ごう慢な性質は変えられないのか

中国遼寧省 趙凡

神の御言葉の一節を読みますね。「人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである(『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は実践的です。御言葉の裁きと刑罰、刈り込みと取り扱いなしにサタンの性質を変え、正常な人間らしく生きることはできません。私はかつてとてもごう慢でした。職場では、いつも自分が人より能力が高く優れている、みんな自分に従うべきだと思ってた。信仰に入ってからも、このごう慢な性質はよく顔をのぞかせ、最終的な決定権を持ちたがり、上から目線で講釈をたれ、人を抑圧しました。これは兄弟姉妹を苦しめ、害をもたらしました。でも神の裁きと刑罰、刈り込みと取り扱いをもって初めて自分のごう慢な本性を多少理解し、悔い改め、自分を嫌悪することができました。そのあとは、人とかかわる時や本分を尽くすために人と連携する場面では、主張を控えるようにしました。そして意識して真理を求め、他の人の提案に耳を貸すことも学ぶと。少し人間らしく生きられるようになったの。

2015年に教会の指導者に選ばれた時、とてもうれしく感じました。「多くの票を得たということは、この教会で私が最も優れているということ。この本分を尽くすため、精一杯頑張らなければ。そうすれば兄弟姉妹も、正しい選択をしたと思ってくれるはず」と考えました。それ以来、毎日忙しく過ごし、問題を抱える兄弟姉妹がいれば神の御言葉から関連する部分を探し、問題を解決するため彼らと交わったわ。やがて、私たちの教会生活は大きく改善しました。教会でやるべきことは多くありましたが、すべて整然とこなしていきました。私たちの教会生活が、他の教会よりも優れていると知ったときはとても満足でした。私たちの教会生活が順調であることを知った指導者たちは、私たちのやり方を他の教会に取り入れさせ、私は教会での重要な働きにいくつか参加する機会を与えられた。「指導者たちでさえ私を高く評価し、能力を認めてくれた。どうやら私の素質は、大半の人よりも優れているようね!」いつのまにか、そんなうぬぼれの気持ちが大きくなり、自分は何でもできるし、何でも知っていると感じた。同労者の提案にもほとんど耳を貸さず、自分がみんなよりはるかに優れ、命令する立場にあると感じていました。言う通りに行動しない人には非難し、叱りました。ある時、質問の回答に取り組んでいた姉妹が、難しさを感じて相談にきました。私はこう思いました。「何を話し合いたいというの? 難しい質問じゃないから、答える練習をさせたのに。こんなことも答えられないようじゃ、この仕事にはふさわしくない。私ならあっという間に答えてしまうわ」。そして厳しい口調でこう言いました。「もういいわ。私が回答します」。威圧されたと感じた彼女は、それ以降、問題に直面しても私に助けを求めなくなりました。また、ある本分に王姉妹を推薦したことがあったのですが、陳姉妹から「この本分は非常に重要です。決断を下す前に、王姉妹の普段の振る舞いをしっかり把握する必要があります」と言われました。少しむっとした私はこう思いました。「似たようなことならこれまで何度もやってきたし、よくわかっているわ。王姉妹といつも接している私が、彼女を理解していないというの? 彼女のことを聞いてまわったら、遅れを生むだけだわ」。そしてきっぱりと言いました。「時間を無駄にするのはやめて、進めましょう」。私の頑なな態度に、陳姉妹は口をつぐみました。本心を抑えているように見えましたが、気にしませんでした。それからは、兄弟や姉妹が提案をするたびにそれほどの能力がないとか、まだ未熟であるとかさまざまな理由をつけて彼らの意見を退けました。そして私がいいと思う意見を発表し、みんなを従わせようとしました。すると次第に、全員が私の抑圧を受け、話し合いの場でも口を開かなくなりました。私はその後、話し合い自体をやめたわ。そんなのは形式だけで、時間の無駄だと思ったからです。このように私は、ごう慢な性質をもって本分を尽くし、ますます軽率で独断的になっていきました。

ある時、本分で成果を出していない組長がいることに気づきました。彼には実際の働きを実践する能力がなく、調整が必要だと考え、このことを同労者と話し合うべきだとも思いましたが、こう考えました。「やっぱりやめよう。話し合いをしたところで、私に賛成して終わるのだから」。そしてそのままその組長を交代させました。それを同労者たちに事後報告したところ、陳姉妹が驚いた様子で言ったの。「あの組長に問題があったのは事実ですが、彼は真理を追求する人物です。入信して日が浅く、真理への理解が表面的だったため、本分において不備や抜けがあったのですが、それは普通のことです。もっと彼に真理を交わり、手助けすべきで、すぐに交代させるなんて、原則に沿っていない」。私は納得できず、こう言い返しました。「実際の働きをする能力がないと判断したから交代したまでです。このような事態には以前も対処したことがあります。私が間違っているとでも?」私が譲らないのを見て、陳姉妹はそれ以上何も言いませんでした。その後、この件の評価と分析を行った同労者たちは、私の対応が原則に沿わないと判断し、その組長を元の本分に戻しました。本分が何度も交代したことで、組の働きは阻害され、私は、ごう慢な態度を貫き原則に従って行動しなかったことを恥じました。しかし真理を求めたり、反省をすることはありませんでした。

ひと月後、教会で重要な仕事が持ち上がりふさわしい人物が私たちのグループから選出されることになりました。その時私は、喜びました。素質と経験から言えば、私より優れている人物はいない。みんな私を選ぶわ。しかし発表された結果は驚くべきものでした。私は選ばれなかったどころか、一票も得られなかったのです。心がずしんと沈み、世界がひっくり返ったような気がしました。どうしてこんなことに? なぜ誰からも票を得られなかったの? みんなには見る目がないの? 心の底から理由を知りたかった私は、自分の欠点についてみんなに聞いてみました。周姉妹が何か言いたげにしていたので、「私に足りないところがあれば、正直に言ってほしい」と伝えたところ彼女は勇気をふりしぼりこう言いました。「あなたはごう慢で自分本位で、人の意見を聞こうとしません。いつも高圧的なので一緒にいると怖くて、遠慮してしまいます」。別の姉妹もうなだれながら言いました。「私も遠慮してしまいます。ごう慢でみんなを見下しているように感じます。まるで教会の働きを担えるのは自分だけで、できないことなどなく、誰よりもずっと優れていると思っているみたい……」。陳姉妹はさらに、私がうぬぼれ屋で、働きにおいて真理も原則も追求せず、他の人の意見を聞かないこと、何にでも最終決定を下そうとすること、独断的で独りよがりであることを指摘したわ。そして姉妹たちは一人ずつ、私がごう慢で支配的だと告白した。納得できない私は、「よってたかって私をごう慢だとか支配的だとか。自分たちこそ責任をもって本分を尽くしていなかったくせに。それならこれからはもうどんなことがあっても何も言わないわ。勝手にして」と思いました。その夜、私は寝つけずに、何度も寝返りを打ちました。私のように高い素質と能力をもった人間であれば、少しぐらいごう慢なのは普通だと思っていました。兄弟姉妹からそこまで悪く言われるとは。まさか私のことをごう慢で理知に欠けると思っていたなんて。彼らがあれほど抑圧され、傷ついていたなんて。考えるほどにつらくなりました。彼らは私にかなりの反感と憎悪を抱いていた。人々に嫌われ、拒絶された私はまるでドブネズミのようです。神が私のような人間を救うことはないでしょう。否定的になった私は、苦しみの中で神に祈り続けました。「神よ、これほど深い苦しみをどう乗り越えればいいのでしょうか。御旨を理解できるよう、啓きを与えてください」。

次の朝、コンピューターで神の御言葉の朗読を聞きました。「何度か失敗して倒れた経験があるのは悪いことではありません。暴かれることも同じです。取り扱われたり、刈り込まれたり、暴かれたりしたことがあるかどうかにかかわらず、次のことをどんな時も忘れてはなりません。暴かれることは断罪されることを意味しません。暴かれるのはよいことであり、自分を知る最高の機会です。それはいのちの経験を一段加速させます。それなしには、自分の堕落の真相を認識できるようになる機会も条件も背景も得られません。自分の内面にある物事、掘り起こして認識するのが難しい、自身の奥深くに潜む物事の側面をすべて認識できるようになれば、それはよいことです。自分を真に認識できるようになることは、自分の道を正して新しい人になる最高の機会なのです。それは、あなたが新たないのちを得る最高の機会です。いったん自分を真に認識すれば、真理がいのちとなるのは本当に貴重なことだと分かるようになり、真理を渇望して現実に入るようになります。それはかくも素晴らしいことなのです。失敗し倒れるたびに、その機会を捉えて真剣に自分を反省し、自分を真に認識できれば、消極性と弱さのさなかにあっても再び立ち上がることができます。いったんその敷居を跨げば、大きな一歩を踏み出して真理の現実に入れるのです(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。御言葉について考えた私は、深い感銘を受け、涙がとめどなく流れました。神がこのような環境を生み出し、私に兄弟姉妹からの辛辣な刈り込みと取り扱いを与えたのは、私を排除したり、恥をかかせたりするためではありませんでした。ごう慢で頑固すぎた私をこのように罰し、目覚めさせようとした。あやうい状態だった私が悔い改め、変われるよう、反省させようとしたの。これは神による救済でした。それに気づいたことで心が解き放たれ、神への誤解も解けました。神に祈り、この機会を活かして反省と自己認識を深める決意をしたのです。

その後、人のごう慢な性質についての神の御言葉を調べました。神は言われます。「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」『キリストの言葉の記録』)。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになりますこの問題はどれほど深刻でしょうか傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします表面上は神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいますそのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価していますこれが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来しますゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません誰も眼中にないと思うのは些細な問題で傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのですこのような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合いますこの種の人は神を少しも畏れず神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません(神の交わりより)。この御言葉を読んでいると、心がひどく痛み、落ち着かず、少し恐怖すら感じたわ。私がごう慢な性質を生きていたこと、人々を抑圧し傷つけたこと、人と適切にかかわれてなかったことがわかった。しかし何よりも、私の心に神はおらず、神を畏れていませんでした。いつも悪を行い、神に抵抗した。指導者としての本分を尽くす中で、なぜ自分には素質と働く能力があると思い、うぬぼれたのか。兄弟姉妹と働く時は常に自分が上であると感じ、命令し、抑圧しました。異なる意見を提案されても、真理の原則を追求しませんでした。自分は経験豊かで判断力に長けているので、みんなが私の敷いたレールを走るべきだと思った。自分の視点が真理であり基準だとして、みんな私に従うべきだと考えました。もっと恐ろしいのは、他の人を抑えつけ、意見を発表できないようにしたことでした。でも全く自覚はなく、みんなが私に賛成していると思っていました。自分の能力を過信するあまり、無意識に自分は兄弟姉妹より優れていると思い、自分の独断で組長を交代させるほど思い上がっていました。この点を姉妹に指摘された時には、反論すらしました。私は本当にごう慢で、神への畏敬の念や従順さを完全に欠き、神の家の働きに有益かどうかも全く頭になかったわ。ごう慢な性質に従って、一方的で独断的に振る舞い、神の家の働きを乱し、兄弟姉妹に多くの害をもたらしました。これで本分を尽くしていたといえる? 自分では責任をもって本分を尽くしていたつもりでも 実際は、権力への欲にまみれたごう慢な独裁者だったのです。悪を行い、神に反抗していた。その後、何度も自分に問いかけました。悪を行い神に抵抗する道を歩むほどごう慢になってしまったのはなぜなのか。そう反省して初めて気が付いたの。私は「天上天下唯我独尊」や「出世して先祖に栄誉をもたらす」といったサタンの毒に支配されてきた。幼い頃から、他人に対していばりちらし、やることなすこと自分を中心に考え、周りを従わせていました。まるでそれが、自分の有能さを示す唯一の手段で、唯一有意義で価値ある人生かのように。そしてやっとわかったのです。そのようなサタンの毒を生きていたからこそ、ごう慢な本性が手に負えなくなり、全く人間らしくない生き方をしていたことが。人々を抑圧し傷つけたばかりか、教会の働きもかき乱しました。その時初めて「天上天下唯我独尊」や「出世して先祖に栄誉をもたらす」という毒は間違っていると真に理解しました。ばかげた邪悪な毒で人を堕落させ傷つけるだけです。かつての私は人の上に立ち、自分中心に人を動かすことに快感を覚えていました。でもついに、サタンの毒を生きることは、幽霊のように生きることだと気づきました。誰も私に近寄らなくなった。人を不快にさせ、神からはさらに憎まれた。それこそがサタンの毒がもたらす苦き果実なのです。極めてごう慢な大天使は、神と同等になろうとし、すべてを支配しようとして、最後には神の性質に背き、神に呪われ、中空に落とされました。横柄に兄弟姉妹を抑圧し、みんな私に従うべきだと考えた 私の性質は、大天使のものと同じでは? そう思ったとき、ごう慢な性質を生きることの恐ろしさをようやく理解しました。神がこのような環境をもたらさなければ、私は間違いなくいまだにごう慢な態度で本分を尽くしていたでしょう。そのままならどれだけ多くの悪行を犯したことか。最終的には神の性質に背き、懲罰されたでしょう。そう気づいたあと、神に祈りました。「神よ、あなたに逆らい、ごう慢な性質を生きることは金輪際望みません。自分のごう慢さを捨てるため真理を追求し、心からあなたに悔い改めます」。

そして御言葉の次の一節を読みました。「あなたは傲慢な本性のせいでわがままになります。こうしたわがままな性質があるとき、その人は自分勝手で向こう見ずになりがちではないでしょうか。そうであれば、どうすれば自分勝手で向こう見ずになることを解消できますか。一つの考えが浮かんだとき、それを他の人に伝え、その件について自分がどう考え、どう信じているかを述べた上で、それに関してみんなと交わりなさい。まずは自分の見方に光を当て、真理を求めることができます。自分勝手で向こう見ずになるというこの性質を克服するにあたり、それがあなたの実践すべき第一歩です。次の一歩は、他の人が反対意見を述べたときです。何を実践すれば自分勝手で向こう見ずになるのを防げますか。まずは謙虚な態度をとり、自分が正しいと信じていることを脇にのけ、みんなが交われるようにしなさい。たとえ自分が正しいと信じていても、それを主張し続けてはいけません。まず何より、それは一種の前進であり、真理を求めて自分を否定し、神の旨を満たす態度を示しています。いったんこの態度をもったなら、自分の意見に固執せず、それと同時に祈りなさい。あなたは正誤の区別ができないので、何をするのが最善で最もふさわしいかを、神が明らかにしてあなたに伝えられるようにしなさい。みんなが交わりに加われば聖霊があなたにすべての啓きをもたらします(神の交わりより)。神の御言葉の中に、実践の道を見いだしました。どんな状況でも、神を畏れ、従う心を忘れてはいけません。まずは、神に祈り真理を追求し、そして兄弟姉妹に考えを示して、ともに追求し交わるのです。自分が正しいと思っても、意識的に自分を否定して、自分に背き、兄弟姉妹の意見に耳を傾け、最も真理にかない、教会の働きに利益をもたらすものが何なのか考えなければ。それあとの集会で、私は兄弟姉妹に対して心を開き、自分の堕落を打ち明け、彼らを傷つけ、抑えつけていたことを謝罪しました。みんなは騒ぎ立てることなく、心を開いて交わってくれた。胸のつかえがとれた気がしたわ。それ以降の話し合いでは、積極的に他の人の意見を聞くようにし、異なる意見が出たときは、全員で交わり同意にいたるようにしました。次第に兄弟姉妹は私に遠慮しなくなり、和気あいあいとした協力的な雰囲気が生まれました。

ある日、話し合いのさいちゅうにパートナーである姉妹が教会内の問題について指導者に手紙を書くと言い出しました。本分で直面した困難と、その経験を伝えたいというのです。この時、私のごう慢な性質が再び頭をもたげ、こう思った。「集会で話し合えば十分だわ。手紙なんて不要なのに」。彼女を否定しそうになりましたが、以前のごう慢だった自分を思い出しました。すべてにおいて自分の意見を押し付け、兄弟姉妹を抑えつけ、人間らしく生きていなかった時のことを。そこで静かに神に祈り、自分に背きました。ごう慢な性質に戻りたくなかった。真理を実践しなければ。そのあと、彼女が指導者への報告責任を果たそうとしていることのすばらしさに気づきました。私は彼女を抑えつけず、手紙を書くのを手伝うべきです。これに気づいたことで気持ちが和らぎ、本分における問題について、忍耐強く彼女に伝え、彼女の意見を聞くこともできた。少しずれていると思うことがあっても、やみくもに決めつけず、口を開く前によく考えるようにしました。すると、彼女が挙げた事柄のいくつかは、私が考えもしなかったことだと気づいたの。自分のごう慢さに、少し恥ずかしくなりました。私がいつもけん制することで、彼らは本分を尽くせていなかったのです。みんなそれぞれに強みがあります。兄弟姉妹の協力なくして、ひとりで本分を尽くすことは不可能だったでしょう。その後、彼女と私は問題をまとめ、手紙を校正し、指導者に送りました。その後も、本分においてごう慢な本性が現れる度に意識して神に祈り、自分に背き、兄弟姉妹と話し合い、交わりをもつようにしたことで、協力関係が一層強まりました。とても心が軽くなり、ほっとしました。このように本分を尽くすことは本当に素晴らしいわ。私のようなごう慢な人間が少し変われたのは、神の御言葉の裁きと刑罰を経験したからなのです。

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