日々の神の御言葉: 宗教的観念を暴く | 抜粋 284

2020年7月14日

神の働きは前進を続けており、その目的が変ることはないが、神の働きの実行手段はたえず変化しており、それによって神に従う人々も変化していく。神の働きが多ければ多いほど、人はいっそう深く神を知るようになり、それに応じて人の性質も神の働きとともに変化する。しかし、神の働きがたえず変化しているため、聖霊の働きを知らない人々や真理を知らないばかげた人々は神の敵対者になる。神の働きは人が抱く観念とは決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからである。神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない仕事を行う。神はその働きを繰り返すことはなく、人は例外なく神の過去の働きに基づいて今日の神の働きを判断するので、神が新しい時代の働きを各段階で実行するのは困難を極める。人はあまりにも多くの妨げとなる物を突きつける。人の考えは偏狭すぎる。誰も神の働きを知らないのに誰もがその働きを規定する。神から離れたら、人はいのちも真理も神の祝福も失ってしまうのに、神が人類に与えるいのちや真理を受け入れず、ましてや大いなる神の祝福も受け入れない。すべての人は神を得たいと願っているのに、神の働きのいかなる変化も許容することができない。神の新しい働きを受け入れない人々は、神の働きは不変であり、永久に停滞したままであると信じている。彼らの信条によれば、神から永遠の救いを得るためには律法を守ってさえいれば十分であり、悔い改め、罪を告白しさえすれば神の心は永遠に満たされる。彼らは、律法の下の神、人のために十字架につけられた神だけが神のはずであると考えている。また、神は聖書を超えるべきではないし、超えることはできないとも考えている。まさにこうした考えが彼らを古い律法に堅く結びつけ、死んだ規定の中に束縛し続けてきた。さらに多くの人々が、神の新しい働きは、たとえどのようなものでも預言による裏付けがなければならず、その働きの各段階で、本心で神に従うすべての者には啓示が示されなければならない、そうでなければそれは神の働きではありえないと信じている。人が神を知るようになるのはただでさえ決して容易なことではない。さらに、人のばかげた心、ならびにうぬぼれという反抗的な本性を考慮すると、人が神の新しい働きを受け入れるのはなおさらむずかしい。人は神の新しい働きを入念に調べず、謙遜して受け入れることもない。むしろ、軽蔑的な態度をとり、神の啓示と導きを待つ。これは神に反抗し、敵対する人の行動ではないだろうか。そのような人たちがどうして神の承認を得ることができようか。

 今日、わたしがイエスの働きは後れをとったと言うように、当時イエスは、恵みの時代においてヤーウェの働きは後れをとったと述べた。律法の時代だけで、恵みの時代がなかったら、イエスは十字架にかけられることはなく、全人類を贖うことはできなかった。律法の時代だけだったならば、人類は果たして今日まで発展することができただろうか。歴史は前へ進む。歴史は神の働きによる自然法ではないだろうか。これは宇宙全体の中で神が人を経営する表現ではないだろうか。歴史は前進し、神の働きも前進し、神の心はたえず変化する。神にとってただ一つの段階の働きを六千年にもわたり維持するのでは意味がない。なぜなら、すべての人は、神はつねに新しく、決して古くないことを知っているからである。神は、はりつけ、そして一度、二度、三度……と十字架につけられることに似た働きを続けることはできないだろう。このような考えを持つのはばかげた人の認識である。神が同じ働きを維持することはなく、神の働きはたえず変化し、いつも新しい。わたしがあなたがたに毎日新しい言葉を語り、新しい仕事を行っているのとまったく同様である。これはわたしの行う仕事であり、「新しい」と「驚くべき」という言葉の中にその鍵が存在する。「神は不変であり、神はいつになっても神である」という言葉は実に真実である。神の本質は変化しない、神はいつでも神であり、決してサタンにはなりえないが、だからといってそれが神の働きが神の本質と同様に一定不変であることの証明にはならない。あなたは、神は不変だと断言するが、では、神はいつも新しく、けっして古くならないことをどのように説明できるのか。神の働きは広がり続け、たえず変化し、神の心はたえず明らかにされ、人に知らされる。神の働きを経験するにつれて、人の性質は絶え間なく変化し、その認識も絶え間なく変化する。では、この変化はどこから生じているのか。変わり続ける神の働きからではないのか。人の性質が変えられるのなら、なぜわたしの働きやわたしの言葉も変化し続けるのを許すことができないのか。わたしは人の制約に従わなければならないのか。あなたはただ詭弁に訴えているだけなのではないか。

『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)より

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