言葉は肉において現れる

目次

あなたがたは業を理解する必要がある。訳の分からないまま付き従ってはならない

現在、訳も分からずに付き従っている者が多数居る。あなたがたは好奇心過剰であり、恵みを求める願望が過剰であり、いのちを求める願望が過少である。現在におけるイエスの信者は、熱狂に満ちている。イエスはそうした者を天の家で歓迎する。そうした者は信じられないだろうか。人生を通して信者である者も居れば、20年以上にわたり信者である者、40年、50年にわたり信者である者も居り、そうした者は決して飽きること無く聖書を読む。なぜなら、何があっても、そうした者が信じる限り、そうした者は天に入るであろうからである。あなたがたは、この道に沿って神に付き従い始めてから数年しか経っていないが、既に弱音を吐いており、辛抱が限界に達している。なぜなら、あなたがたは恵みを得る願望が強すぎるからである。あなたがたは、恵みを得たいという自らの願望と、自らの好奇心に支配されて真の道を歩んでいる。あなたがたは、この業の段階をそれほど深く理解していない。現在私が述べている事は、イエスを信じる者に対するものではなく、そうした者の観念を反撃するためだけのものでは決して無い。事実、そうした明示された観念こそが、まさにあなたがたの中にある観念である。なぜなら、あなたがたは聖書が記された理由、私がヤーウェの業は古くなった、イエスの業は古くなったと言う理由を理解できないからである。事実、あなたがたは口に出さない観念を多数抱いている。あなたがたには自分の心に閉ざされた意見が数多くあるが、群衆に従うだけである。あなたがたは自分の観念が少ないと思うだろうか。そうだとしたら、それはあなたがたが自分の観念を言わないというだけのことである。事実、あなたはうわべだけで従っていて、真の道を全く求めておらず、いのちを得る意向でここへ来ているのでは無い。あなたがたは、事の成り行きを見たいという姿勢である。あなたがたは、従来の自分の観念の多くを払拭できないままであるため、自分を完全に捧げることが出来る者は、あなたがたのうち1人も居ない。あなたがたは、現在の状況に及んでも、自分の運命を大いに懸念し、日夜考え、決してそれを捨て去ることが出来ない。私が話したパリサイ人は宗教の「老人」であると思うであろうか。あなたがたは、現代において最も進化したパリサイ人を代表する者ではなかろうか。聖書に照らして私を検査する者と私が呼ぶのは、宗教団体の聖書専門家のみを指すと、あなたがたは思うだろうか。神をもう一度十字架に架ける者のことを私が述べた時、あなたがたは私が宗教団体の指導者に関して話をしていると思うだろうか。あなたがたは、こうした人物を最も上手く演じている役者ではなかろうか。人間の観念に反撃するために私がしている話は、宗教上の牧師や長老を揶揄しているのだと思うだろうか。あなたがたも、そうした物事全てに関与していたのではなかろうか。あなたがたは、自分が抱く観念が僅かであると思うだろうか。それは単に、あなたがたが学んで利口になったというだけのことである。あなたがたは自分が理解していない物事の話や、そうした物事に対する自分の感情を裏切る物事の話をしないが、敬愛する心や服従する心が、明らかにあなたがたには無い。知っての通り、現在は研究と観察、そして待機が、あなたがたにとって最大の実践である。あなたがたは学習して過度に利口になっている。しかし、それは自分の中の狡猾な真理の一種であることを知っているであろうか。あなたがたは、自分の幾ばくかの利口さが、永遠の罰を逃れるために役立つと考えているであろうか。あなたがたは学習して過度に「利口」になっているのだ。また、「いつか宗教関係者が私に『あなたの神は何も奇跡を行わないのか』と尋ねた時、私はどう説明すべきだろうか」などと私に尋ねる者も居る。現在においては、宗教関係者がそうした事を尋ねるというだけではない。むしろ、あなたがたが現在の業を理解しておらず、抱いている観念が多すぎるということである。私が宗教関係者と言った時、それが誰を指しているかが、あなたがたにはまだ分からないであろうか。私が誰に対して聖書を説明しているか、あなたがたは知らないであろうか。私が業の三段階を説明している時、あなたがたは私が誰に対してそれを説明しているか、分からないであろうか。仮に私がそうした事を述べなかったら、あなたがたはそれほど簡単に確信を得るであろうか。それほど簡単に納得するであろうか。そうした従前の観念を捨て去ることは、それほど容易なことであろうか。とりわけ、誰になびく事も無い、いわゆる「男の中の男」は、それほど簡単に従うであろうか。しかし、あなたがたの人間性が低水準であり、低能であり、脳の発達度が低く、神を長年信仰してきたわけではないこと、実際には、あなたがたは多くの観念を抱いていること、あなたがたの生来の本性は軽率に誰かに従うもので無いことは承知している。しかし、現在、あなたがたは従うことが出来る。なぜなら、あなたがたは強制され、無力だからである。あなたがたは鋼の檻の中に居る虎であり、自分の能力を自由に発揮できないからである。仮にあなたがたに羽があったとしても、飛ぶのは困難であろう。恵みを与えられていないが、あなたがたは付き従うことを望む。それはあなたがたの「善人」の精神ではなく、むしろあなたたがが完全に打ち倒され、なす術が無いということである。それは、この業の全てがあなたがたを打ち倒したということである。もし、何かあなたがたが実現し得る物事があったとしたら、あなたがたは現在ほど従順ではないであろう。なぜなら、従前あなたがたは全員、荒れ野のろばだったからである。したがって、現在述べられている事柄は、様々な宗派の人々に対するものではなく、そうした人々の観念に反撃するためではなく、むしろあなたがたの観念に反撃するためのものである。

義の裁きは、既に始まっている。神は依然として人間の罪祭となるであろうか。神は再び人間のために名医の役割を果たすであろうか。神にはそれ以上の権威が無いであろうか。既に完全にされ、王座の前に召し取られた者達も存在する。主は依然として悪魔を追い払い、病人を癒やすであろうか。それは遙か昔のことではないだろうか。そのような状態で、証しをすることが出来るだろうか。神は一度十字架に架けられたが、その後永遠に架けられたままであろうか。神は嘗て悪魔を追い払ったが、神は永遠に悪魔を追い払うであろうか。それは恥とみなされるのではなかろうか。この業の段階が従前よりも高度な場合のみ、時代は先へと進む。そして終わりの日が来て、その時代が完結する時が来る。従って、真理を追求する者は、構想を明確に理解することに留意する必要がある。これが基礎である。私が構想についてあなたがたと交わる度に、常に私は一部の者が話を聞きたがらずに、まぶたが閉じて居眠りを始めるのを見かける。他の者は「話を聞かないのはなぜか」と尋ねると、その者は「この話は私の生活や現実への真摯な取り組みに役立たない。私達に必要なのは、実践の道だ。」と言う。私が実践の道に関して話をせずに業の話をすると、その者は「あなたが業の話を始めるとすぐに寝てしまう。」と言う。そこで私が実践の道に関して話をすると、その者はメモを取り始める。私が業の話を再開すると、その者は再び話を聞かなくなる。あなたがたは、現在自分が身に付けるべきことが何かを知っているだろうか。ひとつの側面は業に関する構想であり、もうひとつは自分の実践である。あなたがたは両方の側面を把握する必要がある。あなたがたがいのちの進歩を追求する際に構想を習得していなかったならば、あなたがたには基礎が無い。あなたがたが実践の道のみを身に付け、構想が皆無であり、統御計画の業全体の知識が皆無であったならば、あなたがたは何の役にも立たないであろう。あなたがたは構想の側面の真理を理解し、実践に関する知識については、それを理解した後に適切な実践の道を見いだす必要がある。あなたがたは言葉に従って実践し、自分の状況に従って真摯な取り組みを行う必要がある。構想は基礎であり、あなたがたがその基礎に全く留意しなかったならば、あなたがたは最後まで付き従うことが出来ないであろう。あなたがたがそのようにして実践すると、道を逸れるか、転んで失敗するであろう。成功は一切有り得ないであろう。大いなる構想を基礎として身に付けて居ない者は成功せず、失敗するだけであろう。あなたがたは揺るぎなく耐えることが出来ない。あなたがたは、神を信じることとは何かを知っているだろうか。あなたがたは、神に付き従うこととは何かを知っているだろうか。構想なくして、あなたがたはどのような道を歩むであろうか。あなたがたは、現在の業において、構想を身に付けていないならば、完全にされることが出来ないであろう。あなたがたは何を信じているか。あなたがたは何故、神を信じているのであろうか。あなたがたは何故、神に付き従っているのであろうか。あなたがたは何かしらゲームとして信じているであろうか。あなたがたは自分の人生を玩具のように扱っているであろうか。現在の神は、大いなる構想である。あなたがたは、その神についてどの程度知っているであろうか。あなたがたは、その神についてどの程度理解しているであろうか。現在の神を理解していれば、自分の信仰の基礎は確かであろうか。そうした混乱した方法で付き従う限り、救いを得られるであろうと考えているであろうか。あなたがたは泥水の中で魚を得ることが出来ると考えているだろうか。それほど単純なことであろうか。現在において神が述べていることに関する自分の観念を、あなたがたはいくつ捨て去ったであろうか。あなたがたは現在の神の構想を身に付けているであろうか。現在の神に関するあなたがたの理解は、どの地点にあるだろうか。あなたがたは、付き従い続ければ神を得られる、神を理解すれば神を得られる[a]、あなたがたを見捨てることが出来る者は居ないであろうと考えている。神に付き従うことは、それほど容易だと考えてはならない。あなたがたが神と神の業を知ること、そして神のために苦難を受け、自らの命を捨てる意志と、神により完全にされる意志があなたがたにあることが重要である。それが、あなたがたが備えるべき構想である。あなたがたが常に恵みを得ることを考えているのであれば、だめであろう。神は、単に人間に授け、人間に恵みを与えるために存在すると推定してはならない。あなたがたの考えは誤りである。ある者が自らのいのちを賭けて、この世に所有するあらゆる物事を捨てて付き従えないのであれば、その者が最後まで付き従えないことは確実である。あなたがたは構想を自分の基礎として備える必要がある。自分が災いに苛まれる日が来たら、あなたがたはどうすべきであろうか。あなたがたはそれでも付き従うことが出来るであろうか。最後まで付き従えるか如何を軽い気持ちで答えてはならない。まず自分の目を見開き、現在という時期を見るべきである。今、あなたがたは神殿の柱のようであったとしても、その柱に虫が食って神殿が倒れる時が来る。なぜなら、現在あなたがたに欠如している構想が多数あるからである。あなたがたが配慮するのは、自分の他愛も無い言葉だけであり、最も信頼性が高く適切な追求方法は何かを知らない。あなたがたは現在の業の構想に注意しておらず、それを自分の心に留めていない。あなたがたは、いつか自分が信じる神が自分を最も疎遠な地へと送るという事を、考えたことがあるだろうか。あなたがたは、私があなたがたの全てを奪い去る日について考えたことがあるだろうか。あなたがたはどうなるだろうか。その日、あなたがたの活力は現在と同じであろうか。あなたがたの信仰は再び現れるであろうか。神に付き従う上で、あなたがたはこの最大の構想すなわち「神」を知る必要がある。それが最重要事項である。また、自分はこの世の人間から離別して清められる集団に属する神の家族であると考えてはならない。現在において、創造物の中で業を行っているのは、神自身である。人間の中に来て、作戦を展開するのでなく神の業を行っているのは、神である。あなたがたのうちには、現在の業が、受肉した天の神の業であることを知る者が少しも居ない。その業の趣旨は、あなたがたが傑出した才能ある者とされることではない。その趣旨はむしろ、あなたがたが人生の重要性を確認し、人間の終着点と神の全てを知る支援を行うことである。あなたがたは、自分が創造主の掌中にある創造物であることを知る必要がある。あなたがたが理解すべきこと、行うべきこと、あなたがたはどのようにして神に付き従うべきかといった事柄は、全てあなたがたが理解すべき真理ではなかろうか。そうした事柄は、あなたがたが理解すべき構想ではなかろうか。

ある者が構想を備えて居るのであれば、その者は基礎を備えて居る。あなたがたがそれを基礎として実践するならば、真摯に取り組むのが格段に容易となるであろう。そうすることで、あなたがたは真摯な取り組みの基礎に関して何ら不安を感じず、また真摯な取り組みが自分にとって容易なものとなるであろう。御業の理解に関しては、この構想を理解するという側面が重要である。あなたがたは、この側面を備える必要がある。あなたがたが、真理のこの側面を備えずに実践の道だけを語るのであれば、それは大問題である。あなたがた のうち多くの者が、その側面を強化していないことを私は知っている。またあなたがたがその真理の側面に関する話を聞く時、あたかも教義の話を聞いているようである。あなたがたは、いつか失敗するであろう。現在あなたがたが理解して吸収していない言葉もある。そうした場合、あなたがたは忍耐強く求める必要がある。そうすれば、いつか理解する日が来るであろう。少しずつ身に付ける必要がある。あなたがたが霊的な教義を少ししか理解していなかったとしても、それは霊的教義に全く注意しないよりは良い。それは全く理解していないよりは良い。そうした状態はあなたがたの真摯な取り組みにすべて役立ち、自分の疑念を払拭するであろう。そうした状態は、観念で満たされた状態よりも良い。そうした基礎としての構想を備えて居る方が格段に良い。懸念等が一切無ければ、真摯な取り組みに胸を張って闊歩して進んでゆくことが出来る。どうして常に疑わしい方法で支離滅裂に付き従う必要があるだろうか。それは耳を塞いで鐘を盗むようではなかろうか。堂々と闊歩して御国に入るのは、どれほど気分が良いだろうか。どうして疑念に満ちた状態でいる必要があるのか。それは苦労するだけではなかろうか。あなたがたにヤーウェの業、イエスの業と、現在の業の段階に関する知識があれば、あなたがたは基礎を得るであろう。そう聞くと、あなたがたはそれが極めて単純であると思うかも知れない。「聖霊が大いなる業を始めるとき、私は全ての言葉を得る。私が現在よく理解していないということは、聖霊が私をそれほど啓いていないからだ。」と言う者も居る。それは、それほど容易ではない。あなたがたが今受け容れることを望んでいて、その時が来れば、それを自在に用いる、ということは無い。必ずしも、そうではない。あなたがたは現在自分の準備が良く整っていて、宗教関係者や偉大な理論家に対応し、そうした者を論駁することさえ問題無いであろうと考えている。あなたがたは、本当にそう出来るであろうか。そうした自分の表層的経験だけで、あなたがたはどのような知識を語ることが出来るだろうか。あなたがたは、神が業を行えば、全てが実現されるということが、真理を備え、真理の戦いを行い、神の名の証しをすることではないと考えている。その時あなたがたは、何か質問に困惑し、唖然とするであろう。重要なのは、あなたがたがこの業の段階を明瞭に理解しているかどうか、それを実際にどの程度理解しているかである。あなたがたが敵の軍勢も宗教の軍勢も倒せない場合、あなたがたは役立たずということにならないであろうか。あなたがたが現在の業を経験し、自分の目で見て耳で聞いているが、最終的に証しに立てないのであれば、それでもあなたがたには暮らし続ける面目はあるだろうか。あなたがたは誰に対して面目があるというのであろうか。そのことを簡単に考えすぎてはならない。今後の業は、あなたがたが想像するほど単純では無い。真理の戦いは、それほど簡単でも単純でもない。あなたがたは今、備える必要がある。今、真理を備えないならば、時が来て聖霊が超自然的な業を行わないならば、あなたがたは途方に暮れるであろう。

注:

a. 原文は「あなたがたは、付き従い続ければ得られる、理解すれば得られると考えている。」となっている。