私たちの罪が赦された今、私たちは天国に入れるのか?

2019年8月15日

2018年8月5日(日)曇り

今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

2018年8月7日 (火) 曇り

今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

2018年8月12日 (日)本曇り

今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ

今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

今、心は少し明るくなった。私たちの罪が赦されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。

2018年8月15日 (水) 晴天

神の愛のおかげで、この数日間とても良い気分だった。ヂェン兄弟からもらった本で、以前は理解していなかった真理をたくさん理解することができた上に、長年抱いていた困惑と当惑を解消してくれた。この書籍にはこう書いてある。「というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「あなたは終わりの日にイエスが降って来るとだけ知っているが、イエスは具体的にどのように降ってくるのだろうか。あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)

この言葉を読み、そしてヂェン兄弟が話してくれた内容について考えると、突然全てが明らかになった。主イエス様は人類の罪を贖う働きをして、信仰によって私たちの罪が許され、私たちが救われるようにしてくださったが、人間を完全に清めて変えるという働きはなさらなかった。主は私たちの罪を許してくださったものの、私たちをサタンのような本性から救い出してくださったのではなく、傲慢さ、身勝手さ、欺き、邪悪さといった私たちの内にある堕落した性質は存在し続けている。これらは罪よりも深刻かつ頑固な性質で、この神に逆らうサタン的な本質とこれら堕落した性質を解消できなければ、私たちは無意識のうちに罪を犯し続け、神に逆らい続けてしまう。これには、いかに私たちがいつも罪の中を生きてきたかについて考えさせられた。例えば、人との関わりの中で、いつも相手を利用して、自分は何も失わずにいることを望む。自分よりも優れた人を見ると、妬みや不従順といった堕落の性質をよく表す。誰かに不快な思いをさせられると、口では何も言わなくても、心の中はその人に対する嫌悪感で満たされる。神から恵みを授かる時は幸せだが、恵みを頂けないと神を責めてしまう。それは非常に深刻で、自然災害や人為災害が起こると、私たちの心には神についての観念が芽生え、ひどい場合だと、神を否定したり神に背くことすらある。私たちは毎日罪を犯しては、それを告白し、また罪を犯すという悪循環に生きており、それは使徒パウロが言ったとおりだ。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ人への手紙7:18)神が自ら人間を清め、変える働きをしに来られていなければ、誰も罪の束縛と抑制を脱却することができず、罪に負け、世の邪悪な風潮を追いかけ、罪の快楽をむさぼり、私たちの生きる姿勢には普通の人間性を僅かでも有するものは何一つとしてなかっただろう。生涯を通して神を信仰してきた人々や、聖書に精通しこのような聖句に関して博識な宗教指導者ですら、罪の束縛を捨てることはできない。だから、私たちは罪を千回、一万回許していただけたとしても、やっぱり天国に入るにはふさわしくないだろう。

主に感謝!これらは非常に貴重な御言葉だ。長い間頭を悩ませてきた疑問を解決してくれた。では、実際どのようにすれば罪を払拭することができるのか?この本がその方法を教えてくれるのだろうか?読み続けたいと。

2018年8月16日 (木) 曇りのち晴れ

午後になって、太陽がやっと密雲の隙間から照り始め。書斎に座り、あの本を読み続けた。

神の啓示と導きに感謝。この本に罪の束縛を脱却する方法を発見した。「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)

この二節を読んだ時、突然光明を見出した。サタンのような堕落した性質の束縛と拘束を脱却したければ、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならない。そうすれば、堕落した性質は変わり、清められ、そうして初めて神の御顔を見て、神の完全なる救いにあずかり、神の御国で永遠と暮らす資格を得ることができる。かつて主イエス様が仰せられたこの御言葉を考えずにはいられない。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ福音書16:12―13)また、聖書のこの預言も頭に浮かんだ。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」(ペテロの第一の手紙1:5)主イエス様は、私たちの堕落した性質を完全に清め変えるために、そして私たちが全ての真理を得て神の完全なる救いを受けることができるように、終わりの日にもう一度降臨して裁きの働きをなさることをかなり昔に預言されていた。でも私はとても無知で、盲目だった。神の御言葉に込められた御心を熟慮したり、探求する努力をする代わりに、主イエス様は私たちの罪を自ら背負ってくださり、私たちの罪は既に許されている、そして主に従うために全てを捨ててさえいれば天国に入れるなどと信じながら、自分の観念と想像に固執していた。今では、罪を犯してしまう問題を解決できなければ、体が汚れ、堕落しきっている私たちは結局天国には入れなくなってしまうように思える。それについてこの本にはこう記されている。「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人が神の国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

この御言葉には権威と御力がある。神は憐れみ深く、愛に満ちておられ、さらに神は義であり、聖なる神自身であると私は理解している。神は汚れて、堕落した人間が神の御国に入ることを許可されず、もし私たちの罪深い本性が清められ変えられなければ、たとえ罪が許されて、表面的には何らかの善行を行ない、主のために全てを捨てて、労力を費やし、働いているように見えたとしても、天国に入るという夢は永遠に単なる夢で終わってしまう。

雲が本当に消えて、やっと日光が見える!主の救いを受けた私たちは、罪を許され、罪を贖っていただいただけで、依然として自分たちの罪を一掃したわけではないということを今では少なくとも知っている。私たちはまだ終わりの日の神の裁きの働きを受け入れて清められなければならず、そうして初めて天国に入って永遠のいのちを預かる資格を手にすることができる。これは、ヨハネの黙示録で預言されたことを的確に成就している。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネの黙示録21:27)自分の罪を一掃する方法がやっとわかった。主に感謝!

何軍

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