神の働きを認識する(1)

日々の神の御言葉 抜粋 141

今日神の働きを知ることは、おもに、終わりの日における受肉した神の主要な職分が何であるか、何をするために地上に来たかを知ることである。わたしは以前、神は(終わりの日に)地上に来たのは去る前に模範を示すためであるという言葉を述べた。神はどのように模範を示すのか。言葉を発し、地上のいたるところで働き、語ることによって模範を示すのである。これが終わりの日の神の働きである。神がただ話すだけなのは、地上を言葉の世界にするため、またすべての人が言葉により施しを受け、言葉により啓かれ、それにより人間の霊が目覚めてビジョンが明らかになるようにするためである。終わりの日に受肉した神が地上に来たのは、おもに言葉を述べるためである。イエスが来た時、天国の福音を広め、十字架の贖いの働きを成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、古いものをすべて取り除いた。イエスの来たことで律法の時代が終わり、恵みの時代を招き入れたのである。終わりの日の受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、おもに言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、人間を照らし、啓き、人間の心にある漠然とした神のいる場所を取り除くために来た。これはイエスが来たときに行った段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの働きを行なった。その結果、人間の観念では、神はこのようでなければならないと考える。イエスが来た時、漠然とした神の姿を人間の心から取り除く働きはしなかったからである。イエスが来た時、十字架につけられ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、終わりの日の神の受肉は、人間の観念において漠然とした神が占めている場所を除き、それにより人間の心に漠然とした神がもはや存在しなくなるようにするのである。神はその実際の言葉と働き、地上のあらゆる場所を移動すること、そして人々の間で行う極めて現実的かつ普通の働きを通じて、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然とした神の場所を取り除くのである。別の意味では、神は肉の体が語る言葉を使って人間を完全にし、すべてを成就する。これが神が終わりの日に達成する働きである。

あなたがたが知るべきことは次の通りである。

1. 神の働きは超自然的ではない。そういう観念を抱いてはいけない。

2. 受肉した神が今回行うために来たおもな働きを理解しなければいけない。

神は病人を癒やしに来たのではない。また、悪霊を追い払うためでも、奇跡を行うためでもない。悔い改めの福音を広めるためでも、人間を贖うために来たのでもない。イエスがすでにこの働きを終えているので、神は同じ働きを繰り返さないからである。今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。実際の神が来たのは、おもに自分が現実に存在することを示すためである。イエスが来たときは、そう多くを語らなかった。イエスはおもに奇跡を示し、しるしや不思議を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払った。他には自分がほんとうに神であり、公平な神であることを人々に信じさせ知らせるために預言をした。最後に、磔刑の働きを完成した。今日の神は、しるしも不思議も行わず、病人を癒やすことも悪霊を追い払うこともしない。イエスが来た時に行った働きは、神の一部を示すものであったが、今回の神はこの段階でするべき働きをするために来たのである。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、決して古くない。だから、あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 142

終わりの日の受肉した神は、おもに言葉を発するために来た。また、人間のいのちに必要なことをすべて説明し、人が入るべきものは何かを示し、人に神の業、神の知恵、全能性、驚くべきさまを見せるために来た。神はさまざまな方法で語るが、人間はそこに神の至高、神の偉大さ、さらに、神の謙虚と隠秘性を見る。人間は神が至上の存在であることを見るが、神は謙虚で隠されており、最も小さい者になれる。神の言葉は霊の観点から直接語られることもあれば、人間の観点から直接語られることもあり、またある言葉は第三者の観点から語られる。ここから神の働きの方式が変化に富んでいることがわかるが、神は言葉を通して人間にそれがわかるようにする。終わりの日における神の働きは正常かつ実際的である。そして、終わりの日における一群の人たちは最大の試練にさらされる。神の正常性と現実性とのため、すべての人がそうした試練の中に入って行った。人間が神の試練に陥ったのは、神の正常性と現実性のためである。イエスの時代、試練や観念はなかった。イエスの働きのほとんどは人間の観念に合致していたため、人々はイエスに従い、イエスについての観念も抱かなかった。今日の試練は人間がこれまでに直面してきたもののうちでも最大である。その人たちは大きな患難を経てきたと言うとき、指しているのはまさにそのような患難である。今日、神は信仰、愛、忍耐、受苦、従順をこの人たちの中に生じさせるために話す。終わりの日の受肉した神の語る言葉は、人間の本性実質、人間の行動、および人間が今日入るべきことに沿って語られる。神の言葉は現実的かつ普通のものである。神は明日のことは話さない。また、昨日を振り返ることもない。今日入って行き、実践し、理解するべきことについてだけ話す。この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約聖書はメシアの到来を預言し、この預言の結果はイエスの出現であった。これはすでに起きたことであり、別のメシアがまた来るというのは間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは間違いである。すべての時代には一つの名前があり、名前はそれぞれ各時代の特徴を含んでいる。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない。なぜ今日、神の働きはイエスの働きと異なっているのか。なぜ今日の神はしるしや奇跡を示さず、悪霊を追い払わず、病人を癒やしもしないのか。もしイエスの働きが律法の時代に行われた働きと同じであれば、イエスは恵みの時代の神を表すことができただろうか。磔刑の働きを完了できたろうか。もし律法の時代のようにイエスが神殿に入り、安息日を守ったなら、誰からも迫害を受けず、みなに受け入れられたであろう。それならば、磔刑に処せられたであろうか。贖いの働きを完了できたであろうか。終わりの日の受肉した神がイエスのようにしるしや不思議を見せたなら、何の意味があるのか。終わりの日に神が働きの別の部分、つまり経営(救いの)計画の部分を表す働きをしてはじめて、人間は神についてより深い認識を得ることができるのであり、そうしてはじめて神の経営計画は完了するのである。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 143

終わりの日において、神はおもに言葉を発するために来た。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の観念を変え、漠然とした神の姿を人間の心から取り除くための話し方をする。これが神が行う主要な働きである。人間は神が病人を癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な祝福をもたらすために来たと考えているため、神はこの段階の働き、つまり刑罰と裁きの働きをそうした観念を人間の思考から取り除くために行う。人間が神の現実性、神の正常を知るように、そしてイエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるようにである。人間の心の中にある神の姿が古くなると、ただちにそれは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を表さなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられた。イエスは神の一部分を表した。イエスは神の全体像を表すことはできず、神の働きの一部を行うことで神を表した。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、また計り知れないからであり、神はそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからである。神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性実質、堕落した性質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考えを一掃することであり、人間の知識と文化は神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させ、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の素質が限られていて、認識を完全にすることができなかったため、神は話し、働き続けた。恵みの時代、人間は再び神の業の一部を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上人間に見せなければ、それで神について人間が把握できることはそこまでに限られる。だから、神は自分に関する人間の認識が深まるように、人間が徐々に神の実質を知るようにと働き続ける。終わりの日に神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は神の言葉により明らかになり、宗教的観念は神の現実性に置き換えられる。終わりの日の受肉した神が来たのはおもに「言葉は肉となり、言葉は肉に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するためであるが、このことを完全に認識していなければ、堅く立つことはできない。終わりの日に、神はおもに言葉が肉において現れるという働きをするつもりだが、これは、神の経営計画の一部である。だから、あなたがたの認識は明確でなければならない。神がどのように働こうと、人間が神を限定することを神は許さない。もし神が終わりの日にこの働きをしなければ、人間の神についての認識はそれ以上進まない。神が十字架につけられることができ、ソドムを滅ぼすことができ、イエスが死からよみがえってペテロの前に現れることができることだけを知っているだろう……。しかし、神の言葉はすべてを成し遂げることができ、人間を征服できるとはあなたは絶対に言わないであろう。神の言葉を経験してはじめて、そうした認識について話せるのである。また、神の働きを経験すればするほど、神についての認識が充実していく。そうしてはじめて、自分の観念の枠内に神を限定しなくなる。人間は神の働きを経験して神を知るようになる。これ以外に神を知る正しい方法はない。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 144

現在、この終わりの日にあって、おもに「言葉は肉となり」という事実が神に成し遂げられるということをあなたがたはみな明確に知っていなければいけない。神はその地上での実際の働きにおいて人間が神を知り、神と関わり、神の実際の業を見るようにする。神はしるしや不思議を示せるが、そうすることのできない場合があり、それは時代による、ということが人間にはっきりわかるようにする。このことから、神はしるしや不思議を示すことができないのではなく、なすべき働きと時代によって働き方を変えるのだということがわかる。現在の働きの段階では、神はしるしや不思議は示さない。イエスの時代にしるしや不思議を示したのは、その時代の働きは異なっていたからである。神はその働きを現在はしない。そこで、神はしるしや不思議を示すことができないと思ったり、しるしや不思議を示さなければ、それは神ではないと考えたりする人がいる。それは誤りではないのか。神はしるしや不思議を示せるのだが、異なった時代に働いているから、そうした働きをしないのである。今は別の時代であって、神の働きは別の段階にあるから、神が明らかにする業もまた異なっている。人間の神への信仰は、しるしや不思議を信じることではないし、奇跡を信じることでもなく、新たな時代における現実の働きを信じることである。人間は神の働き方によって神を知り、この認識が神への信仰を人間の内に生み出す。つまり、神の働きと業への信仰である。今の段階の働きで、神はおもに話す。しるしや不思議を目にするのを待っていてはならない。そんなものは見えない。あなたは恵みの時代に生まれたのではないからである。もし恵みの時代に生まれたのだったら、しるしや不思議を見られただろうが、終わりの日に生まれたのだから、あなたに見えるのは神の現実性と正常だけである。終わりの日に超自然のイエスを見ることを期待してはいけない。あなたが見ることができるのは、正常な人間と変わるところのない受肉した実際の神だけなのである。それぞれの時代に、神は異なった業を明らかに示す。それぞれの時代に、神はその業の一部だけを明らかにする。各時代の働きは神の性質の一部、神の業の一部だけを表す。神が明確に示す業はその働く時代によって異なる。しかし、どれもみな人間に神についてさらに深い認識、さらに真実に近くさらに地に足のついた信仰を与える。人間が神を信じるのは、神の業すべてのためであり、神がまことに不思議で偉大だから、神が全能で測り知れないからである。もし神がしるしや不思議を示し、病人を癒やし、悪霊を追い払えるから信じるというのなら、その見方は誤っている。「邪霊もまたそういうことができるのではないのか」とあなたに言う人がいるであろう。それは神の姿をサタンの姿と取り違えていることになるのではないか。今日、人間が神を信じるのは、神が行う多くの業と働き、そして神による数多くの話し方のためである。神はその言葉によって人間を征服し、完全にする。人間が神を信じるのは、神の数多くの業のためであり、神がしるしや不思議を見せられるからではない。人間は神の業を目の当たりにすることで、神を知るようになるだけである。神の実際の業、神がどのように働くか、神がどのような知恵のある方法を用いるか、どのように話すか、どのように人間を完全にするか、こういう面を知ることによってのみ、神の現実性と性質を人は理解することができ、神は何が好きで、何が嫌いか、神はどのように人間に働きかけるかを知るようになる。神の好き嫌いを理解することで、物事の是非を区別できるようになり、また、神についての認識により、いのちの成長がある。つまり、神の働きについて認識しなければ、神への信仰についての考え方を正さなければいけないのである。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 145

どのように追求しようと、何よりもまず、神が今日行っている働きを理解し、この働きの意味を知らなければならない。終わりの日に神が来るとき、どのような働きをもたらすのか、どういった性質を伴っているのか、そして、人間の中で何が完全にされるのかを理解し、知らなければならない。神が到来し、肉において行う働きを知らず、理解もしていなければ、どうして神の旨を把握し、神の知己になることができようか。実際、神の知己になるのは複雑なことではないが、単純なことでもない。人々が徹底的に理解して実践できれば、それは単純なものになる。人々が徹底的に理解できなければ、それははるかに難しいものとなり、さらに言えば、自身の追求によって漠然としたものへと至りがちになる。神を追い求めるにあたり、自分のよって立つところがなく、自分が固持すべき真理を知らなければ、それは土台がないということであり、そのため、揺るぎなく立つのが難しくなる。今日、真理を理解しない者、善悪の区別ができない者、何を愛し何を憎めばよいのかわからない者が大勢いる。そうした人々が揺るぎなく立つことはほぼできない。神を信じる上で鍵となるのは、真理を実践し、神の旨を思いやり、また神が肉において到来するとき、神が人間に行なう働きと、神が語る際の原則を認識できるようになることである。大衆に従ってはならない。自分が何に入るべきかについて原則を持ち、それを堅持することが必要である。神の啓示によってもたらされた、自分の内にあるものを堅持することが、あなたにとって助けとなる。そうしなければ、あなたは今日道を逸れ、明日は別の方向に逸脱し、本当のものは何も得られない。これでは、あなたのいのちに何の益もない。真理を理解しない者はいつも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言えば、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人が、これは悪霊の仕業だと言えば、あなたもまた疑惑を持つか、あるいは、これは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつも他人の言葉をそのまま繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることもできない。それは、自分で物事を区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。あなたはいつも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日か、これは聖霊の働きでないと誰かが言い、実際人間の仕業に過ぎないという可能性がある。しかし、あなたはそれを判別できず、他人がそう言っているのを目にすると、同じことを口にする。実際は聖霊の働きなのに、それは人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者の一人になったのではないか。これは、物事を識別できずに神に敵対してしまったのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、「これは悪霊の仕業だ」と言うかもしれない。それを聞いたあなたは途方に暮れ、またもや他人の言うことに縛られてしまう。誰かが混乱を引き起こすたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それはひとえに、真理を把握していないからだ。神を信じ、神を知ろうと求めるのは、容易なことではない。そうしたことは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは成し遂げられず、熱情だけでは完全になれない。経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければならない。経験を積めば、多くのことを識別できるようになる――善悪、正邪、何が血肉に属し、何が真理に属するかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうした物事をすべて判別できなければならない。そうすれば、どういう状況にあっても迷うことはない。ただこれだけが、あなたの真の霊的背丈なのである。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 146

神の働きを知ることは単純なことではない。追い求める中で、基準と目標がなければならない。どのようにして真の道を求めるか、何を基準にしてそれが真の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の働きであるかどうかということを知る必要がある。真の道を求める上で最も基本的な原則は何か。この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を表しているかどうか、誰の証しがなされているのか、それが何をもたらすかに目を向けなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要であり、最も基本的なことは、そこに聖霊の働きが表わされているかどうかである。人々の神への信仰の実質は、神の霊を信じることであり、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいているからだ。つまり、そうした信仰はやはり聖霊への信仰なのである。霊と肉のあいだには違いがあるものの、この肉は霊から来たものであり、肉となった言葉なのだから、人間が信じるのはやはり、神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道かどうかを判断するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後、その道に真理があるかどうかを見なければならない。この真理は正常な人間性のいのちの性質である。つまり、初めに人間を創造した際、神が人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵、そして人間であることの基本的な知識を含む)正常な人間性の全体である。要するに、この道が人々を正常な人間性の生活に導けるかどうか、語られている真理が正常な人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的かつ現実的であるかどうか、それが最も時宜にかなったものかどうか、といったことを見極めなければならない。そこに真理があれば、人々を正常で現実的な経験へと導くことができる。さらに、人々はいっそう正常になり、人間としての理知もより完全になる。肉における生活と霊的生活がさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽もますます正常なものとなる。これが第二の原則だが、もうひとつの原則がある。それは、人々が神についてより多くの認識を持っているかどうか、そのような働きと真理を経験することで神への愛を呼び起こせるかどうか、その人をさらに神へと近づけられるかどうかである。このことによって、その道が真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間のいのちを施せるかどうかということだ。そうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなたがたの将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、別の新時代の働きが将来存在すると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、今日の道こそ真の道だとあなたがたに確信させ、今日の働きをただ半信半疑で信じ、その働きについて洞察できないということがないようにするためである。確信しているものの、いまだ混乱しながら付き従っている者さえ数多くいる。そのような確信には原則がなく、そのような人は遅かれ早かれ必ずや淘汰される。とりわけ熱心に付き従っている者たちでさえ、三割は確信しているが、五割は確信していない。このことは、その人たちに基礎がないことを示している。あなたがたは素質があまりに貧弱で、基礎が浅すぎるので、区別することがわかっていない。神は同じ働きを繰り返さず、現実的でない働きを行わず、人間に過分な要求をせず、人間の理知の外にある働きは行わない。神が行う働きはみな、人間の正常な理知の範囲内で行われ、人間の正常な理知を超えることはない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿って行われる。それが聖霊による働きなら、人々はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人々は自分の堕落したサタン的性質、および人間の実質についての認識を増し、また真理への渇望もさらに強くなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質がますます変化できるということであり、そのすべてが、神が人間のいのちになるということの意味である。ある道が、人間の実質であるこれらの事柄を明らかにできず、人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人々を神の前へと導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の働き、あるいは古い道ということになる。要するに、それが聖霊による現在の働きということはあり得ない。あなたがたは長年神を信じてきたが、それでも真の道と偽りの道を区別し、真の道を求める原則を一切知らない。ほとんどの人は、こうした事柄に興味さえ持たず、ただ大多数が行く方へ行き、大多数の言うことを繰り返すだけである。どうしてこれが真の道を求める者だと言えようか。そうした人々がどうして真の道を見いだせようか。これらいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうとも、あなたがたが欺かれることはない。今日、人々が識別できるようになるということが肝要である。これは正常な人間が備えているべきもの、人々が自身の経験の中で備えているべきものである。今日になっても、付き従う過程で何一つ識別できず、人間としての理知がいまだ成長していないのであれば、人々はあまりに愚かで、その追求は誤りであり、道を外れたものである。今日、あなたの追求にはわずかばかりの判別力もない。あなたの言う通り、あなたは確かに真の道を見つけたが、それを本当に自分のものとしたのか。あなたは何かを識別できているのか。真の道の実質は何か。実のところ、あなたは真の道を獲得してはいない。あなたは、何の真理も得ていない。つまり、神があなたに要求することを何も成し遂げておらず、ゆえにあなたの堕落には何の変化もない。そのような方法で追求し続けるなら、最終的には淘汰されるだろう。今日まで付き従ってきたのだから、自分の辿ってきた道は正しい道だと確信しているべきで、これ以上疑問を抱いてはならない。多くの人は些細なことが原因で、いつも確信できず、真理の追求をやめてしまう。このような人々は、神の働きについて何の認識も持っておらず、困惑しながら神に付き従っている者たちである。神の働きを知らない人々は、神の知己であることができず、神の証しをすることもできない。祝福だけを求め、漠然とした抽象的なものだけを追い求めている者たちにわたしは忠告する。あなたの人生が意義あるものとなるように、できるだけ早く真理を追い求めなさい。もう自分を欺くのはやめなさい。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 147

六千年にわたって行われてきた働きは、その全体が時代とともに徐々に変化してきた。この働きに見られる変化は、世界全体の情勢と、人類の全体的な発展の傾向に基づいて起こったものであり、経営の働きはただそれらに従って徐々に移り変わってきたのである。創世の当初からすべてが計画されていたわけではなかった。世界の創造の前やその直後、ヤーウェはまだ働きの最初の段階である律法の時代、第2の段階である恵みの時代、第3の段階である征服の時代を計画していなかった。第3の段階である征服の時代には、神が最初にモアブの子孫の一部に対して働きを行い、それを通して宇宙全体を征服することになる。神は世界の創造の後、そうした言葉を一切語らず、モアブの後にもそれを語ることはなかった。実際、ロトの前にはそれらを一切語らなかったのだ。神の働きはすべて自然発生的に行われる。六千年にわたる神の経営の働きは、まさにこのようにして進められてきたのであり、世界の創造の前に神が「人類の発展の概略図」のような形で計画を書き出すことは一切なかった。神はその働きにおいて、神の存在そのものを直接的に表現するのであり、知恵を絞って計画を練り上げるのではない。もちろん数多くの預言者たちが無数の預言を語ってきたが、それでも神の働きが常に綿密な計画に基づいているとは言えない。そうした預言は、当時の神の働きに従って行われたのだ。神の働きはすべて、最も現実的な働きである。神はそれぞれの時代の進展に従って自身の働きを遂行し、物事の変化をその働きの基盤とする。神にとって働きを行うことは、病状に合わせて薬を処方することに似ている。神は自身の働きを行う際、観察をし、その観察に従って働きを続行する。神は自らの働きのどの段階においても、その豊かな英知と能力を表現できる。神はどの時代においても、その時代の働きに合わせて自らの豊富な知恵と権威を露わにし、その時代に神によって連れ戻された者すべてが、神の性質の全体を目にできるようにする。神はそれぞれの時代に実行されるべき働きに基づいて人々の必要を満たし、自身のなすべき働きを実行する。神は人々がサタンに堕落させられた程度に応じて、人々の必要を満たす。それはちょうど、ヤーウェが最初にアダムとエバを創造したとき、彼らに地上で神を体現させ、被造物の中で神の証しをさせることを目的としていたのに似ている。しかしエバは蛇に誘惑されて罪を犯し、アダムも罪を犯した。彼らは園でともに善悪の知識の木の果実を食べた。そのためヤーウェは、彼らに対してさらなる働きを行なった。神は彼らが裸なのを見て、動物の皮から作った衣服で彼らの体を覆った。その後神はアダムに言った。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ……。ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。そして女にはこう言った。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。それ以降、神は彼らをエデンの園から追放し、彼らを現代人が地上で生きているのと同じように、園の外に住まわせた。神は人を創造した当初、創造の後に人を蛇に誘惑させて、それから人と蛇を呪うということは計画していなかった。神は実際そのようなことを計画してはおらず、ただ状況の推移によって、万物の間で新たな働きが必要になったのだ。ヤーウェが地上でアダムとエバにその働きを行なった後、人間は数千年にわたって発達し続け、そしてついに、次のような状況に至った。「ヤーウェは人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。ヤーウェは地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、……しかし、ノアはヤーウェの前に恵みを得た」。このときヤーウェはさらに新しい働きを行うことになったが、それは神が創造した人間が、蛇による誘惑の後、あまりに罪深くなってしまっていたからだった。そのような状況で、ヤーウェは人類の中からノアの家族を選んで生き残らせ、洪水で世界を滅ぼすという神の働きを実行した。人間は今日までこのように堕落を増しながら発達し続けており、そして人類の発達がその頂点に達すると、それは人間の終わりを意味することになる。神の働きの内なる真実は、当初からまさに世界の終わりに至るまで常にこのようなものであり、今後もそうあり続ける。そして人々がその性質に従って分類されることになるのも同じで、一人一人が初めから特定の分類に属するよう定められているわけではまったくなく、みな発達の過程を辿った後に初めて、徐々に分類される。最終的に完全な救いにたどり着けない人々はみな、その人の「祖先」に戻されることとなる。人間の間での神の働きは一つとして、世界の創造時には準備されていなかった。むしろ神は状況の推移によって、人間に対する働きを一つ一つ、より現実的かつ実際的に行えるようになったのだ。たとえばヤーウェ神は、女を誘惑するために蛇を創造したわけではなかった。それは神の特別な計画でも、意図的に定めたことでもなく、思いがけない出来事だったと言える。ヤーウェがアダムとエバをエデンの園から追放し、二度と人を創造しないと誓ったのは、まさにそのためである。しかしこの根拠によってこそ、人は神の知恵を見出すことができる。それはわたしが以前、「わたしはサタンの策略に基づいてわたしの知恵を発揮する」と言った通りだ。人間の堕落がどれだけ進んでも、蛇がいかに人間を誘惑しても、ヤーウェは依然として神の知恵を備えている。それゆえ、神は世界の創造以来ずっと新しい働きに携わっており、その働きの各段階はこれまで一度も繰り返されたことはない。サタンは継続的に策略を実行しており、人間はサタンに堕落させられ続けていて、ヤーウェ神は休むことなくその賢明な働きを遂行している。神は一度も失敗したことがなく、世界の創造以来一度も働きをやめたこともない。人間がサタンによって堕落させられた後、神は人間の堕落の根源であるその敵を打ち負かすため、人々の間で働き続けてきた。その激しい戦いは創世のときから行われており、世界の終わりまで続くだろう。こうしたすべての働きを行う中で、ヤーウェ神はサタンに堕落させられた人間が自らの素晴らしい救いを得られるようにしてくれただけでなく、自らの知恵、全能性、そして権威も目のあたりにさせてくれた。そして最終的には、自らの義なる性質も明らかにし、邪悪な者を罰して正しい者に報いることになる。神は今日までサタンと戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、サタンの策略に基づいてその知恵を発揮しているからだ。それゆえ神は天のあらゆるものを自らの権威に従わせるだけでなく、地上のすべてのものを自身の足台の下に置き、そしてなによりも人間を侵害し悩ませる邪悪な者に神の刑罰を受けさせる。こうしたすべての働きの結果は、神の知恵によってもたらされる。神は人間が存在する前に自らの知恵を露わにしたことは一度もない。それは天にも地にも全宇宙のどこにも神に敵がおらず、自然界の何物をも侵害する闇の力は存在しなかったからである。大天使が神を裏切った後、神は地上に人間を創造し、そして人間のために、何千年にも及ぶ大天使サタンとの戦いを正式に開始したのだ。その戦いは段階が進むごとにますます過熱しており、神の全能性と知恵はそうした段階の一つ一つに示される。そのとき初めて、天地のすべてのものが神の知恵、全能性、そして特に神の実在を目撃したことになる。神は今日に至るまでこの同じ現実的な方法で自らの働きを実行し続けており、さらに自らの働きを実行する中で、自身の知恵と全能性を露わにしている。神はあなたがたに働きの各段階の背後にある真実を見せ、神の全能性を具体的にどう説明すればよいかを理解させ、さらに神の実在の決定的な説明を目のあたりにさせてくれるのだ。

『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 148

聖霊の働きは常に自然発生的になされるものであり、聖霊はその働きをいつでも計画しいつでも実行できる。わたしがいつも、聖霊の働きは現実的で常に新しく、決して古くならず、常に最高度に新鮮だと言うのはなぜか。聖霊の働きは世界が創造されたときにすでに計画されていたわけではない――決してそうではないのだ。働きのすべての段階は、それぞれの時期に相応の結果を得ることになり、各段階が互いに干渉し合うことはない。多くの場合、あなたが自分で考えている計画は、聖霊の最新の働きにまったく匹敵しない。神の働きは、人間が論理で考えるほど単純なものではなく、人間が想像するほど複雑でもない。それはいつでもどこでも、人々のその時の必要に応じて施すことから成っている。神は人の実質について誰よりもよく知っており、だからこそ神の働きは何よりも人々の現実的な必要性に沿っているのだ。そのため人間の視点から言えば、神の働きは何千年も前に計画されていたように見える。神は今あなたがたの間で働きを行なっているが、いつもあなたがたの状態を見ながら働き語っており、一つ一つの状態に合わせて正しい言葉を発し、人々がまさに必要とする言葉を語っている。まず神の働きの最初の段階である、刑罰の時期を考えてみるとよい。この時期の後、人々が露わにすることと反抗心、そこから生じる肯定的な状態と否定的な状態、およびそうした否定的な状態がある点に達した際、人々が陥り得る最低の限界を基に、神は働きを行った。そしてこうした事柄を利用してはるかによい成果を上げたのである。つまり神はあらゆる時点で、人々の現状に基づいて維持のための働きを行い、働きの各段階を人々の実際の状態に従って実行するのだ。すべての被造物は神の手の中にあるのだから、神がそれらを把握していないはずがあろうか。神はなされるべき働きの次の段階を、いつでもどこでも人々の状態に応じて実行する。この働きが何千年も前に、前もって計画されていたものであるはずがなく、それは人間の観念にすぎない。神は自らの働きの効果を観察しながら働きを行なっており、その働きは継続的に深まり発展している。そして働きの結果を観察した後、神は次の段階の働きを実行し、多くのものを用いて徐々に推移を行い、時間とともに人々がその新しい働きを目にできるようにする。そのような働き方によって、人々の必要に合わせた施しが可能になるのだ。神はすべての人々を非常によく知っているからだ。このようにして、神は天国から自らの働きを実行する。そして肉となった神も同様に自らの働きを行なっており、実際の状況に応じて采配を行ない、人々の間で働いている。神の働きはいずれも世界の創造前に計画されたものではなく、前もって慎重に計画されたものでもなかった。世界が創造されてから二千年後、人間がとても堕落してしまったのを見たヤーウェは、預言者イザヤの口を用いて、律法の時代が終わった後の恵みの時代に、神が人類を罪から贖う働きをすることを預言させた。それはもちろんヤーウェの計画であったが、この計画もまた、神が当時観察した状況に応じて作られたものだった。決して神がアダムの創造後すぐにそれを考えていたわけではなかった。イザヤは単に預言を声に出しただけだが、ヤーウェは律法の時代にその働きの準備を前もって行なっていたわけではなかった。そうではなく、恵みの時代の初めにそれを実行に移し、そのときヨセフの夢の中に使者が現れて啓示を行い、神が受肉することを告げた。そのとき初めて、神の受肉の働きが始まったのだ。神は人々が想像するように、世界の創造の直後に自身の受肉の働きを準備していたのではない。それはただ人類の発達の程度と、サタンに対する神の戦いの状況に基づいて決められたのだ。

『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 149

神が受肉するときは、神の霊が人に降る。言い換えれば、神の霊が物理的な肉体をまとうのだ。神は地上で自らの働きを行うために到来するが、それは特定の限られた段階の働きをもたらすためではなく、神の働きはまったく無制限である。聖霊が肉で行う働きも、神の働きの結果によって決まり、神はそうした結果を用いて自らが肉で働きを行う期間を決定する。聖霊は神の働きのそれぞれの段階を直接露わにし、自らの働きを検証しながら進めていく。その働きは人間の想像力の限界を超えるほど超自然的なものではまったくない。それは天地と万物の創造時におけるヤーウェの働きと同様で、神はその計画と働きとを同時に行なった。神は光を闇から隔て、そして昼と夜が生まれた。それには1日を要した。2日目に空を造ったが、それにも1日を要し、それから陸と海、そしてそこに生きるすべてのものを造り、それにも1日を要した。神はこれを6日間続け、そして6日目に人間を創造し、人間にこの世のすべてのものを管理させた。そして7日目に万物の創造を完了し、休息をとった。神はこの7日目を祝福し、その日を聖なる日とした。神はこの聖なる日を定めることを、万物を創造する前ではなく、創造した後に決めたのである。この働きもまた、自然発生的に行われた。万物を創造する前、神は6日間で世界を創造し、7日目に休息するなどと決めてはいなかった。事実は決してそうではなく、神はそんなことを口にもせず、計画もしなかった。万物の創造が6日間で完了し、7日目に休息するなどとは一切言っていない。神はただそのときによいと思われた通りに創造を行なったのだ。万物の創造が完了すると、すでに6日の時が経っていた。神が万物の創造を完了したのが5日目だったなら、神は6日目を聖なる日としただろう。しかし実際に神は6日目に万物の創造が完了したため、7日目が聖日となり、それが今日に至るまで続いている。そのため神の現在の働きも、それと同じ方法で実行されている。神はあなたがたの状況に応じて必要なことを語り、与えるのだ。つまり、霊は人々の状況に応じて働き語っており、常にすべてを見守り、いつでもどこでも働きを行う。わたしが行うこと、語ること、あなたがたにもたらすもの、そしてあなたがたに授けるものは、例外なくあなたがたが必要としているものである。ゆえに、わたしの働きは一つとして現実から離れてはおらず、すべてが現実である。あなたがたは皆、「神の霊はいつもすべてを見ている」ことを知っているはずだ。すべてが前もって決められていたなら、あまりにも新鮮味がないではないか。神が六千年分すべての計画を立て、人間を反抗的で不従順で、陰険かつ狡猾な、肉の堕落とサタンの性質、目の欲望、個々の耽溺といった性質を持つものとして運命づけたと、あなたは考えている。それらはいずれも神によって運命づけられたものではなく、すべてサタンの堕落の結果として起こったのである。中には次のように言う者もいるかもしれない。「神はサタンのことも把握していたのではないのか。サタンがこのように人を堕落させることは神が運命づけたことであり、その後神は人の間でその働きを行われたのだろう」と。実際に神が、サタンに人間を堕落させるよう運命づけるだろうか。神はただひたすら人類が普通に暮らせるようにと望んでいるのに、その生活を妨げたりするだろうか。そうであれば、サタンを倒して人間を救うなど無駄な努力ではないか。人間の反逆が運命づけられていたことなどありえようか。それはサタンの介入によって起こったことなのに、神によって運命づけられていたはずなどあろうか。あなたがたが理解している神の手中にあるサタンと、わたしが語っている神の手中にあるサタンとはまったく別物である。「神は全能で、サタンは神の手の中にある」というあなたがたの言葉に従えば、サタンが神を裏切ることはありえない。あなたは神は全能だと言ったではないか。あなたがたの認識はあまりに抽象的で現実味がない。人間は決して神の考えを見抜くことはできず、神の知恵を理解することもできないのだ。神は全能であり、そのことには何の偽りもない。大天使は当初、神から一部の権威を与えられたため、神を裏切った。もちろんそれは、蛇の誘惑に負けたエバのように、予期されない出来事だった。しかしどれほどサタンがその裏切りを行おうとも、それは神のように全能ではない。あなたがたが言ったように、サタンは強大なだけで、何を行なっても常に神の権威によって打ち負かされる。それが、「神は全能であり、サタンは神の手の中にある」という言葉の真意である。そのためサタンとの戦いは、一段階ずつ実行されなければならない。さらに神は、サタンの策略に対応して自身の働きを計画する。つまり神は時代に合わせて、人類に救いをもたらし、自らの全能性と知恵をあらわすのだ。また同様に、終わりの日における神の働きも、恵みの時代以前の早期には運命づけられておらず、次のような秩序立った運命付けはなかった。つまり第一に、人の外的性質を変える。第二に、人に神の刑罰と試練を受けさせる。第三に、人に死の試練を経験させる。第四に、人に神を愛する時代を経験させるとともに、被造物としての決意を表明させる。第五に、人に神の旨を見せて完全に神を知らしめ、そして最後に、人を完全にする、というものである。このようなことすべてを、神が恵みの時代に計画していたわけではなく、これらは現在の時代に計画され始めたのだ。サタンは神と同じように働きを行なっている。サタンはその堕落した性質を表しており、一方神は率直に語っていくらかの実質的なものを露わにしている。これが今日行われている働きであり、それと同じ働きの原理がはるか昔、世界が創造された後にも用いられていたのだ。

『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 150

はじめに神はアダムとエバを創造し、また蛇も創造した。すべての被造物の中で、この蛇は最も有毒なものであった。その体は毒を含んでおり、サタンはその毒を利用した。エバを誘惑し罪に落とし入れたのは蛇だった。アダムはエバの後に罪を犯し、二人はそれから善と悪の区別ができるようになった。もしヤーウェが、蛇がエバを誘惑し、エバがアダムを誘惑することを知っていたなら、なぜ彼ら全員を園の中に置いたのだろうか。それらの事柄を予測できたなら、ヤーウェはなぜ蛇を創造し、それをエデンの園の中に置いたのだろうか。なぜエデンの園には善悪の知識の木の果実があったのだろうか。ヤーウェは彼らに果実を食べさせようとしていたのだろうか。ヤーウェがやって来たとき、アダムもエバもヤーウェに会おうとしなかった。ヤーウェはそのときに初めて、彼らが善悪の知識の木の果実を食べ、蛇の策略に陥ったことを知った。最終的にヤーウェは蛇を呪い、アダムとエバも呪った。この二人が木の果実を食べたとき、ヤーウェはそれにまったく気づいていなかった。人間は堕落し、邪悪で性的に乱れたものとなり、しまいにその心に抱くものはすべて邪悪で不正な汚れたものとなった。そのためヤーウェは、人間を創造したことを悔いた。その後、世界を洪水で破壊するという自らの働きを実行し、ノアとその息子たちが生き残った。一部の物事は実際、人々が想像するほど高度でも超自然的でもない。中には次のように尋ねる人もいる、「神は大天使が裏切ると知っていながら、なぜ大天使を創造したのか」と。事実は次のとおりである。地がまだ存在していなかったとき、大天使は天国の天使たちの中で最も偉大な存在であり、天国のすべての天使に対する権限を握っていた。それは神から大天使に与えられた権威だった。神を除いて、大天使は天国の天使たちの中で最も偉大な存在だった。後に神が人間を創造したとき、大天使は地上において、神へのさらなる背信を行なった。わたしに言わせれば、大天使が神を裏切ったのは、人間を支配し、神の権威を超越したかったからだ。エバを誘惑して罪に陥れたのは大天使であり、それは地上に自分の王国を建設し、人間を神に背かせて、代わりに自分に従わせたかったからだ。大天使は非常に多くのものを自分に服従させられることに気づいた。天使たちも、そして地上の人々も大天使に従っていた。鳥と獣、木々、森、山、川、そして地上のあらゆるものは、人であるアダムとエバの管理下にあり、アダムとエバは大天使に従っていた。そのため大天使は神の権威を超越し、神を裏切ろうと考えたのだ。後に大天使は多くの天使たちを率いて神に反逆させ、それらがさまざまな類の悪霊となった。今日までの人間の発達は、大天使の堕落によるものではないか。人間が今日のような状態なのは、大天使が神を裏切り、人間を堕落させたからである。その段階的な働きは、人々が想像するような抽象的で単純なものではまったくない。サタンが神を裏切ったのには理由があるが、人々はそのような単純な事実を理解できない。天と地と万物を創造した神が、なぜサタンも創造したのか。神はサタンをとても嫌悪しており、サタンは神の敵であるのに、神はなぜサタンを創造したのか。サタンを創造することで、神は敵を創造したのではないのか。神は実際には、敵を創造したのではなかった。神は天使を創造し、そしてその天使が後に神を裏切ったのだ。天使はその地位が非常に偉大になったため、神を裏切ろうと望んだ。それは偶然だったとも言えるが、同時に避けられないことでもあった。それは人がある程度まで成熟した後に、死を避けられないのと似ている。単に状況がその段階まで進展したのだ。中には次のように言う不届きな愚か者もいる。「サタンはあなたの敵なのに、なぜあなたはそれを創造したのですか。大天使があなたを裏切るようになることを知らなかったのですか。あなたは永遠から永遠まで見通せるのではないのですか。その大天使の本性を知らなかったのですか。自分を裏切るとはっきり知っていたのに、なぜ大天使にしたのですか。その天使はあなたを裏切っただけでなく、数多くの天使を率いて人間の世界へ降り、人間を堕落させたというのに、あなたは今日に至るまで、六千年にわたる自らの経営(救いの)計画を完成させることができずにいる」と。このような言葉は正しいだろうか。そのように考えるとき、あなたは必要以上の問題を抱えているのではないか。また、次のように言う者もいる。「サタンが現在に至るまで人間を堕落させていなかったら、神がこのように人間に救いをもたらすことはなかった。そうであれば、神の知恵と全能性は目に見えなかった。どこに神の知恵があらわされることがあっただろうか。そのため神は、サタンのために人類を創造したのだ、その後に神自らの全能性を示すために。そうでなければ、人はどのようにして神の知恵を見出せるだろうか。人が神に抵抗したり反逆したりしていなければ、神の業をあらわすことも不要になる。すべての被造物が神を崇拝し、神に従っていたら、神は行うべき働きが何もなかっただろう」。これはさらに現実からかけ離れている。なぜなら神には汚れた部分はなく、すなわち神は汚れたものを創造しえないからである。神が今その業をあらわしているのは、ただ自らの敵を倒し、自らが創造した人間を救い、当初は神の支配下にあり神に属していたにもかかわらず神を憎み、裏切り、拒絶した悪魔たちとサタンを打ち倒すためなのだ。神はそれらの悪魔を倒し、そうすることで万物に自らの全能性を示したいと思っている。この世の人間と万物は今やサタンの支配下にあり、邪悪な者に支配されている。神は自らの行為を万物にあらわし、そうすることで人々がみな神を知るようになることを望んでおり、それによってサタンを打ち倒し、神の敵を徹底的に滅ぼしたいと考えている。この働きのすべては、神の行為をあらわすことで成し遂げられる。神の被造物はすべてサタンの支配下にあるため、神は彼らに対して自身の全能性をあらわし、それによってサタンを倒すことを望んでいる。もしサタンがいなかったなら、神は自らの業をあらわす必要がなかっただろう。もしサタンの妨害がなかったなら、神は人間を創造してエデンの園で生活するよう導いていただろう。神はサタンの裏切りの前に、なぜ天使や大天使に自らの業を一切あらわさなかったのか。もしも当初からすべての天使や大天使が神を知っており、神に従っていたなら、神はこうした無意味な働きを行なってはいなかっただろう。サタンと悪魔の存在のために、人々も神を拒絶し、反抗的な性質に満ちあふれている。そのため神は自らの行為をあらわすことを望んでいるのだ。神はサタンと戦うことを望んでいるため、自らの権威とそのあらゆる業を用いてサタンを倒さなければならない。そうやって神が人間の間で遂行する救いの働きにより、人々は神の知恵と全能性を知るようになる。神が今日行なっている働きは意義深く、一部の人々が次のように語るものとはまったく異なっている。「あなたのなさる働きは矛盾していませんか。この一連の働きは、あなたご自身を困らせているだけではないですか。あなたはサタンを創られ、そのサタンに自らを裏切らせ、反抗させた。あなたは人間を創造し、その人間をサタンに引き渡し、アダムとエバを誘惑することを許された。こうしたことすべてを意図的に行われたのに、あなたはなぜ人間を嫌悪するのですか。なぜサタンを嫌うのですか。すべてあなたがご自身で創られたのではないのですか。何を憎むことがあるのですか」。非常に多くの馬鹿げた人々がこのようなことを言う。彼らは神を愛することを望みながら、心の奥では神に不満を述べている。何という矛盾だろうか。あなたは真実を理解せず、あまりに多くの超自然的な思考を持ち、そして神が間違いを犯すとさえ主張している。何と愚かなことか。真実をもてあそんでいるのはあなただ。神が間違いを犯したのではない。中には何度も何度も次のような不満を言う者さえいる。「サタンを創造したのはあなたで、サタンを人間の世界に放り込み、人間を引き渡したのもあなたです。そして人間がサタンの性質を備えると、あなたはその人間を赦さず、逆に相応に憎んだ。当初あなたは人間をある程度愛されたが、今は人間を嫌悪している。人間を憎んだのはあなたですが、同時に人間を愛したのもあなたです。一体どうなっているんですか。これは矛盾していませんか」。あなたがたがどう解釈するかに関わらず、これが天で起こったことであり、大天使がこのように神を裏切り、人間がこのように堕落し、そして今日までこのようであり続けているのだ。あなたがたがそれをどう表現しようと、これが事のてんまつである。しかしあなたがたは、神が今日行なっている働きはすべて、あなたがたを救うためであり、サタンを倒すためであることを理解しなければいけない。

『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 151

神は人々の経営を用いてサタンを打ち倒す。サタンは人々を堕落させることで、人々の運命を終わらせ、神の働きを阻害する。一方、神の働きは人間の救いである。神が行う働きの段階の中で、人間を救うためでないものがあるだろうか。人々を清め、義を行わせ、愛すべきものの姿を生きるようにさせるためのものでない段階があるだろうか。けれどもサタンのすることはそうではない。サタンは人間を堕落させるのであり、全宇宙で人間を堕落させるという働きを続けている。もちろん神も自らの働きを行なっており、サタンになど構ってはいない。サタンがどれほどの権威を持っていようと、その権威は神によって与えられたものだ。神は実際には、サタンに自らの権威のすべてを与えてはいないため、サタンが何をしようとも神を超えることはなく、サタンは常に神の手の中にある。神は天にいる間、自らの行為を少しもあらわさなかった。ただサタンに権威のほんの一部を与え、他の天使たちを支配できるようにしただけだった。そのためサタンが何をしようとも、神の権威を超えることはできない。神がサタンに与えた権威がもともと限られたものだったからである。神が働きを行うと、サタンはそれを妨害する。終わりの日には、サタンの妨害は終わり、同様に神の働きも終わりを迎え、そして神が完全にしようと望む人間は完全にされることになる。神は人々を前向きに導く。神のいのちは生ける水であり、計り知れず、無限である。サタンはある程度まで人間を堕落させた。最終的に、いのちの生ける水が人を完全にし、サタンは邪魔したりその働きを実行したりすることができなくなる。それによって神はそれらの人々を完全に自らのものとできるようになるのだ。サタンは今もそれを受け入れることを拒んでおり、神に対抗し続けているが、神はサタンを気に留めない。神は言った、「わたしはサタンのあらゆる闇の力と、あらゆる闇の影響に勝利するであろう」と。それは肉においてなされるべき働きであり、受肉の意義でもある。つまり、終わりの日にサタンを倒すという働きの段階を完成させ、サタンに属するすべてのものを滅ぼすということだ。神のサタンに対する勝利は避けられない流れなのだ。実際、サタンははるか昔に敗北している。福音が赤い大きな竜の国全体に広がり始めたとき、つまり受肉した神が働きを始め、その働きが動き出したとき、サタンは完全に倒されたのだ。なぜならその受肉の目的こそ、サタンを倒すことだったからである。サタンは神が再び肉となって神の働きを遂行し始め、どんな力もその働きを止められないことを目にすると、愕然とし、あえてそれ以上の悪事を行わなかった。当初サタンは自らも多くの知恵を授かっていると思い、神の働きを妨害し邪魔をした。けれどもサタンは、神が再び肉となることや、その働きの中でサタンの反逆を人間への暴露と裁きのために利用し、それによって人間を征服しサタンを打ち負かすということは予想していなかった。神はサタンより賢明であり、神の働きはサタンをはるかに凌ぐ。だからわたしは以前こう述べたのだ、「わたしの働きはサタンの策略に応じて行われ、最終的にわたしは自らの全能性とサタンの無力さを示す」と。神は最前線で自らの働きを行い、サタンはその後ろをついてゆき、最終的に粉砕されることになる。サタンは何が自分を討ったのかすら知ることはないだろう。ただ粉々に打ち破られた後になって初めて真実に気づき、そのときにはすでに火の池で焼かれてしまっているのだ。サタンはそのとき完全に理解するのではないだろうか。そのときにはもう打つ手がなくなっているからだ。

『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 152

人間のあいだでなされる神の働きは、人間から切り離すことができない。なぜなら、人間はこの働きの対象であり、神によって造られたもののうち、神を証しすることができる唯一の被造物だからである。人間の生活と人間のあらゆる活動は、神から切り離すことができず、すべて神の手によって支配されており、神から独立して存在できる者は一人もいないとさえ言えるだろう。これは事実なので、誰も否定できない。神が行なうすべての働きは、人類の益のためであり、サタンの策略に対するものである。人間が必要とするすべてのものは神から来るのであり、神は人間のいのちの源である。したがって、人間は決して神から離れられない。さらに、神には人間から離れる意図など一度もなかった。神が行なう働きは、全人類のためであり、神の考えは常に思いやりがある。したがって、人間にとって、神の働きと考え(すなわち神の旨)はともに、人間が知るべき「ビジョン」なのである。このようなビジョンは、神による経営でもあり、また人間が行なうことのできない働きでもある。一方、神が自身の働きにおいて人間に要求することは、人間の「実践」と呼ばれている。ビジョンとは神自身の働きであり、あるいは人類に対する神の旨、もしくは神の働きの目標と意義でもある。また、ビジョンは経営の一部であるとも言える。なぜなら、この経営は神の働きにして、人間を対象とするものであり、つまり神が人間のあいだで行なう働きだからである。この働きは、人間が神を知るようになるための証拠と道のりであり、それは人間にとって極めて重要なものである。人々が、神の働きについての認識に注意を払う代わりに、神への信仰に関する教義や、取るに足らない詳細にのみ留意するならば、その人が神を知ることは決してない。またそれ以上に、神の心にかなうこともない。神の働きのうち、人が神を知る上で並外れて役立つものは、ビジョンと呼ばれている。そうしたビジョンは神の働きであり、神の旨であり、神の働きの目的と意義である。それらはどれも人間に恩恵をもたらす。実践とは、人間がなすべきこと、神に従う被造物がなすべきことを指し、それはまた人間の本分である。人間がなすべきことは、人間がまさに最初のときから理解していることではなく、神が働きの中で人間に要求することである。これらの要求は、神が働きを行なうに従って、次第に深遠に、かつ高度になってゆく。たとえば、律法の時代には、人間は律法に従わなければならず、また恵みの時代には、十字架を背負わなければならなかった。神の国の時代はそれと異なる。つまり、人間に対する要求は、律法の時代や恵みの時代におけるそれよりも高度である。ビジョンがより高度になるにつれ、人間に対する要求もさらに高くなり、また明瞭かつ現実的なものになってゆく。同様に、ビジョンもますます現実的になってゆく。これら多数の現実的なビジョンは、神に対する人間の服従を促進するだけでなく、それ以上に、神に関する人間の認識を促進する。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 153

以前の時代に比べると、神の国の時代における神の働きはより実践的であり、ますます人間の実質や人間の性質の変化に向けられており、神に従う全員のために、より一層神自身を証しすることができる。言い換えれば、神の国の時代において、神は働きを行なう際、過去のいかなる時点にも増して自身に関することを示しているが、そのことは、人間の知るべきビジョンがそれ以前のどの時代よりも高度になっていることを意味する。人間のあいだにおける神の働きが前例のない領域に入ったので、神の国の時代に人間によって知られていたビジョンは、すべての経営の働きを通じて最高のものである。神の働きが前例のない領域に入ったので、人間が知るべきビジョンは、すべてビジョンの中でも最高のものとなり、その結果として生じる人間の実践もまた、以前のどの時代よりもさらに高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完成とは、人間に対する要求の完成のしるしでもあるからである。神のすべての経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まる。そして神の働きがなければ、人は過去の教義に固執するより他になく、それ以外に頼るべきものは何もない。新たなビジョンがなければ、人間による新たな実践はなく、完全なビジョンがなければ、人間による完全な実践もない。さらに高いビジョンがなければ、人間によるいっそう高度な実践もない。人間の実践は、神の歩みと共に変化し、同様に人間の認識と経験もまた神の働きと共に変化する。どれほど有能であるかにかかわらず、人間はやはり神から離れることができず、仮に神が一瞬でも働きを止めたなら、人間は神の怒りによってすぐさま死ぬだろう。人間には誇るべきことが何もない。なぜなら、現在における人間の認識がいかに高度であっても、また人間の経験がいかに深くても、人間を神の働きから切り離すことはできないからである。つまり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき事柄は、そのビジョンから切り離すことができないからである。神の働きの一つひとつには、人間が知るべきビジョンがあり、それらに続いて、人間にふさわしい要求がなされるのである。これらのビジョンが基礎としてなければ、人間が実践することはまったく不可能となり、揺るぎなく神に従うこともできないだろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の旨を理解していない場合、人間が行なうことはどれも虚しく、神に認められることができない。人間の賜物がいかに豊富であっても、人間はなおも神の働きと導きから切り離すことができない。人間の行動がいかに優れていようと、あるいは人間がどれほど多くの行動をとろうと、それらの行動が神の働きに取って代わることはやはりできない。ゆえに、いかなる状況においても、人間の実践をビジョンから切り離すことはできないのである。新たなビジョンを受け入れない者には、新たな実践がない。彼らの実践は真理とまったく無関係である。なぜなら、彼らは教義を守り、死んだ律法に固執しているからである。彼らには新たなビジョンがまったくなく、その結果、新たな時代の事柄を何一つ実践しない。彼らはビジョンを失っており、そのせいで聖霊の働きも失い、また真理も失ってしまった。真理のない者たちは愚かさの子孫であり、サタンの化身である。どのような種類の人間であれ、神の働きのビジョンを持たずにいることも、聖霊の臨在を持たずにいることもできない。つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへ落ち、闇の中で暮らすのである。ビジョンのない人は、神に愚かに従う者であり、聖霊の働きを欠いている者であって、地獄で生きている。このような人は真理を追い求めず、それどころか神の名を看板のように掲げる。聖霊の働きを知らず、受肉した神を知らず、神の経営全体における三段階の働きを知らない者たちは、ビジョンを知らないので、彼らには真理が欠けている。そして、真理を自分のものにしていない者たちはみな、悪を行なう者ではなかろうか。進んで真理を実践し、神についての認識を求め、神と真に協力する者は、ビジョンがその基礎として機能している人々である。彼らは神によって認められる。なぜなら、彼らは神と協力するからであり、この協力こそ人間が実践すべきことなのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 154

ビジョンの中には、実践への道が多数含まれている。ビジョンには、人間が知るべき神の働きと同じように、人間への実践的な要求も含まれている。過去には、様々な場所で開かれた特別な集会や大規模な集会において、実践の道の一側面についてしか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践されるべきものであり、神についての認識とはほとんど無関係だった。と言うのも、恵みの時代のビジョンは、イエスの磔刑のビジョンに過ぎず、さらに偉大なビジョンがなかったからである。人間が知るべきことは、磔刑を通じた人類の贖いの働きだけだったので、恵みの時代において、人間が知るべきビジョンは他になかった。このように、人間には神について乏しい認識しかなく、イエスの愛と慈しみに関する認識を別にすれば、人間が実践すべきこととしては、僅かばかりの単純で哀れなこと、今日とはまったくかけ離れていることしかなかったのだ。過去、集いがどのような形をとったかに関係なく、人間は神の働きの実践的な認識について話すことができず、ましてや人間が入るのに最も適した実践の道がどれであるかを明言することなど誰にもできなかった。人間はただ、寛容や忍耐という基礎にいくつかの簡単な詳細を加えたに過ぎないのであって、その実践の本質には何の変化もなかった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい働きを何一つ行なわず、神が人間に要求したのは寛容と忍耐、または十字架を背負うことだけだったからである。このような実践を除けば、イエスの磔刑よりも高いビジョンはなかった。過去において、その他のビジョンに触れることは決してなかった。と言うのも、神はそれほど多くの働きを行なっておらず、人間に対して限られた要求しかしなったからである。このように、何をしたかにかかわらず、人間はこれらの境界、つまり、人間が実践すべき単純かつ浅薄ないくつかのことという境界を越えることはできなかった。今日、わたしは他のビジョンについて話す。なぜなら、現在はさらに多くの働き、律法の時代と恵みの時代を数倍も上まわる働きが行なわれてきたからである。人間に対する要求もまた、以前の時代に比べて数倍高い。人間がこのような働きを十分に認識できなければ、その働きは大きな意義を持たないだろう。つまり、生涯にわたる努力をその働きに捧げなければ、人間がそのような働きを十分に認識するのは難しいと言える。征服の働きにおいて、実践の道について話すだけでは、人間の征服は不可能だろう。また人間に対する要求をしないまま、ビジョンについて話すだけでは、人間の征服はやはり不可能になるだろう。実践の道以外に何も語られないなら、人間のアキレス腱を打つことも、人間の観念を一掃することもできず、ゆえに人間を完全に征服することも不可能だろう。ビジョンは人間を征服するための主要な道具だが、ビジョン以外に実践の道がないとすれば、人間には辿るべき道がなく、ましてや入りの手段などないだろう。これこそが、最初から最後まで神の働きの原則であり続けた。ビジョンには実践できるものもあるが、それとは別に実践に付け加えられるビジョンもある。人間のいのちと性質の変化の度合いには、ビジョンの変化も伴う。人間が自身の努力にしか頼らないのであれば、大きな変化は何一つ成し遂げられないだろう。ビジョンは、神自身の働きや神による経営について述べるものである。実践とは、人間の実践の道、人間の在り方を指す。神の経営のすべてにおいて、ビジョンと実践の関係は、神と人間の関係と同じである。仮にビジョンが取り除かれるなら、あるいは実践に言及しないでビジョンについて語られるなら、またあるいはビジョンのみが存在し、人間の実践が絶やされているなら、このような事柄を神の経営と見なすことはできず、ましてや神の働きが人類のためになされたとは言えないだろう。このような形では、人間の本分が取り除かれるだけでなく、神の働きの目的をも否定することになるだろう。始めから終りまで、神の働きが関与することなく、人間が実践することのみを要求され、そのうえ、人間が神の働きを知ることを要求されないとしたら、そうした働きを神の経営と呼ぶことはなおさらできないだろう。人間が神を知らず、神の旨について無知であり、曖昧かつ抽象的な形で無闇に実践するなら、その人が十分な資格を有する被造物となることは決してないだろう。ゆえに、これら二つのことは、共に不可欠なのである。仮に神の働きしか存在しなければ、つまり神のビジョンのみが存在し、人の協力や実践が存在しないなら、そうした事柄を神の経営と呼ぶことはできないだろう。人間の実践と入りしかないならば、人間の入る道がどれほど高度でも、それは受け入れられないだろう。人間の入りは、働きやビジョンと歩調を合わせて徐々に変化しなければならず、気まぐれに変えることはできない。人間の実践の原則は、自由でも無制限でもなく、一定の範囲内に定められたものである。このような原則は、働きのビジョンと歩調を合わせて変化する。したがって、神の経営は最終的に、神の働きと人間の実践にかかっている。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 155

経営の働きは、ひとえに人類のゆえに生じたのであり、そのことは、ひとえに人間の存在のゆえに経営の働きが生じたことを意味している。人類が存在する以前、あるいは天地と万物が創られた始まりの時には、経営はなかった。仮に神の働きのすべてにおいて、人間にとって有益な実践がなかったならば、つまり神が堕落した人類にふさわしい要求をしなかったならば(神によって行なわれた働きの中に、人間の実践に適した道がなかったならば)、その働きは神の経営とは呼べないだろう。神の働き全体に含まれるのが、堕落した人類に実践の取り組み方を教えることだけで、神が自身の事業を一切行なわず、神の全能や知恵をほんの少しも示さなかったとしたら、人間に対する神の要求がどれほど高度であっても、また神が人間のあいだでどれほど長く生活したとしても、人は神の性質について何も知ることがないだろう。そうした場合、この種の働きはなおさら、神の経営と呼ばれる価値がないだろう。簡単に言えば、神の経営の働きは、神によって行なわれる働きであり、神の導きの下で行なわれるすべての働きは、神に得られた者たちによってなされるのである。そうした働きは、経営という一言で要約することが可能である。言い換えると、人間のあいだにおける神の働き、および神に従うすべての者たちによる神への協力が、経営と総称されるのである。ここでは、神の働きをビジョンと呼び、人間の協力を実践と呼ぶ。神の働きが高度であればあるほど(つまりビジョンが高度であればあるほど)、神の性質が人間にとっていっそう明白となる。そして、それが人間の観念にそぐわなければそぐわないほど、人間の実践と協力はさらに高度になる。人間に対する要求が高ければ高いほど、神の働きは人間の観念にそぐわないものとなり、その結果、人間の試練と、人間が満たすよう要求される基準もまたより高くなる。この働きが完了するときには、すべてのビジョンが完成され、人間が実践するよう求められることは、完全の極みに達するだろう。これはまた、各人が種類に応じて分類されるときでもある。なぜなら、人間が知るよう求められていることは、このときすでに人間に示されているからである。したがって、ビジョンが絶頂に達するとき、働きもそれに従って終わりを迎え、人間の実践もまた頂点に達するだろう。人間の実践は神の働きを基にしており、神の経営は、人間の実践と協力があって初めて完全に表される。人間は神の働きの傑作であり、神による経営の働き全体の目的であり、また神の経営全体の産物でもある。仮に人間の協力がなく、神が単独で働きを行なうなら、神の働き全体の結晶として機能するものはなく、神の経営にほんの少しの意義もないだろう。神の働きを除くと、適切な対象を選んで自身の働きを表し、その全能と知恵を証明することでのみ、神は自身の経営の目的を達成し、この働きのすべてを用いてサタンを完全に打倒するという目的を達成することが可能となる。したがって、人間は、神の経営の働きにおいて不可欠な部分であり、神の経営を結実させ、その最終目的を達成に導ける唯一の存在である。人間以外に、そうした役割を担える生物は存在しない。人間が神による経営の働きの真の結晶となるには、堕落した人類の不従順を完全に一掃しなければならない。それには、人間が様々な場合に適した実践を与えられ、また、それに対応する働きを神が人間のあいだで行なうことが要求される。このようにしてのみ、神による経営の働きの結晶たる人々の集団を得ることができる。人間のあいだでなされる神の働きは、それだけでは、神自身を証しすることができない。そうした証しを実現するには、神の働きに適した生きている人間が必要である。神は、まずこれらの人々に対して働きを行なう。すると彼らを通じて神の働きが表わされ、そのようにして、神のこのような証しが被造物のあいだでなされるのである。そして、この点において、神は自身の働きの目的を達成することになる。神はサタンを打ち負かすにあたり、単独で働きを行なうことはしない。なぜなら、神はあらゆる被造物のあいだで、自身を直接証しすることができないからである。仮に神がそうするならば、人間を完全に確信させることは不可能である。ゆえに神は、人間を征服するにあたり、人間に対して働きを行なわなければならず、そうして初めてすべての被造物のあいだで証しを得ることができるようになる。働きを行なうのが神だけで、人間の協力がなく、また人間の協力が要求されないなら、人間は決して神の性質を知ることができず、神の旨に永遠に気づかないだろう。すると、神の働きを、神の経営の働きと呼ぶことはできないだろう。神の働きを理解することなく、人間自身だけが懸命に努力して、求め、必死に働くならば、人間はいたずらをしているようなものである。聖霊の働きがなければ、人間が行なうことはサタンのものであり、人間は反抗的であり、悪を行なう者である。堕落した人類によってなされるすべてのことの中にサタンが示され、神と相容れることは一切なく、人間が行なうことはどれもサタンの表われとなる。これまでに語られてきたすべてのことのうち、ビジョンと実践を含まないものは一切ない。人間は、自分の観念を捨てて従来備えていなかったものを得られるように、ビジョンという基礎の上に実践と、服従への道を見つける。神は、人間が神に協力すること、人間が神の要求に完全に服従することを求める。そして人間は、神自身によってなされる働きを目の当たりにすること、神の全能の力を経験すること、そして神の性質を知ることを求める。要約すると、これらが神の経営である。神が人間と一体となることが経営であり、それは最も偉大な経営である。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 156

ビジョンに関連する物事は、おもに神自身の働きを指しており、実践に関連する物事は人間がなすべきことであり、神とは何の関係もない。神の働きは神自身により完成され、人間の実践は人間自身によって成し遂げられる。神自身によって行われるべきことを人間が行なう必要はなく、人間が実践すべきことは神と無関係である。神の働きは神自身の職分であり、人間とは何の関係もない。この働きを人間が行なう必要はなく、それ以上に、人間は神によって行なわれる働きをなすことができない。人間が実践するよう要求されていることは、それが自分のいのちを犠牲にすることであれ、サタンに引き渡されて証しをすることであれ、人間が成し遂げなければならない。それはすべて、人間が成し遂げなければならないのである。神自身は、神がなすべきすべての働きを完成させ、人間が行なうべきことは人間に対して示され、それ以外の働きは、人間が行なうよう委ねられる。神は、余分な働きを行なわない。神は、神の職分に含まれる働きのみを行ない、人間に道を示し、道を開く働きを行なうだけであり、道を整える働きは行なわない。人間はそのすべてを理解すべきである。真理を実践するということは、神の言葉を実行に移すことを意味し、それはどれも人間の本分であり、人間がなすべきことであって、神とは何の関係もない。人間と同じく、神もまた真理の中で苦痛と精錬を受けるよう人間が要求するならば、人間は不従順である。神の働きは、神の職分を行なうことであり、人間の本分は反抗することなく神の導きのすべてに従うことである。神がいかに働きを行なおうと、神がいかに生きようと、人間は自身が当然成し遂げるべきことを達成しなければならない。人間に対して要求することができるのは、神自身だけである。つまり、神自身だけが人間に要求するに相応しいのである。人間は一切自分で選択してはならず、完全に服従して実践すること以外に何もすべきではない。これが人間の備えるべき理知である。ひとたび神自身によってなされるべき働きが完了すると、人間はそれを一歩一歩経験する必要がある。最終的に神の経営のすべてが完了したとき、もし人間が、神によって要求されたことをいまだ成し遂げていないなら、人間は罰せられるべきである。人間が神の要求を満たさないなら、それは人間の不服従のせいである。それは、神が自身の働きを十分徹底していないことを意味するのではない。神の言葉を実行に移せない者、神の要求を満たせない者、自分の忠誠を捧げ、自分の本分を尽くせない者たちは、全員罰せられる。現在、あなたがたが達成するよう求められていることは、追加の要求ではなく、人間の本分であり、すべての人が行なうべきことである。あなたがたが自分の本分を尽くすことさえできないのなら、あるいは本分をきちんと尽くすことができないのなら、それは自分自身に問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。どうしてあなたがたに、未来や前途があることを期待できようか。神の働きは人類のためになされるのであり、人間の協力は神の経営のためになされる。神がなすべき働きをすべて行なった後、人間は惜しむことなく実践し、神と協力するよう要求されている。神の働きにおいて、人間は努力を惜しまずに、自分の忠誠を残らず捧げるべきであり、数多くの観念にふけったり、座して死を待っていてはならない。神は人間のために自らを犠牲にできる。それではなぜ、人間は自分の忠誠を神に捧げられないのか。神は人間に対して心と思いを一つにしているのに、なぜ人間は少しばかり協力できないのか。神が人類のために働きを行なっているのに、なぜ人間は神の経営のために、いくばくかの本分を尽くせないのか。神の働きがここまで至ったのに、あなたがたは依然として見ているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。このような人は滅びの対象ではなかろうか。神はすでに自身のすべてを人間に捧げたのに、なぜ人間は今日、熱心に自分の本分を尽くすことができないのか。神にとっては自身の働きが最優先であり、神による経営の働きはこの上なく重要なことである。人間にとっては、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことが最優先である。あなたがたはみな、それを理解すべきである。あなたがたに語られる言葉は、あなたがたの本質の核心にまで達し、神の働きはかつてない領域に入った。多くの人が、この道が真実であるのか虚偽であるのかをいまだ理解していない。彼らは依然として待って見ているだけで、自分の本分を尽くしていない。むしろ彼らは、神の言葉と行動を逐一検証し、神の食べる物や着る物に重点を置き、彼らの観念はますます深刻なものとなっている。このような人は、何でもないことで騒ぎ立てているのではないか。このような人が、どうして神を求める者であり得ようか。またどうして彼らが、神に服従する意欲のある者であり得ようか。彼らは自分の忠誠と本分を心の奥へと押しやり、代わりに神の所在にばかり注意を向けている。彼らはとんでもない者たちである。人間が自分の理解すべきことをすべて理解し、実践すべきことをすべて実践しているならば、神は必ずや人間に祝福を授ける。なぜなら、神が人間に要求することは、人間の本分であり、人間がなすべきことだからである。自分の理解すべきことを理解できず、実践すべきことを実践できないなら、人間は罰せられる。神に協力しない者は神に敵対しており、また新しい働きを受け入れない者は、たとえそれに対して明らかに敵対していなくても、やはりそれに反対する者たちである。神が要求する真理を実践しない者はみな、たとえ聖霊の働きに特別な注意を払っていたとしても、神の言葉に対して故意に反抗し、服従しない人々である。神の言葉に従わず、神に服従しない人々は反抗的であり、神に敵対している。自分の本分を尽くさない人々は、神に協力しない者であり、神に協力しない人々は聖霊の働きを受け入れない者である。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 157

神の働きがある段階に達し、神の経営がある段階に達するとき、神の心にかなう者たちはみな、神の要求を満たすことができる。神は自身の基準と、人間が達成可能なことに従って、人間に対する要求を行なう。神は、自身の経営について話しつつ、それと同時に人間のために道を示し、人間に生存への道を与える。神の経営と人間の実践は、いずれも働きの同じ段階であり、同時に実施される。神の経営に関する話は、人間の性質の変化に関するものであり、人間がなすべきことと人間の性質の変化についての話は神の働きに関するものである。両者が切り離されることは一切ない。人間の実践は一歩一歩変化している。それは、人間に対する神の要求もまた変化しており、神の働きは常に変化し、前進しているからである。人間の実践が教義に囚われているままであれば、それは人間が神の働きと導きを失ったことを証明している。人間の実践が一切変わることも深まることもないのであれば、それは人間の実践が人間の意志に沿って実行されており、真理の実践ではないことを証明している。人間に歩むべき道がないならば、その人はすでにサタンの手中に落ち、サタンにより支配されており、それは、その人が悪霊に支配されていることを意味する。人間の実践が深まらないのであれば、神の働きが発展することはない。また神の働きに変化がなければ、人間の入りは止まることになる。それは避けられないことである。神の働き全体を通して、人間が常にヤーウェの律法を守っていたなら、神の働きは前進できなかっただろうし、ましてや時代全体に終止符を打つなど不可能だろう。人間が絶えず十字架に固執し、忍耐と謙遜を実践していたならば、神の働きが前進し続けることは不可能だろう。律法を守るだけの人々、十字架に固執し、忍耐と謙遜を実践しているだけの人々のあいだで、六千年におよぶ経営を終わらせることは決してできない。その一方、神を知り、サタンの手から取り戻され、サタンの影響から完全に脱した、終わりの日の人々のあいだでは、神による経営の働き全体が完結する。これが避けることのできない、神の働きの進路である。宗教の教会にいる者の実践が旧態化していると言われているのはなぜか。それは、彼らの実践していることが、今日の働きから切り離されているからである。恵みの時代においては、彼らが実践していたことは正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の働きが変化するにつれて、彼らの実践は次第に旧態化していった。それは新たな働きと光に置き去りにされてしまったのである。聖霊の働きは、元来の基礎の上で、さらに何段階か深化している。しかし、それらの人々は、神の働きの元来の段階に留まったままで、旧来の実践と古い光をいまだに固守している。神の働きは3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、二千年のあいだにさらに大きな変化が起こるはずではないだろうか。人間に新たな光も実践もないならば、それは人間が聖霊の働きに追いついていないことを意味している。これは人間の失敗である。神の新たな働きの存在は否定できない。なぜなら、現在において、以前に聖霊の働きがあった者たちは、依然として旧態化した実践を守っているからである。聖霊の働きは常に前進しており、聖霊の流れの中にいるすべての者たちもまた一歩一歩、さらに深く前進し、変化しているはずである。彼らは、ある段階で止まるべきではない。聖霊の働きを知らない者たちだけが、元来の働きの中に留まり、聖霊の新たな働きを受け入れない。不従順な者たちだけが聖霊の働きを得られないだろう。人間の実践が聖霊の新たな働きと歩調を合わせていないならば、それは今日の働きから間違いなく分離しており、今日の働きと相容れないことも確実である。このような旧態化した人々は、神の旨を成し遂げることが決してできず、まして最後に神の証しに立つ人々には決してなれないだろう。さらに、経営の働き全体を、こうした人々の一群のあいだで完結させることは不可能だろう。かつてヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦しんだ者たちについて言えば、終わりの日の働きの段階を受け入れられないなら、彼らが行なったことはすべて無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の働きの最も明瞭な表われは、現状を受け入れることであり、過去にしがみ付くことではない。現在の働きに追いついておらず、今日の実践から切り離されてしまった人々は、聖霊の働きに反抗し、それを受け入れない者たちである。このような人々は、神の現在の働きに背いている。彼らは過去の光にしがみ付くけれども、彼らが聖霊の働きを知らないことは否定できない。人間の実践における変化の話、過去の実践と現在の実践との違いの話、前の時代に実践がどう行なわれていたかの話、そして今日それがどのように行なわれているかの話を、これまで延々としてきたのはなぜか。人間の実践におけるそうした分割は、常に語られてきたが、それは聖霊の働きが常に前進しており、したがって人間の実践もまた常に変化することを求められているからである。人間がある段階に留まったままならば、それはその人が神の新たな働きと新たな光に追いつけないことを証明しているのであって、神の経営計画が変化しなかったことを証明しているのではない。聖霊の流れの外にいる者は、常に自分が正しいと考えるが、実際は、彼らにおける神の働きは遠い昔に停止しており、彼らには聖霊の働きが存在しない。神の働きはずっと前に、それとは別の人々の集団、すなわち神が新たな働きを完成させようと意図している集団に移された。宗教の中にいる者たちは神の新たな働きを受け入れることができず、過去の古い働きに固守するだけなので、神はこれらの人々を見捨て、新たな働きを受け入れる人々に対してこの新たな働きを行なう。これらの人々は神の新たな働きにおいて協力する者たちであり、このような形でのみ、神の経営計画を成し遂げることができる。神の経営は常に前進しており、人間の実践は絶えず高度化している。神は常に働きを行なっており、人間がいつでも必要とされているので、両者とも頂点に達し、神と人間は完全に一体となる。これこそが神の働きの成果の表われであり、神の経営全体の最終結果である。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 158

神の働きの各段階には、それに対応する人間への要求もある。聖霊の流れの中にいる者たちはみな、聖霊の臨在と鍛錬を有しており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、聖霊の働きが一切ない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、そのとき神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は懲らしめられ、最悪の場合は聖霊に見捨てられる。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の気遣いと加護を授かる。進んで真理を実践する者は、聖霊により啓かれ、進んで真理を実践しない者は、聖霊に懲らしめられ、罰せられることすらあるだろう。どのような種類の人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名のために受け入れるすべての者に対して、神は責任を負う。神の名をたたえ、進んで神の言葉を実践する者は、神の祝福を得る。神に服従せず、神の言葉を実践しない者は、神の懲罰を受ける。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れた以上、神に正しく協力すべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者のように振る舞ってはならない。人間に対する神の要求はこれだけである。しかし、新たな働きを受け入れない者たちについては、この限りではない。彼らは聖霊の流れの外にいるので、聖霊の懲らしめや咎めは適用されない。そうした者たちは肉の中で一日中生活し、自分の頭脳の中で暮らすのであって、そうした者たちの行動はすべて、自分の脳による分析と研究から生み出された教義に沿ったものである。それは聖霊の新たな働きが求めることではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、それ以上に、神の祝福と加護が一切ない。そうした者たちの言動の大半は、聖霊の働きによる過去の要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、それらの人々の集まりが宗教以外の何物でもないことを証明するのに十分である。そうした者は選民でも神の働きの対象でもない。そうした者たちの会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者たちには聖霊の新たな働きがない。彼らのなすことには宗教の匂いがあり、彼らの生は宗教の色彩を帯びている。そうした者たちには聖霊の臨在と働きがなく、ましてや聖霊の鍛錬と啓きを受ける資格などない。これらの人々は、全員いのちのない屍であり、霊のない蛆虫である。彼らには人間の反逆や反抗、人間による様々な悪行に関する認識が一切なく、ましてや神の働きや神の現在の旨などまったく知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくないくずである。彼らが行なってきたことに、神の経営に関連する事柄は一切なく、ましてや神の計画を損なうことなどできない。彼らの言動は過度に不快で惨めすぎ、触れる価値などまったくない。聖霊の流れの中にいない者によってなされたことは、どれも聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者たちが何をしようと、彼らには聖霊の鍛錬がなく、それ以上に、聖霊の啓きもない。なぜなら、彼らはみな真理への愛を持たない者たちであり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられた者たちだからである。彼らは悪を行なう者と呼ばれる。なぜなら、彼らは肉において歩み、神の看板の下に、自分を喜ばせることなら何でも行なうからである。神が働きを行なう間、そうした者たちは神に対してわざと敵意を抱き、神と正反対の方向へ走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的なことなので、神にわざと逆らうそうした人々は特に然るべき報いを受けるのではないだろうか。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 159

あなたがたは神の働きのビジョンを知り、神の働きの全体的な方向性を把握しなければならない。これが前向きな入りである。ひとたびビジョンの真理を正確に把握したなら、あなたの入りは確かである。神の働きがどのように変化しようと、あなたの心は堅固で、ビジョンについて明確であり、入りと追求の目標を持つことになる。そのようにして、あなたの中の経験と認識がすべてより深くなり、さらに細かなものになる。ひとたびこの全体像を完全に把握すれば、いのちにおいて何も失わず、途方に暮れることもない。こうした働きの歩みを知らないままなら、あなたは一歩ごとに損失を被り、方向転換するだけで数日かかってしまい、数週間かけても正しい軌道に乗ることができない。それは遅れを生じさせないか。あなたがたが把握すべき肯定的な入りや実践の道は多数ある。神の働きのビジョンについては、次に挙げる点を把握していなければならない。すなわち、神による征服の働きの意義、完全にされるための将来の道、試練や患難を経験して成し遂げるべきこと、裁きと刑罰の意義、聖霊の働きの裏にある原則、そして完全にすること、征服することの裏にある原則である。これらはどれもビジョンの真理に属するものである。その他のことは、律法の時代、恵みの時代、および神の国の時代における三段階の働きであり、また将来の証しである。これらもビジョンの真理であり、最も基本的なことであるとともに、最も大事なことである。現在、あなたがたが入って実践すべきことは非常に多い。そしてそれらは、今さらに重層的かつ詳細になっている。これらの真理について何の認識も有していなければ、あなたがまだ入りを成し遂げていない証拠である。たいていの場合、真理に関する人の認識はあまりに浅く、ある種の基本的な真理を実践することができず、ほんの些細なことでさえどう対処すればよいのか分からない。人が真理を実践できないのは、その性質が反抗的だからであり、また今日の働きについての認識があまりに表面的で一面的だからである。それゆえ、人が完全にされるのは容易なことではない。あなたはあまりに反抗的で、古い自己をあまりにも多く持ち続けている。真理の側に立つことができず、最も自明な真理でさえ実践できない。このような人を救うことはできず、彼らはいまだ征服されていない人々である。あなたの入りに詳細も目標も欠けているなら、成長があなたに訪れるのは遅々としたものとなるだろう。あなたの入りにほんのわずかの現実もなければ、あなたの追求は虚しく終わるだろう。真理の本質を分かっていなければ、あなたは何も変わらないままだろう。人のいのちの成長と性質の変化は、現実に入ることで、そしてさらに、詳細な経験に入ることを通して達成される。入りの過程で詳細な経験を数多くし、実際の認識と入りが豊富にあるなら、あなたの性質は速やかに変化する。目下のところ、実践について完全には理解していなくても、少なくとも、働きのビジョンについては分かっていなければならない。そうでなければ、あなたは入ることができない。真理を認識しなければ、入りは不可能なのである。聖霊が経験の中であなたを啓いて初めて、あなたは真理についてより深い認識を得て、より深く入ることができる。あなたがたは神の働きを知らなければならない。

『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 160

最初、人類が創られた後、神の働きの土台となったのはイスラエル人だった。イスラエル全体が地上におけるヤーウェの働きの基盤だったのだ。ヤーウェの働きは、人間が地上で正しい生活を送り、ヤーウェを正しく礼拝できるように、律法を定めることで人間を直接導き、牧養することだった。律法の時代の神は、人間が見ることも触れることもできなかった。神はサタンによって堕落させられた最初期の人々を導き、教え、牧養するだけだったので、神の言葉には律法、規則、および人間の行動の規範しか含まれておらず、いのちの真理を人々に施すことはなかった。ヤーウェに導かれたイスラエル人は、サタンによって深く堕落させられてはいなかった。神の律法の働きは、救いの働きの最初の段階、救いの働きの出発点に過ぎず、人間のいのちの性質を変えることとは事実上何の関係もなかった。ゆえに、救いの働きの初めにおいて、イスラエルでの働きのために神が肉をまとう必要はなかった。神が仲介者、つまり人間と関わるための道具を必要としたのはそのためである。そこで、ヤーウェに代わって語り、働く者たちが、被造物の中から現れた。こうして人の子らや預言者たちが人間のあいだで働くようになった。人の子らはヤーウェに代わって人間のあいだで働いたのである。ヤーウェに「人の子ら」と呼ばれたのは、このような人々がヤーウェに代わって律法を定めたことを意味する。彼らはイスラエルの民の中の祭司でもあった。つまり、ヤーウェに見守られ、ヤーウェの加護を受けた祭司であり、ヤーウェの霊は彼らにおいて働きを行った。彼らは民の指導者であり、直接ヤーウェに仕えていた。一方、預言者たちはヤーウェに代わり、あらゆる地域や部族の民に対して語ることに専念した。彼らはまた、ヤーウェの働きを預言した。人の子らであれ預言者たちであれ、彼らはみなヤーウェ自身の霊によって起こされ、彼らにはヤーウェの働きがあった。彼らは人々のあいだにおいて、ヤーウェを直接代表する者たちだった。彼らが働きを行ったのはヤーウェに起こされたからであって、彼らが聖霊自身の受肉した肉体だったからではない。それゆえ、彼らは神に代わって語り、働いたという点では同様だったが、律法の時代におけるこれら人の子らと預言者たちは、受肉した神の肉体ではなかった。恵みの時代や最後の段階における神の働きは、これと正反対だった。人間の救いと裁きの働きはいずれも受肉した神自身が行ったので、神の代わりに働く預言者たちや人の子らを再び起こす必要は一切なかった。人間の目には、彼らによる働きの本質と手段のあいだに根本的な違いがあるようには見えない。また、人々が受肉した神の働きを、預言者たちや人の子らの働きと常に混同しているのもそのためである。受肉した神の外見は、預言者たちや人の子らの外見と基本的に同じだった。さらに、受肉した神は預言者たちよりずっと普通で現実的だった。それゆえ、人間は両者を区別することができない。人間は外見ばかり注目するので、両者は同じように働き、語るものの、そこに根本的な違いがあることにはまったく気づいていない。人間の識別力はあまりに低いので、人間には基本的な問題も見分けることができず、これほど複雑なこととなるとなおさらである。預言者や、聖霊に用いられる者たちが語り、働きを行った際、彼らは人間の本分を尽くし、被造物の役割を果たしていたが、それは人間がすべきことだった。しかしながら、受肉した神の言葉と働きは、神の職分を遂行することだった。受肉した神の外形は被造物と同じだが、その働きは、自身の役割を果たすことではなく、神の職分を遂行することだった。「本分」が被造物に関して用いられる一方、「職分」は受肉した神の肉体に関して用いられる。両者のあいだには本質的な違いがあり、この二つを相互に置き換えることはできない。人間の働きはその本分を尽くすことだけであるが、神の働きは経営すること、そして神の職分を遂行することである。それゆえ、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物の本分を尽くすことに過ぎなかった。彼らの預言は受肉した神が語るいのちの道よりも偉大だったかもしれないし、彼らの人間性は受肉した神のそれをも超越していたかもしれないが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を果たしていたのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかし、受肉した神が遂行する職分は、神の経営に関連しており、人間には成し遂げることのできないものである。語ることであれ、働きを行うことであれ、あるいは不思議を示すことであれ、受肉した神は自身の経営のさなかに偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉した神に代わって行うことはできない。人間の働きは、神の経営の働きのある段階において被造物の本分を尽くすことだけである。神の経営がなければ、つまり、受肉した神の職分が失われるなら、被造物の本分もまた失われるだろう。自身の職分を遂行する神の働きは人間を経営することであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を果たしているのであって、職分を遂行していると見なされることは決してない。神の元来の本質、つまり神の霊にとって、神の働きとはその経営のことだが、被造物と同じ外形をまとう受肉した神にとって、その働きとは自身の職分を遂行することである。受肉した神がどのような働きを行おうと、それは自身の職分を遂行することであり、人間にできるのは、神の導きのもと、神の経営の範囲内で最善を尽くすことだけである。

『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 161

恵みの時代、イエスもまた多くの言葉を語り、多くの働きをなした。イエスはイザヤとはどう違っていたのか。イエスはダニエルとどう違っていたのか。イエスは預言者だったのか。イエスはキリストだと言われるのはなぜか。彼らのあいだの違いは何か。彼らはみな言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らはみな言葉を語り、働きを行った。旧約聖書の預言者は預言を語り、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するにあたり、肉の性質を考慮してはならない。また、語られた言葉の深さや浅さを考察すべきではない。彼らの働きと、その働きが人にもたらす効果をいつも第一に考えなければならない。預言者たちによって語られた当時の預言は、人のいのちを施さなかった。また、イザヤやダニエルのような人々が受けた黙示は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェによる直接の啓示がなければ、その働きを行える者は誰一人いなかっただろう。それはただの人間には不可能なことである。イエスも多くの言葉を語ったが、そうした言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。なぜなら、イエスはいのちだからである。第二に、イエスは人間の逸脱を正常に戻すことができた。第三に、イエスの働きはヤーウェの働きを引き継ぎ、その時代を進めることができた。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。第五に、イエスは古い時代を終わらせ、新しい時代の到来を告げることができた。そのため、イエスは神、そしてキリストと呼ばれたのである。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも違っていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きを見てみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを施すことができなかった。第二に、新たな時代の到来を告げることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、イザヤが語った言葉は、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いた後ですら理解できなかった。これらの点だけでも、イザヤの言葉が預言に過ぎなかったこと、ヤーウェの代わりに行った働きの一面でしかなかったことが十分に証明される。しかし、イザヤは完全にヤーウェを代表することができなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具だった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけである。イザヤは律法の時代を超えては働かなかったのだ。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えており、受肉した神として働き、全人類を贖うために十字架にかけられた。つまり、イエスはヤーウェによる働きの範囲外で新たな働きを行った。それが新たな時代の到来を告げたということである。それに加え、人間には成し遂げられないことについて、イエスは語ることができた。イエスの働きは神の経営の内側にあり、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人に働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように人間として受肉したか、聖霊が当時どのように啓示を与えたか、また聖霊が働きを行うために人間へとどう降臨したかについて言えば、それらは人間には見ることも触れることもできない事柄である。これらの真実が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくあり得ない。このように、人間に感知できる神の言葉と働きにおいてのみ、区別は可能なのである。現実的なことはこれしかない。と言うのも、霊の事柄はあなたの目に見えず、神自身だけが明確に知っており、受肉した神でさえすべてを知っているわけではないからである。それが神かどうかは、その働きによってのみ確かめられる。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開くことができたのだとわかる。第二に、イエスは人のいのちを施し、辿るべき道を示すことができた。イエスが神自身であることを証拠立てるにはこれで十分である。少なくとも、イエスの行う働きは神の霊を完全に表すことができ、そうした働きから、神の霊がイエスの内にあることがわかる。受肉した神の行った働きは、おもに新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな領域を切り開くことだったが、これらだけでも、イエスが神自身であることを実証するのに十分である。つまりこれが、イザヤやダニエル、および他の偉大な預言者たちとイエスとを区別するものである。イザヤ、ダニエル、そして他の預言者はみな、高度な教育を受けた教養ある部類の人間で、ヤーウェの導きの下にある非凡な人たちだった。受肉した神の肉体もまた、豊かな見識を持ち、理知に欠けることもなかったが、その人間性はひときわ普通だった。彼は普通の人間で、人の目から見て特殊な人間性は見当たらず、その人間性に他人と異なる点は何もなかった。まったく超越的でも特異でもなく、高度な教養、知識、理論などは備えていなかった。イエスの語ったいのちと、イエスの導いた道は、理論や知識、人生経験、あるいは家庭内の教育を通して獲得されたものではなかった。そうではなく、それらは霊による直接の働きであり、つまりは受肉した肉体の働きである。人の目から見て、人間の弱さがあり、しるしや不思議を行うことのできない普通の神がとうてい神と思えないのは、人間が神に関する強い観念を持ち、とりわけそうした観念が、漠然とした超自然的な要素をあまりに多く含んでいるからである。これらは人間の誤った観念ではないのか。受肉した神の肉体が普通の人間のものでなければ、どうして肉になったと言えるだろうか。肉体を持つということは、普通の正常な人間だということである。それが超越的な存在であったなら、肉による存在ではなかったはずだ。自分が肉による存在であることを証明するために、受肉した神は普通の肉体を持つ必要があった。これは単に受肉の意義を完全なものにするためだった。しかし、預言者や人の子らは違う。彼らは賜物を与えられ、聖霊に用いられる人たちだった。人の目から見て、彼らの人間性はとりわけ偉大で、彼らは普通の人間性を超えることを数多く行った。そのため、人は彼らを神と見なした。さて、あなたがたはみな、この点をはっきり理解しなければならない。と言うのも、過去の時代のあらゆる人々が、この問題をいともたやすく誤解してきたからである。さらに言えば、受肉は最も神秘的な奥義であり、受肉した神は人間にとって最も受け入れ難いものである。わたしが述べていることは、あなたがたが自分の役割を果たし、受肉の奥義を理解する助けとなる。これはみな、神の経営とビジョンに関連している。あなたがたがこれを理解することは、ビジョン、つまり神による経営の働きを認識する上でいっそう役に立つだろう。このようにして、あなたがたはまた、各種の人々が尽くすべき本分について大いなる理解を得る。これらの言葉は、あなたがたに道を直接示さないが、それでもあなたがたの入りの大きな助けとなる。と言うのも、あなたがたの現在の生活にはビジョンがひどく欠けており、これがあなたがたの入りを大いに妨げているからである。あなたがたがこれらの事柄を理解できないままであれば、入りを促す動機は何もない。また、そうした追求によって、あなたがたが立派に本分を尽くせるようになるなど、どうしてあり得ようか。

『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 162

中にはこう尋ねる人もいるだろう。「受肉した神によってなされる働きと、昔の預言者や使徒たちの働きとのあいだには、どういった違いがあるのか。ダビデも主と呼ばれていたし、イエスもそう呼ばれていた。二人が行った働きは違うが、呼ばれ方は同じだった。なぜ二人の身分が同じではなかったのか、教えてほしい。ヨハネが目撃したのは一つのビジョンであり、それは聖霊から出たものでもあり、ヨハネは聖霊が伝えようとする言葉を話すことができた。それなのに、なぜヨハネの身分はイエスの身分と違うのか」。イエスによって語られた言葉は、神を完全に表すことができ、神の働きを完全に表すことができた。ヨハネが見たものは一つのビジョンであって、神の働きを完全に表すことはできなかった。ヨハネ、ペテロ、そしてパウロは、イエスと同じく多数の言葉を語ったが、彼らがイエスと同じ身分を持っていなかったのはなぜか。それはおもに、彼らの働きが違ったからである。イエスは神の霊を表しており、自ら働く神の霊だった。新しい時代の働き、それまで誰も行ったことのない働きをしたのである。イエスは新たな道を切り開き、ヤーウェを表し、神自身を表した。一方、ペテロ、パウロ、そしてダビデは、何と呼ばれていたかに関係なく、神の被造物としての身分だけを表し、イエスかヤーウェによって遣わされただけであった。ゆえに、いかに多くの働きをしようとも、どれほど大きな奇跡を行おうとも、彼らはやはり神の被造物に過ぎず、神の霊を表すことはできなかったのである。彼らは神の名において、もしくは神に遣わされて働いた。さらに、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、その他の働きは一切しなかった。結局のところ、彼らは神の被造物に過ぎなかったのだ。旧約では、多くの預言者が預言を語ったり、預言書を書いたりした。誰一人として彼らが神だとは言わなかったが、イエスが働き始めるやいなや、神の霊がイエスを神であると証しした。それはなぜか。この時点で、あなたはすでに知っているはずだ。以前、使徒や預言者たちは様々な書簡を記し、また多くの預言をした。後に人々は、その一部を選んで聖書に収めたが、失われたものもあった。彼らによって語られた言葉はすべて聖霊から出たものだと言う人もいるが、それらのうち、良いとみなされているものと悪いとみなされているものがあるのはなぜか。また、選ばれたものとそうでないものがあるのはなぜか。それらが本当に聖霊によって語られた言葉ならば、人が選ぶ必要はあったのか。イエスによって語られた言葉の記述と、イエスの行った働きの記述が、四つの福音書でそれぞれ異なるのはなぜか。これは、それらを記録した人間によるミスではないのか。中にはこう尋ねる人もいるだろう。「パウロや新約聖書の他の著者によって記された書簡と、彼らが行った働きは、部分的には人間から生じたものであり、人間の観念が混ざっている。だから、あなた(神)が今日語る言葉の中には、人間による不純がないのだろうか。それらは本当に人間の観念をまったく含んでいないのか」。神によってなされるこの段階の働きは、パウロや多くの使徒と預言者たちが行った働きとまったく異なる。身分に違いがあるだけでなく、基本的に、実行される働きに違いがあるのだ。パウロは打たれて主の前に倒れた後、聖霊に導かれて働き、遣わされた者となった。そのため諸教会に書簡を書き送ったが、それらの書簡はすべてイエスの教えに従うものだった。遣わされたパウロは、主イエスの名において働いたが、到来した神自身は誰の名においても働かず、自身の働きにおいて神の霊だけを表した。到来した神は、自身の働きを直接行ったのである。神が人によって完全にされることはなく、神の働きが人間の教えを基に行なわれることもなかった。この段階の働きにおいて、神は自らの経験を語ることで導くのではなく、自身が持つものに応じて直接働きを実行する。例えば効力者の試練、刑罰の時、死の試練、神を愛する時などである……。これらはどれも以前になされたことがない働きであり、人間の経験というよりもむしろ、現在の時代の働きである。わたしが語った言葉の中で、どれが人間の経験なのか。それはすべて霊から直接出るものであり、霊によって発せられるものではないのか。それは単に、あなたの素質が乏しいために真理を見極めることができないだけだ。わたしが語るところの実践的ないのちの道とは、進むべき道を示すものであり、今まで誰もそれを語ったことがなく、誰もこの道を経験したことがなく、この現実を知った者もいない。わたしがこれらの言葉を発するのに先立ち、それを語った者は一人もいないのだ。このような経験を語った者は一人もおらず、そのような詳細を語った者もなく、さらには、そうした状態を指摘してこれらの事柄を明らかにする者もいなかったのである。わたしが今日導く道は、いまだかつて誰も導いたことがない道であり、仮に人によって導かれるならば、それは新たな道ではないだろう。パウロとペテロを例に取ろう。イエスが道を導く前、彼らには自分自身の経験がなかった。イエスが道を導いて初めて、イエスによって語られる言葉と、イエスによって導かれる道を経験したのであり、そこから多くの経験を得て、それらの書簡を記したのである。よって、人間の経験は神の働きと同じではなく、神の働きは人間の観念や経験によって記述された認識と同じものではない。何度も繰り返し言ってきたが、現在わたしは新たな道を導き、また新しい働きを行っているが、わたしの働きと発する言葉は、ヨハネや他のすべての預言者たちのものとは異なる。わたしはまず経験を得てから、それについてあなたがたに話すようなことは決してしない――そのようなことは絶対にない。そうだとしたら、それはずっと以前にあなたがたを遅らせたのではないだろうか。過去には、多くの者たちが語る認識も高尚なものとされていたが、彼らの言葉はみな、いわゆる霊的人物と呼ばれる者たちの言葉を基に語られたに過ぎない。そのような言葉は道を導いたわけではなく、彼らの経験や彼らが見たもの、そして彼らの認識に由来するものだった。その一部は彼らの観念に由来し、別の一部は彼らがまとめた経験から成っていた。今日、わたしの働きは、そうした人たちの働きとは性質をまったく異にする。わたしは他者によって導かれた経験もなければ、他者によって完全にされるのを受け入れたこともない。さらに、わたしが語って説いたすべてのことは、他の人のものとは異なっており、他の誰かによって語られたことのないものである。今日、あなたがたが誰であるかにかかわらず、あなたがたの働きは、わたしが語る言葉に基づいて行われる。これらの言葉と働きなくして、誰がこのようなこと(効力者の試練、刑罰の時……)を経験し、そのような認識について語ることができようか。あなたは本当にそれを見極められないのか。働きの段階に関係なく、わたしが言葉を発するやいなや、あなたがたはわたしの言葉に沿って交わり始め、わたしの言葉に沿って働くが、それはあなたがたの誰一人として考えたことのない道である。あなたはここまで至りながら、これほど単純明快な問題も理解できないのか。それは誰かが考え出した道でも、霊的人物の道に基づくものでもない。それは新たな道であり、かつてイエスが語った言葉の多くでさえ、もはや廃れている。わたしが語るのは、新しい時代を切り開く働きのことであり、その働きは他から完全に独立したものであって、わたしが行う働きとわたしが語る言葉はすべて新しいものである。これこそ今日の新しい働きではなかろうか。イエスの働きもそれと同じようなものだった。それもまた、神殿の人々の働きとは違い、パリサイ人の働きとも異なり、イスラエルのすべての民の働きともまったく似ていなかった。人々はイエスの働きを見た後、「それは本当に神が行った働きなのか」を判断できなかった。イエスはヤーウェの律法に固執しなかった。人を教えに来たとき、彼が語ったことはすべて新しく、昔の聖者や旧約の預言者たちが語ったこととは違っていたので、人々は確信を持てずにいた。人間にとって最も対処が難しいのはこの点である。この新しい段階の働きを受け入れる前、あなたがたのほとんどが歩んできた道は、霊的人物の道を基に実践し、入るためのものだった。しかし今日、わたしが行う働きはそれと大きく異なっているので、あなたがたは、それが正しいかどうかを判断することができない。わたしは、あなたが以前にどのような道を歩んできたかなど気にかけないし、誰の「食べもの」を食べたか、誰を「父」とみなしてきたかにも興味がない。わたしはすでに来ており、人を導く新しい働きをもたらしたのだから、わたしに付き従う者はみな、わたしが言うことに従って行動しなければならない。あなたの「一族」にどれほど権力があろうと、あなたはわたしに付き従わなければならない。これまでの習慣通りに行動してはならず、あなたの「育ての父」はその役目を終えるべきで、あなたは自分の神の前に出て、自身の正当な分け前を求めるべきである。あなたのすべてはわたしの手中にあり、あなたは育ての父に盲目的過ぎる信仰を捧げるべきではない。育ての父はあなたを完全に支配することができないのだから。今日の働きは独立したものである。わたしが今日語るすべてのことは、明らかに過去の礎を基にしてはいない。これは新しい始まりであり、もしあなたが、それは人の手によって作られたものだと言うなら、救いがたいほど盲目な人である。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 163

イザヤ、エゼキエル、モーセ、ダビデ、アブラハム、そしてダニエルは、イスラエルの選民の指導者ないし預言者だった。なぜ彼らは神と呼ばれなかったのか。なぜ聖霊は彼らを証ししなかったのか。イエスが働きを始め、語り始めるやいなや、なぜ聖霊はイエスを証ししたのか。なぜ聖霊は他の者たちを証ししなかったのか。肉なる人間であった彼らはみな「主」と呼ばれた。その呼び名に関係なく、彼らの働きがその存在と実質を表し、彼らの存在と実質は彼らの身分を表していた。彼らの実質は、彼らの呼び名と無関係である。それは、彼らが表現したこと、そして彼らが生きた物事によって表される。旧約聖書においては、誰かが「主」と呼ばれることは別に不思議なことではなく、どのような呼び方をしてもよかったのだが、その人の実質と本来の身分は不変だった。偽キリストや偽預言者、あるいは人を惑わす者の中にも「神」と呼ばれる人がいるではないか。それではなぜ、彼らは神ではないのか。それは、彼らには神の働きが行えないからである。彼らは根本的に人間であり、人々を惑わす者であり、神ではないので、神の身分は持っていない。ダビデも十二部族のあいだで主と呼ばれていたではないか。イエスも主と呼ばれていたが、なぜイエスだけが受肉した神と呼ばれたのか。エレミヤもまた「人の子」として知られていたではないか。それにイエスも「人の子」として知られていたではないか。なぜイエスは神の身代わりとして十字架にかけられたのか。それは、イエスの実質が違っていたからではないのか。イエスの行った働きが違っていたからではないのか。呼び名が大事なのか。イエスも人の子と呼ばれたが、彼は神による最初の受肉であり、権力を担うために、そして贖いの働きを成し遂げるために来たのである。これは、イエスの身分と実質が、「人の子」と呼ばれた他の人たちと異なっていたことを証明している。聖霊に用いられた者たちの言葉はすべて聖霊から出たものである、とあえて言う人が今日あなたがたの中にいるだろうか。そのようなことをあえて言う人がいるだろうか。そのようなことを言うなら、エズラの預言書が除外され、昔の聖者や預言者たちが書いた書物も同じように扱われたのはいったいなぜか。それらがすべて聖霊から出たものならば、そうした気まぐれな選択をあえてするのはなぜか。あなたに聖霊の働きを選ぶ資格があるのか。また、イスラエルの物語も多数除外された。このような過去の記述がすべて聖霊から出たものだと信じるなら、一部の書が排除されたのはなぜか。それらがみな聖霊から出たものであれば、すべて保管しておいて、諸教会の兄弟姉妹に送って読ませるべきである。それを人間の意図によって選択したり処分したりすべきではない。そのようなことは間違っている。パウロとヨハネの経験には個人的な洞察が混じり込んでいると言っても、それは彼らの経験と認識がサタンから出たものだという意味ではなく、彼らの個人的な経験や洞察があったというだけのことである。彼らの認識は当時の実際の経験を背景にして生まれたものであり、そのすべてが聖霊から出たものだと誰が自信を持って言えるだろうか。四つの福音書がすべて聖霊から出たものなら、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネが、イエスの働きについてそれぞれ違うことを言っているのはなぜか。それを信じないというなら、聖書の中の、ペテロが主を三度否定する話を読んでみなさい。四つの書はすべて違い、それぞれに特徴がある。多くの無知な人たちは言う。「受肉した神もまた人間であるのなら、その方の語る言葉は完全に聖霊から出るものだと言えるのか。もしパウロとヨハネの言葉に人の意志が混じっているのなら、神が語る言葉には本当に人の意図が混ざっていないのか」。そんなことを言う人たちは盲目にして無知である。四つの福音書を注意して読みなさい。イエスが行ったこと、イエスが語ったことに関する記録を読んでみなさい。それぞれの記述がまったく異なっており、いずれも違う視点を有している。これらの福音書の著者によって書かれたものがすべて聖霊から出たものならば、どれも同じで一貫しているはずだ。それでは、相違があるのはなぜなのか。そんなことも見抜けないのなら、人間は極めて愚かではないか。神を証しするよう求められたならば、あなたはどのような証しをすることができるのか。そのような認識で神を証しできるのか。「ヨハネとルカによる記録に人間の意図が混ざっているなら、あなたがたの神が語った言葉にも人間の意図が混ざってはいないのか」と他の人に訊かれたら、あなたは明確に答えられるだろうか。ルカとマタイは、イエスの言葉を聞き、イエスの働きを見た後、自らの認識を、イエスによる働きの事実の一部を詳しく述べていくという回想の形で語った。彼らの認識はひとえに聖霊によって明かされたものだと、あなたは言えるのか。聖書以外にも、彼らより優れた認識を持つ霊的人物が大勢存在したのに、なぜそういう人たちの言葉は後世の人によって取り上げられなかったのか。彼らも聖霊に用いられた者ではなかったのか。今日の働きにおいて、わたしはイエスの働きを土台としてわたし自身の識見を語っているのではなく、イエスの働きを背景としてわたし自身の認識を述べているのでもないことを知りなさい。イエスは当時どのような働きをしたのか。そして今日、わたしはどのような働きをしているのか。わたしの言動は前例がないものである。わたしが今日歩んでいる道は、以前に誰も歩んだことのない道であり、過去の時代と世代の人々が一度も歩んだことのない道である。今日、この道が開かれたわけだが、それは霊の働きではないのか。過去の指導者はみな、たとえそれが聖霊の働きであっても、他の人たちを基礎として自らの働きを行ってきた。しかし、神自身の働きは違う。イエスによる働きの段階も同じであり、イエスは新たな道を切り開いた。到来したイエスは天国の福音を宣べ伝え、人は悔い改めて罪を告白すべきだと説いた。イエスがその働きを終えた後、ペテロやパウロ、そして他の人々がイエスの働きを実行し始めた。イエスが十字架にかけられ天に昇った後、彼らは十字架の道を宣べ伝えるために霊によって遣わされたのである。パウロの語った言葉は高尚なものだったが、それもまたイエスが語ったことによって築かれた土台、すなわち忍耐、愛、苦難、かぶり物を着けること、バプテスマを受けることなど、その他の守るべき教義に基づいていた。それらはどれもイエスの言葉を土台として語られたのである。彼らは新たな道を切り開くことができなかった。それは彼らが神に用いられた人間に過ぎなかったからである。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 164

当時、イエスの言葉と働きは教義に固執したものではなく、彼が旧約聖書の律法に従って働きを実行することもなかった。それは、恵みの時代に行われるべき働きに従って行われたのである。イエスは自ら生み出す働き、自らの計画、そして自らの職分に沿って尽力したが、旧約聖書の律法に従って働くことはしなかった。イエスが行ったことのうち、旧約の律法に基づくものは一つもなかった。また、イエスは預言者たちの言葉を実現させるために、到来して働いたのでもなかった。神によるどの段階の働きも、とりわけ昔の預言者たちの預言を成就させるためになされたのではなく、教義に従うため、あるいは意図的に預言者たちの預言を実現させるために来たのでもなかった。それでも、彼の行為が昔の預言者たちの言葉を混乱させることはなく、彼が過去に行った働きの妨げとなることもなかった。イエスの働きの顕著な点は、いかなる教義にも縛られず、その代わりに彼自身がなすべき働きを行うことだった。彼は預言者でも先見者でもなく、実際に到来して自身がなすべき働きを行う行動の人であり、自身の新たな時代を始め、新たな働きを実行するために来た。もちろん、到来して自身の働きをなしたイエスは、旧約聖書の昔の預言者たちが語った多くの言葉を成就させてもいる。そして今日の働きもまた、旧約聖書の昔の預言者たちの預言を成就させている。それは単に、わたしはその「古い暦」を掲げないというだけのことだ。と言うのも、わたしにはなすべき働き、あなたがたに語るべきことがさらにあるからであり、その働きとそれらの言葉は聖書の聖句を説明するよりはるかに重要である。なぜなら、そのような働きは、あなたがたにとってさほど意義も価値もなく、あなたがたの助けになることも、あなたがたを変えることもないからだ。わたしは聖書の文章を成就するために新しい働きをするわけではない。神が聖書の昔の預言者の言葉を成就するためだけに来たのであれば、受肉した神と昔の預言者たちのどちらが偉大なのだろう。結局のところ、預言者たちが神を支配しているのか、それとも神が預言者たちを支配しているのか。あなたはこれらの言葉をどう説明するのか。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 165

神の働きの各段階は一つの同じ流れに沿っているので、六千年にわたる神の経営計画においては、創世から現在に至るまで、各段階が次の段階と密接に繋がっている。道を整える者が誰もいなければ、後に続く者もいないだろう。後に続く者がいるからこそ、その道を整える者がいるのである。このようにして、働きは一歩一歩引き継がれてきた。一つの段階が次の段階へと繋がっており、道を切り開く者がいなければ、働きを始めることは不可能であって、神が自身の働きを進展させる術もないだろう。どの段階も他の段階と矛盾せず、すべての段階が順に続いて、一つの流れを形作っている。そのすべてが同じ霊によってなされるのである。しかし、道を切り開く者であれ、他の者の働きを引き継ぐ者であれ、それによって身分が決まることはない。そうではないのか。ヨハネが道を開き、イエスがその働きを引き継いだが、そのことは、イエスの身分がヨハネの身分より低いという証拠になるだろうか。イエスの前はヤーウェが働きを行ったが、だからといって、ヤーウェのほうがイエスよりも偉大だと言えるだろうか。道を整える者だったか、あるいは働きを引き継ぐ者だったかは重要ではない。何より重要なのは彼らの働きの実質であり、その働きが表す身分である。そうではないのか。人々のあいだで働きを行おうとした神は、道を整える働きができる者たちを立ち上がらせる必要があったのだ。教えを説き始めたばかりのとき、ヨハネはこう言った。「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」。「悔い改めよ、天国は近づいた」。ヨハネは最初からこのように語っているが、なぜこれらの言葉を言うことができたのか。これらの言葉が語られた順序を見ると、最初に天国の福音を述べたのはヨハネであり、後になってイエスが語っている。人間の観念からすると、新たな道を切り開いたのはヨハネなのだから、当然ヨハネがイエスよりも偉大だったことになる。だがヨハネは、自分がキリストだとは言っていない。そして神も、ヨハネを愛する神の子として証しせず、ただ道を開いて主のために道を整えるべく彼を用いただけである。ヨハネはイエスのために道を整えたが、イエスの代わりに働くことはできなかった。人間による働きもまた、すべて聖霊によって維持されていたのである。

旧約の時代には、ヤーウェが道を導いた。そしてヤーウェの働きは、旧約の時代全体と、イスラエルでなされた働きのすべてを表していた。モーセは地上におけるこの働きを維持していたに過ぎず、彼の苦労は人間による協力と考えられる。当時はヤーウェが語り、モーセに呼びかけ、彼をイスラエルの民のあいだで立たせ、イスラエルの民を荒野へと、そしてカナンの地へと導かせた。これはモーセ自身の働きではなく、ヤーウェ自身によって導かれたものなので、モーセを神と呼ぶことはできない。またモーセは律法を定めたが、この律法はヤーウェ自身によって布告された。ヤーウェはモーセにそれを語らせたに過ぎない。イエスも戒めを定め、旧約の律法を廃止して新しい時代の戒めを定めた。イエスはなぜ神自身なのか。それは違いがあるからである。当時、モーセが行った働きは時代を表すものではなく、新たな道を切り開くこともなかった。モーセは、ヤーウェから前もって指示されており、神に用いられた者に過ぎなかったのだ。イエスが来たとき、ヨハネはすでに道を整える段階の働きを始めており、天国の福音を広め始めていた(聖霊がそれを開始した)。到来したイエスは自身の働きを直接行ったが、彼の働きとモーセの働きとのあいだには大きな違いがあった。イザヤも多くの預言を語ったが、それならなぜイザヤも神自身ではなかったのか。イエスはそれほど多くの預言を語らなかったが、なぜイエスは神自身だったのか。当時のイエスの働きはすべて聖霊から出たものだとか、人の意志から出たものだとか、すべては神自身の働きであるなどとあえて言う者はいなかった。人間にはそのようなことを分析する手段がなかったのだ。イザヤがこのような働きを行い、このような預言を語り、そのすべては聖霊から出たものだと言うことはできる。それらはイザヤ自身から直接出たものではなく、ヤーウェによる啓示だったのだ。イエスはさほど多くの働きをせず、多くの言葉を発することも、多くの預言を語ることもなかった。人にとってイエスの説教は特に高尚なものとは思えなかったが、それでもイエスは神自身であり、人間がそれを説明するのは不可能である。いまだかつて、ヨハネやイザヤやダビデを信仰し、彼らを神と呼んだり、ダビデ神、ヨハネ神などと呼んだりする者はいなかった。そのように話す者は誰一人おらず、イエスだけがキリストと呼ばれたのである。この区分は、神の証し、イエスが担った働き、そしてイエスが果たした職分によるものである。聖書の偉大な人たち――アブラハム、ダビデ、ヨシュア、ダニエル、イザヤ、ヨハネ、そしてイエス――を、彼らが行った働きを通して見るとき、誰が神自身なのか、またどのような人たちが預言者で、誰が使徒であるかを見分けることができる。誰が神に用いられた者で、誰が神自身であるかは、その人の働きの実質と種類で区別され、判断される。違いを見分けられないのであれば、それはあなたが神を信じるとはどういうことかを知らないという証拠である。イエスが神であるのは、多くの言葉を語り、多くの働きをなし、とりわけ多くの奇跡を示したからである。同じくヨハネも多くの働きをなし、多くの言葉を語ったが、モーセも同様だった。それではなぜ彼らは神と呼ばれなかったのか。アダムは神自身によって造られたが、なぜ神と呼ばれず、被造物と呼ばれるだけだったのか。もしも誰かが、「今日、神は多くの働きをされ、多くの言葉を語られた。このお方は神ご自身である。それなら、モーセも同じように多くの言葉を語ったのだから、モーセも神ご自身だったに違いない」と言うならば、あなたは次のように問い返すべきだ。「当時、神はなぜヨハネではなく、イエスを神ご自身であると証しされたのか。ヨハネはイエスよりも前に現れたではないか。ヨハネとイエスと、どちらの働きのほうが偉大だったのか。人の目には、イエスの働きよりもヨハネの働きのほうが偉大に映るのに、なぜ聖霊はイエスのことを証しし、ヨハネのことは証ししなかったのか」。これと同じことが現在でも起きている。当時、モーセがイスラエルの民を導いたとき、ヤーウェは雲のあいだからモーセに語りかけた。モーセは直接話すことはなかったが、ヤーウェに直接導かれていた。これが旧約聖書に記されたイスラエルでの働きである。モーセの中には、霊も神の存在もなかった。モーセはそのような働きをすることができなかったので、モーセによってなされた働きとイエスによってなされた働きには大きな違いがある。それは、両者の働きが異なるものだったからである。神に用いられる者か、預言者か、使徒か、あるいは神自身かは、その者の働きの性質によって区別でき、それが分かればあなたの疑問は解消されるはずだ。聖書には、小羊だけが七つの封印を解くことができると記されている。各時代を通じ、それらの偉大な人物たちのあいだには、聖句を説き明かす者がたくさんいたが、彼らがみな小羊だとあなたは言えるのか。彼らの説明がすべて神から出たものだと言えるのか。彼らは説き明かす者に過ぎず、小羊の身分を持っているわけではない。彼らが七つの封印を解くに値するなど、どうしてあり得ようか。「小羊だけが七つの封印を解くことができる」というのは真実だが、小羊は七つの封印を解くためだけに来るのではない。この働きは必要なものではなく、ついでになされるのだ。小羊の働きに関しては、小羊自身が知り尽くしている。多くの時間を費やして聖書の解釈をする必要があるだろうか。六千年の働きに、「聖書を解釈する小羊の時代」を加えなければならないのか。彼は新しい働きを行うために来るが、過去の働きをも明らかにし、六千年にわたる働きの真実を人々に理解させる。それほど多くの聖句を説明する必要はない。鍵となるのは今日の働きである。神は特に七つの封印を解くために来るのではなく、救いの働きをするために来るということを、あなたは知らねばならない。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 166

恵みの時代、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネに神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけである。ヨハネは主の先駆者だったが、神を表わすことはできなかった。聖霊に用いられる人に過ぎなかったのである。イエスがバプテスマを受けたあと聖霊が鳩の如くイエスの上に降り立った。それからイエスは自分の働きを始めた。つまり、キリストの職分を始めたのである。それが、イエスが神の身分をとった理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようなものであったとしても──時には弱く、時には強かっただろうが──それはすべてイエスが職分を始める前に過ごした、普通の人の生活に属するものだった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、神の力と栄光がただちに備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行なうことができ、力と権威を備えていた。神自身の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは霊に代わって霊の働きを行ない、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身だった。そのことに反論の余地はない。ヨハネは聖霊に用いられた人間である。彼に神を表わすことはできず、また神を表わすことは彼にとって不可能だった。たとえそうしたいと望んでも、聖霊はそれを許さなかっただろう。と言うのも、神自身が成し遂げようとした働きを、ヨハネが行なうことはできなかったからである。おそらく、彼には人間としての意思、あるいは逸脱したものが数多くあったのだろう。どのような状況下においても、ヨハネは神を直接表わすことができなかった。彼の過ちや荒唐無稽は自分自身だけを表わしていたが、彼の働きは聖霊を象徴するものだった。それでもなお、彼のすべてが神を表わしていたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表わしていただろうか。人を表わす中で間違いを犯すのは普通のことだが、神を表わしながら逸脱しているなら、それは神の名誉を汚すことではないだろうか。聖霊に対する冒涜ではないだろうか。たとえ他人に称揚されても、人が神に取って代わることを聖霊は軽々しく許さない。神でない人が最後に固く立つことはできないだろう。人が気の向くままに神を表わすことを、聖霊は許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しをし、彼がイエスのために道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きは実に均衡のとれたものだった。ヨハネに求められたのはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけだった。つまり、聖霊は道を整える彼の働きだけを支え、そのような働きをすることだけを彼に許した。他の働きをすることは許されなかったのである。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表わしていた。そのことにおいて聖霊はヨハネを支えた。彼の働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えたのである。しかし、もしヨハネが、自分は神だと主張し、贖いの働きを完成させるために来たのだと言ったなら、聖霊は彼を懲らしめる必要があっただろう。ヨハネの働きがどれほど偉大でも、またそれが聖霊に支えられていたとしても、その働きに境界がなかったわけではない。確かに、聖霊はヨハネの働きを支えていたが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。その他の働きを行なうことはまったくできなかったのである。と言うのも、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネに過ぎなかったからである。よって、聖霊の証しが鍵になるのだが、聖霊が人に許す働きはそれにも増して重要である。当時、ヨハネは鳴り響くような証しを受け取っていたのではないか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。しかし、ヨハネの働きがイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間に過ぎず、直接神を表わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネが行なった働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、聖霊はもはや彼の証しを支えず、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

悪霊に取りつかれ、「わたしが神だ!」と声高に叫ぶ人がいる。しかし最後に、彼らは暴かれる。と言うのも、自分が表わすものについて、彼らは間違っているからである。彼らはサタンを表わし、聖霊は彼らに何の注意も払わない。どれほど高く自分を称揚しても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、神の愛するひとり子である」と叫ばない。しかし、わたしが行なう働きは神の働きである。わたしに叫ぶ必要があるだろうか。称揚の必要はない。神は自身の働きを自ら行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表わすのである。バプテスマに先立ち、イエスは神自身ではなかったのか。受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証しをされて初めて神のひとり子になった、などと言うことは到底できない。その働きを始めるずっと以前、イエスという名の人間がすでにいたのではないか。あなたは新しい道を生み出すことも、霊を表わすこともできない。霊の働きや、霊が語る言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを行なうこともできない。神の知恵、不思議、計り難さ、そして人間を罰する神の性質全体を表現することは、どれもあなたの能力を超えている。ゆえに、自分は神だと主張しようとしても無駄である。あなたには名前があるだけで、実質がまったくないのである。神自身はすでに来た。しかし、誰も神を認識せず、それでいて神は働きを続け、霊を代表して働く。あなたが彼を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかし、彼が行なう働きは霊の働きで、神自身の働きを表わしている。人にどのような名前で呼ばれるか、彼には関心がない。その名前が彼の働きを決定できるのか。あなたが彼を何と呼ぼうと、神に関する限り、彼は神の霊の受肉した肉体である。彼は霊を表わし、霊によって承認されている。あなたが新しい時代への道を切り開けないなら、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをしたりすることができないのであれば、あなたが神と呼ばれることはできない。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 167

聖霊に用いられる人でさえ、神自身を表わすことはできない。そのような人は神を表わすことができないというだけでなく、その人が行なう働きも直接神を表わせないのである。言い換えると、人の経験が神の経営(救い)の内部に直接置かれることはできないし、神の経営を表わすこともできない。神自身が行なう働きはひとえに、神の経営計画の中で神が行なおうとする働きであり、それは偉大な経営に関係している。人によってなされる働きは、その人の個人的経験を提供することから成っている。以前の人たちが歩いた道を超える新しい経験の道を見つけ、聖霊の指導の下、兄弟姉妹を導くことから成っているのである。この人たちが提供するのは、自分個人の経験や、霊的な人たちの霊的書物である。このような人たちは聖霊によって用いられているが、彼らが行なう働きは、六千年にわたる計画の中の偉大な経営の働きとは無関係である。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって生み出されてきた人たちに過ぎない。彼らが行なう働きは、神のために適切な道を整えるか、あるいは地上における神自身の経営の、ある特定の側面を続けていくことだけである。そのような人たちは基本的に、神の経営のより偉大な働きをすることができず、新しい道を切り開くこともできず、ましてや前の時代から続く神の働きをすべて終わらせることなどできない。よって、彼らが行なう働きは、被造物が己の役目を果たすことを表わしているだけで、神自身が己の職分を果たすことは表わせない。これは、彼らの行なう働きが神自身の行なう働きと違うからである。新しい時代を導入する働きは、人が神の代わりに行なえるものではない。他ならぬ神自身にしかできないことなのである。人によって行なわれるすべての働きは、被造物としての本分を尽くすことから成っており、その人が聖霊によって動かされたり、啓かれたりしたときに行なわれる。そのような人たちがもたらす指導はひとえに、日常生活における実践の道を人に示すこと、神の旨と一致する形で行動するにはどうすればよいかを示すことから成っている。人の働きは神の経営に関わることも、霊の働きを表わすこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することだった。その道が新しかろうと古かろうと、その働きの前提は、聖書の中に留まるという原則の上に築かれていた。地方教会の再建であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことに関係していた。彼らが行なった働きは、イエスと弟子たちが恵みの時代にやり残した働き、あるいはそれ以上に展開しなかった働きを引き継ぐものだった。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスが当時の働きにおいて、自分の後に来る世代の人々に求めたことを復活させることだった。彼らの働きは聖書を固く守り、聖書の中に道を求めることだったと言うことができるだろう。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、人は彼らの働きの中に、聖書内における新しい道の発見と、以前よりはましで現実的な実践しか見ることができない。しかし彼らの働きの中に、神の現在の旨を見出すことはできず、ましてや神が終わりの日に行なおうと計画している新しい働きを見つけることなどできない。これは、彼らの歩んだ道が依然古い道であり、刷新や進歩がなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改めて罪を告白させるという実践や、最後まで耐える者が救われるとか、男は女の頭であるとか、妻は夫に従えなどといった言い回し、そしてさらに、女性信者は説教できず、従うことしかできないという伝統的な観念を遵守し続けた。もしもこのような形の指導が遵守され続けていたら、聖霊が新しい働きを行ない、人々を規則から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかっただろう。そういうわけで、時代を変えるこの段階の働きは、神自身が行ない、語ることを必要とする。そうしなければ、神の代わりにそれを行なえる人はいないからである。これまでのところ、この流れの外側における聖霊の働きはすべて行き詰まり、聖霊に用いられる人々は方向を失った。よって、聖霊に用いられる人々の働きは神自身による働きと同じではないので、彼らの身分、および彼らが誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは、聖霊の行なおうとする働きが異なるからであり、そのため同じように働きを行なうすべての人に異なる身分や地位が与えられる。聖霊に用いられる人たちもまた新しい働きをするかもしれないし、以前の時代になされた働きを消去するかもしれないが、彼らが行なうことは新しい時代における神の性質や旨を表現できない。彼らが働きを行なうのは、以前の時代の働きを取り除くためだけであり、神自身の性質を直接表わす目的で新しい働きを行なうためではない。このように、彼らが時代遅れの実践をいかに多く廃止しようとも、あるいはどれほど多くの新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人と被造物を代表しているのである。しかし、神自身は働きを行なうとき、古い時代の実践の撤廃を公然と宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言したりすることはない。神はその働きにおいて直接的かつ率直である。神は行なおうと意図する働きを実行する上で率直である。つまり、神は自身がもたらしてきた働きを直接表現し、自身の働きを本来意図したように直接行ない、神そのものと神の性質を表現する。人の見るところ、神の性質、そして神の働きもまた、かつての時代と異なっている。しかし、神自身の見地からすれば、これは神の働きの継続であり、さらなる展開に過ぎない。神は働きを行なうとき、自身の言葉を表現し、新しい働きを直接もたらす。それとは対照的に、人が働きを行なうとき、それは熟慮と研究によってなされるか、または他人の働きの上に築かれた認識の発展、および実践の体系化なのである。すなわち、人によってなされる働きの本質は、確立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。このことは、聖霊に用いられる人が歩く道でさえ、神自身によって始められたものに基づいているということを意味している。ゆえに、つまるところ、人は依然として人であり、神はやはり神なのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 168

イサクがアブラハムのもとに生まれたように、ヨハネは約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを行なったが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者の一人だった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えて初めて、イエスは正式に自分の働きを始めた。実質的に、ヨハネは単にイエスのために骨を折っただけであり、ヨハネが行なった働きはイエスの働きに奉仕するものだった。ヨハネが道を整え終わった後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より詳細にわたる働きだった。ヨハネが行なったのはその働きの最初の一部だけであり、新たな働きのより大部分は、イエスによって行なわれたのである。ヨハネも新たな働きを行なったが、新たな時代を始める人ではなかった。ヨハネは約束によって生まれ、その名前は天使から与えられた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母が口を開いてこう言った。「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」。これはすべて聖霊によって命じられたことである。イエスもまた聖霊の命令で名付けられ、聖霊から生まれ、聖霊からの約束を受けた。イエスは神であり、キリストであり、人の子だった。しかし、ヨハネの働きも偉大だったのに、なぜ彼は神と呼ばれなかったのか。イエスによってなされた働きと、ヨハネによってなされた働きの違いはいったい何だったのか。ヨハネはイエスのために道を整える人だったというのが唯一の理由なのか。あるいは、神によってあらかじめ定められたからなのか。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きがさらに展開されることはなく、始まりを構成したに過ぎなかった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を始めて古い時代を終わらせたが、旧約聖書の律法を成就させることもした。イエスが行なった働きはヨハネの働きより偉大であり、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであって、その段階の働きを達成したのである。ヨハネのほうはただ道を整えたに過ぎない。彼の働きは偉大で、数多くの言葉を語り、彼に従う弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新たな始まりをもたらしたに過ぎないのである。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受け取っておらず、彼を通して神の旨を理解することもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新たな土台を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)だった。つまり、恵みの時代の先駆者だったのである。そのような事柄は、彼らがもつ普通の人間の外見だけでは見分けられない。特にヨハネは、極めて多くの働きを行ない、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので、それがますます当てはまる。そうであれば、人のそれぞれの身分は、その人が行なう働きを通じてのみ区別することができる。と言うのも、人の外見からその人の本質を知る術はなく、聖霊の証しとは何かを人が確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きは異なっており、違う性質を有している。そのことから、ヨハネが神かどうかを決めることができる。イエスの働きとは、始めること、続けること、終わらせること、そして結実させることだった。これらの各段階をイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりをもたらす以上のものではなかった。イエスは最初に福音を広め、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後に人類を罪から贖い、その時代全体の働きを完成させた。イエスはあらゆる場所に赴いて人々に説教し、天国の福音を宣べ伝えた。この点においてイエスとヨハネは似通っていたが、イエスは新しい時代を始め、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきこと、および従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして最後に、イエスは贖いの働きを終えた。ヨハネがその働きを実行できたはずはない。ゆえに、神自身の働きを行なったのはイエスであり、イエスが神自身であり、神を直接表わすのもイエスなのである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者はみな神である。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも全員神である、ということになる……。これはよくできた冗談ではないか。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 169

「なぜ時代の到来は神自身によって告げられなければならないのか。被造物が神の代わりになることはできないのか」と不思議に思う人がいるかもしれない。新しい時代の到来を告げるという明白な目的のために神が肉となることを、あなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代の到来を告げるとき、同時に前の時代を終わらせることもあなたがたは知っている。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身なのだから、前の時代を終わらせるのも神自身でなければならない。それは、神がサタンを打ち負かし、世界を征服する証拠である。神自身が人々のもとで働くたび、それは新しい戦いの始まりとなる。新しい働きの始まりがなければ、当然古い働きの終わりもない。そして古い働きの終わりがなければ、サタンとの戦いがまだ終結していないことを証明している。神自身が来て人のあいだで新しい働きを実行して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しい生活、新しい始まりを得ることができる。そうでなければ、人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。それぞれの時代が神によって導かれることで、人間の一部は自由になり、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きとともに前進する。神の勝利とは、神に従うすべての人の勝利である。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からだろうと、サタンの視点からだろうと、それは神に反抗する行ない、あるいは神を裏切る行ないに過ぎず、神に対する従順さの行ないではないのであって、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうだろう。神自身によって始められた時代の中、人が神に服従し、付き従うのでなければ、サタンを完全に納得させることはできない。それが被造物の本分だからである。ゆえに言っておくが、あなたがたに必要なのは付き従って服従することだけで、それ以上のことは求められていない。これが、各自が自分の本分を守り、それぞれの役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神に代わってそうすることを必要としておらず、被造物の働きに神が参加することもない。人は自分自身の本分を尽くするのであり、神の働きに参加することはない。これだけが本当の服従であり、サタンが敗北した証拠である。新しい時代の到来を告げたあと、神自身が自ら人類のあいだで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を尽くし、被造物としての使命を果たすべく、新しい時代へと正式に足を踏み入れるのである。これが、神が働きを行なう原則であって、誰も背くことはできない。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身によってなされる。神の働きを始動させるのは神であり、それを終わらせるのも神である。働きを計画し、経営するのも神であり、それ以上に、働きを結実させるのも神である。聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営の働きに関連することはすべて神自身によって行なわれる。神は六千年にわたる経営計画の支配者で、誰も神の代わりにその働きを行なうことはできず、神の働きを終わらせられる者もいない。なぜなら、すべてをその手に掌握しているのは神だからである。世界を創造した神は、全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより自身の計画をすべて成就させるだろう。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 170

神の性質のすべては六千年にわたる経営計画を通じて表わされてきた。それは恵みの時代、もしくは律法の時代においてのみ表わされたのではなく、ましてや終わりの日のこの時期にだけ表わされるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表わす。終わりの日になされる働きが、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、これら三段階は互いに繋がって一つの実体を成し、いずれも一つの神の働きである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分割されている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりの働きであり、恵みの時代になされた働きは贖いの働きだった。この六千年にわたる経営計画全体の働きのビジョンについては、誰も識見や理解を得ることはできない。それらのビジョンは神秘的なままである。終わりの日においては、神の国の時代を始めるべく言葉の働きだけがなされるものの、それはすべての時代を表わすものではない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもない。また恵みの時代や律法の時代を表わすものでもない。終わりの日には六千年にわたる経営計画のすべての働きがあなたがたに表わされる、というだけのことである。それは奥義のヴェールを取り除くことである。このような奥義について、人がそのヴェールを取り除くことはできない。人が聖書についていかに深く理解していても、その理解が言葉以上のものになることはない。人は聖書の本質を理解していないからである。人は聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、いくつかの言葉を説明したり、有名な聖句や章を細かく調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。なぜなら、人が見ているのはどれも死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人にはそのような働きの奥義を解明する術がないからである。よって、六千年にわたる経営計画の奥義は最も偉大な奥義であり、最も深く隠されていて、人にはまったく理解できないものである。神自身が人に説明して明かさない限り、誰も神の旨を直接把握することはできない。さもなければ、それらは永遠に人間にとって謎のままで、封印された奥義であり続けるだろう。宗教界の人たちはさておき、あなたがたも今日まだ伝えられていなかったなら、把握することはできなかっただろう。この六千年の働きは、預言者たちによるすべての預言よりも神秘に満ちている。これは天地創造から現在に至る中で最大の奥義であり、歴代の預言者の誰も理解できたことがない。なぜなら、この奥義は最後の時代においてのみ解明され、それまでに明らかにされたことがないからである。あなたがたがこの奥義を把握し、完全に受け取ることができるならば、宗教の人々も残らずこの奥義によって征服されるだろう。この奥義だけが最も偉大なビジョンであり、人間はそれを理解したいと強く渇望するが、それはまた人間にとって極めて不明瞭なものである。恵みの時代、イエスの行なった働きは何か、ヤーウェの行なった働きは何かをあなたがたは知らなかった。人々は、ヤーウェが律法を定めたのはなぜか、律法を守るよう大衆に命じたのはなぜか、神殿を建てなければならないのはなぜかを理解せず、ましてやイスラエル人がエジプトから荒れ野に連れ出され、その後カナンへと導かれたのはなぜかも理解しなかった。この日に至るまで、これらのことが明らかにされることはなかったのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 171

聖霊から特別な指示と導きを与えられている人を除けば、自立して生きられる人間は一人もいない。なぜなら人間には、神に用いられている人々の働きと牧養が必要だからである。そのため神は各時代に様々な人を起こし、神の働きのために教会を牧養するという仕事に没頭させる。つまり神の働きは、神が好ましく思い、神が認める人々を通じてなされなければならないのである。聖霊が働きを行なうには、そうした人々の中にある、用いるのに相応しい部分を使う必要があり、彼らは聖霊によって完全にされることで、神に用いられるのに適した者となる。人間はあまりにも理解力に欠けているため、神が用いる人々によって牧養されなければならない。それは神がモーセを用いたのと同じことである。当時、神は用いるのに適した多くのものをモーセの中に見出し、それを用いてその段階の働きを行なった。この段階において、神は人を用いるとともに、その人のうち、聖霊が働きに利用できる部分を活用する。また、聖霊はその人を指導すると同時に、用いることのできない残りの部分を完全にする。

神によって用いられる人が行なう働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。その人は人間の中で神によって起こされた者であり、神の選民を残らず率いるために存在しており、また人間による協力の働きを行なうよう神に起こされた者でもある。このような、人間による協力の働きを行なえる人を用いることで、人間に対する神の要求と、聖霊が人間の中で行なわねばならない働きが、その人を通じてさらに多く実現される。別の言い方をすれば、神がその人を用いる目的は、神に従う者全員が神の旨をよりよく理解し、神の要求をより多く達成できるようにすることなのだ。人々は神の言葉や神の旨を直接理解することができないので、神はそうした働きを行なわせるために用いる人を起こしたのである。神に用いられるこの人は、神が人々を導く際の媒体とも、神と人との意思疎通を図る「翻訳者」とも言える。そのためこうした人は、神の家で働く者たちや神の使徒である者たちとは異なる。こうした人も彼らと同様、神に奉仕する人だと言えるものの、その働きの本質と神に用いられる背景において、他の働き手や使徒とは大きく異なる。その働きの本質と神に用いられる背景について言えば、神に用いられる人は神によって起こされ、神の働きのために神によって用意され、神自身の働きに協力する。その人に代わってその仕事を行なえる者は決していないだろう。それが、神性の働きとともに欠くことのできない人間の協力である。一方、他の働き手や使徒が行なう働きは、教会に関するその時々の取り決めについて、その多くの側面を伝えて実行するもの、さもなければ教会生活を維持するためのちょっとした単純ないのちの施しの働きである。そうした働き手や使徒は神に任命されるのではなく、ましてや聖霊に用いられる者と呼ぶことはできない。彼らは教会の中から選ばれ、一定期間の訓練を受けて養成された後、適した者が残され、適していない者は元いた場所に帰される。こうした人々は教会の中から選ばれるため、中にはリーダーになるとその本性を現わす者もおり、様々な悪事を働いて最終的に淘汰される者すらいる。一方、神に用いられる人は神によって用意された人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせている。その人はあらかじめ聖霊によって用意され、完全にされており、ひとえに聖霊によって導かれ、特にその働きについては聖霊から指示と命令を受ける。その結果、神の選民を導く道から逸れることは一切ない。なぜなら神は自らの働きに必ずや責任をもち、常に自らの働きを行なっているからである。

『神の出現と働き』「神が人間を用いることについて」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 172

聖霊の流れにおける働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の実質は霊であり、聖霊あるいは七倍に強化された霊と呼ぶことができる。とにかく、それは神の霊であり、時代によって神の霊は異なる名前で呼ばれてきた。それでもその実質は一つである。したがって、神自身の働きが聖霊の働きである一方、肉となった神の働きは働いている聖霊に他ならない。用いられている人の働きも聖霊の働きである。しかし、神の働きは聖霊の完全な表現であり、絶対に真実である一方、用いられている人の働きには多くの人間的なものが混ざっており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されない。聖霊の働きは人によって変化し、異なる本質を示すとともに、時代により異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で多くの原則に従って働くにもかかわらず、働きがどのように、どのような人に行われようと、その本質は常に異なる。異なる人に行われる働きにはすべて原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きの範囲がはっきり限定されており、かなり慎重だからである。受肉した肉において行われる働きは、人を対象とする働きと同じではなく、その働きも対象の人の素質に従って変化する。受肉した肉でなされる働きは人には行われず、人間の姿をした肉では、人への働きとは同じではない。簡潔に言えば、どのように行われようとも、異なる対象に対してなされる働きは決して同じではなく、働きの原則も働きの対象であるさまざまな人の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は人の本来からある実質に基づいてさまざまな人に働きかけ、その実質を越える要求はせず、その人に本来備わっている素質を越える働きかけもしない。そこで、聖霊の人への働きによって、人はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人に本来備わっている素質は限られている。聖霊は人の素質の限界に応じて人を用いるか、あるいは人に対して働き、人が働きから恩恵を受けられるようにする。用いられる人に聖霊が働きかけるとき、その人の才能も生まれながらの素質も解き放たれ、保留されることはない。その人の生まれながらの素質は働きに役立たせるために引き出される。聖霊は働きにおいて成果を達成するために人の利用できる部分を使って働くと言ってもいいかもしれない。対照的に、受肉した肉において行われる働きは聖霊の働きを直接表し、人間の心や考えが混じり込んでいることはない。また、人の賜物や経験、あるいは生来の条件はそれに到達できない。聖霊の無数の働きはすべて、人に恩恵を与え、啓発することを目指している。しかしながら、完全にされる人もいれば、完全にされるための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完全にされることはなく、救われることなど到底なく、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、最終的には淘汰される。すなわち、聖霊の働きは人を啓発することだが、聖霊の働きを持った人すべてが余すところなく完全にされると言うことはできない。なぜなら、多くの人が追求する道は完全にされることを目指す道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的な働きを持っているだけで、主観的な人間の協力も正しい人間の追求ももたない。そのため、このような人への聖霊の働きは完全にされる人の役に立つことになる。聖霊の働きは人には直接見えず、直接触れることもできない。それは働きの賜物を持つ人にだけ表現することができる。つまり、聖霊の働きは人が行う表現を通して追随者に与えられるのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 173

聖霊の働きはさまざまな種類の人や多くの異なる条件によって達成され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体に人が入っていくことを表すことができるが、人の入りに関する詳細に作用する働きはやはり、肉となった神ではなく、聖霊に用いられている人が行う必要がある。つまり、神の働き、あるいは神自身の職分は肉となった神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なる種類の人を通して完成される。ただ一人の人が全体を達成したり、完全に表したりすることはできない。教会を導く人たちも完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きがいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは三つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられている人たちの働き、聖霊の流れの中にいるすべての人に作用する働きに分けることができる。神自身の働きは時代全体を導くことである。用いられている人たちの働きは、神が働きを行った後に送り出されたり、任務を受けたりすることによって神の追随者全員を導くことであり、彼らは神の働きに協力する人である。流れの中にいる人たちに作用する聖霊の働きは、その働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体と証しを維持し、それと同時に完全にされることのできる人たちを完全にすることである。これら三部分が一緒になって聖霊の完全な働きとなるが、神自身の働きがなければ、経営の働きはすべて停滞してしまうであろう。神自身の働きは全人類の働きを含み、時代全体の働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きにおけるあらゆる動態と傾向を表す一方で、使徒の働きは神自身の働きの後に来てそれに続き、時代を導くことも一つの時代全体における聖霊の働きの傾向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、それは経営の働きとは何の関係もない。神自身の働きは、経営の働き内の事業である。人の働きは用いられている人たちの本分でしかなく、経営の働きとは何の関係もない。正体と働きの表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で実質的な違いがある。さらに、異なる正体をもつ対象への聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 174

人の働きは人の経験と人間性を意味する。人が提供するものと人が行う働きは人を表す。人の見識、論法、論理、豊かな想像力はすべて人の働きに含まれる。人の経験は特に人の働きを意味することがあり、ある人の経験はその働きの構成要素になる。人の働きはその人の経験を表すことがある。人が消極的な経験をすると、その人の交わりにおける言語のほとんどは消極的要素で構成される。その人の経験がしばらくのあいだ積極的で、とりわけ積極的な側面に道を獲得していれば、その人の交わりは極めて励みになり、他の人たちはその人から積極的な施しを得られる。働き手がしばらくのあいだ消極的になれば、その人の分かち合いはいつも消極的要素を含む。このような交わりは重苦しいもので、他の人たちはその人の話の後は無意識のうちに気が滅入ってしまう。追随者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が内面はどのような人であれ、それがその人の表現するものであり、聖霊の働きは人の状態とともに変化することが多い。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合いは神の言葉とは違うのである。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きに基づいたその人の見識や経験を表す。人の責任は、神の働きや談話の後で、そのうちの何を実践し何に入っていくべきかを見つけ、それを追随者に伝えることである。したがって、人の働きは人の入りと実践を表している。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えもいくらか混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようとも、肉となった神において働こうとも、働き手は必ず自分が何であるかを表わすことになる。働くのは聖霊であるが、働きは人の本質を基盤としている。なぜなら聖霊は基盤なしには働かないからである。言い換えれば、働きが無から生じることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じて行われる。このようにしてのみ、人の性質は変化することができ、人の古い観念や思考も変えることができる。人が表すものは人が見、経験し、想像できるものであり、それが教義あるいは観念であっても、人の思考により到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像あるいは構想の範囲を越えることはできない。神が表すものはすべて神自身そのものであり、これは人には達成できない。つまり、人の考えの及ばないものである。神は全人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人が表現することは人の経験であり、神が表現することは神の存在そのものである。それは神に固有の性質であり、人には届かないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した人の見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。人の表現の基盤は人に本来備わっている性質や素質である。そのため、それも人の存在と呼ばれるのである。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは思考が到達できないもの、自分の心の中にないものについて話せる人は誰もいない。人が表すものが経験に由来していなければ、それは想像あるいは教義である。簡単に言うと、その言葉には現実性がない。社会の物事と接触がなかったなら、社会の複雑な関係について明確に話すことはできないであろう。家族がないのに、他の人たちが家族問題について話していたら、その話の大半を理解できないであろう。だから、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表すのである。誰かがその人が刑罰や裁きをどのように理解しているかを話しているのに、あなたにその経験がないならば、あなたはその人の認識を厚かましくも否定しないであろうし、ましてや100%それについて確信することもない。それは、その人が交わることはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らないもので、あなたの思考では想像できないものだからである。その人の認識からあなたが得られることは、将来において刑罰や裁きを経験するための道だけである。しかし、この道は教義的な理解になりえるだけで、あなた自身の認識に取って代わることはできないし、ましてや経験に取って代わることは到底できない。その人の言うことをまったく正しいとあなたは思うが、自分で経験すれば、多くの点でそれが実行不可能であるとわかるかもしれない。耳にすることの一部は完全に実行不可能だと感じるかもしれない。話を聞いた時点では、それについて観念を抱き、受け入れはするが、しぶしぶ受け入れるだけであるが、自分が経験してみると、観念の源となった認識があなたの実践方法になり、実践すればするほど、聞いた言葉の本当の価値と意味をあなたは理解するようになる。自分で経験をした後は、経験したことから得ているはずの認識について話すことができる。さらに、認識が現実的で実際的な人と、認識が教義に基づいていて価値がない人を区別できるようにもなる。そこで、表明する認識が真理と一致するかどうかは、その実際的経験があるかどうかに大いに左右される。経験に真理があるならば、その認識は実際的で価値がある。経験を通して識別力や洞察をも得ることができ、認識を深め、いかに行動するべきかということに関して知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人が表す認識は、どれほど高尚であろうと、教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人は霊的な事柄の経験がまったくないからである。その人は霊的問題においては啓かれておらず、霊的な事柄を理解していない。どのような認識を表していようと、それがあなたの存在そのものである限り、それはあなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人、つまり真理も現実も所有していない人が話すことも、その人の存在そのものと呼ぶことができる。なぜならその人の教義は深い熟考を通してのみたどりついたもので、深い思考の結果だからである。とは言え、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 175

様々な人の経験は、その人の内部にあるものを表している。霊的経験のない人は誰も真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的な事柄についての正しい認識についても話すことはできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的な事柄や真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生活における常識について明確に話すことができなければ、霊的な事柄について話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人には実際の経験がなくてはならない。また、霊的な事柄を正しく理解し、真理の正しい認識と経験もなくてはならない。そのような人だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うことができるだけで、導くことはできず、ましてや人にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の役割は走りまわったり、戦ったりすることではなく、いのちの世話をする働きをし、性質の変化において他の人たちを導くことだからである。この役割を果たす人は重い責任を背負う任務を与えられていて、これは誰もが背負えるわけではない。この種の働きはいのちを持つ人、すなわち真理の経験を持つ人のみが請け負うことができる。ただ何かを諦めることのできる人、走りまわれる人、自分自身を喜んで費やすことができる人ならばできるということはない。真理の経験のない人、刈り込まれたり裁きを受けたりしたことのない人はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人は現実性がないが、現実をはっきり見ることができないのは、彼ら自身にこのような本質がないからである。つまり、この種の人は指導的な働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を得ないままであれば、淘汰されることになる。あなたが表す見識は、あなたが人生で経験してきた困難、どのようなことで刑罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかの証拠になりえる。これは試練にもあてはまる。人がどこを精錬されるか、どこが弱いかが、人が経験をする場所、道を得る場所である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は、「神に感謝。神を称えよ。わたしは神の心の願望を満足させ、わたしの人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければならない。わたしは喜んで全人生を神に差し出します」のようによく言う。人の中にあるすべてのものは、交わりを通してその人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、このようなことは経験に関係なく、その人の持つものやその人そのものを表すことはできない。その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、その人に経験があるかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは自分が重要と思うことや自分の内なるすべてについて話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではない。それはまた、人が触れることができるものでもなく、わたしそのものである。わたしが話すことはわたしが経験したものであることだけは認めるが、それが聖霊の直接的表現であることを認識しない人がいる。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。六千年にわたり経営の働きをしてきたのはわたしである。人類創造の初めから今に至るまで、わたしはあらゆることを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性といえば、わたしははっきり見たし、長いあいだ観察した。それについて明確に語れないわけがあろうか。人の本質を明確に見てきたので、わたしには人を罰したり裁いたりする資格がある。人はすべてわたしから来たのに、サタンに堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行なってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉が行うことではないが、霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、それを表し行うべき働きを行う資格がわたしにはある。人が言うことは自分が経験してきたこと、見てきたもの、人の精神が到達できるもの、人の感覚で探知できるものである。これが人が語ることができるものである。神の受肉した肉が語る言葉は霊の直接的表現であり、それらは霊によってなされた働きを表す。肉はそれを経験しても見てもいないが、それでも神はその存在を表す。その肉の実質は霊であり、神は霊の働きを示すからである。肉では到達できなくても、それは霊によってすでに行われた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人に神の存在を知らしめ、人に神の性質、ならびに神がした働きが見えるようにする。人の働きによって、人は自分が何に入っていき、何を理解するべきかをさらに明確にすることができる。それには、真理を理解し経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道と新しい時代を開き、普通の人間には知られていないことを人々に明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは全人類を導くことである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 176

聖霊の働きはすべて、人に恩恵を与えるためになされる。すべて人を啓発することである。人に恩恵をもたらさない働きはない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人の素質がどうであろうと、聖霊が何をしようと、それは人に有益である。しかし、聖霊の働きは直接行うことはできず、聖霊と協力する人を通して表現されなければならない。このようにしてのみ、聖霊の働きの成果が得られる。もちろん、聖霊が直接働きを行うのであれば、そこに混ぜ物は一切入っていない。しかし、聖霊が人を通して働きを行なうと、非常に汚れてしまい、聖霊本来の働きではなくなる。そのため、真理はさまざまな程度に変化する。追随者は聖霊の本来の意図ではなく、聖霊の働きと人の経験および認識の結合したものを受け取る。追随者が受け取るもののうち、聖霊の働きである部分は正しい。一方、彼らが受け取る人の経験と認識は、働き手により異なる。聖霊に啓かれ導かれる働き手は、この啓きと導きに基づいて経験をする。この経験において、人の精神と経験、さらには人間性の本質が結合し、その後、人は持つべき認識と見識を獲得する。このように、人は真理を経験した後に実践する。人により経験は異なり、経験する事柄も同じではないので、この実践方法はいつも同じとは限らない。こうして、聖霊に同じように啓かれても、認識や実践が異なる結果になるのは、啓きを受ける人が異なるからである。実践中にあまり間違いを犯さない人もいれば、大きな間違いを犯す人もいるし、なかには間違いしか犯さない人もいる。これは人の理解力の差であり、またその人に本来備わっている素質も異なるからである。ある言葉を聞いて、ある意味に理解する人もいれば、真理を聞いて別の意味に理解する人もいる。少し逸れる人もいれば、真理の本当の意味をまったく理解しない人もいる。したがって、人が他の人たちをどのように導くかは、その人の理解によって決まる。これがまさしく本当であるのは、人の働きはその存在を表すからである。真理を正しく理解している人に導かれた人たちは、やはり真理を正しく理解する。理解に誤りがある人もいるが、それはごくわずかであり、すべての人が誤った理解をするわけではない。真理の理解に誤りがあれば、その人に従う人たちにも疑いなく誤りがあり、このような人たちはあらゆる意味において誤っている。追随者がどの程度真理を理解するかは、おもに働き手によって決まる。もちろん、神からの真理は正しく、間違いはなく、それは絶対的に確かである。しかし、働き手は完全に正しいわけではなく、完全に信頼できるとは言えない。働き手が非常に実際的な真理の実践方法を持っていれば、追随者も実践方法を持つ。働き手が真理の実践方法を持たず、教義しか持ち合わせていなければ、追随者には現実性がまったくないことになる。追随者の素質と本性は生まれながらに決まっていて、働き手との関連性はない。しかし、追随者がどの程度真理を理解し、神を知るかは働き手次第である(これは一部の人だけに当てはまる)。働き手がどのような人であるかによって、その人の導く追随者がどのよう人であるかも決まる。働き手が表すことはその人自身の存在であり、余すところなく表す。働き手が追随者に出す要求は、その人自身が達成したいこと、達成できることである。追随者にはまったく達成できないことが多々あるにもかかわらず、そして達成できないことが入りへの障害になるにもかかわらず、働き手のほとんどが自分がすることに基づいて追随者に要求を出す。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 177

刈り込み、取り扱い、裁き、そして刑罰を経験した人の働きには逸脱がずっと少なく、その働きの表現はずっと正確である。働きにおいて自分のありのままの特質に依存している人はかなり重大な間違いを犯す。まだ完全にされていない人の働きには、その人自身のありのままの特質が過剰に表され、それが聖霊の働きへの大きな障害となる。素質がいかに優れていようと、人が神に託された働きを行なえるようになるには、刈り込みと取り扱いと裁きを経験しなければならない。そのような裁きを受けていない人の働きは、どれほど立派に行われても、真理の原則と一致することはできず、常にその人自身がもつ本来の自然さの産物であり、また人間的な善良さである。刈り込み、取り扱い、そして裁きを受けた人の働きは、刈り込みや取り扱いや裁きを受けたことのない人の働きよりもはるかに正確である。裁きを受けなかった人は、人間の肉と考えしか表現せず、それには人間的知力と生まれながらの才能がかなり混ざっている。これは人が神の働きを正確に表現したものではない。このような人に従う人たちは、その人の生まれながらの素質ゆえにその人のところに来る。その人は人間の見識や経験を過剰に表し、しかもそれは神の本来の意図とはほとんど切り離され、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、むしろ人間の前に連れてきてしまう。そのため、裁きや刑罰を受けていない人には神に託された働きを実行する資格がないのである。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。完全にされていない人の働きには本来の性格が多すぎる。あまりにも多くの人間の意志が混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものである。取り扱いを経験した後のいのちでも、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追求している人々を支えることができるであろうか。人の本来のいのちはその人の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に的確に要求するものとはほど遠い。人がまだ完全にされておらず、その堕落した性質が刈り込まれても取り扱われてもいなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがある。人が表すものは人の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っている。そのうえ、その人がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的やすべての人が入っていくべき真理などはないと感じている。人への要求の大半は、その能力を超える。これは止まり木に追い立てられるアヒルを思わせる。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや観念は人体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を生まれながらに持っておらず、真理を直接理解する本能もない。それに人の堕落した性質を合わせれば、この種の自然のままの人が働くと、妨害を生じさせないであろうか。しかし、完全にされた人は、人が理解するべき真理を経験しており、人の堕落した性質を知っている。そのため、その人の働きにおける漠然として非現実的な事柄は次第に減少し、人間的なものによる汚れは少なくなり、その人の働きと奉仕は神が求める基準に近づいていく。こうして、その人の働きは真理現実に入っており、また現実的になっている。特に人の思考にある考えは聖霊の働きを妨害する。人には豊かな想像力と合理的論理があり、また物事を取り扱ってきた長い経験がある。人間のこのような側面が刈り込みと修正を受けなければ、それはすべて働きの障害である。したがって、人の働き、特にまだ完全にされていない人の働きは、正確さについては最高規準に到達することはできないのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 178

人の働きはある範囲内にとどまり、限界がある。一人の人ではある一段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない。さもなければ、その人は他の人たちを規則の中へと導くであろう。人の働きはある特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に当てはまる。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊に啓かれることができるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間性の範囲内にあり、通常の人間の心にある考えの範囲を越えることはできない。真理現実を生きられる人はみなこの範囲内で経験する。人が真理を経験するとき、それはいつも聖霊に啓かれた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。人は人間生活を生きている基盤の上で聖霊に啓かれた真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。人が歩む道は真理を追求する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊に啓かれた通常の人間が歩む道と呼んで差し支えないと言えるだけである。人が歩む道は聖霊が歩む道であるとは言えない。通常の人間の経験では、追求する人は一人ひとり異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、人が経験する環境や経験の範囲は同じではなく、人の精神や考えが混ざり合うため、その経験もさまざまな程度に混ざり合っている。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、真理の側面のうち一つだけ、あるいはいくつかを理解するにすぎない。人が経験する真理の範囲は各人の条件に沿って一人ひとり異なる。こうして、同じ真理についての認識でも、異なる人が表せば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心意にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊による人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとみなすこともできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊に啓かれた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の窓口となる条件を満たさない。人の働きは神の働きであると人が言う資格はない。人には人の働く原則があり、すべての人には異なる経験があり、さまざまな条件がある。人の働きには聖霊に啓かれたその人の経験のすべてが含まれる。この経験は人の存在を表すだけで、神の存在あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道と言うことはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法は限られた範囲に限定されてしまいがちで、人を自由な道に導くことはできない。ほとんどの追随者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道も範囲が限られている。人の経験はいつも限られている。人の働く方法も何通りかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない。人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それは規則に縛られない。どのようになされようと、神の働きは唯一の方法に限られない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて解放されており自由である。どれほど長い時間をかけて神に従おうとも、人は神が働く方法を司るいかなる規律も抽出することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲を越える。一期間に神はいくつかの異なる種類の働き、人の異なる導き方を示すことがあり、人が常に新しい入りや新たな変化を達成できるようにする。神の働きの規律を見つけ出すことはできないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の追随者は規則に縛られないで済む。神自身の働きはいつも人の観念を避け、無効にする。真の心で神に従い、神を追い求める人だけが性質を変えることができ、いかなる規則にもさらされず、いかなる宗教的観念にも束縛されず、自由に生きることができる。人の働きはその人自身の経験およびその人自身が達成できることに基づいて他の人に要求する。この要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって追随者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれは規則と儀式になる。一期間の働きを、神に直接に完全にされることを経験しておらず、裁きを受けていない人が導くと、その追随者はみな宗教家、神に抵抗する専門家になる。したがって、資格のある導き手は裁きを経験しており、完全にされることを受け入れた人でなくてはならない。裁きを経験していない人は、聖霊の働きを持っているとしても、曖昧で非現実的なことしか表せない。時が経つにつれて、このような人は他の人たちを曖昧で超自然的規則に導く。神が行う働きは人の肉と一致しない。人の考えとも一致せず、人の観念に反する。それは曖昧な宗教色で汚されていない。神の働きの成果は、神に完全にされていない人には達成不可能であり、人の考えの及ばないものである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 179

人の頭脳内の働きは人にはあまりにも容易に達成できる。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場に依存して働く。長い間彼らに従う人は、その才能に感化され、その存在の一部に影響を受ける。彼らは人の才能、能力、知識に重点を置き、超自然的なものや多くの深遠で非現実的な教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人の性質の変化に注目せず、むしろ人が説教し働くようになるような訓練に注目し、人の知識を向上させ豊富な宗教的教義を充実させようとする。人の性質がどのくらい変化するかや、人がどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人の実質には関心を持たず、ましてや人の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人の観念に反論せず、観念を明らかにもしないし、ましてや人の欠点や堕落を刈り込んだりはしない。彼らに従う人のほとんどは自分の才能をもって奉仕し、彼らが放つのは宗教的な観念と神学的な理論だけであり、それは現実とは離れており、人にいのちを与えることはまったくできない。実際、彼らの働きの実質は才能を育むこと、何もない人を、後に働いて他者を導くことになる有能な神学校卒業生に育てることである。六千年に及ぶ神の働きにおいて、あなたは何か規律を見つけ出すことができるのか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳はあまりに教条主義的である。ゆえに、人が表すことはその人の経験の範囲内にある理解と認識であり、これから離れては人は何も表すことができない。人の経験あるいは認識は、生まれながらの才能や本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる能力を持っているだけで、神性とは何であるかを直接表すことのできる能力は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき能力である。神の言葉を受け入れる能力を失い、人間の本能を失った人はもっとも貴重なものも失い、被造物である人としての本分を失う。神の言葉または神の働きについての認識や経験がない人は、その本分、つまり、被造物として行うべき本分を失い、被造物としての尊厳を失う。肉において表されようと、霊に直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職分である。人は自分自身の経験や認識(つまり自分は何であるかということ)を神の働きの間かその後に表す。これは人の本能であり本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものは多くの規則に縛られているが、人は果たすべき本分を果たすべきであり、しなければならないことをしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、このことをほんの少しでさえもためらってはならない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 180

あなたがたは神の働きと人の働きを区別できなければならない。人の働きに何を見ることができるか。人の働きには人の経験による要素がたくさんある。人が表すものはその人の存在そのものである。神自身の働きも神の存在そのものを表すが、神の存在そのものは人の存在そのものとは異なる。人の存在そのものは人の経験や生涯を表し(生涯においてその人が経験し遭遇するもの、あるいはその人の処世哲学)、住む環境が異なれば、異なる存在そのものを表す。あなたに社会的経験があるか否か、家族の中で実際どのように生活し経験しているかは、あなたが表すものの中に見ることができるが、肉となった神の働きにおいて神に社会的経験があるか否かを見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人に関連するあらゆる種類の実践を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人のそばには住まわないが、人間の本性や世俗的な人の堕落のすべてを承知している。これこそが神という存在である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目には見えず、人の耳には聞こえない聖霊の働きについて、現在のものも過去のものも知っている。これには処世哲学ではない知恵や、人には到底理解できないふしぎも含まれている。これが人に開かれており、また隠されてもいる神という存在である。神が表すものは特別な人の存在そのものではなく、霊に本来備わっている特質と存在そのものである。神は世界中を巡回しないが、世界のすべてを知っている。神は知識も識見もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超える言葉を語る。人間性がなく、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人の集団の中で神は暮らすが、人類に通常の人間性を生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにすることができる。このすべてが、いかなる生身の人間の存在よりも高い、神という存在である。行うべき働きを行い、堕落した人類の本質を余すところなく明らかにするために、複雑でめんどうで浅ましい社会生活を経験することは神にとって不必要である。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き裁くことは、神の肉の経験を表現することではない。それは神が人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌った果てに、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 181

神が行う働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表すことができる一方、人は真理を経験したことに対応する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分の存在そのものを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と状況がある。これなしには人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。何かが神自身の働きであるか、人の働きであるかを見極めるためには、両方の違いを比較するしかない。神自身による働きがなく、あるのは人の働きのみであれば、人の教えは高度で、誰の能力も及ばないことがわかるだけである。人の話す調子、物事を扱う際の原則、経験豊かで落ち着いた働きの態度は、他の人たちには及ばないことがわかる。あなたがたはみな優れた素質と高尚な知識を持つこのような人を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は平凡であり、働くときは普通で現実的だが、人間には計り知れず、そのため、人はある種の畏敬の念を神に抱く。ある人は働きの経験が特に高度で、想像力や論理的思考も特に高度で、人間性が特に良いかもしれない。このような属性は人の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。よく働くことができ、特に深い経験があり、真理を実践できる人は誰もが称賛するが、そのような人は畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人は神を称賛せず、その代わりに神の働きは人間には及ばず、人間には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人が神の働きを経験すると、神について最初に得る認識は、神は計り知れず、知恵に満ちて素晴らしいということであり、人は無意識のうちに神を敬い、神の働きの奥義を感じる。それは人の理解の及ばないものである。人は神の要求に応じられること、神の願望を満たせることだけを望み、神を超えたいとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことなどできないからである。人自身も自分の欠点を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をさらに新しくさらに美しい世界へと伴い、それにより人類は新たに進歩し、新たに出発した。神に向かって人が感じるのは称賛ではなく、と言うよりは、称賛だけではない。人がもつもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、人の抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人にはできない働きを行い、人には言えないことを言う。神の働きを経験した人はいつも言葉では言い表せない感情を抱く。十分に深い経験をした人は神の愛を認識できる。このような人は神の素晴しさを感じ、神の働きは知恵に満ち、極めて素晴らしいと感じることができ、それによって彼らの間に限りない力が生み出される。それは恐れでも偶発的な愛や尊敬ではなく、神の人への憐れみと寛容を深く感じることである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人は神の威厳を感じ取り、神は一切の背きを許さないと感じる。神の働きを多く経験してきた人でさえ、神を完全に理解することはできない。本当に神をあがめる人はすべて、神の働きは人の観念とは一致せず、必ず人の観念に反することを知っている。人が神を全面的に称賛したり、神に服従しているように見せたりすることを神は必要とせず、むしろ人は真の畏敬の念を抱き、本当に服従するべきである。神の働きの大部分において、本当の経験を持つ人は誰でも神への畏敬の念を感じるが、それは称賛よりも高い。人は神の刑罰と裁きの働きによって神の性質を見た。したがって心の中で神を畏れる。神があがめられ、従われるのは、神の存在そのものと性質が被造物のものとは同じでなく、それを上回っているからである。神は独立的に存在しており、永遠であり、創造されていない存在であり、神のみが畏敬の念と従順を受けるに値する。人にはその資格がない。そのため、神の働きを経験し、本当に神を知る人はすべて神への畏敬の念を感じる。しかし、神についての観念を捨てない人、つまり断じて神を神とみなさない人は、神への畏敬の念をまったく抱かず、神につき従っていても征服されていない。彼らは生まれつき不従順である。神がこのように働くことで達成しようとしているのは、すべての被造物が創造主への畏れの心を持ち、創造主を崇拝し、無条件に神の支配に服従するようになることである。これが神のすべての働きが達成すべき最終的結果である。もしそのような働きを経験した人が、たとえ少しでも神を畏れず、もしその人の過去の不服従がまったく変わらなければ、その人は必ず淘汰される。人の神に対する態度が遠くから称賛したり、尊敬の念を示したりするだけで、少しも神を愛さないならば、これは神を愛する心のない人の達する結果であり、その人は完全にされるための条件に欠けている。それだけの働きがあっても、ある人の真の愛を得られないならば、それはその人が神を獲得しておらず、心から真理を追求していないのである。神を愛さない人は真理を愛さず、したがって神を獲得することはできず、ましてや神の承認を得ることはできない。そのような人は、どのように聖霊の働きを経験しようとも、どのように裁きを経験しようとも、神を畏れることはできない。これは本性を変えることができない人、極めて邪悪な性質の人である。神をあがめない人はすべて淘汰され、懲罰の対象になり、悪事を働く者と同様に罰せられ、不正なことをした人よりもはるかに苦しまなければならない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 182

結局、神の働きは人間の働きと違うのであり、またそれ以上に、神の表現が人間の表現と同じであるなどどうしてあり得ようか。神には神自身に特有の性質があり、人には尽くすべき本分がある。神の性質は神の働きに表われ、人の本分は人の経験において具現化し、人が追求することに表われる。したがって、なされる働きを通じて、あることが神の表現なのか人間の表現なのかが明らかになる。それを神自身が説明する必要はなく、人間が努力して証しする必要もない。そのうえ、神自身が人を押さえつける必要もない。それはどれも自然に明らかになるのであり、強制されるものでも、人間が干渉できるものでもない。人の本分はその経験を通じて知ることができ、人が追加の実験的な働きを行なう必要はない。人の本質はすべて、人が本分を尽くしていると明らかになることがある。一方、神はその働きを行ないつつ、神に固有の性質を表わすことができる。人の働きであれば、覆い隠すことはできない。神の働きであれば、神の性質を人が覆い隠すのはさらに不可能であり、ましてや人が操ることなどできない。神だと言える人は誰もおらず、人の働きや言葉を聖いものや不変のものとみなすこともできない。神は肉をまとったので人間だと言うことはできるものの、神の働きを人間の働きや人間の本分と考えることはできない。さらに、神の発した言葉とパウロの手紙を同等に扱うことはできず、神の裁きや刑罰と人間による教えの言葉を同列に語ることはできない。したがって、神の働きと人間の働きを区別する原則がある。両者は、働きの範囲や一時的な効率によってではなく、それぞれの本質に応じて区別される。この問題について、大半の人が原則を取り違えている。なぜなら、人は自分が成し遂げることのできる外面を見るが、神は人類の肉眼では観察できない本質を見るからである。神の言葉と働きを平均的な人の本分と見なし、人間による大規模な働きを人が尽くす本分でなく、肉をまとった神の働きと捉えるなら、原則を誤解しているのではないのか。人の手紙や伝記は簡単に書けるが、聖霊の働きを土台としなければならない。しかし、神の言葉と働きは、人間が容易に成し遂げられるものでも、人間の知恵や思考で実現できるものでもない。また、人が探求したところで徹底的に説明することもできない。このような原則に関することで、あなたがたに何の反応も起きないのであれば、あなたがたの信仰は真実でも、洗練されたものでもないことは明らかである。それは曖昧さに満ち、混乱して原則がないとしか言えない。神と人に関する最も基本的かつ本質的な問題さえも理解していなければ、そのような信仰には知覚が完全に欠けているのではないか。

『神の出現と働き』「十三通の手紙をいかにとらえるか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 183

イエスが地上にいたのは三十三年半であり、十字架の働きを成し遂げるために地上に来た。そしてイエスの磔刑を通して、神は栄光の一部を得た。肉において来たとき、神はへりくだって身を潜め、途方もない苦しみに耐えることができた。それは神自身だったが、なおもあらゆる辱めと罵詈雑言を耐え忍び、また贖いの働きを成し遂げるべく十字架にかけられる中で激痛に耐えた。この段階の働きが完結した後、神が大いなる栄光を得たのを人々は見たが、それが神の栄光のすべてではなかった。それは神の栄光のほんの一部に過ぎず、神はそれをイエスから得たのである。イエスは、あらゆる困難に耐え、へりくだって身を潜め、神のために磔刑に処されることができたものの、神は栄光の一部を得ただけで、その栄光はイスラエルで得た。神にはさらに別の栄光がある。それは、地上に来て実際に働き、人々の一集団を完全にすることである。イエスは自身の働きの段階において、超自然的なことをいくつか行ったが、その段階の働きは、しるしと奇跡を行うためだけでは決してなかった。それはおもに、イエスが苦しみ、神のために磔刑に処されることができたこと、神を愛するがゆえに極度の苦痛に耐えられたこと、そして神が彼を見捨てたにもかかわらず、神の旨のために喜んで生命を犠牲にしたことを示すためだった。神がイスラエルでの働きを終え、イエスが十字架にかけられた後、神は栄光を得て、サタンの前で証しした。あなたがたは、神が中国でどのように肉となったかを知らず、見てもいない。そうであれば、神が栄光を得たのを、どうしてあなたがたが見られようか。神があなたがたにおいて多くの征服の働きを行い、あなたがたがしっかりと立つとき、神のこの段階の働きは成功を収め、神の栄光の一部となる。あなたがたはこれだけを見るのであり、いまだ神によって完全にされていないし、心を完全に神に捧げてもいない。あなたがたはいまだこの栄光の全容を見ておらず、神がすでに自分たちの心を征服したこと、自分たちは決して神から離れられず、最後の最後まで神に従い、決して心変わりしないこと、そしてこれが神の栄光であることを知るだけである。あなたがたは何において神の栄光を見るのか。それは、人々における神の働きの成果においてである。人々は、神がとても愛しいことを見て、心の中に神を抱き、神から離れようとしない。これが神の栄光である。教会の兄弟姉妹の力が生じて、心から神を愛し、神による働きの絶大な力、神の言葉の比類なき力を見ることができるとき、神の言葉には権威があり、神が中国本土のゴーストタウンで働きに乗り出すことができるのを目の当たりにするとき、また、人々がその弱さにもかかわらず、神の前で心からひれ伏し、進んで神の言葉を受け入れるとき、そして、自分は弱くて価値がないにもかかわらず、神の言葉は極めて愛しく、大切にするだけの価値があるものだと理解できるとき、それが神の栄光である。人々が神によって完全にされ、神の前に身を委ね、完全に神に従い、自分の前途と運命を神の手に委ねることができる日が来るとき、神の栄光の第二部が完全に獲得されたことになる。つまり、実際の神による働きが残らず完結したとき、中国本土における神の働きは終了する。言い換えれば、神によって予め定められ、選ばれた人々が完全にされたとき、神は栄光を得たことになる。神は、栄光の第二部を東方にもたらすと語ったが、これは肉眼で見ることができない。神は自身の働きを東方にもたらした。つまり、神はすでに東方へと来たのだが、これは神の栄光である。今日、神の働きはまだ完成していないが、神が働くことを決めたので、それは必ずや成し遂げられる。神はこの働きを中国で完了させると決め、あなたがたを完全にすると決意した。従って、神はあなたがたに逃げ道を与えない。神はすでにあなたがたの心を征服したのだから、あなたは望もうが望むまいが、進み続けなければならない。そして、あなたがたが神のものとされるとき、神は栄光を得る。今日、神はいまだ完全なる栄光を得ていない。なぜなら、あなたがたがいまだ完全にされてないからである。あなたがたの心は神のもとに立ち返ったかもしれないが、あなたがたの肉にはいまだ多くの弱点があり、あなたがたは神を満足させることができず、神の旨を大切にすることもできず、自分から取り除かなければならない消極的な事柄がたくさんあり、数多くの試練と精錬を経なければならないからである。そうすることでのみ、あなたがたのいのちの性質は変わり、あなたがたは神のものとされることが可能になる。

『神の出現と働き』「『千年神の国が到来した』についての短い話」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 184

当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪ある人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。当時、イエスは弟子たちにとって不可解な働きを多数行ない、人々には理解できないことを数多く言った。これは当時イエスが何一つ説明しなかったからである。そのため、イエスが去ってから数年後、マタイがイエスの系図を作り、他の者も人間の意志による働きを数多く行なった。イエスは人を完全にして自分のものとするために来たのではなく、働きの一段階を行なうために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、磔刑の働きを完成させることであり、イエスが十字架にかけられた時点でその働きは完了している。しかし、現在の段階、つまり征服の働きにおいては、より多くの言葉が語られ、より多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。イエスとヤーウェの働きの奥義も明らかにされ、それによってすべての人が信仰において理解と明瞭さを得られるようにしなければならない。なぜなら、それは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、働きが完了するときだからである。働きのこの段階はあなたに対し、ヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にするだろう。この働きはおもに、あなたが神の六千年にわたる経営(救いの)計画の全体像を理解し、六千年の経営計画の意義と本質をすべて理解し、イエスによってなされたすべての働きとイエスが語った言葉の目的、そして聖書に対するあなたの盲目的な信頼と崇拝さえも理解するためである。それにより、あなたはそのすべてを完全に理解できるだろう。イエスによってなされた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるだろう。すべての真理、いのち、そして道を理解し、目の当たりにするだろう。イエスによってなされた働きの段階で、イエスはなぜ締めくくりの働きを行なわずに去ったのだろうか。それは、イエスによる働きの段階が完了の働きではなかったからである。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスの言葉もまた終わりを迎えた。磔刑の後、イエスの働きは完全に終わったのである。現段階は違う。言葉が最後まで語られ、神の働きの全体が完了したあと、そこでようやく神の働きは終わる。イエスによる働きの段階の期間、多くの言葉が語られないままだったか、あるいは明確に述べられなかった。しかしイエスの職分は言葉による職分ではなかったため、イエスは自分が何を語って何を語らなかったかは気にかけず、そのため、十字架にかけられた後に去って行った。その段階の働きはおもに磔刑のためであり、現段階とは異なる。この現段階の働きは、基本的には完了すること、片づけること、そしてすべての働きを終結させるためのものである。もし言葉が最後の最後まで語られないなら、この働きを終える術はないだろう。この段階の働きにおいて、すべての働きは言葉を用いて終わり、達成されるからである。当時、イエスは人に理解できない数多くの働きを行なった。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉を理解できない人が多数いる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることを知らない。最後の段階は神の働きを完全に終わらせ、その終結をもたらすだろう。すべての人が神の経営計画を理解し、知るようになるだろう。人の中にある観念、意図、間違っている馬鹿げた理解、ヤーウェとイエスの働きに関する観念、異邦人についての見方、そしてその他の逸脱と間違いは正されるだろう。そして人は人生の正しい道、神によってなされた働き、および真理をすべて理解するだろう。そうなったとき、この段階の働きは終わりを迎える。ヤーウェの働きは世界の創造であり、始まりだった。この段階の働きは働きの終わりであり、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選民のあいだで実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けだった。最後の段階の働きは、世界を裁き、時代を終わらせるために最も汚れた国で実行される。最初の段階において、神の働きは最も明るい地で行なわれたが、最後の段階は最も暗い地で実行され、この暗闇は一掃され、光がもたらされ、すべての人が征服される。この最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人が神の存在と誰が真の神であるかを認め、あらゆる人がすっかり確信したとき、この事実は征服の働きを全宇宙で行なうのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。ひとたびこの時代の働きが終わると、六千年にわたる経営の働きは完全に終わりを迎える。ひとたび最も暗いこの場所にいる人々が征服されると、他のあらゆる場所でもそうなることは言うまでもない。そのように、中国における征服の働きだけが、象徴としての意味をもつ。中国は闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる者、サタンの者、そして血肉による者を表わしている。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗し、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。だから彼らは堕落した全人類の典型なのである。これは、他の国々にはまったく問題がないということではない。人間の観念はどれも同じである。他国の人々は優れた素質をもっているかもしれないが、神を知らなければ、彼らは神に逆らっているはずである。なぜユダヤ人も神に逆らい、神を拒んだのか。なぜパリサイ人も神に逆らったのか。なぜユダはイエスを裏切ったのか。当時、弟子の多くはイエスのことを知らなかった。なぜ人々は、イエスが十字架にかけられ、そして復活した後でさえもイエスを信じなかったのか。人間の不服従はどれも同じではないのか。中国の人々は単にひとつの例にされたというだけである。征服されたとき、彼らは模範、見本となり、他の人々の参考として役立つだろう。あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると、わたしが常に言ってきたのはなぜか。堕落、汚れ、不義、敵対、そして反抗が最も完全に現われ、あらゆる形で示されているのは、中国の人々においてである。中国人は素質に乏しい一方、中国人の生活と考え方は遅れており、習慣、社会環境、そして生まれ育った家族など、すべてが劣っており、最も遅れている。地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きがすべて実行された後、神の次の働きはずっと簡単になるだろう。もしこの段階の働きが完了し得るなら、次の働きもそうなるのは言うまでもない。この段階の働きが達成されたなら、大いなる成功がおさめられ、全宇宙におよぶ征服の働きは完全に終わりを迎えるだろう。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 185

今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう。神は、あなたがた最も暗い所に落ち、最も遅れている人たちに働きを行なっているのである。この人たちは神が存在することを認めず、神が存在することを未だに知らずにいる。このような被造物は、神のことを忘れてしまうほどサタンに堕落させられている。彼らはサタンに盲目にされ、天に神が存在することを全く知らない。あなたがたは皆、心の中で偶像とサタンを崇拝している。あなたがたは最も賤しく、最も遅れた人間ではないのか。あなたがたは最も賤しい肉であり、個人的な自由などなく、また苦難している。また、あなたがたはこの社会において最低の地位にあり、信仰の自由さえない。ここにあなたがたに働きを行なう意義がある。今日モアブの子孫であるあなたがたに働きを行なうことは、故意にあなたがたを辱めるためではなく、働きの意義を明らかにするためである。それはあなたがたにとっては、大いに高く揚げられることである。理知と識見を備えている者ならば、次のように言うだろう。「わたしはモアブの子孫の一人で、今このように神に大いに高められたり、このような大きな祝福を受けたりするに値しない。わたしのあらゆる言動において、またわたしの地位と価値に基づけば、わたしは絶対そのような大きな祝福を神から受けるに値しない。イスラエル人には神への大きな愛があり、彼らが享受する恵みは神が授けるものだが、彼らの地位はわたしたちよりも遥かに高い。アブラハムはヤーウェにとても献身的であり、ペテロはイエスにとても献身的であった。彼らの献身は、わたしたちの献身の百倍であった。わたしたちの行動に基づけば、わたしたちは神の恵みを享受するに全く値しない」。中国のこの人たちの奉仕は、神の前にさし出すことなど到底できない。それは全く混乱している。今それほど神の恵みを享受しているのは、まさしく神に高く揚げられているのである。いつあなたがたが神の働きを求めたのか。いつ神のために命を犠牲にしたのか。いつ家族や両親、子をためらうことなく捨てたのか。大きな代価を払った者は一人もいない。聖霊に連れ出されていなかったならば、あなたがたのうち何人が全てを犠牲にできていたであろうか。あなたがたが今日まで従ってきたのは、ただ強制され、強要されたからである。あなたがたの献身はどこにあるのか。服従はどこにあるのか。あなたがたの行動に基づくと、あなたがたは遥か以前に滅ぼされ、一人残らず一掃されていたはずである。どのような資格があって、これほど大きな祝福を享受できるというのか。あなたがたにはほんの少しもそんな価値はない。あなたがたのうち誰が自分の道を作り出したのか。あなたがたのうち誰が自力で真理の道を見つけたのか。あなたがたは皆、怠惰で貪欲で、楽をしたがる恥知らずである。あなたがたは自分が偉大だと考えているのか。何か自慢すべきことがあるのか。たとえモアブの子孫であることを無視しても、あなたがたの本性や出生地は最高のものなのか。モアブの子孫であることを無視しても、あなたがたは皆、あらゆる点でモアブの子孫なのではないのか。事実の真相を変えることができるのか。今あなたがたの本性を暴露することは、事実の真相を不正確に伝えることになるのか。自分の卑屈さと生活と人格を見てみなさい。あなたがたは自分が人類の最低層で最も賤しいことを知らないのか。何か自慢すべきことがあるのか。社会におけるあなたがたの地位を見てみなさい。最低の地位にいるのではないのか。あなたがたは、わたしが失言したとでも思っているのか。アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。幾人もの人が、真の道を追求するために生命を捧げ、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたはそのような代価を払ったのか。比べると、あなたがたにはそのような大きな恵みを享受する資格は全くない。あなたがたがモアブの子孫であると今日言うことは、あなたがたを中傷することになるのか。自分を過大評価してはならない。あなたが自慢できることは何もないのである。このような大きな救いと豊かな恵みが、無償であなたがたに与えられている。あなたがたは何も犠牲にしていないのに、恵みをただで享受する。恥ずかしくないのか。この真の道は、あなたがたが自分で求めて見つけたものなのか。あなたがたがこの道を受け入れるようにしたのは聖霊ではないのか。あなたがたに追い求める心があったことはなく、ましてや真理を追求し思慕する心があったこともない。あなたがたはただ座ってくつろぎながら楽しんでいるだけである。何の努力もせずに真理を得た。何の権利があって不平を言うのか。自分には最大の価値があるとでも思っているのか。命を犠牲にした者や、血を流した者に比べて、あなたがたは何に不満があるというのか。あなたがたを今滅ぼすのは、正しく当然のことである。あなたがたには服従し従うこと以外に選択の余地はない。あなたがたは全く何にも値しない。あなたがたのうちのほとんどが呼び出されたが、状況に強いられていなかったならば、あるいは呼ばれていなかったならば、あなたがたには出てくる気など毛頭なかったはずである。誰が自分からそのように物事を断念するのか。誰が自分から肉の快楽を捨て去るのか。あなたがたは皆、貪欲に安逸をむさぼり、贅沢な暮らしを求める人である。あなたがたは、これほど大きな祝福を受けたが、その上何か言うことがあるのか。どんな不満があるというのか。あなたがたは天の最大の祝福と恵みを享受することを許され、地上でこれまでに行われたことのない働きが今あなたがたに明らかにされている。これは祝福ではないのか。あなたがたは神に抵抗し反逆したので、今はこのように刑罰を受けている。この刑罰のおかげで、あなたがたは神の憐れみと愛を知り、そして何よりも神の義と聖さを知った。この刑罰と人類の穢れゆえに、あなたがたは神の大いなる力を見て、神の聖さと偉大さを知った。これは最も希有な真理ではないのか。意義ある人生ではないのか。神が行なう働きは意味で満ち溢れている。したがって、あなたがたの地位が低ければ低いほど、あなたがたが神に高められていることと、神が今日あなたがたに行なう働きには大いなる価値があることがそれだけ一層明らかに証明される。それはまさしく、ほかでは得られない計り知れない価値のある宝である。全時代を通してこれほど大きな救いを享受した者は一人もいない。あなたがたの地位の低さが、神の救いの偉大さを示しており、神が人間に忠実であること、すなわち、神は救うのであり、滅ぼすのではないということを示している。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 186

地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。あなたがた全員のため、そしてあなたがたの運命のために、神が受ける辱めがどれほど大きいかをあなたがたは知らないのか。偉人や裕福な権力者の息子を救うのではなく、神は賤しく他者から見下されている人たちを救うことを重視している。このことは全て神の聖さではないのか。このことは全て神の義ではないのか。全人類の生存のために、神は穢れた地に生まれ、あらゆる屈辱を受けることを選ぶ。神はとても現実的であり、虚偽の働きを一切行わない。各段階の働きは、このように実際的に行われるのではないのか。人は皆、神を中傷して神は罪人と共に食卓に着くと言ったり、神を嘲笑して神は穢れた息子たちと暮らすと言ったり、最も賤しい人たちと暮らすと言ったりするが、神はなおも無私無欲に自らを捧げ、依然として人類から拒まれる。神が耐え忍ぶ苦難は、あなたがたの苦難よりも大きくはないのか。神の行なう働きは、あなたがたが払った代価を上回らないのか。あなたがたは穢れた地に生まれたが、神の聖さを得た。あなたがたは悪魔が集う地に生まれたが、大いなる守りを受けた。あなたがたにどのような選択肢があるというのか。何の不満があるというのか。神が耐え忍んだ苦難は、あなたがたが耐えた苦難よりも大きくないのか。神は地上に来たが、人間の世の楽しみを享受したことはない。神はそのようなものを忌み嫌う。神が地上に来たのは人間から物質的なもてなしを受けるためでもなければ、人間の食べ物や衣類や装身具を楽しむためでもない。神はそのようなことには全く関心がない。神が地上に来たのは人間のために苦しむためであり、この世の幸運を楽しむためではない。神は苦難を受け、働き、神の経営(救いの)計画を完了するために来たのである。神は好ましい場所を選ぶことも、大使館や豪華なホテルに住むことも選択せず、仕えてくれる召使いも抱えていない。あなたがたが見たことから、神が来たのは働きを行なうためか、楽しむためかが分からないのか。あなたがたは目が見えないのか。神はあなたがたにどれほど与えてきたのか。もし神が快適な場所に生まれていたならば、神は栄光を得ることができるだろうか。神は働きを行えるだろうか。神がそうすることに何か意義があるだろうか。人類を完全に征服することができるだろうか。人を穢れた地から救うことができるだろうか。人間の観念にしたがって、人は尋ねる。「神が聖なる方なら、なぜわたしたちのこの穢れた場所に生まれたのですか。あなたはわたしたち穢れた人間を憎み忌み嫌っています。あなたはわたしたちの抵抗と反逆を忌み嫌います。それならなぜわたしたちと暮らすのですか。あなたは至高の神です。どこでも生まれることができたはずなのに、なぜこの穢れた地に生まれなければならなかったのですか。あなたは日々わたしたちを罰し、裁き、わたしたちがモアブの子孫であることを確かに知っています。ではなぜそれでもわたしたちのもとで暮らすのですか。なぜモアブの子孫の家庭に生まれたのですか。なぜそうしたのですか」。あなたがたのこのような考えにはすっかり理知が欠けている。このような働きでなければ人に神の偉大さや謙遜、隠秘性を知らしめることができない。神は働きのために何であろうと犠牲にすることをいとわず、働きのためにあらゆる苦難を耐え忍んできた。神は人類のために行動し、それだけでなく、あらゆる創造物が神の支配に服従するように、サタンを征服するために行動する。これのみが有意義で価値のある働きである。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 187

ユダヤで働きを行なっていた当時、イエスは公然とそうしたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働きを行ない、そして語る。未信者はまったくこれに気づいていない。あなたがたのあいだにおけるわたしの働きは、部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰、そして裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。未信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何一つ知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らに対し、受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが明らかで、何もかもが明かされており、すべてが解放されているが、これは神を信じる人にだけ当てはまり、その他の者、未信者に関する限り、何も知らされていない。現在、あなたがたのあいだで、中国において行なわれている働きは、彼らが知ることのないよう厳しく封じられている。その働きに気づくようなことがあっても、彼らはそれを断罪し、迫害の対象とするだけで、信じることはないだろう。最も進歩の遅れたこの場所、すなわち赤い大きな竜の国で働くのは決して簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きをこの場所で実行するなどとうていできない。もしこの働きが公然と実行されたなら、どうして前進することが許されるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険に晒すことにならないだろうか。この働きが隠されておらず、イエスが見事に病人を癒やし、悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔に「捕らわれて」いたのではないだろうか。悪魔は神の存在を我慢できるだろうか。今、わたしが人に説教をし、教えるために会堂へ入って行こうとしたら、とっくの昔に粉々に砕かれていたのではないだろうか。だとしたら、わたしの働きをどうして続けられようか。しるしや不思議が公然と明かされない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは未信者に見られることも、知られることも、発見されることもない。この段階の働きが恵みの時代におけるイエスの働きと同じように行なわれたなら、それは今ほど安定したものではなかっただろう。だから、このようにして密かに働きを行なうのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益なのである。地上における神の働きが終わるとき、つまりこの密かな働きが終わるとき、この段階の働きは一気に公にされる。中国に勝利者の集団がいることを、すべての人が知るだろう。肉となった神が中国にいて、その働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始める。なぜ中国はいまだ衰退や崩壊の兆しを見せていないのか。実のところ、神が中国でその働きを自ら実行し、人々の集団を完全にして勝利者にしたのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(2)」(『言葉』第1巻)

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