神を知る(1)

日々の神の御言葉 抜粋 1

あなたがたはみな、自分が生涯を通じてどのように神を信じてきたかを吟味し直す必要があります。神に付き従う中で、自分が神を真に理解し、真に認識し、真に知るようになったかどうか、そして神がさまざまな種類の人間に対しどんな姿勢で臨むのかを真に知っているかどうか、さらに神が自分にどのような働きを行なっているかと、自分の一つ一つの行為をどのように定義しているかを、真に理解しているかどうか確かめる必要があるのです。この神はあなたの隣におり、あなたの進む方向を導き、あなたの運命を定め、あなたの必要を満たしてくれる神です。結局のところ、あなたはこの神をどの程度理解しているでしょうか。この神について、どの程度本当に知っているでしょうか。神が毎日あなたにどんな働きを行なっているかを知っていますか? 神のあらゆる働きの基盤となっている原則や目的を知っていますか? 神があなたをどのように導くかを知っていますか? 神がどんな方法であなたを養うかを知っていますか? どんな方法であなたを導くのかを知っていますか? あなたから何を得たいと思っているか、あなたの中で何を成し遂げたいと思っているかを知っていますか? あなたが取るさまざまなふるまいに対し、神がどのような態度で臨むかを知っていますか? 自分が神に愛される人間かどうかを知っていますか? 神の喜び、怒り、悲しみ、歓喜の根源と、その背後にある思いや考え、そして神の本質を知っていますか? 究極的に、自分が信じている神がどのような神であるかを知っていますか? こうした質問やその他類似の疑問は、あなたがこれまで一度も理解せず、考えたこともないものでしょうか。神への信仰を追求する中で、神の言葉を真に味わい経験することを通して、神に関する誤解が解けたことはあるでしょうか。神の鍛錬と懲らしめを受けた後に、真に神への服従と思いやりを得たことがあるでしょうか。神の刑罰と裁きのただ中で、人間の反抗心とサタンのような本性を知り、神の聖さをほんの少しでも理解するようになったことがあるでしょうか。神の言葉による導きと啓示によって、新たな人生観を持つようになったでしょうか。神から送られた試練のただ中で、人間の背きに対する神の不寛容だけでなく、神があなたに何を要求しているかや、いかにしてあなたを救おうとしているか、感じ取ったことがあるでしょうか。神を誤解するということがどういうことかや、その誤解を解く方法を知らないなら、あなたは神との真の交わりに入ったことが一度もなく、神を理解したこともないか、または少なくとも、一度も神を理解したいと望んだことがないのだと言えます。神の鍛錬と懲らしめとは何かを知らないなら、神への服従と思いやりとは何かを知っているはずもなく、少なくとも真に神に服従したり神を思ったりしたことは一度もないのです。神の刑罰と裁きを受けたことがないなら、神の聖さとは何であるかがわかるはずもなく、ましてや人間の反抗についての理解はさらに曖昧になるでしょう。正しい人生観や正しい人生の目的を持ったことが一度もなく、いまだに人生における将来の道について戸惑いと迷いの中にあり、前に進むことさえ躊躇しているのなら、あなたは間違いなく神の啓きと導きを受けたことがないのであり、さらに神の言葉によって真に与えられたことも満たされたこともないのだと言えます。まだ神の試練を受けていないのなら、人間の背きに対する神の不寛容とは何かを知る由もなく、究極的に神があなたに何を求めるのかも理解できず、ましてや人間を経営し救う神の働きとは究極的に何なのかなどわかるはずもありません。何年神を信じていようとも、神の言葉から何も経験せず認識もしていないのなら、その人は間違いなく救いへの道を歩んでおらず、その人の神への信仰には内容がなく、神に関する認識も間違いなく皆無であり、神を畏れるとはどういうことか見当もつかないのは言うまでもありません。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 2

神が所有するもの、神の存在そのもの、神の本質、神の性質――これらはすべて、神の言葉の中で人間に知らしめられています。神の言葉を体験するとき、人間はその言葉を実践に移す過程で、神が語る言葉の背後にある目的と、その言葉の根源や背景を理解するようになり、そしてその意図された効果を理解し認識するようになります。こうしたことはすべて、真理といのちを得て、神の意図を把握し、性質を変えられ、神の支配と采配に服従できるようになるために、人間が経験し、把握し、獲得しなければならないことなのです。こうしたことを経験し、把握し、獲得すると同時に、人間は徐々に神を理解するようになり、そしてそのときには神に関する認識もさまざまな程度で獲得しています。この理解と認識は、人間が想像したり作り上げたりした物事からではなく、心の中で理解し、経験し、感じ、確認した物事から生まれます。そうした物事を理解し、経験し、感じ、確認して初めて、人間の神に関する認識は中身のあるものとなります。このときに人間が得る認識だけが、実際的で現実的かつ正確であり、そしてこの神の言葉を理解し、経験し、感じ、確認することで神に関する真の理解と認識を得るという過程こそが、まさしく人間と神との真の交わりなのです。こうした交わりの中で、人は神の意図を真に理解し把握し、神の所有するものと神の存在そのものを真に理解し知るようになり、神の本質を真に理解し知るようになるとともに、神の性質を徐々に理解し知るようになって、神があらゆる創造物を支配しているという事実についての確信と正しい定義に到達し、神の身分と地位についての確かな姿勢と認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人の神に関する考えは徐々に変化し、人は根拠もなく神について想像したり、神への疑念を勝手に膨らませたりすることをやめ、神を誤解したり、罪に定めたり、神を裁いたり、疑ったりもしなくなります。その結果、神と議論することや対立することが減り、神に反抗する機会も減ります。そして逆に神への思いやりと服従が強くなり、神への畏敬の念がより現実的で深遠なものとなっていきます。こうした交わりの中で、人間は真理の供与といのちの洗礼を受けるだけでなく、同時に神に関する真の認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人間はその性質を変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物としての神に対する真の畏敬と崇拝を獲得することになります。こうした交わりを経ることで、神への信仰はもはや白紙の状態でも、言葉だけの約束でも、一種の盲目的な追求や偶像化でもなくなります。こうした交わりによってのみ、人間のいのちは成熟に向かって日々成長することになり、そのとき初めてその性質が徐々に変えられて、神への信仰は漠然とした不確実なものから、少しずつ本物の服従と思いやりへ、本物の畏敬へと変化していきます。そして神に付き従う過程で、人は次第に消極的な態度から積極的な態度へ、否定的な者から肯定的な者へと進歩していきます。このような交わりによってのみ、人間は神に関する真の理解と把握、そして真の認識に到達するのです。大半の人々は神との真の交わりに入ったことがないため、神に関する彼らの認識は理論のレベル、文字と教義のレベルに留まります。つまり大多数の人が、何年神を信じてきたかに関わらず、神を知ることに関してはいまだに信仰を始めた当初と変わらず、封建的迷信と空想的色合いを伴う伝統的な形の敬意という土台にあって身動きできずにいるのです。神に関する認識が当初の段階に留まっているということは、その認識がほとんど存在しないことを意味します。人間が神の地位と身分を肯定したことを別にすれば、人の神に対する信仰は未だに漠然とした不確かな状態にあるのです。このような状態で、人は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得るでしょうか。

神の存在をどれほど固く信じていようとも、それが神に関する認識や神への畏敬の代わりになることはありません。神の祝福や恵みをどれほど享受してきたとしても、それが神に関する認識の代わりになることはありません。神のために自らのすべてを捧げ、身を費やす意欲がどれだけあろうとも、それが神に関する認識の代わりになることはありません。神が語った言葉に非常に精通しており、諳んじてすらすらと暗証さえできるとしても、それが神に関する認識の代わりになることはありません。神に従う意欲がいかに強くても、神との本物の交わりや神の言葉の本物の経験を持ったことがないなら、神に関する認識はただの空白か、終わりのない幻想に過ぎなくなります。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、あるいは神と直接対面したとしても、神に関するあなたの認識は皆無であり、その神に対する畏敬は空しい標語や理想的な概念に過ぎないのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 3

多くの人々が神の言葉を日々読み返しており、場合によってはその中の代表的な言葉を貴重な財産としてすべて注意深く暗記したり、さらには随所で神の言葉を説教して、他の人々を神の言葉によって養い援助したりもしています。彼らはそうすることが神について証しをし、神の言葉について証しをすることであり、神の道に従うことだと考えています。さらに、それが神の言葉に従って生きることであり、神の言葉を実生活に活かすことであり、そうすることで神の称賛を得て、救われ完全にされるとも考えています。しかし彼らは神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、神の言葉にあらわされているものと自分自身を比較することも一切ありません。むしろ神の言葉を利用することで、策略によって他人からの敬服や信頼を得たり、自らの経営の中に入ったり、神の栄光をかすめ取ったりしています。そして神の言葉を広めることで得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ようといたずらに願っているのです。どれだけの年月が経とうとも、こうした人々は神の言葉を説教する中で神の称賛を得られていないだけでなく、神の言葉を証しする中で従うべき道を見いだすこともできず、神の言葉によって他の人々を養ったり助けたりする中で自分自身を養うことも助けることもなく、そうしたすべてのことを行う中で神を知ることも、自らの中に純粋に神を畏れる心を呼び覚ますこともできずにいます。逆に彼らの神に関する誤解は深まるばかりで、神への不信感も深刻になる一方であり、神に関する想像は大げさになるばかりです。彼らは神の言葉に関する理論に満たされ導かれて、完全に自らの本領を発揮し、苦もなく自分の能力を活かしているかのようであり、あたかも自分の人生の目的や使命を見出し、新しいいのちを得て救われたかのようであり、朗読のように神の言葉を饒舌に語りながら、真理を得て神の意図を把握し神を知る道を見出したかのようであり、また神の言葉を説教する中でしばしば神と直接顔を合わせているかのように見えます。さらに彼らはしばしば「感極まって」涙を流し、しばしば神の言葉の中の「神」に導かれて、神の真摯な配慮と優しい思いやりを絶えず掴んでいるように見えると同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るに至り、神の義なる性質を理解しているかのようにも見えます。そうした土台に基づいて、彼らはより固く神の存在を信じ、より強く神の高貴な地位を認識し、より深く神の荘厳さと超越性を感じているように見えます。彼らは神の言葉に関する表面的な認識に耽溺しており、その信仰は成長し、苦難に耐える決意は強まり、神に関する認識が深まっているかのように見えます。しかし実際に神の言葉を体験するまでは、神に関する認識や神についての考えが、すべて自らの勝手な想像と推測から生まれていることにはほとんど気付きません。彼らの信仰は神のいかなる試練にも耐えることができず、彼らの言うところの霊性と背丈は神の試練にも検証にも一切耐えられません。彼らの決意は砂上の楼閣以外の何物でもなく、いわゆる神に関する認識もまた、自分の空想による虚構にすぎません。事実こうした、いうなれば神の言葉に多くの努力を費やした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは神に関する真の認識というものを、悟ったことが一切ありません。彼らは理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、さらに人類の道徳的価値観さえも、神を信じ従うための「元手」や「武器」に変え、さらには神を信じ従うための基盤とさえしています。また同時に、彼らはそうした元手や武器を魔法の護符に作り変え、それを通して神を知り、神による検証、試練、刑罰、裁きに対処しようとしています。そして最終的に彼らが得るものは、宗教的含みや封建的迷信、そしてあらゆる空想的で異様で謎めいたものに染まった、神についての結論に過ぎません。彼らが神を知り定義する方法は、ただ「天」や「天の親方」を信じている人々と同じ型に嵌まっており、一方で神の現実性、本質、性質、その所有するもの、神の存在そのものといった、真の神自身に関するものすべては、彼らの認識では把握できず、彼らの認識とはまったく無関係で、北極と南極ほどにかけ離れています。このように、彼らは神の言葉による施しや栄養によって生きているにもかかわらず、神を畏れ悪を避ける道を、本当の意味で辿ることができずにいるのです。その真の原因は、彼らが神と親しんだことがなく、本当に神と接したことも交わったこともないからで、そのため彼らが神との相互理解に達することは不可能であり、神を純粋に信仰し、神に付き従い、崇める心を自らのうちに呼び起こすこともできないのです。神の言葉をこのように見なし、神をこのように見なしているというその見方と態度のため、彼らは努力の末に手ぶらで帰ることになり、神を畏れ悪を避ける道を進むことは永遠にできないよう運命付けられているのです。彼らが目指す目標と彼らが進んでいる方向は、彼らが永遠に神の敵であり、永遠に救いを得られないことを示しているのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 4

ある人が長年にわたって神に従い、神の言葉による糧を長年享受していながら、その人が抱いている神の定義が、偶像に敬意を払いひれ伏す者の定義と本質的に同じであるなら、それはその人が神の言葉の現実を得ていないことを意味します。それはただその人が神の言葉の現実に入ったことがなく、そのために現実、真理、意図、そして人類に対する要求など、神の言葉に含まれるものすべてが、その人にとってはまったく無関係なものだからです。すなわち、こうした人が神の言葉の表面的な意味についてどれほど熱心に取り組んでも、すべては無益です。なぜならその人が追求しているのは単なる言葉であり、したがってその人が得るものも必然的に単なる言葉であるからです。神が語る言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、すべて人がいのちに入るために欠くことのできない真理であり、人間が霊と肉の両方において生き延びることを可能にする、生ける水の泉なのです。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なもの、日常生活を送るための原則と信条、救いを得るために進むべき道、およびその目標と方向性、神の前に被造物として持つべきすべての真理、そしていかに神に服従し神を崇めるべきかについてのすべての真理を与えてくれます。神の言葉は人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、人間が強くなり立ち上がることを可能にする頑強な支えでもあります。神の言葉には、被造物である人類が正常な人間性を生きる上での真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれサタンの罠を避けるための真理も豊かに含まれており、さらに創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めも豊富に含まれています。神の言葉は、肯定的なものすべてを理解できるよう人間を導き啓発する灯台であり、人間がすべての義なる良いことを実際に生きて所有するための保証であり、人々と出来事や物事が測られる基準であり、人間を救いや光の道へと導く道標でもあります。人間は神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを施され、その中でのみ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、本物の被造物とは何か、神への真の服従とは何かを理解できるようになります。そしてその中でのみ、人間がいかに神を思いやるべきか、被造物としての本分をいかに尽くすべきか、真の人間らしさをいかに身につけるべきかを理解できるようになり、さらにその中でのみ、本物の信仰や本物の崇拝とは何を意味するのか、天地と万物の支配者が誰であるかを理解できるようになり、またその中でのみ、全ての被造物の主である方がどのような手段で万物を支配し、導き、養うかを理解できるようになり、さらにすべての被造物の主である方がいかに存在し、現れ、働きを行うかを理解し把握できるようになるのです。神の言葉の実体験から離れれば、人が神の言葉と真理に関する真の認識と洞察を持つことはありません。そうした者はまさしく生きる屍であり、完全な抜け殻であり、創造主に関する認識はその者とは一切無関係です。神の目から見れば、そうした者は決して神を信じたことも神に従ったこともなく、そのため神はその人を信者とも従う者とも認めず、ましてや本物の被造物と認めることもないのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 5

本物の被造物というものは、創造主が誰であるか、人間はなぜ創造されたのか、被造物としての責任をどう果たすべきか、すべての被造物の主をどう崇拝すべきかを知り、創造主の意図と願いと要求を理解し、把握し、知り、思いやらなければなりません。そして創造主の道、すなわち神を畏れ悪を避ける道に沿って行動しなければならないのです。

神を畏れるとはどういうことでしょうか。そして、どうすれば悪を避けられるのでしょうか。

「神を畏れる」ということは、得体の知れない恐れや恐怖心を持つことではなく、回避することでも距離をおくことでもなく、偶像化や迷信でもありません。それは敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、従順、献身、愛であり、無条件で不平のない崇拝、報い、そして帰服です。神に関する本物の認識がなければ、人間に本物の敬慕、本物の信頼、本物の理解、本物の思いやりや従順は存在せず、ただ恐怖と不安、懐疑、誤解、回避、逃避があるばかりです。神に関する本物の認識なくして、人間に本物の献身や報いはあり得ません。神に関する本物の認識なくして、人間に本物の崇拝や帰服はあり得ず、ただ盲目的な偶像化と迷信があるのみです。神に関する本物の認識がなければ、人類は神の道に沿って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることも到底できません。逆に、人間が関与するあらゆる活動や行為は、反抗と反逆、神についての中傷的な非難や悪意的な裁き、そして真理や神の言葉の真意に反した悪行に満ちることになるでしょう。

ひとたび神を本当に信頼すると、人は本当に神に従い、神を頼るようになります。本当に神を信頼し頼って初めて、人は本物の理解と認識を得ることができます。神に対する真の理解にともなって、神への真の思いやりが生じます。神に対する本物の思いやりがあって初めて、人間は本当に服従できるようになり、神に対する本物の服従があって初めて、人は本当に献身することができます。神への本物の献身があって初めて、人は無条件に不満なく報いることができます。本物の信頼と依存、本物の理解と思いやり、本物の服従、本物の献身と報いがあって初めて、人は真に神の性質と本質とを知り、創造主の身分を知ることができます。創造主を真に知って初めて、自らのうちに本物の崇拝と帰服とを目覚めさせることができます。創造主に対する真の崇拝と帰服があって初めて、人は真にその悪の道を捨てること、つまり悪を避けることができるようになるのです。

これが「神を畏れ、悪を避ける」ことの過程であり、また神を畏れ、悪を避けるということの全容でもあります。これは神を畏れ悪を避けることを成し遂げるために、越えなければならない道なのです。

「神を畏れ、悪を避ける」ことと神を知ることは、無数の線で不可分に繋がっており、その関連性は自明です。悪を避けたいと望むなら、まず神を真に畏れなければなりません。神を真に畏れることを望むなら、まず神に関する真の認識を得なければなりません。神に関する真の認識を得たければ、まず神の言葉を体験し、神の言葉の現実に入り、神の懲らしめと鍛錬、刑罰と裁きを経験しなければなりません。神の言葉を経験したいと望むなら、まず神の言葉と向き合い、神と顔を合わせて、人や出来事や物事に関わるあらゆる環境の中で神の言葉を体験する機会を与えてくれるよう、神に求めなければなりません。神や神の言葉と向き合うことを望むなら、まず単純で正直な心を持ち、いつでも真理を受け入れる準備をし、苦難に耐える意志、悪を避ける決意と勇気、そして本物の被造物になるという志を持たなければなりません……。このようにして一歩ずつ前進すれば、あなたはますます神に近づき、あなたの心はますます純粋になり、また、あなたが神のことを認識するようになったとたん、あなたの人生と生きる価値はますます有意義で豊かになり、より輝かしいものとなってゆくでしょう。そしていつの日か、創造主はもはや不可解なものではなくなり、一度も自分から隠されてはいなかったと感じられるようになり、創造主があなたから顔を隠したことは一度もなく、決して遠く離れてはおらず、絶えず頭の中で追い求めても感じ取ることができないようなものではなく、実際にあなたの左右に立って真にあなたを見守り、あなたのいのちを満たし、運命を支配しているのだと感じられるようになります。神は遠く離れた地平の彼方に存在するのではなく、雲の上に隠れているのでもありません。神はあなたのすぐ側で、あなたのすべてを支配しており、あなたが持つすべてのものであると同時に、あなたが持っている唯一のものなのです。こうした神は、あなたが心から神を愛し、神にすがりつき、寄り添い、敬愛し、神を失うことを恐れるようにしてくれるとともに、もう神を放棄したり背いたりせず、神から逃げたり遠ざかったりもしたがらないようにしてくれます。あなたはただ神を思いやり、神に服従し、神が与えるすべてに報い、神の支配に従うことだけを望むようになるのです。そしてもはや神に導かれ、養われ、見守られ、保護されることを拒まなくなり、神があなたに命じることや定めることを拒まなくなります。ただ神に従い、神と同伴することを望み、そして神を自分にとって唯一のいのちとして受け入れ、唯一の主、唯一の神として受け入れることを望むようになるのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 6

人の考えることは真理を代替できない

苦難に耐え、代償を払い、表面上の行動も極めて良好であり、尊敬されて他人に賞讃されている人がいます。こうした表面上の行動は、真理の実践とみなせるとあなたがたは言うでしょうか。このような人は神の心意を満たしていると言えますか。このような人を見ると、神を満足させている、真理を実践する道を歩んでいる、神の道を歩んでいると人がいつも考えるのはなぜですか。このように考える人がいるのはなぜですか。これを説明する方法はひとつしかありません。それはどのような説明ですか。それは、多くの人にとって、真理の実践とは何か、神を満足させるとはどのようなことか、真理現実を真に自分のものにするとは何を意味するのか、といった疑問があまり明瞭でないということです。そうしたわけで、表面上は霊的で高貴で高尚で偉大に見える人によく惑わされる人がいるのです。惑わされる人は、字句や教義について雄弁に語ることができる人や言動が賞讃に値するように見える人の行動の本質や背後にある原則や、彼らの目的が何なのかを検討したことがありません。また、彼らが真に神に服従しているかを検討したことも、彼らが真に神を畏れ、悪を避けるかも不明なままです。惑わされる人は、彼らの人間性実質を見極めていないのです。むしろ、最初の出会いから、徐々に彼らを賞讃、崇敬するようになり、最終的には、惑わされる人にとっての偶像になります。さらに、一部の人は、自分が崇拝する偶像は、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことができる人で、真に神を満足させており、好ましい結末と終着点に到達できる人であると信じているのです。こうした人の考えでは、これらの偶像こそが神が賞讃する人なのです。人がこのように考える原因は何ですか。この問題の本質は何ですか。この問題はどのような結末を引き起こす可能性がありますか。まず、この問題の本質について話し合いましょう。

基本的に、人の観点、実践の方法、人がどのような実践の原則を選択するかという問題、何を強調する傾向にあるかという問題は、神の人類への要求とは無関係です。人が重要視する問題が浅薄であるか深遠であるか、字句や教義であるか現実であるかにかかわらず、人は最も遵守すべきことを遵守せず、最も知るべきことを知りません。その理由は、人が真理をまったく好まないからです。したがって、神の言葉にある実践の原則を探して実践するために人は時間や労力を費やすことを望みません。むしろ、近道をし、理解し、知っていることをまとめて、良い実践やふるまいとすることを望みます。この「まとめ」が人の目標となり、実践すべき真理となります。このことの直接的な成り行きは、真理を実践する代替として良いふるまいを用いることであり、それは神の機嫌を取りたいという人の欲望も満たします。これにより、人は真理に対抗し、神を説得し神と競争するのに用いる資本を得ます。それと同時に、人は無節操に神を脇へやり、自分が崇拝する偶像を代わりに据え付けます。人がこうした無知な行動や見方を取り、一面的な意見と実践を採用する根本原因はひとつしかありません。今日は、あなたがたにこのことについて話します。その理由は、神に付き従い、日々神に祈り、神の言葉を読んでいても、実際には人は神の心意を理解していないからです。このことが問題の根源です。もし人が神の心を理解し、神が何を好み何を嫌悪するか、神が何を欲し何を拒むか、神がどのような人間を愛し嫌うか、人間への要求をするときに神がどのような基準を適用するか、神が人間を完全にするのにどのような方法を取るかを知っていたならば、それでもなお人は自分の個人的な考えを持つことができますか。ただ別の誰かを崇拝できますか。普通の人間が人の偶像となり得ますか。神の心意を理解している人は、それよりはもう少し理にかなった観点をもっています。堕落した人間を自分の判断で偶像化することはなく、また真理を実践する道を進みながら、僅かな簡単な規則や原則を盲目的に遵守することが真理を実践することであるとは考えません。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 7

神が人間の結末を決定する基準については、多数の意見がある

人間の誰もが関心があるのが自分の結末ですが、あなたがたは神がどのように結末を決めるのか知っていますか。神はどのように人間の結末を決めるのですか。また、神はどのような基準を適用して人間の結末を決めるのですか。人間の結末がまだ決まっていないとき、神は何をしてそれを明らかにしますか。誰か知っていますか。先に述べた通り、神の言葉をすでに長年にわたり研究して、人々の結末や、結末が分類される種別、人々の種類別に待ち受ける様々な結末に関する手がかりを見つけようとしている人たちがいます。彼らは、神の言葉がどのように人間の結末を決めるのか、神はどのような基準を適用するのか、神はどのようなやり方で人間の結末を決めるのかも知りたいと考えています。しかし、彼らは結局何の答えも見つけられません。事実、神の言葉には、そのようなことを論じているものはほとんどありません。それはなぜですか。人間の結末が明らかにされていない限り、神は最後に何が起こるかを誰かに伝えることも、誰かにその終着点を事前に知らせることも望まないのです。そのようなことをしても、人間にとって何ら恩恵がないからです。今ここでは、神がどのように人間の結末を決定するか、人間の結末を決定し明らかにする働きにおいて神が適用する原則、誰かが生き残れるか否かを決定するために神が適用する基準についてだけ話したいと思います。これらは、あなたがたが最も懸念している問題ではありませんか。それでは、どのように神が人間の結末を決定すると信じていますか。これについては、つい先ほどあなたがたは少し述べていました。自分の本分を誠実に尽くして神のために努力することに関係があると言った人がいました。神に服従し、神に満足してもらうことであると言った人もいました。神の意のままになることが関係すると言った人も、目立たなくしていることが肝心であると言った人もいました……。あなたがたがそうした真理を実践するとき、自分が正しいと信じる原則に従って実践するとき、神がどう思うかをあなたがたは知っていますか。そのように続けることで、神の心意が満足されるかどうか、それは神の基準に応じるかどうか、神の要求に応じるかどうかを考えたことがありますか。大部分の人はそのようなことを真剣に考えないと思います。大抵は神の言葉の一部か説教の一部、あるいは自分が偶像化する霊的人物の基準を機械的に適用し、あれこれと自分自身を強制するだけです。それが正しいやり方であると考え、結局どうなるかにかかわらず、そのように実践し続けるだけです。「長年信じてきて、常にそのように実践してきた。自分は神を本当に満足させ、また自分も得るところが多かったと感じる。なぜなら、このあいだに、多くの真理や前にはわからなかった多くのことが分かるようになったから。特に、自分の考えや観点の多くが変わり、人生の価値観も大きく変わり、今ではこの世についてかなりよく理解している」と考える人がいます。こういう人は、それが収穫であり、それが人類に対する神の働きの最終結果であると考えます。あなたがたは、そうした基準と自分の実践すべてを一緒にして、神の心意を満たしていると考えますか。確信を持って「もちろん。わたしたちは神の言葉に従って実践し、上層部が説教し、伝えた通りに実践している。常に自分の本分を尽くし、神に付き従い、神から離れたことは一度もない。だから、完全なる確信を持って神を満足させていると言える。神の心意をどの程度理解し、神の言葉をどの程度理解しているかにかかわらず、神と融和することを求める道を常に歩んで来た。正しく行動し、正しく実践していれば、正しい結果が得られるのは確実だ」という人もいるでしょう。こうした観点についてどう思いますか。これは正しいですか。「そのようなことはこれまで考えたことがない。ひたすら自分の本分を尽くし、神の言葉にある要求に従って行動していれば、自分は生き残れるとだけ考えている。神の心を満足させられるかといった問題や、神が設定した基準に達しているかどうかについては今まで考えたことがない。神から何か言われたり、明確な指示を与えられたりしたことがないので、わたしが働き続けて止まらない限り、神は満足し、わたしにそれ以上のことを求めないはずだ」と言う人もいるかもしれません。こうした考えは正しいですか。わたしに関する限り、こうした実践方法や思考方法、観点はすべて空想的であり、多少盲目的です。わたしがこう述べると、多少落胆して「盲目的とは、どういうことか。これが『盲目的』ならば、わたしたちの救いや生き残りへの望みは少なく、不確実になるのではないか。そのような言い方をして、わたしたちに冷水を浴びせているのではないか」と考える人もいるでしょう。あなたがたが何を信じようと、わたしは自分の言動であなたがたに冷水を浴びせるような意図はありません。むしろ、神の心意に関するあなたがたの理解を向上させ、神が何を考え、何を達成したいのか、神はどのような人間を好み、何を憎み、何を嫌悪し、どのような人間を自身のものとしたいと思っているのか、どのような人間を拒否するかを、あなたがたがよりよく認識できるようにすることを意図しています。それは、あなたがたの心を明瞭にして、各人の行動や思いが神が要求する基準からどれほど離れてしまっているかを、あなたがたにはっきり理解させることを意図しています。こうした事柄について話す必要がありますか。なぜなら、あなたがたは長いあいだ信仰してきて、多くの説教を聴いてきたことをわたしは知っていますが、あなたがたにはこのようなことが最も不足しているからです。あなたがたは、あらゆる真理をノートに書き記し、各自が重要であると思ったことの幾つかを記憶し心に刻み付けてきました。また、実践中に神を満足させるためや、必要なとき、将来の困難な時期を乗り切るためにそれを使うつもりであり、あるいは単に、そうした事柄を人生の道連れにするつもりでしょう。しかしわたしに言わせれば、あなたがたがどのように実践しようと、ただ実践するのであれば、それはあまり重要ではないのです。では、何が重要ですか。それは、実践しているときにしていること、行ないのひとつひとつが神の望むことであるかどうか、行動や思いのすべて、達成したい成果と目標が実際に神の心意を満足させ、神の要求に応じ、また神に認められるものであるかどうかについて、心の奥深くで絶対的に確信を持つことです。重要なのは、こういうことです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 8

神の道を歩め――神を畏れ、悪を避けよ

心に留めるべき格言があります。この格言はとても重要だと思います。なぜなら、この格言を毎日何度も思い出すからです。なぜですか。それは、誰かと面と向かうたびに、誰かの話を聞くたびに、誰かの経験談や神への信仰の証しを聞くたびに、わたしはいつもこの格言を用いて、その人が神が求め、好むような人であるか否かを心の中で決めるからです。では、その格言とは何でしょうか。今、あなたがたはみな身を乗り出しています。わたしが格言が何であるかを明かすと、あなたがたはおそらく落胆するでしょう。なぜなら、何年間もこの格言を口先だけで言う人がいたからです。しかし、わたしは口先だけでこの格言を言ったことなど決してありません。この格言はわたしの心の中にあります。では、その格言とは何でしょうか。それは「神の道を歩め――神を畏れ、悪を避けよ」です。これはあまりにも簡潔な言葉ではありませんか。簡潔でありながらも、この格言を深く理解する人は、それには非常に重みがあり、実践にとって価値が高く、真理現実があるいのちの言葉であり、神を満足させることを追い求める人にとっての生涯の目標であり、神の心意を配慮する人が従うべき生涯の道である、と感じます。あなたがたはどう思いますか。この格言は真理ではないのですか。それほどの重要性がありますか。ありませんか。おそらく、この格言について考えて理解しようとしている人と、疑念さえ抱く人がいるでしょう。この格言はとても重要ですか。重要ですか。それほど強調する必要がありますか。神の道をこの格言一つに集約するというのは簡略化しすぎであると考えるため、この格言がそれほど好きではない人もあなたがたの中にいるかもしれません。神の言葉すべてを一格言に凝縮するのは、神を軽視しすぎではないでしょうか。これは、そういう話ですか。あなたがたのほとんどがこの言葉の深い意義を完全に理解していないかも知れません。あなたがたはみな、この格言を書き留めましたが、心に留めるつもりはないのです。単にノートに書き留めて、時間があるときに読み返すつもりなだけです。記憶しようなどと思わない人さえいて、活用しようと努める人などなおさらいません。ではなぜわたしはこの格言について話しているのですか。あなたがたの観点や、あなたがた考えることが何であれ、わたしにはこの格言に触れる必要があります。なぜなら、この格言は神がどのように人間の結末を決定するかに極めて密接に関係しているからです。あなたがたが現在この格言をどのように理解し、扱おうと、あなたがたにこれを伝えます。この格言を実践して経験し、神を畏れ悪を避ける基準を満たすことができれば、その人は確実に生き残り、好ましい結末にたどり着きます。一方、この格言が定める基準を満たせなければ、結末は不明であると言うことができます。したがって、あなたがたの心の準備として、また神があなたがたを評価する基準がわかるように、この格言について話します。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 9

神は様々な試練を使い、人間が神を畏れ悪を避けているか否かを試す

神の働きのどの時代においても、神は人間に言葉を授け、なんらかの真理を伝えます。こうした真理は、人間が守るべき道、歩くべき道、神を畏れ悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路において実践し遵守すべき道として機能します。これが神が言葉を与える理由です。神に由来する言葉を人間は守るべきであり、それを守ることはいのちを授かることです。神の言葉を守らず、実行せず、生活において神の言葉を生きなければ、その人は真理を実行していません。そして、真理を実行していなければ、人間は神を畏れ悪を避けておらず、神を満足させることもできません。神を満足させることのできない人は、神の賞賛を得られず、そのような人には良い結末がありません。それでは、神はその働きにおいて、どのように人間の結末を決めるのですか。人間の結末を決めるのに神はどのような方法を使いますか。おそらくあなたがたは、今この問題について明確に理解していないでしょうが、その過程についてわたしが話すと、かなりはっきりします。それは、あなたがたのうち多くの人が既にそれを自ら経験しているからです。

始まりから現在に至るまでの神の働きの過程を通して、神は各人(つまり、神に付き従う一人ひとりと言うことができますが)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々です。自分の家族から拒否される試練を経験した人もいれば、逆境の試練を経験した人、逮捕されて拷問される試練を経験した人、選択を迫られる試練を経験した人、金銭や地位の試練を直面した人もいます。概して、あなたがたそれぞれが、様々な試練を受けたことがあります。神はなぜこのように働くのですか。神はなぜ各人をこのように扱うのですか。神はどのような結果を望んでいるのですか。わたしの話の要点はこれです。すなわち、神はある人が神を畏れ、悪を避けるような人間であるか否かを知りたいのです。これは、神があなたに試練を与え、ある状況にあなたを直面させているとき、神の意図はあなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるか否かを試すことだということを意味します。もし誰かが捧げ物を守るという本分を与えられ、そのため神への捧げ物に接することになった場合、あなたはこれは神の采配であると思いますか。疑いなく、その通りです。あなたが直面するあらゆる物事は神の采配です。あなたがこのようなことに直面しているとき、神はあなたを隠れて観察し、あなたがどのような選択をするか、どのように実践するか、あなたにどのような思いがあるかを見ています。神が最も関心を持つのは、最終的な結果です。なぜなら、その結果により、神はあなたがその試練において神の基準に達したかどうかを評価できるからです。しかし、何かの問題に直面しても、人はなぜその問題に直面しているのか、神は人にどのような基準に達することを求めているのか、人の何を評価したいのか、人から何を得たいのかを考えません。人はただ、「これが現在直面していることだ。不注意にならず、注意しなければ。とにかく、これは神への捧げ物だから、触れてはならない」と考えるだけです。そうした安易な考えで、自分の責任を果たしたと考えているのです。この試練の結果に神は満足するでしょうか。しないでしょうか。意見を述べなさい。(人が神様を心から畏れているなら、神様への捧げ物に触れることのできる本分に直面したとき、神様の性質を侵害するのがどれほど簡単かを考えるので、それで間違いなく注意して取り組むことになります。)その発言は正しい方向にありますが、正解には達していません。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではありません。それは、問題に直面したとき、何よりもまず先に、それを神の采配による状況、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた任務であるとみなすことです。問題に直面したときは、それを神があなたに下した試練であるとすら捉える必要があります。問題に遭遇したとき、あなたの心には基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考えなくてはなりません。神に忠実でありながら、自分の責任を果たせる形でその問題をどう扱うか、また神の怒りを買ったり神の性質を侵害したりせずにそうする方法を考慮する必要があります。つい先ほど、捧げ物を守ることについて話しました。この問題には捧げ物が関係しており、また本分と責任が関係します。あなたには、その責任について任務が課せられています。しかし、この問題に直面したとき、何らかの誘惑がありますか。あります。その誘惑は何に起因しますか。それはサタンに起因しますが、人間の邪悪で堕落した性質にも起因します。誘惑があるので、このことは人が立てるべき証しに立つことが関与します。このこともまた、あなたの責任であり、本分です。「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言う人がいますが、それ以上に必要なことはありません。というのは、神の道を歩むためには、自分の身に起こることや周囲で起こることは、小さいことでもすべてないがしろにはできないからです。何かに注意するべきであると考えるか否かにかかわらず、問題に直面している限り、それを無視するべきではありません。起こることはすべて神からわたしたちに与えられた試練とみなすべきです。こうしたものの見方をどう思いますか。このような態度をとっているなら、それである事実が確認できます。すなわち、心の奥ではあなたは神を畏れていて、悪を避けることを望んでいるということです。あなたに神を満足させたいという願望があるなら、あなたが実行することは神を畏れ、悪を避ける基準からかけ離れていることはありません。

人がそれほど気にかけないこと、通常は話題とならないことは取るに足らない些細なことで、真理を実践することとは無関係であると考える人がよくいます。そうした人がこのような問題に直面すると、あまり考えず放置します。しかし、実際にはそれは学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓なのです。さらに、それ以上に懸念すべきことは、その問題が発生して自分が直面しているとき、神は何をしているかを知ることです。神はあなたのすぐ側にいて、あなたの言動のひとつひとつを観察し、あなたのすることすべて、あなたの思いにどのような変化が起きるかを観察しています。これが神の働きです。「それが本当なら、わたしがそれを感じないのはなぜだろうか」と言う人がいます。あなたが感じたことがないのは、神を畏れ悪を避ける道をあなたにとって第一の道として守っていないからです。そのため、人の様々な思いや行動に従って現れる、神の人間における微妙な働きを感じることができないのです。あなたは注意力散漫です。大きな問題とは何ですか。小さな問題とは何ですか。神の道を歩むことに関する問題に大小の区別はなく、どれも大事なことですが、このことを受け入れられますか。(受け入れられます。)日常の問題に関しては、人間が重大であると捉えることと、些細であるとみなすことがあります。人間はこうした大きな問題を極めて重要と考え、それが神に与えられたと考えます。しかし、こうした大問題が発生するにつれて、未熟な霊的背丈と貧弱な力量のせいで、人はしばしば神の心意に従うことができず、神の啓示や、価値のある実質的な認識がまったく得られないことが往々にしてあります。些細な問題については、人間に無視され、放置されて徐々に意識からなくなります。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃しています。神があなたのために采配したこのような人、出来事、物や状況にいつも気づかないとしたら、それは何を意味しますか。それは、毎日、それどころか瞬間瞬間に、神により完全にされることと神の指揮を放棄していることを意味します。神があなたのために一つの状況を手配するたびに、神はあなたの心、思いや考え、どのように考えるかを密かに観察し、あなたがどのように行動するかを見届けようとしています。あなたが不注意な人、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことがない人であれば、その状況をあなたのために手配したときに神が完全にしたいこと、あなたに要求していることに注意することも、配慮することもありません。また、あなたが遭遇する人、出来事、物が真理や神の心意にどのように関連するかを知ることもありません。このように繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなければ、神は次にどうしますか。何度試練に遭遇しても、あなたの心は神を崇めず、神があなたのために采配した状況を、神からの試練であり試験としてそのまま受け入れていません。その代わり、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃がしています。それは人間の極端なまでの反抗ではありませんか。(その通りです。)神はこれで傷つきませんか。(お傷つきになります。)違います。神は傷つきません。わたしがこう言うのを聞いて、あなたがたは再び驚きました。あなたがたは「神はいつも傷ついていると前に言われたのではなかったか。だから、神は傷つくのではないのか。それでは神はいつ傷つくのか」と考えているかもしれません。いずれにせよ、神はこの状況で傷つくことはありません。それでは、上記のようなふるまいに対して神はどのような態度を取りますか。神が人間に与える試練や試験を人間が拒否するときや、人間がそれらを回避するとき、神が彼らに見せる態度はただ一つです。それは何ですか。神は彼らを心の底から拒絶します。ここでは「拒絶」という言葉には二層の意味があります。わたしの観点から、それをどのように説明するべきでしょうか。この言葉の深層には、嫌悪と憎しみの含意があります。もう一つの層についてはどうでしょうか。もう一つには、何かを諦めることがほのめかされています。あなたがたはみな「諦める」の意味を知っていますね。つまり、「拒絶」とは、そのようなふるまいをする人間に対する神の最終的な反応と態度を意味する言葉です。それは、彼らへの極端な憎しみと嫌悪であり、それゆえに彼らを見捨てるという決断へとつながります。これが、神の道を歩んだことがなく、神を畏れ悪を避けたことがない人に対する神の最終的な判断です。これで、先にわたしが説明した格言の重要性が理解できますか。

これで、人間の結末を決めるのに神が用いる方法を理解できましたか。(神様は毎日、様々な状況を手配なさいます。)神が毎日、様々な状況を手配するというのは、人が感じ、触れることができるものです。では、そのようなことをする神の動機は何ですか。それは、各人にそれぞれ異なる時間と場所で様々な試練を与えることです。試練では、人間のどの側面が試されますか。試練は、遭遇し、聞き、見、個人的に経験するあらゆる問題において、あなたが神を畏れ悪を避けるような人であるかどうかを決めます。誰もがこうした試練を経験します。なぜなら、神は万人に対して平等だからです。「わたしは長年にわたって神を信仰しているが、なぜ試練に一度も遭遇していないのだろうか」と言う人がいます。あなたが試練に遭遇したことがないと感じるのは、あなたのために神が状況を手配するたびに、あなたはそれを真剣に捉えず、神の道を歩きたくなかったからです。そうしたわけで、あなたが神の試練に気付かなかっただけです。また、「数回の試練に遭遇したが、どのように適切に実践するべきかわからない。実践しても、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、いまだにわからない」と言う人もいます。こうした状況にある人は少なくありません。それでは、神が人間を評価する基準は何ですか。それは先ほど述べた通りです。すなわち、すること、考えること、表現することすべてにおいて、神を畏れ悪を避けるか否かです。これが、あなたが神を畏れ悪を避ける人間であるか否かを判断する方法です。この概念は簡素ですか。簡素ではありませんか。言うのは簡単ですが、実践するのは簡単ですか。(あまり簡単ではありません。)それはなぜですか。(人間は神様を知らず、神様が人間を完全にしてくださる方法を知らないので、物事に対処するときに、問題解決のために真理を求める方法を知らないからです。人間が神様を畏れることの現実性を自分のものにできるまでには、様々な試練、精錬、刑罰、裁きを経験しなければなりません。)あなたがたはそういう言い方をするかもしれませんが、あなたがたに関する限り、神を畏れ悪を避けることはとても簡単で今すぐできそうです。わたしはなぜこう言うのですか。それは、あなたがたは多くの説教を聞き、真理現実からの水やりをかなり受け取っているからです。これにより、あなたがたは、神を畏れ悪を避ける方法を理論的、知的には理解することができているからです。神を畏れ、悪を避けることを実践することに関しては、この知識は極めて効果的であり、このようなことは容易に実行可能だとあなたがたに感じさせます。それでは、なぜ人は実際にはできないのですか。それは、人間の本性実質が神を畏れず、悪を好むからです。それが本当の理由です。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 10

神を畏れず悪を避けないことは、神への反逆

まず、「神を畏れ、悪を避ける」という格言の由来をあなたがたに尋ねます。(ヨブ記です。)ヨブが言及されたので、ヨブについて話しましょう。ヨブの時代に、神は人間を救い征服するために働いていましたか。働いていませんでした。違いますか。さらに、ヨブは当時、神のことをどの程度認識していましたか。(あまり認識していませんでした。)神に関するヨブの認識は、今のあなたがたより多かったですか、少なかったですか。どうして答えようとしないのですか。これは答えるのが簡単な質問です。少なかったのです。それは確かです。現在、あなたがたは神と神の言葉と面と向かっています。あなたがたの方が神については、ヨブよりも遥かによく認識しています。なぜわたしはこのことを取り上げるのですか。わたしがこのようなことを言う目的は何ですか。わたしはあなたがたにある事実を説明したいのですが、その前に質問があります。ヨブは神のことをほとんど知りませんでしたが、それでも神を畏れ悪を避けることができました。それでは、現在の人間にそれができないのはなぜですか。(深く堕落しているからです。)深く堕落していることは、問題を起こしている表面的な現象ですが、わたしはそのことを決してそのようには見ません。あなたがたは、「深い堕落」や「神への反逆」「神に対する不誠実」「不従順」「真理を愛していない」など、一般によく言われる教義や字句をしばしば取り上げて、それらの決まり文句を使ってすべての問題の本質を説明しようとします。これは誤った実践の仕方です。性質が異なる様々な問題を説明するのに同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いを生じさせます。わたしは、そのような回答を聞きたくありません。このことをじっくり考えなさい。あなたがたのうち誰もこの問題を考えたことがありませんが、わたしにはそれが毎日見え、感じられます。あなたがたが行動するあいだ、わたしは見ているのです。何かをしているとき、あなたがたにはその本質を感じることはできません。しかし、わたしが見ると、わたしには本質が見え、感じることができます。その本質とは何ですか。なぜ現在の人は、神を畏れ悪を避けることができないのですか。あなたがたの回答では、この質問の本質を説明することは到底できず、問題の本質を解決することもできません。なぜなら、問題にはあなたがたが知らない根源があるからです。その根源とは何ですか。あなたがたがそれについて聞きたいことはわかっていますので、この問題の根源について話します。

神が働きを開始して以来、神は人間をどのように見なしてきましたか。神は人間を救済しました。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の働きの対象、征服し救いたい存在、完全にしたい対象と見なしました。神が働きを始めた当時の神の人間への態度は、このようなものでした。しかし、当時の人間の神への態度はどうでしたか。神は人間にとって疎遠で、人間は神を見知らぬものとみなしました。人間の神に対する態度は正しい成果を得られず、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言うことができます。そこで、人間は神を自分の好きなように扱い、好きなことを行ないました。人間には神について意見がありましたか。当初は、ありませんでした。人間が意見と呼んでいたものは、単に神に関する観念や思い込みでした。人間は自分の観念に当てはまるものを受け入れ、観念に該当しないものについては、表面上は従ったものの、心の奥では強く反感を抱き、反対しました。これが当初の人間と神の関係でした。つまり、神は人間を家族とみなしましたが、人間は神を見知らぬ存在として扱ったのです。しかし、一定期間にわたる神の働きの後、人間は神が何を実現しようとしているのかを理解するようになり、神が真の神であることを知りました。また、神から何を得ることができるかも、人間にはわかるようになりました。当時、人間は神をどのようにみなしていましたか。人間は神を命綱とみなし、神の恵みと祝福、約束を得ることを願っていました。その頃、神は人間をどのようにみなしていましたか。神は人間を征服対象と見なしていました。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望みました。しかし、この時点の人間にとっては、神は自分の目標を達成するために利用できるものでした。人間は、神が告知した真理は人間を征服し救えること、そして人間には神から自分が受け取りたいもの、自分が欲する終着点を得る機会があることを知りました。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、この神に付き従ってもよいと思うようになりました。しばらくして、神に関する表面的な教義上の知識を得たため、人間は次第に神と、神の語る言葉、神の教え、神が与えた真理、神の業に徐々に「馴染んで」いったと言えます。したがって、神が見知らぬ存在ではなくなり、神と融和するようになる道を人間はすでに歩み始めた、と誤解するようになりました。現在まで、人間は真理に関する説教を数多く聴き、神の働きを数多く体験してきました。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の人はうまく真理を実践することも、神を満足させることもできません。人間は益々怠惰になり、自信を喪失しています。自分の結末が不明であるという感覚が強まるのを感じています。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしません。不本意ながら付き従い、一歩ずつ前進するだけです。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度はどのようなものですか。神はただそうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意したいだけなのです。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ悪を避けることができるような結末をもたらすことです。わたしが見てきた大部分の人は、神の言葉を単に教義、字句、従うべき規則とみなしているだけです。言動において、あるいは試練に直面しているとき、このような人は神の道を遵守すべき唯一の道とみなしません。人間が大きな試練に直面したときは、特にそうです。そのようなときに神を畏れ、悪を避ける方向で実践している人をわたしは見たことがありません。そのため、神の人間に対する態度は、激しい嫌悪と反感に満ちているのです。神が人間に繰り返し、時には数百回にわたって試練を与えても、「わたしは神を畏れ、悪を避けたい」という決意を証明する明らかな姿勢が人間には見られません。人間にはこの決意が欠けており、またそのような意思表示をしないので、神の人間に対する現在の態度は、神が憐れみや寛容、忍耐や我慢を示していた過去の姿勢と同じではありません。むしろ、神は人間に極めて深く落胆しています。こうした落胆の原因となるのは、誰ですか。神の人間への態度を左右するのは誰ですか。それは、神に付き従う一人ひとりの人間です。長年におよぶ働きのなかで、神は人間に数多くのことを要求し、人間のために様々な状況を手配してきました。しかし、人間が何をし、神にどのような態度を取るにせよ、神を畏れ悪を避けるという目標に明白に従って実践できていません。したがって、あるまとめの文章を挙げて、その文章を用いて、これまで話した、なぜ人間は神を畏れ悪を避けるという神の道を歩むことができないのか、ということについてすべて説明します。その文章はどのようなものですか。それは、これです。「神は人間を神の救いの対象、神の働きの対象とみなす。人間は神を自分の敵、正反対のものとみなす」。今では、これについて明確に理解していますか。人間の態度とは、神の態度とは、人間と神の関係とは何かは、極めて明瞭です。どれほど数多くの説教を聴いたとしても、あなたがたが自分で結論付けたこと、すなわち神に忠実であること、神に従うこと、神と融和する道を求めること、生涯を神のために捧げようとすること、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むこと、つまり神を畏れ悪を避けることの具体例ではなく、あなたがたが特定の目的を達成することができる道筋にすぎません。目的を達成するために、あなたがたは不本意ながら規則に従うのです。そして、まさにこのような規則こそが、神を畏れ悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を人類に反対する立場に再び置くのです。

今日の話題は、多少重いですが、どのようなものであれ、今後の経験において、わたしがたった今述べたことをあなたがたが実行できることを願っています。神を空気のように、自分に都合の良いときだけ存在し、それ以外のときは存在しないもののようにみなしてはなりません。ひとたび意識下にそのような思いを持つと、すでに神を激怒させているのです。おそらく「神を空気とみなしたことはないし、常に神に祈り、神を満足させようとしている。自分の行動はすべて神の要求する範囲、基準、原則に該当する。独自の考えで実践していないのは絶対だ」と言う人がいるかも知れません。確かに、この実践方法は正しいです。しかし、何らかの問題に直面したとき、どう思いますか。問題に直面したら、どのように実行しますか。神に祈り、願い事をしているときには神の存在を感じるけれど、問題に直面するたびに、自分の考えを持ち、それに固執したがる人がいます。これは、神を空気のような存在とみなすことで、こうした状況では神は人の考えでは存在しなくなります。人間は、神は自分が必要なときに存在すべきで、不要なときは存在すべきでないと、自分の考えに従って実践すれば、それで十分であると考えます。自分の好きなように何でもできると考えているのです。神の道を求める必要があるとは、どうしても考えないのです。現在こうした状況になり、こうした状態から出られなくなっている人は、危険を自ら招いているのではありませんか。「危険を自ら招いていようといまいと、自分は長年にわたり信仰を続けてきたし、神に見捨てられることはないと思う。なぜなら、わたしを見捨てることなど神には耐えられないので」と言う人がいます。また、「自分が母親の胎内にいたときから、通算四十から五十年間、主を信じてきた。時間に関して言えば、神に救われ、生き残る資格が最もある。この四、五十年間に、家族も仕事も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていたものすべてを捨てた。贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこちおもしろい場所を訪ねたこともない。しかも、普通の人には耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神がわたしを救えないとしたら、わたしは不当に扱われていることになり、そのような神は信じられない」と言う人もいます。このような考え方の人は多くいますか。(はい。)それでは、今日、あなたがたがある事実を理解できるようにしてあげます。こうした考え方の人はみな、自分の首を絞めるようなことをしているのです。なぜなら、想像で自分の目を覆っているからです。まさに人間の想像、人間による勝手な結論が、神が人間に満たすことを要求する基準に取って代わり、神の真の心意を受け入れるのを阻害しています。それにより、人間は神の真の存在を感じられないようになり、神に完全にされる機会を喪失し、神の約束にあずかることも関与することもできなくなるのです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 11

神が人間の結末を決定する方法とその基準

なんらかの意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたへの態度と神が何を考えているのかを理解するべきです。その後に自分自身の考えが正しいか否かを判断すればよいのです。誰かの結末を決定するのに、神は時間を評価の単位として用いたり、その人がどれほど苦しんだかに基づいて決めたりしたことはありません。それでは、人間の結末を決めるのに、神は何を基準として用いますか。時間に基づいて決めるというのが、人間の観念に最も合うのでしょう。また、ある時点で大いに献身し、多くを費やし、多くの代償を払い、多くの苦難を経験した人をあなたがたはよく目にします。あなたがたから見れば、彼らは神に救われることのできる人です。彼らの示すものや生き方のすべては、人間の観念において神が人間の結末を決定するのに用いる基準そのものです。あなたがたが何を信じようと、わたしはこうした例をひとつひとつ挙げません。要するに、神自身の考え方による基準でないものは、人間の想像に由来し、それはすべて人間の観念です。自分自身の観念や想像に盲目的に固執すると、結果はどうなります。その結果、あなたが神に拒まれることは明白です。その理由は、あなたは常に自分の資格を神に誇示し、神と競い、神と論争するばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の心意や人類への態度も真に理解しようとしないからです。このように続けることは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重することです。あなたは自分自身を信じ、神を信じていません。神はそのような人間を望まず、そのような人を救うこともありません。もしも、こうした観点を捨てることができ、さらに、過去にもっていた誤った観点を改めることができ、神の要求に従って進むことができたならば、そしてその時点から神を畏れ悪を避ける道を実践し、神を万物の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義するのに自分の個人的想像や観点、考えを用いることなく、その代わりに、あらゆる面において神の心意を探求し、神の人類への態度に気づき、理解し、神の基準を満たすことで神を満足させられるならば、それは素晴らしいことです。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味します。

人間の結末を決定するのに、人間の様々な思いや考え、観点を基準として神が用いないとすれば、どのような基準を用いるのですか。神は試練を使って人間の結末を決定します。試練により人間の結末を決定するのに、基準は二つあります。第一の基準は人間が経験する試練の数であり、第二はその試練により人間に現れる成果です。これら二基準が、人間の結末を決める指標です。では、この二基準を詳しく述べましょう。

まず、人が神からの試練に直面するとき(言うまでもありませんが、この試練はあなたにとって小さいものでしょう)、神はその人に、神の手がその人に置かれていること、その状況をその人のために手配したのが神であることを、明白に認識させます。あなたの霊的背丈がまだ未熟なら、神はあなたを試すために試練を手配し、その試練はあなたの背丈に応じたもので、あなたが理解でき、耐えられるものです。あなたのどの部分が試されますか。それは、神へのあなたの態度です。この姿勢はとても重要ですか。当然ながら重要です。極めて重要です。この人間の態度が神の望む成果ですから、神に関する限り、最も重要なものです。さもなければ、神がこのような働きのために人間に努力を費やさないでしょう。試練により、神に対するあなたの態度を神は見たいのです。あなたが正しい道を歩んでいるか否か、あなたが神を畏れ悪を避けているか否かを見たいのです。したがって、ある時点に真理をどれほど理解していようと、あなたはそれでも神の試練に直面し、あなたの真理への理解が増えるのに合わせて、神はあなたのために引き続き試練を手配します。あなたが再び試練に直面したとき、神はあなたの観点や考え、神に対する態度が前回から成長したかを見たいのです。「なぜ神は常に人間の態度を見たいのか。人間が真理をどのように実践するかを、神はすでに見たのではないのか。それでもなお、神はなぜ人間の態度を見たいのか」と思う人がいます。これは無思慮な戯言です。神がこのように働くということは、そこには神の心意があるのです。神は常に人間をそばから観察し、人間の言動のひとつひとつ、一挙手一投足を見ています。人間の思いや考えさえもすべて見ています。人間の善行や誤り、過ち、そして反逆や裏切りさえも、人間に起こるあらゆることに注目し、人間の結末を決めるための証拠とします。一歩ずつ、神の働きが高まるにつれ、あなたはさらに多くの真理を聞き、肯定的なものや情報をさらに受け入れ、真理の現実性をさらに得ます。この過程において、神の人間に対する要求もまた増加しますが、それと同時に、神はあなたのためにさらに深刻な試練を手配します。神の目的は、あなたの神への態度がその間に進歩したかどうかを調べることです。もちろん、これが起こるとき、神があなたに要求する観点は、あなたの真理現実の理解に符合します。

あなたの霊的背丈が徐々に伸びるにつれ、神があなたに要求する基準も高くなります。あなたが未熟なうちは、神はあなたにとても低い基準を満たすように設定し、背丈が少し伸びると、神は基準を少し高くします。では、あなたがあらゆる真理を理解したとき、神はどうするでしょうか。神はあなたをさらに大きな試練に直面させます。これらの試練で神があなたから得たいもの、あなたにおいて見たいものは、あなたの神についての認識が深化していることと、神への真の畏れです。このとき、神のあなたに対する要求は、背丈が未熟だった頃よりも高く、「厳しく」なります(人間はそれを厳しいと捉えますが、神はそれを妥当とみなします)。人間を試しているとき、神はどのような現実を造りたいのですか。神は人間が心を神に捧げることを常に求めています。「どのようにして心を捧げるのか。わたしは本分を尽くした。家も生活も捨て、神のため費やしている。これはどれも心を神に与えたことの具体例ではないか。ほかに、どのようにして心を神に捧げられるのか。そうしたことは実は心を神に捧げることではなかったというのか。神の具体的な要求とは何なのか」と言う人がいます。その要求はいたって簡潔です。事実、試練の様々な段階において、程度は違えど、すでに神に心を捧げた人がいます。しかし、大部分の人は決して神に心を捧げません。神があなたを試すとき、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを見ています。神があなたに試練を与えるとき、神はあなたが神に敵対しているか否か、神と融和しているか否か、あなたの心が神と同じ側にあるか否かを見ています。未熟で試練に直面していて、神への信仰心が小さいと、神の心意を満足させるにはどうするべきか、正確にはわかりません。真理の認識が不十分だからです。それでもなお、心から誠実に神に祈り、率先して神に心を渡し、神をあなたの主とし、最も貴重だと思うものをすべて神に捧げることができれば、あなたはすでに心を神に捧げています。あなたが一層多くの説教を聴き、真理をさらに理解するようになるにつれて、あなたの霊的背丈は次第に伸びます。このとき、神の要求する基準は、あなたが未熟だったときとは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求します。人間の心が神に次第に捧げられるについて、その心は次第に神へと近づいていきます。人間が真に神のもとへ近づくにつれて、人間の心はさらに神を畏れます。神が欲しいのは、このような心です。

誰かの心を手に入れたいとき、神はその人に無数の試練を経験させます。試練の最中に、神がこの人の心を手に入れず、その人が何らかの態度があることを確認できない、すなわち、その人が神への畏れを示すように実践し、ふるまうのを見ることがなく、またその人に悪を避ける態度や決意を見なかったならば、幾つもの試練の後、神のこの人への忍耐はなくなり、その人をこれ以上容赦しなくなります。神はその人をこれ以上試すことはなくなり、その人に働きを行ないません。では、それはこの人の結末について何を意味しますか。その人には結末がないことを意味します。この人は悪業を働いたことがないかもしれません。破壊的なことをしたり何かを妨害したりしたことがないかもしれません。公然と神に反抗したこともないかもしれません。しかし、この人の心は神から隠されたままです。神に対して明確な態度や観点を持ったことがなく、その人の心が神に捧げられたことや、その人が神を畏れ悪を避けるようとしていることが神に明確に見えません。神はこのような人への忍耐を失くし、その人のために代償を払わなくなり、その人に余計に憐れみをかけることがなくなり、その人に働かなくなります。このような人の神への信仰生活はすでに終わっています。なぜなら、神がその人に与えた数々の試練から神は望み通りの結果を得なかったからです。このように、聖霊に啓かれ、照らされていることがわたしには確認できなかった人が多数います。どうすればそれが確認できるのですか。このような人は長年にわたって神を信仰してきており、表面的には活発であったかもしれません。多くの書物を読み、多くの事柄に対処し、十冊以上のノートに書き込み、大量の字句や教義を習得してきたかもしれません。しかし、その人にはまったく成長が見られず、神への観点も態度も不明瞭なままです。つまり、心が見えないのです。心は常に包み隠され、封じ込められています。神に対して閉じられているのです。そのため、神はその人の真の心を見たことがなく、その人における神への真の畏れ、さらには、その人がどのように神の道を歩むかも見たことがありません。神がそうした人を今までに得られなかったとしたら、将来に得られますか。得られません。神は得られないものを得ようとひたすら努力しますか。しません。それでは、そうした人に神は現在どのような態度を取っていますか。(神様はその人を拒絶し、無視なさいます。)神はその人を無視します。神はそのような人を気に留めず、拒絶します。あなたがたはこの言葉を迅速かつ正確に記憶しました。聞いたことを理解したようです。

神に付き従い始めたときに未熟で無知であり、神の心意を理解しておらず、神を信仰するということが何かを知らない人がいます。このような人は、神を信仰し神に付き従う方法として、人間が考案した誤った方法を採ります。試練に遭遇しても、それに気付かず、神による導きと啓きに鈍感なままです。自分の心を神に捧げることや、試練にしっかり耐えるということが何を意味するのかを知りません。神はこのような人に限られた時間を与え、そのあいだに、神の試練とは何か、また神の意図は何かを理解させます。その後、その人は自分の考え方を表明しなければなりません。この段階にある人を、神は待っているのです。では、何らかの観点をもちながらいまだにためらい、神に心を捧げたいが十分納得していないためにそうすることができず、基本的な真理を実践してきたものの、大きな試練に遭遇すると、隠れて諦めようとする人について、神の態度はどのようなものですか。神は、このような人に依然として一抹の期待をかけていて、結果はその人の態度と行動に左右されます。もし人が精力的に進歩していなければ、神はどうしますか。神はその人のことを諦めます。なぜなら、神があなたを諦める前に、すでにあなたが自分のことを諦めているからです。したがって、神がこうすることを咎めることはできません。あなたが神に不満を抱くのは間違いです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 12

神に付き従うとき、人間はめったに神の心意や、神の思いや神の人間に対する態度に留意しないということです。人間は神の思いを理解していないので、神の意図や性質について質問をされると、混乱します。深い不信に陥り、推測したり予想したりするのです。これはどういう姿勢ですか。それは、神を信仰する大部分の人は、神を中身のない空気のようなもの、ある瞬間には存在しているが、次の瞬間には存在していないようなものとみなしているという事実を証明しています。なぜわたしはこのように表現するのですか。それは、問題に遭遇するたびに、あなたがたは神の心意を知らないからです。なぜ神の心意を知らないのです。現在知らないだけでなく、最初から最後まで、この問題に対する神の態度を知りません。神の姿勢が見えず、わからないのですが、それについてしっかり考えたことがあるのですか。知ろうとしたことがあるのですか。それについて話し合ったことがあるのですか。ありません。これにより、あなたが信仰する神と、現実の神とは無関係であるという事実が裏付けられます。神への信仰において、あなたは自分や自分の指導者の意図しか考えず、神の言葉の表面的かつ教義的な意味しか考えず、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることはありません。これが現状ではありませんか。この問題の本質はかなり酷いです。長年にわたり、わたしは神を信じる大勢の人と会ってきました。彼らはその信仰ゆえに、頭の中で神をどのように変えてしまいましたか。神を中身のない空気のような存在として信仰する人がいます。彼らは、神の存在に関する疑問に答えられません。なぜなら、神の存在も不在も感じることも意識することもできず、ましてやはっきりと見ることも理解することもできないからです。意識下では、神は存在しないと考えているのです。一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人もいます。彼らは、自分たちにできないことは神にもできず、神は自分たちと同様に考えているに違いない、と信じています。彼らによる神の定義は「目に見えず、触れることのできない人」です。操り人形であるかのように神を信仰する人もいます。彼らは、神には感情がなく、神は粘土の彫像であり、問題に直面しても、神にはどのような態度も、観点も思想もなく、人間の思うままであると信じています。人間は単に自分の好き勝手に信仰しているだけです。人が神を偉大にすれば、神は偉大であり、小さくすれば、神は小さくなります。人間が罪を犯して神の憐れみや寛容、愛が必要なとき、神は慈しみを与えなくてはなりません。人は自分の頭の中に「神」を作り、その神に自分の要求や願望をすべて満たさせます。時や場所、人が何をしているかを問わず、自分の妄想を、神の扱いや神への信仰にあてはめます。自分で神の性質を侵害しておきながらも、神は自分を救うことができるとそれでも信じている人さえいます。その人が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていないと思い込んでいるからです。人間の欠点や過ち、不従順は、人の性質の一時的な表面化で、神は人に機会を与え、寛容で辛抱強いと信じているのです。神は今まで同様、人を愛すると信じています。したがって、救いへの希望は大いにもっています。事実、人が神をどのように信じようと、真理を追い求めていない限り、神はその人に否定的態度を取ります。それは、神への信仰において、神の言葉が記された本を手に取り、それを宝とみなし、毎日読んで勉強して、真の神を無視しているからです。神をただの空気や普通の人間とみなし、人によっては操り人形のようにみなしているからです。なぜわたしはこのように表現するのですか。それは、わたしの見る限り、あなたがたが問題に遭遇しようと、難しい状況に直面しようと、あなたの意識下にあり、内部に形成されるものは、神の言葉や真理の追求と一切関係がないからです。あなたが知っているのは、自分が何を考えているか、自分の観点は何かであり、自分の考えや観点を神に強制しているのです。人の考えでは、それが神の観点となり、そうした観点を自分が絶対に守る基準とするのです。このまま行くと、時間と共に、あなたは神からどんどん遠ざかって行きます。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 13

神の態度を理解し、神に関する誤解をすべて取り除け

あなたがたが現在信仰している神は、どのような神ですか。このことを考えたことがありますか。神が邪悪な人が邪悪なことをしているのを見ると、神はそれを嫌悪しますか。(はい。嫌悪されます。)無知な人が過ちを犯すのを見たときの神の態度はどのようなものですか。(悲しみです。)人が神への捧げ物を盗むのを見たときの神の態度はどうですか。(その人を嫌悪されます。)これはみな、とても明白です。神への信仰において混乱していて、真理をまったく追求していない人を見たときの神の態度はどうですか。これについては明確ではないのではありませんか。態度としての「混乱」は罪ではなく、また神の怒りを買うものでもありません。人間はそれが重大な過失ではないと考えています。それでは、この場合の神の態度はどのようなものですか。(神様はそのような人の存在を認めるのを不本意とされます。)「存在を認めるのを不本意とする」とは、どのような態度ですか。それは、神はそうした人を見下し、さげすむということです。神はそうした人を冷遇します。神のやり方は、こうした人を放置し、その人には働きを行なわないことです。それには啓き照らす働き、懲らしめ、鍛錬の働きも含まれています。この種の人は、神の働きからすっかり除外されています。神の性質の怒りに触れ、神の行政命令を破る人に対し、神はどのような姿勢を取りますか。極度の嫌悪です。神の性質の怒りに触れたことを悔い改めない人に、神は極度に怒ります。「怒り」は単なる感情や気分でしかないので、明白な態度に符合しません。しかし、この感情、この気分はその人にある結末をもたらします。それは神を極度の嫌悪で満たします。この極度の嫌悪の結末とは何ですか。それは、神はそのような人を脇に置いて、しばらくは応じなくなるということです。神は秋の収穫期の後にそのような人の処分をするのを待つのです。これは何を暗示しますか。その人にはまだ結末がありますか。神は、そのような人に結末を与えようとしたことはありません。したがって、現在、神がそのような人に応じないのは完全に普通のことではありませんか。(はい。普通のことです。)このような人は何をする準備をしているべきですか。自分のふるまいと邪悪な行ないの好ましくない成り行きを受ける準備をしなければなりません。それが、こうした人への神の応対です。そうしたわけで、わたしはそのような人にはっきりと言います。妄想にこれ以上しがみつかず、希望的観測をこれ以上続けてはなりません。神は人間に無限に寛容ではなく、また人間の過ちや不服従を永遠に堪え忍ぶことはありません。「そのような人を二、三人見た。彼らは祈るとき、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。彼らは通常とても幸せで、神がそばにいて導かれているように見える」と言う人がいます。このような戯言を言ってはなりません。大いに涙を流すのは、必ずしも神に感激することでも、神の臨在や、ましてや神の導きを受けることでもありません。もし人が神を怒らせれば、それでも神は人を導きますか。要するに、神が誰かを淘汰し、見捨てると決定すれば、その人にはすでに結末がありません。その人が祈るときにどれほど好ましい感情があろうと、心にどれほど神への信仰があろうと、それはもはや無関係です。重要なのは、神にはそのような信仰は無用だということです。神はすでにその人を拒絶しています。その人を将来どのように取り扱うかも、重要ではありません。重要なのは、この人が神の怒りを買ったその瞬間に、その人の結末が決定された、ということです。神がこの人を救わないと決定すれば、その人は置き去りにされ、罰せられます。これが神の態度です。

愛は神の本質の一部であり、また神はあらゆる人間に憐れみをかけますが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまいました。神に愛があることは、人が神に触犯しても神になんらかの感情や反応を起こさせることがない、ということではありません。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則がない、ということではありません。神は生きており、現実に存在します。神は想像上の操り人形でも、他の物体でもありません。神が存在するのですから、人間は神の心の声を常に注意して聴き、神の態度に注意し、神の感情を理解しなければなりません。人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の想像に基づく人間的な流儀で人間を取り扱わさせたりしてはなりません。そのようなことをするのは、神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の尊厳を挑発しているのです。したがって、あなたがたがこの問題の深刻さをひとたび理解したなら、一人ひとりが自分の行動に注意し、用心することを強く勧めます。自分の発言にも注意し、用心しなさい。神をどのように扱うかについて、注意し、用心すればするほど良いのです。神の態度がどういうものかがわからないときは、不注意に発言したり、行動したりせず、また軽々しくレッテルを貼ってはなりません。さらに重要なこととして、みだりに結論を出さずに、待ち、求めなくてはなりません。これらもまた、神を畏れ悪を避けることを表しています。そして何よりも、これを成し遂げ、こうした姿勢を取ることができれば、神はあなたの愚かさ、無知、このようにする理由を理解していないことを咎めることはありません。むしろ、あなたの神の怒りを買うことを恐れる態度、神の心意への敬意、喜んで神に服従しようとする意志ゆえに、神はあなたに留意し、あなたを導き、啓き、あなたの未熟さと無知に寛容になります。それに対し、あなたの神に対する態度に畏れがなく、すなわち好き勝手に神を裁いたり、神の考えを推測したり定義したりした場合、神はあなたを断罪し、鍛錬し、懲罰さえも与えます。あるいはあなたに解説するかもしれません。おそらく、そこには、あなたの結末が含まれています。したがって、今一度強調したいのです。あなたがたは一人ひとりが神に由来することすべてについて、注意し、用心しなさい。不注意な言動をしてはいけません。発言する前に、止まって考えなさい。この行動は神の怒りを買うだろうか、これをすると、神を畏れていることになるだろうか、と考えなさい。たとえ単純な事柄でも、このように自問し、時間をかけて考慮しなさい。あらゆることのあらゆる面において常にこのような原則に沿って本当に実践し、特に何か理解していないときにこのような態度を取れば、神は常にあなたを導き、進むべき道を示します。人間がどのように見せかけようと、神はそれらを明確にそのまま見通し、表現されたものを正確かつ適切に評価します。あなたが最後の試練を経験した後、神はあなたのふるまいのすべてを完全に検討、概括し、あなたの結末を決定します。この結果は、あらゆる人にとって何の疑いもなく納得できるものになります。わたしが述べたいのは、あなたがたのあらゆる行動、あらゆる所作、あらゆる考えが、あなたがたの運命を決める、ということです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 14

人間の結末を決定するのは誰か

話し合うべき最重要の問題がもう一つあります。それは、あなたがたの神への態度です。この態度は極めて重要です。これにより、あなたがたが最終的に滅びへ向かうか、神があなたがたのために用意した美しい終着点へ向かうかが決定します。神の国の時代において、神はすでに二十年以上にわたり働き、この二十年間において、おそらくあなたがたは自分がどのようにやってきたかについて、心の奥で少し不確かに感じているはずです。一方、神は心の中で、あなたがた各人について現実的で真実に満ちた記録を取ってきました。各人が神に付き従い、神の説教を聴き始めてから、徐々に少しずつ真理を理解するようになり、自らの本分を果たすようになるまで、神は各人のあらゆるふるまいを記録してきました。自分の本分を尽くしているとき、あるいは様々な状況や試練に直面しているとき、人の態度はどのようなものですか。どう行動しますか。心の中で、神に対してどう感じますか。……神は、そうしたことすべてを記録しています。あなたがたの立場から見ると、これらの問題は混乱を生じるかもしれません。しかし、神の立場からは、すべて明瞭であり、いいかげんな部分は少しもありません。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題であり、さらに、これは神が骨の折れる努力のすべてを注ぐ問題です。したがって、神は少しも怠ることはなく、ほんの僅かな不注意も許しません。神はこの人類の調書を記録し、人間の神に従う全過程を最初から終わりまで記録しています。この期間における神への態度により、あなたの運命が決定されています。そうではありませんか。現在、あなたがたは神が義であると信じていますか。神の業は適切ですか。あなたがたは今でも神について頭の中で想像していますか。(していません。)それでは、人間の結末は神が決めるものだと言いますか。それとも人間が自分自身で決めるのですか。(神様がお決めになります。)誰が決めますか。(神様です。)あなたがたは確信していないのですか。香港の兄弟姉妹、発言しなさい。誰が決めますか。(人間自身が決めます。)人間が自分自身で決めるのですか。それでは、人間の結末は神と無関係ということになりませんか。韓国の兄弟姉妹、発言しなさい。(人間の結末は、人間の行動や所作のすべて、人間のいる道に基づいて神様がお決めになります。)それは非常に客観的な答えです。ここで、あなたがた全員に伝えなければならない事実が一つあります。神の救いの働きの過程において、神は人間に基準を設定しました。それは、人間は神の言葉に従い、神の道を歩まなければならないというものです。人間の結末を計るにはこの基準が使われます。この神の基準に従って実践すると、良い結末が得られ、そうしないと、良い結末は得られません。それでは、この結末を決めるのは誰ですか。神が単独で決めるのではなく、神と人間が共に決めます。これで正しいですか。(はい。)それはなぜですか。それは、人類の救済の働きにかかわり、美しい終着点を人類のために用意したいと積極的に希望しているのは神であり、人間は神の働きの対象であり、その結末、終着点は神が人間のために用意するものだからです。神が働く対象が存在しなかったならば、神はこの働きを行う必要がありません。神がこの働きを行わなかったならば、人間には救いを得る機会がありません。救われるのは人間です。救われるのはその過程における受動的役割ですが、この役割を果たす人の態度が、神が人類を救う働きにおいて成功するか否かを決定します。神があなたに与える導きがなければ、あなたは神の基準を知ることがなく、目標を持つこともありません。あなたにこの基準と目的があるのに、協力せず、実践せず、代償を払わないならば、やはり結末を得られません。これが、人の結末が神と不可分であり、人とも不可分であるとわたしが言う理由です。これで、あなたがたは人間の結末は誰が決めるかを知っています。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 15

人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある (抄出)

神を知ることについて話しているとき、何かに気づきましたか。現在における神の態度が変化したことに気づきましたか。神の人間への態度は変化しないものですか。神は常にそのように耐え、神の愛と憐れみのすべてを無制限に人間に与えますか。この問題もまた神の本質に関係しています。……神が人類を愛していると知ると、人間は神を愛の象徴として定義します。人間の行動、ふるまい、神の扱いがどうであろうと、人間がどれほど不従順であろうと、神には愛があり、神の愛は無限で計り知れないので、そうしたことは問題にならないと人間は考えます。神には愛があるので、人間に対して寛容でいられ、神には愛があるので、人に対して、人の未熟さに、無知に、不従順に対して憐れみ深くあることができる、と考えます。本当にその通りですか。一部の人々は、神の寛容を一回あるいは二、三回経験すると、神に関する独自の認識においてその経験を重要視し、神は永遠に忍耐強く憐れみ深いと考え、その寛容が神が人間を取り扱う基準であると生涯を通して考えます。また、神の寛容をひとたび経験すると、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件でありしかも無原則であると恒久的に定義する人もいます。こうした考えは正しいですか。神の本質や神の性質に関する事項を話し合うと、あなたがたは毎回当惑しているようです。そのような様子を見ると、わたしはとても不安になります。あなたがたは神の本質について多くの真理を聞き、神の性質に関しても多くの話を聞いてきました。しかし、あなたがたの思考では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文字に基づく記憶でしかありません。あなたがたのうち、神の性質をそのまま日常生活で体験したり、見たりできる人は誰もいません。あなたがたはみな、信仰において思考が混乱し、盲目に信仰しており、神を畏れぬ態度を取り、神を払いのけるまでになりました。神へのこのような態度は、どのような結果につながりますか。神について常に結論付けるようになります。ひとたび多少の知識を得ると、神のすべてを得たかのように満足した気分になります。その後は、神はそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにします。さらに、神が何か新しいことをするたびに、それが神であることを決して認めません。やがて、神が「わたしはもはや人類を愛していない。今後人間にはこれ以上憐れみをかけない。人間にはこれ以上寛容も忍耐もない。わたしは人間に対する極度の嫌悪と反感に満たされている」と言うと、このような言葉は人間の心の奥に葛藤を生じさせます。このように言う人さえいます。「あなたはもはやわたしの神ではなく、わたしが付き従いたい神ではない。そのようなことを言うのであれば、わたしの神でいる資格はなく、わたしはあなたに付き従う必要はない。憐れみや愛、寛容をくれないのなら、あなたに付き従うのをやめる。わたしに対して制限なく寛容で、いつも忍耐深く、あなたが愛であり、寛容であり、忍耐であることをわたしに見せてくれるなら、わたしはあなたに付き従うことができ、その場合のみ、あなたに最後まで付き従う自信がある。あなたの寛容と憐れみを与えられているので、わたしの不従順や過ちは無制限に赦され、見逃され、わたしはいつでもどこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたを怒らせることができる。あなたはわたしについて意見をもったり結論に達したりしてはならない」。このような問題について、そこまで主観的かつ意識的に考える人は一人もいないかもしれませんが、神を罪を赦してもらうための道具や、美しい終着点を得るための対象物とみなすたびに、あなたはいつのまにか生きる神をあなたに対抗する敵にしてしまっているのです。これがわたしに見えることです。あなたは引き続き、「わたしは神を信じる」「わたしは真理を追い求める」「性質を変えたい」「闇の影響から解放されたい」「神を満足させたい」「神に服従したい」「神に忠実であり、本分をしっかり尽くしたい」などと言うかもしれません。しかし、あなたの言葉がどれほど甘美に聞こえたとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど堂々として威厳があったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使って神に関する結論を導き出す方法をすでに身につけ、それにより自然に神を自分に反対させてしまっている人が多くいるのです。字句や教義を身に付けていたとしても、そのような人は本当に真理の現実性に入っていないので、神に近付き、神を知り、認識することが極めて困難なのです。これはあまりに哀れです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 16

神の働きの最中に逃げ出す人に対する神の態度

いたる所で見受けられる、ある種の人がいます。神の道について確信した後、様々な理由から黙って挨拶もせずに立ち去り、心が望むように行動します。立ち去る理由については、今は話をしません。まず、このような人への神の態度について話します。それは極めて明瞭です。神の観点からすると、立ち去った瞬間に、その人の信仰の全期間は終わります。それを終わらせたのは、その人ではなく神です。立ち去ったということは、その人がすでに神を拒否し、それ以上神を求めず、もはや神の救いを受け入れないということを意味します。その人が神を求めていないのであれば、神が依然としてその人を求めることができますか。さらに、そうした態度、観点があり、神から去ると決めたときに、この人はすでに神の性質を侵害しています。たとえ怒りを爆発させて神に悪態をつくこともなく、また下劣で行き過ぎたふるまいをすることもなく、「外で十分楽しんで満足したと思う日が来たら、あるいは何らかの理由で再び神が必要になったら、戻って来よう。あるいは、神に呼ばれたら戻って来よう」などと考えていても、「外で傷付いて、外界が暗過ぎて邪悪過ぎて、流れについて行きたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう」などと言っていても同じです。正確にいつ戻るかを頭で計算し、戻ってこられるように扉を開いたままにしてきたとしても、どのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことにその人は気付かないのです。この人の最大の過ちは、自分の去りたいという願望を神がどう感じるかがわかっていないことです。神のもとを去ろうと決めたその瞬間に、神は完全にその人を捨てます。そのときには神は心の中ですでにその人の結末を決めています。それはどのような結末ですか。それは、その人がネズミの一匹となり、他のネズミと共に滅びるということです。そして、人はよくこのような状況を見ます。それは、神を見捨てても罰を受けない状況です。神は神自身の原則に従って対処します。目に見えるものもありますが、神の心の中で結論付けられるだけのものもあり、人間にはその結果は見えません。人間に見える部分が必ずしも物事の真の側面であるとは限らず、反対側、つまりあなたには見えない側面にこそ、神の本当の心からの思いと結論であるのです。

神の働きの最中に逃げ出す人は、真の道を捨てる人である

神の働きのさなかに逃げ出す人々に対し、なぜ神はそこまで深刻な懲罰を与えるのですか。なぜ神はその人に対してそこまで激怒しているのですか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたしたちの誰もが知っています。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではありません。神は人間にあごで使われる中身のない空気でもありません。神の存在を本当に信じているならば、あなたは神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知らなくてはなりません。この怒りを引き起こすものは言葉かもしれないし、思いやあるいは下劣なふるまい、あるいは一種の穏やかなふるまいや、人間の目と倫理から見て容認できるようなふるまいかもしれず、あるいは学説や理論かもしれません。しかし、ひとたび神を怒らせると、あなたの機会は失われ、終わりの時が訪れます。これは恐ろしいことです。神を怒らせることが許されないということを理解していないのであれば、あなたは神を畏れず、常に神を怒らせているかもしれません。どのように神を畏れるべきかがわからなければ、神を畏れることはできず、どのように神の道、つまり神を畏れ悪を避ける道筋に足を踏み入れるかもわかりません。ひとたび神を怒らせてはならないことに気づき意識したなら、神を畏れ悪を避けるとは何かがわかります。

神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしも真理をどれほど知り、試練を幾つ経験し、どれほど鍛錬してきたか、ということではありません。むしろそれは、あなたが心の中で神に対してどのような態度を抱いているか、あなたがどのような本質を表しているかに左右されます。人間の本質と主観的態度は、極めて重要です。神を捨て去った人に関しては、その神への卑劣な態度と真理を忌み嫌う心はすでに神の性質を侵害しています。そのため、神に関する限り、そのような人が神に赦されることはありません。この人は神の存在を知り、神がすでに来たという知らせを受け、神の新たな働きを経験さえしています。その人が立ち去ったのは、迷いや混乱のせいでも、ましてや、追い出されたせいでもありません。むしろ、意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだのです。立ち去ったのは、道を見失ったからでも、捨てられたからでもありません。したがって、神の目から見ると、その人は群れから迷い出た羊ではなく、ましてや道を見失った放蕩息子でもありません。それは好き勝手にふるまって何らはばからず立ち去った人であり、そうした状態や状況は神の性質を侵害し、それゆえ神はその人に絶望的な結末を与えるのです。このような結末は恐ろしくありませんか。したがって、神を知らない人は神を侵害する恐れがあります。これは決して些細なことではありません。神の姿勢を真剣に受け止めないのに、自分は神の迷える子羊なので神は自分が戻ってくるのを心待ちにしていてくれて、自分の改心を待っていると考えているとしたら、その人が罰を受ける日はそれほど遠くありません。神はその人をただ拒むだけではありません。その人が神の性質を挑発するのは二度目であることからも、さらに酷い問題です。その人の不敬な態度は、すでに神の行政命令を犯しています。神はその人を受け入れますか。神の心では、このような問題に関する原則では、誰かが真の道とは何かについてすでに確信しながらも、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神のもとから離れることができるなら、神はその人の救いの道を遮断し、神の国の門はそれ以降その人に対して閉ざされます。その人が再び現れて門戸を叩いても、神は扉を開けず、その人は永遠に閉め出されます。あなたがたのうちには、聖書にあるモーセの物語を読んだことがある人がいるでしょう。神がモーセに油を注いだ後、二百五十人の指導者は、モーセの行動などを理由として、モーセに不服従を示しました。指導者たちが従うことを拒んだのは誰ですか。モーセではありません。指導者たちは神の計画に従うのを拒み、それに関する神の働きに従うのを拒んだのです。指導者たちは言いました。「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、ヤーウェがそのうちにおられるのに」。人間から見て、この言葉は深刻ですか。深刻ではありません。少なくとも、言葉の文字通りの意味は深刻ではありません。法的にも、違法ではありません。表面的には敵対的な表現や語句はなく、ましてや冒涜的な含意もないからです。一般的な言葉でしかありません。それでは、なぜこの言葉が神の怒りにこれほど触れるのですか。なぜなら、この言葉は人間でなく神に向けられているからです。ここに表された態度と性質は、まさしく神の性質の怒りに触れるものであり、また侵害してはならない神の性質を侵害するものだからです。わたしたちはみな、指導者たちの結末が最後はどうであったかを知っています。神を捨てた人の観点はどのようなものですか。態度はどのようなものですか。その観点や態度のせいで、神がその人をそのように扱う結果になるのはなぜですか。それは、神が神であることを明らかに知っていながら、その人は神を裏切ることを選ぶからです。だから、救いの機会を完全に剥奪されたのです。それは聖書にある通りです。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙 10:26)。この問題について、あなたがたは今では明確に理解しましたか。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 17

人間の運命は、神への人間の姿勢で決まる

神は生きている神であり、人間が様々な状況において様々にふるまうように、様々なふるまいに対する神の態度も異なります。なぜなら神は操り人形でも、中身のない空気でもないからです。神の態度を知るようになることは、人類にとって意義があることです。神の態度を知ることにより、いかにして神の性質を少しずつ知り、神の心を理解できるようになるかを、人は学ぶべきです。神の心を少しずつ理解するようになると、神を畏れ悪を避けることは、成し遂げるのが困難なことだとは感じなくなります。さらに、本当に神を理解するなら、神について結論を導くようなことはしなくなります。ひとたび神について結論を出さなくなれば、めったに神に背くことはなく、無意識のうちに神に導かれ、神に関する認識を得て、心は神への畏れで満たされます。そうなると、自分が習得した教義や字句、理論で神を定義しなくなります。そのかわりに、万事において神の心意を常に求めることで、無意識のうちに神の心に従う人となるのです。

神の働きは、人間が目で見ることも触れることもできませんが、神に関しては、各人のあらゆる行動と神への態度は、神には感知できるだけでなく、見ることもできます。これはすべての人が認識し、はっきり理解しなければならないことです。「神はわたしがここで何をしているか知っているだろうか。神はわたしが今何を考えているか知っているのだろうか。知っているかもしれないし、知らないかもしれない」などといつも自問している人がいるかもしれません。あなたがこのような観点で、神に付き従い、神を信仰しながらも、神の働きや存在を疑っているのであれば、遅かれ早かれ神の怒りに触れる日が訪れます。なぜなら、あなたはすでに危険な崖の縁をよろめき歩いているからです。長年にわたり神を信仰してきたものの、真理現実を得ておらず、神の心も理解していない人をわたしは見てきました。このような人はいのちと霊的背丈においてまったく進歩せず、極めて浅薄な教義に従うだけです。これは、神の言葉をいのちとして捉えず、神の存在を直視して受け入れたことがないからです。こうした人を見て、神が喜びに満たされると思いますか。そんな人が神に慰めを与えますか。ですから、人間の運命を決めるのは人間がどのように神を信仰するかです。人がどのように神を求め、どのように神と関わり合っていくかに関しては、最も重要なのは人の姿勢です。神を頭の後ろにただよっている空気のように無視してはなりません。あなたが信仰する神を常に生きている神、実在する神と考えなさい。神は何もせず第三の天にいるのではなく、常に人間一人ひとりの心や、各人が何をしているか、些細な発言や行動のひとつひとつ、神に対して人がどのようにふるまい、どのような姿勢を取るかを見ています。あなたが自らを神に捧げるつもりであろうとなかろうと、あなたのあらゆるふるまい、心の奥深くにある考えや思いのすべてが神の前にさらされ、神に見られています。あなたのふるまい、行動、神への態度ゆえに、神があなたについて持つ意見と神のあなたへの態度は、常に変化しています。一部の人に助言します。あたかも神があなたを溺愛しなければならず、神があなたのそばを決して離れられず、神のあなたへの態度は固定していて永遠に変わらないかのように、神の手の中にいる乳児のようになってはいけません。そして、空想はやめなさい。人間一人ひとりの扱いにおいて、神は義であり、人間の征服と救いの働きへの神の取り組みは真摯です。これが神による経営です。神は人間一人ひとりを、愛玩動物のようにではなく、真剣に扱います。神の人間への愛は過保護や甘やかしではなく、人間への神の憐れみと寛容は、大目にみたり無頓着であったりすることでもありません。むしろ、神の人間への愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことです。神の憐れみと寛容は、神の人間への期待を伝えており、人類が生き残るために必要なものです。神は生きており、実在します。神の人間に対する態度には原則があり、それは教条的な規則ではなく、変化することがあります。人類への心意は、時間や状況が変わるにつれ、また各人の態度に従って、徐々に変化しています。したがって、あなたは心の中で絶対的な明瞭さをもって、神の本質は変化せず、神の性質は様々な時に様々な状況で表出することを理解すべきです。あなたはこれが深刻な問題であると考えず、自分の観念を用いて、神がどのように物事を行うべきかを想像するかもしれません。しかし、あなたの観点とは正反対のものが真実である場合もあり、自分の観念で神を推し量ろうとすることで、あなたはすでに神の怒りを買っています。これは、神はあなたが考えるように動くのではなく、またこの問題も神はあなたが言うようには扱わないからです。ゆえに、あなたは身の回りのあらゆることへの取り組みにおいて注意深く慎重であり、すべてにおいて、神を畏れ悪を避ける神の道をいかに歩むべきかを学ぶことを忘れてはなりません。神の心と態度に関する事柄を確実に理解するように努め、このような事柄についてあなたに伝えることのできる啓かれた人を見つけて、熱心に求めなければなりません。自分が信じる神を操り人形のようなものと捉えて、任意に判断を下したり、神について勝手に結論を導き出したりせず、相応しい敬いの念をもって神を扱わないことのないようにしなさい。あなたに救いをもたらし、あなたの結末を決めているあいだに、神はあなたに憐れみか、寛容か、裁きと刑罰を授けるかもしれません。いずれにせよ、あなたへの神の態度は一定ではありません。神の態度は、あなたの神への態度や、あなたの神に関する認識により決まります。あなたが神について理解、認識していることのつかの間の側面で神を永久的に定義してはいけません。死んだ神でなく、生きている神を信じなさい。このことを忘れてはなりません。わたしはここで、あなたがたの現在の状態と背丈に応じて、あなたがたが知るべき真実をいくつか話しましたが、あなたがたの情熱を奪わないように、いまはこれ以上の要求をしません。そうしなければ、あなたがたの心は過度に荒涼として、神に対して過度に落胆するかもしれないからです。そうならずに、心にある神への愛と神を敬う態度で、あなたがたが今後の道を歩くことを望みます。神をいかに信じるべきかに関する問題で混乱してはいけません。それを現存する最重要の問題のひとつとして扱いなさい。その問題を心に留め、実行に移し、実生活と関連させなさい。口先だけで聞こえのいいことを言ってはなりません。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなたの運命を決める問題だからです。冗談や子どもの遊びとして扱ってはなりません。今日これらのことを話し合って、あなたがたの心の収穫はどれくらいありますか。今日の話について、何か質問はありますか。

今日の話題はやや新しく、あなたがたの観点や、普段追求し、注目していることから離れたものですが、ある期間あなたがたで話し合えば、今日わたしがここで話した内容をすべて一様に理解できるようになります。これらの話題はどれもとても新しく、これまであなたがたが考えたことのなかったことですから、あなたがたの負担とならないことを望んでいます。今日、わたしがこのような話をしているのは、あなたがたを怖がらせるためでも、あなたがたを取り扱うためでもなく、事実の真相をあなたがたが認識するのを助けることがわたしの目的です。神と人間の間には隔たりがあるため、人間は神を信じているものの、神を理解することも神の態度を知ることもありませんでした。人間はまた、神の態度についてあまり熱心な関心を寄せたこともありません。むしろ、人間は盲目的に信仰し、進んできたのであり、神を知り理解することについては不注意でした。したがって、あなたがたのためにこれらの問題を明らかにし、あなたがたが信仰するこの神が、どのような神で、何を考えていて、様々な人を取り扱うときにどのような態度を取るのか、あなたがたは神の要求を満たすことからどれくらい離れていて、あなたがたの行動と神が要求する基準にはどの程度の差があるかを理解するのを助けずにはいられないと感じるのです。これらのことをあなたがたに知らせる目的は、自己評価のための指標を与えることと、歩んでいる道がどのような収穫に繋がっていて、その道では何が得られていないか、まったく関わっていない領域は何かをあなたがたに理解させることです。あなたがたが互いに話し合うとき、通常は一般的な二、三の事項について話をしますが、その範囲は狭く、内容は浅薄です。神の心意とあなたがたが話し合うことの間、さらにはあなたがたの議論と神の要求の範囲や基準の間には、隔たりがあります。そのようなまま進んでも、時間とともに、神の道から益々外れて行きます。あなたがたは現在の神の言葉を取り上げて、それを崇拝の対象に変えたり、儀式や規則とみなしたりしています。していることはそれだけです。事実、あなたがたの心には神の場所がなく、神はあなたがたの心を得ていません。神を知ることは極めて困難だ、という人がいますが、それは事実です。確かに困難です。人が自分の本分を尽くして外面的に物をやり遂げるようにできていて、まじめに働くなら、神を信じるのは簡単だと人は思います。なぜなら、それらはすべて人間の能力の範囲内だからです。しかし、神の心意や人間への神の態度の話になると、誰にとっても物事は遥かに困難になります。それは、人間が真理を理解していることと、現実に入ることが関与するからです。ですから、ある程度困難なのは当然です。しかし、ひとたび最初の扉を通過して入り始めたなら、次第に容易になります。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 18

神を畏れることの出発点は神を神として扱うこと

少し前に、ある人から質問がありました。わたしたちはヨブよりも神について認識が多いにもかかわらず、人間が神を畏れられないのはなぜか、という質問です。この問題には以前少しだけ触れました。実のところ、この問題の本質についても以前に話し合いました。すなわちヨブは当時、神を知らなかったが、神を神として扱い、神を天と地と万物の主とみなしたということです。ヨブは神を敵とはみなさなかったのです。むしろ、ヨブは神を万物の創造主として崇めました。なぜ現在の人間は神をこれほどまでに拒否するのですか。なぜ現在の人間は神を畏れられないのですか。その理由のひとつとして、現在の人間がサタンに深く堕落させられていることがあります。サタンのような本性が深く浸透しているため、現代の人は神の敵になりました。したがって、神を信仰し、認めているものの、いまだに神を拒み、自らを神と敵対させることができてしまうのです。これは人間の本性により決まります。もうひとつの理由は、人は神を信じる一方で、神を神として扱わないことです。その代わりに、神を人間に反対する存在、敵と見なし、神と和解することができないと感じます。それほど単純なことです。この問題はこれまでに取り上げませんでしたか。考えてみなさい。それが理由ではありませんか。あなたには神に関して多少の認識があるかもしれませんが、その認識は一体何を引き起こしますか。それは皆が話題にしていることではありませんか。それは神があなたに伝えたことではありませんか。あなたはその理論上、教義上の側面しか知りませんが、神の真の顔を体験したことがありますか。主観的な認識がありますか。実践的な認識と経験がありますか。神が伝えていなかったなら、知ることができていたでしょうか。理論上の認識は、本当の認識ではありません。つまり、どれほど認識があり、その認識をどのようにして得たにせよ、神についての真の認識を得るまでは、神はあなたの敵であり、実際に神を神として扱うまでは、神はあなたに敵対しています。なぜなら、あなたはサタンの化身だからです。

キリストと共にいれば、あなたはおそらくキリストに毎日三度の食事をふるまい、お茶も出し、生活の世話をし、キリストを神として扱ったように見えるでしょう。何か起きると、人間の観点はいつも神の観点と相反します。人間はいつも神の観点を理解し、受け入れることができません。人間は表面上では神とうまくやっていきますが、それは神との融和を意味しません。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認されます。この敵対心は神が人間に反対しているのでも、神が人間に敵対したがっているのでも、神が人間を神に敵対するように位置付け、そのように扱っているのでもありません。むしろ、それは人間の主観的意志と意識下に潜む、神に敵対する本質の問題です。神に由来するものすべてを研究対象とみなす人がいて、神に由来するものや神に関わるものへのこのような人の反応は、何よりも推測し、疑い、神と衝突し神に反する態度をすばやく取ることです。その後、そのような人は神との対立、争いに否定的な気分を持ち込み、そのような神は従うに値するかどうかと疑念さえ抱くようになります。理性は、そのように進むべきではないと言うものの、思わずそうしてしまい、そのため躊躇せずに最後まで続行します。たとえば、神についての噂や悪口を人が聞くと、最初にどのように反応しますか。最初の反応は、その噂が嘘か本当か、噂が実在するかどうかを思いめぐらし、様子を見よう、という態度を取ります。その後、「確かめる方法がないが、本当に起こったのか。その噂は本当だろうか」と考え始めます。このような人はこれを表には出しませんが、心にはすでに疑念が生じ、神をすでに否定し始めます。このような態度と観点の本質は何ですか。裏切りではありませんか。こうした問題に遭遇するまでは、その人の観点がどういうものかを知ることはできません。その人は神と衝突しているようにも、神を敵とみなしているようにも見えません。しかし、問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対します。このことは何を示唆していますか。それは、人間と神が敵対していることを示しています。神が人間を敵とみなしているのではなく、人間の本質自体が神に敵対しているのです。どれほど長期間にわたり神に付き従ってきたにせよ、どれほど大きな代償を支払ってきたにせよ、どのように神を称え、どのように神を拒否せずにいて、神を愛すようにどれほど強く自己に言い聞かせているにせよ、人間は決して神を神として扱うことができません。これは人間の本質が決めているのではありませんか。神を神として扱い、神が神であることを心から信じていれば、それでも神に疑念を抱くことができますか。心の中に神への疑問があり得ますか。あり得ません。そうではありませんか。この世の傾向は極めて邪悪で、人類も極めて邪悪です。では、どうして人間について何の観念も持たずにいることができるのですか。あなた自身、極めて邪悪なのに、あなたにはそのことに関して観念がないのはどういうことですか。それなのに、たった二、三の噂や悪口が、神について極めて大きな観念を生み出し、あなたに多くのことを想像させ、それがあなたの霊的背丈の未熟さを露呈するのです。何匹かの蚊や煩わしい蝿の「羽音」だけで、あなたを欺くには十分なのですか。これはどのような人ですか。神がこのような人をどう思っているかを知っていますか。その人に関しては、神の態度は実は極めて明瞭です。神は単に冷遇するだけです。注意を向けず、そうした無知な人を本気で相手にしないだけです。なぜですか。それは、神の心では、最後まで神に反抗すると誓いを立て、神と融和する方法を求めるつもりが一切ないその人を得ようと計画したことはないからです。わたしが言った言葉に傷つく人が二、三人いるかもしれません。あなたがたはいつもこのようにわたしに傷つけられていいのですか。あなたがたがどう思おうと、わたしの言ったことはすべて真実です。わたしが常にあなたがたを傷つけ、あなたがたの傷を露わにするようであれば、それはあなたがたの心の中にある高尚な神の姿に影響しますか。(しません。)わたしもしないと思います。なぜなら、単にあなたがたの心には神が存在しないからです。あなたがたの心の中にいる高尚な神、あなたがたが頑固に守り擁護するものは、神ではありません。それは人間の想像の産物です。その神は存在しません。したがって、この問題の答えをわたしが明らかにする方が良いわけです。これで真相がすべて暴かれたのではありませんか。真の神は、人間が想像する神とは異なります。あなたがたがみな、この現実を受け止めることができることを願います。それは、あなたがたが神を認識する助けとなります。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 19

神に認められない人

神の心において、信仰が認められたことのない人がいます。換言すると、神がこのような人を追随者であると認めないのです。神が彼らの信仰を称賛しないためです。彼らは何年にわたり神に付き従ってこようが、考えや観点がまったく変わりません。まるで信仰を持たない人のように、未信者の人付き合いの原則や方法、未信者の生存の法則や信念を遵守しています。神の言葉を自分自身のいのちとして受け入れたことがなく、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切なく、神を自らの神として認めたことがありません。彼らは神への信仰を余暇活動のように捉え、神を単なる精神的な支えとして扱っています。そのため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だとは考えません。真の神に該当することすべてが、彼らには無関係であると言えます。彼らは無関心であり、わざわざ注意を払うこともないのです。これは、彼らの心の奥深くに強い声があり、「神は見えず、触れることもできず、したがって存在しない」と常に言っているからです。そのような神を理解しようとすることは、努力に値せず、そうしようとすることは自分自身を騙すことになると考えています。言葉で神を認めるのみで、本当に立場を表明したり、実際に行動をとったりしないことで、自分はかなり利口だと考えています。神はこのような人をどう思いますか。神は彼らを未信者とみなします。「未信者が神の言葉を読めるだろうか。自分の本分を尽くせるだろうか。『わたしは神のために生きる』と言えるだろうか」と尋ねる人がいます。人間に見るのは、大抵、人が表面的に見せるものであり、本質で見えません。しかし、神は表面的なものを見ず、内面的な本質のみを見ます。したがって神は彼らにこのような態度をとり、このように定義するのです。彼らは、「神はなぜこのようなことをするのか。神はなぜあのようなことをするのか。これは理解できない。あれは理解不可能だ。人間の考えと一致しない。わたしに説明してくれなければ」など言います。わたしの答えはこうです。「そのようなことについて、ほんとうにわたしが説明する必要がありますか。これらの問題はあなたに関係がありますか。あなたは自分が何者だと考えているのですか。あなたはどこから来たのですか。あなたに神に助言する資格が本当にありますか。あなたは神を信じていますか。神はあなたの信仰を認めていますか。あなたの信仰は神と無関係ですから、神のすることがあなたにどう関係するというのですか。あなたは自分が神の心においてどのような位置にいるかを知らないのに、どうして神と対話する資格があるのですか」。

勧告

この話を聞いて、あなたがたは不快ではありませんか。そのような話を聞きたくない、あるいは受け入れたくないと思っているかもしれませんが、これはすべて事実です。この段階の働きは神が行うものなので、神の心意や神の態度に無関心で、神の本質と性質を理解しなかったならば、最終的に損をするのはあなたです。わたしの話が聞くに堪えないからといってわたしを責めたり、話のせいで情熱が冷めたからといって、話を責めてはいけません。わたしは真実を述べているのであり、あなたがたを落胆させるつもりはありません。わたしがあなたがたに何を求めようと、あなたがたがそれをどのように行うように要求されていようと、わたしはあなたがたが正しい道を歩み、神の道に従い、そこから外れないことを望みます。神の言葉に従って進まなければ、神の道に従わなければ、あなたが神に反抗しており、正しい道から外れてしまったことは疑念の余地がありません。したがって、あなたがたのために明確にし、あなたがたにはっきりと明瞭に、一抹の疑念もなく信じさせなければならない事柄があると感じています。そうすることで、神の態度と心意、神がどのように人間を完全にするか、神がどのように人間の結末を決定するかを、あなたがたがはっきりと理解する助けをするのです。この道に踏み出すことができない日が来ても、わたしには一切の責任がありません。なぜなら、わたしは今日の話をとても明瞭に伝えたからです。あなたが自分の結末をどのように扱うかについては、完全にあなた次第です。様々な人の結末について、神はそれぞれ異なる態度を取ります。神にはその人たちを測る独自の方法、さらには彼らに求める独自の基準があります。神が人間の結末を測る基準は、万人に公平なもので、このことに疑いはありません。そうしたわけで、一部の人の恐れは不要です。安心しましたか。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 20

実際、神の性質というのは隠されているものではなく、誰に対しても明らかになっています。神は何人をも意識的に避けたことはなく、知られたり理解されたりしないようにあえて自らを隠したことは一度もないからです。神の性質とは常に開かれており、一人一人に率直に向き合うというものでした。神の経営(救い)において、神はすべての人と向き合って働き、その働きは一人一人に対して行われます。その働きを行う中で、神は絶えず自らの性質を現し、その本質、神であるもの、神が持っているものを用いて、一人一人を導き、一人一人を養います。どのような時代や段階にあっても、状況の善し悪しにかかわらず、神の性質はいつでも一人一人に明らかにされており、神の所有するものとその存在とは一人一人に対して開かれています。それは神のいのちが絶えることなく人類を養い、支え続けているのと同様です。それにも関わらず、一部の人々にとって神の性質は隠されたままです。それはなぜでしょうか。それはそうした人たちが、神の働きの中で生き神に従ってはいるものの、神を理解しようと努めたり、知りたいと思ったりしたことがなく、ましてや神に近づいたことなどないからです。そうした人たちにとって、神の性質を理解するということは、彼らの終わりの時が近いという前触れであり、まもなく彼らは神の性質によって裁かれ罪に定められるということを意味します。そのため彼らは神やその性質を知りたいと願ったことがなく、神の旨についてのより深い理解や認識を追い求めたこともありません。彼らは意識的に協力して神の旨を理解しようとは思わず、ただ永遠に楽しみを求め、飽くこともなく自分がしたいことだけをしています。彼らが信じているのは自分にとって都合のいい神、自分の想像や観念の中にだけ存在する神であり、日々の生活の中で自分から切り離すことのできない神なのです。しかし真の神自身となると、彼らは完全に拒絶し、理解しようという気もなく、目を向けることもなく、神に近づこうなどとは思いもしません。彼らは神が語った言葉を、ただ自分自身を飾りつけ包み隠すために利用しているのです。彼らにとっては、それで自分はすでに立派な信者なのであり、心から神への信仰を持っていると信じています。しかし実際には、彼らを導いているのは自分自身の想像や観念、さらに自分自身の定義による神なのです。一方、真の神自身は彼らと何の関わりもありません。というのも、もし彼らが真の神とその真の性質とを理解し、神の持てるものとその実質とを理解したら、それは彼らの行動や信仰、そしてその欲求が、罪に定められることを意味するからです。そのため彼らは神の本質を理解しようとせず、神とその旨、その性質をよりよく知るために、自ら積極的に求めたり祈ったりしようとはしないのです。彼らにとっては、むしろ神は作り上げられた存在、中身のない漠然とした存在であるほうがよいのです。彼らが望んでいるのは、神が自分の想像どおりの存在で、自分の思いどおりになり、限りなく与え、いてほしいときにはいつでもそこにいてくれることなのです。彼らは神の恵みを享受したいときには、神にその恵みになるよう求め、神の祝福が必要なときには、神にその祝福になるよう求めます。逆境に直面すると、神が自分たちを励まし、背後の盾となってくれることを求めます。このような人々による神の認識は、恵みと祝福の範囲を出ることがありません。また神の働き、神の性質、そして神自身に関する彼らの理解も、自分の想像や字句と教義上のものでしかありません。しかし中には、神の性質を熱心に追求し、心から神自身を知りたいと願い、神の性質と神の持てるもの、そしてその実質を真に理解しようと努めている人たちもいます。そのような人たちは、真理の現実、神の救いを追い求め、神が自分を征服し、救い、完全にしてくれることを望んでいます。そのような人たちは心から神の言葉を読み、神が自分に与えたすべての人や状況、出来事、そして物事に心から感謝し、誠実に祈り、求めます。彼らが何よりも欲するのは神の旨を知ることであり、神が所有するものと神そのものを理解することです。そうすれば、もう二度と神に背くことなく、経験を通してさらに神の素晴らしさやその真実の側面を知ることができるようになるからです。そしてまさに正真正銘の神が彼らの心に宿り、神が心の中に居場所を確保するため、もはや想像や観念や不明瞭さの中に生きる必要がなくなるからです。こうした人々が神の性質と本質を理解したいとそれほど切実に願うのは、人間の経験の中で神の性質と本質はいつも必要なものであり、一生を通していのちを与えてくれるものだからです。一度神の性質を理解すれば、神をより畏れ、その計画に協力することがより適切に行えるようになり、神の旨にますます配慮し、持てるすべての力を尽くして自分の本分を果たすことができるようになります。これが、神の性質に対する2種類の人々の態度です。一方の人々は神の性質を理解したがらず、口では神の性質を理解し、神自身を知り、神の持てるものとその実質とを目にし、心から神の旨を把握したいと言うものの、心の奥底では神が存在しなければよいと思っています。なぜならこの種の人々は一貫して神に不従順であり、神に反抗しているからです。自分自身の心の中の居場所を神と奪い合い、しばしば神の存在を疑い、それを否定さえしています。彼らは神の性質や真の神自身が自分の心を支配することを望みません。彼らの望みは、自分の欲望や想像、野心が満たされることだけです。つまり彼らは神を信じ、神に従い、さらに家庭や仕事を神に捧げているかもしれませんが、それでも悪の道を進むことはやめていないのです。ひどい場合には献金を盗んだり浪費したり、ひそかに神を罵ったりする者もあれば、自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をし、自分の立場を強化し、人々や地位を神と争うような者もいます。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々を魅了し、支配しようとしています。場合によっては、意図的に人々を欺いて自分自身が神であるかのように思わせ、神のように扱われようとする者さえいます。彼らは自分が堕落しているとは決して言いません。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえず、どれだけ立派にやっていても、すべては神に高められたためであり、ただすべきことをしているだけだ、とは決して言いません。なぜそう言わないかといえば、人々が自分に見向きもしなくなることを深く恐れているからです。だからそのような者は決して神を称賛せず、神に証しすることもありません。彼らは一度も神を理解しようとしたことがないからです。神を理解せずに、神を知ることができるでしょうか。不可能です。そのため、この「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマはシンプルなようですが、人によってその意味するところは異ってくるのです。しばしば神に逆らい、反抗し、神に敵対する者にとっては、この言葉は断罪を意味しますが、真理現実を追い求め、しばしば神の前に出て神の旨を知ろうと努める者は、水を得た魚のようにこの言葉を受け止めます。あなたがたの中には、神の性質と神の働きについての話を聞くと頭が痛くなり、心が抵抗感で満たされ、非常に不愉快に感じる人もいます。しかしまた、このテーマは非常に有益なので、まさに自分が必要としているものだ、と思う人がいます。それはその人のいのちの経験に欠かすことのできない、何物にもまさる最重要課題で、神への信仰の基盤であり、人間が捨て去ることのできないものなのです。このテーマはみなさん全員にとって、近くもあり、遠くもある、そして知らないようで知っている、そんな風に思われるかもしれません。しかしいずれにしても、これはすべての人が聞き、知り、そして理解しなければならないものです。このテーマをどのように扱うにせよ、どのような視点で捉えるにせよ、またどのように理解するにせよ、その重要性は無視することができません。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 21

神はその働きを人間の創造の時からずっと行っています。当初、それはかなり単純な働きでしたが、その単純さにもかかわらず、そこには神の本質や性質が内包されていました。現在、神の仕事は高められ、神は自分に付き従うすべての者に対して膨大な量の具体的な働きを行い、大いなる言葉を語っています。しかし神の本体というものは、常に人間から隠されてきました。神は二度受肉しましたが、聖書の記述から現代に至るまで、神の実体を見たという人はいるでしょうか。あなたがたの理解に基づいて、神の実体を見たことがあるという人はいますか? いませんね。神の実体を見た人がいないということは、誰も真の神自身を見たことがないということです。この点については誰もが同意するでしょう。つまり、神の実体あるいは神の霊というものは、神が創造したアダムとエバや、神が受け入れた義人ヨブも含め、すべての人に対して隠されているということです。彼らですら、神の実体を見てはいません。しかしなぜ、神は意識的にその実体を隠すのでしょうか。これについては、「神は人々を怖がらせたくないのだ」と言う人もいれば、「神がその実体を隠しているのは、人間が小さすぎて、神は偉大すぎるからだ。人間が神を見ることはできない。見れば人間は死んでしまう」と言う人もいます。また別の人は、「神は日々働きを行うのに忙しすぎて、人々の前に現れる時間がないのかもしれない」と言っています。あなたがたがどう信じているにせよ、わたしには1つの結論があります。それは、神は単に人々にその実体を見せたがっていない、ということです。神は故意に、人の目から姿を隠しているのです。言い換えれば、人に神の実体が見えないのは、神の意図によるところなのです。このことはもう皆がはっきり知っていなければなりません。神がその本体を誰にも見せたことがないなら、神の本体は存在すると思いますか?(存在します。)もちろん神の本体は存在します。神の本体が存在することについて、議論の余地はありません。しかし神の本体がいかに偉大なものか、あるいはどのような姿なのか、ということは人間が研究すべき問題でしょうか。いいえ、そうではありません。神の本体というものがわたしたちの探究すべきテーマでないとすれば、わたしたちが学ぶべき問題は何なのでしょうか。(神の性質。)(神の働き。)では正式なテーマについて交わりを持つ前に、先ほど話したことをもう一度おさらいしましょう。神はなぜ、その本体を人に現したことがないのでしょうか。なぜ神はあえてその本体を人間から隠しているのでしょうか。その理由はただ一つ。つまり、神に創造された人類は何千年ものあいだ、神の働きを経験してきましたが、誰一人として神の働き、神の性質、神の本質を知る者はいないからです。そのような人間は神の目から見れば、自らに敵対する存在であり、自分に敵対する者に神がその姿を現すことはありません。これが、神が人間に対してその本体を現さず、意図的に人間からその本体を隠している唯一の理由です。これで、神の性質を知ることの重要性がはっきりしたでしょうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 22

神の経営が開始されてから今まで、神は常に全力でその働きを遂行してきました。神はその本体を人間から隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して働きをなし、自身の性質を現し、自身の本質によってすべての人間を導き、その力、知恵、権威を通して一人一人の人間に働きを行っています。こうして神は、律法の時代、恵みの時代、そして現在の神の国の時代を現実のものにしたのです。神は人間から自分の本体を隠してはいますが、その性質、その存在と所有しているもの、そして人間に対する旨は、人間が目にし経験することができるよう、無条件に露わにされています。言い換えれば、人類は神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験する神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということです。それが真実ではないでしょうか。神はどのような方法あるいは見地からその働きを行うにせよ、常にその正体を通じて人間を扱い、自身がすべきことを行い、語るべきことを語ります。どの位置から語るにしても――神は第三の天にいることも、肉を持って存在することも、さらに普通の人として存在することもありますが――神は常に心と思いを尽くして、欺きも隠しもせず人に語りかけてきます。働きを行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして神が所有するものと神そのものを余すところなく現します。そして自身のいのちと神であるもの、神が所有するものを用いて人間を導くのです。こうして人は、人類の揺籃期である律法の時代を、「見ることも触れることもできない」神の導きによって生き抜いてきたのです。

神は律法の時代のあと、初めて受肉し、受肉した人間の姿を三十三年半続けました。人間にとって、三十三年半は長い期間でしょうか。(長くはありません。)通常、人間の寿命は三十数年よりもずっと長いので、三十三年半は長い期間とはいえません。しかし受肉した神にとって、この三十三年半はじつに長い期間でした。神は人間となり、神の働きと委託を行う普通の人となったのです。それは、普通の人では負いきれない仕事を引き受け、普通の人には耐え切れない苦痛にも耐えねばならないことを意味していました。主イエスの働きの始めから十字架にかけられるまでの間、恵みの時代に主イエスがどれほどの苦しみを受けたかは、今日の人間が直接目の当たりにすることはできないにせよ、少なくとも聖書の物語を通して多少は理解できるのではないでしょうか。記録された出来事にどれだけの詳細が含まれているかによらず、全体としてこの期間の神の働きは、困難と苦痛に満ちていました。堕落した人間にとって、三十三年半という期間は長いものではなく、多少の苦しみは大した問題ではありません。しかし聖く汚れなき神が、人間のすべての罪に耐え、罪人とともに食べ、眠り、生きなければならなかったその苦しみは計り知れません。神は創造主であり、万物の主、万物の支配者でありながら、この世にやってきたときは、堕落した人類による抑圧と残忍な行いに耐えねばなりませんでした。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間によって糾弾され、全人類の罪を背負わねばならなかったのです。イエスが経験した苦しみがどれほどのものだったかは、普通の人間が想像したり、理解したりできるものではありません。この苦しみは何を意味するのでしょうか。それは人類に対する神の献身です。これは人類の救いのため、その罪を贖うため、そしてこの段階の神の働きを完了させるために、イエスが被った屈辱と払った代価の象徴なのです。そしてまた、人類が神によって十字架から贖われることも意味しています。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物には決して払うことができないものです。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを有していたため、このような苦しみに耐え、この種の働きを行うことができました。これは神の被造物である者が代わって行える働きではなかったのです。これが恵みの時代における神の働きであり、神の性質の現れです。これで、神の持てるものとその実質について何かが明らかになるでしょうか。それは人間が知ろうとする価値のあるものでしょうか。この時代、人間は神の本体を見ることはありませんでしたが、神から罪のためのいけにえを受け取り、神によって十字架から贖われました。人類は神が恵みの時代に行った働きのことを知っているかもしれませんが、この時代に神が現した性質や旨をよく知っている人は果たしているでしょうか。人間は単に、それぞれの時代にさまざまな手段で行われた神の働きの詳細と、神がその働きを行っていたときにどんなことがあったかという、神に関連する物語を知っているだけです。こうした詳細や物語はせいぜい神に関する若干の情報あるいは伝説であり、神の性質や本質とは関係がありません。人間がどれだけたくさん神の物語を知っていても、それで神の性質や本質について深い理解や認識を持っているということにはなりません。恵みの時代の人々は受肉した神と間近で親密な交わりを経験したものの、律法の時代と同様、彼らの神の性質や本質に関する認識はないに等しかったのです。

神の国の時代、神は再び、一度目と同じように受肉しました。この働きの期間中も、神ははばかることなく言葉を表し、なすべき働きを行い、神が所有するものと神そのものとを現しています。そして同時に、人の不従順と無知にも寛容をもって耐え続けています。神はこの働きの期間にも、自身の性質と旨とを現し続けているではありませんか。つまり、人間が神に創造されてから今日まで、神の性質、神であるものと神が持っているもの、そして神の旨は、常にすべての人に開かれてきたのです。神が自らの本質、性質、その旨を意図的に隠したことは一度もありません。ただ単に人間が、神が行っていることやその旨に無関心なだけで、そのため人間は情けないほど神を理解できていないのです。別の言い方をすれば、神はその本体を隠しつつも、常に人間のそばにいて、その旨、性質、本質を絶え間なく明らかに示しているのです。ある意味では神の本体も人々に対して開かれているものの、人間は無知と不従順のため、神の現れを一切見ることができないのです。それならば、神の性質と神自身を理解することは誰にとっても易しいはずではないでしょうか。これはとても難しい質問ですよね。簡単だ、と言うこともできるでしょうが、神を知ろうと努めている人々も、神を本当の意味で知ったり明確な理解を得たりすることはできず、ぼんやりと曖昧な認識のままになっています。しかし「簡単ではない」、と言ってしまうのもまた正しくありません。人々はこれほど長い間神の働きの対象となってきたのだから、すべての人はその経験を通して、神と純粋に交わってきているはずです。少なくともある程度は、心の中で神を感じたり、神との霊的な触れ合いを経験したりしたことがあるはずで、少なくとも神の性質について何らかの知覚的な目覚めを経験しているか、神について何らかの理解を得ているはずです。人間は神に従い始めてから今日まで、じつに多くのものを神から受け取ってきましたが、人間の能力の限界、無知、反抗心、さまざまな意図などというあらゆる理由で、その多くを失ってもいるのです。神は人間にすでに充分与えたのではないでしょうか。その本体を人間から隠してはいるものの、神は人間に神が所有するものと神そのものを与え、自らのいのちすらも与えています。神についての人間の認識は、もっと豊かであるべきなのです。そのためわたしはこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについて、より深く交わりを持つ必要があると思うのです。その目的は、神が何千年もの間ずっと人間に対して注いできた思いが無駄に終わらないようにすることと、人間が自分への神の旨を真に理解し、それに感謝できるようになることです。それによって人は神の認識の新しい段階へと進むことができ、また神は人々の心の中の本来あるべき場所に戻ることになります。それが、人間が神に対してなすべき義なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 23

アダムへの神の命令

創世記2:15-17 ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

この節からどんなことがわかるでしょうか。この箇所を読んでどのように感じますか? なぜわたしが「アダムへの神の命令」を取り上げたのだと思いますか? 皆さん一人一人が、神とアダムの姿を心に描けたでしょうか。想像してみてください……もし自分がこのシーンの中にいるとしたら、内心、神はどんなふうだと思いますか? それを考えてみると、どんな気持ちになりますか? これは感動的な、心温まるシーンです。そこには神と人間しかいませんが、その関係の親密さを見ると、感嘆の念に満たされます。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包み込んでいます。人間は無邪気で純粋で、重荷もなく気ままに、神に見守られながら幸せに暮らしています。神は人間を気遣い、人間は神の保護と祝福の中で生きています。人間の行動と言動は一つひとつすべてが神と密接につながっており、神と切り離すことはできませんでした。

この命令は神が人間を創造した後、最初に与えた命令だったといえます。この命令は何を表しているのでしょうか。それは神の旨ですが、同時に神の人類に対する懸念も表しています。これは神の最初の命令であり、そしてこのとき初めて神は、人間に対する懸念を表しました。すなわち、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を感じていたということです。神の責任とは何でしょうか。それは人間を守り、世話をするという責任です。神は人間が神の言葉を信頼し、従うことを望みました。それは神が人間に抱いた最初の期待でもあります。神はこの期待をもって、次のように言いました。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。この単純な言葉には神の旨が表されています。そしてまた、神が心の中で人間に対する懸念を抱き初めていたことも示されています。万物のうちで、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれた生き物であり、神とともに歩み、神と対話できる存在でした。そのため神はこの命令を人間に与えたのです。神はこの命令の中で、人間が何をしてよいか、そして何をしてはいけないのかを、非常にわかりやすく伝えました。

この単純な言葉から、神の心をうかがい知ることができます。それはどのような心でしょうか。神の心に愛はあるでしょうか。また、懸念はあるでしょうか。これらの節では神の愛と懸念とが認められるだけでなく、それらを強く感じ取ることができます。そう思いませんか? わたしがこう言っても、まだこれらを単なる言葉だと思うでしょうか。結局のところ、この言葉はそれほど単純ではないのではないでしょうか。これまでそのことに気づいていましたか? もし神があなたに直接これらのことを語ったとしたら、どう感じるでしょうか。もしあなたが人間味のない人で、心が冷え切っているなら、何も感じないでしょうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないでしょう。しかし良心と人間味のある人なら、見方は違ったものになります。温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じるでしょう。そうではありませんか。そうしたことを感じたら、神に対してどのように行動するでしょうか。神とのつながりを感じるでしょうか。心の底から神を愛し、敬うでしょうか。心は神に近づくでしょうか。このことから、神の愛が人間にとってどれだけ重要かが見て取れるでしょう。しかしさらに重要なのは、人間が神の愛を認識し、それを理解することです。実際、神は働きのこの段階において、似たようなことを多く語ってはいないでしょうか。今日、神の心を理解している人々はいるでしょうか。皆さんは、今わたしが述べた神の旨を理解できたでしょうか。これほど具体的で明らかに現実に示されている神の心さえ、皆さんははっきりと認識できずにいます。だからわたしは、皆さんが神についての本当の認識と理解を得ていないと言うのです。そうではないでしょうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 24

エバの創造

創世記 2:18-20 またヤーウェ神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そしてヤーウェ神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

創世記 2:22-23 ヤーウェ神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

この箇所には、鍵となる一文があります。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで、すべての生き物に名前をつけたのは誰でしたか? それは神ではなく、アダムでした。この一文はある事実を人類に示しています。神は人間を創造したとき、人間に知性を与えました。つまり、人間の知性は神に由来するものだということです。それは間違いありません。しかし、なぜでしょうか。アダムは神に創造された後、学校へ行ったでしょうか。アダムは字を読むことができたでしょうか。神がさまざまな生き物を造った後、アダムはそれらの被造物をすべて認識することができたのでしょうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのでしょうか。もちろん神は、アダムにそれらの生き物の名前をどうつけたらよいかも教えていません。それは事実です。ではアダムは、どうやってそれらの動物に名前をつけ、またどんな名前をつけばよいか、どのように知ったのでしょうか。これは神が創造の際に、アダムに何を与えたかという問題に関わっています。神が人間を創造したとき、人間に知性を与えたということは、事実によって証明されています。これは鍵となるポイントなので、よく聞いてください。またもう一つ、理解しておかなければならない重要な点は、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということです。なぜこれを言うかというと、そのこともまた神の性質に関わっているからです。この点について、さらに詳しく説明したいと思います。

神は人間を創造し、人に息を吹き込み、自らの知恵と能力の一部、そして神が所有するものと神そのものとを人間に与えました。神が人間にこれらのものをすべて与えた後、人間はいくらかのことを自分で行えるようになり、自分で考えられるようになりました。人間が思いつき行うことが、神の目から見て良いものであれば、神はそれを受け入れ、干渉することはありません。人間の行うことが正しければ、神は人間の思うようにさせておくのです。では、「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。それは、神はさまざまな動物に与えられた名前を変えるべきだとは思わなかったということです。アダムが生き物をどんな名前で呼んでも、神はその名前を認め、それをその生き物の名前としたのです。神はここで何か意見を言ったでしょうか? 一切言いませんでした。このことから何が読み取れるでしょうか。神は人間に知性を与え、人間はその知性を用いて物事を行いました。人間のすることが神の目から見て良いものであれば、神は一切評価や批判をすることなくそれを支持し、認め、受け入れます。これはどんな人間にも、悪霊、すなわちサタンにも絶対にできないことです。ここに、神の性質の現れを見てとることができるでしょうか。人間、堕落した人、あるいはサタンに、誰かが自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるでしょうか。もちろんできません。きっとその自分とは別の人物または勢力と、その立場を争って戦うのではないでしょうか。もちろんそうでしょう。もしあのときアダムと一緒にいたのが堕落した人間かサタンだったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを否定したでしょう。自分が独自に考えられること、独特の見解を持っていることを証明するために、アダムのしたことをすべて否定したはずです。「その名前にしたいと? いや、わたしならその名前にはしない。わたしはこの名前にする。君はトムと名付けたが、わたしはハリーと呼ぶことにする。わたしは自分がどれだけ利口かを示してみせる」といったふうにです。これはどのような本性でしょうか。恐ろしく傲慢ではありませんか。そして神はどうでしょうか。神にそのような性質はあるでしょうか。神はアダムがしたことに、何かおかしな反対をしたでしょうか。そんなことは一切ありません。神が示す性質には、論争、傲慢、独善などは一切見られないのです。それは明らかです。これは些細なことに見えるかもしれませんが、神の本質を理解せず、神がどのように働きどんな態度を持つかを心から知ろうとしていなければ、神の性質を知ることはできませんし、神の性質の表現や明示を見出すこともできません。そうではありませんか。今説明したことに同意されるでしょうか。神はアダムがしたことに対して、「よくやった、お前は正しいことをした、お前に同意しよう」と壮大に宣言したりはしませんでした。ただ心の中でアダムのしたことを認め、受け入れ、褒め称えたのです。これは人間が創造されてから、神の指示によって行った最初のことでした。人間が神の代理として、神の代わりに行ったのです。神の目から見れば、それは自分が人間に与えた知性によって行われたことでした。神はそれを良いこととして、肯定的に捉えました。このときアダムが行ったことは、神の知性が人間を通して現れた最初の出来事であり、それは神の視点から見て優れた現れだったのです。ここであなたがたに伝えたいのは、神がその所有するものと神そのもの、そしてその知性の一部を人間に授けたのは、人間を神の現れとなる生き物にするためだったということです。このような生きる被造物が神の代理として物事を行うことこそ、まさしく神がずっと見たがっていたことだったのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 25

神がアダムとエバのために皮の着物を作られる

創世記 3:20-21 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。ここで、アダムとエバと共にいる神は、どんな役割を果たしているでしょうか。人間が二人しかいないこの世界で、神は自らをどのように現しているでしょうか。それは神という役割でしょうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれませんか。(親としての役割。)では韓国の兄弟姉妹よ、神はどのような役割で現れていると思いますか。(家族の長。)台湾の兄弟姉妹は、どう思いますか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割。)すると、神がアダムとエバの家族の一員として現れていると思う人もいれば、家族の長として現れているという人も、また親として現れていると思う人もいるわけですね。そうした答えはいずれも適切です。しかし、わたしが言わんとしていることは何だかわかるでしょうか。神はこの二人の人間を創り、二人を自身の友として扱いました。二人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、食物や衣類、住居の世話をしたのです。ここでは神は、アダムとエバの親として現れています。このとき、人は神がどれだけ高尚であるかを目にせず、神の至高、その神秘、そして特にその怒りや威厳を見ることはありませんでした。人が見たのは、神の謙遜、慈しみ、人間への思い、そして人間に対する責任感と配慮です。神の態度やアダムとエバの扱い方は、親が自分の子供を気遣うのに似ています。また親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのにも似ており、その情は本物で目に見える具体的なものです。神は自らを高尚な威厳ある者として位置付けるのではなく、自分で動物の皮を使って人間のために衣服を作ったのです。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためであったか、寒さから守るためであったかは問題ではありません。重要なのは、人間の体を覆うこの衣服を、神が自らの手で作ったということです。神は人間が想像するように、ただ思考だけで衣服を生み出したり、その他の奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ人が神にはできない、すべきでないと考えるような方法で作ったのです。これは些細なことに見えるかもしれず、あえて語る必要もないと思う人もいるかもしれません。しかし神に従いながらも、神について曖昧なイメージしか持てずにいた人たちは、この箇所を見ることで、神の純粋さや魅力を知り、その誠実さと謙遜を見てとることができます。そして自分が偉く力のある存在だと考えているどうしようもなく高慢な人たちは、神の純粋さと謙遜の前に恥じ入り、自惚れていたその頭を下げることになります。さらにここで現されている神の純粋さや謙遜を通して、人は神の魅力を知るようになるのです。それに比べると、人が心に抱いている「強大な」、「愛すべき」、「全能の」神は、矮小で醜い、吹けば飛び散る塵のようなものになってしまいます。この節を読み、この物語を聞いて、皆さんはこんなことをした神を見下すでしょうか。そういう人もいるかもしれませんが、その他の人々にとってはまったく逆で、神が真実で愛すべきものに思えることでしょう。人々の心を動かすのは、まさに神の純粋さと愛すべき性質なのです。人は神の真実の側面を知れば知るほど、神の愛の実在、心の中に存在する神の重要性、そして神がどんなときも自分に寄り添ってくれることを、強く認識できるようになるのです。

ではここで、話を現在とつなげてみましょう。神がこのような初期に、自らが創造した人間に対し、このようにさまざまな小さなこと、人間がまったく考えも予想もしなかったようなことまでしてくれるのなら、今日の人々に対しても、神はそんなことができるのでしょうか。「もちろんだ!」と言う人もいるでしょう。それはなぜでしょうか。それは神の本質が偽物ではなく、神の魅力も偽物ではないからです。神の本質は真に存在しており、他者によって付け足されるものではなく、時間や場所、時代によって変わるものでも決してないからです。神の純粋さや魅力は、人間が注目に値するとも重要だとも思わない行為によってのみ、真に表されるのです。それは非常に些細なことで、神がするとはとても思えないようなことです。神は偉ぶってはいません。神の性質や本質の中には、誇張、偽装、高慢、傲慢などというものは存在しません。神は決して自慢することなく、自身が創造した人間を愛し、配慮し、世話をし、忠実に誠意をもって導きます。人々がどれほどこのことを認識し、感じ、理解していなかろうとも、神は間違いなくそうしています。神がそんな本質を持っていると知ることで、人々の神への愛に影響があるでしょうか。神への畏れに影響があるでしょうか。わたしはあなたが神の本当の側面を理解することで、神にますます近づき、神の人間への愛と配慮をより深く理解できるようになるとともに、神に心を捧げ、神に対する疑いもいぶかりも持たなくなることを願っています。神は人間のためにすべてのことを静かに行っており、すべてを誠意と忠実と愛を通して無言で行っています。しかし自らの行うことについて、不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らの見返りを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ありません。神がこれまでに行ったすべてのことの唯一の目的は、人間の真の信仰と愛を受け取ることです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 26

神が世界を洪水で滅ぼそうと考え、ノアに箱舟を作るように命じる

創世記 6:9-14 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい」。

創世記 6:18-22 「ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。ノアはすべて神の命じられたようにした。

この二つのくだりを読んで、ノアという人物についてはほぼ理解できたでしょうか。ノアはどのような人物でしたか? 聖書にはこう書かれています。「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」。現代の人々の理解からして、当時の「正しい人」とはどんな人だったのでしょうか。正しい人とは、完全な人であるはずです。その完全な人というのは、人間の目から見て完全なのでしょうか、それとも神の目から見て完全なのでしょうか。ここでいう完全な人とは間違いなく、神の目から見て完全な人であり、人の目から見て完全な人ではありません。それは確かなことです。なぜなら人間は盲目で見ることができず、神だけが全地を見渡し人間一人一人を見ているのであり、神だけがノアが完全な人だと知っていたのです。したがって、洪水で世界を滅ぼすという神の計画は、神がノアを召し出したときから始まっていたのです。

(中略)

ノアが召し出されたことは単純な事実ですが、わたしたちの話の要点、すなわちこの聖書のくだりに現れている神の性質、神の旨、神の本質は、それほど単純なものではありません。これらの神の側面を理解するためには、まず神が召し出したいと思うのはどんな人物なのかを理解してから、それを通して神の性質、旨、そして本質を理解しなければなりません。このことは非常に重要です。では神の目から見て、召し出される人物とはどんな人物だったのでしょうか。それは神の言葉を聞くことができ、指示に従うことができる人物に違いありません。また同時に、責任感があり、神の言葉を自分の果たすべき責任かつ義務とみなして遂行できる人物であるはずです。ではその人物は、神を知っている必要があるでしょうか。そうではありません。当時ノアは、神の教えをあまり聞いておらず、神の働きも経験していませんでした。そのためノアは神のことをほとんど知らなかったのです。この聖書のくだりには、ノアが神と共に歩んだとありますが、ノアは神の本体を見たでしょうか。まったく見ていません。なぜならこの時代には、神の使いだけが人々の中にやって来たからです。使いたちは言葉や行いの中で神を表すことはできましたが、ただ神の旨とその意図を伝えているに過ぎませんでした。神の本体が人間に対して直接明らかにされることはなかったのです。この聖書のくだりに見ることができるのは、基本的にこのノアという人物に与えられた仕事が何だったのか、そして神のノアに対する指示はどんなものだったのかということだけです。では、ここで現された神の本質とはどんなものだったのでしょうか。神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。では、当時と今の違いは何でしょうか。それもまた、神の心を最も悲しませていることであり、おそらくあなたがたの誰も理解できないことなのです。

神が洪水で世界を滅ぼしたとき、神はノアを召し出し、箱舟を作らせ、備えをさせることができました。神はノアという一人の人間を召し出し、自らのためにこのような働きをさせることができました。しかし今の時代には、神が召し出せる者は誰もいません。なぜでしょうか。ここにいる人たちは皆、その理由をよくわかっていることと思います。説明が必要でしょうか。あえて言葉にすれば、あなたがたの顔をつぶし、悲しませてしまうかもしれません。人によってはこのように言うかもしれません。「わたしたちは神の目にあって正しい者ではなく、完璧な者でもないが、それでも神がわたしたちに何かを命じるなら、その命令を実行する力はある。以前、神が大災害が来ると言われたとき、わたしたちはその時に備えて、食料など必要なものを準備し始めた。これはすべて、神の要求に応えたことではないのか。わたしたちは本当に神の働きに協力していなかったのか。わたしたちがしたことは、ノアのしたこととは比べられないのか。わたしたちが行ったことは真の従順ではないのか、神の命令に従ったのではないのか。わたしたちは神の言葉を信じているからこそ、神の言うとおりにしたのではないか。だとすればなぜ、神はまだ悲しんでいるのか。なぜ神は、召し出せる者がいないと言われるのか」と。では、あなたがたが行ったこととノアが行ったことに違いはあるでしょうか。どのような違いがあるでしょうか。(来る災害に備えて食べ物を準備したのは、自分自身の意思でした。)(ノアは神の目から見て正しい人でしたが、わたしたちの行いは「正しさ」には届きません。)あなたがたの言ったことは、さほど外れてはいません。ノアが行ったことは、今日の人々がしていることとは実質的に異なります。ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知りませんでした。神が何を成し遂げようとしているのかを知らなかったのです。神はただノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、ノアは大した説明も受けず、ただ言われたとおりに実行しました。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたりせず、神に抗ったり、不誠実になったりもしませんでした。ただ純粋で無垢な心で、神の指示に従ったのです。神がノアにするよう告げたことを、ノアはすべて行いました。神の言葉を聞きそれに従順に従うことは、ノアがその行いに信念を持っていることを証明していました。ノアはそのようにまっすぐにかつ単純に、神に委ねられたことを行いました。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、自分の個人的な利益や損得を考えることもありませんでした。そしてさらに、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつかと聞いたり、物事がどうなるのかと尋ねたりせず、もちろん神がどのように世界を滅ぼすのかも聞きませんでした。ノアはただ、神が命じたことをそのとおりに行ったのです。箱舟を何でどのように造るかについても、ただ神の指示通りにし、しかも即座にとりかかりました。ノアはただ神を満足させたい一心で、神の指示に従ったのです。自分が災害から逃れるためにそうしたのでしょうか? いいえ。あとどのくらいで世界が滅ぼされるのかと神に尋ねたでしょうか? いいえ、そんなこともしませんでした。箱舟を作るのにどれくらい時間がかかるかと神に尋ねたでしょうか、またはそれを知っていたでしょうか? ノアはそれも知りませんでした。彼はただ従い、耳を傾け、言われた通りにしたのです。今日の人々はそうではありません。神の言葉から少しでも情報が漏れたり、風の中で木の葉の擦れる音が聞こえたりしただけで、彼らは即座に行動を起こします。何があろうと、どんな代価を払おうと、災害後に必要な食べ物や飲み物その他を準備し、災害が来たときの避難経路さえ計画します。さらに興味深いのは、このような重大なとき、人間の脳は非常にうまく「仕事を成し遂げる」ものなのです。神が何の指示も与えていない状況では、人間はすべてを非常に的確に計画できます。そのような計画については「完璧」という言葉も大げさではないほどです。しかし神の言うことや神の意図が何であるか、神が何を望むかについては、誰も気にかけず、知ろうともしません。これこそがノアと、今日の人々の最大の違いではないでしょうか。

このノアの物語から、神の性質の一部を見て取ることができるでしょうか。人間の堕落、汚れ、そして暴虐に対する神の忍耐には限界があります。その限界に達すると、神はもう耐えることはせず、新しい経営と新しい計画を開始し、しなければならないことをし始め、神の偉業とその性質のもう一つの面を現すのです。神のこの行いは、人が神を決して怒らせてはいけないとか、神が権威と怒りに満ちているということを示すためではなく、神が人間を滅せると示すためでもありません。ただこのような人間が自らの前で、自らの支配の下で生きていることを、神の性質とその聖い本質がそれ以上許せず、それ以上耐えることもできないのです。つまり、すべての人間が神に敵対したとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのです。こうした神の行動は神の性質によるところなのです。それは必然の結果であり、神の支配の下にあるすべての被造物がこれに耐えなければなりません。このことから、神はこの現代において、自らの計画を全うし救いたい人々を救うのを待ちきれずにいるとわかるのではないでしょうか。このような状況で、神が最も気にしていることは何でしょうか。それは神にまったく従わない者たちやいずれにせよ反抗する者たちが、どのように自身を扱い抵抗するかということでもなければ、人間がどのように神を中傷しているかということでもありません。神が気にかけているのはただ、自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が完成されているかどうか、満足できる者になっているかどうかということなのです。神に付き従う者以外に対しては、ただ時々多少の懲罰を与えてその怒りを示すだけです。これがたとえば津波、地震、火山噴火などです。そして同時に、神は自分に従う者たちと、まもなく救われる者たちを強く保護し見守っています。神の性質とは、自分が完全にしようとしている人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、可能な限り待ち続けることができる一方で、自分に付き従わず敵対するサタン的な輩は激しく忌み嫌うというものです。神はそうしたサタン的な輩が自分に従ったり崇拝したりするかどうか気にはしませんが、それでも彼らを忌み嫌っており、同時に心の中では彼らに対する忍耐を持っています。そしてこうしたサタン的な輩の最後を決定しつつ、自らの経営計画の新たな段階が到来するのを待っているのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 27

神が洪水後にノアに与えた祝福

創世記 9:1-6 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。

ノアが神の指示を受けて箱舟を作り、神の洪水による世界の滅びを生き抜いた後、ノアの八人家族は全員生き延びました。ノアの家族八人を除いては、すべての人間が滅ぼされ、地上のすべての生き物も滅ぼされました。神はノアに祝福を与え、ノアとその息子たちにいくつかのことを語りました。その言葉は神がノアに授けたものであり、ノアへの祝福でもありました。それは神の言葉に耳を傾け、その指示を受け入れることができる者に与えられる祝福と約束であり、また神が人々に報いる方法でもあります。つまり、ノアが神の目から見て完全な人だったか、または正しい人だったかに関わらず、そしてノアが神についてどれだけ知っていたかにも関わらず、端的に言えばノアと三人の息子たちは皆ただ神の言葉を聞き、神の働きに協力し、神の指示に従ってするべきことをしたのです。その結果として彼らは、世界が洪水によって滅ぼされた後、人間とさまざまな生き物を神のために生き長らえさせ、それによって神の経営計画の次の段階に大きく貢献したのです。神はノアが行ったすべてのことのために、彼を祝福しました。今日の人々にとって、ノアがしたことは語るにも価しないかもしれません。人によっては、「ノアは何もしなかった。神はノアを生き残らせるよう決めていたのであって、彼はいずれにせよ助かることになっていたのだ。ノアが生き延びたのは彼自身の貢献によるものではない。人間は受動的なのだから、ただ神がそうしようと思っただけのことだ」とさえ思うかもしれません。しかしそれは、神が考えていたこととは違います。神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神の声を聞き、神の指示と委ねられる任務に従い、神の働きと旨と計画に協力し、神の旨と計画が円滑に達成されるようにできるなら、その行いは神に記憶され、神の祝福を受けるに値するのです。神はそのような人々を大切にし、彼らの行動や神への愛と思いを慈しみます。それが神の姿勢です。なぜ神はノアを祝福したのでしょうか。それは神が、人のこのような行動と従順をそのように扱うからです。

ノアに対する神の祝福については、次のように言う人もいるでしょう。「人が神に従い、神を満足させるなら、神は人を祝福するだろう。それは当たり前のことではないか」と。そのように言えるでしょうか? 「そうは言えない」と言う人もいます。なぜでしょうか。「人間は神の祝福を享受するに値しないからだ」と言われることがありますが、それは完全には正しくありません。なぜなら神が委ねるものを人が受け入れたとき、神はその人の行動の良し悪しと、その人が従ったかどうか、神の旨を満足させたかどうかを判断する基準を持っており、そして彼らの行いがその基準を満たすかどうかを判断するのです。神が問題とするのはその人の心であり、表面的な行動ではありません。人が何かをしさえすれば、どのようなやり方をしようと祝福されるべきだということはありません。それが人々の神に対する誤解です。神は物事の最終結果だけを見ているのではなく、むしろ物事の経過の中で人の心がどうであるか、その態度がどうであるかということに重きを置き、彼らの心に従順、配慮、そして神を満足させたいという願いがあるかどうかを見ているのです。当時、ノアは神についてどれほど知っていたでしょうか。今皆さんが知っているのと同じくらい、多くの教義を知っていたでしょうか。神の概念や認識などという真理の側面についていえば、ノアはあなたがたほど潤され、導かれていたでしょうか。そうではありませんでした。しかし否定できない事実がひとつあります。今日の人々の意識や精神、さらに心の奥底にある神の概念や神への態度というものは、ぼんやりとした曖昧なものです。一部の人々は神の存在についてさえ消極的な態度をとっています。しかしノアの心との意識の中では、神の存在は絶対的であり、疑う余地のないものでした。そのためノアの神への従順は混じりけがなく、試みに耐えうるものだったのです。ノアの心は純粋で、神に対して開かれていました。ノアは大した教義の知識も求めることなく、神の一つひとつの言葉にただ納得して従い、また神の存在を証明する多くの事実も必要とせずに、ただ神が委ねた任務を受け入れ、神が与える仕事は何でも行いました。これがノアと今日の人々の根本的な違いです。そしてまた、これこそが神の目から見て完全な人とはどんな人かの真の定義なのです。神が欲するのはノアのような人々です。ノアは神が称賛する類の人であり、まさしく神が祝福する類の人なのです。このことから何らかの啓きを受けられたでしょうか。人はうわべで人を判断しますが、神は人の心と本質とを見ています。神は人が自らに対していい加減な心や疑いを持つことを許さず、いかなる方法で自らを疑うことも試みることも許しません。そのため今日の人々は、神の言葉と直接向き合っており、神と直接向き合っているとさえ言えるかもしれませんが、その心の奥底にあるものとその堕落した本質の存在、そしてその神に敵対する態度のため、神への真の信仰を持つことが妨げられており、神に従順になれずにいるのです。そのために、ノアに授けられた祝福と同じ祝福を得ることは非常に難しいのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 28

神が人間との契約のしるしとして虹を見せる (抄出)

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

ほとんどの人は虹が何かを知っていますし、虹に関係する物語をいくつか聞いたことがあります。聖書の虹についての物語は、信じる人もいれば伝説として捉える人もあり、まったく信じていない人々もいます。いずれにしても、虹に関係して起こったすべての出来事は神の働きであり、神による人の経営の過程で起こったことです。これらの出来事は聖書に明確に記述されています。そうした記述には、当時神がどんな気持ちだったのかや、それらの言葉の背後にある神の意図については説明されていません。そしてさらに、神がそれらの言葉を言ったとき何を感じていたかは誰にもわかりません。しかしこの出来事全体に関する神の心境は、行間に現れています。まるで神の当時の考えが、その一つひとつの言葉や言い回しを通してページから飛び出てくるようです。

人々は神の考えを心に留めるべきであり、最優先に知ろうと努めるべきです。なぜなら神の考えは人間による神の理解と密接に関係しており、人間による神の理解は、人間によるいのちの入りと切り離すことができないからです。それでは、これらの出来事が起こったとき、神は何を考えていたのでしょうか。

当初、神は人間を、神の目から見て非常に良く、自らと親密なものとして創造しました。しかし人類は神に反抗し、洪水によって滅ぼされました。そのような人間がこのように一瞬で消えてしまうことは、神を悲しませたでしょうか。もちろんです。では神によるこの苦痛の表現はどんなものだったでしょうか。聖書の記述にはどうあるでしょうか。聖書には次のようにあります。「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。このシンプルな文章が、神の思いを表現しています。この世界の破壊は神に大きな苦痛を与えました。人間の言葉で言えば、神はとても悲しかったのです。想像してみてください。かつて生命で満ち溢れていた地上は、洪水によって滅ぼされた後どんな姿だったでしょうか。かつて人で満ちていた地上は、当時どんな姿になったでしょうか。人の住居もなく、生物もなく、地は水で満ち、水面はひどい惨状です。そんな光景が、世界を創造した当初、神が思い描いたものだったでしょうか。もちろん違います。神の当初の考えは、地の至るところに生命が溢れ、自らが創造した人間が自分を崇拝する世界を見ることでした。ノアだけが自分を崇拝し、ノアだけが自分の召し出しに応えて委ねられた任務を全うできるような世界ではありませんでした。人類が一掃されたとき、神が見たものは自らが当初意図したものではなく、それと真逆のものでした。これで神の心が痛まないことがあるでしょうか。そのため神は、自身の性質を現し自身の感情を表したとき、ある決断をしました。それはどんな決断だったのでしょうか。人間との契約として、雲の中に弧(つまりわたしたちが見る虹)をかけたのです。それは神が二度と洪水によって人類を滅ぼさないという約束でした。そして同時に、神が一度世界を洪水によって滅ぼしたことを人間に伝え、なぜそんなことをしたのかを永遠に思い出させるためでもありました。

当時の世界の滅びは、神が望んだことだったでしょうか。それは決して神が望んだことではありませんでした。わたしたちは世界が滅んだ後の地上の痛ましい光景をわずかに想像できるかもしれませんが、当時それが神の目にどのように映ったかは、想像の及ぶところではありません。当時の人にも今日の人にも、神がその光景、すなわち洪水で滅んだ後の世界を見たときの感情を、想像したり理解したりできる者は誰もいないでしょう。神は人間の不従順のためにそうせざるを得なかったのですが、この洪水による世界の滅びによって引き起こされた神の心の痛みは、人間には計り知れないものです。そのため神は人間と契約を結び、神が一度このようなことをしたことを思い出させるとともに、二度とこのような方法で世界を滅ぼすことはしないと彼らに誓ったのです。この契約から、神の心を見てとることができます。神が人類を滅ぼしたとき、その心が痛んでいたということを。人間的な言い方をすれば、神が人類を滅ぼして地上から人間が消えるのを見たとき、神の心は嘆き、血を流したのです。これが最適な表現ではないでしょうか。こうした言葉は人が人の感情を表すために用いるものですが、人間の言葉は不十分すぎるため、それを用いて神の感情を説明してもさほど悪くはなく、行き過ぎでもないと思います。少なくとも当時の神の心境がどんなものだったかについて、非常に生き生きとした適切な理解を得ることができるでしょう。今後また虹を見たとき、皆さんは何を思うでしょうか。少なくとも、神が洪水で世界を滅ぼしたときにどれほど悲しんだかを思い出すことでしょう。神がこの世界を憎み、人間を忌み嫌いはしたものの、自らの手で創造した人間を滅ぼしたときどれほど心が痛み、滅ぼすことを惜しみ、ためらい、耐え難く感じたかを思い出すことでしょう。神の唯一の慰めはノアの八人家族でした。ノアの協力があったからこそ、神の丹精込めた万物の創造は無駄にならずにすんだのです。その事実は、神が苦しんでいたとき、その痛みを和らげることのできる唯一のものでした。それ以降、神は人間へのすべての期待をノアの家族に託し、彼らが神の呪いではなく祝福の下で生きるように、二度と世界が洪水で滅ぼされるのを見ないように、そして彼ら自身も滅ぼされないようにと望んだのです。

ここからわたしたちは、神の性質のどんな面を知るべきでしょうか。神は人間が自らに敵意を抱いたため、人間を忌み嫌いましたが、その心の中にある人間への思い、配慮、憐れみは変わることがありませんでした。人間を滅ぼしたときでさえ、神の心は変わらなかったのです。人間が堕落に満ち、嘆かわしいほど神に不従順だったとき、神は自らの性質と本質のため、そして自らの原則を守るために、その人間を滅ぼさなければなりませんでした。しかしその本質のため、神はそれでも人間を憐れんでおり、人間が生き続けられるよう、さまざまな方法で人間を救いたいとすら願っていました。しかし人間は神に反逆し、神に背き続け、神の救いを受け入れることを拒みました。つまり、神の善意を受け入れることを拒んだのです。神がどれほど人間に呼びかけ、言い聞かせ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解も感謝もせず、注意を払いもしませんでした。神は苦しみつつも、最大限の寛容さを与えることを忘れず、人間が心を改めるのを待ちました。そして限界に達したとき、神は自らが行わねばならないことを迷いなく行ったのです。言い換えれば、神が人間を滅ぼすことを計画したときから、実際に人間を滅ぼす働きを始めるまでには、一定の期間と過程があったということです。この過程は人間に心を改める機会を与えるためにあったもので、神が人間に与えた最後のチャンスでした。では神は、実際に人間を滅ぼすまでの期間、何をしていたのでしょうか。神は人間に言い聞かせ忠告するために、非常に多くの働きをしていたのです。心にどれほどの痛みと悲しみを抱えていようとも、神は人間を配慮し、気遣い、溢れるほどの憐れみを注ぎ続けたのです。このことから何がわかるでしょうか。疑いもなく、神の人間に対する愛が本物であり、口先だけのものでないことが見て取れます。その愛は実在し、明らかに感じ取ることができるもので、偽物ではなく、混じりけもなく、欺きも飾り気もないものです。神は騙したりイメージを繕ったりして、自らを愛すべき者のように見せることは決してありません。偽証によってその魅力を人々に見せることも、その魅力や聖さを誇示することもないのです。このような神の性質は、人間の愛に値しないでしょうか。崇拝に値しないでしょうか。大切にするに値しないでしょうか。ここでわたしは皆さんに尋ねたいのです。こうしたことを聞いて、皆さんは神の偉大さというものが、単に紙に書かれた空虚な言葉だと思うでしょうか。神の魅力はただの虚しい言葉でしょうか。いいえ違います。絶対に違います。至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛など、神の性質と本質のさまざまな側面における一つひとつの詳細は、神が働きを行うたび実際に現れ、神の人間に対する旨の中に具現化されており、さらにすべての人間の中に実現され反映されてもいるのです。これまでにあなたがそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神はあらゆる方法ですべての人に思いをはせ、その誠実な心と知恵とさまざまな方法を用いて、一人ひとりの心を温め、一人ひとりの霊を呼び覚ましているのです。これは議論の余地のない事実です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 29

神が人間との契約のしるしとして虹を見せる (抄出)

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

神は人間を創造しました。そして人間が堕落していようといまいと、自らに従おうと従うまいと、神は人間を自分のもっとも大事な愛する者として、人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接しており、玩具のように扱うことはありません。神は自らが創造主で人間はその被造物だと言っており、そこにはやや格の違いがあるように聞こえるかもしれませんが、実際には神が人間のために行ったすべてのことは、そのような関係をはるかに超えるものです。神は人間を愛し、思いやり、配慮してくれるだけでなく、常に絶えることなく人間を養ってくれています。そして心の中でそれを余分な仕事と感じたり、多くの称賛に値すると思ったりもしません。また人間を救い、与え、すべてを授けることを、人類への大きな貢献だとも思っていません。神はただ静かに独自のやり方で、自らの本質と所有するもの、そして神そのものを通じて、人間を養ってくれるのです。人間が神からどれだけの備えと支援を受けようとも、神はそれを手柄と考えたり、手柄をたてようと思ったりもしません。これは神の本質によるものであり、同時にまさしく神の性質の真なる表現でもあります。そのためわたしたちは、聖書にせよその他の本にせよ、神が自らの考えを表わすのを目にすることもなければ、神が人間に感謝させたり自らを称賛させたりする目的で、なぜそんなことをするのかやなぜそれほど人間を思いやっているのかを説明したり表明したりするのを、見かけることは一切ないのです。神は傷ついているときや心がひどく痛んでいるときでさえ、一人静かにその傷や痛みに耐えながら、人間に対する責任と思いを決して忘れずにいます。そしてこれまでいつもしてきたとおり、人間を養い続けるのです。人間は神をしばしば賛美したり証しをしたりしますが、そうした行為はどれも神に要求されたものではありません。なぜなら神は、人間に感謝されたり見返りを得たりするために、人間によいことをしているのではないからです。他方、神を畏れ悪を避けることができる人々、誠をもって神に従い、神の言葉を聞き、忠実に服従できる人々は、神の祝福をしばしば受けることになり、神はそのような祝福を惜しみなく与えます。そしてさらに、人が神から受ける祝福はしばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えています。神の祝福を享受しているとき、神の行っていることを気にかける人はいるでしょうか。神がどのように感じているかを気遣う人はいるでしょうか。神の痛みを理解しようとする人はいるでしょうか。まったくいません! ノアを含む全人類の中に、当時神が感じた痛みを理解できる者が一人でもいるでしょうか。神がなぜあのような契約を打ち立てたのかを理解できる人はいるでしょうか。それは人間には理解できません。人間が神の痛みを理解しないのは、神の痛みを理解できないからではなく、また神と人間の差のせいでも、立場の違いのせいでもありません。ただ単に、人間が神の感情を一切気にかけていないからです。人間は神が独立した存在だと思っているため、人が神を気遣ったり、理解したり、配慮したりする必要はないと考えています。神は神であって、痛みも感じなければ感情もなく、悲しむこともないし、嘆くこともなく、泣くことすらない。神は神なので、感情の表現は一切必要なく、感情的な慰めも一切必要としない。もしも状況によってそんなものが必要になれば、そのときは神が自ら解決できるし、人間の助けなど必要としないだろう。逆に神の慰め、施し、励ましを必要としているのは、弱く未熟な人間のほうであり、人間にはいつでもどこでも神の慰めが必要なのだ。このような考えが、人間の心の奥底に隠れています。弱いのは人間のほうなので、あらゆる面で神の世話が必要であり、人間は神のあらゆる配慮にふさわしく、自分のものにしなければならないと感じるあらゆるものを神に要求する必要がある。神は強く、すべてを持っているのだから、人間の守護者となり祝福を授ける存在でなければならない。神はすでに神なのだから、全能であり、人間からは何も必要としないのだ、と。

人間は神が明らかにすることのいずれにも注意を払わないため、神の悲しみも痛みも、喜びも感じたことはありません。しかし神は逆に、人間の感情表現をすべて自分のもののようによく知っています。神はどこにいても常に皆の必要を満たし、一人ひとりの考えの変化を見て、彼らを慰め、励まし、導き、光を灯します。神が人間に対して行ってきたすべてのことと、人間のために払ったすべての代価について、聖書のくだりやこれまでに神が語った言葉の中に、人間に何かを求めると明らかに述べたものはあるでしょうか。一切ありません。逆に、人々がどれだけ神の考えを無視しようと、神は人間を繰り返し導き、何度でも与え、助けてくれており、そうすることで人間が神の道に従い、神が用意した美しい終着点へとたどり着けるようにしてくれます。神について言えば、神が所有するものと神の存在そのもの、神の恵みと憐れみ、そしてそのすべての報いは、神を愛し従う人々に惜しみなく与えられます。しかし神は、自らが抱えた痛みやその心境を誰にも明かすことはなく、誰かが神に配慮せずその旨を知らないからといって、不満を言うことも一切ありません。ただすべてを静かに耐え、人間が理解できるようになる日を待っているのです。

なぜここでこのようなことを話したと思いますか? わたしが話したことから、どんなことがわかったでしょうか。神の本質と性質の中には、非常に見落とされやすく、そして神だけが持っているものがあります。それは人々に偉大だとか善人だとか思われている人想像した神のようだと思われている人も含め、どんな人間も持つことができないものです。それは何かといえば、神の無私の心です。無私について話すと、あなたは自分も非常に無私だと思うかもしれません。なぜなら自分の子供について言えば、子供とは一切交渉などせず気前良く与えているし、また自分の両親のことを考えても、自分は非常に無私だと思うかもしれません。どう思うにせよ、少なくともあなたは「無私」という言葉の意味を理解していて、それを肯定的な言葉と捉え、無私であることはとても立派なことだと思っていますよね。自分が無私であれば、あなたは自分自身を高く評価するでしょう。しかし、人々や出来事、物事、そして神の働きを含む万物に認められる、神の無私の心を見ることができる人は誰もいません。なぜでしょうか。それは、人間があまりに自己中心的だからです。なぜこう言うかというと、人間は物質的な世界に住んでいます。あなたは神に付き従っているかもしれませんが、神がいかにあなたを養い、愛し、気遣っているかを見たり理解したりすることはありません。では何を見ているのでしょうか。それはあなたを愛してくれる、可愛がってくれる肉親です。あなたは自分の肉にとって有益なものに目を留め、自分が愛している人々や物事に心を配っています。それが人間の言うところの無私です。ところがそのような「無私」な人々も、自分にいのちを与えてくれる神のことはまったく気にかけません。神の無私とは対照的に、人間の無私は自己中心的で卑劣なものになります。人間が信じる無私とは、空虚で非現実な、汚れた、神とは相容れないものであり、神とは関係がありません。人間の無私は自分自身のためであり、一方神の無私は、神の本質の真の現れです。人間が常に神によって養われているのは、まさに神が無私であるからです。皆さんはわたしが今日話しているこのテーマにそれほど深く感動せず、ただ頷いているだけかもしれませんが、心の中で神の心を理解しようとすると、いつの間にか気づくことになります――この世で知覚できるすべての人々、出来事、そして物事の中で、ただ神の無私だけが真実で揺るぎないものなのだと。なぜなら神のあなたに対する愛だけが、無条件で汚れがないからです。神以外には、誰のいわゆる無私もすべて見せかけの表面的なものであり、真実ではありません。それは目的や特定の意図を含み、交換条件付きで、試みに耐えることはできず、汚れた卑しむべきものとさえ言えます。皆さんはこうした言葉に同意されるでしょうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 30

神が人間との契約のしるしとして虹を見せる (抄出)

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

ノアの物語の最後で、神が当時普通とは違った方法で自身の感情を表したことがわかります。その非常に特別な方法とは、人間と契約を結び、洪水による世界の破壊の終了を宣言することでした。一見、契約を結ぶというのは実に普通のことのように思えます。それはただ言葉を用いて二者を拘束し、合意に違反することを戒めて、両者の利益を保護することでしかありません。形式上は非常に普通のことなのですが、この契約はその背後にある動機と、神がそれを行った意図からして、神の性質と心境とを真に現しているのです。これらの言葉をただ軽んじ無視するなら、そしてわたしが物事の真実を伝えなければ、人間は決して神の考えを知ることはないでしょう。あなたの想像の中で、神はこの契約を結んだとき微笑んでいたかもしれず、また真剣な表情だったかもしれません。しかし神のもっとも普通の表現をどう想像するにせよ、神の心やその痛み、ましてやその孤独を知ることのできる人はいません。神に自分を信頼させられる人間や、神の信頼に値する人間などおらず、神が自らの考えを表したりその痛みを打ち明けたりできる人間もいません。そのため神は、このようなことをするしかなかったのです。表面上、神は簡単にかつての堕落した人間と決別し、過去の問題を終結させ、自らが起こした洪水による世界の破滅を完璧に決着させたように見えます。しかし神はこの瞬間から、自身の痛みを心の奥深くにうずめたのです。心を打ち明けられる者の一人もないまま、神は人間と契約を結び、二度と洪水で世界を滅ぼすことはしないと告げました。虹が出るのは、かつてこのようなことがあったと人々に思い起こさせ、悪を行わないように警告するためでした。そのような痛みの中でも、神は人間のことを忘れず、非常に多くの配慮を示し続けました。これが神の愛であり、無私無欲ではないでしょうか。しかし人間は、苦しんでいるとき何を考えるでしょうか。そのようなときが神を最も必要とするときではないでしょうか。そのようなとき、人はいつも神を引きずり出し、慰めてもらおうとします。どんなときでも、神は人々を落胆させることなく、いつも苦境から抜け出させ、光の中で生きられるようにしてくれます。神はそのように人間を養ってくれるにも関わらず、人間の心の中で神は単なる鎮静剤か気付け薬程度のものでしかありません。神が苦しんでいるとき、神の心が傷ついているとき、被造物や誰かがそばにいて慰めてくれるなどということは、神にとっては高望みでしかないのです。人間が神の感情に一切気を留めないので、神は一切誰かに慰めを求めたり期待したりもしません。ただ独自の方法で、自らの気持ちを表現するだけです。人は神がちょっとした苦しみを経験することを、大した苦難だとは考えません。しかし神を真に理解しようと努め、神のすべての行いに内在するひたむきな意図を真に理解できるようになると、初めて神の偉大さと無私とを感じとれるようになります。神は虹を用いて人間と契約を結びましたが、なぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っておらず、つまり自らの本当の思いを誰にも話していません。それは、自ら創造した人間に対する神の愛の深さを真に理解できる者は誰もおらず、そして人間を滅ぼしたときにどれほど神の心が痛んだかを理解できる者もいないからです。そのためもし神が自分の思いを人間に伝えようとしても、人間はその神の信頼に応えることができないのです。神は痛みを感じつつ、働きを次の段階へと進めています。神は常に自らの最善の側面と最善のものを人間に与えながら、自身はすべての苦しみを静かに背負っています。神がこうした苦しみを公然とさらすことは一切なく、神はただそれらに耐えながら、静かに待っています。神の忍耐は冷たく無感覚で無力なものではなく、弱さの顕れでもありません。むしろ、神の愛と本質は常に無私でした。これは神の本質と性質との自然な現れであり、真の創造主たる神の身分の確かな具現化でもあるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

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