日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 13

2021年11月30日

神の態度を理解し、神に関する誤解をすべて取り除け

あなたがたが現在信仰している神は、どのような神ですか。このことを考えたことがありますか。神が邪悪な人が邪悪なことをしているのを見ると、神はそれを嫌悪しますか。(はい。嫌悪されます。)無知な人が過ちを犯すのを見たときの神の態度はどのようなものですか。(悲しみです。)人が神への捧げ物を盗むのを見たときの神の態度はどうですか。(その人を嫌悪されます。)これはみな、とても明白です。そうですね。神への信仰において混乱していて、真理をまったく追求していない人を見たときの神の態度はどうですか。これについては明確ではないのではありませんか。態度としての「混乱」は罪ではなく、また神の怒りを買うものでもありません。人間はそれが重大な過失ではないと考えています。それでは、この場合の神の態度はどのようなものですか。(神様はそのような人の存在を認めるのを不本意とされます。)「存在を認めるのを不本意とする」とは、どのような態度ですか。それは、神はそうした人を見下し、さげすむということです。神はそうした人を冷遇します。神のやり方は、こうした人を放置し、その人には働きを行なわないことです。それには啓き照らす働き、懲らしめ、鍛錬の働きも含まれています。この種の人は、神の働きからすっかり除外されています。神の性質の怒りに触れ、神の行政命令を破る人に対し、神はどのような姿勢を取りますか。極度の嫌悪です。神の性質の怒りに触れたことを悔い改めない人に、神は極度に怒ります。「怒り」は単なる感情や気分でしかないので、明白な態度に符合しません。しかし、この感情、この気分はその人にある結末をもたらします。それは神を極度の嫌悪で満たします。この極度の嫌悪の結末とは何ですか。それは、神はそのような人を脇に置いて、しばらくは応じなくなるということです。神は秋の収穫期の後にそのような人の処分をするのを待つのです。これは何を暗示しますか。その人にはまだ結末がありますか。神は、そのような人に結末を与えようとしたことはありません。したがって、現在、神がそのような人に応じないのは完全に普通のことではありませんか。(はい。普通のことです。)このような人は何をする準備をしているべきですか。自分のふるまいと邪悪な行ないの好ましくない成り行きを受ける準備をしなければなりません。それが、こうした人への神の応対です。そうしたわけで、わたしはそのような人にはっきりと言います。妄想にこれ以上しがみつかず、希望的観測をこれ以上続けてはなりません。神は人間に無限に寛容ではなく、また人間の過ちや不服従を永遠に堪え忍ぶことはありません。「そのような人を二、三人見た。彼らは祈るとき、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。彼らは通常とても幸せで、神がそばにいて導かれているように見える」と言う人がいます。このような戯言を言ってはなりません。大いに涙を流すのは、必ずしも神に感激することでも、神の臨在や、ましてや神の導きを受けることでもありません。もし人が神を怒らせれば、それでも神は人を導きますか。要するに、神が誰かを排除し、見捨てると決定すれば、その人にはすでに結末がありません。その人が祈るときにどれほど好ましい感情があろうと、心にどれほど神への信仰があろうと、それはもはや無関係です。重要なのは、神にはそのような信仰は無用だということです。神はすでにその人を拒絶しています。その人を将来どのように取り扱うかも、重要ではありません。重要なのは、この人が神の怒りを買ったその瞬間に、その人の結末が決定された、ということです。神がこの人を救わないと決定すれば、その人は置き去りにされ、罰せられます。これが神の態度です。

愛は神の本質の一部であり、また神はあらゆる人間に憐れみをかけますが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまいました。神に愛があることは、人が神に触犯しても神になんらかの感情や反応を起こさせることがない、ということではありません。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則がない、ということではありません。神は生きており、現実に存在します。神は想像上の操り人形でも、他の物体でもありません。神が存在するのですから、人間は神の心の声を常に注意して聞き、神の態度に注意し、神の感情を理解しなければなりません。人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したりして、神が人間の想像に基づく人間的な流儀で人間を取り扱うようにさせてはいけません。そのようなことをするのは、神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の尊厳を挑発しているのです。したがって、あなたがたがこの問題の深刻さをひとたび理解したなら、一人ひとりが自分の行動に注意し、用心することを強く勧めます。自分の発言にも注意し、用心しなさい。神をどのように扱うかについて、注意し、用心すればするほど良いのです。神の態度がどういうものかがわからないときは、不注意に発言したり、行動したりせず、また軽々しくレッテルを貼ってはなりません。さらに重要なこととして、みだりに結論を出さずに、待ち、求めなくてはなりません。これらもまた、神を畏れ悪を避けることを表しています。そして何よりも、これを成し遂げ、こうした姿勢を取ることができれば、神はあなたの愚かさ、無知、このようにする理由を理解していないことを咎めることはありません。むしろ、あなたの神の怒りを買うことを恐れる態度、神の心意への敬意、喜んで神に服従しようとする意志ゆえに、神はあなたに留意し、あなたを導き、啓き、あなたの未熟さと無知に寛容になります。それに対し、あなたの神に対する態度に畏れがなく、すなわち好き勝手に神を裁いたり、神の考えを推測したり定義したりした場合、神はあなたを断罪し、鍛錬し、懲罰さえも与えます。あるいはあなたに解説するかもしれません。おそらく、そこには、あなたの結末が含まれています。したがって、今一度強調したいのです。あなたがたは一人ひとりが神に由来することすべてについて、注意し、用心しなさい。不注意な言動をしてはいけません。発言する前に、止まって考えなさい。この行動は神の怒りを買うだろうか、これをすると、神を畏れていることになるだろうか、と考えなさい。たとえ単純な事柄でも、このように自問し、時間をかけて考慮しなさい。あらゆることのあらゆる面において常にこのような原則に沿って本当に実践し、特に何か理解していないときにこのような態度を取れば、神は常にあなたを導き、進むべき道を示します。人間がどのように見せかけようと、神はそれらを明確にそのまま見通し、表現されたものを正確かつ適切に評価します。あなたが最後の試練を経験した後、神はあなたのふるまいのすべてを完全に検討、概括し、あなたの結末を決定します。この結果は、あらゆる人にとって何の疑いもなく納得できるものになります。わたしが述べたいのは、あなたがたのあらゆる行動、あらゆる所作、あらゆる考えが、あなたがたの運命を決める、ということです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)より

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