日々の神の御言葉: 宗教的観念を暴く | 抜粋 296

2020年6月23日

イエスの受肉という真実が明るみにでて初めて人は、天の父がいるだけではなく、子とさらには霊がいるということに気づいた。これが、天には父と子と聖霊のすべてを一つにした三位一体の神がいるという、人の抱いている従来の観念である。すべての人間が次のような観念を持っている。神は一人だが、三つの部分からなっている。従来の考えに深くはまり込んだ人々は、それが父、子、聖霊と考える。それら三つの部分を一つにしたものだけが神のすべてなのである。聖なる父がいなければ、神は完全ではない。同様に、子、または聖霊がいなければ、やはり神は完全ではない。人々の観念においては、父だけでも、子だけでも神と見なすことはできないと考えられている。父と子と聖霊が合わさって初めて神そのものと見なすことができる。今、すべての宗教信者は、あなたたちの中のありとあらゆる信奉者も含めて、この信念を抱いている。だが、この信念が正しいかどうかに関しては、誰も説明できない。なぜならあなたたちは神そのものに関する事柄についてはいつも意識が曖昧だからである。これらは観念であるが、あなたたちはそれが正しいか、間違っているかわからない。それはあなたたちが宗教的観念にあまりにも強い影響を受けてしまっているからである。あなたたちはこれらの従来からの宗教的観念をあまりにも深く受け入れており、この毒はあなたたちの内部にあまりにも深く浸透している。従って、この件に関してもあなたたちはこの有害な影響に屈している。なぜなら、三位一体は絶対に存在しないからである。すなわち、父と子と聖霊の三位一体など絶対に存在しない。これらはすべて人の従来からの見解、人の誤った信念である。人は何世紀にもわたりずっと、その心の中の観念が生み出し、人によってねつ造され、人がこれまで見たことのない三位一体の存在を信じてきた。長年にわたり、たくさんの霊的偉人たちが三位一体の「真の意味」を説明してきたが、三位一体は三つのはっきり区別できる同本質の位格であるというような説明は曖昧模糊としたもので、誰もが神の「構成」のせいで混乱している。これまで完全な説明ができた偉人は一人もいない。ほとんどの説明は論法の見地からすれば、また理論上では合格レベルに達しているが、その意味を十分明確に理解している人は一人としていない。これは、人が心の中で抱いている偉大な三位一体など存在しないからである。誰も神の本当の風貌を見たことがないし、幸運にも天に昇って神のすみかを訪問し、神がいる場所にどのようなものがあるのか調べたり、「神の家」には何万世代、あるいは何億万世代あるのかを正確に決めたり、あるいは神の本来の構成はいくつの部分から成り立つのかを調査したりした人はいないからである。主に調べる必要があるのは、父と子、ならびに聖霊の年齢、各位格の外見、正確にどういうわけで分かれたのか、どういうわけで一つになるのか、である。残念ながら、これまでの多くの年月のなかで、一人としてこれらの事柄の真実を決定できた人はいない。みな推測しているにすぎない。三位一体に関心のあるすべての熱心で敬虔な宗教信者に事柄の真実について報告するため、天まで昇って見学し、全人類のために「調査報告書」を携えて戻ってきた者は一人としていないからである。もちろん、そのような観念を形成した責めを人に負わせることはできない。それなら、なぜ父なるヤーウェは人類を創造した時、子のイエスを同行させなかったのだろう。最初にすべてがヤーウェの名で通っていたら、もっとよかっただろう。責めを負わせなければならないとしたら、天地創造のときに子や聖霊を呼び寄せず、単独で働きを実行したヤーウェ神の一時的過失のせいにしよう。もし彼らが皆で同時に働いていたら、彼らは一つになっていたのではなかっただろうか。最初から最後までヤーウェの名だけしかなく、恵みの時代からはイエスの名がなかったら、または、イエスがその時もまだヤーウェと呼ばれていたら、神は人類によってこのように分割される苦しみをせずにすんだのではないだろうか。確かに、このすべてに対してヤーウェを遺憾に思うことはできない。責めを負わせなければならないとしたら、聖霊に負わせよう。聖霊は何千年もの間、その働きをヤーウェ、イエス、さらには聖霊の名で続行し、一体誰が神なのかわからなくなってしまうほどに人を当惑させ、混乱させてしまった。聖霊そのものが形や姿なしに、さらにはイエスのような名前なしに働いていたら、そして人が聖霊に触れることも、見ることもできず、ただ雷鳴の音だけを聞いていたら、この種の働きは人類にもっと多くの恩恵をもたらさなかっただろうか。では今何ができるだろう。人の観念は山のように高く、海のように広く蓄積したので、今日の神はもはやそれらに耐えることができず、まったく途方に暮れている。昔、ヤーウェとイエス、その間にいる聖霊だけであった時でも、人はすでにどのように対処すべきか途方にくれていたが、今は全能者が加わり、やはり神の一部だと言われてさえいる。彼がだれであるのか、どのくらいの年月の間、三位一体のどの位格と混じり合っていたのか、あるいはその中に隠れていたのかなど、誰が知っていようか。どうして人がこんなことに耐えられるだろうか。三位一体だけで人が一生かけて説明するのに十分であったが、今では「四位格の一つの神」がいる。これはどう説明ができるであろうか。あなたは説明できるのか。兄弟姉妹よ。どうしてあなたたちは今日までこのような神の存在を信じてきたのか。わたしはあなたたちに脱帽する。三位一体ですら担うのにもう十分であったのに、今あなたたちは四位格からなるこの一つの神に揺るぎない信仰を抱き続けている。あなたたちはこの考えから抜け出すよう促されたのに拒絶している。とてもありえないことだ。あなたたちは本当に素晴らしい。実際四つの神の存在を信じることさえできて、それをなんとも思わない。あなたたちはこれを奇跡だと思わないのだろうか。わたしは、あなたたちがこのような偉大な奇跡を引き起こせるとは知り得なかった。実のところ、三位一体はこの宇宙のどこにも存在しないことを話しておこう。神には父も子もおらず、ましてや父と子が共同で使う道具、つまり聖霊の概念などない。このすべては最大の誤った考えであり、この世には断じて存在しない。だが、そのような誤った考えにさえ発端があり、全く根拠がないわけではない。なぜならあなたたちの心はそれほど単純ではないし、あなたたちの考えには理性がないわけではないからである。むしろ、それらの考えはかなり適切で、独創的であるので、どのサタンに対してでも動じない。残念なのは、これらの考えがすべて誤った考えであり、断じて存在しないことである。あなたたちは本当の真実をまったく見たことがない。あなたたちは単に推測し、観念を作り、次に、欺いて他の人々の信用を得るため、また機知や理性のない極めて愚かな人々を支配するため、そのすべてを物語に作り上げ、人々にあなたたちの偉大で、名高い「専門家の教え」を信じさせようとしている。これは真理だろうか。これは人が受けるべきいのちの道なのだろうか。すべては馬鹿げている。一語も適切ではない。この長い年月を通してずっと、神はこのようにあなたたちによって分けられてきて、各世代とともにますます細かく分けられ、一つの神が公然と三つの神に分けられるまでに至った。そして今、人が神を一つに再結合するのはまったく不可能である。神をあまりにも細かく分けすぎたからである。手遅れにならないうちにわたしの迅速な働きがなければ、あなたたちがどのくらい長く厚かましくもこのようなことを続けるかはわからない。このように神を分け続けるなら、どうして神はあなたたちの神でいられようか。あなたたちはまだ神を認識できるであろうか。あなたたちはまだ神のもとに戻るつもりなのか。もしわたしが少しでも遅く到着していたら、あなたたちは「父と子」、ヤーウェとイエスをイスラエルに送り返し、あなたたち自身が神の一部であると主張していたことだろう。幸いにも、今は終わりの日である。とうとう、わたしが長いこと待っていたこの日が来て、この段階の働きを自分の手で実行してはじめて、あなたたちによる神そのものの分割が停止した。これがなかったら、あなたたちはエスカレートして、あなたたちの中のサタンをすべて祭壇上に載せて崇拝さえしていただろう。これがあなたたちの策略である。あなたたちが神を分ける手段である。あなたたちは今そのようにし続けるつもりなのか。あなたたちに尋ねたい。神は幾つあるのか。どの神があなたたちに救済をもたらすのか。あなたたちがいつも祈る対象は最初の神か、二番目なのか、それとも三番目なのか。そのなかでどの神を常に信じているのか。父だろうか。それとも子だろうか。あるいは霊だろうか。あなたが信じるのはいずれなのか、わたしに教えて欲しい。あなたはあらゆる言葉をもって神を信じていると言うが、あなたたちが実のところ信じているのはあなたたち自身の知力である。あなたたちは断じて心の中に神を持っていない。しかし頭の中にはそのような「三位一体」がいくつかあるのだ。あなたたちはそう思わないだろうか。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)より

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