしょう。そのため主イエスは、それ以上の奇跡を示さないことで自ら抑制を働かせていたのではなく、環境に制約されていたのでもありません。そしてもちろん、力が足りなかったからでは決してありません。

主イエスがラザロを死から復活させる際に使った言葉は、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。それ以外には何も言わなかったのですが、そのひと言は何を示していますか。神は語ることで、死者の復活を含むあらゆることを成し遂げられることを示しています。神は万物と世界を創造したとき、言葉でそれを行ないました。言葉で命じ、その言葉には権威がありました。万物はそのようにして創られ、かくして創造が成し遂げられたのです。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した際に神が述べた言葉と同じであり、神の権威と創造主の力がありました。万物は神の口から発せられた言葉によって形づくられ、しっかり立つことができましたが、それと同じように、ラザロは主イエスの口から発せられた言葉によって墓から歩き出たのです。これは受肉した肉体において示され、実現された神の権威です。この種の権威と能力は創造主に属するものであり、また創造主が形あるものとなった人の子に属するものです。神はラザロを死から蘇らせることで、それを人類に教えて理解させたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 78

パリサイ人によるイエスへの非難

マルコによる福音書 3:21-22 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

イエスによるパリサイ人への叱責

マタイによる福音書 12:31-32 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

マタイによる福音書 23:13-15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

上の二節の内容はそれぞれ異なっています。まずは「パリサイ人によるイエスへの非難」の一節について検討しましょう。

聖書によると、イエスと、イエスの行なったことに対するパリサイ人の評価は「……気が狂ったと思った……『彼はベルゼブルにとりつかれている』……『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書 3:21-22)というものでした。律法学者とパリサイ人による主イエスへの非難は単なる他人の言葉の受け売りでも、根拠のない憶測でもありませんでした。それは主イエスの行動を見聞きしたことから引き出された結論だったのです。その結論はあくまで正義の名のもとに下され、人々から見てしっかりした根拠があるように思われましたが、彼らが主イエスを非難した際の傲慢さは、彼ら自身にも抑えがたいものでした。主イエスに対する燃えるような憎しみの力は、彼ら自身の向こう見ずな野望と悪しきサタンのような顔つき、そして神に抵抗する悪意に満ちた本性を露わにしました。主イエスを非難するにあたって彼らが述べたこれらの言葉は、彼らの向こう見ずな野望、嫉妬、そして神と真理に敵対する悪意に満ちた醜い本性を原動力としていたのです。彼らは主イエスの行動が何によるものかを調べず、イエスの言動の本質を調べることもしませんでした。それどころか、興奮状態の中、意図的な悪意をもって、イエスが行なったことを無闇に攻撃して貶めたのです。そのひどさたるや、イエスの霊、すなわち神の霊である聖霊を故意に貶めるほどでした。律法学者とパリサイ人が「気が狂った」、「ベルゼブル」、「悪霊どものかしら」などと言ったのは、そのような意味だったのです。つまり、神の霊はベルゼブル、悪霊の頭だと言ったのであって、受肉した神の霊、すなわち肉をまとった神の働きに狂気という烙印を押したのです。彼らは聖霊をベルゼブル、悪霊の頭といって冒涜したのみならず、神の働きを断罪し、主イエス・キリストをも断罪して冒涜しました。神に抵抗して冒涜する彼らの本質は、サタンや悪魔が神に抵抗して冒涜する本質とまったく同じです。彼らは堕落した人間を象徴していただけでなく、それ以上にサタンの権化でもありました。彼らは人類の間でサタンにつながる出口であり、サタンの一味にして手下でした。彼らが主イエス・キリストを冒涜、誹謗することの本質は、地位を巡る神との戦い、争い、そして終わることのない神への挑戦でした。神に抵抗する彼らの本質、神に敵対する彼らの姿勢、そして彼らの言葉と考えが、神の霊を直接冒涜してその怒りを招いたのです。そのため、神は彼らの言動をもとに妥当な裁きを下し、彼らの行ないを、聖霊を冒涜した罪だと判断しました。この罪はこの世でもきたるべき世でも赦されるものではありません。聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」と記されている通りです。本日は「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という神の言葉がもつ真の意味について話し合いましょう。つまり「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という言葉を神がどのようにして実現するか、その謎を解き明かしていきます。

これまで話し合ってきたことはどれも、神の性質、および人々や出来事や物事に対する神の姿勢に関するものです。もちろん、先に述べた二節も例外ではありません。これら二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。その中に神の怒りを見ると言う人もいれば、人間による背きを許さず、神を冒涜することを行なえば、その人は神の赦しを受けられないという、神の性質の側面を見ると言う人もいます。これら二節の中に、人は神の怒りと、神が人間の背きを許さないことを見たり感じ取ったりしますが、それでも神の姿勢を真に理解しているわけではありません。これら二節は、神を冒涜して怒らせた者に対する、神の本当の姿勢と処遇を暗に示しているのです。神の姿勢と処遇が「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という聖句がもつ本当の意味を表わしているのです。人が神を冒涜してその怒りを招いたとき、神は審判を下し、その審判が神の下した結末になります。それについて聖書にこう記されています。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイによる福音書 12:31)。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」(マタイによる福音書 23:13)。しかし、主イエスがこのように述べたあと、律法学者とパリサイ人の結末、そして主は狂気に取り憑かれていると言った人たちの結末がどうなったか、聖書に記されていますか。何らかの懲罰を受けたと記されていますか。何も記されていないことは確かです。ここで何も記されていないというのは、そのような記録がないということではなく、人の目に見える結末がなかったということに過ぎません。「記録されなかった」ということによって、ある種の物事を取り扱う際の神の姿勢と原則にまつわる問題が解明されます。神を冒涜したり、神に抵抗したり、果ては神を中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に神を攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対し、神は見ないふりをすることも、聞こえないふりをすることもありません。むしろ、そのような人たちに対する明確な姿勢があります。神はこうした人々を嫌悪し、心の中で断罪します。そして、神には自身を冒涜した人に対する明確な姿勢があること、およびそのような人の結末を神がどう定めるかを人々に知らしめるべく、神は彼らの結末を公然と明らかにします。しかし人は、神がそれらを述べたあとも、神がこうした人々をどのように取り扱うかに関する事実をほとんど理解できず、神が彼らに下す結末や審判の裏にある原則を認識できません。つまり人々は、神が彼らを取り扱う際の具体的な姿勢や手段を理解することができないのです。そのことは、神が業を行なう際の原則と関係しています。神は事実を生じさせることで、一部の人の邪悪な行ないを取り扱います。つまり、神は彼らの罪を宣告するのでも、彼らの結末を定めるのでもなく、事実を生じさせることで懲罰と正当な報いを直接彼らに与えているのです。こうした事実が生じるとき、その懲罰を受けるのは人の肉体ですが、そのことは、その懲罰が人間の目に見えるものであることを意味しています。一部の人々の邪悪な行動を取り扱うとき、神は言葉によって彼らを呪い、それと同時に神の怒りが彼らに及びますが、彼らが受ける懲罰は人の目には見えないものです。それにもかかわらず、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合があります。このような人を救わない、このような人にこれ以上慈悲や寛容さを示さず、機会を与えることもしないと神が判断したなら、彼らを見捨てるというのが神の姿勢です。ここで言う「見捨てる」とはどのような意味ですか。その言葉の基本的な意味は、脇にのけ、無視してこれ以上注意を払わないというものです。しかし、神が何かを見捨てる場合、その意味は二通りに説明することができます。一つ目の説明は、その人のいのちと、その人に関する一切のものを、神がサタンに与えて取り扱いを任せ、その人にそれ以上責任を負わず、管理することもないというものです。その人が狂気に取り憑かれていたり、愚かであったりしても、あるいは生きていても死んでいても、または地獄に落とされて懲罰を受けていても、そのどれも神には関係なくなるのです。つまり、そのような被造物は創造主と何ら関係がなくなるという意味です。二つ目の説明は、神がその人に対し、自らの手で何かを行なうと決めた、というものです。その人の奉仕を利用したり、彼らを引き立て役として用いたりすることもあるでしょう。または、神にはこの種の人を取り扱う特別な方法があり、パウロに対してそうしたように、特別な方法でその人を扱うかもしれません。この種の人を取り扱うと判断した際、神の心の中には以上の原則と姿勢があります。したがって、人々が神に抵抗し、神を中傷、冒涜したとき、あるいは神の怒りを買ったり、我慢の限界を超えさせたりしたとき、その結末は想像を絶するものになります。神が彼らのいのち、彼らにまつわる一切のことを永遠にサタンに委ねるというのが、最も深刻な結末です。このような人は永遠に赦されません。そのことは、この人物がサタンの餌食になり、玩具になり、そして今後は神と無関係になることを意味します。サタンがヨブを試したとき、それがどれほど悲惨なものだったか、あなたがたは想像できますか。サタンはヨブのいのちに危害を加えることを許されませんでしたが、そのような条件であっても、ヨブは大いに苦しみました。それならば、完全にサタンの手に委ねられた人、完全にサタンの手中にある人、神の慈しみや憐れみを完全に失った人、もはや創造主の支配下にいない人、神を信仰する権利と、神の支配下に属する被造物である権利を奪われた人、そして創造主との関係を完全に絶たれた人に加えられるサタンの猛威は、それにも増して想像するのが難しくはないでしょうか。サタンによるヨブの迫害は、人間がその目で見られるものでしたが、神がある人のいのちをサタンに引き渡したなら、その結末は人の想像を絶するものになります。たとえば、牛やロバとして生まれ変わる人もいれば、不浄な悪霊に取り憑かれる人などもいます。これが、神からサタンに引き渡された人の結末です。表面上、主イエスを嘲笑し、中傷し、断罪し、冒涜した人たちは、そのような結末に苛まれていないように見えます。しかし、神にはあらゆる物事に対する取り組み方がある、というのが真実です。各種の人を取り扱うにあたってその結末がどうなるか、神は明確な言語でそれを人々に話すことはないかもしれません。直接話すのではなく、むしろそのまま行動することもあります。神がそれについて何も語らないということは、何の結末もないという意味ではなく、実際のところ、そのような場合にはより深刻な結末になる可能性もあります。表面上、神が一部の人々に対し、自身の姿勢を明確に語っていないかのように思われることがあります。しかし実際には、そのような人に注意を払うことをずっと以前から望んでいなかったのです。彼らに二度と会いたくないのです。その人の行動や振る舞い、本性実質が原因となって、神はそうした人たちが自身の視界から姿を消すこと、彼らをサタンに直接引き渡すこと、彼らの霊魂と身体をサタンに与え、サタンの意のままにさせることだけを望んでいるのです。神がその人たちをどれほど憎んでいるか、どれほど嫌悪しているかは明らかです。ある人が神を怒らせ、神が二度と会いたくないとさえ思ったり、完全に見捨てる心構えができたり、自分自身で取り扱いたくないと思ったりするようになれば、あるいは、その人をサタンに引き渡して好きなようにさせ、思うがままにその人を支配し、食い尽くし、取り扱うのを許すようになれば、その人は完全に終わりです。その人の人間たる権利は永久に無効となり、神の被造物たる権利も終焉を迎えます。それは最も過酷な懲罰ではありませんか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 79

復活後のイエスによる弟子への言葉 (抄出)

ヨハネによる福音書 20:26-29 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

これらの聖句が述べている事柄は、復活後の主イエスによる弟子への言動です。まず、復活の前後における主イエスの違いを検討しましょう。復活後の主イエスは、以前のイエスと同じでしたか。この聖句には、復活後のイエスを描写する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」という一文が含まれています。当時の主イエスがもはや肉体に宿っておらず、霊体になっていたことは明らかです。なぜなら、扉が閉ざされていたにもかかわらず、人々の前に出て姿を見せることができたなど、肉の限界を超越していたからです。これが肉において生きていた復活前の主イエスと、復活後の主イエスの最も大きな違いです。その際の霊体の外見と、それ以前の主イエスの外見との間には何の違いもありませんでしたが、その瞬間の主イエスは、その人たちにとって見知らぬ人と感じられるような存在になっていました。と言うのも、主は死から復活した後に霊体となり、以前の肉体に比べると、人々にとって謎めいた存在、戸惑いを感じさせる存在となっていたからです。それはまた、主イエスと人々との距離をさらに広げ、人は心の中で、その時の主イエスがより不思議な存在になったと感じました。人々は自分が抱くこれらの認識と感覚により、見ることも触れることもできない神を信仰していた時代へと、突如として戻されたのです。そうしたわけで、復活した主イエスが最初に行なったのは、誰でも自分を見えるようにし、自分が存在すること、および復活した事実を確信させることでした。加えてこの業により、イエスと人々との関係は、イエスが受肉して働きを行ない、人々が見て触れることのできるキリストだったときの関係に戻りました。そこから生じた結果の一つに、十字架にかけられた主イエスが死から復活したことについて、人々が何の疑いも抱かず、同時に人類を贖う主イエスの働きについても疑問をもたなかったことがあります。またもう一つの結果として、主イエスが復活後に人々の前に現われ、彼らが主を見て触れられるようにしたことで、恵みの時代が人類の間に定着し、このとき以降、主イエスが「失跡」した、あるいは「無言で立ち去った」からという表向きの理由で、人々が以前の律法の時代に戻ることはなくなった、ということが挙げられます。イエスはこのようにして、人々が前進し続け、主イエスの教えと働きに従うようにしたのです。かくして、恵みの時代の新たな働きが正式に始まり、これ以降、律法の下で暮らしていた人々は正式に律法から脱し、新たな時代、新たな始まりへと入りました。以上が、復活後の主イエスが人々の前に現われたことの、多岐にわたる意義です。

主イエスがいまや霊体に宿っているなら、人々がイエスに触れたり、イエスを見たりすることができたのはなぜでしょうか。その問題は、主イエスが人間の前に現われたことの意義と関連しています。先ほど読んだ二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。通常、霊体は見ることも触れることもできず、また復活後、主イエスがそれまでに着手していた働きはすでに完了していました。したがって理論的に言えば、イエスが元の姿で人々の前に戻り、彼らに会う必要はまったくなかったのです。しかし、主イエスの霊体がトマスのような人の前に現われたことで、その意義がより具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれました。トマスの前に現われたイエスは、疑いを抱くトマスに自身の手を触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。この言葉と振る舞いは、主イエスが復活して初めて伝えたい、行ないたいと思ったことではなく、十字架にかけられる前から伝えたい、行ないたいと思っていたことです。なぜなら、トマスの疑いはこのときに始まったことではなく、主イエスに付き従っている間ずっと彼が抱いていたものだったからです。十字架にかけられる前から、主イエスがトマスのような人たちのことを理解していたのは明らかです。このことから何がわかりますか。主イエスは復活後も依然として同じだったということです。イエスの本質は変わっていませんでした。しかし、死から復活し、元の姿、元の性質、そして肉にあったときからの人間に対する認識をもって、主イエスが目の前に戻ってきたのです。そのため、主イエスは最初にトマスのところへ行って自身のわき腹に触れさせ、復活後の霊体を見させただけでなく、自身の霊体に触れさせてそれを感じさせ、彼の疑念を完全に払拭したのです。主イエスが十字架にかけられる前、トマスは常にイエスがキリストであることに疑念を抱き、信じることができないでいました。トマスの神に対する信仰は、自分の目で見えるもの、自分の手で触れられるものだけに基づいていたのです。この種の人の信仰について、主イエスはよく理解していました。このような人たちは天なる神だけを信じ、神に遣わされた者も受肉したキリストもまったく信じず、受け入れようとすることもありませんでした。自分が存在すること、および本当に受肉した神であることをトマスに認めさせ、信じさせるため、主イエスはトマスに対し、手を伸ばして自分のわき腹に触れるのを許しました。主イエスの復活前後で、トマスの疑いに異なる点はありましたか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊体がトマスの前に直接現われ、身体に残る釘のあとに触れさせる以外に、トマスの疑念を解消して払拭することは誰にもできませんでした。そうしたわけで、主イエスがトマスにわき腹を触れさせ、釘あとがあるのを実感させると、トマスの疑念は消え、主イエスが復活したことを真に知り、主イエスが真のキリストであり、受肉した神であることを認め、信じるようになりました。このとき、トマスはもはや疑っていませんでしたが、キリストに会う機会は永遠に失われていました。キリストと共にあり、キリストに付き従い、キリストを知る機会、キリストによって完全にされる機会を永遠に失ったのです。主イエスの出現と言葉により、疑いに満ちた人の信仰に対する結論、および審判が下されました。イエスは実際の言葉と業によって、疑念を抱く人、天なる神を信じるだけでキリストを疑う人に対し、神はそうした人の信仰も、疑念を抱きながら付き従うことも褒めないと伝えたのです。そのような人が神とキリストを完全に信じる日こそ、神の大いなる働きが完了した日なのです。もちろんその日は、彼らの疑いに審判が下る日でもあります。キリストへの姿勢によって彼らの運命は決まったのであって、頑なに疑いを抱いているせいで信仰は実を結ばず、頑固なせいで希望は叶わなかったのです。そのような人の天なる神に対する信仰は幻想によって育まれており、またキリストを疑うというのが神に対する彼らの本当の態度だったので、たとえ主イエスの釘あとに触れたところで、その信仰は依然として無益なままで、その結末はざるで水を汲むようなもの、つまりすべて無駄だとしか言いようがありませんでした。主イエスがトマスに言ったことはまた、次のことを万人にはっきり述べるものでもありました。つまり、復活した主イエスは、三十三年と半年にわたって人類の間で働きを行なった主イエスだということです。イエスは十字架にかけられて死の陰の谷を歩み、その後復活したにもかかわらず、どの側面も変わることがありませんでした。イエスの身体には釘のあとがあり、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨はまったく変わっていなかったのです。また、イエスは人々に対し、自分は十字架から下ろされて罪に打ち勝ち、苦難を乗り越え、死に勝利したと伝えました。その釘あとはサタンに対する勝利の証しであり、罪のいけにえとなって全人類を見事に贖った証しだったのです。さらに、自分はすでに人類の罪を背負い、贖いの働きを成し遂げたとも伝えました。使徒たちの前に戻って来たイエスは、出現という手段によって次のことを彼らに伝えました。「わたしは依然として生きており、ここに存在している。今日、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共にいる」また、主イエスはトマスの例を挙げて、未来の人々への警告にしました。つまり、あなたは主イエスへの信仰において、イエスを見ることも、イエスに触れることもできませんが、真の信仰ゆえに祝福されており、真の信仰ゆえに主イエスを見ることができるのであって、このような人が祝福された人なのです。

主がトマスの前に現われたときに述べた、聖書に記されているこの言葉は、恵みの時代のあらゆる人にとって大いに役立つものです。主がトマスのもとに現われたことと、主が彼に語った言葉は、その後何世代にもわたる人々に極めて大きな影響を与え続け、そこには不朽の意義があります。トマスは神を信じながら神に疑念を抱く類の人間を代表しています。このような人は疑い深い性格であり、心に悪意があり、不忠であり、神が成し遂げられる業を信じません。神の全能と支配も、受肉した神も信じません。しかし主イエスの復活は、このような人に平手打ちをくらわせたようなものでした。つまり、自分の疑いに気づいてそれを認識し、自分の不忠を認め、それによって主イエスの実在と復活を心から信じる機会を与えたのです。トマスの身に起きた出来事は後の世代の人々への警告であり、より多くの人がトマスと同じ疑う人にならないよう自戒し、もし疑いで一杯になれば、必ずや闇に落ちると自分を戒めるようにするためのものでした。神に付き従いながら、トマスのように主のわき腹や釘あとに触れ、神が存在するかどうかを憶測し、確かめることをいつも望むのであれば、神はあなたを見捨てるでしょう。それゆえ、主イエスは人々に対し、自分の目で見ることのできる物だけを信じたトマスのようにならず、純粋で正直な人間となり、神に対して疑念を抱かず、神を信じて付き従うことを求めているのです。このような人は祝福されています。これは主イエスが人々に行なうごくささやかな要求であり、また自分に付き従う人に対する警告でもあるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 80

復活後のイエスによる弟子への言葉 (抄出)

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と尋ねています。これは、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような人に対し、復活した主イエスが求めたより高い基準です。この質問は一種の調査と尋問でしたが、それ以上に、ペテロのような人への要求と期待でした。イエスはこのように質問することで、人々が自分自身を省みてじっと見つめ、「主イエスが人々に求められているのは何か。わたしは主を愛しているか。神を愛する者か。わたしはどのように神を愛するべきか」と自問するようにしたのです。主イエスがこの質問を投げかけたのはペテロだけでしたが、実は心の中で、ペテロにこの質問をすることにより、神を愛することを求めるより多くの人に対し、同様の質問を投げかけることを望んでいたのです。ペテロはこの種の人々を代表して、主イエスの口からこの質問を受けるという祝福にあずかったに過ぎません。

復活した主イエスはトマスに「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と告げましたが、ペテロに対しては「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度繰り返して尋ねました。この質問によって、人は主イエスの厳格な姿勢と、質問した際の差し迫った気持ちをより感じ取ることができます。不正直な本性をもち、常に疑っていたトマスに対し、主イエスは手を伸ばして身体の釘あとに触れることを許し、それによって自分が復活した人の子であることを信じさせ、自身のキリストとしての身分を認めさせました。主イエスはトマスを厳しく咎めることも、明確な裁きを言葉で表わすこともしませんでしたが、それでも実際の行動を通じて、自分がトマスを理解していることを知らせつつ、この種の人に対する自身の姿勢と決意を示したのです。この種の人に対する主イエスの要求と期待は、主の言葉には見られません。と言うのも、トマスのような人には真の信仰がこれっぽっちもないからです。このような人に対する主イエスの要求はその程度ですが、ペテロのような人に表わした姿勢はまったく異なります。イエスはペテロに対し、手を伸ばして釘あとに触れるよう求めることも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うこともありませんでした。その代わり、同じ質問を繰り返したのです。その質問は思考を刺激すると同時に有意義なものであり、キリストに付き従うすべての人が後悔と恐怖だけでなく、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じずにはいられなくなるものです。そして、大きな苦痛や苦しみにあるとき、彼らは主イエスの懸念と気遣いをより理解できるようになり、純粋で誠実な人々に対するイエスの熱心な教えと厳格な要求を認識します。人は主イエスの問いかけを通じ、これらの簡単な言葉に示されている主イエスの人々に対する期待は、単にイエスを信じてイエスに付き従うことだけでなく、愛をもつこと、つまり自分の主と神を愛することだと感じられるようになります。この種の愛は慈しみと服従です。神のために生き、死に、神にすべてを捧げ、神のためにすべてを費やし、そして与えるということなのです。この種の愛はまた、神に慰めをもたらし、神が証しを享受して安息を得られるようにします。それは人類による神への報いであり、責任であり、義務であり、本分であり、人がその生涯を通じて従うべき道なのです。この三度の問いかけはペテロと、完全にされるであろうすべての人に対する主イエスの要求であり、訓戒でした。ペテロが最後まで人生の道を歩むよう導き、励ましたのは、この三度の問いかけでした。また、ペテロが完全にされる道を歩み始めるよう導き、そして主への愛ゆえに主の心を気遣い、主に服従し、主に慰めをもたらし、その愛ゆえに自分の一生と自分のすべてを捧げるよう導いたのも、主イエスが去り際に行なったこの問いかけだったのです。

恵みの時代、神の働きはおもに二種類の人を対象としていました。一つは神を信じて付き従い、神の戒めを守って十字架を背負い、恵みの時代の道を守ることのできる人でした。この種の人は神の祝福を得て、神の恵みを享受しました。もう一つはペテロのように、完全にされ得る人でした。そうしたわけで、復活した主イエスはまず、二つの極めて有意義な業を行なったのです。そのうちの一つはトマスに対してなされ、もう一つはペテロに対してなされたものです。その二つの業は何を表わすものですか。神が人類を救う真意を表わしているのでしょうか。人類に対する神の誠実さを表わしているのでしょうか。神がトマスに対して行なった働きは、疑う人にならず、ひたすら信じるよう、人々に警告するためのものでした。そしてペテロに対して行なった働きは、彼のような人の信仰を強め、この種の人への要求を明確なものにし、目指すべき目標を示すためのものでした。

復活した主イエスは、必要と思われる人々の前に現われ、彼らに語りかけ、彼らへの要求を伝えるとともに、人々に対する自身の旨と期待を残しました。つまり、受肉した神として、人類に対するイエスの懸念と、人々に対する要求は決して変わらなかったのです。イエスが肉にあったときも、十字架にかけられた後に復活して霊体にあったときも、それらは同じままでした。イエスは十字架にかけられる前からこれら弟子たちのことを懸念しており、各人の状態を心の中で明確に理解するとともに、各人の欠点を認識していました。そしてもちろん、死んで復活し、霊体になった後も、各人に関するイエスの理解は、肉にあったときと同じでした。イエスのキリストとしての身分について人々が完全に確信していなかったことを、イエスは知っていましたが、肉にあったとき、人々に対して厳格な要求をすることはありませんでした。しかし、復活したイエスは彼らの前に姿を見せ、主イエスが神のもとから来たこと、イエスが受肉した神であること、そして人類が生涯をかけて追求していくにあたり、自身の出現と復活をその最大のビジョン、最大の動機にしたことを、彼らに完全に確信させました。イエスの死からの復活は、イエスに付き従うすべての人々を強くしただけでなく、恵みの時代における人類の中での働きを完全に成し遂げるものであり、かくして恵みの時代における主イエスの救いの福音が徐々に人類全体へと広まったのです。復活した主イエスが人々の前に現われたことに、何か意味があると言えるでしょうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生においてこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼしたでしょうか。神を信じる生涯において最も素晴らしい、至高のビジョンだと見なしたでしょうか。一生神に付き従い、神を満足させようと努め、神への愛を追求する上での原動力だと見なしたでしょうか。この至高のビジョンを広めるため、生涯をかけて努力したでしょうか。主イエスの救いを広めることを、神から託された使命として受け入れたでしょうか。あなたがたはまだそれを経験していませんが、トマスとペテロの事例は、現代の人々が神の旨と神自身をはっきり理解するのに十分なものです。肉となり、人類の間で人間生活を自ら経験し、当時の人類の堕落や人間生活の状況を目の当たりにした後、受肉した神は、人類がいかに無力で嘆かわしく、哀れであるかを深く感じました。肉において生活していた際、自身が有していた人間性、および自身の肉体的な直感のために、神は人間の状況により共感を覚え、その結果、自身に付き従う人への懸念をさらに強く感じました。あなたがたはおそらくこれらを理解できないでしょうが、自身に付き従うすべての人に対する受肉した神の不安と気遣いは、「強い懸念」という言葉で表わすことができます。その言葉は人間の言語に由来するものであり、極めて人間的な言葉ですが、自身に付き従う人に対する神の感情を真に表わし、描写するものです。あなたがたは人間に対する神の強い懸念を、経験を重ねる中で徐々に感じ取り、味わってゆくことでしょう。しかし、自分自身の性質の変化を追求することで、神の性質を徐々に理解しなければ、それは不可能です。主イエスが姿を見せたことで、人類のうちイエスに付き従う人に対する主の強い懸念が形をなし、イエスの霊体、あるいはイエスの神性に伝えられました。また主イエスの出現により、人々は神の懸念と気遣いを再び経験し、感じることができ、それと同時に時代の幕開け、展開、そして終焉をもたらすのは神であることが、力強く証明されたのです。自身の出現を通じ、イエスはすべての人々の信仰を強くし、自身が神であることを全世界に証明しました。それによって、主に付き従う人々は永遠に確信し、また主イエスは自身の出現を通じ、新しい時代における働きの一局面を始めたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 81

復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

ルカによる福音書 24:30-32 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

イエスに焼き魚を差し出す使徒たち

ルカによる福音書 24:36-43 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

次に上記の聖句を検討します。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している場面、後者はイエスが焼いた魚を食べている場面です。神の性質を知る上で、これら二節はどのように役立ちますか。パンや焼いた魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することができますか。主イエスが自分の前に立ってパンを食べているとしたら、自分がどのように感じるかを想像できますか。あるいは、イエスが自分と同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、そのときどのような気持ちがするでしょうか。主は自分と非常に親密で、とても懇意にしてくださると感じるなら、その感情は正しいものです。それがまさに、人々の集団の前でパンと魚を食べることで、復活後の主イエスがもたらそうとした結果なのです。復活した主イエスが人々と話をするだけで、彼らがイエスの肉体を感じられず、手の届かない霊だと感じたなら、その人たちはどのように思ったでしょうか。落胆したのではないでしょうか。彼らは落胆しながら、見捨てられたように感じていたのではないでしょうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではないでしょうか。こうした隔たりは、神と人々との関係にどのような悪影響を与えたでしょうか。人は間違いなく恐怖を感じ、あえて近づこうとせず、敬遠する態度をとっていたでしょう。その後は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、人間と天なる神という、恵みの時代以前の関係に戻っていたはずです。人が触れることも感じることもできない霊体が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、主イエス・キリストが受肉していた際に築かれた、人間との密接な関係もまた消滅するでしょう。霊体が人間の中でかき立てる感情は恐怖と忌避だけであり、人は目を丸くして絶句します。あえて近づこうとも会話しようともせず、ましてや従ったり、信じたり、仰ぎ見たりはしないでしょう。人々が自身にこうした感覚を抱くことを、神は望みませんでした。人々が自分を避けたり、自分の前から立ち去ったりするのを望まなかったのです。神は、人々が自分を理解し、自分に近づき、自分の家族となることだけを望んでいました。あなたの家族や子どもたちが、あなたを見てもあなたであると気づかず、あなたに近寄ろうとせず、いつも避けてばかりいて、あなたが家族や子どもたちのためにしたことを一切理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるでしょうか。それはつらいことではないでしょうか。心が痛むのではないでしょうか。人々が神を避けたときに神が感じるのは、まさにそうした感覚です。そうしたわけで、復活した主イエスは血の通った肉体の姿で人々の前に現われ、彼らと飲食を共にしたのです。神は人を家族と考え、また人に対しても、神は最も近しい存在だと考えることを望みます。そうして初めて、神は真に人々を得ることができ、人々は真に神を愛して崇拝できるのです。復活した主イエスがパンを食べながら聖句について説明している一節と、使徒がイエスに焼いた魚を差し出している一節をわたしが取り上げたことについて、その意図がこれでわかりましたか。

復活後の主イエスによる一連の言動には真剣な考えが込められていたと言えるでしょう。それらは神が人類に抱く優しさと愛情に満ち溢れ、また受肉していた際に人類との間で築いた親密な関係に対する、慈しみと周到な配慮にも満ち溢れていました。さらに、受肉していた際、自身に付き従う人たちと寝食を共にしたことへの懐古の念と切望にも満ち溢れていました。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神と距離を置くことも、神は望まなかったのです。さらに、復活した主イエスはもはや人間と親密だったころの主ではない、また主は霊の世界、人間が決して見ることも触れることもできない父のもとへ戻ったので、もはや自分と共にはいない、と感じることも望みませんでした。神の立場と自分たちの立場に違いが生まれたと人間が感じることを、神は望みませんでした。神に付き従いたいと望みながら神を敬遠している人間を見ると、神は心を痛めます。なぜなら、その人の心が神から遠く離れていること、神がその人の心を得るのは極めて難しいことを意味しているからです。そうしたわけで、イエスが見ることも触れることもできない霊体の姿で人々のもとに現われていたら、人は再び神と距離を置き、復活後のキリストが高尚な存在、人間とは違う存在となり、また罪深く、汚れており、決して神に近づけない人間と食卓を共にできない存在となった、などという人間の誤解を招いていたでしょう。こうした人間の誤解を払拭するため、主イエスは受肉した際に行なっていた数多くの業を行なったのであり、それは聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる」と記されている通りです。また、過去に行なっていたように、人々に聖句を説明することもしました。イエスが行なったこれらの業により、主イエスと会った人はみな、イエスは変わっておらず、依然として同じ主イエスであると感じました。イエスは十字架にかけられて死を経験しましたが、その後復活したのであって、人間のもとから去ったわけではありません。イエスは人々の間に戻り、何一つ変わるところがありませんでした。人々の前に立つ人の子は、依然として同じ主イエスだったのです。イエスの物腰や人々との話し方は非常になじみ深いものでした。依然として慈愛、恵み、そして寛容に溢れていたのです。それは自分と同じように他の人を愛し、人を七の七十倍赦すことのできる主イエスでした。以前と同じように人々と食事を共にし、彼らと聖句について話し合い、またさらに重要なこととして、以前同様、見て触れることのできる血の通った肉体をもっていました。こうした人の子の姿のおかげで、人々は親密感を抱き、くつろぎを感じ、失ったものを取り戻した喜びを覚えました。そして大きな安心感とともに、果敢に、かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼り、仰ぎ見るようになったのです。また人々は、ためらうことなく主イエスの名において祈り始め、イエスの恵みと祝福、安らぎと喜び、そして気遣いと加護を得るようになり、イエスの名において病人を癒やし、悪霊を追い払い始めたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 82

主イエスが肉において働きを行なっていた際、その身分や言葉を完全に認識できている人は、イエスに付き従う人の中にほとんどいませんでした。イエスが十字架に向かっていたとき、イエスに付き従っていた人たちは傍観の態度をとりました。イエスが十字架にかけられてから墓に入れられるまで、人々の主に対する態度は落胆でした。この間、イエスが受肉していた際の言葉について、人々の心は疑いから否定へとすでに変わり始めていたのです。そしてイエスが墓から出て一人ひとりの前に現われたとき、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々のほとんどが、否定から懐疑へと徐々に態度を変えました。主イエスがトマスに手でわき腹を触れさせ、復活後に群衆の前でパンを裂いて食べ、続いて彼らの前で焼いた魚を食べて初めて、人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け入れたのです。それはあたかも、血の通った肉体をもち、これらの人々の前に立っているこの霊体が、彼らをひとり残らず夢から目覚めさせたようだった、と言うことができるでしょう。人々の前に立つ人の子は、悠久の過去から存在していた者でした。人の子には形もあれば肉と骨もあり、長らく人間と共に生きて食事をしていたのです……人々はこのとき、イエスの存在がまったくの真実であり、実に素晴らしいと感じました。同時に大きな喜びと幸福を覚え、感動で満ち溢れました。イエスが再び現われたことにより、人々はイエスの謙虚さを目の当たりにし、人間に対する親密さと愛着を感じるとともに、自分たちのことをいかに思っているかを感じ取ったのです。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、あたかも一生が過ぎ去ったかのように感じました。迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、麻痺していた彼らの心は安らぎを得て、もはや疑っても落胆してもいませんでした。なぜなら、いまや希望があり、頼れるものがあったからです。人の子がそのとき人々の前に立ったことで、彼らはいかなるときも後ろ盾を得られることになりました。人の子は永遠なる堅固なやぐら、そしてよりどころとなったのです。

主イエスは復活しましたが、イエスの心と働きが人間のもとから離れたわけではありません。どのような形で存在しようと、自分は人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも一緒にいること、そしていつでもどこでも人類に糧を施し、牧養し、自分を見て触れられるようにするとともに、人類が二度と絶望を感じないようにするということを、イエスは自身の出現を通じて人々に伝えたのです。また、この世における生活が孤独なものではないと、人々が知ることも望みました。人には神の配慮があり、神は人と共にあります。人はいつでも神をよりどころにすることができ、神は自身に付き従うすべての人の家族です。よりどころとなる神がいれば、人間はもはや孤独になることも絶望することも一切なく、また神を罪の捧げ物として受け入れる人は罪に縛られることがありません。人間の目から見ると、復活後に主イエスが行なった働きは、極めて小さなものではありますが、わたしから見ると、それらはどれも意味があり、貴重であり、重要であり、大きな意義が込められているのです。

主イエスが受肉して働きを行なっていた時期は困難と苦しみに満ちていたものの、血の通った肉体をもつ霊体として現われたことで、イエスはその働きを徹底的に、かつ完全に成し遂げました。肉になることで自身の職分を始め、肉の姿で人の前に現われることでその職分を締めくくったのです。イエスは恵みの時代の到来を告げ、キリストの身分によって新しい時代を始めました。自身のキリストとしての身分によって恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代に自身に付き従ったすべての人を強くし、そして導いたのです。神の働きについて、神は自身が始めたことを真に完成させると言えます。そこには段階と計画があり、その働きは神の知恵、全能、驚くべき業、そして愛と憐れみに満ち溢れています。もちろん、神の働きのすべてには、人類への気遣いが一貫しています。決して脇にのけることができない懸念が染みわたっているのです。聖書のこれらの聖句では、復活した主イエスが行なったあらゆることに、人類に対する神の変わらぬ希望と懸念、そして周到な配慮と慈愛が表わされています。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていません。あなたがたにわかりますか。それがわかったとき、あなたがたの心は無意識のうちに神に近づくのではありませんか。あなたがたがその時代に生きていて、復活した主イエスが形ある姿であなたがたの前に現われ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句を説明し、あなたがたと話し合ったとしたら、あなたがたはどう感じるでしょうか。幸せに感じるでしょうか。それとも罪悪感を覚えるでしょうか。神に対するそれまでの誤解と忌避、神との対立や疑いは、すべて残らず消えるのではありませんか。神と人との関係は、より正常かつ正しいものになるのではないでしょうか。

これら聖書の限られた断片を解釈することで、神の性質に何か欠点を見つけましたか。神の慈愛に何らかの不純なものが見つかりましたか。神の全能や知恵に、何らかの欺瞞や邪悪さが見つかりましたか。絶対に見つかりません。神は聖いと断言できますか。神の感情の一つひとつが神の本質と性質の現われであると断言できますか。これらの聖句を読んだ後、そこから理解したことが、性質の変化を追求すること、そして神を畏れることにおいて、あなたがたを助けて益をもたらすことをわたしは望んでいます。また、それらがあなたがたの中で実をつけ、その実が日を追うごとに大きくなり、その追求の過程においてあなたがたがより神に近づき、神が求める基準に近づくこともわたしは望んでいます。あなたがたは真理の追求に飽きることもなければ、真理の追求や性質の変化の追求は面倒だ、あるいは不要だなどと感じることもありません。むしろ、神の性質の真の表われと、神の聖い本質に突き動かされて光と正義を求め、真理の追求を渇望し、神の旨を満たすことを切望して、神に得られる人、真の人になるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

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