日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 88
2020年9月26日
人は自身の伝統的な観念の中で、神の愛は恵み、慈悲、そして人の弱さに対する憐れみだと信じている。それらも神の愛ではあるが、あまりに一方的であり、神が人を完全にする主たる手段ではない。病気のために神を信じ始める人もいるが、その病気はあなたに対する神の恵みである。それがなければ、あなたは神を信じることがなかったはずだ。そして神を信じていなければ、ここまで到達することはなかっただろう。ゆえに、そうした恵みでさえも神の愛なのである。イエスを信じていたとき、人々は真理を理解していなかったので、神に愛されないようなことを多数行なった。しかし、神には愛と慈悲があり、人をここに至らせた。そして、人が何も理解していないにもかかわらず、神は人が自分に従うのを許し、さらには人を今日へと導いてきたのである。これは神の愛ではないのか。神の性質において表わされるのは、神の愛である。これはまったく正しい。教会の建設が頂点に達したとき、神は効力者という段階の働きを行ない、人を底なしの淵に放り投げた。効力者の時代における言葉はすべて呪いだった。つまり、あなたの肉への呪い、堕落したサタン的性質への呪い、そしてあなたに関することのうち、神の旨を満たさないものへの呪いである。その段階で神が行なった働きは威厳として表わされた。その直後、神は刑罰という段階の働きを実行し、死の試練がもたらされた。そのような働きの中、人は神の怒り、威厳、裁き、刑罰を目の当たりにしたが、同時に神の恵み、愛、そして慈悲も見たのである。神が行なったすべてのこと、そして神の性質として表わされたすべてのことは人に対する愛であり、神が行なったすべてのことは、人の必要を満たすことができた。神がそれを行なったのは人を完全にするためであり、人の霊的背丈に応じて糧を施したのである。神がそれを行なっていなければ、人は神の前に出られず、神の真の顔を知る術は一切なかったはずだ。人が最初に神を信じ始めた時から今日に至るまで、神は人の霊的背丈に応じて徐々に糧を施し、人が内面において少しずつ神を知るようにしたのである。今日に至って初めて、人は神の裁きの素晴らしさに気づく。効力者という段階の働きは、創世から今日に至るまでの中で、最初になされた呪いの働きの実例だった。人は呪われて底なしの淵に放り込まれたが、仮に神がそれを行なわなければ、人は今日、神に対する真の認識を得ていなかっただろう。神の呪いを通じてでなければ、人が正式に神の性質と出会うことはなかったのである。人は効力者の試練を通じて暴かれる。自分の忠誠が受け入れ難いものであり、霊的背丈があまりに小さく、神の旨を満たせず、いつでも神を満足させるという自分の主張が言葉に過ぎないことを理解したのである。効力者という段階の働きにおいて、神は人を呪ったものの、今振り返ると、神の働きのその段階は素晴らしいものだった。人にとって素晴らしい転機となり、いのちの性質を大きく変えたからである。効力者の時代の前、人はいのちを追い求めること、神を信じる意味、あるいは神の働きの知恵を何ら理解しておらず、神の働きが人を試せることも理解していなかった。効力者の時代から今日に至るまで、人は人知を超える神の働きがいかに素晴らしいかを目の当たりにしている。人の頭脳では、神がいかに働きを行なうかなど理解できないし、自分の霊的背丈がいかに小さいかや、自分に不従順な物事があまりに多いことを悟ってもいる。神が人を呪ったとき、それはある効果を生じさせるためであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪ったものの、それは言葉によって行なわれたのであり、神の呪いが実際に人に降りかかることはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、ゆえに神が呪いの言葉を発したのは人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁くにしても、あるいは呪うにしても、それは人間を完全にする。どちらも人の中にある不純なものを完全にすべくなされるのである。この手段を通じて人は精錬され、人の中に欠けているものが神の言葉と働きを通じて完全にされる。厳しい言葉であれ、裁きであれ、あるいは刑罰であれ、神の働きの各段階は人を完全にするものであり、絶対的に適切なものである。どの時代においても、神がこのような働きを行なったことはない。今日、あなたがたが神の知恵を理解するよう、神はあなたがたの中で働きを行なっている。あなたがたは内面においていくばくかの苦痛を味わってきたが、心は安定していて平安である。神の働きのこの段階を享受できるのは、あなたがたの祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、あなたがたが今日、自分における神の働きの中で見られるものは愛である。神の裁きと精錬を経験しなければ、その人の行ないや情熱は表面的なものにとどまり、性質はいつまでも変わらない。それで神に得られたと言えるのか。今日、人の中には傲慢やうぬぼれがいまだ数多くあるものの、その性質は以前に比べてずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際に苦痛を感じることがあっても、あなたの性質に変化が起こる日はいずれやって来る。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明かを知る。またその時、あなたは神の旨を真に理解できる。今日、自分は神の旨を理解していると言う人がいる。しかし、それはまったく現実的でない。実際のところ、彼らは嘘をついている。と言うのも、目下のところ、神の旨が人を救うことなのか、それとも呪うことなのか、彼らはまだわかっていないからである。おそらくあなたは、今ははっきりとわからないだろう。しかし、神の栄光の日がすでに訪れたことを知るときがいつか来る。また、神を愛することがいかに意義深いかを知ることで、あなたは人生を知るようになり、あなたの肉は神を愛する世界に生きる。あなたの霊は解放され、あなたの生活は歓びに溢れ、あなたは常に神のそばにいて神を仰ぎ見る。その時あなたは、今日の神の働きがいかに価値あるものかを真に理解する。
『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)より
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