いのちへの入り(3)
日々の神の御言葉 抜粋 444
人は霊に関する細かなことをどう理解するようになるのか。聖霊はどのように人間の中で働くのか。サタンはどのように人間の中で働くのか。悪霊はどのように人間の中で働くのか。その表われはどういったものか。何かがあなたに起こるとき、それは聖霊に由来するものなのか。あなたはそれに従うべきか、あるいは拒否すべきか。人々の実際の行ないにおいては、多くのことが人間の意志から生じるが、人々は決まってそれが聖霊に由来すると信じている。悪霊に由来する物事があっても、人々はやはりそれが聖霊から来たものだと考える。時に聖霊は人々を内側から導くが、人々はそういった導きがサタンに由来するものだと恐れ、実はその導きが聖霊の啓きであるにもかかわらず、あえて従おうとしない。よって、識別をしない限り、実際の経験においてそれを経験することはできない。そして識別しなければ、いのちを得ることはできない。聖霊はどのようにして働きを行なうのか。悪霊はどのようにして働きを行なうのか。人の意志に由来するものは何か。聖霊の導きと啓きから生まれるものは何か。聖霊が人の中で行なう働きのパターンを把握すれば、あなたは日々の生活の中で、そして実際の経験のさなかに知識を育み、識別することができるようになる。あなたは神を知るようになり、サタンを理解して識別できるようになり、服従したり追求したりする際に混乱せず、思考がはっきりとした、聖霊の働きに従う者となるだろう。
聖霊の働きは積極的な導きと肯定的な啓きの一種である。それは人々が受け身でいることを許さず、彼らに慰めをもたらし、信仰と決意を与え、彼らが神によって完全にされることを追求できるようにする。聖霊が働きを行なえば、人々は積極的に入ることができる。受け身でもなく、強制されることもなく、自分が主導権を握って行動するのである。聖霊が働きを行なうとき、人々は進んで従い、喜んで謙虚になる。内なる痛みや脆さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志や人の考えによって汚されておらず、人間的な欲望や動機に汚されていないのは間違いない。人々が聖霊の働きを経験するとき、彼らの内面は特に聖い。聖霊の働きを有する人たちは神への愛、兄弟姉妹への愛を生きており、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きに触れた人は正常な人間性をもち、常に真理を追い求め、人間性を自分のものにしている。聖霊が人々の中で働くとき、彼らの状態はますますよくなり、その人間性はより正常になる。そしてこうした人たちによる協力の中には愚かなものもあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの入りは肯定的で、邪魔しようと試みたりせず、彼らの中に悪意は一切存在しない。聖霊の働きは正常かつ現実的であり、聖霊は人の通常生活の規則にしたがってその人の中で働きを行ない、正常な人々の実際の追求に応じて彼らを啓き、そして導く。聖霊は人の中で働きを行なうとき、正常な人々の必要に応じて彼らを導き、そして啓く。聖霊は人々の必要に応じて彼らに糧を施し、彼らに欠けているものに応じて、また彼らの欠点に応じて肯定的に導いて啓く。聖霊の働きは人々を現実の生活において啓き、導くことである。実生活の中で神の言葉を経験して初めて、人は聖霊の働きを見ることができる。日常生活において前向きな状態であり、正常な霊的生活を送っていれば、その人には聖霊の働きがある。そうした状態の中では、神の言葉を飲み食いすると信仰を得、祈ると鼓舞され、何かに突き当たっても受け身にならず、何かが起きるとその中から、神が彼らに学ぶよう求めている教訓を理解できる。彼らは受け身でもなければ弱ってもおらず、たとえ現実の困難を抱えていても、神のすべての采配に自ら従おうとする。
聖霊の働きによって成し遂げられる効果とは何か。あなたは愚かかもしれないし、識別力がないかもしれないが、聖霊が働きを行なえば、あなたの中に信仰が生まれ、どれほど神を愛しても愛しきれないといつも感じるようになる。前途にどれほど大きな困難があろうと、あなたは進んで協力するようになる。自分に何かが起こり、それが神に由来することなのか、それともサタンに由来することなのかはっきりわからないことがあっても、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これが聖霊の正常な働きである。聖霊があなたの中で働きを行なう際、あなたはそれでも現実の困難にぶつかり、時には涙し、時には乗り越えられない問題が生じることもあるが、これらはすべて聖霊による普通の働きの一段階に過ぎない。たとえあなたがそうした困難を乗り越えられなくても、またその際に弱くなって不満で一杯だったとしても、後になれば絶対的な信仰をもって神を愛することができた。あなたが受け身だとしても、そのせいで正常に経験できないということはあり得ず、他の人が何と言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、あなたは神を愛することができる。祈りの中では常に、自分はかつて神に借りがあったと感じ、そうしたことに再び出会うたび、神を満足させて肉を捨てようと決意する。この力は、聖霊の働きがあなたの中にあることを示している。それが聖霊の働きの正常な状態なのである。
サタンに由来する働きとは何か。サタンに由来する働きの中で、人々の内なるビジョンは漠然としており、彼らは正常な人間性をもたず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、心の中で絶えず咎められ、そうした咎めや思いが自分の中で常に干渉し、いのちの成長を制約するとともに、正常な状態で神の前に出られないようにする。つまり、人々の中にサタンの働きが存在するやいなや、その人の心は神の前で安らげないのである。そのような人は自分でもどうしたら良いかわからず、人々が集まっているのを見ると逃げたくなり、他の人が祈るときに目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまでもっていたビジョンや、以前のいのちの入りへの道を混乱させる。心の中で神に近づくことが決してできず、妨害を引き起こし、足かせとなるようなことがいつも起こる。心は安らぎを見つけられず、神を愛する力が残らずなくなり、霊が沈んでいく。これらがサタンの働きの表われである。サタンの働きの表われは次のようなことである。堅く立って証しをすることができず、それがあなたを神の前で落ち度がある者、神への忠実さをまったくもたない者とさせる。サタンが干渉するとき、あなたは自分の中にある神への愛と忠実さを失い、神との正常な関係を奪われ、真理や自分を改善することを追い求めず、後戻りして受け身になり、自分を甘やかし、罪が広がるままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神への不満を漏らして神に反抗し、神を疑うようになる。さらに、あなたが神を捨てる危険すらある。そのすべてがサタンに由来するのである。
『神の出現と働き』「聖霊の働きとサタンの働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 445
日常生活で自分に何かが起きる際、それが聖霊の働きに由来するものなのか、サタンの働きに由来するものなのか、どのように識別すべきだろうか。状態が正常であれば、その人の霊的生活と肉における生活は正常であり、理知も正常で秩序がある。このような状態にあるとき、彼らが経験し、自分の中で知るようになる物事は、一般的には、聖霊に触れられたことに由来するものだと言える(神の言葉を飲み食いする際に洞察力があったり、多少の単純な認識を有していたりすること、あるいは何らかの物事において忠実であること、そして神を愛する力があることは、いずれも聖霊に由来するものである)。聖霊が人の中で行なう働きは特に正常である。人はそれを感じられないし、実際には聖霊の働きであるにもかかわらず、人自身から生じたもののように思われる。日常生活において、聖霊はすべての人の中で大小いずれの働きも行なうが、異なっているのはその働きの程度だけである。中には優れた素質をもつ人がおり、そのような人は物事を素早く理解し、聖霊による啓きは彼らの中で特に大きい。その一方で素質に乏しい人もおり、物事を理解するのにより時間がかかるものの、聖霊は彼らの内側にも触れ、彼らもまた神への忠実を遂げることができる。聖霊は神を追い求めるすべての人の中で働きを行なうのである。日常生活において人々が神に反対したり、反抗したりすることがなく、神の経営に反することを行なわず、神の働きに干渉しなければ、神の霊が一人ひとりの中で大なり小なり働きを行なう。神の霊は彼らに触れ、彼らを啓き、信仰と力を与え、彼らを感動させて積極的に入るようにし、怠惰になったり肉の楽しみをむさぼったりしないようにする。そして彼らが進んで真理を実践し、神の言葉を切望するようにさせる。そのすべてが聖霊に由来する働きである。
状態が正常でないとき、その人は聖霊に見捨てられ、心の中に不満を抱きがちで、動機は間違っており、怠惰で、肉の欲にふけり、心は真理に敵対する。そのすべてがサタンに由来している。状態が正常でなく、内面が闇で覆われ、正常な理知を失い、聖霊に見捨てられ、自分の中に神を感じられないとき、それはその人の中でサタンが働きを行なっているときである。一般的に言えば、内面に絶えず力があり、常に神を愛するなら、何かが起きたとき、その出来事は聖霊に由来しており、またその人が誰に会おうと、その出会いは神の采配の結果である。つまり、あなたが正常な状態にあるとき、また聖霊の偉大な働きの中にいるとき、サタンがあなたを揺るがすことは不可能なのである。それを基に、すべてのものは聖霊に由来しており、たとえ誤った考えをもっていても、あなたはそれを捨てることができ、それに従うことはないと言える。これはすべて聖霊の働きに由来している。どのような状況においてサタンは干渉するのか。あなたの状態が正常でなく、神に触れられておらず、自分に神の働きがなく、内面が乾いて荒れ果て、神に祈っても何も掴めず、神の言葉を飲み食いしても啓きや照らしを得られないとき、サタンがあなたの中で働きを行なうのは簡単である。言い換えれば、あなたが聖霊に見捨てられて神を感じられないとき、サタンの試みに由来する物事が数多く起きるのである。聖霊が働きを行なう間、サタンもずっと働いている。聖霊が人の内側に触れると同時に、サタンは人に干渉する。しかし、聖霊の働きが主導権を握り、正常な状態の人々は勝利することができる。これはサタンの働きに対する聖霊の働きの勝利である。聖霊が働きを行なう間、人々の中には依然として堕落した性質が存在する。しかし聖霊による働きのさなか、人々が自分の反抗心、動機、不純を見つけて認識するのは簡単である。そのとき初めて、人々は後悔を感じてますます悔い改めようと思う。このようにして、彼らの反抗的で堕落した性質は、神の働きの中で徐々に一掃される。聖霊の働きは特に普通のものであり、聖霊が人々の中で働きを行なっているときも、彼らは依然として問題を抱え、涙を流し、苦しみ、弱り、はっきり理解できないことが数多くあるのだが、それでもこの状態にあるとき、彼らは自分が後退するのを押しとどめ、神を愛することができる。そして涙を流したり、苦悩に苛まれたりしてもなお、神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通であり、超自然的なことは一切ない。大半の人は、聖霊が働きを始めるやいなや、人の状態に変化が生じ、その人の本質的なものが取り除かれると信じている。そうした考え方は誤りである。聖霊が人の中で働きを行なうとき、人に関する受動的な物事が依然として存在し、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊の照らしと啓きを得るので、その人はより前向きになり、内なる状態は正常で、その人は急速に変化する。人は現実の経験の中で、おもに聖霊かサタンいずれかの働きを経験する。そしてこの二つの状態を把握できず、その違いを識別できないなら、現実の経験へと入ることなど問題外であり、性質の変化が不可能なのは言うまでもない。よって、神の働きを経験する上で鍵となるのは、そうした物事を見抜けるようになることであり、そのようにして、それを実際に経験することが容易になる。
『神の出現と働き』「聖霊の働きとサタンの働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 446
聖霊の働きは、人が積極的に進歩することを可能にするが、一方でサタンの働きは、人を否定的にして引き下がらせ、神に反抗して逆らわせ、神への信仰を失わせ、本分を尽くす際に弱らせる。聖霊の啓きから生じるものはどれも極めて自然であり、あなたに強制されるものではない。それに服従すれば安息を得るし、服従しなければ後に非難される。聖霊の啓きがあれば、あなたが行なう一切のことは干渉や拘束を受けず、あなたは自由にされ、行動における実践の道があり、何の制約も受けることなく、神の旨にそって行動できるようになる。サタンの働きは多くの事柄においてあなたに干渉し、あなたが祈りたくないようにさせ、神の言葉を飲み食いできないほど怠惰にさせるとともに、教会生活を送る気をなくさせ、あなたを霊的生活から引き離す。聖霊の働きはあなたの日常生活に干渉せず、正常な霊的生活にも干渉しない。多くの事柄について、あなたはそれが生じたまさにその瞬間には識別することができないものの、数日後には心がより明るく、頭脳がより鮮明になる。霊的な物事に関する感覚を多少もつようになり、ある考えが神に由来するものか、あるいはサタンに由来するものかを徐々に識別する。物事の中には、あなたを明らかに神に反抗させ、背かせ、神の言葉を実践させないようにするものもあるが、そうしたことはどれもサタンに由来する。明白でなく、その瞬間にはそれが何であるかわからない物事もあるが、後になれば、それらの表われを見て識別力を働かせることができる。どれがサタンに由来するもので、どれが聖霊によって導かれているものかをはっきり識別できるようになったなら、あなたは自分の経験の中で簡単に惑わされないようになる。自分の状態が良くないときに、自分を受け身の状態から引き出すような思いをもつことがある。そのことは、あなたの状態が好ましくないときでさえ、あなたの思いの一部はやはり聖霊に由来することを示している。あなたが受け身になっているとき、すべての思いはサタンから来ているというのは当てはまらない。もしもそれが真実なら、いつあなたは積極的な状態に移れるのか。一定期間ずっと消極的でいると、聖霊は完全にされる機会をあなたに与え、あなたに触れ、消極的な状態からあなたを連れ出して、あなたは正常な状態へと入るのである。
聖霊の働きとは何か、サタンの働きとは何かを知ることで、あなたはこれらを、何かを経験している際の自分自身の状態と、また自分の経験と比べることができる。そのようにして、あなたの経験の中で、原則に関する真理がより多く生じる。原則に関するこれらの真理を理解したなら、あなたは自分の実際の状態を支配し、人々や出来事を識別することができ、聖霊の働きを獲得するためにそれほど大きな努力をしなくてもよくなる。もちろんそれは、あなたの動機が正しいかどうか、あなたに求めて実践する気があるかどうか次第である。このような言葉、すなわち原則に関わる言葉が、あなたの経験の中になければならない。それがなければ、あなたの経験はサタンの干渉と愚かな認識で満ちている。聖霊がどのように働きを行なうのか理解していなければ、どのように神に祈るべきか、どのように入るべきかも理解できないし、サタンが人を騙し、人に干渉するためにどう物事を行なうのかを理解していなければ、どのようにサタンを拒絶し、揺るぎなく証しに立つべきかも理解できない。聖霊はどのように働きを行なうのか、サタンはどのように物事を行なうのかについて、人々はその両方を理解すべきである。これらは人々の神への信仰において必ず経験されなければならないことである。
『神の出現と働き』「聖霊の働きとサタンの働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 447
正常な人間性にはどのような側面が含まれているのか。識見、理知、良心、品格である。これらの側面それぞれについて正常性を達成できるならば、人間性は基準に達する。あなたは正常な人間の姿を備え、神を信仰する者らしく見えるべきである。過度な達成をしなくてもよく、外交に関わる必要はなく、ただ正常な人間の理知を備え、物事を見通すことのできる正常な人間であるべきであり、少なくとも正常な人間のように見えなければならない。それで十分である。現在あなたに要求されていることはすべてあなたの能力の範囲内である。これはアヒルを止まり木に登らせようとしているのではない。あなたに無駄な言葉や働きが述べられ、行われることはない。あなたの生活において表され明らかにされる醜悪さはすべて排除しなければならない。あなたがたはサタンに堕落させられ、サタンの毒に満ちている。あなたに求められているのは、その堕落したサタン的性質を捨て去ることだけである。高地位にある人物や有名人や偉人になることは求められていない。それは役に立たない。あなたがたに行われる働きは、あなたがたが生来備えているものを考慮している。わたしが人に要求することには限度がある。知識人が話すときの語り方や語り口を練習しても、うまくは行かず、そうすることはできないだろう。あなたがたの素質を考慮すれば、少なくとも知恵を用い、機転を利かせて話し、物事を明瞭にわかりやすく説明できるべきである。要件を満たすにはそれだけで十分である。少なくとも、識見と理知を身に付ける必要がある。現時点で特に重要なことは、堕落したサタンのような性質を捨て去ることである。あなたは自分に表れる醜悪さを捨て去らなければならない。それを捨てずに、どうして至高の理知や至高の識見について語れるというのか。多くの人は時代が変わったことを知って、慎ましさや忍耐を実践しない。また、愛や聖徒のような品位を備えていないこともありえる。このような人はなんと愚かなことか。彼らには正常な人間性がほんの少しでもあるのか。語るべき証しがあるのか。彼らには識見や理知が一切ない。もちろん、人の実践のうち逸脱していたり誤っている側面は修正する必要がある。たとえば、彼らの過去における硬直した霊的生活や、麻痺した愚かな様相はすべて変わらなくてはならない。変えるということは、あなたを自堕落にさせたり、肉に耽溺したり、言いたいことを何でも言うことではない。だらしなく話してはならない。正常な人間として話し行動するということは、筋の通った話し方をし、「是」なら「是」とだけ、「否」なら「否」とだけ言うことである。事実にそって適切に話しなさい。ズルをしたり、嘘をついてはならない。性質の変化に関し普通の人が達することのできる限界を理解しなければならない。そうしないで現実性に入っていくことはできない。
『神の出現と働き』「素質の向上は神の救いを授かるためである」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 448
人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、つまり、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、その人の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと、裁きを受ける過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも、それに影響を与えることもない。自分の奉仕に欠点があるかもしれないと恐れて、奉仕をやめたり、妥協して退いたりする者たちは、すべての人の中で最も臆病である。奉仕する中で表すべきことを表せず、本来可能なことを成し遂げられず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの機能を失ったのである。こうした者たちはいわゆる「凡庸な」人で、無用の長物である。どうしてこのような者たちが被造物と呼ばれ得るのか。外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながら、神性を示すことも、神自身の働きを行うことも、あるいは神を表すこともできなければ、それは間違いなく神ではない。なぜなら、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることが、その人の内にないからである。自分が本来達成できることを失ってしまえば、その人はもはや人間とは見なされず、被造物として存在する資格も、神の前に出て神に仕える資格もない。さらに、そのような者は神の恵みを受ける資格も、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格もない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした者たちは、自分の悪行を恥じないどころか、図々しくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定しさえする。そうした反抗心を抱く人々に、神の恵みを享受する権利がどうしてあろうか。自身の本分を尽くさない者たちは、神に対して極めて反抗的で、神に多くの借りがある。それにもかかわらず、彼らは反対に、神は間違っていると激しく非難する。そのような人間がどうして完全にされるに値するのか。これは、淘汰され、懲罰される前触れではないのか。神の前で自身の本分を尽くさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪に対しては、死さえも充分な罰ではない。しかし、人間は図々しくも神に反論し、自分を神に比している。そうした人間を完全にする価値がどこにあるのか。自分の本分を尽くさないなら、その人は罪悪感と負い目を感じるべきである。自らの弱さ、無用さ、反抗心、堕落を恥じ、自分のいのちを神に捧げるべきである。そうして初めて、人間は真に神を愛する被造物となり、そうした人だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格がある。では、あなたがたの大多数はどうだろうか。あなたがたは、自分たちのあいだで生きている神をどう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしてきたのか。行うように命じられたすべてのことを、生命をかけても成し遂げたことがあるのか。あなたがたは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受け取ったのではないか。あなたがたは見分けることができるのか。どれほどわたしに忠実なのか。どのようにわたしに仕えてきたのか。また、わたしがあなたがたに授け、あなたがたのために行ったあらゆることはどうなのか。あなたがたは、その大きさを測ったことがあるのか。あなたがたはみな、自分の内にあるささやかな良心とそれを比較し、判断したのか。あなたがたの言動はいったい誰に相応しいのか。そんなにもちっぽけなあなたがたの犠牲が、わたしがあなたがたに授けたものすべてに相応しいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたがたに献身してきたが、あなたがたは邪悪な意図をもち、わたしに対していい加減な気持ちでいる。あなたがたの本分はこの程度で、それがあなたがたの唯一の役割である。そうではないのか。自分が被造物としての本分を全く尽くさなかったことを、あなたがたはわかっていないのか。どうしてあなたがたが被造物とみなされることができるのか。あなたがたは、自分たちがいったい何を表し、何を生きているのか、はっきりわかっていないのか。あなたがたは自分の本分を尽くすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得ることを求めている。このような恵みはあなたがたのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたがたのような人々、これほどまでに凡庸な人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたがたの生涯につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたがたの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに対して責任を持てないなら、あなたがたの結末は懲罰である。どんな恵みも祝福も、神の国のすばらしい生活も、あなたがたには無縁である。これがあなたがたに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果である。
『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 449
そうした無知で傲慢な者たちは最善を尽くさず、自分の本分を尽くしもせず、恵みを求めて手を差し出すが、それはまるで、自分にはそれを求める資格があるかのようである。そして、求めるものが得られなければ、信仰心が薄くなる。このような者たちがどうして理性的だと見なされようか。あなたがたは素質に乏しく、理知に欠け、経営の働きの際に尽くすべき本分を尽くすことがまったくできない。あなたがたの価値はすでに急降下している。わたしが示したあれだけの好意に対して、あなたがたがそれに報いていないことは、すでに極度の反抗の行為であり、あなたがたを断罪し、その臆病さ、無能さ、卑しさ、無価値さを実証するに十分である。どうしてあなたがたに、手を差し出し続ける資格があるのか。あなたがたがわたしの働きをほんの少しも支えられず、忠実であることも、わたしの証しに立つこともできないというのが、あなたがたの悪行と欠点だが、あなたがたはかえってわたしを攻撃し、わたしについて偽りを語り、わたしが不義だと不平を言う。これが、あなたがたの忠実さというものか。これが、あなたがたの愛というものか。これ以外に、あなたがたはどのような働きができるのか。すでに行われたすべての働きに、あなたがたはいかに貢献したのか。どれほどの労力を費やしたのか。わたしはあなたがたを非難しないことで、すでに大きな寛容を示した。それなのに、あなたがたは恥知らずにもわたしに言い訳をして、人のいないところでわたしについて不満を言う。あなたがたにはほんのわずかな人間性もないのか。人間の本分は人間の頭脳と観念に汚染されているが、あなたは本分を尽くして忠誠を示さなければならない。人間の働きの中にある不純物は、その人の素質の問題だが、人間が本分を尽くさなければ、それはその人の反抗心を示す。人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天職であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である。人間が徐々に変えられるのは、自身の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自身の忠実さを実証する。ゆえに、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け取り、あなたの表現もますます現実のものになる。本分を尽くす際に動作を繰り返すだけで、真理を求めない者は、最後に淘汰される。そのような者たちは真理の実践において自身の本分を尽くしておらず、また本分を尽くす中で真理を実践しないからである。彼らは変わらない人で、厄災に見舞われる。彼らが表すものは不純であるだけでなく、彼らが表す一切のものは邪悪である。
『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 450
神の働きについての認識がないと、神とどのように協力すればよいかがわからない。神の働きの原則を知らず、サタンがどのように人の中で働くのか気づいていないと、実践の道を得ることはできない。ただ熱心に追い求めるだけでは、神が要求する結果を達成することはできない。そのような経験の仕方は、ラウレンシオのやり方に似ている。つまり、サタンの働きとは何なのか、聖霊の働きとは何なのか、神の臨在がないと人間の状態はどうなるのか、神はどのような人々を完全にしたいのか等のことを一切認識せず、物事を識別することなく、ただ経験だけに焦点を合わせるやり方である。そうした人は、どのような原則に従ってさまざまな人々に対応するべきか、神の現在の旨をどのように把握するべきか、神の性質をどのように知るべきか、そして神の憐れみと威厳と義はどの人々、状況、時代に向けられるのか、といった物事を一切識別しない。さまざまなビジョンを経験の基盤としなければ、いのちなど問題外となってしまい、経験はなおさらで、ただ愚かにもすべてに従い、すべてに耐え続けるだけになる。そのような人々を完全にするのは極めて困難である。上述したようなビジョンを一切持っていないなら、それはあなたが愚か者であり、イスラエルに立ち続ける塩の柱に似ていることの十分な証拠だと言える。そのような人々は、使い物にならないまったくの役立たず。また一部の人々は、いつもただ盲目的に従い、常に自己を認識しており、新しい物事に対処するときは必ず自分のやり方を貫くか、話す価値もないような些細な事柄に「知恵」を用いて対処する。そのような人々には判断力がなく、彼らはただ辛く当たられることに甘んじて常に変わらずにいるのが本性であるかのように、決して変化することがない。そのような人々は、わずかな判断力もない愚か者である。彼らは決して状況やさまざまな人々に合わせた対策を講じようとしない。そのような人々には経験がない。中には自分自身の認識に捕われすぎていて、悪霊の働きにとりつかれた者に直面しても、頭を垂れて罪を告白し、あえて立ち上がって糾弾しようとしない人々もいる。そして彼らは明らかな聖霊の働きに直面しても、あえて従おうとしない。そのような人々は悪霊も神の手中にあると信じており、立ち上がって抵抗するような勇気は一切持ち合わせていないのだ。そのような人たちは神を辱める者であり、神のために重荷を負うことなどまったくできない。そのような愚か者たちは何一つ識別しない。すなわちそのような経験の仕方は捨て去らねばならない。神の目から見て擁護できないものだからだ。
『神の出現と働き』「経験について」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 451
現在の流れにおいては、神を真に愛するすべての人に、神によって完全にされる機会がある。若かろうと年老いていようと、心の中で神への従順を抱き、神を畏れる限り、そのような人は神によって完全にされることが可能である。神は人の様々な役割に応じてその人たちを完全にする。自分の全力を振るい、神の働きに服従する限り、あなたは神によって完全にされることが可能である。今のところ、あなたがたは誰一人として完全になっていない。時には一種類の役割を果たすことができ、また別の時には二種類の役割を果たすことができる。ただ全力を尽くして神のために自分を費やす限り、最後には神によって完全にされる。
若者たちには処世哲学がほとんどなく、知恵や見識も欠如している。神は人間の知恵と見識を完全なものとするために来る。神の言葉は彼らに欠けているものを補う。しかしながら、若者たちの性質は不安定であり、神によって変えられなければならない。若者たちの宗教的観念や処世哲学は比較的少ない。彼らは何事も単純に考え、その内省は複雑なものではない。それは彼らの人間性のうち、まだ形を成していない部分であって、褒められるべき部分である。しかし、若者たちは無知で知恵に欠けている。それは神によって完全にされる必要があるものである。神によって完全にされることで、あなたがたは識別力を発達させることができる。多くの霊的なことをはっきり理解できるようになり、神に用いられるのに相応しい者へと徐々に変化してゆく。年配の兄弟姉妹にも果たすべき役割があり、彼らは神から見捨てられていない。年配の兄弟姉妹にも、望ましい側面と、望ましくない側面の両方がある。彼らはより多くの処世哲学と宗教的観念をもっている。行動する中で数多くの厳格な慣習に従っており、また規則を好み、融通を利かせず機械的に適用する。これは望ましくない側面である。しかしながら、こうした年配の兄弟姉妹たちは、何があっても冷静さを失わず、動じることもない。彼らの性質は安定しており、激しい気性がないのである。物事を受け入れるのが遅いかもしれないが、それは大きな欠点ではない。服従すること、神の現在の言葉に従うことができ、神の言葉を詮索しない限り、また服従して付き従うことにのみ気をつけ、神の言葉について判断を下したり、それらに関してその他の悪しき考えを抱かない限り、そして神の言葉を受け入れて実践する限り、あなたがたはこれらの条件を満たすことで、完全にされることが可能となる。
老若男女を問わず、兄弟姉妹はみな自分が果たすべき役割を心得ている。若年の者たちは傲慢でなく、年配の者たちは受動的になることも、退行することもない。そのうえ、彼らは互いの長所を使ってそれぞれの短所を補い、何の偏見もなく互いに仕えることができる。若い兄弟姉妹と年配の兄弟姉妹との間に友情の架け橋が築かれ、また神の愛のおかげで、あなたがたは互いをより良く理解することができる。若い兄弟姉妹が年配の兄弟姉妹を見下すことはなく、年配の兄弟姉妹は独善的でない。これは、調和に満ちた相互関係ではないだろうか。このような決意があなたがた全員にあれば、神の旨はあなたがたの世代において必ず達成される。
『神の出現と働き』「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 452
あなたが将来祝福されるか呪われるかは、今日におけるあなたがたの行動と振る舞いを基に決められる。あなたがたが神によって完全にされるのであれば、それはまさに今、この時代に違いない。将来別の機会が訪れることはないだろう。今、神はあなたがたを完全にしたいと真に望んでいる。そして、これは話だけのことではない。将来あなたがたにどのような試練が降りかかろうとも、何が起きようとも、あるいはどのような災害に見舞われようとも、神はあなたがたを完全にすることを願っている。これは議論の余地がない確かな事実である。どこでそれがわかるのか。それは、各時代や各世代を通じ、神の言葉が今日ほどの高みに登ったことがないという事実からわかる。それは最も高い領域に達し、今日の全人類に対する聖霊の働きは前例のないものである。過去の世代の人のうち、このようなことを経験した者はほとんどいない。イエスの時代にさえも、今日の啓示は存在しなかった。あなたがたに語られた言葉、あなたがたが理解していること、そしてあなたがたの経験はどれも新たな頂点に達したのである。試練と刑罰の中、あなたがた人々は立ち去らないが、それだけでも神の働きが前例のない輝きを得た証拠として十分である。それは人間に行なえることでも、人間が維持していることでもない。むしろ、それは神自身の働きなのである。したがって、神による働きの現実の多くから、神が人間を完全にしたいと望んでいること、そして必ずやあなたがたを完全にできることがわかる。あなたがたがこの識見をもち、この新たな発見をするなら、イエスの第二の到来を待つことはないだろう。その代わり、神が現在の時代においてあなたがたを完全にさせられるようにするはずだ。したがって、あなたがた一人ひとりが全力を尽くし、努力を惜しまず、そうすることで神によって完全にされるようにしなければならないのである。
今、否定的なことに気を取られてはならない。まずは、自分を否定的に感じさせるものをすべて脇にのけ、無視しなければならない。物事に対処する際は、探し求めて模索する心、神に従う心をもってそうしなさい。自分の中に弱さを発見するたび、それに操られることなく、自分が果たすべき役割を果たすのであれば、あなたがたはすでに好ましい進歩を遂げている。たとえば、年配の兄弟姉妹には宗教的観念があるものの、あなたは祈りを捧げ、服従し、神の言葉を飲み食いし、讃美歌を歌うことができる……。つまり、自分にできることが何であれ、自分に果たせる役割が何であれ、全力を振り絞って自分自身を捧げるべきである。受身になって待っていてはならない。本分を尽くす中で神を満足させられることが第一歩である。そうして、ひとたび真理を得て、神の言葉の現実に入ることができたなら、あなたは神によって完全にされたことになる。
『神の出現と働き』「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 453
決心すれば誰でも神に仕えることはできるが、神の心にあらん限りの注意を払い、神の心を理解する人々でなければ神に仕える資格や権利はない。わたしは、あなたがたの間で発見したことがある。多くの人は、神のために熱心に福音を広め、神のために各地を巡回し、自らを神のために費やし、神のために物事を諦めるなどしていれば、それが神に仕えることだと信じている。より多くの宗教的な人々は、神に仕えることは、聖書を抱えて走り回り、天の国の福音を広め、罪を悔い改め告白させることによって人々を救うことを意味すると信じている。また、神に仕えることは、高度な学問を修め神学校で訓練を受けた後に礼拝堂で説教し、聖書を読んで人々に教えることだと考えている宗教官僚が大勢いる。さらに、貧しい地域には、神に仕えるということは兄弟姉妹のもとで病人を癒したり、悪霊を追い払ったり、あるいは兄弟姉妹のために祈り仕えることだと信じている人々もいる。あなたがたの中には、神に仕えることは、神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈り、また各地の教会を訪れ働きを為すことだと信じている人がたくさんいる。また、神に仕えるということは結婚することも家族をもつこともなく、自分の存在すべてをひたすら神に捧げることだと信じている兄弟姉妹もいる。しかし、神に仕えることが実際何を意味するのかを知っている人はほとんどいない。神に仕える人は空にある星の数ほど多いが、神に直接仕えることができる人の数、神の旨に沿って仕えることができる人の数は微々たるもので、極めて少ない。なぜわたしはこう言うのか。わたしがこんなことを言うのは、あなたがたが「神への奉仕」という言葉の本質を理解していないからであり、神の心にかなうように仕えるにはどうすればよいのか、ほとんどわかっていないからである。人々は一刻も早く、神に対するどのような奉仕が神の旨にかなうのかを理解しなければならない。
あなたがたが神の心にかなうように仕えたいと望むならば、どのような人が神を喜ばせ、どのような人が神に忌み嫌われるのか、どのような人が神によって完全にされ、どのような人に神に仕える資格があるのかをまず理解しなければならない。これはあなたがたが身に着けておかなければならない最小限の認識である。その上、あなたがたは神の働きの目的と、神が今ここで行う働きを知るべきである。これを理解した後、神の言葉の導きを通して、あなたがたはまず入り、まず神の任務を受けるべきである。あなたがたが神の言葉を実際に経験し、本当に神の働きを知れば、あなたがたには神に仕える資格がある。そして、あなたがたが神に仕える時、神はあなたがたの霊の目を開き、あなたがたが神の働きをより深く理解しいっそう明確に見ることができるようにする。この現実に入ると、あなたの経験はより深く、現実的になる。そのような経験をした人は皆、諸教会を巡り歩き、兄弟姉妹に必要なものを提供することができるようになり、その結果、あなたがたは、お互いの長所を利用し合い自分の欠点を補い、霊においてより豊かな認識を獲得する。この結果を達成して初めてあなたがたは神の心にかなうように仕えることができ、奉仕する過程で神によって完全にされる。
神に仕える人は、神の知己でなければならず、神を喜ばせ、神に最大限忠実でなければならない。内密に行動しようと、公然と行動しようと、神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、いつも歩むべき道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう人だけが神の知己である。神の知己が直接神に仕えることができるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、自分自身の将来の展望など一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得られそうにない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じる。だから、このような人は神の知己なのである。神の知己は、神の心を知る人でもある。神の心を知る人だけが、神の絶え間ない憂慮や神の考えを共有することができる。肉体は痛み弱くとも、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人にさらなる重荷を与え、神がしたいと望むことはこのような人の証しの中に示される。従って、このような人は神を喜ばせ、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人だけが神と共に統治することができる。あなたが本当に神の知己になった時が、まさに神と共に統治する時なのである。
『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 454
イエスが神の任務、すなわち全人類を贖う働きを完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、自分自身のためには一切計画を立てたり準備をしたりしなかったからである。だからイエスも神の知己であり、また神自身であった。それはあなたがたが皆とてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実によりこの問題を解説するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうとおりに成し遂げてください。わたしの望みどおりにではなく、あなたの計画どおりに行なってください。人は弱いかもしれませんが、あなたが人のことを気遣うべきでしょうか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮に価することがありえるでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行う業を、あなたが望むとおりに行えることです」。エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心に捻じ込まれているかのように感じたが、その言葉を取り消す思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスが十字架にかけられる場所までイエスに付き添っていた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了した。イエスは死と黄泉の束縛から自由になった。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスに打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を満たし、決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。そのため、イエスが洗礼を受けた後、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。神の前におけるイエスの神への奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それをイエスに成し遂げさせた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにこれほど重大な任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。当時、イエスしかこの任務を果たすことができず、これは恵みの時代における全人類を贖うという神の働きの完成の実際的な一側面であった。
もしあなたがたが、イエスのように神の重荷に一心に注意を払い、自分の肉に背を向けることができるなら、神は重要な任務をあなたがたに委ね、あなたがたは神に仕えるための必要条件を満たすこととなる。そのような状況の下でのみ、あなたがたは自分が神の旨を行い、神の任務を果たしていると思い切って言うことができ、その時初めてあなたがたは本当に神に仕えていると言い切れる。イエスの例と比較して、あなたは自分が神の知己だと思い切って言えるだろうか。神の旨を行なっていると言い切れるだろうか。神に本当に仕えていると思い切って言えるだろうか。今日、あなたは神にいかに仕えるかを理解していないのに、それでも自分が神の知己だとあえて言うつもりか。もし神に仕えていると言うなら、神を冒涜していることにならないであろうか。よく考えなさい。あなたは神に仕えているのか、それとも自分自身に仕えているのか。あなたはサタンに仕えているのに、頑固に神に仕えていると言い張る。そうすることで、神を冒涜していないであろうか。多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神は大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。
わたしがこう言うのは、神の心にかなって仕えるためには、どのような条件を満たさなければならないかをあなたがたがわかるようにである。あなたがたが心を神に捧げなければ、あなたがたがイエスのように神の心に一心に注意を払わなければ、あなたがたは神に信頼されることはできないし、最終的には神の裁きを受けることになる。おそらく今日、あなたは神に仕える際、神を欺く意図を常に抱え、おざなりなやり方で神と接している。要するに、他の一切のことはさておき、あなたが神をだますと、情け容赦ない裁きがあなたに下される。あなたがたは神に仕えるための正しい道筋にちょうど入ったことを活かして、二心の忠誠ではなく、まず神に心を委ねるべきである。神の前であれ、他の人々の前であれ、あなたの心はいつも神の方に向いているべきであり、あなたはイエスが愛したように神を愛する決心をすべきである。そうすれば、あなたが神の心にかなった神の僕となれるように、神はあなたを完全にする。あなたが本当に神に完全にされることを望むなら、また、神の心にかなうように仕えることを望むなら、神への信仰に関するこれまでの考え方を変え、これまでの仕え方を変えるべきである。そうすれば神に完全にされるあなたの部分は次第に大きくなる。このように、神はあなたを見捨てず、ペテロのように、あなたは神を愛する人々の先頭に立つ。あなたが悔い改めないままでいるなら、ユダと同じ最後を迎えることになる。これは神を信じるすべての人が理解すべきことである。
『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 455
宇宙全体にわたる神の働きが始まって以来、神は多くの人々を神に仕えるように運命づけてきたが、そこにはあらゆる社会的地位の人々が含まれている。神の目的は、自身の旨を満たすことと、地上における自身の働きを滞りなく完了させることである。これが神に仕える人々を神が選ぶ目的である。神に仕える者はみな、神の旨を理解しなければならない。神のこの働きによって、神の知恵と全能、そして地上における神の働きの原則が人々にとっていっそう明らかになる。神は働きを行うべく実際に地上へと到来し、人々と関わるが、それによって人々は、神の業をより明確に知ることができる。今日、あなたがたというこの人々の集団は、幸運にも実際の神に仕えている。これはあなたがたにとって計り知れない祝福であり、あなたがたはまことに、神によって引き上げられているのだ。神に仕える人の選択において、神には必ず自身の原則がある。神に仕えることは、人々が想像するように、単なる熱心さの問題などでは決してない。今日あなたがたは、神の前で仕える人がそうするのは、その人たちに神の導きと聖霊の働きがあるから、また、彼らが真理を追い求める人だからだということを知っている。これらは、神に仕えるすべての人に課せられた、最低限の条件なのである。
神に仕えるのは簡単なことではない。堕落した性質が変わらないままの人は、神に仕えることが決してできない。あなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないなら、その性質はいまだにサタンを表しており、あなたが神に仕えているのは善意を見せつけているのだということ、そしてあなたの奉仕がサタン的な本性に基づいていることを証明している。あなたは自分の元来の性格のまま、個人的な好みに沿って神に仕えている。さらに、自分が行おうとすることは神を喜ばせるものであり、自分が行いたくないことは神に憎まれるものだと常に考え、働くときも自分の好みにだけ沿っている。これを神への奉仕と呼べるだろうか。最終的に、あなたのいのちの性質はほんの少しも変わらず、それどころか、自分の奉仕のせいでますます頑固になり、そのため、堕落した性質がさらに深く染みこんでしまう。このようにして、おもに自分の性格に基づいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に沿った奉仕から派生する経験が、あなたの中で形をなす。それらは人間の経験と教訓であり、俗世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教官僚に分類することができる。目を覚まして悔い改めなければ、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストや反キリストになるのだ。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。神に仕える者たちが自分の性格に従い、自分の意志に沿って振る舞うなら、彼らはいつでも淘汰される危険がある。他人の心を勝ち取り、彼らに説教して操り、高い地位に昇るために、自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位の恩恵にしがみつく人は、神の前に倒れる。このような人はパウロと同類であり、自分の経歴の長さを誇ったり、自分の資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きを妨害する。人はいつも古いものに固執し、過去の観念や、過ぎ去った時代からのあらゆる物事にしがみつく。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、あなたの一生の重しとなる。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦のために背中を悪くしたりしても、また神への奉仕において殉教したとしても、神はあなたを一切褒めず、逆に、あなたは悪を行う者だと言う。
『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 456
宗教的な観念を持たず、古い自己を進んで脇へのけ、純朴に神に従う人々を、神は今日から正式に完全にする。また、神の言葉を待ち望む人々を、神は完全にする。このような人々は立ち上がり、神に仕えるべきである。神には無限の豊かさと尽きせぬ知恵がある。神の驚くべき働きと貴い言葉は、さらに多くの人々によって享受されるのを待っている。目下のところ、宗教的な観念を持つ人、経歴の長さゆえに尊大に振る舞う人、自分自身を脇にのけることができない人は、これらの新しい物事を受け入れるのが難しい。聖霊にはこうした人たちを完全にする機会がない。服従しようと決意しておらず、神の言葉を渇望していなければ、その人にはそうした新たな物事を受け入れる術がない。そのような人たちはますます反抗的に、ますます狡猾になるばかりで、最終的には悪い軌道に乗ってしまう。神は現在の働きを行う中で、神を真に愛し、新たな光を受け入れられるさらに多くの人々を引き上げ、自分の経歴の長さを誇る宗教官僚たちを完全に切り捨てる。あくまで変化に抵抗する人々を、神は一人として欲しないのだ。あなたはこのような人になりたいのか。自分の好みに沿って奉仕するのか、それとも神の要求に沿って奉仕するのか。これは、あなた自身が認識すべきことである。あなたは宗教官僚なのか。それとも神に完全にされる生まれたての赤子なのか。あなたの奉仕のうち、聖霊に褒められるものがどれほどあるのか。神がわざわざ記憶しないものはどれほどなのか。長年にわたる奉仕の結果、あなたのいのちはどれほど変化したのか。あなたはそのすべてをよくわかっているのか。あなたが真の信者であれば、以前からの古い宗教的観念を捨て去り、新しいやり方で神によりよく仕えるはずだ。今から立ち上がっても手遅れではない。古い宗教的観念は、人の一生を駄目にする。人は自身が得る経験によって、神から離れ、自分のやり方で物事を行うようになってしまう。そうしたものを脇へのけなければ、いのちの成長を妨げる躓きの石となる。神に仕える人々を、神は常に完全にする。神がそのような人たちを軽々しく追放することはない。神の言葉による裁きと刑罰を真に受け入れるなら、また宗教的な古い実践や規則を脇へのけ、古い宗教的観念を用いて今日の神の言葉を判断するのをやめるなら、そのとき初めてあなたに未来がある。しかし、古い物事に執着し、依然としてそれらを大切にしているなら、あなたが救われることはない。神はこのような人々を一切気にかけない。完全にされたいと心から望んでいるのなら、以前からのあらゆるものを完全に捨て去る決意をしなければならない。たとえ以前になされたことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きだったとしても、やはりそれを脇へのけ、執着することをやめられるようにならなければならない。たとえそれが明らかに聖霊の働きであり、聖霊によって直接なされたとしても、今はそれを脇へのけなければならない。それにしがみついてはいけないのだ。これが、神が要求することである。すべては一新されなければならない。自身の働きと言葉において、神が以前にあった古い事柄に言及することはなく、昔の年鑑を掘り下げることもない。神は常に新しく、決して古くない神であり、自身の過去の言葉にさえ執着しない。このことは、神がいかなる規則にも従わないことを示している。そこで、人間であるあなたがいつも過去の物事にしがみつき、捨て去ろうとせず、形式的なやり方でそれらを厳密に適用する一方、神がもはや以前の手段を用いて働いていないのであれば、あなたの言動は破壊的ではないか。あなたは神の敵になってしまったのではないか。それらの古い物事のために自分の一生を破滅させるつもりなのか。それらの古い物事のために、あなたは神の働きを妨害する者となる。あなたがなりたいのは、このような人なのか。こうなることを本当に望まないのであれば、今していることをただちにやめ、引き返して初めからやり直しなさい。神はあなたの過去の奉仕を記憶しない。
『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 457
働きと言うと、それは神のために走り回り、あらゆる場所で説教を行ない、神のために費やすことだと人間は信じている。その考えは正しいが、あまりに一面的である。神が人間に求めているのは、自身のために走り回ることだけではない。それ以上に、この働きは霊の中において務め、与えることである。多くの兄弟姉妹は、長年経験を重ねた後でさえも、神のために働くことについて考えたことがない。なぜなら、人間が考える働きは、神が求めることと矛盾するからである。したがって、人間は働きの問題について一切関心をもたないのだが、それがまさに、人間の入りが極めて一面的であることの理由でもある。あなたがたはみな、あらゆる面でよりよく経験できるよう、神のために働くことから自身の入りを始めるべきである。これが、あなたがたが入るべきことである。働きとは、神のために走り回ることではなく、人間のいのちと生きる事柄が、神に喜びをもたらせることを指す。働きとは、人々が神への献身と神に関する認識を用いることで、神について証しを行ない、また人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、すべての人が認識すべきことである。あなたがたの入りがあなたがたの働きであり、あなたがたは神のために働く過程で入ることを求めていると言えるだろう。神の働きを経験することは、単に神の言葉をどう飲み食いするかを知っているという意味ではなく、より重要なこととして、どうすれば神についての証しを行ない、神に仕え、人間を牧し、人間に施せられるかを知らなければならない。これが働きであり、あなたがたの入りでもある。これはすべての人が成し遂げるべきことである。神のために走り回り、あらゆる場所で説教することにだけ集中しつつ、自分の個人的経験を軽視し、霊的生活への入りを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗する者になってしまったのは、これが原因である。長年にわたり神に仕え、人間を牧してきたこれらの者たちは、単に働きや説教を行なうことを入りと考えており、自分個人の霊的経験を重要な入りと捉える者はいなかった。それどころか、彼らは聖霊の働きから引き出した啓きを、他人に説教する資本と見なしてきた。彼らは説教するとき、重荷を背負って聖霊の働きを授かり、それによって聖霊の声を伝えている。この時、働きを行なう者は、あたかも聖霊の働きが自分個人の霊的経験となったかのように、自己満足で一杯になる。つまり、自分の述べている言葉がすべて自分自身のものであるかのように感じているのだが、その反面、自分の経験が自分で述べたほど明瞭でないかのように感じる。さらに、彼らは話をする前は、自分が何を話すのかまったく気づいていないが、彼らの中で聖霊が働くと、果てしない流れのように言葉が流れ出す。ひとたびこのようにして説教を行なうと、あなたは自分の実際の霊的背丈が考えているほど小さくないと感じる。そして聖霊があなたの中で何度か働いた時と同じように、自分はすでに霊的背丈を有していると判断し、聖霊の働きを自分自身の入り、自分そのものだと誤解する。絶えずこのようにして経験するなら、あなたは自分の入りについて注意が緩み、気づかぬうちに怠惰になり、自分個人の入りをまったく重視しなくなる。そのため、他人を牧する時は、自分の霊的背丈と聖霊の働きを明確に区別しなければならない。そうすることで、あなたの入りはより簡単になり、あなたの経験にさらなる益がもたらされる。聖霊の働きを自分の個人的経験と捉える時、それが堕落の根源になる。そのため、自分の尽くす本分が何であろうと、自分の入りを欠かすことのできない学びと考えるべきだと、わたしは言うのである。
『神の出現と働き』「働きと入ること(2)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 458
人が働くのは、神の旨を満足させ、神の心にかなう人々を残らず神の前に導き、人間を神のもとへ連れ出し、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものにするためである。したがって、働きの実質を徹底的に理解することが必須なのである。神に用いられる者として、すべての人が神のために働く価値をもつ。つまり、誰もが聖霊に用いられる機会を有しているのである。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、神から託された働きを行う時、人間には神に用いられる機会が与えられてきたが、人間の言うことや知っていることが、人間の霊的背丈とは限らない、ということである。あなたがたにできるのは、働きの過程で自分の欠点をよりよく知り、聖霊からのより偉大な啓きを自分のものにすることだけである。そうすることで、自分の働きの過程において、よりよい入りを得られるのである。神から来る導きを自分の入りと考えるなら、そして自分にもともと備わっている何かと考えるなら、人間の霊的背丈が成長する可能性はない。聖霊が人の中で働かせる啓きは、その人が正常な状態の時に生じる。そのような時、人々は自分の受け取る啓きを、しばしば自分の実際の霊的背丈だと勘違いする。なぜなら、聖霊が啓く方法は並外れて普通のものであり、人間にもともと備わっているものを活用するからである。人々が働きを行ない、話をする時、あるいは祈りを捧げて霊のデボーションを行なっている時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし実際には、人間が理解したことは聖霊による啓きに過ぎず(当然、その啓きは人間の協力に結びついている)、人間の真の霊的背丈を表わすものではない。一定期間にわたる経験の中でいくつかの困難や試練に遭遇した後、人間の真の霊的背丈はこのような状況において明らかになる。その時初めて、人は自分の霊的背丈がそれほど大きくないことを知り、人間の利己心、個人的な考え、そして強欲さが一斉に現われる。こうした経験を何度か繰り返して初めて、霊の中で目覚めている人の多くが、自分が過去に経験したものは自分個人の現実でなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間はその光を受けただけなのだと気づく。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著な形で行なわれ、物事がどう生じるかとか、どこに向かうかなどを説明することはない。つまり、聖霊は人間の困難をその啓示に組み入れるのでなく、むしろ直接的に真理を啓示する。人間が入りの過程で困難に遭遇し、聖霊の啓きを組み入れる時、それは人間の実際の経験となる。……したがって、あなたがたは聖霊の働きを受け取ると同時に、自分の入りをよりいっそう重視し、聖霊の働きとは何か、自分の入りとは何かを正確に見極めつつ、聖霊の働きを自分の入りに組み入れなければならない。そうすることで、あなたがたはより多くの点で聖霊によって完全にされ、聖霊の働きの実質があなたがたの中で形作られる。聖霊の働きを経験する過程において、あなたがたは聖霊と自分自身を知るようになり、そしてさらに、激しい苦しみが無数に繰り返される中で神との正常な関係を育み、あなたがたと神との関係は日を追うごとに近くなる。無数の刈り込みと精錬を経た後、あなたがたは神に対する真の愛を育む。それゆえ、苦しみ、打撃、そして苦難を恐れるべきではないと気づく必要がある。恐れるべきなのは、自分に聖霊の働きがあるだけで、入りがないことである。神の働きが終わりを迎える日、あなたがたの苦労は無に帰している。神の働きを経験したにもかかわらず、聖霊を知ることも、自分の入りを得ることもなかったのである。聖霊が人間の中で働かせる啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間の入りのために道を開き、人間が聖霊を認識できるようにするとともに、それ以降、神を畏れて敬愛する気持ちを育めるようにするためのものである。
『神の出現と働き』「働きと入ること(2)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 459
刈り込み、取り扱い、裁き、そして刑罰を経験した人の働きには逸脱がずっと少なく、その働きの表現はずっと正確である。働きにおいて自分のありのままの特質に依存している人はかなり重大な間違いを犯す。まだ完全にされていない人の働きには、その人自身のありのままの特質が過剰に表され、それが聖霊の働きへの大きな障害となる。素質がいかに優れていようと、人が神に託された働きを行なえるようになるには、刈り込みと取り扱いと裁きを経験しなければならない。そのような裁きを受けていない人の働きは、どれほど立派に行われても、真理の原則と一致することはできず、常にその人自身がもつ本来の自然さの産物であり、また人間的な善良さである。刈り込み、取り扱い、そして裁きを受けた人の働きは、刈り込みや取り扱いや裁きを受けたことのない人の働きよりもはるかに正確である。裁きを受けなかった人は、人間の肉と考えしか表現せず、それには人間的知力と生まれながらの才能がかなり混ざっている。これは人が神の働きを正確に表現したものではない。このような人に従う人たちは、その人の生まれながらの素質ゆえにその人のところに来る。その人は人間の見識や経験を過剰に表し、しかもそれは神の本来の意図とはほとんど切り離され、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、むしろ人間の前に連れてきてしまう。そのため、裁きや刑罰を受けていない人には神に託された働きを実行する資格がないのである。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。完全にされていない人の働きには本来の性格が多すぎる。あまりにも多くの人間の意志が混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものである。取り扱いを経験した後のいのちでも、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追求している人々を支えることができるであろうか。人の本来のいのちはその人の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に的確に要求するものとはほど遠い。人がまだ完全にされておらず、その堕落した性質が刈り込まれても取り扱われてもいなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがある。人が表すものは人の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っている。そのうえ、その人がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的やすべての人が入っていくべき真理などはないと感じている。人への要求の大半は、その能力を超える。これは止まり木に追い立てられるアヒルを思わせる。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや観念は人体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を生まれながらに持っておらず、真理を直接理解する本能もない。それに人の堕落した性質を合わせれば、この種の自然のままの人が働くと、妨害を生じさせないであろうか。しかし、完全にされた人は、人が理解するべき真理を経験しており、人の堕落した性質を知っている。そのため、その人の働きにおける漠然として非現実的な事柄は次第に減少し、人間的なものによる汚れは少なくなり、その人の働きと奉仕は神が求める基準に近づいていく。こうして、その人の働きは真理現実に入っており、また現実的になっている。特に人の思考にある考えは聖霊の働きを妨害する。人には豊かな想像力と合理的論理があり、また物事を取り扱ってきた長い経験がある。人間のこのような側面が刈り込みと修正を受けなければ、それはすべて働きの障害である。したがって、人の働き、特にまだ完全にされていない人の働きは、正確さについては最高規準に到達することはできないのである。
『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 460
聖霊が人々に働きかける時にその人が置かれる多くの状態をあなたは理解しなければならない。特に、一体となって神への奉仕を行なう人は、それらの状態をさらにしっかりと把握していなければならない。単に多くの経験や、入りを成し遂げる数多くの方法について語るだけであれば、それはあなたの経験が一方的過ぎることを示している。自分の真の状態を知らず、真理原則を把握していないなら、性質の変化を成し遂げることはできない。聖霊の働きの原則を知らず、それが生み出す成果を理解していなければ、悪霊の働きを識別することは難しい。悪霊の働きや人間の観念を暴き、単刀直入に問題の核心に触れなければならない。また、人の実践における数多くの逸脱や、神への信仰において人が抱えるであろう問題を指摘し、その人がそれを認識できるようにしなければならない。少なくとも、人を否定的あるいは消極的に感じさせてはならない。しかし、大半の人に客観的に存在する困難をあなたは理解しなければならず、理不尽であったり、「豚に歌を歌わせようと」したりしてはならない。それは愚かな行為である。人が経験する数多くの困難を解決するには、まず聖霊の働きの動態を理解し、聖霊が様々な人にどう働きかけるのかを理解し、人が直面する困難やその人の欠点を理解しなければならない。そしてその問題における重要な課題を見抜き、逸脱したり誤ったりすることなくその根源に達しなければならない。このような人だけに一体となって神への奉仕を行なう資格がある。
重要な課題を把握し、多くの物事をはっきり見ることができるかどうかは、個人的な経験次第である。あなたが経験する方法は、あなたが他の人たちを導く方法でもある。字句や教義を理解していれば、他の人たちが字句や教義を理解するよう導くだろう。あなたが神の言葉の現実を経験する方法は、他の人たちを導き、神が発する言葉の現実へと入れるようにする方法でもある。多くの真理を理解でき、神の言葉に由来する様々な事柄について明確な識見を得られるなら、あなたは他の人たちを導いて数多くの真理を理解させることができ、あなたが導く人たちもビジョンを明確に理解できる。もしもあなたが超自然的な感覚を把握することに重点を置くなら、あなたに導かれる人たちも同じようにする。もしもあなたが実践を怠り、代わりに話し合いを重視するなら、あなたに導かれる人たちも、まったく実践しないまま、あるいは性質の変化を成し遂げないまま、話し合いに重点を置く。そして真理を何ら実践することなく、表面的に熱心になるだけである。人は誰でも自分自身がもっているものを他の人たちに提供する。その人がどのような人物であるかによって、他の人たちを導く道が決まり、またどのような人たちを導くかが決まる。神に用いられるのに真に相応しくなるには、強い願望だけではなく、神からの多くの啓き、神の言葉からの導き、神に取り扱われる経験、神の言葉による精錬も必要である。あなたがたはそれを土台として、自分の観察、考え、思案、結論に普段から注意を払い、適切に吸収または排除すべきである。それらはどれもあなたがたが現実に入るための道であり、どれ一つとして欠かすことはできない。神はこのように働きを行なう。神が働きを行なうこの方法にあなたが入るなら、あなたは神によって完全にされる機会を毎日得ることができる。そしてどんな時であろうと、環境が厳しいか好ましいかにかかわらず、また試練に遭っているのか、それとも誘惑を受けているのか、働いているのか、それともいないのか、個人で生活しているのか、それとも集団の一員として生活しているのかにかかわらず、あなたは常に神によって完全にされる機会を見出し、一つも逃すことはない。あなたはそのすべてを見出すことができ、そうして神の言葉を経験する秘訣を見つけることになる。
『神の出現と働き』「牧者に適した人が備えているべきもの」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 461
今日、多くの人は、他の人々と協調していくにあたり学ぶべき教訓は何であるかということに注意を払っていない。わたしはあなたがたの多くが、他の人々と協調していく上で何の教訓も学ぶことができず、大半の人は自分の意見に固執していることに気づいた。教会で働くとき、あなたは自分の意見を言い、他の人はその人の意見を言い、それぞれが他人と何の関わりも持たず、実際には何の協力も行われていない。あなたがたは皆、ただ自分の見識を伝えたり、自分の内に抱えている「負担」を解消したりすることにあまりにも夢中で、いのちを追求することは少しも行っていない。ただおざなりに仕事をし、他の誰が何を言おうと何をしようと、自分は自分の道を歩まねばならないと常に信じているようだ。他の人々の状況がどうであろうと、自分はただ聖霊の導かれるままに人と交わるべきだと考えている。他の人々の長所を見つけることはできず、自分自身をよく観察することもできない。あなたがたは物事を受け容れるということにおいて、実に常軌を逸しており、誤っている。あなたがたはいまだに多くの独善性を示していると言える。まるで、あの昔の病に逆戻りしたかのように。あなたがたは完全に心を開けるようなやり方で互いに話し合わない。たとえば特定の教会での仕事においてどのような成果が得られたかや、自分の最近の内的状態、その他諸々の事柄について、とにかく一切話し合おうとしない。自分自身の観念を手放したり、自分自身を放棄したりといった行為に、あなたがたがいそしむことは一切ない。リーダーや働き手たちは、如何にして兄弟姉妹たちが消極的にならないようにするか、如何にして彼らを積極的に従わせるかということしか考えていない。しかし、あなたがたは皆、ただ積極的に従うだけで十分だと考えており、自分自身を知り、自分自身を捨てるということが何を意味しているのかを根本的に理解しておらず、ましてや他人と協調して奉仕することの意味など知るよしもない。ただ自分自身が神の愛に報いる意志を持ち、自分自身がペテロのように生きる意志を持つことだけを考えている。それら以外には何も考えていない。あなたは、他の人々が何をしていようとも自分は盲目的にそれに従うことはしないし、他の人々がどのようであろうとも自分自身は神によって完全にされることを求める、そしてそれで十分だ、とさえ言う。しかし実際には、あなたの意志が現実において、どのような形であれ具体的に表されたことはない。あなたがたが現在示している態度は、こういったものではないか。あなたがたはそれぞれ自分自身の見識に固守しており、皆が完全にされることを望んでいる。あなたがたはこれほどの長い間、大した進歩もなく神に仕えてきている。特に、この調和してともに働くという学びについては、何一つ成し遂げていない!教会に入ると、あなたは自分のやり方で他者と交わり、他の人々は彼らのやり方で交わっている。調和のとれた協調はめったに行われず、目下の信者に至ってはさらにその傾向が顕著である。これはつまり、あなたがたの中で、神に仕えるということはどういうことか、あるいはどのように神に仕えるべきなのかを、理解している者は非常にまれだということだ。あなたがたは混乱しており、この類の学びをつまらないものと考えている。真理をこういう角度から実践していないばかりでなく、分かっていながら間違ったことをしている者さえ多い。長年神に仕えている者たちでさえ、喧嘩し、互いに陰謀をめぐらし、嫉妬し、競争している。皆一様に自分自身のためであり、協力ということを一切していない。こうしたことすべてが、あなたがたの実際の霊的背丈を表しているのではなかろうか。日々ともに奉仕するあなたがたは、神殿で毎日神自身に直接仕えていたイスラエル人に似ている。神に奉仕するあなたがたが、如何にして協調していくか、如何にして神に奉仕するかを知らないとはどうしたことか。
『神の出現と働き』「イスラエルの民のように神に仕える」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 462
今日のあなたがたに対する要求 ― 協調してともに働くこと―は、ヤーウェがイスラエル人に求めた奉仕に似ている。それをしないなら、奉仕などやめることである。あなたがたは神に直接仕える身であるがゆえに、最低限としてその奉仕においては忠誠と従順を保たねばならず、同時に実践的な方法で教訓を学ぶこともできなければならない。特に教会で働いている人々に問うが、あなたがた目下の兄弟姉妹の誰かが、あえてあなたがたを取り扱おうとするだろうか。誰かがあなたがたの間違いを、面と向かって指摘してくるだろうか。あなたがたは他のすべての人々の上に立ち、王のように君臨している。このような類の実践的な教訓を学んだり始めたりすることさえしないにもかかわらず、なおも神への奉仕について語っているのだ!現在、あなたは多くの教会を指導するよう求められているが、自分自身の身を完全に捧げていないどころか、独自の観念や意見に執着し、「これはこのように行うべきだと思う、神は他者に抑えつけられるべきではないと言っているし、今日では盲従すべきではないからだ」などと言ったりする。そのため皆がそれぞれ自分の意見に固執し、誰も互いに従おうとはしない。自分の奉仕が行き詰まっていることは明らかに知っていながら、やはりこのように言うのだ。「わたしの見るところでは、わたしのやり方はそれほど的を外れていない。いずれにしても、皆にそれぞれの立場というものがある。あなたはあなたの立場で、わたしはわたしの立場で話す。あなたは自分の視点について説教し、わたしは自分のいのちの入りについて語るのだ」。取り扱わなければならない多くのことについては一切責任を持たず、あるいは、ただ間に合わせで対処し、一人ひとりが自分の意見をぶちまけ、用心深く自分自身の地位、評判、体面を守っている。誰も謙虚になろうとはせず、いずれの側も、いのちをより迅速に進歩させられるよう率先して自分の身を捧げ互いの不足を補い合おうとすることがない。あなたがたがともに調和して働くとき、あなたがたは真理を探し求めることを学ぶべきである。あなたがたは、このように言うこともできる。「真理のこの側面について、自分は明確に理解していない。それについて、あなたはどのような経験を持っているだろうか。」あるいは、このようにも言えるだろう。「これについてはあなたのほうが経験豊富だから、少し手ほどきをしてもらえないだろうか。」それが良いやり方というものではないか。あなたがたはこれまでに多くの説教を聞いてきて、奉仕においてもいくらかの経験がある。あなたがたが教会で働くとき、互いに学び合い、助け合い、欠点を補い合うことなくして、どうして教訓を学ぶことができようか。あなたがたは何かに遭遇するたびに、あなたがたのいのちに利益を与えられるように互いと交わらなければならない。そればかりでなく、どのような事柄についてであれ、なんらかの決断を下す前には、慎重に交わり合うべきである。そうして初めて、ただおざなりに形ばかりの行動をするのでなく、教会に対して責任を持つことになるのである。すべての教会を訪ね終えたら、皆で集まって、見出したすべての事柄や仕事の中で直面したあらゆる問題について説教を行い、そしてあなたがたが得た啓きと照らしについて話し合いなさい。これは奉仕において絶対に欠くことのできない実践である。あなたがたは神の働きのため、教会の利益のため、そして兄弟姉妹たちを激励して前進させるために、調和の取れた協力関係を作り上げなければならない。互いに協調し、それぞれが相手を正してより優れた成果を成し遂げることで、神の旨に配慮すべきである。それが真の協力というものであり、それに取り組む者のみが、真のいのちの入りを遂げるのである。協力を行う中で話す言葉には不適切なものもあるかもしれないが、それは問題ではない。後でそれについて交わりを持ち、明確な理解を得るようにしなさい。その問題を放置してはいけない。そのような交わりを持った後で、兄弟や姉妹の不足を補うことができる。このように深く自分の仕事に携わって初めて、より優れた成果を成し遂げることができるのである。あなたがたは一人ひとりが神に仕える者として、自分自身の利益のみを考えるのではなく、そのあらゆる行いにおいて教会の利益を守ることができなければならない。互いを暗に批判しながら、一人だけで行動するということは認められない。そのように行動する人々は、神に仕える者としてふさわしくない!そのような人々はひどい性質を持っており、彼らの中にはわずかな人間性も残っていない。彼らは完全にサタンである!彼らは獣である!現在でさえ、いまだにこのようなことがあなたがたの間で起こっている。しまいにあなたがたは、交わりの最中に互いを攻撃し合い、わざと口実を探しては顔を真っ赤にしてつまらないことで言い争い、どちらも自分が引き下がろうとはせず、それぞれが心の内を隠しつつ、一心に相手を警戒して常に身構えている。そのような性質が、神への奉仕にふさわしいと言えるだろうか。そのような仕事が、兄弟姉妹たちに何かを与えることになるだろうか。あなたは人々を正しいいのちの道に導くことができないばかりでなく、実際自分自身の堕落した性質を兄弟姉妹たちに刷り込んでいるのだ。あなたは他者を傷つけていないか。あなたの良心はひどいもので、芯まで腐っている。あなたは現実に入ることもなければ、真実を実践することもない。さらに、自分の極悪な本性を恥もなく他者にさらけ出している。あなたはとにかく恥というものを知らない。こうした兄弟姉妹たちはあなたに託されたものであるのに、あなたは彼らを地獄へと導いている。あなたは良心の腐りきった者ではなかろうか。完全な恥知らずである!
『神の出現と働き』「イスラエルの民のように神に仕える」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 463
神が各時代に表わす性質を、あなたは具体的に、その時代の意義を適切に伝える言葉で示せるだろうか。神による終わりの日の働きを経験しているあなたは、神の義なる性質を詳しく述べられるのか。あなたは神の性質について、明瞭かつ正確に証しできるのか。あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、敬虔な信者たちにどう伝えるのか。どのような人があなたに牧してもらおうと待っているのか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。あなたは次の時代の良き主人として、どう十分に奉仕するのか。あなたには主人としての強い意識があるのか。万物の主人についてどう説明するのか。それはまことに世界のすべての生き物とすべての物体の主人なのか。次なる段階の働きを進展させるために、あなたはどのような計画を持っているのか。何名の人たちがあなたに羊飼いになってもらいたいと待っているのか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか。結局、人間は毒された犠牲者たちである。人間は今日まで生きながらえたけれども、悪しき者によって人類が長い間毒されてきたことを、いったい誰が知っていただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神に対するあなたの愛のゆえに、これら生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか。つまるところ、神に用いられて並外れた人生を送ることを、あなたはどのように解釈するだろうか。神に仕える敬虔な人という意義深い人生を送る決意と自信を、あなたは本当に持っているのか。
『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 464
人はわたしを信じているが、わたしのために証しをすることができず、わたしが自分のことを知らしめなければ、わたしの証しをすることができない。人々は、わたしが被造物やすべての聖人よりも優れていることしか見ず、わたしが人にはできない働きをするということしかわからない。そのため、ユダヤ人から現代の人々に至るまで、わたしの栄えある働きを見た人たちは、わたしに対して好奇心以上のものを抱かず、わたしを証しできる被造物は誰一人存在しない。わたしの父だけがわたしのために証しをし、すべての被造物のあいだにわたしのための道を作った。そうしていなければ、わたしがいかに働いたところで、人はわたしが創造主であることを決して知らなかったはずだ。と言うのも、人はわたしから取ることしか知らず、わたしの働きの結果としてわたしを信じているのではないからである。人がわたしのことを知っているのは、わたしに汚れがなく、罪が一つもないから、わたしが数多くの奥義を説明できるから、わたしが群衆に優っているから、あるいはわたしから多くの利益を受けたからに過ぎない。しかし、わたしが創造主であると信じる者はほとんどいない。だからこそ、人はわたしを信じる理由を知らないと、わたしは言う。人はわたしを信じる目的や意義を知らないのである。人は現実に欠けており、わたしの証しをするのにほとんどふさわしくないほどである。あなたがたは真の信仰をごくわずかしか持っておらず、得たものも少なすぎ、そのため証しがほとんどない。そのうえ、あなたがたはあまりに理解しておらず、欠けているものも多すぎるので、わたしの業を証しする資格がほとんどない。あなたがたの決意は確かにすばらしいが、神の本質を見事に証しできると確信しているのか。あなたがたが経験したり見たりしたことは、あらゆる時代の聖者や預言者たちのそれに優っているが、あなたがたは過去の時代の聖者や預言者たちの言葉に優る証しができるのか。わたしが今あなたがたに授けるものはモーセを超え、ダビデをしのぐ。だから同じように、あなたがたの証しがモーセに優り、あなたがたの言葉がダビデより偉大であるよう、わたしは求める。わたしはあなたがたに100倍与えるから、同じように、あなたがたが同じ分だけ返してくれるよう求める。わたしこそが人類にいのちを授ける者であり、わたしからいのちを受け取るのはあなたがたであって、わたしのために証しをしなければならないのだと、あなたがたはわからなければならない。それが、わたしがあなたがたに送り、わたしのためにしなければならないあなたがたの本分である。わたしはあなたがたにわたしの栄光をすべて授けてきたし、選民たるイスラエル人が決して受け取らなかったいのちをあなたがたに授けた。だから当然、あなたがたはわたしの証しを行い、自分の若さをわたしに捧げ、自分のいのちを差し出さなければならない。わたしが栄光を授ける者は、誰であってもわたしの証しを行い、わたしにいのちを捧げるのだ。これはわたしによって長らく予定されてきたことである。わたしがあなたがたに栄光を授けるのは、あなたがたにとって幸せなことであり、あなたがたの本分はわたしの栄光を証しすることである。祝福を得るためにだけわたしを信じているとしたら、わたしの働きはほとんど意味を持たないだろうし、あなたがたも自分の本分を果たしてはいないだろう。イスラエル人はわたしの憐れみ、愛、偉大さだけを見、ユダヤ人はわたしの忍耐と贖いしか証ししなかった。彼らはわたしの霊の働きのごくわずかしか見ておらず、そのため彼らの理解は、あなたがたが見聞きしたことのわずか10,000分の1に過ぎない。あなたがたが見たことは、彼らの中の祭司長さえ上回る。あなたがたが今日理解している真理は彼らの理解した真理を超えており、あなたがたが今日見てきたことは、律法の時代と恵みの時代に見られたことを超えている。そしてあなたがたが経験したことは、モーセやエリヤさえも上回っている。と言うのも、イスラエル人が理解したのはヤーウェの律法だけで、彼らが見たのはヤーウェの背中だけだったからである。ユダヤ人が理解したのはイエスの贖いだけであり、彼らが受け取ったのはイエスから授けられた恵みだけであり、彼らが見たのはユダヤ人の家の中のイエスの姿だけだったからである。あなたがたが今日見るものはヤーウェの栄光、イエスの贖い、そしてわたしによる今日の業のすべてである。そのためあなたがたは、わたしの霊の言葉も聞き、わたしの知恵に感謝し、わたしの不思議を知るようになり、そしてわたしの性質について学んだ。わたしはまた、あなたがたにわたしの経営計画のすべても話した。あなたがたが見たものは単に愛すべき慈悲深い神だけではなく、義に満ちた神でもある。あなたがたはわたしの不思議な働きを見てきたし、わたしが威厳と怒りで満ちていることも知った。さらに、わたしがかつて荒れ狂う激しい怒りをイスラエルの家にもたらし、そして今日、その怒りが自分たちに降りかかったことも知っている。あなたがたは天なるわたしの奥義について、イザヤやヨハネよりも理解している。あなたがたはわたしの愛おしさと神聖さについて、過去の時代のすべての聖者よりも知っている。あなたがたが受け取ったのはわたしの真理、道、いのちだけではなく、ヨハネのそれに優るビジョンと啓示である。あなたがたはさらに多くの奥義を理解し、わたしの真の顔も拝した。あなたがたはわたしの裁きをさらに受け入れ、わたしの義なる性質もさらに知った。だから、あなたがたは終わりの日に生まれたけれども、あなたがたの理解は以前のもの、過去のものであり、また今日の物事も経験してきたが、それはすべてわたしが自らなしたことである。わたしはあなたがたに過度のものを求めているのではない。と言うのも、わたしはあなたがたに極めて多くのものを与え、あなたがたはわたしに多くのものを見たからである。だから、わたしはあなたがたに対し、過去の時代の聖者に向けて、わたしのために証しをするよう求める。そしてこれだけがわたしの心の願いである。
『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 465
さて、自分がわたしを信じているのはなぜか、あなたは本当に知っているだろうか。わたしの働きの目的と意義を本当に知っているだろうか。自分の本分を本当に知っているだろうか。わたしの証しを本当に知っているだろうか。単にわたしを信じるだけで、わたしの栄光も証しもあなたの中に見られないなら、わたしはとうの昔にあなたを淘汰していた。そのすべてを知っている者たちに関して言えば、彼らはわたしの目の中の棘でさえあり、わたしの家では躓きの石でしかない。彼らはわたしの働きにおいて完全に選り分けなければならない毒麦であり、役に立たず価値もないので、わたしは長らく彼らを忌み嫌ってきた。証しを失ったすべての者に、わたしの怒りはしばしば降り注ぎ、わたしの鞭が彼らから逸れることは決してない。わたしはずっと以前に彼らを悪しき者の手に渡し、彼らはわたしの祝福を失った。その日になれば、彼らの刑罰は愚かな女たちのそれをも上回るほど痛ましいものになる。今日、わたしは自分のなすべき本分である働きしかしていない。わたしはすべての麦を毒麦と共に縛り、束にする。これが今日におけるわたしの働きである。それらの毒麦はわたしが選り分けているあいだにすべて選別され、麦粒は倉庫に集められ、選り分けられた毒麦は火の中で燃やされ灰となる。わたしの今の働きはすべての人を縛って束にすることに過ぎず、つまり彼らを完全に征服する働きである。それからわたしは選別を始め、すべての人の結末を明らかにする。だから、今わたしをいかに満足させ、わたしへの信仰の正しい道をどう整えるべきかを、あなたは知る必要がある。わたしが望むのは、あなたの今の忠誠と服従、あなたの今の愛と証しである。たとえ証しとは何か、愛とは何かをこの瞬間知らなくても、あなたは自分のすべてをわたしに差し出し、あなたが持っている唯一の宝物、つまりあなたの忠誠と服従をわたしに引き渡すべきである。わたしがサタンを打ち負かした証しは、人の忠誠と従順に見ることができ、わたしが人を完全に征服した証しもそうであることを、あなたは知るべきである。あなたの信仰における本分は、わたしにのみ忠実であること、最後まで従順であることである。わたしが働きの次なる段階を始める前に、あなたはわたしのためにどう証しをするのか。いかにしてわたしに忠誠を捧げ、服従するのか。あなたは自分の役割のためにすべての忠誠心を捧げるのか、それとも単にあきらめるのか。または、わたしのすべての采配(たとえそれが死であっても、あるいは滅びであっても)に服従するのか、それともわたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すのか。わたしがあなたを罰するのは、あなたがわたしのために証しを行い、忠誠を尽くしてわたしに服従するためである。さらに、現在の刑罰は、わたしの働きの次なる段階を明らかにし、働きを何の妨害もなく進展させるためのものである。よって、あなたが賢くなり、自分のいのちや存在意義を価値のない砂のように扱わないよう、わたしはあなたに勧告する。今後のわたしの働きがいったいどのようなものになるか、あなたは知っているのか。わたしが今後どのように働き、わたしの働きがどのように展開していくのか、あなたは知っているのか。わたしの働きに関する自分の経験の意義、さらにわたしに対する信仰の意義を、あなたは知らなければならない。わたしは多くのことを行ってきた。あなたが想像するように、どうして途中で諦めることができようか。わたしはかくも幅広い働きをなしてきた。どうしてそれを台無しにすることができようか。確かに、わたしはこの時代を終わらせるために来た。それは事実だが、それ以上に、わたしは新しい時代を始め、新たな働きに取りかかり、そして何より、神の国の福音を広めようとしていることを、あなたは知らなければならない。ゆえに、現在の働きは時代を始め、来たるべき時に福音を広め、将来のどこかで時代を終わらせるための基盤を築くことだけであると、あなたは知らなければならない。わたしの働きはあなたが思うほど単純ではないし、あなたが信じているほど価値がなく意味のないものでもない。だから、わたしは依然としてあなたに言わなければならない。あなたはわたしの働きのためにいのちを捧げ、それ以上に、わたしの栄光のために自分自身を捧げるべきである。あなたがわたしのために証しをすることを、わたしは長いこと待ち望み、またそれ以上に長く、あなたがわたしの福音を宣べ伝えるのを待ち望んできた。あなたはわたしの心にあるものを理解すべきである。
『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 466
あなたがたの信仰はとても誠実だが、あなたがたの中の誰もわたしを完全に説明することはできないし、あなたがたが見る事実のすべてを十分に証しできる者もいない。考えてもみなさい。今日、あなたがたのほとんどは自分の本分を怠っており、その代わりに肉を追い求め、肉を満足させ、肉の享楽をむさぼっている。あなたがたは真理をほとんど自分のものにしていない。ならば、これまで見てきたすべての物事をどう証しできるのか。あなたがたは本当にわたしの証人になれる自信があるのか。今日見てきたすべてのことを証しできない日が来るのであれば、あなたは被造物の機能を失っているだろう。そして、あなたの存在には何の意味もなくなってしまうだろう。人間である価値さえなくなり、人間ではないとさえ言えるだろう。わたしはあなたがたに計り知れない量の働きを行ってきたが、現在あなたは何も学んでおらず、何も気づいておらず、無駄に苦労している。ゆえに、わたしが働きを拡大する時が来たら、あなたはぽかんと見つめるだけで、口もきけず、まったく役に立たない。それでは稀代の罪人になってしまわないか。その時が来たら、あなたはとてつもなく深い後悔を感じないだろうか。意気消沈してしまわないだろうか。わたしが今日働きを行っているのはどれも暇つぶしや退屈しのぎからではなく、わたしの将来の働きの基礎を築くためである。わたしは行き詰っていないし、何か新しいことを考え出す必要があるわけでもない。わたしが行う働きを、あなたは理解すべきである。それは路上で遊ぶ子供が行うものではなく、わたしの父を代表してなされる働きなのである。あなたがたは、わたしがこのすべてを自ら行なっているわけではないことを知るべきである。そうではなく、わたしは父を代表しているのだ。その一方で、あなたがたの役割はひたすら付き従い、服従し、変化を遂げ、証しをすることである。あなたがたが理解すべきことは、なぜわたしを信じなければならないのか、である。これが、あなたがた一人ひとりが理解すべき最も重要な問題なのだ。わたしの父は、自身の栄光のために、世界を創造した瞬間からわたしのためにあなたがた全員の運命をあらかじめ定めた。わたしの父があなたがたの運命をあらかじめ定めたのは、わたしの働きのため、そしてわたしの父の栄光のためだった。あなたがたがわたしを信じるのは、わたしの父のゆえである。あなたがたがわたしに付き従うのは、わたしの父があらかじめ運命づけたからである。このどれも、あなたがたが自分で選んだものではない。さらに重要なのは、自分たちはわたしの証しをするために、わたしの父からわたしに授けられた者なのだと、あなたがたが理解しなければならないということである。わたしの父があなたがたをわたしに授けたのだから、あなたがたは、わたしがあなたがたに授ける道、そしてわたしがあなたがたに教える道と言葉に従うべきである。わたしの道に従うことがあなたがたの本分だからである。これが、あなたがたがわたしを信じる当初の目的である。したがって、わたしはあなたがたに言う。あなたがたは、わたしの道に従うために、わたしの父がわたしに授けた人々にすぎない。しかし、あなたがたはわたしを信じるだけである。あなたがたはわたしに属していない。それは、あなたがたがイスラエルの一族に属しておらず、古代の蛇の同族だからである。わたしはあなたがたに対し、わたしの証しをすることしか求めていないが、今日あなたがたはわたしの道を歩かなければならない。これはすべて将来の証しのためである。あなたがたがわたしの道に耳を傾ける人々としてしか機能しないなら、あなたがたには何の価値もなく、わたしの父がわたしにあなたがたを授けたことの意義は失われる。わたしはあなたがたに、あくまで次のように言う。あなたがたは、わたしの道を歩かなければならない。
『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 467
現在、聖霊は教会の中でどのように働きを行なっているのか。あなたはこの問いをしっかり把握しているだろうか。兄弟姉妹が抱える最大の困難は何か。何が最も欠けているのか。現在、試練を経る中で消極的な人がおり、中には不満を口にする人さえいる。他にも、神は語り終わったといって、前進するのを止めた人もいる。人々はいまだ神への信仰の正しい軌道に入っていない。人は独立して生きられず、自身の霊的生活を維持できない。中には神が語ると付き従って精力的に追求し、進んで実践しようとする人もいる。しかし神が語らなければ、前進するのを止めてしまう。人々はいまだ心の中で神の旨を理解しておらず、神に対する自発的な愛をもっていない。過去、彼らが神に従っていたのは、強制されたためである。そして今、神の働きに辟易している人もいる。このような人は危機に瀕しているのではないか。多くの人は、単に協力する状態にある。彼らは神の言葉を飲み食いし、神に祈るものの、心がこもっておらず、かつての意欲はもはやない。大半の人は神による精錬と完全化の働きに関心がなく、実際のところ、内なる意欲が常にないかのようである。そのような人は過ちに負けても神への恩義を感じず、自責の念を抱くこともない。真理を追求することも、教会から立ち去ることもなく、それどころか束の間の快楽しか追い求めない。このような人は間抜けであり、まったく愚かである。そのときになれば、彼らは全員見捨てられ、誰一人救われない。一度救われればいつも救われると、あなたは考えているのか。そのような考えはまったくの欺瞞である。いのちへの入りを求めない者はみな罰せられる。大半の人は、いのちへの入り、ビジョン、真理の実践にまったく関心がない。そのような人は入ることを追い求めず、さらに深く入ることなど絶対に追い求めない。彼らは自分を滅ぼそうとしているのではないか。現在、状態が絶えず改善している一部の人がいる。聖霊が働きを行なえば行なうほど、彼らは確信を得る。また経験すればするほど、神の働きのより深遠な奥義を感じるようになり、深く入れば入るほど、より多くのことを理解する。神の愛は実に偉大だと感じ、自分の中で安定と照らしを感じる。彼らには神の働きに関する認識がある。聖霊はこのような人たちの中で働きを行なっているのである。中にはこのように言う人がいる。「神は新たな言葉を発していないが、それでもわたしは真理をより深く掘り下げることを求め、実際の経験の中で何事にも真剣になり、神の言葉の現実に入らなければならない」。このような人には聖霊の働きがある。神は自身の顔を見せず、あらゆる人から隠れ、言葉を発することなく、人々が内なる精錬を経験することもあるが、神はそれでも人々のもとから完全に去ったわけではない。自分が実践すべき真理を保てないなら、その人に聖霊の働きはない。精錬の間、および神が姿を見せない間、あなたに確信がなく、その代わりに立ちすくみ、神の言葉を経験することに集中していなければ、あなたは神の働きから逃げている。その後、あなたは見捨てられる者の一人になる。神の言葉に入ることを求めない者は、神への証しに立つことなど到底できない。神への証しを行ない、神の旨を満たせる人はみな、神の言葉を追い求める自分の意欲にひたすら頼っている。神が人々の中で行なう働きはおもに、彼らが真理を得られるようにすることである。あなたに真理を追求させるのは、あなたを完全にするためであり、それはひとえに神によって用いられるのにふさわしくするためである。あなたが今追い求めているのは奥義を聞くこと、神の言葉に耳を傾けること、自分の目を楽しませること、そして何か目新しいことや動向があるかと周囲を見回し、そうして自分の好奇心を満足させることだけである。それがあなたの心にある意図であれば、あなたに神の要求を満たす術はない。真理を追い求めない者は最後まで付き従うことができない。現在、神が何もしていないというのではなく、むしろ人々が神の働きに飽きてしまい、そのため神に協力していないのである。そのような人は、神が祝福を授けるために語る言葉を聞くことしか望まず、神の裁きと刑罰の言葉を聞こうとはしない。その理由は何か。祝福を得たいという人々の願望が満たされておらず、それゆえ消極的になって弱っている、というのが理由である。人々が神に付き従うのを神がわざと許さないというのではなく、神が人類に対して意図的に打撃をもたらしているというのでもない。人々が消極的になって弱っているのは、ひとえに彼らの意図が正しくないからである。神は人にいのちを与える神であり、人を死に追いやることはできない。人々の消極性、弱さ、そして後退はどれも、彼ら自身の行ないによって引き起こされるのである。
神による現在の働きは人々に精錬をもたらし、その精錬を受けつつ揺るぎなく立てる者だけが神に認められる。語らないことによって、あるいは働きを行なわないことによって、神がいかに自分の姿を隠そうとも、あなたは依然として精力的に追い求めることができる。たとえ神があなたを拒むと言ったとしても、あなたはやはり神に従うだろう。それが神への証しに立つということである。神があなたから姿を隠し、あなたが神に従うのを止めるなら、それは神への証しに立つことだろうか。実際に入っていなければ、その人には実際の霊的背丈がなく、大きな試練に本当に直面すると躓くだろう。神が言葉を語らなかったり、あなたの観念にそぐわないことをしていたりすると、あなたは倒れる。神がいま、あなたの観念に沿って行動していたり、あなたの意思を満たしていたりして、あなたが精力的に立ち上がって追求できるなら、あなたは何を基礎として生きているだろうか。言っておくが、人間の好奇心に頼り切って生きている人は数多い。そのよう人は、追い求めることを決して心から切望していない。真理への入りを追い求めず、自分の好奇心に頼って生きる者はみな卑しむべき人であり、彼らは危険な状態にある。神の様々な働きはどれも人類を完全にするためになされる。しかし、人々はいつも好奇心に満ち、噂を訪ね回るのが好きで、外国で現在起きていることを気にかけている。たとえば、イスラエルで今何が起きているのか、あるいはエジプトで地震があったのか、などということを知りたがり、新奇な物事を絶えず探して自分勝手な願望を満足させようとしている。そのような人はいのちを追い求めず、完全にされることを追い求めない。神の日が一刻も早く訪れ、自分の美しい夢が現実になり、大それた願望が成就することだけを求めているのだ。このような人は現実的でなく、正しくない観点をもつ人である。真理の追求だけが人による神への信仰の基礎であり、いのちへの入りを追い求めなければ、あるいは神を満足させることを求めなければ、その人は懲罰の対象にされる。懲罰される者は、神が働きを行なうときに聖霊の働きをもたなかった者である。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 468
神の働きのこの段階において、人はどのように神に協力すべきか。現在、神は人々を試している。神は言葉を発しておらず、姿を隠し、人々と直接接触していない。外側からは神が何の働きも行なっていないように見えるが、実際には依然として人間の中で働きを行なっている。いのちの成長を追い求めている者はみな、いのちを追求するビジョンがあり、たとえ神の働きを完全に理解していなくても疑念を抱かない。試練を経ている間、神がどのような働きを行なおうと望んでいるか、どのような働きを完遂しようと望んでいるかを知らなくても、人間に対する神の意向は常に善であることを知るべきである。あなたが誠心誠意神を追い求めれば、神があなたのもとから去ることはなく、最後はきっとあなたを完全にし、人々を適切な終着点に連れて行く。現在、神が人々をどのように試しているかを問わず、神が人々に対し、その行ないに基づき、適切な結末と報いを与える日がいつか来る。神が人々を特定の地点まで導き、その後見捨てて無視することはない。なぜなら、神は信頼に足るからである。現段階において、聖霊は精錬の働きを行なっており、あらゆる人間を精錬している。死の試練と刑罰の試練から成る働きの段階において、精錬は言葉を通じて実行される。人々が神の働きを経験するには、まず神による現在の働きと、人がどのように協力すべきかを理解する必要がある。まさしく、これはすべての人が理解すべき事柄なのである。神が何を行なおうと、つまりそれが精錬であろうと、あるいは神が黙してさえいても、神の働きの諸段階のうち、人の観念に沿うものは一つもない。神の働きの各段階は、人間の観念をばらばらに打ち壊す。それが神の働きである。しかし、神の働きが一定の段階に達したのだから、神は何があろうと全人類を死に追いやらないのだと信じる必要がある。神は人類に約束と祝福の両方を与え、神を追い求める者はみな神の祝福を得られるが、そうしない者は神に淘汰される。それはあなたの追求次第である。他に何があろうと、神の働きが終わりを迎えるとき、すべての人が適切な終着点を得るのだと信じなければならない。神は人類に美しい抱負を与えてきたが、追い求めずしてそれらは成就できない。あなたがいま知るべきなのは、神による人々の精錬と刑罰は神の働きであるが、人のほうも常に性質の変化を求めねばならない、ということである。あなたは自分の実際の経験において、まず神の言葉を飲み食いする方法を知り、神の言葉の中から自分が入るべき事柄と自分の欠点を見つけ、自分の実際の経験において入りを求め、神の言葉の中で実践すべき部分を挙げ、そうするように努めなければならない。神の言葉を飲み食いすることは一つの側面である。それに加えて、教会生活も維持する必要があり、あなたは正常な霊的生活を送り、自分の現状のすべてを神に委ねることができなければならない。神の働きがどのように変化するかを問わず、あなたの霊的生活は正常なままでなければならない。霊的生活は、あなたの正常な入りを維持することができる。神が何を行なおうと、あなたは妨害されることなく霊的生活を続け、自分の本分を尽くすべきである。これが人の行なうべきことである。それはすべて聖霊の働きだが、正常な状態にある者にとって、それは完全にされることである一方、正常な状態でない者にとって、それは試練である。聖霊による精錬の働きの現段階において、次のように言う人がいる。つまり、神の働きは極めて優れており、人々は絶対に精錬を必要としている、さもなければその人の霊的背丈はあまりに小さく、神の旨を成就させる術がない、というのである。しかし、状態が好ましくない者にとって、それは神を追い求めない理由、あるいは集会に参加しなかったり、神の言葉を飲み食いしなかったりする理由になる。神の働きにおいては、神が何を行なうか、どのような変化を生じさせるかを問わず、人々は最低限の正常な霊的生活を維持する必要がある。おそらくあなたは、現段階の霊的生活において気が緩んだことはないかもしれないが、それほど多くを得ることも、大きな収穫を得ることもなかった。こうした状況下でも、あなたはやはり規則に従わなければならない。自分のいのちを損なわないために、また神の旨を満たすために、それらの規則を守らなければならないのである。あなたの霊的生活が異常であれば、神による現在の働きを理解できず、それどころか、そうした働きは自分の観念にまったくそぐわないと常に感じ、神に進んで付き従っていても、内なる原動力に欠けている。したがって、神が現在何を行なっていても、人は協力しなければならない。人が協力しなければ、聖霊はその働きを行なうことができない。また人に協力する心がなければ、聖霊の働きはほとんど得られない。自分の内部で聖霊の働きを得たいと望むなら、そして神に認められたいのであれば、神の目の前で自分の本来の忠誠心を保つ必要がある。現在、あなたがより深い理解や高度な理論といったことをもつ必要はなく、必要とされるのは、本来の基礎の上で神の言葉を保つことだけである。人が神に協力せず、より深い入りを求めなければ、人が本来もっていたものを神は残らず奪うだろう。人は内面において、絶えず快適さを貪欲に求め、すでに用意されているものを享受することを好む。人間は代価を一切払うことなく、神の約束を得たいと望む。こうしたことは、人類が抱く途方もない考えである。代価を払わずいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことがかつてあっただろうか。神を信じ、いのちへの入りと性質の変化を求めるとき、その人は代価を払い、神が何をしようといつも神に付き従う状態に達する必要がある。それが人の行なうべきことである。たとえ規則としてそのすべてに従っていたとしても、絶えずそれを守らなければならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹のもとを決して離れないでいられる必要がある。神があなたを試すとき、あなたはそれでも真理を求める必要がある。これが霊的生活における最低限の必要事項である。求める願望を常にもち、協力することに努め、自分の全力を捧げることは、果たして可能だろうか。これを基礎とするならば、その人は識別力をもち、現実への入りを成し遂げることができる。あなたの状態が正常であれば、神の言葉を受け入れるのは容易である。このような状況において、真理の実践は難しいと感じられず、神の働きは素晴らしいと感じる。しかし、あなたの状態が劣っていれば、神の働きがいかに素晴らしくても、誰かがいかに美しく語ったとしても、あなたは気に留めないだろう。状態が異常であれば、神はその人の中で働きを行なうことができず、その人は自分の性質を変えることができない。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 469
確信がなければ、その道を歩み続けるのは容易でない。現在、神の働きが人間の観念や想像とまったく一致していないことを、誰もが知っている。神は数多くの働きを行ない、数多くの言葉を語ってきたが、それらは真理であると人が認めていても、神に関する観念がいまだ人の中に生じがちである。人が真理を理解し、それを得たいと願うなら、確信と意志の力をもち、自分がすでに見たもの、経験から得たものを固持できるようにならなければならない。神が人の中で何を行なおうと、人は自分が有するものを守り、神の前で真摯になり、最後まで神に対して忠実でいなければならない。これが人間の本分である。人は自分のすべきことを守らなければならない。神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。神から祝福されているときの追求が優れていても、神の祝福がなければ逃げ出すのであれば、それは純粋さだろうか。あなたは、その道が正しいと確信しているのだから、最後までその道に従い、神への忠誠を保たなければならない。あなたは、神自身があなたを完全にすべく地上に来たのを見てきたのだから、自分の心をすべて神に捧げるべきである。神が何を行なおうと、たとえ最後にあなたにとって好ましくない結末に決めたとしても、それでもあなたが神に従えるのであれば、それが神の前で純粋さを保つということである。聖なる霊体と純粋な乙女を神に捧げることは、神の前で真摯な心を保つことを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になれるというのは、純粋さを維持するということである。これがあなたの実践すべきことである。祈るべきときは祈りなさい。集まって交わりをもつべきときはそうしなさい。賛美歌を歌うべきときは歌いなさい。肉に背くべきときは背きなさい。自分の本分を尽くすとき、どうにか切り抜けようとしてはならず、試練に直面したときは堅く立ちなさい。それが神への忠誠である。人が行なうべきことを守れなければ、あなたの以前の苦難と決意はすべて徒労に終わったのである。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 470
神の働きの各段階には、人が協力すべき道がある。人が精錬を経ながら確信をもてるように、神はその人を精錬する。人が神によって完全にされることを確信し、進んで神の精錬を受け入れ、神によって取り扱われ、刈り込まれるように、神は人間を完全にする。神の霊は人の中で働きを行ない、その人に啓きと照らしをもたらし、神に協力して実践するようにさせる。神は精錬のさなかに言葉を述べない。神が声を発することはないが、それでも人がなすべき働きは存在する。あなたはすでにもっているものを守らなければならず、神に祈り、神のそばから離れず、神の前で証しに立つことができなければならない。そうすれば、あなたは自分の本分を尽くせるだろう。人の確信と愛に対する神の試練においては、その人が神により多く祈り、神の前で神の言葉をより頻繁に味わうことが求められる。あなたがたはみなそのことを神の働きから理解しなければならない。神があなたを啓き、あなたに神の旨を理解させているにもかかわらず、あなたがそれを何一つ実践しなければ、あなたは何も得ない。神の言葉を実践する際は、やはり神に祈ることができなければならず、神の言葉を味わう際は、落胆や冷たさを一切感じることなく、神の前に出て求め、神への確信に満ちていなければならない。神の言葉を実践しない者は、集会の際には活力に溢れているが、帰宅すると闇に陥る。中には集会に加わることを望まない者さえいる。そうしたわけで、人が尽くすべき本分をあなたははっきり理解する必要がある。神の旨が本当は何であるか、あなたは知らないかもしれないが、それでも自分の本分を尽くし、祈るべきときに祈り、真理を実践すべきときに実践し、人がなすべきことを行なうことができる。あなたは本来のビジョンを保つことができるのである。そのようにして、あなたは神の働きの次なる段階をより受け入れられるようになる。神が隠れたやり方で働きを行なう際、あなたが求めないというのは問題である。神が語り、集会で説教するとき、あなたは熱心に耳を傾けるが、神が黙しているとき、あなたには活力がなく、引き下がってしまう。どういった人がこのように行動するのか。それは、ひたすら群れに従う人である。そのような人には心構えも証しもビジョンもない。ほとんどの人がこのようなものである。あなたがこうした状態であり続けるなら、ある日、大きな試練に遭遇したとき、懲罰に陥るだろう。心構えをもつことは、神が人間を完全にする過程で極めて重要である。あなたが神による働きのどの段階も疑わず、人間の本分を尽くし、神が自分に実践させている物事を真摯に保つのであれば、つまり、神の忠告を心に留め、神が今日どのような働きを行なっても神の忠告を忘れず、神の働きに疑念を抱かず、自分の心構えを維持し、自分の証しを守り、その道のあらゆる段階で勝利するなら、最終的にあなたは神によって完全にされ、勝利者にされるだろう。神による試練の各段階で揺るぎなく立ち、最後になっても堅く立てるなら、あなたは勝利者であり、神によって完全にされた者である。現在の試練の中で揺るぎなく立つことができないのであれば、今後はいっそう難しくなるだろう。ほんのわずかな苦難を経験するだけで、真理を追い求めないのであれば、あなたは最終的に何も得ない。あなたは手ぶらのままである。神が黙していることを知ったときに追求をあきらめ、心が散漫になる人がいる。こうした人は愚か者ではないか。このような人に現実はない。神が語っているとき、彼らは常に走り回り、表向きは多忙かつ熱心なように見えるが、今や神が黙しているので探求を止めている。こうした者に未来はない。精錬の際、あなたは肯定的な見地から入り、学ぶべき教訓を学ばねばならない。神に祈って神の言葉を読むとき、それと自分自身の状態を比較し、自分の欠点を見つけ、学ぶべき教訓がいまだ多いことを知らねばならない。精錬を経ながら真摯に求めれば求めるほど、自分が不十分であることにいっそう気づく。精錬を経験しているとき、あなたは数多くの問題に直面し、それらをはっきり理解できず、不平を言い、自分の肉を露わにするが、そうすることでのみ、自分の中にあまりに多くの堕落した性質があることを突き止められるのである。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 471
終わりの日における神の働きでは、ヨブの確信さえも超える、途方もなく強い確信が必要とされる。確信がなければ、人は経験を得続けることも、神によって完全にされることもできない。大いなる試練の日が来るとき、教会を去る人がそこかしこにいるだろう。それまでの追求が極めて順調で、なぜ信仰を止めるのかよくわからない人もいるだろう。あなたに理解できない様々なことが起こり、神はしるしや不思議を表わさず、超自然的なことを一切行なわない。こうしたことは、あなたが揺るぎなく立てるかどうかを確かめるのが目的であり、神は事実を使って人を精錬するのである。あなたはまだそれほど苦しんでいない。将来、大いなる試練が訪れるとき、ある場所ではあらゆる者が教会から去り、あなたと良好な関係にあった者たちが信仰を捨てて立ち去るだろう。そのとき、あなたは堅く立っていられるだろうか。現在に至るまで、あなたが経験してきた試練は軽いものだが、あなたはおそらく、やっとの思いでそれらを耐えてきたのだろう。この段階に含まれるのは、言葉による精錬と完全化だけである。次の段階では、事実があなたに降りかかってあなたを精錬し、そのときあなたは厄災のさなかに陥るだろう。ひとたびそれが深刻になれば、神はあなたに急いで去るよう勧告し、宗教関係者があなたを誘惑し、自分たちと一緒に行かせようとするだろう。それは、あなたがその道を歩み続けられるかどうかを確かめることが目的であり、こうしたことのすべては試練なのである。現在の試練は軽いものだが、いつの日か、両親が信仰を止めた家、子どもたちが信仰を止めた家も出てくるだろう。それでもあなたは信仰を続けられるだろうか。あなたが前進すればするほど、あなたの試練も大きくなる。神は人の必要と霊的背丈に応じて、人を精錬する働きを行なう。神が人を完全にする段階において、人の数が増え続けるということはあり得ない。ひたすら減少するだけである。この精錬を通じてでなければ、人は完全にされ得ない。取り扱い、懲らしめ、試練、刑罰、呪いなど、あなたはそのすべてに耐えることができるのか。兄弟姉妹がみな極めて精力的に探求している、とりわけ良好な状況の教会を見ると、あなた自身も励まされる。しかしいつの日か、ある者は信仰を止め、ある者は仕事や結婚のために立ち去り、ある者は宗教に参加するなどして、それら兄弟姉妹が全員立ち去ったとき、あなたは揺るぎなく立てるだろうか。自分の中で影響を受けずにいられるだろうか。神が人間を完全にするのは、それほど単純なことではない。神は様々な物事を活用して人間を精錬する。人はそれらを手段として認識するが、神の本来の意図によれば、それらは決して手段ではなく、むしろ事実である。最終的に、神が人を一定の段階まで精錬し、人に不平が一切なくなったとき、神の働きのその段階は完了する。聖霊の大いなる働きはあなたを完全にすることだが、聖霊が働きを行なわずに姿を隠すとき、その働きは、それにも増してあなたを完全にすることを目的とするものであり、とりわけそうすることで、人々に神への愛があるかどうか、神に対する真の確信があるかどうかがわかる。神が明白に語るとき、あなたが探し求める必要はない。あなたが探し求め、手探りで歩む必要があるのは、神が隠れたときだけである。あなたは被造物としての本分を尽くし、将来の結果や終着点がどのようなものであっても、生きているあいだに神に関する認識と神への愛を求め、そして神があなたをどう扱うかを問わず、不平を言わずにいることができなければならない。聖霊が人の中で働きを行なうにあたっては、一つだけ条件がある。人は渇望して求め、神の行ないに対して気持ち半分になることも、疑念を抱くこともなく、いかなるときも自分の本分を守れなければならない。そうすることでのみ、人は聖霊の働きを得ることができる。神の働きの各段階において、人間に要求されているのは、途方もなく大きな確信と、神の前に出て求めることであり、経験を通じてでなければ、神がいかに愛すべき存在であるか、聖霊が人においていかに働きを行なうかを理解することはできない。あなたが経験せず、模索せず、求めることもなかったとしたら、あなたが得るものはないだろう。あなたは経験を通じて模索する必要があり、自分の経験によってでなければ、神の業を理解し、神の不思議と計り知れなさを認識することはできないのである。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 472
神はあらゆる騒乱、苦難、困難、そして無数の失敗と挫折をあなたに経験させます。そのため最終的に、あなたはそうした事柄を経験する過程で、神の言うことはすべて正しく、自分の信念、観念、想像、認識、哲学的理論、哲学、世間で学んだこと、および両親に教えられたことは、すべて誤りなのだと気づくようになります。そうしたものがあなたをいのちの正しい道へと導くことはできず、真理を理解させて神の前に出させることもできません。あなたが歩んでいる道は失敗の道なのです。そのことを、神は最終的に理解させてくれます。それはあなたにとって必要なプロセスであり、救いを経験する過程で得なければならないものなのです。しかし同時に、そのことは神を悲しませもします。なぜなら人々は反抗的で、堕落した性質を持っており、このプロセスを経てそうした敗北を経験しなければならないからです。しかし誰かが本当に真理を愛していて、本当に神に救われたいと心から望んでおり、さまざまな方法による神の救い ―― 試練、懲らしめ、裁き、刑罰など ―― を受け入れる意志があり、それに耐える決意を持ち、その代価を支払う意志があるなら、神は実際、彼らがそれほどの苦難を味わうことは望んでおらず、それほどの挫折や失敗を経験することも望んでいません。しかし人々はあまりにも反抗的で、不正な道を行くことを望み、こうした苦難を経験することを望んでいるのです。人間とはそのようなものなので、神は人々をサタンの手に引き渡さざるを得ず、彼らをさまざまな状況に置いて絶えず鍛えることで、そうした状況からあらゆる経験を経てさまざまな教訓を学ばせ、あらゆる邪悪な物事の本質に気づかせようとしているのです。人々は後にふり返って、神の言葉が真理であることに気づき、そして神の言葉が真理であり、神のみがあらゆる肯定的な物事の現実であり、神のみが真に人を愛する存在であり、神よりも人に優しく、人を思いやってくれる存在はないのだということを認めるようになります。最終的に、人はどの程度まで鍛えられるのでしょうか。それはこう言うようになるまでです。「わたしはあらゆる状況を経験したが、どんな状況も、どんな人も物事も、わたしに真理を理解させることはできず、真理を享受させることも、真理現実に入らせることもできない。わたしにできるのはただ、従順に神の言葉に従って実践し、従順に人間の立ち位置に留まり、被造物の身分と本分を守り、従順に神の支配と采配を受け入れ、不平を一切言わず、選択もせず、自分自身の要求や欲望を持たずに創造主の前に出る、ということだけだ」。このレベルに達すると、人は真に神の前に頭を垂れるようになり、神もそれ以上の状況を作り出して彼らに経験させる必要がなくなります。あなたはどちらの道を行きたいですか。誰も主観的な願望としては、苦難に耐えることを望みませんし、挫折や失敗、逆境、失望、騒乱を経験したいとは思いません。しかし他に方法がないのです。人の中にあるもの ―― その本性実質、反逆性、思考や態度 ―― は複雑すぎて、日々心の中で混乱し絡み合い、頭の中で入り乱れています。真理現実にほとんど入っておらず、真理をほとんど理解せず、自分の堕落した性質、観念、想像の実質を克服する力もありません。ですから、他のやり方を受け入れるしかないのです。つまり、失敗と失望を絶えず経験し、絶えず倒れ、苦難に揺り動かされ、汚泥の中を転げ回るということであり、最終的にこう言う日が来ます。「もう疲れた、うんざりだ。こんなふうには生きたくない。こんな失敗ばかり経験したくない。従順に創造主の前に出たい。神の言葉を聞こう、神の言うとおりにしよう。それだけが人生の正しい道なのだ」と。完全に敗北を認める日になって初めて、あなたは神の前に出ることになります。このことから、神の性質が何か見てとることができますか? 人に対する神の態度はどのようなものでしょうか。神は何をするにせよ、人にとって最善であれと望んでいます。どんな環境を用意しようと、あなたに何をするよう求めようと、常に最良の結果を望んでいます。たとえばあなたが何かを経験して、挫折や失敗に見舞われたとします。神はあなたが失敗して、自分はもう終わりだと思ったり、サタンに捕らわれてしまったと思ったりするのを見たがってはいません。そうなるとあなたは、二度と自力で歩けるようにはならず、落胆へと陥ってしまいます。神はそのような結末を見たがっているのではありません。では、何を見たがっているのでしょうか。あなたはその問題では失敗したかもしれませんが、真理を求め、失敗の理由を見つけることができます。失敗の事実を受け入れてそこから何かを掴み、教訓を学んで、そのように行動したことが間違いだったのであり、神の言葉に従って行動することだけが正しいのだと気づくのです。そしてこう思います。「自分は不正で、堕落したサタン的な性質を持っている。わたしの中には反逆心があり、神が語りかける正しい人々からは程遠い。わたしには神を畏れる心がない」と。あなたは現象に気づき、問題の真相に気づき、物事を理解し、この挫折と失敗を通じて成長します。それが、神の見たがっていることなのです。「成長」とはどういうことでしょうか。それは、神があなたを得ることができ、あなたが救いを得られるということです。そしてあなたが真理現実に入れるということ、神を畏れ悪を避ける道に一歩近づいたということを意味します。それこそが、神の見たがっていることなのです。神は善意をもって行動し、そのすべてには神の隠れた愛が含まれていて、人はそれをしばしば理解することができません。人は了見が狭くて狭量で、その心は針の穴ほど狭いです。神がその人を認めなければ、あるいは恵みや祝福を授けなければ、その人は神を責めます。それでも神は、人と言い争うことはしません。恵みと恩恵はどう得られるか、人にとって恵みとは何を意味するのか、人はそこから何を引き出せるのかを人に知らしめる環境を整えるのです。たとえば、食べ過ぎると健康に悪いと神が言っているおいしいものを、あなたが好んでいるとしましょう。あなたはそれに耳を貸さず、ひたすら食べ続けますが、あなたが自由に選択することを神は許します。結果としてあなたは病気になります。これを数度経験すると、正しいのは神の言葉であり、神が言うことはすべて真実で、自分は神の言葉に沿って実践しなければならないのだと理解するようになります。これが正しい道なのです。では、人々が経験するこうした挫折、失敗、悲しみは何になるのでしょうか。あなたは神の骨身を惜しまぬ意図に感謝し、神の言葉が真理であることを信じ、それを確信するようになり、神への信仰が深まります。また他にも、この失敗の期間を経験することで、神の言葉の真実味と正確さに気づき、神の言葉が真理であることを知り、真理の実践の原則を理解するようになります。そのため人々にとっては、失敗を経験するのはよいことなのです。もちろん同時に辛いことでもあり、それによって鍛えられることになりますが、そのように鍛えられることで、最終的に神の元へ戻り、神の言葉を受け入れ、それを真理として受け取ることができるなら、そのような鍛錬、挫折、失敗は無駄な経験ではなかったことになります。それこそが、神の見たがっていることなのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「パウロの本性と実質をいかに識別するか」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 473
今この言葉が語られたことをあなたは覚えておかなければならない。後に、あなたはさらに大きな困難と苦難を経験するからである。完全にされることは単純なことでも簡単なことでもない。少なくともヨブのような信仰、あるいはそれ以上の信仰をもっていなければならない。将来の試練はヨブの試練よりも大いなるものであり、その上に長期的な刑罰を受けなければならないことを知るべきである。それは簡明なことであろうか。自分の素質を向上させることができず、理解力が不足し、あまりに何も知らなければ、その時あなたには証しはなく、その代わりにサタンの冗談や玩具となる。現在、ビジョンを持ち続けることができないならば、あなたにはまったく基礎がなく、将来あなたは捨て去られる。道はどの行程も歩み難いので、これを軽くとらえてはならない。今このことを入念に斟酌して準備し、道の最終行程を適切に歩めるようにしなさい。それが将来歩むべき道であり、あらゆる人が歩むべき道である。この認識に注目しないで放置してはならない。わたしがあなたに話すことはすべて息の無駄使いだと考えてはならない。あなたがこれをすべて役立たせる日が来る。わたしの言葉が無駄に語られることはありえない。今は備える時、将来のために道を整える時である。後に歩むべき道を準備し、将来いかに揺るぎなく立つことができるかを心配し、憂慮し、将来の道に向けて周到に準備すべきである。貪欲で怠惰になってはならない。できる限りを尽くして時間を最大限に活用し、必要なことをすべて得られるようにしなければならない。わたしはあなたが理解できるようにあなたにすべてを与えている。あなたがたはわたしがこの三年弱のうちに多くを語り、多くの働きを行なったのを自らの目で見てきた。このように働いてきた理由の一つは人間にはあまりにも欠けていることが多いからであり、もう一つの理由は時間が極めて限られていて、これ以上の遅れは許されないからである。人が証しを立てることができ、用いられるようになる前に、先ず完全な内面の明瞭さを得なければならないとあなたは想像している。しかしそれでは遅すぎるのではないのか。それでは、わたしはどのくらいの間あなたに付き添わなければならないのか。わたしが年老いるまであなたに付き添わせたいならば、それは不可能であろう。さらに大いなる苦難を経験して、あらゆる人において真の認識が達成される。それが働きの過程である。今日伝えられたビジョンを完全に理解して、真の霊的背丈を得たならば、今後どのような苦難を受けようとも、あなたはそれに圧倒されることはなく、それを耐えしのぐことができる。わたしが働きのこの最終段階を完了し、最後の言葉を述べ終えた時、将来において人は自らの道を歩まなければならない。これは前に述べられた言葉を成就することになる。すなわち聖霊には一人ひとりのための任務と、一人ひとりの中で行なうべき働きがある。今後、各人は聖霊に導かれて歩むべき道を歩む。苦難を受ける時に、誰が他の人たちを世話することができるのか。各個人にはそれぞれの苦難があり、それぞれの霊的背丈がある。ある人の背丈は他の誰の背丈とも異なる。夫は妻の世話をすることはできず、親も子の世話をすることはできない。他人の世話ができる者は誰もいない。互いに世話し支え合うことがまだ可能である現在とは状況は異なる。それはあらゆる種類の人間が暴かれる時となる。すなわち、神が羊飼いを打つと、羊の群れは散らされ、その時あなたがたには真の指導者はいなくなる。人々は分割され、あなたがたが会衆として集うことのできる現在とは異なる。将来には、聖霊の働きがない者は自分の真の姿を現す。夫は妻を裏切り、妻は夫を裏切り、子は親を裏切り、親は子を迫害する。人間の心は到底理解できない。できることは自分のもつものに頼り、道の最終行程をよく歩むことだけである。あなたがたには現在このことが良く見えない。皆、目先の事しか見えないのである。この働きの段階の経験に成功するのは、容易いことではない。
『神の出現と働き』「あなたは道の最終行程をいかに歩むべきか」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 474
多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的な享楽のために神を信じている。取り扱いを経験したことのない者は、天に入るため、見返りを得るために神を信じており、完全にされるため、あるいは神の被造物の本分を尽くすために神を信じているのではない。つまり、ほとんどの人は、自身の責任を果たしたり、本分を完了させたりするために神を信じているのではないのである。有意義な人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうするのは完全に自然で理にかなったことであって、人の天職だからだ」と信じる人もめったにいない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏にある動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々が崇拝する対象は大体同じである。過去数千年にわたり、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで生まれ変わった。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、千人二千人でさえないが、そのような人のほとんどは、自分の前途や未来の輝かしい希望のために神を追い求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、そのうえ、勝利を収めた者の数はほんのわずかである。そして、今日に至るまで、人が失敗する理由、あるいは勝利の秘訣を、彼らは依然知らない。キリストを熱心に追い求める人たちでさえ、識見を突然得るという瞬間を経験したことはいまだなく、これらの奥義の真相を突き止めたわけでもない。彼らはただ本当に知らないのである。涙ぐましい努力をして追い求めるが、その歩む道は、成功へのそれではなく、すでに先駆者が歩いた失敗への道なのである。そう考えると、どのように求めるにせよ、それは闇へ通じる道を歩いているということではないか。彼らが得るのは苦い果実ではないのか。過去に成功した者を真似る人が、最終的に幸運を得るのか、それとも不運に見舞われるのかを予測するのは難しい。そうであれば、過去に失敗した人の跡を辿る人の勝算はいかばかりか。失敗する可能性がさらに大きいのではないか。彼らの歩む道に何の価値があるというのか。時間の無駄ではないのか。人が追求において成功するか失敗するかに関係なく、要するにいずれの結果にも原因があり、成功するか失敗するかは、自分の好きなように追い求めることで決まるものではない。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 475
人が神を信じるにあたって最も基本的なことは、その人が誠実な心を持ち、完全に自分を捧げ、本当に従うことである。人にとって最も困難なことは、真の信仰を得ることと引き換えに、自らの一生を捧げることだが、それができれば、人は全部の真理を得て、神の被造物として本分を尽くすことができる。これは、失敗した人たちには達成できないことであり、キリストを見つけられない人にとってはさらに達成不可能なことである。人は自分のすべてを神に捧げることが得意でなく、創造主に対する本分を進んで尽くそうとせず、真理を知ってもそれを避けて我が道を進み、すでに失敗した人の道を辿りながら追い求めるばかりで、いつも天に背いているので、絶えず失敗し、サタンの誘惑に負け、自らしかけた罠に落ちてしまう。人はキリストを知らず、真理を理解して経験することに長けておらず、パウロを過剰に崇拝し、天に入る欲求があまりに強く、キリストが人に従うことを常に要求し、神に対してもあれこれ命令している。そのため、偉人と言われる人たちやこの世の苦難を経験した人たちでさえも死を免れず、神の刑罰のさなかに死ぬのである。このような人たちについては、非業の死を遂げると言うしかないが、彼らの結末、つまりその死にはそれなりの根拠があるのだ。それらの人たちの失敗は、天の法則にとってさらに耐えがたいことではないだろうか。真理は人の世から生じるが、人間のあいだの真理はキリストによって伝えられる。真理はキリスト、すなわち神自身から生じるものであって、それは人間に不可能なことである。しかし、キリストは真理を提供するだけであり、人が真理を追い求めるのに成功するかどうかを決めるために来るのではない。よって、真理について成功するか失敗するかは、すべて人の追求にかかっている。人が真理について成功するか失敗するかは、キリストとは一切関係がないことであり、人の追求によって決まることである。人の終着点、そして人が成功するか失敗するかの責任を神に押し付け、その責任を負わせてはならない。なぜなら、それは神自身に関係のないことであり、神の被造物が尽くすべき本分に直結しているからである。多くの人は、パウロやペテロが追い求めたこと、そして二人の終着点くらいは知っていても、二人の結末以上のことは何も知らず、ペテロの成功の裏にある秘訣、あるいはパウロの失敗を招いた欠点については何も知らない。だから、彼らの追求の実質を見極めることがまったくできないのであれば、あなたがたの大半の追求は失敗に終わるだろうし、少数の者が成功したとしても、ペテロに並び立つことはない。あなたの追求の道が正しいものであれば、成功の望みがある。真理を追い求める中で辿る道が間違ったものであれば、成功することは永遠にできず、パウロと同じ結末を迎えることになる。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 476
ペテロは完全にされた人だが、神の刑罰と裁きを経験し、神への純粋なる愛を得て初めて完全にされた。彼が歩んだ道は、完全にされる道だったのである。要するに、ペテロの歩んだ道は最初から正しく、神を信じる動機もまた正しいものだったので、彼は完全にされる人となり、人がそれまで歩んだことのない新しい道を歩んだのだ。しかし、パウロが最初から歩んだ道はキリストに逆らうものであり、ただ聖霊がパウロを用い、彼の賜物、彼のあらゆる長所を利用して働きを行おうとし、彼はキリストのために何十年も働いたということに過ぎない。パウロは聖霊に用いられた人に過ぎず、キリストがパウロの人間性を好意的に見たからではなく、彼の賜物の故に用いられた。パウロがキリストのために働くことができたのも、喜んでそうしたかったからではなく、打ち倒されてそうしたのである。彼がそのような働きができたのも、聖霊による導きと啓きによるもので、その働きが彼の追求や人間性を表しているのでは決してない。パウロの働きは、しもべのそれ、つまり一人の使徒の働きを表している。しかしペテロは違った。彼も多少の働きをしたが、パウロの働きほど立派なものではなく、自分の入りを追い求めながら働き、そして彼の働きはパウロのそれと異なるものだった。ペテロの働きは、神の被造物の本分を尽くすことだった。使徒としての立場で働いたのではなく、神への愛を追い求めながら働いたのである。パウロの働きの過程にも個人的な追求が含まれていたが、彼の追求は、将来への希望と良き終着点への願望以外のためではなかった。パウロは、働きを行う間、精錬を受け入れなかったし、刈り込みや取り扱いも受け入れなかった。自分の働きが神の望みを満たしてさえいれば、そして自分の行うすべてのことが神に喜ばれさえすれば、最終的に見返りが与えられると信じていた。パウロの働きに個人的な経験は一切なく、ひとえに働きそれ自体のためであり、変わることを追い求めながら働いたのではなかった。彼の働きはどれも取引であって、神の被造物としての本分や神への服従は含まれていなかった。その働きの過程において、パウロの古い性質は何ら変わらなかった。彼の働きは他者への奉仕に過ぎず、自身の性質に変化を起こすことはできなかった。パウロは完全にされることも取り扱われることもなく、自分の働きを直接行い、見返りを動機としていた。その点ペテロは違った。彼は刈り込みと取り扱いを受け、精錬された。ペテロの働きの目的と動機は、パウロのそれと根本的に違っていた。ペテロはそれほど多くの働きをなしたわけではないが、彼の性質は多くの変化を経験し、彼が求めたものは真理であり、真の変化だった。彼の働きは単に働きそれ自体のために行われたのではなかった。一方でパウロは多くの働きをしたが、それらはすべて聖霊の働きであって、パウロはその働きに協力していたものの、彼自身がそれを経験することはなかったのである。ペテロの働きがずっと少ないのは、聖霊が彼を通してそれほど働きを行わなかったからに過ぎない。働きの量で完全にされるかどうかが決まったわけではないのだ。一人は見返りを得るために追い求めたのに対し、もう一人は、神への究極の愛を成し遂げ、被造物としての本分を尽くすために追求し、神に満足してもらうべく愛に満ちた姿を生きられるまでになった。彼らは、外見も違えば実質も違った。二人のどちらが完全にされたのかを、それぞれの働きの量で判断することはできない。ペテロは、神を愛する人の姿を生きること、神に従い、刈り込みと取り扱いを受け入れ、被造物として本分を尽くす者になることを追求した。彼は自分自身を神に捧げ、自分のすべてを神の手に委ね、死ぬまで神に従った。ペテロはこのように決意し、実際それを成し遂げた。これが、ペテロの結末がパウロのそれと最終的に異なるものとなった根本的な理由である。聖霊がペテロに対して行った働きは、彼を完全にするものであり、一方で聖霊がパウロに対して行った働きは、彼を用いるためだった。それは、二人の本性、そして追求に対する考え方が同じではなかったからである。両者とも聖霊の働きを受けたが、ペテロはそれを自分自身に当てはめ、他者にも与えた一方で、パウロは聖霊の働き全体を他者に与え、自分はそこから何も得なかった。このように、聖霊の働きを長年経験しても、パウロ自身の変化はほとんど無きに等しかった。自身の生来の状態に留まり、以前のパウロのままだったのだ。それは単に、長年の働きにおける困難を乗り越えた後、「働く」方法と忍耐を学んだに過ぎず、彼の以前の本性、つまり非常に負けず嫌いで貪欲な本性は、相変わらずそのままだった。そうして長年働いた後、パウロは自分の堕落した性質を自覚しておらず、以前の古い性質を捨ててもいなかったので、それらの古い性質が彼の働きにおいて明らかに見て取れた。彼はより多くの働きを経験したに過ぎず、それでもその経験量は少なすぎ、彼自身を変えることも、自身の追求の存在価値や意義に対する考え方を変えることもできなかった。彼は長年キリストのために働き、二度と主イエスを迫害することはなかったが、心の中で神に対する認識が変わることはなかった。このことは、彼が神に献身するために働いていたというより、自身の将来の終着点のためにやむなく働いていたことを意味する。パウロは最初キリストを迫害し、キリストに従わなかった。つまり、もともとは意図的にキリストに逆らった人間であり、聖霊の働きについての認識を何も持っていなかった。パウロは自身の働きを終えようとしていたときでさえ、いまだ聖霊の働きを知らなかったし、聖霊の旨にほんの少しも注意を払うことなく、自分本来の性格に沿って自分の意思で行動していただけである。従って、彼の本性はキリストに敵対するものであり、真理に従うものではなかった。聖霊の働きに見捨てられ、聖霊の働きを知らず、キリストに敵対するこのような者が、どうして救われようか。人が救われるか否かは、働きの量や献身の度合いによるのではなく、聖霊の働きを知っているかどうか、真理を実践できるかどうか、そして追求に対する考え方が真理と一致しているかどうかで決まるのである。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 477
ペテロがキリストに付き従い始めてから、確かに自然の啓示があったものの、本性から言えば、彼は最初から喜んで聖霊に従い、キリストを追い求める人だった。聖霊に対する彼の服従は純粋なものであり、富や名声を追い求めず、真理への服従によって突き動かされていた。ペテロは三度にわたってキリストを知っていることを否定し、主イエスを試したが、そのようなかすかな人間の弱さは、彼の本性と何の関係もなく、彼の将来の追求に影響を及ぼすこともなかった。さらに、彼の試みが反キリストの行いだったことを十分に証明するものでもない。人間の普通の弱さというものは、この世の万人に共通するものだが、ペテロは違うとあなたは思っているのか。人々がペテロに対して偏見を持っているのは、愚かな間違いをいくつか犯したからではないのか。また人々がパウロをかくも敬愛しているのは、パウロが行った数多くの働きや、彼が書いた数多くの書簡のためではないのか。人が人の本質を見極めることなど、どうしてできるというのか。まことに、本当に理知を持つ人であれば、こんな取るに足らないことは見極められるのではないか。長年にわたるペテロの苦難は聖書に記されていないが、それをもって、ペテロには現実の経験がない、あるいは完全にされなかったとは証明できない。人が神の働きを完全に推し量ることなど、どうしてできようか。聖書の記録は、キリストが自ら選択したわけではなく、後世の人々によって編集されたものである。そうであれば、聖書の記録はすべて人の発想に沿って選ばれたのではないか。さらに、ペテロとパウロの結末は、使徒書簡で明確に述べられていないので、人はペテロとパウロを自分の見方や好みで判断する。そして、パウロがかくも多くの働きを行い、その「貢献」があまりに偉大だったために、彼は万人の信頼を得たのである。人は表面的な事柄だけを重んじているのではないか。人が人の本質を見極めることなど、どうしてできようか。言うまでもなく、パウロが数千年にわたって崇拝の対象だったことを考えれば、誰があえて彼の働きを安易に否定するだろうか。漁師に過ぎないペテロの貢献が、パウロのそれと同じくらい偉大だということがどうしてあり得ようか。二人の貢献を鑑みれば、ペテロに先んじてパウロに見返りが与えられるべきであり、パウロこそ神の承認を得るのにふさわしい者のはずである。それなのに、神がパウロに対しては、彼の賜物によって働きを行わせただけなのに、ペテロのほうは完全にされるということを、誰が想像できただろう。これは決して、主イエスが最初からペテロとパウロのために計画を立てていたということではない。むしろ、二人は自分本来の本性に応じて完全にされるか、あるいは働きを行うようにさせられたのだ。よって、人々の目に見えるものは、人の表面上の貢献に過ぎないが、一方で神が見るのは人の本質であり、人が最初から追い求める道であり、そして人の追求の動機なのである。人は他人のことを、自分の観念と知覚で推し量るが、一人の人間の結末は、その人のうわべで決まるわけではない。そこでわたしは、あなたが最初から辿る道が成功の道であり、追求に対するあなたの見方が最初から正しいものであれば、あなたはペテロのようだと言う。そして、あなたの辿る道が失敗の道であるならば、いかなる代価を払おうとも、あなたの結末はパウロのそれと同じである。いずれにせよ、あなたの終着点、そしてあなたが成功するか失敗するかは、あなたの求める道が正しいかどうかで決まるのであって、あなたの献身や支払った代価で決まるのではない。ペテロとパウロの本質、そして彼らが追い求めた目標はそれぞれ異なるものだった。人がこれらの事柄を発見するのは不可能であり、そのすべてを知り得るのは神だけである。というのは、神は人の実質を見ているが、人は自分の本質について何一つ知らないからである。人は、人間の内なる本質や実際の霊的背丈を見ることができないので、パウロの失敗とペテロの成功の理由を見つけられない。多くの人がペテロではなくパウロを崇拝する理由は、パウロが公の働きのために使われ、人がその働きを認識でき、ゆえにパウロの「功績」を認めることが可能だからである。一方でペテロの経験は、人には見えないものであり、また彼が追い求めたものは人には達成できないことなので、人はペテロに興味を持たないのだ。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 478
ペテロは取り扱いと精錬を経験することで完全にされた。彼はこう言った。「わたしはいつ何時でも、神の願いを満たさなければならない。何を行うにせよ、神の願いを満たすことだけを求める。たとえ罰せられても、あるいは裁かれても、わたしは喜んでそうする」。ペテロは自分のすべてを神に捧げ、彼の働き、言葉、そして一生はどれも神を愛するためだった。ペテロは聖さを追求した人であり、経験を重ねるごとに、心の奥深くにある神への愛が大きくなったのである。一方のパウロは表面的な働きをしただけで、彼も懸命に働いたのは事実だが、その苦労は、自分の働きを正しく行い、それで見返りを得るためのものだった。最終的に見返りを得られないことを知っていたなら、働きを放り出していたに違いない。ペテロが大切にしていたのは心の中の本当の愛と、現実的で達成できる物事だった。見返りを受けられるかどうかなどは気にもせず、自分の性質が変わるかどうかに重きを置いた。一方のパウロは、より懸命に働くこと、外面的な働きや献身、そして普通の人たちが経験することのない教義を大事にした。自分自身の心の奥深くの変化にも、神への真の愛にも一切興味がなかったのだ。ペテロの経験は、神を真に愛し、神を真に認識するため、神とより近い関係を築くため、そして実践的な人生を得るためだった。パウロが働いたのは、イエスによって託されたからであり、また自分が切望しているものを得るためだったが、これらのことは、自分自身や神についての認識とは無関係だった。彼の働きは、ひとえに刑罰と裁きを避けるためだった。ペテロが求めたのは純粋な愛だったが、パウロが求めたのは義の冠だった。ペテロは聖霊の働きを長年にわたって経験し、キリストについて実際の認識を持ち、同時に自分自身についての認識も深かったから、ペテロの神への愛は純粋なものだった。ペテロは長年の精錬を経て、イエスといのちについての認識を深めた。彼の愛は無条件で自発的なものであり、見返りを求めず何の利益も望まなかった。一方のパウロは、長年にわたって働きを行ったにもかかわらず、キリストについての深い認識がなく、自分自身についての認識もごくわずかだった。パウロは単に、キリストへの愛がなかったのであり、彼が働き、その道を走り続けたのは、最後に冠を得るためだった。彼が追い求めたのは最も美しい冠であって、最も純粋な愛ではなかった。またパウロの追求は、能動的ではなく受動的なものであり、自分の本分を尽くしていたのではなく、聖霊の働きに捕えられた後、やむを得ず追求したのである。だからパウロの追求は、彼が神の被造物としてふさわしいという証明にはならない。神の被造物としてふさわしく、自身の本分を尽くしたのはペテロである。人は、神に貢献する人はみな見返りを受けるべきだと考え、また貢献が大きければ大きいほど、神の好意を得るはずだと思っている。人の観点の本質は打算的なものであり、神の被造物として本分を尽くすことを積極的に求めようとはしない。神にとっては、人が神への真の愛と完全なる服従を追い求めれば追い求めるほど、つまり神の被造物として本分を尽くすことを求めれば求めるほど、神に認められるということになる。人が本来の本分と地位に立ち返ることを要求するというのが、神の観点である。人は神の被造物なのだから、自分の立場を越えて神に要求をしてはならず、ただ神の被造物として本分を尽くすべきなのである。パウロとペテロの終着点は、彼らの貢献度ではなく、被造物として本分を尽くせたかどうかに基づいて判断された。つまり、彼らの終着点は、どれほどの働きを行ったか、あるいは世の人が彼らに対してどのような評価を下したかによってではなく、彼らが最初から何を追い求めていたかに基づいて決められたのである。よって、被造物として本分を尽くそうと積極的に追い求めることが成功の道であり、神に対する真の愛を求めることが最も正しい道であって、自分の古い性質の変化と神への純粋な愛を求めることが成功への道である。そのような成功への道こそ、神の被造物としての本来の姿と、本来の本分を回復する道なのである。それは回復の道であると同時に、初めから終わりに至る神のすべての働きの目的でもある。人の追求が個人的な行き過ぎた要求と不合理な願望で汚れているのなら、人の性質を変化させるという成果は達成できない。これは回復の働きにそぐわないことであり、聖霊による働きでは決してない。ゆえにこのことは、この種の追求が神に認められないという証拠である。神に認められない追求に何の意味があるだろうか。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 479
パウロによる働きは人間に公然と示されたが、神への愛の純粋さと、心の奥底でどれほど神を愛していたかについて言えば、人にはこれらのことがわからない。人は、パウロが行った働きしか見ることができず、その働きから彼が確かに聖霊に使われたことを知る。そのため人は、パウロのほうがペテロよりも優れており、またパウロは諸教会に施すことができたので、彼の働きのほうが優れていたと考える。一方ペテロは、個人の経験にのみ目を向け、時おり働きを行う中でわずかな人を獲得しただけだった。さほど知られていない書簡をいくつか記したに過ぎないが、心の奥底に抱く神への愛がいかに素晴らしいものだったか、誰が知っているだろうか。パウロは、明けても暮れても神のために働いた。なさねばならない働きがある限り、パウロはそれを行った。そのようにすれば冠を得て、神に満足してもらえると考えたのだが、働きを通して自分を変える道を求めることはしなかった。一方のペテロは、生活の中で神の望みを満たせないときは、それが何であろうと不安になった。神の望みを満たせなければそれを悔やみ、努力して神の心を満たす適切な方法を探そうとした。ペテロは、生活のどんなに些細なことにおいても、神の望みを満たすよう自分に要求した。自分の古い性質のことにも同じくらい厳しく、また真理により深く潜り込むために、さらに厳格な要求を自分に課した。パウロは表面上の名声や地位しか求めず、人前で自分を誇示することを追い求め、いのちの入りにより深く潜り込もうとすることはしなかった。彼が重視したのは教義であり、現実ではなかった。人によっては、「パウロは神のために多くの働きを行ったのに、なぜ神に記憶されなかったのか。ペテロは神のためにわずかな働きしかせず、諸教会への貢献も大きくなかったのに、どうして完全にされたのか」と言うかもしれない。ペテロはある程度まで神を愛したが、それこそ神が求めることだった。証しはこのような人にしかないのである。では、パウロはどうか。パウロはどの程度まで神を愛したか。あなたは知っているだろうか。パウロの働きは何のためになされたのか。そして、ペテロの働きは何のためになされたのか。ペテロはさほど多くの働きを行わなかったが、彼の心の奥底に何があったか、あなたは知っているのか。パウロの働きは、諸教会への施しと支えに関連するものだった。ペテロが経験したのは自身のいのちの性質の変化であって、彼は神への愛を経験したのである。これであなたは、彼らの本質がどう異なるかを理解したのだから、最終的にどちらが真に神を信じていたのか、そしてどちらが神を真に信じていなかったかがわかるはずだ。一人は神を真に愛し、もう一人は神を真に愛していなかった。一人は自身の性質の変化を経験し、もう一人は経験しなかった。一人は謙虚に仕え、人から容易に気づかれず、もう一人は人々から崇拝され、素晴らしい印象を残した。一人は聖さを求め、もう一人はそれを求めず、不純ではなかったが純粋な愛を持ち合わせてはいなかった。一人は本当の人間性を持ち合わせていたが、もう一人はそうではなかった。一人は神の被造物の理知を持ち合わせていたが、もう一人はそうではなかった。これらがパウロとペテロの本質の違いである。ペテロが歩んだ道は成功の道であり、それは同時に正常な人間性を回復させる道、神の被造物の本分を回復させる道でもある。よってペテロは成功するすべての人の代表である。一方でパウロが歩んだ道は失敗の道であり、表面上は服従し、自分自身を捧げているが、本当に神を愛してはいない人の代表である。彼は真理を持たないすべての人を代表しているのだ。ペテロは、神を信じる中で、何事においても神を満足させること、そして神から来るすべてのものに従うことを追い求めた。不平一つ言わず、刑罰や裁きと共に、精錬、患難、そして生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも神に対する彼の愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ神の被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、または患難のいずれかの中にあっても、あなたは死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、神の被造物が成し遂げるべきことであり、神への愛の純粋さである。仮に人がこれほど多くのことを成し遂げられるなら、その人は神の被造物としてふさわしく、創造主の願いをこれ以上によく満足させるものはない。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛せないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは神の被造物の本分を尽くしていないばかりか、神に断罪される。真理を持たず、神に従うことができず、神に反抗しているからである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践すること、あるいは自分自身を知ることに無関心である。創造主を理解せず、知ろうともせず、創造主に従うことも創造主を愛することもしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのだ。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 480
このように言う人がいる。「パウロは本当に多くの働きを行い、諸教会のために大きな重荷を背負い、多大な貢献をした。パウロの十三の書簡は、二千年にわたる恵みの時代を支え、それは四福音書に次ぐ功績だ。そのパウロを誰と比較できると言うのか。ヨハネの黙示録は誰も読み解けないが、パウロの書いた手紙はいのちを施し、彼の働きは教会のためになった。他の誰が、このようなことを成し遂げられただろう。それに比べて、ペテロが何の働きをしたのか」。人は、他人を評価するとき、その人のなした貢献によって判断する。神が人を評価するときは、その者の本性を見る。いのちを追い求める人の中で、パウロは自分の本質を知らない人だった。彼は謙虚でも従順でもなかったし、神に反している自分の実質も知らなかった。それゆえ、パウロは、細部にわたる経験を経ておらず、真理を実践する人ではなかった。だがペテロは違った。彼は自分の不完全さ、弱さ、そして神の被造物としての堕落した性質を知っていたから、自分の性質を変化させる実践の道があった。彼は教義だけで現実を伴わないという人間ではなかった。変化した人は救われて新たにされた人であり、真理を追求するにふさわしい人である。それに比べて、変化しない人は必然的に古びた人である。彼らは救われなかった人、つまり神に嫌われ拒否された人なのである。いかにその働きが素晴らしくても、神に覚えてもらえることはない。あなたがこのことを自らの追求と比べるとき、究極のところペテロとパウロのどちらと同じなのかは自明のはずだ。あなたが追い求めるものの中にやはり真理がなく、今日においてもなおパウロのように傲慢で尊大なら、あなたは間違いなく失敗するくずである。あなたがペテロと同じもの、つまり実践と真の変化を求め、同時に傲慢でも強情でもなく、本分を尽くすことを求めるなら、あなたは勝利を成し遂げる神の被造物である。パウロは自分自身の実質も堕落も知らず、ましてや自分の反抗心については何一つ知らなかった。パウロはキリストに対する自身の卑劣な反抗に触れたことが一度もなく、十分に悔やむこともなかった。パウロはそれに関して簡単な説明をしただけで、心の奥底では神に対して完全には服従していなかった。パウロはダマスコへ行く道で倒れたが、自分自身を深く内省することはなく、ひたすら働くことに満足するだけで、自分を知って古い性質を変えることが最も肝心なことだとは考えなかった。彼は真理を語ること、自分自身の良心を慰めるために他者に施すこと、そして二度とイエスの弟子を迫害しないことで満足し、それによって自らを慰め、自分自身の過去の罪を赦した。パウロが目指したのは、未来の冠と儚い働きでしかなく、また彼の求めた目標は、豊かで溢れんばかりの恵みだった。十分に真理を追求せず、また過去に理解できていなかった真理をより深く探求しようともしなかった。したがって、自分自身に対する認識が間違っていたと言えるし、刑罰も裁きも受け入れなかった。働きを行うことができたからといって、自分の本性や実質について認識があったことを意味するわけではない。パウロは表面上の実践にしか集中せず、何より認識を求めて努力したのであり、変化を求めていたわけではなかった。パウロの働きは、ひとえにダマスコへの道でキリストと出会った結果であり、それは彼が最初から持っていた志ではなく、自分の古い性質に対する刈り込みを受け入れた後の働きでもなかった。いくら働きを行っても、パウロの古い性質が変わることはなく、よって彼の働きが彼の過去の罪を償うこともなく、ただ当時の諸教会のあいだで一定の役割を果たしたに過ぎなかった。このように古い性質が変わらない人、つまり、救いを得ることがなく、ましてや真理を持たない人は、主イエスに認められる人には絶対になれない。パウロは、イエス・キリストに対する愛と畏敬に溢れていたわけではなく、真理を探求することに長けていたわけでもなく、ましてや受肉の奥義を求める人ではなかった。彼は詭弁に長けた者、そして自分より優れている人や真理を備えた人に対して従わない者に過ぎず、自分と著しく違う人、あるいは自分に敵対する人や真理を妬み、賜物があって印象深く、深遠な知識を備える人を好んだ。真の道を求めて真理だけを重んじる貧しい人々と交流するのを好まず、代わりに、教義についてばかり語り、知識が豊富な宗教組織の長老格とばかり交流した。パウロは聖霊の新しい働きに対する愛がなく、聖霊の新しい働きの動きにも興味がなかった。代わりに彼は、一般的な真理よりも高尚な規則や教義を好んだ。パウロの生来の実質と、彼が追い求めたことの全体を見ても、真理を追求したクリスチャンと呼ばれる資格は彼になく、ましてや神の家の忠実なしもべと呼ばれる資格などない。あまりに偽善的で、あまりに反抗的だったからだ。パウロは主イエスのしもべとして知られているが、彼の行いは最初から最後まで義と呼ぶことができないもので、天国の門に入るのにまったくふさわしくなかった。パウロは不義を行う偽善者だが、キリストのために働いた者としか見なせない。パウロを悪とすることはできないが、不義を行う人と呼ぶのが適切なのだ。パウロは多くの働きを行ったが、その働きの量ではなく、質と実質に基づいて判断されるべきである。そうしてこそ、この問題の真相を究明できる。パウロは常にこう信じていた。「わたしには働きを行う能力があって、普通の人より優れている。他の人以上に神の重荷を思いやることができるし、わたしほど深く悔い改める人もいない。わたしには大いなる光が注ぎ、自分の目でその大いなる光を見たのだから、わたしの悔い改めは誰よりも深いはずだ」。これが、当時におけるパウロの心の中の思いだった。働きを終えるとき、パウロは言った。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくした。今や、義の冠がわたしを待っている」。パウロの戦い、働き、そして行程はすべて、義の冠を受けるためのものであって、積極的に向上しようとしていたわけではなかった。彼はいい加減に働きを行ったわけではないが、その働きは単に自らの過ちを償うため、そして良心の呵責に悩まされないためになされたのだと言える。パウロが望んだのは、自身の働きを成し遂げ、走るべき道を走り抜き、そして戦いをなるべく早く終えて、自分が待ち望む義の冠を一日でも早く得ることだけだった。彼が切望したのは、自分の経験と真の認識でもって主イエスと会うことではなく、自身の働きを一刻も早く終わらせることであり、主イエスに会ったときに、その働きに見合った見返りを受け取るためだった。つまりパウロは、自身の働きによって自らを慰め、それと引き換えに未来の冠を得るという取引をしたのだ。パウロが追い求めたのは真理でも神でもなく、ただ冠だけだった。このような追求がどうして基準を満たせるだろうか。パウロの動機、働き、支払った代価、そして費やしたすべての労力に、彼の素晴らしい空想が浸透していて、彼は完全に自分の願望に従って働きを行ったのである。自身の働き全体において、進んで代価を支払おうという気持ちが一切なく、取引をしていたに過ぎない。パウロは本分を尽くそうと進んで努力することはしなかったが、取引の目的を達成させるためであれば喜んで努力した。そんな努力に何の価値があるのか。いったい誰が彼の不純な努力を良しとするだろうか。誰がそのような努力に興味を持つだろうか。彼の働きは将来の夢と素晴らしい計画に満ち溢れていたが、人の性質を変える道は含まれていなかった。彼の慈愛の大半は見せかけであり、彼の働きはいのちを施すどころか、偽りの礼儀正しさに過ぎなかった。つまり、単に取引をしていただけなのだ。このような働きが、どうして人を本来の本分を回復する道へと導くことができるのか。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 481
ペテロが追い求めた唯一のもの、それは神の心だった。彼は神の願いを満たすことを追い求め、苦難や逆境に遭っても、喜んで神の願いを満たそうとした。神を信じる者として、これ以上に優れた追求はない。しかしパウロが追い求めたものは、彼自身の肉体、観念、そして計画と企みによって汚れていた。パウロは決して被造物としてふさわしいとは言えず、神の願いを満たそうとする人でもなかった。一方のペテロは神の指揮に従い、その働きは偉大なものではなかったが、彼の追求の裏にある動機、そして歩んだ道は正しいものだった。大勢の人を獲得することはできなかったが、真の道を追い求めることができたのだ。それゆえ、ペテロは神の被造物にふさわしいと言える。今日、たとえ働き手ではなくても、あなたは神の被造物の本分を尽くし、神によるすべての指揮に従うことを追い求められるようにならなければならない。神が何を言おうとそれに従い、ありとあらゆる患難と精錬を経験し、またたとえ弱っても、心の中で神を愛せるようにならなければならない。自分のいのちに責任を持つ人は、神の被造物の本分を進んで尽くす人であり、そのような人の追求への見方こそが正しいのである。これが、神が必要とする人である。仮にあなたが多くの働きを行い、人々がその教えから学んでも、あなた自身は変わらず、そのうえ何の証しも真の経験も持たず、死の直前になっても自分のしたことに何の証しもないままだとしたら、あなたは変化した人だと言えるだろうか。真理を追い求める人だと言えるだろうか。当時、聖霊があなたを用いたとき、それは単に働きに使える部分を用いたのであって、そうでない部分は用いなかった。あなたが変わることを追い求めるのであれば、用いられる過程で徐々に完全にされるはずである。それでも聖霊は、あなたが最終的に神のものとされるかどうかに責任を負うことはなく、それはあなたがどう追い求めるか次第である。自分個人の性質に変化がなければ、それは追求に対するあなたの観点が間違っているからである。また何の見返りも与えられないのであれば、それはあなたの問題であり、あなたが自ら真理を実践せず、神の願いを満たせないことが原因である。要するに、自分自身の経験以上に重要なことはなく、自分自身の入りこそが最も肝心なのだ。中には結局こう言う人もいるだろう。「わたしはあなたのために大いに働きました。立派な功績を残したわけではありませんが、真面目に努力してきました。だからどうか、わたしを天国に入れていのちの果実を食べさせてはいただけませんか」。わたしがどのような人間を望んでいるか、あなたは知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたは多くの働きを長年にわたって行ってきたかもしれないが、最後のときになっても甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることを望んだところで、天の法がそれを許さない。創世から今日まで、人がいかに取り入ろうとも、その人がわたしの国に入るにあたり、わたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを求めねばならない。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、それは自分の性質の変化を求める人であり、喜んで神の証しをし、神の被造物として本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが完全にされるのだ。見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えようとしないのであれば、あなたの努力はどれも徒労に終わる。これは不変の真理である。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 482
あなたは、ペテロとパウロの実質の違いから、いのちを追い求めない人の努力はすべて徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心の中で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質を捨て去り、神の願いを満たすことを求め、神の被造物の本分を尽くさなければならない。神を信じて付き従う以上、あらゆるものを神に捧げ、個人的な選択や要求はせず、神の願いを満たすことを成し遂げるべきである。あなたは被造物なのだから、自分を創った主に従うべきである。なぜなら、あなたは自分を支配することが本来できず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのだ。また被造物である以上、本分を守り、自分の立場を守らねばならず、自身の本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって押さえつけたりしているのではなく、むしろあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人であれば必ず到達できる、あるいは到達しなければならない道である。ペテロとパウロの実質を比べてみれば、どのように追い求めるべきかがわかる。ペテロとパウロが歩んだ道は、一つは完全にされる道であり、もう一つは淘汰に至る道である。つまり両者は二つの異なる道を代表しているのだ。いずれも聖霊の働きを受け、聖霊の啓きと照らしを得て、また両者とも主イエスから託された物事を引き受けたが、それぞれがもたらした果実は違っていた。一方は実際に果実を実らせ、もう一方は果実を実らせなかった。あなたは両者の実質、働き、表面上の表れ、そして結末から、どちらの道を選んで歩むべきかを知ることができなければならない。彼らは明らかに異なる道を歩いた。パウロとペテロは、それぞれの道の典型的な例であり、初めからその二通りの道の特徴を示していた。パウロの経験では何が重要だったのか。そして、パウロはなぜ成功しなかったのか。一方、ペテロの経験では何が重要だったのか。そして完全にされることをどのように経験したのか。二人がそれぞれ重視した点を比べてみれば、神が望むのはどのような人物か、神の旨は何か、神の性質はどういったものか、どのような人が最終的に完全にされるのか、そしてどのような人が完全にされないのかがわかる。また、完全にされる人の性質、完全にされない人の性質はどのようなものかを知ることができる。実質に関わるこれらの問題点がペテロとパウロの経験の中に見て取れる。神は万物を創ったのだから、すべての被造物が神の支配下に入り、神の権威に従うようにする。また神は万物を采配し、あらゆる物事を手中に収める。動物、植物、人類、山や川、湖など、神の被造物はすべて神の支配下に入らねばならない。天地の万物が神の支配下に入らねばならないのだ。他に選択肢はなく、一切が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてを司り、万物を整えて秩序立て、神の旨に沿って、一つひとつ種類に応じて選り分け、それぞれの場所に配置する。いかに偉大であっても、神に勝るものは存在せず、万物は神の創った人類に仕え、あえて神に逆らったり、神に要求したりするものは一つもない。したがって、神の被造物である人間も、人の本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうと管理者であろうと、また万物の中で人の地位がどれほど高くても、所詮は神の支配下にある取るに足らない一人の人間、神の被造物に過ぎず、神の上に立つことは決してない。神の被造物である人間は、被造物の本分を尽くすこと、そして他の選択をせずに神を愛することを追い求めねばならない。神こそが人の愛にふさわしいからである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益を求めたり、自分が切望する物事を追求したりしてはならない。これが追求の最も正しい形である。あなたの求めるものが真理であり、実践するものが真理であり、あなたの得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しい。あなたの求めるものが肉の祝福であり、実践するものが自身の観念の中にある真理であり、自分の性質に変化がなく、受肉した神にまったく従わず、いまだ漠然とした状態の中で生きているのであれば、あなたが追い求めるものは必ずや、あなたを地獄へと導く。なぜなら、あなたが歩む道は失敗の道だからである。あなたが完全にされるか淘汰されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するか失敗するかはその人が歩む道にかかっているのだ。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)