受肉

日々の神の御言葉 抜粋 99

「受肉」というのは、神が肉において現れることであり、神はその肉の姿で、自分の創った人間のもとで働く。さて、神が受肉するには、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するというのは、神が肉体において生き、働くということ、その実質において肉となり、一人の人間になるということを意味する。神の肉における生活と働きは二つの段階に分けられる。第一の段階は職分を始める前の生活である。神は普通の人間の家族において暮らし、ごく普通の人間性を有し、人間生活の通常の道徳や法に従い、人間が必要とする普通の物事(食物、衣服、睡眠、住まい)を必要とし、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情を持ちつつ生活を送る。つまり、この最初の段階で、神は神性においてではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はいまだ普通の人間の外形をまといつつ、通常の人間性において暮らし、超自然的なしるしは表向き何も示さない。しかし、純粋に自身の職分のために生きており、この期間の普通の人間性は、神性の普通の働きを維持するためにのみ存在する。そのころには、普通の人間性が職分を果たせるほどに成熟しているからである。そのため、生活の第二段階では、普通の人間性において職分を果たすことになり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせた生活である。第一の段階で神がまったく普通の人間性において生活を送るのは、その人間性がいまだ神性の働き全体を維持することができず、依然として成熟していないからである。人間性が成熟し、自身の職分を担えるようになって初めて、自身が果たすべき職分を果たし始めることができるのだ。神は肉体を持つ者として成長し、成熟する必要があるので、その生活の第一段階は普通の人間性におけるものである。第二段階に入ると、人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、受肉した神が職分を果たしながら送る生活は、人間性と完全な神性を兼ね備えたものである。受肉した神が出生の瞬間から本格的に職分を果たし、超自然的なしるしや不思議を示し始めたなら、肉体の本質を一切持たないだろう。ゆえに、受肉した神の人間性は、肉体の本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉に固有の性質である。「神は肉となっても完全に神であり、まったく人間ではない」と言うのは冒瀆である。なぜなら、このような発言はまったく存在せず、受肉の原則に反しているからである。神は職分を始めた後も、働きを行なうときは人間の外皮をまといつつ、依然として神性の中で生活する。ただその際、神の人間性は、神性が普通の肉体の中で働きを行えるようにするという目的だけを果たす。ゆえに働きを行うのは、人間性に宿る神性なのである。人間性ではなく神性が働きを行っているわけだが、その神性は人間性の中に隠れている。要するに、神の働きは完全な神性によってなされるのであって、人間性によってなされるのではない。しかし、働きを行うのは神の肉である。このような神は人間であり、同時に神であると言えるだろう。神は肉において生きる神となり、人間の姿と人間の本質を持つが、同時に神の本質も備えているからである。神の本質を備えた人間だからこそ、被造物であるすべての人間の上に立ち、神の働きを行えるどの人間よりも上位に位置する。そのため、このような人間の外形をまとうすべての者たちの中で、また人間性を有するすべての者たちの中で、神だけが受肉した神自身なのである。他はみな、被造物たる人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるものの、被造物である人間には人間性しかない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なこととして、神性をも備えている。神の人間性は肉体の外見や毎日の生活において見ることができる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があって初めて表され、人々が想像するほど超自然なものではないので、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でさえ、人々が受肉した神の真の本質を理解するのは困難を極める。わたしがこれほど長く話したあとですら、あなたがたの大半にとってはいまだ謎であるはずだ。実を言うと、これはとても単純な問題である。神が肉となったのだから、その本質は人間性と神性が組み合わさったものである。この組み合わせこそが神自身、地上における神自身と呼ばれるのだ。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 100

イエスが地上で送った生活は、肉体を持つ人間の普通の生活だった。彼は自身の肉体の正常な人間性において生きたのである。働きを行う、言葉を語る、あるいは病人を癒やして悪霊を追い払うといったイエスの権威の大半は、彼が自身の職分を始めるまでは現れなかった。職分を果たす前の二十九歳までの生活は、イエスが普通の肉体を持つ人間に過ぎなかったことを十分証明している。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さず、普通の人間、平凡な人間以上のものは目にしなかった――当時、イエスはヨセフの息子だと信じる人がいたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉した肉体であるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人は、あれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性と彼の働きはいずれも、最初の受肉の意義を満たすために存在した。それにより、神が完全に肉へと到来したこと、そしてまったく普通の人間になったことが証明されたのである。働きを始める前の普通の人間性は、イエスが普通の肉体を持つ人間だったことの証拠である。また、イエスが後になって働きを行ったことも、通常の肉体を持つ人間だったことを証明している。なぜなら、彼は普通の人間性を持つ肉体において、しるしや不思議を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払ったからである。イエスが奇跡を行えたのは、その肉体が神の権威を帯びており、神の霊がまとうものだったからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが肉体を持つ人間ではなかったということではない。病人を癒やして悪霊を追い払うことは、イエスが自身の職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された彼の神性の表れだった。どのようなしるしを示そうと、どのように自身の権威を表そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体を持つ人間だったのだ。十字架の上で死んだ後に復活するまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを授け、病人を癒し、悪霊を追い払うことはどれも彼の職分の一部であり、すべて普通の肉体において行われた働きである。十字架へと向かう前、イエスは何をしているときであっても、決して普通の人間の肉体を離れなかった。イエスは神自身であり、神自身の働きを行ったが、受肉した神だったので、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理知、普通の人間の思考を持っていた。これはみな、イエスが普通の人間だったことの証拠であり、受肉した神の肉体は普通の人間性を持つ肉体であって、超自然的ではないことを示している。イエスの務めは神による最初の受肉の働きを完了すること、最初の受肉が果たすべき職分を果たすことだった。受肉の意義は、平凡な普通の人間が神自身の働きを行うということであり、つまり、神が人間性において神性の働きを行い、それによってサタンを打ち負かすということである。受肉とは、神の霊が肉になる、つまり、神が肉になるということであり、肉体が行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の職分を果たすことはできない。つまり、他の誰でもなく、受肉した神の肉体だけが、つまりこの普通の人間性だけが、神性の働きを表せるのだ。最初に到来した際、二十九歳になるのに先立ち、神が普通の人間性を有していなければ、つまり生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、話せるようになってすぐに天の言語を話せたなら、また地上に初めて着いた瞬間、すべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら、そのような人は普通の人間とは呼ばれなかっただろうし、そのような肉が人間の肉体と呼ばれることもなかったはずだ。仮にキリストがそうだったとすれば、神の受肉の意味と本質は失われるだろう。キリストが普通の人間性を有していることは、肉体を持つ受肉した神であることを示している。また、キリストが普通の成長過程を経ることは、普通の肉体であることをさらに証明している。そのうえ、キリストの働きは、キリストが神の言葉であり、神の霊であり、それが肉になったことを十分証明している。神が肉になるのは、それが働きに必要だからである。言い換えると、その段階の働きは肉体において、普通の人間性においてなされる必要があるからである。これが「言葉は肉となる」、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、神による二度の受肉の背後にある真相である。イエスは生涯を通じて奇跡を行い、地上における働きが終わるまでは人間性の兆候を見せず、普通の人間が必要とするもの、弱さ、または人間的な感情がなく、生活の基本的な必需品を必要とせず、普通の人間のような考えもなかったと、人々は思っているかもしれない。そうした人たちは、イエスが超人的な頭脳、超越した人間性だけを持つと想像している。さらに、イエスは神なのだから、普通の人間のように考えたり暮らしたりすることはなく、普通の人、正真正銘の人間だけが、普通の人間のように考え、普通の人間のように生きるのだと考えている。これらはみな人間の発想、人間の観念であって、そうした観念は神の働きの本来の意図に反している。普通の人間の考えは、普通の人間の理知と普通の人間性を支え、普通の人間性は普通の肉の機能を支える。そして、普通の肉の機能は、肉における普通の生活をすべて可能にする。そうした肉において働くことでのみ、神は受肉の目的を果たすことができる。受肉した神が肉の外形だけは持つが、普通の人間のように思考しないとしたら、この肉は人間の理知を持たず、ましてや本物の人間性など持たないだろう。人間性を欠いたそうした肉が、どうして受肉した神が果たすべき職分を成就できようか。普通の精神は人間生活のあらゆる面を支える。普通の精神がなければ、それは人間ではないだろう。つまり、普通の考え方をしない人は精神を病んでおり、人間性がなく神性だけを持つキリストは、神の受肉した肉体だとは言えないのである。では、神の受肉した肉体に普通の人間性がないということがどうしてあり得ようか。キリストに人間性がないと言うのは、冒瀆ではないか。普通の人間が行う活動はどれも、普通の人間の頭脳の働きに依存している。それがなければ、人間は異常な振る舞いをする。黒と白、善と悪の違いを区別することさえできないだろう。また、人間の倫理観や道徳律もないはずだ。同様に、受肉した神が普通の人間のように考えなかったとしたら、それは本物の肉体、普通の肉体ではない。そうした思考しない肉体が神性の働きを担うことはできないだろう。普通の肉体の活動を正常に行えず、まして地上で人間と共に暮らすことなどできないはずだ。そのため、神の受肉の意義、神が肉に到来することの本質は失われていたに違いない。受肉した神の人間性は、肉における普通の神性の働きを維持するために存在する。神の普通の人間的な思考が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的な思考をするのは、神が肉において行うすべての働きを支えるためだと言えるだろう。この肉体に普通の人間の精神がなければ、神は肉における働きができず、肉においてすべきことを成就できないだろう。受肉した神は普通の人間の頭脳を持つが、その働きに人間の思考が混ざり込むことはない。人間性と頭脳を持ち合わせるという前提条件の下、神は普通の頭脳でもって人間性における働きを行うが、普通の人間の考えを行使することでその働きを行うのではない。神の肉体がどれほど崇高な考えを持とうと、神の働きが論理や思考に汚されることはない。つまり、神の働きは肉体の頭脳から生まれるのではなく、人間性における神性の働きの直接的な表現なのである。神の働きはすべて成就すべき職分であり、そのどれも頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、そして磔刑は、イエスの人間としての頭脳の産物ではなく、人間の頭脳を持つ人にはなし得なかったことである。同様に、今日の征服の働きも、受肉した神が果たすべき職分だが、人間の意志による働きではない。それは、受肉した神の神性が行うべき働きであって、肉体を持つ人間になし得る働きではない。ゆえに、受肉した神は普通の人間の頭脳を持ち、普通の人間性を有していなければならない。なぜなら、普通の頭脳を持つ人間性において、自身の働きを行わなければならないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 101

自身の働きを行う以前、イエスは普通の人間性において暮らすに過ぎなかった。誰一人、イエスが神であるとは分からなかったし、イエスが受肉した神であることに気づかなかった。人々はただ、完全に普通の人間であるイエスを知っていたに過ぎない。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して肉体になったこと、恵みの時代が受肉した神による働きの時代であり、霊による働きの時代ではないことの証拠である。これは、神の霊が完全に肉において現れたこと、また神が受肉した時代には、その肉体が霊によるすべての働きを行うことを証明した。普通の人間性を持つキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間の思考を有している。「顕現」とは、神が人間になること、霊が肉になることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性を持つ肉体に宿るということで、それによって神の神性の働きを表す――これが顕現、または受肉の意味である。最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を追い払うことが必要だったのは、神の働きが贖うことだったからである。全人類を贖うべく、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架にかけられる前にした働きは、病人を癒やし、悪霊を追い払うことだったが、それは罪と穢れから人間を救うことをあらかじめ告げるものだった。当時は恵みの時代だったため、イエスが病人を癒やし、それによってしるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものだった。恵みの時代が、イエスに対する人々のの信仰のしるしである平和、喜び、そして物質的な祝福に象徴される恵みを施すことを中心にしていたためである。これはつまり、病人を癒し、悪霊を追い払い、恵みを授けることが、恵みの時代におけるイエスの肉に、生まれながらに備わった能力だったということである。そしてそれが、霊が肉において実現した働きだったのだ。しかし、イエスはそうした働きをしている間、肉体の中で暮らしており、その肉体を超越してはいなかった。どのような癒やしの業を行っても、イエスはやはり普通の人間性を備え、普通の人間生活を送った。神が受肉した時代には、肉が霊の働きのすべてを行ったとわたしが言うのは、イエスがどのような働きを行おうと、それは肉においてなされたからである。しかし、その働きのゆえに、人々はイエスの肉体が完全に肉体的な本質を持つとは考えなかった。と言うのも、その肉体は奇跡を行うことができ、また特別な場合には、肉を超越することができたからである。もちろん、例えば四十日間にわたる試みや、山上の変容などの出来事はみな、イエスが自身の職分を始めた後に起きたことである。ゆえに、イエスにおいては、神の受肉の意義が完結しておらず、部分的に成就したに過ぎない。働きを始める前、イエスが肉において送った生活は、どの点から見てもまったく普通のものだった。働きを始めた後は、人間の外形だけを保った。イエスの働きは神性の表れだったので、通常の肉の機能を超えていた。結局のところ、神の受肉した肉体は血と肉から成る人間とは違っていたのである。もちろん日々の生活では、食物や衣服、睡眠、住まいを必要とし、あらゆる普通の必需品を必要とするとともに、普通の人間の理知を持ち、普通の人間のように考えた。人々はそれでも、イエスの行った働きが超自然的だったことを除いて、イエスを普通の人間と見た。実際、イエスは何を行おうと、普通の正常な人間性において生きており、働きを行うときもその理知はひときわ正常で、思考は他の普通の人間以上に明瞭だった。受肉した神は、このような思考と理知を持つ必要があった。と言うのも、神性の働きは、ごく普通の理知を備え、思考が明瞭な肉体によって表現される必要があったからである。そうして初めて、神の肉は神性の働きを表せたのである。地上で暮らした三十三年半の期間を通し、イエスは普通の人間性を保っていたが、三年半にわたる職分の際に行った働きのせいで、人々はイエスが極めて超越的で、以前よりはるかに超自然的だと考えた。実際には、イエスの普通の人間性は職分を始める前も後も変わらなかった。イエスの人間性はずっと同じだったのだが、職分を始めた前後における相違のために、イエスの肉体について二つの異なる見方が生じた。人々が何を考えようと、受肉した神はずっと本来の普通の人間性を保っていた。神は受肉して以来、肉において生きたものの、その肉は普通の人間性を備えていたからである。イエスが自身の職分を果たしていようといまいと、その肉体の普通の人間性を取り除くことはできなかった。人間性こそ肉体の基本的な本質だからである。イエスが職分を果たし始める前、彼の肉体は完全に普通のままで、人間が行うあらゆる普通の活動に携わった。イエスは少しも超自然的な様子を示さず、奇跡的なしるしを何も見せなかった。当時、イエスは神を崇めるごく普通の人間に過ぎなかった。とは言え、その追求は他の誰よりも誠実で、真摯なものだった。イエスのまったく普通の人間性はこのように現れていた。職分を果たし始める前、イエスはまったく働きを行わなかったので、誰一人イエスの身分に気づかず、イエスの肉体が他の人のそれと違うとは分からなかった。イエスはたった一つの奇跡も行わず、神自身の働きをほんの少しもしなかったからである。しかし、職分を果たし始めた後も、イエスは普通の人間性の外形を保ち、普通の人間の理知をもって生活していた。だが、神自身の働きを始め、キリストの職分を引き受け、死すべき存在である生身の人間にはできない働きをしたため、人々は、イエスには普通の人間性がなく、身体は完全に普通の肉体ではなく、不完全な肉体なのだと思い込んだ。イエスが行った働きのゆえに、人々は、イエスは普通の人間性を持たない受肉した神だと言った。人々は神の受肉の意味を把握していなかったので、これは誤った理解である。この誤解は、受肉した神によって表現された働きが神性の働きであり、普通の人間性を持つ肉体によって表されたからである。神は肉をまとい、肉の中で生きた。そして、人間性における神の働きが、その人間性の普通さを曖昧にした。そのため、神には人間性がなく、神性しかないのだと、人々は信じたのである。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 102

最初に受肉した神は受肉の働きを完了させず、神が肉においてなすべき働きの最初の段階を完了させただけである。ゆえに、受肉の働きを完了させるべく、神は再び肉体に戻り、肉体が持つすべての正常性と現実を生きている。つまり、神の言葉が完全に普通の平凡な肉体において現れ、それにより、肉体においてやり残した働きを完了させようというのである。本質的に、二度目に受肉した肉体は最初のものと似ているが、さらに現実的で、最初のものよりいっそう普通である。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における職分の結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を果たすため、その肉体は多くの困難に耐えなければならない。その肉体が普通で現実のものであればあるほど、神は自身の職分を果たす中で苦しむ。神の働きはごく普通の肉体、まったく超自然的でない肉体において表される。神の肉体は普通であり、同時に人間を救う働きを担わなければならないので、その苦しみは超自然的な肉体よりもはるかに大きい――この苦しみはみな、神の肉体の現実と普通さに由来する。受肉した二つの肉体が職分を果たしていた際に受けた苦しみから、受肉した肉体の本質が分かる。肉体が普通であればあるほど、神は働きを行う間、大きな苦難に耐えなければならない。働きを行う肉体が現実であればあるほど、人々の観念は厳しくなり、神が多くの危険に遭う可能性は高くなる。それでも、肉体が現実的であればあるほど、また肉体が普通の人間の必要と完全な理知を持っていればいるほど、神は肉における働きにより取り組むことができるようになる。十字架にかけられたのはイエスの肉体、罪の捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性を持つ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、二度目に受肉した神が征服の働きを行い、サタンを打ち負かすのは、完全な肉体としてである。完全に普通で現実的な肉体だけが征服の働き全体を行い、力強い証しをすることができる。つまり、人間の征服は、受肉した神の現実性と普通さによって効果的になるのであって、超自然的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は語ることであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉において実現した霊の働き、および肉の本分は語ることであり、それによって人間を徹底的に征服し、明らかにし、完全にし、淘汰することである。したがって、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服の働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きを行う肉体は、受肉の働き全体を完了させるだろう。性別について言えば、一度目は男性、二度目は女性であり、これによって神の受肉の意義が完成し、神に関する人間の観念を一掃する。つまり、神は男性にも女性にもなれるのであり、本質的に、受肉した神には性別がないのである。神は男性と女性を造ったが、神に性の区別はない。この段階の働きで、神はしるしや不思議を行わず、それにより、言葉という手段を通して働きの成果が上がる。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を追い払うためではなく、語ることによって人間を征服するためであり、それはつまり、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を語って人間を征服するものであって、病人を癒やし、悪霊を追い払うものではないということである。普通の人間性における神の働きは、奇跡を行い、病人を癒し、悪霊を追い払うことではなく、語ることである。ゆえに、二度目に受肉した肉体は、一度目よりもずっと普通に見える。人々は、神の受肉が嘘ではないと分かっているが、この受肉した神はイエスの受肉と異なっている。どちらも神の受肉だが、完全に同じではないのである。イエスは普通の人間性、平凡な人間性を有していたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目にしるしや不思議は何も見えず、病人を癒すことも、悪霊を追い払うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。イエスが行ったのと同じ働きを、神は行わないのだ。それは、神の肉体が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病人を癒したり悪霊を追い払ったりすることは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げることもない。神は自身の実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はなく、ゆえにこの段階は受肉の働きを完了させるためにある。あなたが今日見る受肉した神は、ひとえに肉体であって、超自然的な要素は何もない。他の人々と同じく病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。つまり、完全に肉体なのである。今回、受肉した神が超自然的なしるしや不思議を行ったなら、病人を癒し、悪霊を追い払ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えようか。どうして異邦人の国々に働きを広められようか。病人を癒やし、悪霊を追い払うのは、恵みの時代の働きであり、贖いの働きの第一歩だったが、神が人間を十字架から救った今となっては、神がその働きを行うことはもはやない。病人を癒やし、悪霊を追い払い、人間のために十字架にかけられたイエスと同じ「神」が終わりの日に現れたなら、その「神」は聖書における神の記述と同じで、人間には受け入れやすいかもしれないが、それは本質的に、神の霊ではなく悪霊が人間の肉をまとったものだろう。すでに完成させたことは二度と繰り返さないのが神の働きの原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日、神は普通の平凡な肉体で征服の働きを実現する。病人を癒やさず、人間のために十字架にかけられることもなく、ただ肉において言葉を語り、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉した肉体である。こうした肉体だけが、肉における神の働きを完了できるのだ。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 103

この段階において、困難を経験していようが、あるいは職分を果たしていようが、受肉した神は受肉の意義を完成させるためにそうしている。なぜなら、今回が神の最後の受肉だからである。神は二回しか受肉できず、三度目はあり得ない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、肉における神の働きはすでに終わっている。一度目に受肉した神は、受肉の意義を完成させるために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。それはもっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び肉になったのは、受肉の意義を完成させるためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意義全体、つまり肉における神の働きは完結し、肉において行う働きはそれ以上ない。つまりこれ以降、神が働きを行うために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して到来するのは、働きに資することを除いて、普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに対し、自分が肉体になっていること、普通の平凡な人間であることを示すが、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人類を贖い、人類を征服できることを見せつけるのだ。サタンの働きの目的は人類を堕落させることだが、神の働きの目的は人類を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神こそ創造主だからである。この働きはすべて、神の二度の受肉を通して成し遂げられる。本質的に、神の肉は人間性と神性が一体化したものであり、普通の人間性を備えている。そのため、受肉した肉体がなければ、神は人間を救うという成果を上げられず、また自身の肉体の普通の人間性がなければ、肉における神の働きがそうした成果を上げるのは不可能である。神の受肉の本質は、神が普通の人間性を持たなければならないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになるからである。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 104

受肉の意義がイエスの働きで完成しなかったとわたしが言うのはなぜか。それは、言葉が完全に肉とならなかったからである。イエスが行ったのは、肉における神の働きの一部分だけであり、彼は贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の肉体においてなされる。つまり、人間性が少しも超越的でない、まったく普通の人間によって行われる。言い換えると、神は完全な人間になったのである。要するに、身分が神、完全な人間、そして完全な肉体であり、働きを行っている人になったのだ。人間の目に見えるのは、まったく超越的ではないただの肉体、天の言語を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、ましてや大きな集会場で宗教の内情を暴いたりしない、ごく普通の人間である。人々にとって、第二の受肉の働きは、最初のものとまるで違って見える。あまりに違うので、その二つには何の共通点もないように思えるほどであり、最初の働きで見られたことは、今回何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものと異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、それらの肉体によってなされる働きの性質に左右されるのであって、外形に左右されるのではない。三段階の働きのあいだに、神は二度受肉し、いずれの時も受肉した神の働きは新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うものである。二つの肉体が実際には同じ源から来ていることを、人間の目で見極めるのは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や精神の能力を超えている。しかし、両者は本質において同じである。いずれの働きも同じ霊に由来しているからである。受肉した二つの肉体が同じ源から生じたものかどうかは、両者の生まれた時代と場所、あるいはその他のそうした要素ではなく、両者が表す神性の働きで判断できる。第二の受肉した肉体は、イエスが行った働きを一切行わない。神の働きは慣習に従うものではなく、なされるたびに新たな道を開くからである。第二の受肉は、人々の心における最初の肉体の印象を深めも固めもしないが、それを補って完成させ、神に関する人間の認識を深め、人々の心に存在する規則を残らず打破し、人々の心にある神の誤った姿を消し去る。神自身による働きのどの段階も、それ自体では神についての完全な認識を人に与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのだ。神は自身の性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はいまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。ましてや神の働きの一段階だけで、どうして完全に神を表せようか。神は普通の人間性の陰に隠れ、肉において働く。そして、その神性が現れて初めて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見て知るようになるのではない。神が受肉することで、人間は神の様々な働きによって神を知ることができるのだが、働きのどの二段階も同じものではない。このようにして初めて、人間は肉における神の働きについて完全に認識し、一つの面に縛られることがなくなる。二度の受肉による働きは異なるものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、いずれも二つの異なる段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に生じるということである。いずれにせよ、受肉した神の肉体は同じ本質と由来を持つが、これは誰も否定できない事実である。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 105

受肉した神はキリストと呼ばれ、キリストは神の霊がまとう肉である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を有している。キリストの神性はいかなる人も有していないものである。キリストの普通の人間性は肉における普通の活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、あれいは神性であれ、いずれも父なる神の旨に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、キリストの本質は神自身のものである。この本質が神自身の働きを妨げることはなく、神が自身の働きを破壊することは決してあり得ず、自身の旨に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は自身の経営を妨げる働きは絶対に行わない。これはすべての人が理解すべきことである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きも人を救い、神の旨を行うためのものである。自身が肉となったため、神は自身の肉において神の本質を実現し、よってその肉は神の働きを引き受けるのに十分である。神の霊の働きはすべて、受肉の期間中にキリストがなす働きに取って代わられる。また、受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこに他の時代の働きが混ざり合うことは決してあり得ない。また肉となる以上、神は肉の身分で働きを行う。そして、肉において到来する以上、神は自身のなすべき働きを肉において成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、いずれも神自身であり、神はなすべき働きをなし、果たすべき職分を果たす。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 106

神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神から来る権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、それらが互いに矛盾することはない。神の霊は、すべての被造物におよぶ権威である。神の本質を有する肉体にも権威があるものの、肉となった神は父なる神の旨に沿った働きをすべて行える。こうしたことは、一人の人間には実現も想像もできない。神自身が権威だが、神の肉は神の権威に服従することができる。これが「キリストは父なる神の旨に服従する」と言われるときに込められた意味である。神が霊で、救いの働きを行えるように、人間になった神も救いの働きを行うことができる。いずれにせよ、神自身が神自身の働きをするのである。神は阻止することも、干渉することもせず、矛盾する働きを実行することもない。と言うのも、霊による働きの本質も、肉による働きの本質も同様だからである。それが霊であれ、あるいは肉であれ、いずれも一つの旨を行い、同じ働きを経営するために働きを行う。霊と肉は性質こそ異なるが、本質は同じである。いずれも神自身の本質と、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を一切持たず、神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善、そしてすべての愛の表れである。たとえ肉にあっても、神は父なる神に逆らうことを一切しない。自身の生命を犠牲にしてでも、父なる神に心から従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は歪んだ要素を一切持たない。神に逆らうものはすべてサタンに由来する。サタンこそ、すべての醜悪さと邪悪の根源なのである。人がサタンと同様の性質を持っているのは、サタンに堕落させられ、手を加えられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性だけを持っており、サタンの特性はまったくない。働きがいかに困難でも、あるいは肉がいかに弱くても、神は肉において生きながら、神自身の働きを妨げることは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の旨を捨て去ることは決してない。キリストは父なる神の旨に逆らうくらいなら、肉の痛みを受けるほうを選ぶだろう。イエスが祈りの中で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と述べた通りである。人は自身の選択を下すが、キリストはそうしない。彼は神自身の身分を持っているが、肉体の視点から、父なる神の旨をなおも求め、父なる神から託されたことを果たす。人がこれを成し遂げるのは不可能である。サタンに由来する物事が神の本質を有することはあり得ず、神に逆らい、抵抗するものしかあり得ない。それが完全に神に服従することはできず、ましてや神の旨に進んで従うなど不可能である。キリスト以外の人間はみな神に逆らう行いをすることができ、神から委ねられた働きを直接引き受けられる者は一人もおらず、神の経営を自分自身が尽くすべき本分と考えられる者も一人としていない。キリストの本質は父なる神の旨への服従であり、神への不従順はサタンの特性である。これら二つの性質は相容れないものであり、サタンの特質を持つ者がキリストと呼ばれることはあり得ない。人が神に代わってその働きを行えないのは、神の本質がまったく備わっていないからである。人は自己の利益と将来の前途を目的として神のために働くが、キリストは父なる神の旨を行うために働くのだ。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 107

キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉の姿をしているが、その人間性は肉を持つ人間とまったく同じものではない。キリストには固有の性格があり、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たず、キリストの弱さは彼の人間性に起因する。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような制限は一定の範囲と時間内のものであり、無限ではない。キリストの神性による働きを行う時が来ると、それは彼の人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はひとえに、神性によって支配される。キリストの人間性による普通の生活は別として、人間性による他の行動もすべて、キリストの神性の影響、働きかけ、指示を受ける。キリストは人間性を有しているが、それが神性による働きを邪魔することはない。それはまさに、キリストの人間性が神性に支配されているからである。キリストの人間性は、他者との接し方において成熟していないものの、それが神性による普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性がその神性に直接指揮され、普通の人よりも高度な理知を有しているという意味である。彼の人間性は、働きの中で神性の指揮を受けるのに最も適しており、神性による働きを表し、神性による働きに服従する能力が極めて高い。神は肉において働きを行うとき、肉体を持つ人が尽くすべき本分を決して見失わない。天なる神を真心でもって崇めることができるのだ。彼は神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、彼が地上に来て、人の外形を持つ被造物となり、かつて持っていなかった人間性を持つようになったということに他ならない。彼は天なる神を崇めることができるが、これが神自身であるということで、人には真似のできないことである。彼の身分は神自身である。彼が神を崇めるのは肉の観点からであり、ゆえに「キリストは天なる神を崇める」という言葉は間違いではない。彼が人に要求するのはまさに神自身の存在である。そうした事柄を要求するのに先立ち、彼は人間に求めることをすでにすべて成し遂げている。また、他者に要求をしておきながら、自分はそれらから免れるようなことはしない。そのすべてが彼の存在を成しているからである。彼はどのように働きを行おうとも、神に敵対するような行為はしない。人に何を要求しても、人がなし得る以上の要求はしない。彼が行うことはどれも、神の旨を行うことであり、神の経営のためである。キリストの神性はすべての人を超越し、ゆえに彼はあらゆる被造物の中で最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それが彼の身分を決定している。よって彼の人間性がいかに普通でも、神自身の身分を持っていることは否定できない。彼がどのような観点から語り、どのように神の旨に従っても、神自身でないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠点と見なす。キリストがいかに自身の神性を表わし、明らかにしたところで、人は彼こそキリストだと認めることができない。そしてキリストが服従と謙虚さを示せば示すほど、愚かな人間はますますキリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で立派な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。神に対する人の抵抗と不従順は、受肉した神の本質が神の旨に従うという事実と、キリストの普通の人間性に由来する。これが神に対する人の抵抗と不従順の根源なのである。キリストが人間性の衣をまとっておらず、被造物の観点から父なる神の旨を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、人のあいだに不従順さはきっとないはずだ。人が常に、目に見えない天なる神の存在を信じようとするのは、天なる神に人間性がなく、被造物としての性質を一つたりとも有していないからである。そのため、人は常に、天なる神に最大の畏敬を抱き、キリストには侮蔑的な態度をとるのである。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 108

キリストは地上で神自身の代わりに働きを行えるが、肉となった姿をすべての人に見せようとして来るのではない。すべての人が彼を見られるようにするために来るのではなく、自身の手によって人が導かれ、それにより、新たな時代へ入ることができるように来るのである。キリストの肉の役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、彼のなすことが肉によって実現可能なことを超えることはない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉において働くのであり、神の真の顔を人に余すところなく明らかにはしない。それに加えて、肉におけるキリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉における神自身を表し、神自身がなすべき働きを自ら遂行するものの、天なる神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりすることはない。むしろ、自身の肉の中に謙虚に隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を有してはいない。そうした偽キリストの傲慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、どのような肉体が真のキリストであるかが明らかになる。偽れば偽るほど、そうした偽キリストは自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議をますます行うことができる。偽キリストは神の特性を有していないが、キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを完了させるためだけに肉となるのであり、単に人々が神を見られるように肉となるのではない。むしろ、彼は働きを通して自身の身分を明確にし、自身が表すものによって自分の本質を証明する。彼の本質は根拠のないものではない。彼の身分は自身の手によって握られてはいなかったのであり、それは彼の働きと本質によって決定される。彼は神自身の本質を持っており、神自身の働きを行えるが、やはり霊とは違って肉である。キリストは霊の特性を持つ神ではなく、肉の外形を有する神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の旨を求めても、彼の神性を否定することはできない。受肉した神の中にあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における業とともに、彼の神性の不思議さと計り知れなさも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が、現実かつ実際に、キリストの中に存在する。これは無意味なことでも、超自然的なことでもまったくない。彼は働きの実行を第一の目的として地上に来る。地上で働きを遂行するには、普通の人間性を有していることが必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性の力が大きくても、その本来の機能を活用できない。キリストの人間性は非常に重要だが、それが彼の本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、彼が地上で自身の職分を始める瞬間は、彼が自身の神性の存在を表し始める瞬間なのである。彼の人間性は、自身の肉の普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、彼の神性は肉において普通に働きを行うことができる。キリストの働き全体を指揮するのはキリストの神性なのである。働きを完了させるとき、彼は自身の職分をすでにまっとうしている。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、彼は自身の働きを通して、人が彼を知ることを可能にする。働きを行う過程で、彼は自身の神性の存在を完全に表す。それは人間性によって汚された、あるいは人間の考えや振る舞いで汚された性質ではない。彼の職分がすべて終わりを迎えるとき、彼は表すべき性質をすでに残らず完全に表している。彼の働きが人の指示によって導かれることはない。彼の性質の表れもいたって自由であり、知性で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然と明らかになる。これは、人には成し遂げられないことである。環境が厳しかったり、逆境に見舞われていたりしても、彼は適切な時に自身の性質を表すことができる。キリストである者がキリストの存在を表す一方、キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人が彼に抵抗したり、彼について観念を抱いたりしても、キリストの表す性質が神の性質であるということを、人間の観念に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての人が、キリストの神性の表れを基に、彼こそキリストだと認めるだろう。キリストに人の観念と一致しない側面があっても、それを基にキリストを否定することは決してない。人は極めて愚かだが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神に由来するものかをはっきり知っている。多くの人は自分の意図の結果として、わざとキリストに反抗しているだけなのである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。と言うのも、キリストの表す神性は確かに存在し、彼の働きは肉眼で確認できるものだからである。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 109

キリストの働きと表れによって、キリストの本質が決定される。キリストは託された働きを、真心でもって完成させることができる。キリストは天なる神を心から崇め、真心でもって父なる神の旨を求めることができる。これはすべて、キリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な表れも彼の本質によって決定されている。わたしがこれをキリストの「自然な表れ」と呼ぶのは、キリストの表れが模倣でも、人による教育の結果でも、人による長年の育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それは彼の中に本来備わっているものである。人はキリストの働き、表れ、人間性、そして普通の人間性による生活全体を否定するかもしれないが、キリストが真心でもって天なる神を崇拝すること、キリストが天なる父の旨を果たすために来たこと、そしてキリストが父なる神を求める際の誠実さを否定できる者はいない。キリストの姿は心地よい感覚をもたらさず、彼の説法に並外れた雰囲気はなく、また彼の働きは、人が想像するように、地を揺るがし、天を揺さぶるものではないが、彼は確かにキリストであり、真心でもって天なる父の旨を成し遂げ、天なる父に完全に服従し、死ぬまで従う者である。それは、彼の本質がキリストの本質だからである。この真実は人にとって信じがたいものだが、間違いなく事実である。キリストの職分が完全に果たされたとき、キリストの性質と存在が天なる神の性質と存在を表していることを、人は彼の働きから知るだろう。その時、キリストによるすべての働きの総和から、この者はまことに言葉が肉となった者であり、血と肉による人間とは違うことが分かるだろう。地上におけるキリストの働きの各段階はそれぞれ代表的な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人は、彼の働きの意味を把握することができない。二度目に受肉した神による数段階の働きは特にそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者の大半は、キリストの働きについていかなる観念も持っていないが、キリストに出会い、その言葉を聞き、働きを経験した者は、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないからではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちは、そのような困難に見舞われない。キリストの働きを受け入れるだけで、キリストの普通の人間性に接することがないからである。人は神に関する自身の観念を捨てることができず、それどころかキリストをあれこれ入念に調べる。これは、人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉を基に彼の本質を認識できないことが原因である。人がキリストの外見に目を向けず、キリストの人間性を論じるのを避け、人にはなし得ない働きをし、言葉を語る彼の神性についてしか語らないなら、人の観念は半分に減り、人の困難がすべて解決するまでになるはずだ。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 110

受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している。外見が実質を決定することはできない。その上、神の働きが人の観念と一致することは決してありえない。イエスの外見は人の観念と正反対ではなかったか。イエスの顔つきと衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのはまさに、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの口から出る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹の一人ひとりが、歴史の悲劇を繰り返さないようわたしは望む。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいかについて、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊の目をこすってそれをはっきりさせ、誇張された空想の言葉に囚われてはならない。わたしたちは神が現実に行う働きについて考え、神の実際的な側面を見るべきである。雲に乗った主イエスが突然自分たちの間に降り立ち、イエスを認識したことも見たこともなく、イエスの旨をどう行うべきかも知らないあなたがたを連れていく日をいつも待ちわびながら、白昼夢の中で我を忘れたり、自分を失ったりしてはいけない。より現実的な事柄を考えているほうがよい。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 111

肉となった神は、その働きを自ら実行する間、自分に付き従う人にだけ自身を示すのであり、すべての被造物に示すのではない。神は働きの一段階を完成させるためにだけ肉となったのであり、人に自身の姿を見せるためではない。しかし、神の働きは神自身によって実行されなければならず、よって神が肉においてそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。来たるべき働きの妨げにならないよう、人類のあいだに長期間留まることはできないのである。神が大衆に示すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、二度肉となったときの姿ではない。なぜなら、神の姿は神の性質を通じてのみ示すことができ、受肉した肉体の姿がそれに取って代わることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、つまり神が肉において働く際、神に付き従う人たちにだけ示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。また同じように、イエスは働きを行なっていたとき、ユダヤ人にだけ自分自身を示し、他の民族に公然と自身を示すことは決してなかったのである。したがって、ひとたび働きを完成させると、イエスはすぐさま人間の世界から離れ、そこに留まらなかった。それ以降、人間に自らを見せたのは、この人の姿をしたイエスではなく、働きを直接行なう聖霊だった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じような働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿をほとんど見ることができない。彼は自身を人にまったく見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きの時間は限られており、それは特定の時代、期間、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。その働きは、神が受肉した期間中に行なわれる働きだけを表わしており、その時代を代表するものであり、ある特定の時代における神の霊の働きを表わすものであって、神の働き全体を表わすわけではない。よって、肉となった神の姿がすべての人に示されることはない。大衆に示されるのは、神が二度肉になった際の姿ではなく、むしろ神の義と神の性質全体である。人に示されるのはただ一つの姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神の行なうべき働きが完成されたあと、神の受肉した肉体がすぐに地上から離れることが必須なのである。と言うのも、肉となった神はすべき働きをするためだけに来るのであり、自身の姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、それでもなお、かつて神を一度も見たことのない民族に対して公然と自身を示すことはない。イエスが義の太陽としてユダヤ人に再び自分の姿を見せることは決してなく、オリーブ山の頂に立って万民の前に現われることも決してない。ユダヤ人が見たのは、ユダヤの地にいた時代のイエスの肖像だけである。肉となったイエスの働きは二千年前に終わったからである。イエスがユダヤ人の姿でユダヤの地に戻ることはないし、ましてやユダヤ人の姿で異邦の民族に姿を見せることもない。なぜならば、肉となったイエスの姿はひとりのユダヤ人の姿でしかなく、ヨハネが見た人の子の姿ではないからである。イエスは自身に付き従う人たちに再来を約束したが、異邦の民の全員に対し、ひとりのユダヤ人の姿で自身を示すことは決してない。肉となった神の働きは時代を開くことであると、あなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神の霊の働きをすべて完了させることはできない。それは、ユダヤ人としてのイエスの姿が表わせるのは、ユダヤで働く神の姿だけであり、そのときの神が磔刑の働きしかできなかったのと同じである。肉にあった間、イエスは時代を終わらせる働きも、人類を滅ぼす働きもできなかった。よって、十字架にかけられ働きを終えたイエスは最高の高みに昇り、人間の前から永遠に隠れた。それ以降、異邦の民族の忠実な信者たちが目にできたのは、主イエスの顕現ではなく、壁に貼られたイエスの肖像だけだった。この肖像は人が描いたものに過ぎず、神自身が人に見せる通りの姿ではない。二度肉となった際の姿を、神が公然と大衆に示すことはないのである。人類のあいだで神が行なう働きは、神の性質を人々に理解させることである。そのすべてが様々な時代の働きを通して人に示されるのである。それはイエスの顕現を通してというより、むしろ神が知らしめた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉した姿を通して人に知らされるのではなく、むしろ、姿と形をもつ受肉した神によって行なわれる働きを通して知らされ、彼の働きを通して神の姿が示され、神の性質が知らされる。これが、神が肉において行なおうと望む働きの意義である。

二度にわたる神の受肉の働きがひとたび終わると、神はあらゆる未信者の民族のあいだに義なる性質を示し始め、大衆が神の姿を見えるようにする。神は自身の性質を示し、これを通して、様々な種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉における神の働きが広範囲に及ぶものでない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしがあなたがたのあいだだけで働いているように)のは、肉における神の働きには範囲と限界があるからである。神は普通の平凡な肉の姿で短期間の働きを行なうだけで、受肉した肉体を用いて永遠の働きをしたり、未信者の民族の前に現われる働きをしたりするわけではない。肉における働きは範囲が限られている(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)だけであり、その後、それらの境界内でなされた働きを通して範囲を拡大することができる。もちろん、拡大の働きは霊によって直接行なわれ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉における働きには境界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからであって、それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行なう。したがって、肉においてなされた働きは、ある特定の境界の中で行なわれる始まりの働きなのである。その後、神の霊はこの働きを、さらに拡張された範囲で続ける。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 112

神がこの地上に来て働きを行なうのは、ひとえに時代を導くためであり、ただ新たな時代を切り開き、古い時代を終わらせるためである。神は地上における人間の人生を生き、人の世の喜びと悲しみを自ら体験するため、もしくは自身の手である特定の人を完全にしたり、ある特定の人が成熟するのを自ら見守ったりするために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新たな時代を始め、古い時代を終わらせることである。つまり、神が一つの時代を自ら始め、別の時代を自ら終わらせ、自身の働きを自ら行なうことでサタンを打ち負かすのである。神が自ら働きを行なうたび、それは戦場に足を踏み入れるようなものである。まず、神は肉において世界を征服し、そしてサタンに勝利する。地上のあらゆる人々が自分たちの歩むべき正しい道をもち、平和と喜びに満ちた人生を送れるよう、神はすべての栄光を獲得し、二千年の働き全体の幕を開ける。しかし、神は長きにわたって地上で人間と暮らすことはできない。なぜなら、神は神であり、結局人間とは違うからである。神は普通の人の生涯を送ることができない。つまり、平凡そのものの人として地上に住むことはできないのである。と言うのも、自身の人間生活を維持するにあたり、神は普通の人の普通の人間性を最小限しかもっていないからである。言い換えれば、神がどのようにして地上で家族をもち、職業を得て、子どもを育てられるというのか。これは神にとって不名誉なことではないだろうか。神が普通の人間性を授けられているのは、普通の方法で働きを行なうという目的のためだけであって、普通の人のように家族や職業をもてるようにするためではない。神の普通の理知、普通の知性、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族や職業をもつ必要はない。まったく不必要である。神が地上に来るというのは、言葉が肉となるということである。神はただ、人が神の言葉を理解し、それを見ること、つまり、肉によってなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神の意図は、人々が神の肉体をある特定の方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から発せられるすべての言葉に従い、神が行なうすべての働きに服従することだけである。神は肉において働きを行なっているに過ぎず、神の肉の偉大さと聖さを人が称揚するよう意図的に求めているのではない。むしろ、神の働きの知恵と、神が行使するすべての権威を示しているのである。よって、神は並外れた人間性を有しながら、一切の宣言を行なわず、自分がなすべき働きだけに集中しているのである。神が肉となりながら、自身の普通の人間性を公表することも証しすることもせず、その代わりに行なおうと望む働きをただ実行するのはなぜなのか、あなたがたは知らなければならない。したがって、受肉した神からあなたがたが目にできるのは、神の神性とは何かということだけである。それは、人が真似るべき神の人間性とは何かを、神が宣言することはないからである。人間が人々を導く場合にのみ、その人は自分の人間性を語る。そうすることで、他の人たちをよりよく感銘させたり確信させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(つまり、人には達成不可能な働きで)人を征服する。神が人の尊敬を集めたり、人に自身を崇拝させたりするかどうかは、取るに足らないことである。神が行なうことはすべて、神に対する畏敬の念や、神の深遠さの感覚を人に植え付けることである。神は人を感銘させる必要がない。神に必要なのは、ひとたび神の性質を目の当たりにしたあなたが、神を畏れるようになることだけである。神が行なう働きは神のものである。人間が神に代わって行なえるものではなく、人間が達成できるものでもない。神自身だけがその働きを行ない、新しい時代を始めて、人間を新しい生活へと導けるのである。神が行なう働きは、人間が新しい生活を自分のものにし、新しい時代に入れるようにすることである。それ以外の働きは、正常な人間性をもち、他者から尊敬される人々に委ねられる。ゆえに、恵みの時代、神は受肉していた三十三年間のうち、わずか三年半で二千年分の働きを完了させたのである。自身の働きを行なうために地上へ来るとき、神は常に二千年分の働き、あるいは一つの時代全体の働きをわずか数年間で完了させる。神は立ち止まることも遅れることもない。長年にわたる働きをひたすら凝縮し、わずか数年で完了できるようにする。神が自ら行なう働きは、ひとえに新しい道を開き、新しい時代を導くことだからである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 113

神は自身の働きを行なうとき、何らかの構築や運動にとりかかるためでなく、自身の職分を全うするためにやって来る。毎回神が肉となるのは、働きの一段階を遂行し、新しい時代を始めるためだけである。今や神の国の時代が到来し、同じく神の国の訓練が始まった。この段階の働きは人間の働きでも、人間にある程度まで働きかけるものでもなく、神の働きの一部分を完了させるためだけのものである。神が行なうのは人間の働きではなく、また地上を去る前に、人間への働きの中である程度の成果を挙げるためでもない。それは自身の職分を全うし、なすべき働きを終えるため、つまり地上における自身の働きを適切に采配し、それによって栄光を得るためである。受肉した神の働きは、聖霊によって用いられる人々の働きとは異なる。地上に来て働きを行なうとき、神は自身の職分を全うすることにしか関心がない。自身の職分に関連していない他のあらゆることに関しては、見て見ぬふりをするほど何の関与もしないのである。神はただ行なうべき働きを実行し、人がすべき働きにはまったく関心をもたない。神の行なう働きは自身が存在する時代と、全うしなければならない職分に関するものだけであり、他のあらゆることは自分の視野にないかのようである。神は人類の一人として生きる上での、より基本的な知識を自身に備えることはせず、社交術を学んだり、人が理解できる他の物事を習得したりすることもない。人が自分のものにすべき物事にはまったく関心を示さず、ただ自身の本分である働きを行なうだけである。だからこそ、人が見るところ、受肉した神にはあまりに多くの点で不足があり、人がもつべき多くのものを無視するほどで、そうした事柄を一切理解していないように思われる。生活に関する一般的知識といった事柄、および自身の行動や他人との付き合いを律する原則などは、神と関係ないように見えるのである。しかし、受肉した神からほんの少しでも異常さを感じ取ることはとうていできない。つまり神の人間性は、正常な人としての生活と、自身の頭脳による正常な論理的思考を維持しつつ、善悪の識別力を与えているだけなのである。しかし、神には他の何も備わっておらず、それらはすべて人(被造物)だけがもつべきものである。神が肉となるのは自身の職分を全うするためだけである。神の働きは時代全体に向けられており、特定の人や場所に向けられているのではなく、全宇宙に向けられている。これが神の働きの方向性であり、神が働きを行なう原則である。誰もこれを変えることはできず、人がそれに関わる術もない。神は肉となるたび、その時代の働きを伴うのであって、人間がよりよく神を理解するために、あるいは神についての洞察を得られるようにするために、20年、30年、40年、さらには70年、80年にわたり、人間のそばで暮らそうという意図をもっているのではない。そのような必要はないのである。そのようなことをしても、神の本来の性質について人間がもつ認識を深めることにはまったくならない。かえって人間の観念が増えるだけで、その観念や思想を旧弊なものにしてしまう。したがって、あなたがた全員が理解しなければならないのは、受肉した神の働きとはいったい何かである。「わたしが来たのは、正常な人間の生活を経験するためではない」というわたしの言葉を、あなたがたは理解しているはずではないか。「神が地上に来るのは、正常な人間の生活を送るためではない」という言葉を忘れてしまったのか。あなたがたは神が肉となることの目的を理解せず、「被造物の生活を経験する目的で神が地上に来るなど、どうしてあり得ようか」という言葉の意味を知らないのではないか。神は自身の働きを完成させるためだけに地上へ来るのであり、ゆえに地上での働きは束の間のものである。神が地上に来る目的は、自身の霊がその肉体を養育し、教会を導く優秀な人間にすることではない。神が地上に来るとき、それはことばが肉になるということである。とは言え、人は神の働きを知らないので、さまざまなことを神に押しつける。しかし、あなたがたはみな、神は肉となったことばであって、一時的に神の役割を果たすよう、自身の霊に養育された肉体ではないことを認識しなければならない。神自身は養育された産物ではなく、肉となったことばであり、今日、神はあなたがた全員のあいだで正式に自身の働きを行なっている。あなたがたはみな、神の受肉が本当の事実であることを知っており、また認めているが、それを理解しているかのように振る舞っている。受肉した神の働きから、神の受肉の意義と実質に至るまで、あなたがたはそれらをほんの少しも理解することができず、ただ他人に従って、記憶した言葉をいい加減に暗唱しているだけである。受肉した神は自分の想像通りだと、あなたは信じているのか。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 114

神が肉となるのは、ひとえに時代を導き、新しい働きを始動させるためである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割と大きく異なり、この二つを同じように語ることはできない。人は長期にわたって養育され、完全にされる必要があり、それからようやく働きを行なうために用いられることができる。そして必要とされる人間性は、ひときわ高次のものである。人間は普通の人間性の理知を維持できなければならないだけでなく、他人との関係における行動を司る数多くの原則や規則をさらに理解し、その上、人の知恵や道徳についてさらに多くを学ばなければならない。これが、人が備えるべきものである。しかし、受肉した神にそれは当てはまらない。と言うのも、神の働きは人を表わさず、人の働きでもないからである。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神がなすべき働きを直接的に遂行することである(当然、神の働きはしかるべき時に行なわれ、気軽に、あるいは無作為に行なわれるのではなく、神の職分を全うするべき時に始められる)。神は人の生活や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、それが神の働きに影響することはない)。神はそうすべき時に自身の職分を全うするだけである。自身の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きはまったく影響されない。例えば、イエスが働きを行なったとき、彼が何者かを知る人はおらず、イエスはただ自身の働きを進めるだけだった。それはどれも、イエスがなすべき働きを行なう際に彼を妨げなかった。よって、当初イエスは自身の身分を告白することも、宣言することもなく、ただ人を従わせた。当然、これは神の謙虚さだけではなく、神が肉において働く方法でもあった。神はこの方法でしか働きを行なうことができなかった。と言うのも、人には裸眼で神を認識する術がなかったからである。また、たとえ神を認識していたとしても、人には神の働きを助けることなどできなかっただろう。さらに、神が肉になったのは、人が神の肉体を知るようになるためではなかった。それは働きを行ない、職分を全うするためである。この理由で、神は自身の身分を公にすることに重点を置かなかったのである。神がなすべき働きをすべて完成させたとき、神の身分と地位はどれも自然と人に対して明らかになった。受肉した神は沈黙を守り、決して何も宣言しない。神は人のことや、人が神に従う中でどのように対処しているかなどは気にも留めず、ひたすら前進して自分の職分を果たし、なすべき働きを実行するだけである。誰も神の働きに立ちはだかることはできない。神が働きを終える時になると、それは必ずや終結し、終わりになる。それに反する指示を出せる者はいない。神の働きが完成されてすぐ、神が人のもとを去ってはじめて、まだ完全に明確ではないにしても、神が行なう働きを人は理解するのである。そして、神が最初に働きを行なった際の意図を人が完全に理解するには、長い時間がかかる。言い換えると、受肉した神の時代の働きは二つの部分に分けられる。一つは受肉した神自身の肉体が行なう働きと、受肉した神自身の肉体が語る言葉から成っている。ひとたび神の肉体の職分が完全に成就されると、働きの別の部分は、聖霊に用いられる人によって実行されるのを待つ。それが、人が自分の役目を果たすべき時である。なぜなら、神はすでに道を開いており、人間自身がそれを歩まなければならないからである。つまり、肉となった神は働きの一部を行ない、次いで聖霊と、聖霊によって用いられる人たちがその働きを引き継ぐのである。ゆえに人は、肉となった神がこの段階でおもに行なう働きについて、それに必要なことを知らねばならない。また、肉となった神の意義とは何か、神がなすべき働きは何かを理解しなければならず、人への要求に合わせて神に要求してはならない。ここに人の過ち、観念、またそれ以上に不従順があるのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 115

神は人に神の肉体を知らしめたり、受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉するのではない。また、人の識別力を鍛えるために受肉するのでもなければ、ましてや人が受肉した神の肉体を礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受けるようにする目的で受肉するのでもない。それらはどれも、神が肉となる意図ではない。また、神は人を断罪するため、意図的に人を暴くため、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。それらはどれも神の意図ではない。神が肉となるたび、それは避けることのできない働きの形なのである。神がそのように振る舞うのは、さらに偉大な神の働きと経営(救い)のためであり、人が想像するような理由のためではない。神は自身の働きが求める時だけ、必要な時だけ地上に来る。神はただ見回す目的で地上に来るのではなく、自身がすべき働きを実行するために来る。そうでなければ、どうしてこの働きを行なうほどの重荷を背負い、それほど大きな危険を冒すだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に独自の意義をもって肉となる。もしそれが人々に神を見させ、彼らの視野を広げるためだけだったなら、神は絶対にそれほど軽々しく人々の間には来ないだろう。神が地上に来るのは、自身の経営とより偉大な働きのためであり、さらに多くの人類を得るためである。神は時代を表わし、サタンを打ち負かすために来るのであり、サタンを敗北させるために肉をまとう。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらはすべて神の経営に関係しており、全宇宙の働きにも関係している。もし神が、人に神の肉体を知らしめ、人々の目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神は各国を旅しないのだろうか。それは極めてたやすいことではないだろうか。しかし、神はそのようなことをせず代わりに自分が暮らし、すべき働きを始めるのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。それは一時代の全体を表わし、同時に一時代全体の働きを行なう。それは前の時代を終わらせ、新しい時代を始める。これらはすべて神の経営に関する重要な事柄であり、神が地上に来て実行する働きの一段階の意義である。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 116

神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。律法の時代が終わりを迎えて恵みの時代に入った際、神は救いの働きを始めた。それは、神が人間の不従順を裁いて罰し、人類を完全に清める終わりの日まで続く。その時初めて、神は救いの働きを完結させ、安息に入る。よって、三段階の働きのうち、神が受肉して自ら人のあいだで働きを行なったのは二回だけである。それは、働きの三段階のうち一段階だけが人の生活を導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉と血の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない。第二の受肉は人の罪を一掃し、人を完全に清めるのに十分である。よって、第二の受肉とともに、肉における神の働き全体が終わりを迎え、神の受肉の意義が完成される。その後、肉における神の働きは完全に終了する。第二の受肉の後、神は自身の働きのために三度肉となることはない。神の経営全体がすでに終わっているからである。終わりの日の受肉は、神の選ばれた人を完全に自身のものとし、終わりの日の人類は残らず種類に応じて分類されている。神はもはや救いの働きを行なわず、またいかなる働きであっても、それを実行すべく肉に戻ることもない。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 117

人が今まで成し遂げてきたこと、つまり現在の人の霊的身丈、認識、愛、忠誠、従順、そして識見は、言葉の裁きによって得られた成果である。あなたが忠誠心をもち、今日まで立ち続けていられるのは、言葉によって成し遂げられたことである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを、人は今や理解しており、そしてそこには、人には達成できず、奥義や不思議であることがたくさんある。ゆえに、多くの人が服従してきたのである。生まれてこのかた誰にも従ったことがない人たちも、今日、神の言葉を目にすると、そうと気づかないまま完全に従い、あえて吟味しようとも、他に何か言おうともしない。人類は言葉の下で倒れ、言葉の裁きの下にひれ伏している。もしも神の霊が直接人に話しかけたら、ダマスコへ向かうパウロが光の中で地にひれ伏したように、人類はみなその声に服従し、暴きの言葉がなくても倒れるだろう。神がこのように働きを続けたなら、人は言葉の裁きを通じて自分の堕落を知ることができず、ゆえに救いも得られないはずだ。神は肉となることでのみ、自身の言葉を自らすべての人の耳元に届けることができ、それによって聞く耳のある人がすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けられるようにする。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるのではない。この実践的でありながら並はずれた働きを通じてのみ、長きにわたって奥深くに潜んでいた人の古い性質が完全に暴かれ、人はそれを認識して変えられるようになる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいて、彼は実践的に語り、裁きを下すことで、言葉による人への裁きという成果を挙げる。これが受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉した神の権威と、言葉の働きが挙げた成果を知らしめるため、また霊が肉において降臨し、言葉による人間の裁きを通じてその権威を実証することを知らしめるためになされる。受肉した神の肉体は平凡かつ普通の人間性の外形だが、受肉した神が権威に満ちており、神自身であり、その言葉が神自身の表現であることを人に示すのは、彼の言葉が挙げる成果である。この手段により、受肉した神が神自身であること、肉となった神自身であること、誰にも犯されないこと、そして誰も言葉による彼の裁きを超えることはできず、いかなる闇の勢力も彼の権威に打ち勝てないことが、全人類に示される。人間が受肉した神に完全に服従するのは、ひとえに彼が肉となったことばであるため、彼の権威のため、そして言葉による彼の裁きのためである。受肉した神の肉体がもたらす働きは、彼のもつ権威である。神が肉になるのは、肉もまた権威をもつことができ、また受肉した神が現実的な方法で、つまり人が見たり触れたりできるような方法で、人類の間で働きを行なうことができるからである。その働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりもはるかに現実的で、その成果も明らかである。これは、受肉した神の肉体が実践的な方法で語り、働きを行なえるからである。受肉した神の肉の外形は権威をもたず、人が近づけるものである。一方、受肉した神の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。受肉した神が語り、働きを行なうとき、人は彼の権威の存在を感じ取れない。それにより、受肉した神は実際的な性質をもつ働きを容易に行なえる。その実際的な働きはすべて成果を挙げることができる。受肉した神が権威をもつことに誰も気づかなかったとしても、あるいは彼が誰にも犯されないことや、彼の怒りを誰一人知らなかったとしても、ヴェールに包まれた自身の権威、隠された怒り、そして自身が公然と語る言葉を通じ、彼は意図していた自身の言葉の成果を挙げる。言い換えると、受肉した神の口調、言葉の厳しさ、そして彼の言葉のあらゆる知恵を通じて、人は完全に納得するのである。このようにして、人は一見何の権威もないかのような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を成就させるのである。これが受肉の意義のもう一つの側面である。つまり、より現実的に語り、自身の言葉の現実が人に効果を発揮するようにして、その結果、人は神の言葉の力を目の当たりにできる。したがって、この働きが受肉によってなされなければ、それはほんの少しも成果を挙げることができず、罪深い人たちを完全に救うことができない。もしも肉にならなければ、神は人には見ることも触れることもできない霊のままだろう。人は肉の被造物であり、人と神は二つの異なる世界に属し、違う性質を有している。神の霊は肉でできた人と相容れることができず、両者の間に関係を築く術はなく、また言うまでもなく、人が霊になることはできない。そうであれば、自身本来の働きを行なうべく、神の霊は被造物の一つにならなければならない。神は最も高い場所に昇ることもできれば、へりくだって人間という被造物になり、人類のあいだで働きを行ない、その中で暮らすこともできる。しかし、人は高みに昇って霊になることができず、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。神が肉となって自身の働きを実行しなければならないのは、それが理由である。同じように、最初の受肉の際、受肉した神の肉体だけが磔刑を通じて人類を贖えたのであり、その一方、神の霊が人のための捧げ物として十字架にかけられることは不可能だったに違いない。神は直接肉になり、人のための捧げ物となることができたが、人が直接天に昇り、神が人のために用意した罪の捧げ物を受け取ることはできなかった。そういうわけで、可能なのは天地を何度か行き来するよう神に求めることだけで、人間を天に昇らせ、その救いを受け取らせるのは不可能だろう。と言うのも、人はすでに転落しており、またそれ以上に、人が天に昇ることは到底できず、まして罪の捧げ物を得るなど不可能だからである。よって、イエスが人類のあいだに来て、人には到底成し遂げられない働きを自ら行なうことが必要だった。神が肉となるたび、絶対にそうする必要がある。もしもいずれかの段階が神の霊によって直接行なわれることができたなら、神が受肉という屈辱に耐えることはなかっただろう。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 118

神が受肉したのは、自身の働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体を持ち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体を持つ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象なので、神は救いの働きの全段階で、人間を自身の働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在であり、血と肉から成っているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、自身の働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために、人間と同じ属性を持つ肉とならねばならない。神が働きを行うために受肉しなければならないのはまさに、人間が肉体を持つ存在であり、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないからである。受肉した神の実質と身分は、人間の実質および身分とまったく異なるものだが、その外見は人間と変わらず、普通の人と同じように見える。受肉した神は普通の人間の生活を送り、その神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性は、受肉した神が普通の人間性において神性の働きをするのに十分である。受肉した神の肉体は普通の人間として働きを行うことを可能にし、人々のあいだでの働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は、人々のあいだで救いの働きを遂行するのに役立つ。受肉した神の普通の人間性は人間のあいだに多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、受肉した神の普通の肉体による働きは、人間にとってこの上なく有益なのである。たいていの人は受肉した神の普通の人間性を受け入れないが、それでも神の働きは成果を上げることができ、そうした成果は受肉した神の普通の人間性のおかげで達成される。この点に疑問の余地はない。肉における神の働きから、人間は、神の普通の人間性について人間のあいだに存在する観念から受け取る物事の十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念は最終的に、神の働きに残らず飲み込まれる。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間が持つ神についての認識は、人間が神について抱く観念をはるかにしのぐ。神が肉において行う働きは想像もできないし、測りようもない。神の肉体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、実質は異なっている。神の肉体は、神に関する数多くの観念を人間のあいだに生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得られるようにする。そして、似たような外見を持つすべての人を征服することさえできる。受肉した神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、神を完全に把握する、あるいは理解することは誰にもできないからである。目に見えず、触れることもできない神は誰からも愛され、誰からも歓迎される。神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人々は自分の想像を自由に働かせ、神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それに喜んで満足していられる。このように、人々は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人々は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神への信仰が漠然としていて、教義に基づいている人々が求めるものだと言える。彼らが求めているのはどれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その実質は実際のところ同じなのだ。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 119

神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人類のためであって、神自身の益のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもとから持つもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人類のために行うこと、人類のために犠牲にすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人類のためである。受肉した神の働きには想像を絶する困難が数多く伴うが、それが最終的に上げる成果は、霊が直接行う働きの成果をはるかに超える。肉体による働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分を持たないし、受肉した神は霊のような超自然的な業を行えず、ましてや霊と同じ権威など有していない。しかし、この平凡な肉の行う働きの実質は、霊が直接行う働きの実質をはるかに上回る。そしてこの肉自体が、全人類の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉のそれよりはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きは、神が接するすべての人とより効果的に結びつく。そのうえ、触れることのできる形を持つ神の肉体は、人間に理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識をいっそう深めることができ、神の実際の業の深い印象を残すことができる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかし、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊富な知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間は神の働きの知恵を直に経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要はない。これが受肉した神の働きの正確さと本物の価値である。霊は、人間の目に見えず、想像し難いことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなどである。しかし、頭脳を有する人間にとって、こうしたものは何ら明瞭な意味を持たない。こうしたものは感動や、漠然とした意味しかもたらさず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りしながら歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、ましてや推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きに取って代わることができない。肉の働きは、霊の働きよりもはるかに正確な、必要とされる目標と、ずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与える働き、そして見て触ることのできる働きである。現実的な働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間を堕落した邪悪な性質から救える。それを成し遂げられるのは受肉した神だけであり、受肉した神だけが、人間をかつての堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に本来備わる実質だが、こうした働きは受肉した神の肉体にしかできない。霊が単独で働きを行なうとすれば、その働きが効果を上げることは不可能だろう――これは明確な事実である。大方の人は、この肉体の故に神の敵になっているが、神が働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけでなく、逆に神の証人となる。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神から切り離すことのできない証人になる。神は肉体における働きの重要性を人間に知らしめる。そして人間は、人間の存在意義にとってこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長に対するその本当の価値を知り、さらにこの肉体が、人間にとって離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神の肉体は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の実際の地位と相容れないものと思われるだろう。しかし、神の真の姿や身分を持たないこの肉体は、神の霊が直接行うことのできない働きを行える。それが神の受肉の真の意味と価値であり、この意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。人類はみな神の霊を仰ぎ、神の肉体を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関係なく、この肉体の真の意味と価値は霊のそれをはるかに上回る。もちろん、これは堕落した人類だけに関連することである。真理を求め、神の出現を待ち望むすべての人にとって、霊の働きは感動や啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、そして、それは偉大で、超越的で、崇めるべきものだが、誰にも達成できず手に入れることのできないものだという感覚しか与えられない。人間と神の霊は、両者のあいだに遠い隔たりがあるかのように、互いを遠くから見ることしかできない。また、人間と神が目に見えない境界で隔てられているかのように、似ることが決してない。実際のところ、これは霊から人間に与えられた幻影である。なぜなら、霊と人間は種類を異にしており、同じ世界で共存することは決してなく、霊には人間的な要素が何もないからである。だから、人間は霊を必要としない。霊には、人間に最も必要な働きを直接行うことができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的で、正常で、謙虚で、普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を畏れているかもしれないが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすく、また遠くの不可思議な存在ではなく、見て触れることができる存在だと感じられる。なぜなら、この肉体は人間と同じ世界にあるからである。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 120

肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには追い求めるべき目標が必要であり、また神を知るには、神の本当の業と神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した肉体でのみ可能なことであり、いずれも普通の現実の肉体でのみ成し遂げられる。だからこそ受肉が必要なのであり、堕落した全人類がこれを必要としている。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の姿を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずはその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の姿を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られない。人々の心にある漠然とした神の姿を言葉だけで暴いたり、捨て去ったり、一掃したりすることはできない。そうしたところで、これら深く根付いているものを人々から消し去るのは不可能だろう。そうした漠然とした超自然的なものを、実際の神と神の真の姿によって置き換え、人々にそれらを徐々に知らしめることでのみ、目指すべき成果が得られる。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであることに気づく。この成果を上げられるのは、霊による直接の導きではなく、ましてや特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が正式に働きを行うとき、人間の観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然的な神とは正反対なものだからだ。人間が本来持つ観念は、受肉した神と対比して初めて明らかになる。受肉した神と比較しなければ、人間の観念が明らかになることはない。言い換えれば、現実を引き立て役としなければ、漠然とした物事は明らかにならないのである。言葉によってこの働きを行える者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者も誰一人いない。神の働きを行えるのは神自身だけであって、他の誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がいかに豊かだろうと、神の現実性と正常さを言い表すことはできない。神が人間のあいだで自ら働き、自分の姿と実在とを完全に示して初めて、人間はより実際的に神を知ることができ、よりはっきり神を見ることができる。肉体を持つ人間には、この成果を上げることができない。もちろん、神の霊もまた、この成果を上げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救えるが、この働きは、神の霊が直接成し遂げることのできないものである。そうではなく、神の霊がまとう人間の肉体、そして受肉した神の肉体だけが成し遂げられるのだ。この肉体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備える一人の人間だが、完全な神性を備えた神でもある。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、やはり人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。結局、どのような名で呼ばれようと、それはやはり人類を救う神そのものなのである。神の霊は肉体から切り離すことができず、肉の働きは神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊の身分を用いて行われるのではなく、肉体の身分を用いて行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、肉体が行う必要のある働きは、霊には直接できないものであり、受肉した神だけが可能である。これがこの働きに必要なことであり、また堕落した人間が必要とすることである。神の働きの三段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接行うことはない。霊が行った律法の時代の働きは、人間の堕落した性質を変えることを伴わず、神に関する人間の認識と何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代における、受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにとって重要かつ不可欠な一部である。ゆえに堕落した人間には、受肉した神による救い、受肉した神の直接的な働きのほうが必要なのである。人間は、受肉した神による牧養、支え、潤し、滋養、裁き、そして刑罰を必要としており、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要である。受肉した神だけが人間の心を知る者となり、牧者となり、現実に存在する助けとなれる。そのすべてが、現在と過去の両方において受肉が必要とされる所以である。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 121

人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物の中で最高のものである。そのため、人間は神の救いを必要としている。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉体、人間の魂であって、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神の救いの対象である。人間の肉体はサタンによって堕落させられているので、まず人間の肉体が救われなければならない。人間の肉体は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっており、公然と神に敵対し、神の存在を否定するまでになっている。この堕落した肉体はまったく手に負えず、肉体の堕落した性質以上に取り扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の肉体に入って混乱させ、人間の肉体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。そのため、神はなそうと意図した働きを行い、サタンと戦うべく、挑戦に立ち上がり、受肉したのだ。神の目的は堕落させられてしまった人間の救いと、自分に反抗するサタンを打ち負かし、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人類を救う。したがって、それは二つの目的を一度に果たす働きである。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において引き受ける。人間とよりよく交わり、人間をよりよく征服するためである。神の最後の受肉において、神による終わりの日の働きは肉において完結する。すべての人間を種類ごとに分け、自身の経営全体を完結させ、また肉における働きもすべて終わらせる。地上での働きがすべて終わると、神は完全に勝利する。神は肉において働きを行いつつ、人類を完全に征服し、自分のものとしている。これは、神による経営がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利しているので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しだった。そして今、それは人類を征服して完全に自分のものとする働きであり、サタンには働きを行う術がすでになく、完全に敗れ、神が完全に勝利する。これが肉の働きであり、神自身が行う働きである。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 122

神による三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったものであり、肉によるものではなかった。しかし、神による働きの三段階のうち、最後の働きは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。経営の働き全体を通して最も重要な働きは、人間をサタンの影響から救うことである。主要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への畏敬の念を回復し、正常な生き方を送れるようにする。つまり、神の被造物としての正常な生き方である。この働きこそが最も重要で、経営の働きの核心である。三段階にわたる救いの働きのうち、最初の段階である律法の時代の働きは、経営の働きの核心から遠いものだった。それは救いの働きをわずかに表したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う神の働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったから、律法の時代の働きには、人間の性質の変化がほとんど関わっておらず、人間をサタンの領域からいかに救うかという働きとは、さらに関係がなかったからである。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関係ない段階の働きを終わらせた。この段階の働きは、経営の核心とはほとんど無関係で、人間の救いという正式の働きともあまり関係がなかった。ゆえに、神が受肉して自ら働く必要はなかった。霊の働きはさりげなく行われ、測り難いものであり、人間にとっては非常に恐ろしく、近寄り難いものである。霊は救いの働きを直接行うのに適していないし、人間に直接いのちを施すのにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることであり、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きを行うということである。これには、神が受肉して霊に取って代わり、働きを行うことが必要であり、人間にとって、神が働くのにこれ以上ふさわしい方法はない。これら三段階の働きの中で、二つの段階は肉体によって行われたが、その二つの段階は経営の働きの中の肝要な部分である。二度の受肉はそれぞれ補い合うもので、互いを完全に補完する。神による受肉の第一段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、神の二度の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は経営の働き全体にとってまことに重要なものなので、神が受肉した身分においてこの二段階を実行する。こう言ってもいいだろう――神による二度の受肉の働きがなければ、経営の働き全体が停止し、人類を救う働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要かどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実、サタンの不服従のひどさ、およびサタンによる働きの妨害の深刻さに左右される。この任務にふさわしい者は、その働き手が行う働きの性質と、その働きの重要性によって決まる。この働きの重要性という点で言えば、どのような方法を用いるか、つまり神の霊が直接働きを行うか、それとも受肉した神が行うか、あるいは人間を通して行うかという観点から見て、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通して行う方法である。また働きの性質という点では、霊による働きの性質と肉の働きの性質を比べたとき、霊によって直接なされる働きよりも、肉によってなされる働きのほうが、人間にとってより有益で、多くの利点をもたらすと、最終的に判断される。霊と肉のどちらによって働きを行うべきか決める際、神はこのように考えたのである。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、恣意的に行われるものでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神によるすべての働きの背後にある真実である。とりわけ、受肉した神が自ら人間のあいだで働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そのため、神の知恵と神の存在全体があらゆる行為、考え、および働きの構想に反映されている。これがより具体的かつ体系的な神のありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間にとって想像し難く、信じることも難しく、またそれ以上に、知ることが困難である。人間による働きは一般的な原則に沿って行われ、それは人間にとって極めて満足のゆくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは壮大な規模を誇っているが、その陰には、人間には想像もできない数多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階は原則に沿って行われるだけでなく、人間の言語では表現できないことが数多く含まれている。そしてそれらは、人間には見えないものである。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働くとき、そこには神の目標がある。また神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変えるとき)、そこにはさらに多くの神の目標がある。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなければ、卑しく見なされ迫害される人に、どうして進んでなるだろう。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 123

受肉した神の働きはこの上なく有意義である。それは働きについて語られ、最終的に働きを完結させるのは受肉した神であって霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人残すことなく人類全体を自ら裁き、一人ひとり試みると信じる人がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人ひとり裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。人類の堕落はどれも同じではないか。人類の実質はすべて同じではないか。裁かれるのは人間の堕落した実質、サタンのせいで堕落した人間の実質、そして人間のあらゆる罪である。神は些細で取るに足らない人間の過ちを裁かない。裁きの働きは代表的なものであり、特定の誰かのために行われるものではない。そうではなく、この働きでは、一群の人々が全人類を代表して裁きを受ける。受肉した神は一群の人々に自ら働きかけることにより、自身の働きを用いて人類全体の働きを代表し、その後、その働きは徐々に広まる。裁きの働きもそのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、人類全体の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害などである。裁かれるのは人類による神への敵対の実質であって、この働きが終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に行われる大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が着想したものだが、受肉した神が現在行っている働きこそまさに、大きな白い玉座の前での裁きなのである。今日の受肉した神は、終わりの日に人類全体を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そして性質全体が神の総体である。受肉した神による働きの範囲は限られているし、宇宙全体に直接関わるものではないが、裁きの働きの実質は、全人類に対する直接の裁きであって、中国の選民のためだけでも、少数の人のためでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表しており、受肉した肉体による働きの範囲内でその働きを終えた後、神は直ちにこの働きを宇宙全体に広める。それはちょうど、イエスの福音が彼の復活と昇天の後、全宇宙に広まったのと同じである。霊の働きであろうと、あるいは肉の働きであろうと、それは限られた範囲内で実行される働きだが、宇宙全体への働きを代表している。終わりの日、神は受肉した身分において現れ、それによって自身の働きを行うが、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神である。霊であるか肉体であるかにかかわらず、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人類を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたことであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうした言葉について観念を抱いているが、受肉した神が全人類を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう考えようと、事実は結局のところ事実である。「働きは神によってなされるが、その肉体は神ではない」とは誰も言えない。これは戯言に過ぎない。この働きは、受肉した神以外にはできないからである。この働きはすでに完了しているのだから、それに続き、神による人間の裁きの働きが再度出現することはあり得ない。二度目に受肉した神は経営全体の働きをすでにすべて完結させており、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、すなわち肉体を持つ堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではないのだから、裁きの働きは霊の世界ではなく、人間のあいだで行われる。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 124

人間の肉体の堕落を裁くことについては、受肉した神以上にふさわしい者はおらず、その資格がある者も神以外にいない。仮に神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないだろう。そのうえ、そうした働きは、人間にとって受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができないからであり、そのため効果は即座に上がらず、まして人間が神の侵しがたい性質をより明確に見ることはできないだろう。受肉した神が人類の堕落を裁かなければ、サタンを完全に打ち負かすことはできない。受肉して普通の人間性を備えた神は、人間の不義を直接裁くことができる。これが神本来の聖さと非凡さのしるしである。人間を裁く資格は神だけにあり、また神はその地位にいる。神には真理と義があり、ゆえに人間を裁くことができるからである。真理と義のない者は、他人を裁くのにふさわしくない。この働きが神の霊によって行われたなら、サタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉体に優る。仮にこの働きを霊が直接行ったならば、人間の不服従を残らず裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた、神に関する人間の観念を通して行われ、人間は霊について何の観念も抱いたことがないからである。そのため霊は、人間の不義をよりよく暴くことができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らないすべての者の敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人類のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、全人類の裁きは霊が直接行うのではなく、受肉した神の働きなのである。受肉した神は、人間が目で見て触れることができる。また、受肉した神は人間を完全に征服できる。人間は受肉した神との関係の中で、敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして拒絶から愛へと進化する。これが受肉した神による働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることでのみ救われ、また神の口から出る言葉を通してのみ、徐々に神を知るようになり、神に敵対しているあいだに神に征服され、神の刑罰を受けているあいだにいのちの糧を受ける。この働きはどれも受肉した神の働きであって、霊としての身分を持つ神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深遠な働きであり、神による三段階の働きの中で最も大事な部分は、二段階にわたる受肉による働きである。人間の甚だしい堕落は、受肉した神の働きにとって大きな障害である。とりわけ、終わりの日の人々に対する働きは極めて困難で、その環境は敵意に満ちており、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、滞りなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神による三段階の働きは、肉において完結する。そしてそれらは、受肉した神によって完結しなければならない。最も重要かつ肝要な働きは肉においてなされ、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人類はみな、受肉した神は人間と関係なさそうだと感じているが、実際には、この肉体こそが、人類全体の運命と存在に関わっているのだ。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 125

神の働きのどの段階も人間のために実行され、いずれも全人類を対象とする。それは肉における神の働きだが、それでも全人類を対象とする。神は全人類の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは範囲が限られており、この働きの目的も限られているが、神は働きを行うために受肉するたび、自身の働きの対象として極めて代表的なものを選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉における働きの代表となれる人々の集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神の肉における働きの範囲が限られているからであり、神の受肉した肉体のために特に用意され、神の肉における働きのために特に選ばれる。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則に沿ってなされる。働きの対象は、肉における神の働きに有益なものでなければならず、人類全体を代表できなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自身による贖いを受け入れる中で、人類全体を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け入れる中で、人類全体を代表できる。ユダヤ人が人類全体を代表したことには根拠があり、中国人が神自身による征服を受け入れる中で人類全体を代表することにも根拠がある。ユダヤ人のあいだで行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人のあいだでなされる征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の人々の集団にだけ向けられているように見えるが、実際は、この小集団のあいだにおける神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものである。肉における神の働きが終わった後、神に付き従う人々は、自分たちのあいだで神が行った働きを広め始める。肉における神の働きで最もよい点は、神に付き従う人々に正確な言葉と勧告、そして人類に対する具体的な旨を残せることであり、ゆえにその後、神の信者はこの道を受け入れる人に対し、肉における神のすべての働きと全人類への旨をより正確に、より具体的に伝えることができる。受肉した神による人間のあいだでの働きだけが、神が人間と共に存在し、共に生活する事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きを目撃したい、神自身の言葉を聞きたいという人間の願望を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人類に示された時代を終わらせ、また、人類による漠然とした神への信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な美しい時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけでなく、さらに重要なこととして、現実的かつ正常な神、義にして聖い神、経営計画の働きを明らかにする神、奥義と人類の終着点を示す神、人類を創り、経営の働きを終わらせる神、そして数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにする。神は漠然の時代を完全に終わらせ、人類全体が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、人類全体がサタンに仕えた時代を終わらせ、全人類をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな、受肉した神が神の霊の代わって行った働きの結果である。神が肉において働くとき、神に付き従う者たちは、存在するように見えると同時に存在しないように見えるものを、それ以上求めて手探りせず、漠然とした神の旨を推測することをやめる。神が肉における働きを広めるとき、神に付き従う人々は、神が肉において行った働きをすべての宗教、すべての教派に伝え、神のすべての言葉を全人類の耳に伝える。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実であり、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、そして事実であって、噂ではない。これらの事実は、神が働きを広める証拠であり、働きを広めるために用いる道具でもある。事実がなければ、神の福音はすべての国、あらゆる場所に伝わらない。事実がなく人間の想像だけであれば、神は決して宇宙全体を征服する働きを行えない。霊は、人間には触れることも見ることもできないものであり、また霊の働きは、神の働きのさらなる証拠や事実を人間に残せない。人間は決して神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じるだろう。人間は決して神の顔を見ないし、神自身が語る言葉を聞くこともない。結局、人間の想像など虚しく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、そして神自身の働きを、人間が真似ることはできない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が人間のあいだで自ら働いて初めて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法によって人間は神を見て、神の真の顔を知るようになる。そして、これは受肉していない神には不可能なことだ。神は自身の働きをすでにこの段階まで実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神自身の肉における働きは、その経営全体の働きをすでに九十パーセント完了させている。この肉体は、神によるすべての働きによき始まりをもたらし、また神によるすべての働きを要約しており、神によるすべての働きを広め、この働きのすべてに最終の周到な補足をした。したがって、別の受肉した神が第四段階の働きを行なうことはなく、第三の受肉した神による不思議な働きも存在しない。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 126

肉における神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表し、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神による最後の受肉の働きが終わったからといって、神の働きが完全に終了したということではない。肉における神の働きは、時代全体を代表するものであって、神が肉において働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代の働きをすべて終え、それからその働きがあらゆるところに広まるということに過ぎない。受肉した神は自身の職分を終えた後、将来の働きを神に付き従う人々に託す。このようにして、神によるその時代全体の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まって初めて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける者たちは、神に用いられる者たちである。人間による働きはみな、受肉した神の職分の中にあり、その範囲を超えることはできない。受肉した神が働きを行うために来ていなければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできないだろう。人間による働きは、人間に可能な本分の範囲内に留まるものであり、神の働きを表すものではない。受肉した神だけが、なすべき働きを完了しに来ることができるのであり、神を除き、神に代わってその働きを行える者は誰一人いない。もちろん、わたしが述べているのは、受肉の働きのことである。この受肉した神は、まず人間の観念に合致しない働きの一段階を行い、その後はさらに別の、人間の観念に合致しない働きを行う。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致せず、それに加え、神は人間の観念に合致しない働きを行うので、人間は神についてますます批判的な見方をするようになる。神はただ、神について無数の観念を抱く人々のあいだで、征服の働きを行う。人間がどのように神を扱おうと、ひとたび神が自身の職分を果たすと、人々はみな神の支配の対象になっている。この働きの事実は、中国人のあいだで反映されるだけではなく、人類全体がいかに征服されるかをも表している。これらの人々になされた成果は、人類全体になされる成果を予告するものであり、神が将来行う働きの成果は、それらの人々に対する成果さえも上回る。肉における神の働きは、鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、不明瞭なものに取り巻かれているものでもない。それは現実かつ実際のものであって、一足す一は二といったような働きである。それはすべての人から隠されているものではなく、誰かを欺くものでもない。人々が見るのは本物の現実的な物事であり、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に追い求める者は、もはや神に関して何の観念も持たない。これは、中国の人々に対する神の働きの成果というだけでなく、人類全体を征服する神の働きの成果を表している。と言うのも、人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、そしてこの肉体にまつわるすべての事柄以上に有益なものはないからである。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体は人類全体を征服し、人類全体を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るにあたり、これ以上に優れた働きはない。人間が行う働きは限られた範囲のものに過ぎないが、神が働きを行うときは、特定の人に語りかけるのではなく、人類全体、そして神の言葉を受け入れるすべての人に語りかける。神が告げる終わりは全人類の終わりであって、特定の人の終わりではない。神は誰かを特別扱いすることも、不当に罰することもせず、人類全体のために働き、彼らに向かって話しかける。したがって、この受肉した神は、すでに人類全体を種類に応じて選り分け、人類全体を裁き、人類全体にふさわしい終着点を整えている。神は働きを中国でのみ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを決意している。神は、言葉を発して一歩一歩采配するのに先立ち、自分の働きが人類全体に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎはしないか。今、神は将来の働きを前もって完了させることが完全に可能である。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲内で行い、その後、人間が尽くすべき本分を尽くすようにさせる。これが、神の働きの原則である。神は一時的に人間と共に生活できるだけで、時代全体の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が自分の働きを前もって予言する神だからである。後に、神は言葉によって人類全体を種類に応じて選り分け、人類は神の言葉に沿って、神の順を追った働きに入る。免れる者は誰一人おらず、誰もがその通りに実践しなければならない。ゆえに将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 127

人間の肉体はサタンによって堕落させられており、何も見えなくさせられていて、まことに深く傷つけられた。神が自ら肉において働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉体を持つ人間であり、サタンもまた人間の肉体を用いて神の働きを妨げているからである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉体を堕落させ、人間はサタンの化身となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければならない。この働きは極めて実際的なものである。神が肉において働いているとき、実際は肉においてサタンと戦っている。肉において働くとき、神は霊の領域で働きを行っており、霊の領域における働き全体を地上で現実のものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの化身(もちろん、これも人間である)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形を持つ人間になることがますます必要であり、それによってサタンと真の戦いを繰り広げること、神に対して不服従で、神と同じ外形を持つ人間を征服すること、そして神と同じ外形を持ち、サタンによって傷つけられた人間を救うことができる。神の敵は人間であり、神の征服の対象は人間であり、神の救いの対象も神の被造物たる人間である。そのため、神は人間にならなければならない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなる。神はサタンに勝利し、人類を征服し、そのうえ、人類を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は人間に過ぎない肉体ではなく、人間でありながら神性を有する肉体なのだ。これが神と人間との違いであり、神の身分のしるしである。神が意図する働きを行い、肉における神の職分を果たし、人間のあいだで働きを完全に成し遂げられるのは、このような肉体だけである。そうでなければ、神による人間のあいだでの働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利を収めることができても、それでは堕落した人間の古い本性は決して解消されないし、神に不服従で敵対する者たちが神の支配に心から服従することもあり得ない。つまり、神は決して人類を征服できず、人類全体を得られないということである。地上における神の働きが完了しなければ、神の経営は決して終わらず、人類も誰一人安息に入れない。神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営の働きに成果はなく、結果として神の栄光が消えてしまう。神の肉体には何の権威もないが、神が行う働きは成果を上げることになる。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神自身の働きを遂行できるなら、それは神自身である。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がなすべき働きを行えるのは、この肉体が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉体が人間にはできない働きを行えるのは、その内なる実質が人間のそれと異なっているためであり、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからである。この肉体が人類にとって極めて重要なのは、それが人間で、またそれ以上に神であり、通常の人間にはできない働きを行うことができ、地上で共に暮らす堕落した人間を救うことができるからである。神は人間と同じ外見を持つが、受肉した神はいかなる重要人物よりも人間にとって重要である。それは、神の霊には不可能な働きを行い、神自身について神の霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人類を得ることができるからだ。その結果、この肉体は普通で平凡であっても、その人類への貢献と、人類の存在に対する意義により、極めて尊いものとなる。そしてこの肉体の真の価値と意味は、誰にとっても計り知れないものである。この肉体は直接サタンを滅ぼせないが、神は自身の働きによって、人類を征服してサタンを打ち負かし、完全に支配下に置くことができる。神がサタンを打ち負かして人類を救えるのは、受肉したからである。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、その代わりに肉となり、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きを行う。このようにして、神は自身の被造物のあいだで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、自身の被造物のあいだでよりよく自分自身を証しできる。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 128

神は人々のあいだで自身の働きをなすため、自分自身を自ら人に明かすため、また、人が神を見上げられるようにするために地上へ来た。これは些細なことだろうか。いや、実に驚くべきことである。人の想像とは違い、神が来たのは、人が神を見上げるようにするため、また神は実在し、漠然として空しい存在ではなく、いと高き方であるが同時に謙虚であることを、人に理解させるためである。これはそれほど単純なことだろうか。神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのはまさに、サタンが人の肉体を堕落させ、人間こそ神が救おうと意図する存在だからである。神の働きに有益なのはこれしかない。二度にわたって受肉した神の肉体はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦う存在は、それが神の霊であれ、受肉した神の肉体であれ、神をおいて他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者が天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にその戦いを行う力はなく、人間はさらに無力である。このように、人のいのちに働きかけることや、人を救うために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり自ら肉をまとい、神の本来の身分と、神がしなければならない働きをもって、人々のあいだに来て人間を救わなければならない。仮にそうではなく、この働きをしたのが神の霊か人間だったなら、この戦いからは何も生じず、終結することも決してないだろう。神が肉となり、人々のあいだで自らサタンとの戦いに臨んで初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画も一切なくなる。受肉した神によってなされる働きを、神の霊が成し遂げることは不可能であり、肉なる人間が神に代わって成し遂げることはなおさら不可能である。と言うのも、神がなす働きは人のいのちのため、人の堕落した性質を変えるためだからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、無残に混乱してただ逃げるだけで、自分の堕落した性質を変えることはまったくできない。十字架から人間を救ったり、反抗的な人類全員を征服したりするなど、人間には不可能であり、原則を超えない古い働きを多少するか、サタンの敗北とは関係ない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ、思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自身によってのみ遂行され得るのであって、人には到底不可能である。人の本分は服従して付き従うことである。なぜなら、人は天地創造に類する働きも、そのうえサタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自身による指導の下、創造主を満足させることができるだけであり、それを通してサタンは打ち負かされる。これが人にできる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、つまり新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自身によってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。それぞれの新しい時代の幕開けは、サタンとの戦いの新たな始まりであり、それによって人間は、さらに新しくて美しい領域、そして神自身が導く新たな時代に入る。人は万物の主人だが、神のものとされた人たちはサタンとのすべての戦いの実となるだろう。サタンは万物を堕落させる者であり、すべての戦いが終わると敗北者になり、これらの戦いに続いて懲罰される者でもある。神、人、サタンのうち、サタンだけが忌み嫌われ、拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神によって取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけが万物に崇められるべきである。一方、サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従うようになった人たちは、神の約束を受け取り、神のために邪悪な者たちを裁く者となるだろう。神は必ずや勝利し、サタンは必ずや敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは勝利者に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これはそれぞれの者を種類によって分類することであり、神によるすべての働きの最後の終結である。それはまた、神によるすべての働きの目的でもあり、決して変わることがない。神の経営計画のおもな働きの核心は、人の救いに焦点を当てており、神はおもにこの核心のため、この働きのため、さらにはサタンを打ち負かすために、肉となるのである。神が初めて肉となったのも、サタンを打ち負かすためだった。神は最初の戦いの働き、すなわち人類の贖いの働きを完了させるべく、自ら肉となり、自ら十字架にかけられた。同じように、この段階の働きも、人のあいだで働き、自ら言葉を語り、人に神を見させるべく肉となった神自身によってなされるのだ。もちろん、神が途中で他の働きもすることは避けられないが、自身の働きを自ら行うおもな理由は、サタンを打ち負かすため、全人類を征服するため、そしてこれらの人たちを獲得するためである。したがって、神の受肉による働きは決して単純なことではない。仮にその目的が、神は謙虚に隠れていて、実在する存在だと人に示すことだけで、この働きをするためだけだったなら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ肉とならなかったとしても、自身が謙虚に隠れた存在であること、そして自身の偉大さと聖さを人間に直接明かすことができただろう。しかし、そのようなことは人類を経営する働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできない。サタンを打ち負かすことにおいて、聖霊が霊と戦うだけなら、そのような働きの実際の価値はさらに低いだろう。人を獲得することはできず、人の運命と前途を台無しにしてしまうはずだ。このように、現在の神の働きには深遠な意味がある。それは、人が神を見られるようにするため、人の目が開かれるようにするため、あるいは人に多少の感動と励ましを与えるためではない。そのような働きに意味はない。この種の認識についてしか語ることができないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていない証拠である。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 129

神による各段階の働きには実際的な意義がある。当時、イエスは男性の形で来たが、今回来る際、神は女性の形である。このことから、神が男女両方を創造したことは自身の働きに役立ち、また神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである。イエスが来たときに女性として現れたとしても、つまり、男の子ではなく女性の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その段階の働きはまったく同じように完成されたことであろう。そうだったならば、現段階の働きは女性ではなく男性によって完成されなければならないはずだが、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。各段階でなされる働きにはそれぞれの意義があり、どちらの段階の働きも繰り返されることはなく、互いに矛盾することもない。当時、イエスは働きを行う中で神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それでは、なぜ今の段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に性の区別はない。神は思い通りに自身の働きを行い、また働きを行う中でいかなる制限も受けず、非常に自由であるが、働きの各段階にはそれぞれの実際的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日における受肉が最後であることは言うまでもない。神は自身のすべての業を知らしめるために来た。人が目撃できるように自ら働きを行うべく、今の段階で神が受肉していなければ、人は永遠に、神は男性でしかなく、女性ではないという観念に固執するだろう。これまで、神は男性にしかなり得ず、女性が神と呼ばれることはあり得ないと、すべての人が信じていた。男は女に対して権威をもつと、誰もがみなしていたからである。そのような人は、権威をもてるのは男だけで、女は誰ももつことができないと信じており、そのうえ、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に言われた時、それは蛇にだまされたアダムとエバを指していたのであって、初めにヤーウェによって造られた男と女を指していたのではない。もちろん、女は夫に従い、夫を愛さなければならず、また男は家族を養って支えられるようにならなければならない。これらはヤーウェが定めた律法と命令であり、人類は地上の生活においてこれらを順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。ヤーウェがこう言ったのはひとえに、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らし、人類の生活が構造をもち、秩序を失わないようにするためである。従って、男と女がどう行動するべきかについて、ヤーウェは適切な規則を作ったが、この規則は地上で暮らすすべての被造物にのみ関係するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の被造物と同じであり得ようか。神の言葉は自身の被造物である人類にのみ向けられた。ヤーウェが男女の規則を定めたのは、人類が正常に暮らすようにするためだった。最初に人類を創造したとき、ヤーウェは二種類の人間、すなわち男性と女性の両方を造った。従って、受肉した神の肉体にも男女の区別があった。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決めたのではなかった。神が二度にわたり受肉したのはひとえに、神が最初に人類を造った時の考えに沿って決定された。つまり、神は堕落する以前の男性と女性に基づき、二度にわたる受肉の働きを完成させたのである。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が取り上げ、神の受肉の働きに適用したら、イエスもなすべきこととして妻を愛する必要があるのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は依然として働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造ったのも最大級の間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉するのは間違いだと人がいまだに信じているなら、結婚をせず、それゆえ妻を愛することができなかったイエスもまた、現在の受肉と同じくらい間違っているのではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日における神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するには、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これらは同じ一つのものではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのなら、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。このようにして神を評価するのは、あなたに理知がないことを証明している。ヤーウェが二度受肉した時、その肉体の性は蛇にだまされなかった男性と女性に関連していた。つまり神が二度受肉したことは、蛇にだまされなかったその男性と女性に従っていたのである。イエスが男性であるのは、蛇にだまされたアダムが男性であるのと同じだと考えてはいけない。両者はまったく関係がなく、性質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが男性であるからといって、イエスはすべての女のかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女のかしらだけでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスが男であることをもって、それが女のかしらであることの象徴だと決めつけられるのか。これは冒涜ではないだろうか。イエスは堕落したことのない男性である。イエスは神であり、キリストであり、主である。どうして堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの男性らしさを有する神であるなどと言えようか。そうであれば、神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェは蛇にだまされたアダムの男性らしさをイエスの中に組みこんでいたのだろうか。現在の受肉は、性別こそイエスと異なっていても、本質的にはイエスと同じ受肉した神によるもう一つの働きではないか。それでもあなたは、受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不浄で、人類の堕落の根源なのだから、神が女性として受肉するなど到底ありえないなどとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、神を明らかにしたり、直接象徴したりすることは決してできない」などと、まだあえてしつこく言うのか。あなたは過去に理解しなかったが、今も神の働きを、とりわけ受肉した神を冒涜し続けられるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。言っておくが、あなたがこれまで目にし、経験してきたことはすべて、わたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではない。ならば、あなたはなぜそんなに傲慢なのか。あなたがもつほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を有しているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべてのもの、そして想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはアリ以下の被造物なのだ。あなたが腹の中に抱えているすべてのものは、アリの腹の中にあるものよりも少ない。自分がいくらか経験を積み、歳を重ねたからといって、乱暴に振る舞ったり、自慢げに話したりする資格を得たと考えてはならない。あなたの経験と年功は、わたしが発した言葉の産物ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見ており、ただそのために、あなたの中には有り余るほどの考えがあり、そこから果てしない観念が生じる。わたしの受肉がなかったら、たとえ並外れた才能があっても、あなたがこれほどの考えをもつことはないだろう。あなたの観念が生まれるのはそこからではないのか。その最初の時にイエスが受肉していなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。二度目の受肉を批判しようとする厚かましさがあなたにあるのは、一度目の受肉があなたに認識を与えたからではないのか。従順な追随者にならず、それを研究対象にしているのはなぜなのか。この流れに入って受肉した神の前に来たあなたに対し、どうして神が自身の研究を許すだろうか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究しようと試みるなら、今日の神はあなたに対し、そのような研究を許すだろうか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 130

イエスとわたしは一つの霊から来ている。わたしたちの肉体には何のつながりもないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちが行う内容、わたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化のため、およびわたしたちの働きが異なることを求めているためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが生み出す働きや、わたしたちが人に明かす性質も異なっている。そのようなわけで、人が今日見るものや理解するものは、過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっており、彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ時期に生まれたのでもないが、彼らの霊はやはり一つである。彼らの肉体に血縁関係はなく、いかなる物理的関係もないが、彼らが二つの異なる時期に受肉した神であることは否定できない。彼らが受肉した神の肉体であることは否定できない真実である。しかし、彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語をもっていない(一方はユダヤ人の言語を話す男性であったし、他方は中国語しか話さない女性である)。これらの理由から、彼らは異なる国に暮らし、また異なる期間に、それぞれがなすべき働きを行う。彼らが同じ霊で、同じ本質を有しているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には絶対的な類似性がまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、肉体的な外見と誕生の状況に関する限り、両者は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関してもつ認識に何の影響も与えない。なぜなら、最終的に分析すれば、彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることができないからである。彼らに血縁関係はないが、その霊が彼らの存在全体を担い、異なる時期に異なる働きを割り当て、また彼らの肉体は異なる血統のものである。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは一つの同じ霊である。同様に、今日の受肉した神とイエスとの間に血縁関係はないが、彼らは一つである。なぜなら、彼らの霊が一つだからである。神は慈悲と慈愛の働きを行うことができ、同様に義なる裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。そして最終的に、神は世界を滅ぼし、悪しき人々を懲罰する働きを行うことができる。神はこのすべてを自ら行うのではないか。これが神の全能性ではないのか。

『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 131

全宇宙、そしてその上の世界において最も偉大である神は、肉体の姿を用いて自分自身を完全に説明することができるだろうか。神がその肉体をまとうのは、自身の働きの一段階を行なうためである。その肉体の姿には特に何の重要性もなければ、時代の推移とも無関係であり、神の性質とも関係がない。なぜイエスは自分の姿が残るようにしなかったのか。なぜ自分の姿を人に描かせ、それが後の世代に伝えられるようにしなかったのか。イエスの姿は神の姿であると、なぜ人々に認めさせなかったのか。人の姿は神のかたちに創造されたが、人間の外見が神の崇高なる姿を表現するということは果たして可能なのか。神は肉となるとき、天からある特定の肉体へと降臨するだけである。肉体に降臨するのは神の霊であり、神はそれを通じて霊の働きを行なう。肉において表わされるのは神の霊であり、肉において働きを行なうのも神の霊である。肉において行なわれる働きは霊を余すところなく表わしており、その肉体は働きのためにある。しかしそれは、その肉の姿が神自身の真の姿の代わりになれるという意味ではない。それは、神が肉となる目的でも意義でもないのである。神が肉となるのは、ただ霊が自分の働きに適した住みかを見つけ、肉における働きをよりよく成し遂げるためである。そうすることで、人々は神の業を見、神の性質を理解し、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るのである。神の名前は神の性質を表わし、神の働きは神の身分を表わすが、受肉した神の外見が神の姿を表わすと神が言ったことはない。それは単に人間の観念である。だから、神の受肉にまつわる重要な側面は神の名前、働き、性質、そして性別である。これらは、この時代における神の経営を表わすために用いられる。受肉した神の外見は神の経営とは無関係であり、そのときの神の働きのために過ぎない。しかし、受肉した神が特定の外見をもたないということは不可能なので、神は適切な家族を選んで自身の外見を決める。もしも神の外見に何か表現的な意義があるのなら、神と同じような顔立ちをしている人も全員神を表わしていることになる。これはあまりにひどい間違いではないだろうか。人が礼拝するようにと、イエスの肖像画は人間によって描かれた。そのとき、聖霊は特別な指示を与えなかったので、人は想像によるその肖像画を今日まで伝えた。実を言うと、神の本来の意図によれば、人間はこうするべきではなかった。イエスの肖像画が今日まで残るようになったのは、ひとえに人間の熱意のせいである。神は霊であり、神の姿がどのようなものであるかを、人間が最終的に要約することは決してできない。神の姿は神の性質によってしか表現できないのである。神の鼻、口、目、頭髪の外見について、それらを要約するのはあなたの能力を超えることである。ヨハネは啓示を受けたとき、人の子の姿を見た。その口からは鋭いもろ刃のつるぎが突き出ており、その目は燃える炎のようであり、その頭と髪の毛は羊毛のように白く、その足は光り輝く銅のようで、その胸には金の帯をしめていた。ヨハネの言葉は極めて鮮明だが、彼が描写した神の姿は、何らかの被造物の姿ではなかった。ヨハネが見たのは幻に過ぎず、物質世界の人の姿ではなかった。ヨハネは幻を見たが、神の本当の外見を目にすることはなかった。受肉した神の肉体の姿は、一つの被造物の姿であり、神の性質全体を表わすことはできない。ヤーウェは人類を創造したとき、自分自身のかたちにかたどって人を創り、男と女を創ったと言った。そのとき、ヤーウェは神のかたちに男と女を創造したと言った。人間の姿は神の姿に似ているが、人間の外見が神の姿であるという意味に解釈することはできない。また、人類の言語を使って神の姿を完全に要約することもできない。なぜなら、神はかくも崇高で、かくも偉大で、かくも不思議に満ち、かくも計り知れないからである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 132

今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる。人は終わりの日の神の働きにより、地上で人々のあいだで生きている天の神を見られるようになり、また神を知り、神に従い、神を畏れ、神を愛することができるようになる。これが、神が二度目に肉へと戻った理由である。今日人が見るものは、人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的に神は、あなたがたに次のことを示すだろう。すなわち、この人が存在していなければ、天と地は巨大な変化を経験し、この人が存在していなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになる、ということである。終わりの日にあなたがたを救うべく、受肉した神が来ていなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずだということを、神はあなたがたに示すだろう。またこの肉が存在していなければ、あなたがたは永遠に大罪人で、死体のままであるということを、神はあなたがたに示すだろう。この肉が存在しなければ、全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日に神が人類へと繰り出す、さらに厳しい懲罰から逃れるのは不可能であるということを、あなたがたは知るべきである。この普通の肉が生まれていなければ、生きようと懇願しても生きられず、死を願っても死ねない状態に陥るだろう。この肉が存在しなければ、今日、あなたがたは真理を得て神の玉座の前に来ることができず、それどころか、あなたがたの深い罪ゆえに、神によって罰せられるだろう。神が肉へと戻ることがなければ、誰にも救いの機会はなかったはずだということを、あなたがたは知っていたのか。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずだということを、あなたがたは知っていたのか。そうであれば、あなたがたは神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなたがたは、この普通の人から多くの利点を引き出すことができるのに、なぜ喜んでこの人を受け入れようとしないのか。

『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 133

神の働きは、あなたには理解できないことである。自分の決定が正しいかどうかを完全に把握することも、神の働きが成功し得るかどうかを知ることもできないのなら、この普通の人が自分にとって大いに助けとなるかどうか、また、神が本当に偉大な働きを行なったかどうかを、運に任せて見てみようとしないのか。しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲み食いしたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。とは言え、終わりの日に神が残すのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどの、ひどい堕落の時代であり、またどちらの時代の人類も、自分たちの主である神を否定するほどひどく堕落し、拒絶されていたが、神が滅ぼしたのはノアの時代の人々だけだった。どちらの時代の人類も神にひどくつらい思いをさせたが、終わりの日の人々に対し、神は今日に至るまで忍耐深い。それはなぜか。あなたがたはその理由を考えたことがないのか。本当に知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々に恵みを授けられるのは、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、神に悔い改めを示したからでもない。まして、終わりの日の技術が進歩するあまり、神が人々を滅ぼす気になれないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、神はその働きを、肉において自ら行うからである。そのうえ、神はこの集団の一部を選んで救いの対象、神の経営計画の果実とし、それらの人々を次の時代へと導く。したがって、何があろうと、神によって支払われたこの代価は、ひとえに終わりの日における神の受肉の働きに備えるものだったのだ。あなたがたが今日に至ったという事実は、この肉のおかげである。あなたがたに生存の機会があるのは、神が肉の中で生きているためである。この幸運はすべて、この普通の人のゆえに得られたものである。それだけではない。最後にすべての国はこの普通の人を崇め、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全人類を救い、人と神の対立を和らげ、両者の距離を縮め、神と人の考えをつなげたのは、この人がもたらした真理、いのち、道だからである。いっそう偉大な栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくないだろうか。このような普通の人が、人々のあいだで神の表れになることはできないのか。人類を災難から免れさせたこのような人は、あなたがたの愛に、抱きしめたいというあなたがたの願望にふさわしくないのか。彼の口から発せられる真理を拒み、自分たちのあいだに彼が存在するのを忌み嫌うならば、あなたがたの運命は最後にどうなるだろうか。

終わりの日における神の働きのすべては、この普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、またそれ以上に、あなたに関係するすべてのことを決定できる。このような人が、あなたがたが思っているように、言及する価値もないほど取るに足らないということがあり得るだろうか。この人の真理はあなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。この人の業の証しは、あなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。あるいは、この人がもたらす道は、あなたがたが歩む価値などないということなのか。結局あなたがたがこの人を忌み嫌い、見捨て、距離を置く理由は何なのか。真理を表すのはこの人であり、真理を施すのはこの人であり、あなたがたに従うべき道をもたらすのもこの人である。あなたがたが依然として、これらの真理の内に神の働きの痕跡を見つけられないということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類が十字架から降りることはできなかったはずだが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる者たちが神に認められることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなたがたに神の本当の顔を見る機会はなく、またその資格もない。と言うのも、あなたがたはみな、はるか昔に滅ぼされているべき対象だからである。二度目に受肉した神の到来のゆえに、神はあなたがたを赦し、あなたがたに憐れみを示してきた。いずれにしても、最後にわたしがあなたがたに言い残さなければならない言葉はやはりこうである。受肉した神であるこの普通の人は、あなたがたにとって極めて重要である。これこそが、神が人々のあいだで成し遂げた偉大なことなのだ。

『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 134

実際の神についてあなたが知るべきことは何だろうか。実際の神自身は、霊、人、そして言葉から成り立っており、これが実際の神自身の本当の意味である。あなたがこの人だけを知っていて――つまり、彼の習慣と性格だけを知っていて――霊の働き、あるいは、霊が肉において何をするのかを知らなければ、また霊と言葉にしか注意を払わず、霊の前で祈るだけで、実際の神における神の霊の働きを知らなければ、それは、あなたがまだ実際の神を知らない証拠である。実際の神を知ることには、その言葉を知り、経験すること、聖霊の働きの規則と原則を理解すること、そして、神の霊が肉においてどのように働きを行うかを把握することが含まれる。そこにはさらに、肉における神のあらゆる行いは聖霊によって支配されており、彼が語る言葉は霊の直接的な表現であると知ることも含まれている。したがって、実際の神を知ることは、神が人間性において、また神性において、いかに働きを行うかを知る上で何より重要である。そのことは、すべての人が関係している霊の表現というものにつながってゆく。

霊の表現の各側面はどういったものか。神は人間性において働くこともあれば、神性において働くこともある。しかし、どちらの場合も霊が支配している。したがって、いかなる霊が人の内にあろうとも、外面の表現は次のごとしである。霊は普通に働くが、霊による指揮には二つの部分がある。その一つは人間性における働きであり、もう一つは神性を通しての働きである。あなたはこのことをはっきり知らねばならない。霊の働きは状況に応じて変化する。人間性による働きが必要な場合、霊はこの人間性による働きを指揮し、神性の働きが必要な場合は、神性が直接現れて実行する。神は肉において働き、肉において現れるので、人間性と神性の両方において働きを行う。人間性における神の働きは霊によって指揮され、人々の肉体的な必要を満たし、神との関わりを容易にするため、そして人々が神の現実性と正常性を目の当たりにできるようにし、また神の霊が肉において到来して人間のあいだに存在し、人間と共に暮らし、人間と交わることを人々に理解させるために行われる。神性における働きは、人々のいのちを施し、あらゆることにおいて人々を肯定的な側面から導き、人々の性質を変え、霊が肉において現れることを真に目の当たりにさせるためである。主に、人のいのちにおける成長は、神の神性における働きと言葉を通して直接達成される。神の神性における働きを受け入れることでのみ、人々は自身の性質を変化させることができ、その時初めて霊が満たされる。これに人間性における働き、すなわち人間性における神の牧養、支え、そして施しが伴う場合に限り、神の働きの成果が完全に達成される。今日言及する実際の神自身は、人間性と神性の両方において働きを行う。実際の神の出現によって、その正常な人間の働きと生活、および完全なる神性の働きが達成される。人間性と神性が一つのものとして結合され、いずれの働きも言葉を通して達成される。人間性においてであろうと神性においてであろうと、神は言葉を発する。人間性において働く際、人々が交わって理解できるよう、神は人間の言葉を話す。神の言葉は平易で理解しやすいので、すべての人々に施され得る。知識があろうと、教育が不十分であろうと、人はみな神の言葉を受け取れる。神性における神の働きも言葉を通して行われるが、それは施しに満ち、いのちに満ちており、人の思考に汚されておらず、人の好みを含まず、人間の限界に縛られず、普通の人間性の範疇の外にある。神性における働きも肉において実行されるが、それは霊の直接的な表現である。人々が人間性における神の働きを受け入れるだけであれば、彼らは一定の範囲に閉じ込められてしまうので、ごくわずかな変化を人々にもたらすだけであっても、絶え間ない取り扱い、刈り込み、懲らしめが必要になる。しかし、聖霊の働き、あるいは臨在がなければ、人々はいつも古いやり方を繰り返すだけだろう。神性の働きを通してのみ、これらの弊害や欠陥が正され、その時初めて、人々は完全にされる。絶え間ない取り扱いと刈り込みに代わって必要なのは肯定的な施しであり、言葉を用いてあらゆる欠点を補い、言葉を用いて人々のあらゆる状態を露わにし、言葉を用いて人々の生活、あらゆる発言、あらゆる行動を支配するとともに、その意図と動機を暴くことである。これこそが、実際の神の本当の働きである。したがって、実際の神に対する態度において、あなたがたは今すぐ神の人間性の前に服従し、神を認識して認め、さらに神性における働きと言葉も受け入れ、それらに従うべきである。神の肉における出現は、神の霊の働きと言葉のすべてが、神の普通の人間性、および神の受肉した肉体を通して行われることを意味する。言い換えれば、神の霊は人間性の働きをただちに指揮し、肉において神性の働きを実行する。そして受肉した神の中に、あなたは人間性における神の働きと同時に、その完全なる神性の働きも見ることができる。これが、実際の神が肉において現れることの真の意義である。それをはっきり理解できれば、あなたは神の様々な部分を残らずつなぐことができ、神性の働きをやたらと重視することも、人間性における働きをやたらと軽視することもなくなる。また、極端に走ることも、回り道することもなくなる。総括すると、実際の神の意義とは、人間性の働きと神性の働きは、霊によって指揮されつつ、肉を通して表されるということである。それによって人々は、神が鮮やかで生き生きとしており、現実かつ真実であることを目の当たりにできる。

人間性における神の霊の働きには移行期がある。神は人間性を完全にすることで、自身の人間性が聖霊の指揮を受けられるようにし、その後、神の人間性が教会に施し、教会を牧養できるようになる。これが神の普通の働きの一つの現れである。したがって、神の人間性における働きの原理を明確に理解できるなら、あなたが神の人間性における働きに対して観念を抱く可能性は低い。いずれにせよ、神の霊に間違いはあり得ない。それは正しく、誤りはない。それは間違ったことを決してしない。神性の働きは神の旨の直接的な現れであり、人間性による干渉はない。それは完全にされる過程を経ることなく、霊に直接由来する。とは言え、神が神性において働きを行えるという事実は、神の持つ普通の人間性の故である。それはまったく超自然的なものではなく、普通の人によって実行されているように見える。神が天から地上に来たのは主に、肉を通して神の言葉を表し、肉という手段で神の霊の働きを完成させるためだったのである。

『神の出現と働き』「実際の神は神自身であることを知るべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 135

今日、実際の神に関する人々の認識は相変わらず偏り過ぎており、受肉の意義への理解もいまだ乏しい。神の肉と共に、人々は神の働きと言葉を通して、神の霊にはとても多くのものが含まれており、非常に豊かであることを知る。しかし、いずれにしても、神の証しは最終的に神の霊からもたらされる。つまり、神は肉において何を為すか、どの原則によって働くのか、人間性において何をするのか、また神性において何を為すのかについての証しである。人々はこのことを認識していなければならない。今日、あなたはこの人を礼拝することができるものの、本質的には神の霊を礼拝しているのであり、人々が受肉した神についての認識を得るには、少なくとも次のことを達成しなければならない。つまり、肉を通して霊の実質を知ること、肉における霊の神性による働きと、人間性による働きの双方を知ること、肉における霊の言葉と発言をすべて受け入れ、神の霊がどのように肉を指揮し、肉における神の力を示すのかを理解することである。すなわち、その人は肉を通して天にいる霊を知るようになるのであって、実際の神自身が人間のあいだに出現することで、人々の観念における漠然とした神は一掃されたのである。実際の神自身を礼拝することで、神に対する人々の従順さは増加し、また肉における神の霊の神性の働きと人間性の働きを通して、人は啓示を受け、牧養され、人のいのちの性質に変化がもたらされる。これが、肉における霊の到来が持つ実際の意義であり、その主要な目的は、人々が神と関わり、神に頼り、神についての認識に達せるようにするためである。

概して、実際の神に対してどのような態度を取るべきだろうか。受肉について、言葉が肉において現れることについて、肉における神の出現について、実際の神の業について、あなたはどのような認識を持っているのか。今日の話し合いの主な話題は何か。受肉、肉による言葉の到来、そして肉における神の出現はみな、理解しなければならない事柄である。あなたがたは自身のいのちの経験の中で、自分自身の背丈と時代を基に、これらの問題を徐々に理解し、それらについて明確な認識を持つようにならなければならない。人々が神の言葉を経験する過程は、肉における神の言葉の出現を知る過程と同じである。神の言葉を経験すればするほど、人々はますます神の霊を知るようになる。神の言葉を経験することで、人々は霊の働きの原則を把握し、実際の神自身を知るようになる。実際、神は人々を完全にして自分のものにするとき、実際の神の業を彼らに知らせているのである。神は実際の神の働きを用いることで、人々に受肉の実際の意義を示し、神の霊が人の前に実際に現れたことを示す。人々が神のものとされ、神によって完全にされるとき、実際の神の表現は人々を征服しており、実際の神の言葉が人々を変え、自身のいのちを彼らに対して働かせ、彼らを神そのもの(人間性における神そのものにせよ、神性における神そのものにせよ)で満たし、神の言葉の実質で満たし、人々が神の言葉を生きるようにさせる。神は人々を獲得するとき、人々の欠点を取り扱い、彼らの反抗的な性質を裁いて暴き、彼らに必要なものを得させ、神が人間のあいだに来たことを彼らに示す手段として、主に実際の神の言葉と発言を用いる。何より重要なことだが、実際の神が行う働きは、あらゆる人をサタンの影響から救い、彼らを汚れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃する働きである。実際の神に獲得されることの最も深遠な意義は、実際の神を模範および手本としつつ、正常な人間性を生きられるようにすること、ほんのわずかなずれや逸脱もなく、実際の神の言葉と要求に沿って、神が何と言おうとその通りに実践できるようにすること、そして神が求めることを成し遂げられるようにすることである。このようにして、あなたは神のものとされる。神のものとされるとき、あなたは聖霊の働きを所有するだけではなく、何よりもまず、実際の神の要求を生きることができる。単に聖霊の働きがあるだけでは、あなたにいのちがあることにはならない。ここで鍵を握るのは、あなたが実際の神の要求に応じて行動できるかどうかであり、それはあなたが神のものとされるかどうかに関連している。これらが肉における実際の神の働きの最も偉大な意義である。すなわち、神は現実に、かつ実際に肉において現れ、鮮やかかつ生き生きとした存在になり、人々に見られ、肉において実際に霊の働きを行い、また肉において人々の模範となる行動をすることで、人々の集団を獲得する。肉における神の到来は主に、人々が神の実際の業を見られるようにし、形のない霊に肉の姿を与え、人々が神を見て触れられるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を生き、神のものとされ、神の心に適うことになる。神が天において語るだけで、実際に地上へ降臨しなかったとすれば、人々はいまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くばかりで、神の言葉を現実として持ってはいなかっただろう。神が地上に来たのは何よりも、神が獲得しようとする人々の模範、手本として行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神によって真に獲得され得るのである。

『神の出現と働き』「実際の神は神自身であることを知るべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 136

受肉した神の働きは二つの部分から成る。神が最初に肉となった際、人々はそれを信じず、また認識もせず、イエスを十字架にかけた。その後、神が二度目に受肉したとき、人々はやはり神を信じず、ましてや認識せず、またしてもキリストを十字架にかけた。人間は神の敵ではないか。神を知らなければ、人がどうして神の知己となれようか。神の証しをする資格がどうしてあるだろうか。神を愛し、神に仕え、神に栄光を捧げているという人間の主張は、どれも人を欺く嘘ではないのか。そのような非現実的で実際的ではないことに自分の人生を捧げるなら、それは虚しい努力ではないか。神が何者かすら知らずに、どうして神の知己となれようか。そのような追求は漠然とした抽象的なものではないか。それは人を欺くものではないのか。人はどうすれば神の知己になれるのか。神の知己になることの実際の意義は何か。あなたは、神の霊の知己となれるのか。霊がどれほど偉大で崇高であるか、あなたにわかるのか。目に見えず、触れることもできない神の知己になるというのは、漠然とした抽象的なことではないか。そのような追求に実際的な意義があろうか。それはみな人を欺く嘘ではないのか。あなたは神の知己となることを追い求めながら、実際はサタンの言いなりになる子犬である。なぜなら、あなたは神を知らず、見ることも触れることもできない、自分の観念の産物である、実在しない「万物の神」を追い求めているのだから。漠然とした言い方をするならば、そのような「神」はサタンであり、実際のところを言えば、それはあなた自身なのだ。あなたは自分自身の知己となることを求めているに過ぎないが、それでも神の知己になることを追い求めていると言う――それは冒瀆ではないのか。そのような追求にどんな価値があるのか。神の霊が肉にならなければ、神の実質は目に見えず、触れることもできないいのちの霊に過ぎない。それは形がなく曖昧模糊としており、非物質的な存在であり、人間には近づくことも理解することもできない。このような、実体を持たず、不可思議で、はかり知れない霊の知己になどどうしてなれようか。それは冗談ではないのか。こうした馬鹿げた理屈には根拠がなく、非現実的だ。創造された人間は本質的に神の霊と異なっている。そうであれば、どうして両者が知己になれようか。仮に神の霊が肉において具現化されていなければ、また神が受肉せず、被造物になることで自らを卑しめていなければ、被造物である人間には神の知己となる資格も能力もない。また、魂が天に入った後、神の知己となる機会を持つかもしれない敬虔な信者を除き、大方の人は、神の霊の知己にはなれないだろう。それに、受肉した神による導きのもと、天なる神の知己になりたいと願うのであれば、その人は驚くほど愚かな非人間ではないか。人々は目に見えない神に「誠実」であろうとするだけで、目に見える神にはほんの少しも注意を払わない。目に見えない神を追い求めるのは実に簡単なのだから。人々は自分の好きなようにするだろうが、目に見える神を追い求めるのは、それほど容易なことではない。漠然とした神を求める人は、神を得ることが絶対にできない。漠然とした抽象的な物事はどれも人間による想像の産物であって、人間には得ることができないからである。あなたがたのあいだに来た神が、自分たちの手の届かない崇高な神であったなら、あなたがたはどうしてその神の旨を把握できようか。また、どうしてその神を知り、理解できようか。神が自分の働きをするだけで、人間と通常の接触を持たなかったら、あるいは、普通の人間性を持たず、ただの人間には近づき難い存在だったとしたら、また、たとえあなたがたのために多くの働きをしたとしても、まったく接触がなく、見ることもできないのなら、どうしてその神を知り得ようか。普通の人間性を持ったこの肉が存在しなければ、人間には神を知る術が一切ない。肉なる神の知己となる資格が人にあるのは、ひとえに神の受肉のおかげである。人々が神の知己になれるのは、神と接しているからであり、また神と共に暮らし、共に交わり、そうして徐々に神を知るようになるからだ。そうでなければ、人間の追求など無駄ではないか。つまり、人間が神の知己になれるのは、神の働きだけによるのではなく、受肉した神の現実性と正常性のためである。自身の本分を尽くす機会、真の神を礼拝する機会を人々が得られるのは、ひとえに神が肉となるからである。これこそが、最も現実的かつ実際的な真理ではないか。さて、あなたはまだ天なる神の知己になりたいと思っているのか。神がある程度まで自分を卑しめて初めて、つまり、神が肉となって初めて、人間は神の知己、そして神の心を知る者となれるのだ。神は霊の存在である。かくも崇高で測り知れない霊の知己になる資格が、どうして人々にあるだろうか。神の霊が肉へと降臨し、人間と同じ外見をした被造物になって初めて、人々は神の旨を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉において語り、働きを行う。人類の喜び、悲しみ、患難を共にし、人類と同じ世界に生き、人類を守り、そして導き、それによって人々を清め、救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人々は神の旨を真に理解し、そうなって初めて神の知己となれる。これだけが実際的なことである。神が人の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人が神の知己になれようか。これは空虚な教義ではないか。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 137

神は地上に来るとき、神性の働きのみを行う。これが、天の霊が受肉した神に委ねたものである。神は来るとき、あらゆるところで語り、その発言をさまざまな方法で、さまざまな視点から声にするだけである。おもに人間に施すことと教えることを自らの目標、および働きの原則とし、人間関係や人々の生活の詳細といった事柄には関与しない。彼のおもな職分は、霊の代わりに語ることである。つまり、神の霊が目に見える形で肉において現れるとき、彼は人間のいのちを施し、真理を解き放つだけである。彼は人間の働きに関わらない。つまり、人間性の働きには加わらないのである。人間には神性の働きを行うことはできず、神は人間の働きに加わらない。働きを行うべくこの地上に来て以来ずっと、神は常に人々を通して働きを行なってきた。しかし、これらの人々は受肉した神とは考えられず、神によって使われる人々に過ぎない。一方、今日の神は神性の視点から直接語ることができ、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行う。これまでの時代を通して神が用いてきたすべての人もまた、神の霊が肉体において働いた実例であるが、それではなぜ彼らは神と呼ばれることができないのだろうか。しかし、今日の神もまた肉において直接働きを行う神の霊であり、イエスもまた肉において働きを行う神の霊だったのであって、両者とも神と呼ばれる。それでは、違いは何なのか。これまでの時代を通して、神が用いた人々はみな、普通の思考と理知を駆使することができた。人間としての行動の原則を理解していたのである。彼らは正常な人間の思考をもち、正常な人がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが並外れた才能や生来の知性をもっている。神の霊はこれらの人々に働きかけるにあたり、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを用いて神のために役立てる。しかし、神の実質に思考や発想はなく、人間の意図も混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえいる。つまり、神は人間の行動の原則に精通すらしていないのである。これが、今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や思考が混ざり込んでおらず、それらは霊の意図を直接体現しており、今日の神は直接神を代表して働く。これは霊が直接語るということであり、つまり、人間の意図をほんの少しも混じり込ませることなく、神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は神性を直接体現し、人間の思考や発想をもたず、人間の行動の原則に関する理解を有していないということである。もし神性だけが働いていたならば(つまり、神自身だけが働いていたならば)、神の働きが地上で実行されることは決してなかったであろう。だから神は地上に来るとき、自身が神性において行う働きと関連して、人間性において働きを行うために用いる少数の人々を必要とする。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために人間性の働きを使うのである。そうでなければ、人が神性の働きに直接携わる術はないだろう。イエスとその弟子たちもそうだった。この世での生涯において、イエスは古い律法を廃して新しい戒めを定めた。イエスはまた多くの言葉を語った。これらの働きはすべて神性において行われた。ペテロやパウロ、ヨハネといった他の者はみな、イエスの言葉を基礎としてその後の働きを築いた。言い換えると、神はその時代における働きに着手し、恵みの時代の始まりを導いた。つまり、神は新しい時代をもたらし、古い時代を廃し、さらに「神は初めであり、終わりである」という言葉を成就させたのである。言い換えるならば、人間は神性の働きを基礎として人間の働きを行わなければならないのである。イエスは語るべき言葉をすべて語り、地上での働きを終えた後、人間のもとから去った。その後、すべての人はイエスの言葉に表された原則に基づいて働き、イエスが語った真理に従って実践した。これらはみなイエスのために働く人々だった。働きを行なったのがイエス一人だけだったなら、いかに多くの言葉を語ったとしても、人々がイエスの言葉と触れ合うことはなかっただろう。なぜなら、イエスは神性において働き、神性の言葉しか語れず、普通の人がその言葉を理解できるところまで物事を説明できたはずがないからである。だからイエスは、自分の後に続いた使徒や預言者に、自身の働きを補足させなければならなかったのである。これが受肉した神の働き方の原則である。すなわち、神性の働きを完成させるべく、受肉した体を用いて語り、働き、さらに、神の心にかなう少数の人、あるいはもっと多くの人を用いて神の働きを補うのである。つまり、神は人間性において牧し、潤すという働きを行うために、自身の心にかなう人々を使い、それにより神の選民が真理現実に入れるようにするのである。

肉となった神が神性の働きだけを行い、神の心に従いつつ神と協力して働く人々がいなければ、人間は神の旨を理解することも、神に関わることもできないだろう。神は自身の心に従う普通の人々を用いてこの働きを完成させ、諸教会を見守り牧し、人間の認知機能と頭脳が思い描ける水準に達しなければならない。言い換えれば、神は神性において行う働きを「翻訳」するために、自身の心に従う少数の人々を使うのであり、それにより神性における働きを開くことができる、つまり神性の言語が人間の言語に変換され、人々がそれを理解し、把握できるようになるのである。もし神がそうしなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。なぜなら、神の心に従う人々は結局のところ少数派であり、人間の理解力は弱いからである。そのため、神は受肉した体において働くときにのみ、この方法を選ぶのである。神性の働きしか存在しなければ、人間は神の言語を理解しないので、人間が神を知り、神と関わることはできないだろう。人間がこの言語を理解できるのは、神の心に従う人々の仲介を通してのみであり、その者たちが神の言葉を明確にするのである。しかし、人間性において働くそのような人々しかいなければ、それは人間の普通の生活を維持することしかできず、人間の性質を変化することはできないだろう。神の働きが新しい出発点を得ることはできず、以前と同じ古い歌、陳腐な言葉があるだけである。神は受肉している間に語られるべきことをすべて語り、行われるべきことをすべて行い、その後人々は神の言葉に従って働き、経験するのであるが、その受肉した神の仲介を通してのみ、人々のいのちの性質は変わることができ、人々は時代とともに進むことができる。神性において働くものは神を表し、人間性において働くものは神に用いられる人々である。つまり、受肉した神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたとき、それは神性における神の働きが完了したことを意味する。その後、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。同様に、これもまた神が人間を新しい時代へ導き、人々に新しい出発点を与える段階である。そのとき、肉における神の働きは完結するのである。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 138

神が地上に来るのは、自身の普通の人間性を完成させるためでも、普通の人間性の働きを行うためでもない。神が来るのはひとえに、普通の人間性において神性の働きを行うためである。神が普通の人間性について語ることは、人間が想像するものとは違う。人間は「普通の人間性」を、妻あるいは夫、そして息子や娘をもつことだと定義する。これが普通の人であることの証明である。しかし、神はそのような見方をしない。神は普通の人間性を、普通の人間の思考をもち、普通の人間の生活をし、普通の人々から生まれることだと見なしている。しかし、神の普通性には、人間が普通性について語るように、妻あるいは夫、および子どもをもつことは含まれない。つまり、神が語る普通の人間性は、人間からすると、ほとんど感情がなく、見るからに肉体的要求がないかのような、人間性の欠如と考えられるものであり、ちょうどイエスのように、普通の人間の外見をし、普通の人間のごとく見えるものの、本質的に言えば、普通の人が有しているべきものを完全に有しているわけではないのである。このことから、受肉した神の実質は普通の人間性全体を含んでいるのではなく、普通の人間生活の決まり事を支え、普通の人間の理知を維持するために人々がもつべきものの一部だけを含んでいることがわかる。しかし、それらのものは、人間が普通の人間性と見なすものとは一切関係ない。それらは受肉した神がもつべきものである。しかし、受肉した神は、妻や息子や娘、つまり家族をもって初めて普通の人間性をもっていると言うことができると主張する人々がいる。これらの人々が言うには、それらがなければ普通の人間ではないのである。それでは尋ねるが、「神に妻がいるのか。神が夫をもつことは可能なのか。神は子をもてるのか」。これらは間違った考えではないのか。しかし、受肉した神が岩の割れ目から飛び出したり、空から落ちてきたりすることはありえない。普通の人間の家族に生まれることしかできないのである。これが、受肉した神に親や姉妹がいる理由である。それらは受肉した神の普通の人間性がもたなければならないものである。イエスの場合がそうだった。イエスには父と母、兄弟姉妹がおり、これはすべて正常なことだった。しかし、イエスに妻や息子、娘がいたならば、イエスの人間性は、受肉した神がもつようにと神が意図した人間性ではなかっただろう。そうだったなら、イエスは神性を代表して働くことができなかったはずだ。イエスが神性の働きを行えたのは、イエスに妻や子どもはいなかったものの、普通の人から普通の家族に生まれたからこそである。このことをさらに明確にするならば、神が普通の人と見なすものは、普通の家族に生まれた人である。そのような人にのみ神性の働きを行う資格がある。一方、その人に妻や子ども、あるいは夫がいたならば、その人は神性の働きを行うことができないだろう。なぜならその人は、人が求める普通の人間性だけをもち、神が求める普通の人間性をもつはずがないからである。神の考えることと人々が理解していることはしばしば大きく異なり、かけ離れている。神の働きのこの段階において、人々の観念に真っ向から反し、大きく異なることが多くある。神の働きのこの段階は、ひとえに神性が直接行う働きから成っており、人間性が補助的な役割を果たしていると言えるだろう。神は人間に神の働きをさせるのではなく、自ら行うために地上に来るのだから、自ら受肉して(完全ではない普通の人として)働きを行うのである。神はこの受肉を用いることで、人類に新しい時代をもたらし、神の働きにおける次の段階を伝え、神の言葉に表される道に従って実践するよう人々に求める。これにより、肉における神の働きは完結する。神は人類のもとを去ろうとしており、もはや普通の人間性の肉の中に留まっておらず、むしろ働きの別の部分に着手すべく人間から離れつつある。そして、神の心に従う人々を用い、この人々の集まりの中、神は地上での働きを続けるが、それはこの人々の人間性においてである。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 139

受肉した神が永遠に人とともに留まることはできない。なぜなら、神には他にするべき働きが多くあるからである。神は肉に縛られていることができない。たとえ肉の姿でその働きを行うにしても、神は肉を脱ぎ捨ててなすべき働きを行わなければならないのである。神は地上に来るとき、普通の人が死んで人類のもとから離れる前に達すべき形になるまで待つことはない。その肉体の年齢に関わらず、自身の働きが完了したとき、神は人間のもとを離れて行く。神に年齢というものはなく、人の寿命にそって自身の余命を数えることはない。その代わりに、神は自身の働きの歩みに沿って、その肉体における生涯を終える。肉となった神は、ある段階まで歳をとり、成人し、老年に達し、肉体が衰えて初めて去るはずだと思っている人がいるかもしれない。それは人間の想像である。神はそのように働かない。神は行うべき働きを行うためだけに肉となるのであり、両親のもとに生まれ、成長し、家族を築き、仕事を開始し、子どもをもち、人生の浮き沈みを経験するといった、普通の人のあらゆる活動から成る、普通の生涯を生きるためではない。神が地上に来るときは、神の霊が肉をまとい、肉になるのだが、神は普通の人間の生涯を送るのではない。神は自身の経営(救いの)計画の一部を達成するためだけに来る。その後、神は人類のもとを去る。神が肉になるとき、神の霊はその肉体の普通の人間性を完全にしない。むしろ、神があらかじめ決めた時に、神性が直接働き出すのである。そして、神が行うべきあらゆることを行い、自身の職分を完了させた後、その段階における神の霊の働きは完了し、この時点で神の肉体がその寿命を全うしたか否かに関わらず、受肉した神の生涯も終わる。つまり、その肉体が生涯のどの段階に到達しようと、またその肉体が地上でどれほど長く生きようと、すべては霊の働きにより決められるのである。それは、人間が普通の人間性と見なすものとは一切関係がない。例としてイエスを考えてみよう。イエスは肉体において33年半のあいだ生きた。人間の肉体の寿命としては、その年齢で死に、去るべきではなかった。しかしそれは、神の霊にとってまったく重要なことではなかった。自身の働きが終わったので、その時点で肉体は取り去られ、霊とともに消え去った。これが、神が肉において働く原則である。だから、厳密に言えば、受肉した神の人間性には特に重要なところがない。繰り返すと、受肉した神が地上に来るのは、普通の人間の生涯を送るためではない。まず初めに普通の人間生活を確立し、次に働きを開始するのではない。むしろ、普通の人間の家族に生まれる限り、受肉した神は神性の働きを行うことができる。その働きは人間の意図によって汚されておらず、肉的なものではなく、社会のやり方を取り入れることも人間の思考や観念を含むことも絶対になく、ましてや人の処世哲学に関わることもない。これが受肉した神の行おうとする働きであり、それはまた神の受肉の実際的な意義でもある。神が肉になるのはおもに、他の取るに足りない過程を経ることなく、肉において行われるべき段階の働きを行うためである。そして、普通の人の経験について言えば、神はそれらをもたない。受肉した神の肉が行うべき働きに、普通の人の経験は含まれていない。だから、神が肉となるのは、肉において成し遂げなければならない働きを成し遂げるためである。残りのことは受肉した神とは無関係であり、それほど多くの取るに足りない過程を経ることはない。ひとたび受肉した神の働きが終わると、その受肉の意義もまた終わる。この段階を終えることは、神が肉において行うべき働きが終わり、神の肉における職分が完成したことを意味する。しかし、神はいつまでも肉において働き続けることはできない。働くために別の場所、つまりその肉の外にある場所へ移動しなければならない。そのようにしてのみ、神の働きは完璧に行われ、発展してさらに大きな効果を生み出せる。神は自身の本来の計画に従って働く。自分が何の働きを行うべきか、何の働きを完了させたかについて、神は掌を指すかのごとく明確に知っている。神は一人ひとりの人間を導き、自身があらかじめ定めた道に沿って歩かせる。誰もこれを逃れられない。神の霊の導きに従う人だけが安息に入れる。その後の働きにおいては、人間を導くために神が肉において語るというのではなく、目に見える形をもつ霊が人間の生活を導くことになるかもしれない。そのとき初めて、人間は実際に神に触れ、神を見、神が求める現実によりよく入り、実際の神により完全なものとされる。これが、神が達成するつもりの働きであり、また長きにわたり計画してきたことである。このことから、あなたがたはみな自分が進むべき道を見ることだろう。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 140

受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの実質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、神は地上に来ることで、人にいのちの道を授ける働きをしているということをまず認め、そして神が地上に来て人にいのちの道を与えるのは終わりの日であることを認めなくてはならない。それは過去のことではなく、今起きていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。

キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に忌み嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

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